2012年2月13日月曜日

「白山登山記 自8月15日ー至8月17日」(2)

中学1年生のとき(昭和24年)、私は叔父に誘われて初めて白山へ登った。そのときの印象を綴った標記の作文が出てきたので、ここに採録する。この作文には誤字脱字のミスがあるが、敢えてなるべくそのまま記した。原文は縦書き、数字は漢数字。

「八月十六日」
 朝五時に室堂の人達が僕達を起しに来てくれた。それは御来光を眺むためである。頂上えは二十分程でついたが先にもう二百人前後の人達がいるし又下の方からは三百人前後の人達が頂上に向かって登っている。
 頂上は大変寒かった。雲は沢山あって御来光をおがめそうもなかったが日の出の時間頃になると雲はきれぎれになって日の出時刻になると雲の間から少しおがめた。
 頂上から下りて室堂に帰り朝食をとった。
 今日僕達は別山の方え後の人達は大汝峰と剣ヶ峰え登ろうと云うのである。
 七時頃には一枚の地図を買ってそれを便りにして行こうと云うのであるがうまく行けるかどうかは疑問だった。
 しかし天気は大変よく晴れていて気持ちがよく皆んな室堂から出て深呼吸をしていた。僕達も深呼吸をしてから室堂を出る準備をした。
 何もかも全部そろえてから僕達三人は別山え後の人達は大汝峰と剣ヶ峰え登ろうと決めた。それから数分とたたぬうちに僕達三人は出発したが道はなかなかはっきりしておらず最初からつまずいたのである。道はなぜはっきりしていないかと云うとこの道は福井県の石徹白村大字石徹白からの登山口であまり此道からの登山者は少なくしたがって此石徹白道をなおそうとしないからである。
 しかし今から大汝の方え行こうといったって行けるはづもない。なぜなら僕達三人は植物採集が目的だった為である。仕方なく僕達は雪渓の上を元気に歌を歌いながら歩き進んだ。雪渓はだんだんと下り坂になっていたので此が道だろうと思って進んでいったのがまちがえだった。あとでわかったがそれは万才谷の最上流に位する所だったのである。
 途中大変よい景色もあったがそこに長くいられなかった。僕は「此が僕の家のろうじだったらいいなあ」と一人言を云った。それだけにそこはよい景色であった。川幅は一米半大きな石が川にごろごろとあったのでその上をぴょんぴょんととびながら進んだ。別山えの道は此万才谷を下り柳谷川の上流山端谷との合流点まで行きそこから山端谷を上え行くとそこに別山えの道があると云う地図での推測である。少しばかり行くとそこは瀧になっていて通行はなかなか困難である。仕方なく上の崖の方え登った。なかなか始めはすべって登れなかったがとうとう登る事に成功した。しかし此からが又大変である。
 崖のどてっぱら(中復)を横ばいになって少しずつゆっくり進んだが大変気持ちが悪く一歩ふみはづせば岩の上に頭をかちあててどうなるかわからない程なのである。
 しかしこんな所にこんなものはあると思っていなかった「トーキー」が沢山崖の中復にあった。おじさんはその「トーキー」を根堀でとられ「どうらん」の中え入れられた。その他沢山色々な植物が見つかった。どれもこれも珍しいものばかりで捨てようにも捨てられないものばかりだった。それからは又川えもどらなければならない。それでかつ葉樹の小さい木につかまりブランコして川えとび下りた。
 又川で進行をつづけた。川は山の間をぬって山の陰になっていて合流しているかと思うと何でもない事が何回かあった。少しつかれたので川の中程で腰をおろしおむすびを食べた。僕は合流している時が早く見たいため一番先に立って行ったがやはり同じ事がくりかえされた。しかし僕はぜったいに気をおとさなかったのである。それから数十分たった後山端谷と万才谷の合流地点についた。もう此あたりになると川幅も五米程度になり川の流れも大分早く二つの川の合う所ではうずまいている所もあった。岩の間を流れる此水はすごく大きな音をたてながら流れ去って行く。普通僕等が郷土の野々市で大きいと云っている火止川(住吉川)とは大きさもちがうし又ぜんぜん感じもちがう位谷川は美しい。
 しかしこんな所ではあまり長くはいられない。それでそこを今度は上流え向かって前進したが今度は上え登るがため岩から岩えとびうつる時にはとび上がらなければならないのだった。青いこけが沢山くっついていてズックをはいている僕には途中何回か川の中え足をすべらした。ひどい時になると深い淵の中え体の半分程まではいってずぶぬれになった事もあったが自然と歩いている間にかわいてしまった。
 しかしそんな事が起っている間に川は草原の間を流れていた。そこで僕達三人は夏の草原を歩いた。あの室堂附近ではとりつくしてしまってちょっと見られない「クロユリ」や「コバイケイ」「マンネンスギ」など色々な高山植物の群落が目につくとともに「こんな所でキャンプしたら気持ちがよいだろうなあ」と僕は思った。
 人のあまり歩かない石徹白道の途中にある此草原は高山植物の天下であると云ってもよい位だった。こんな事を云いながら歩いていると別山への道が見つかった。そこにはどこかの高校生がうっていったくいがありそれには別山えと書いてあったからである。この草原は「南龍ヶババ」と云われる所である。此では白山のどこにもないと云われる「ハクサンオオバコ」が沢山見つかった。おじさんは大変うれしそうだった。大変気持ちのよい草原なのでここで昼寝をしたが僕はねられなかった。そのあたりには兎のふんが沢山あちにもこちにも転がっていたからである。
 あたりは山に囲まれ「別山え」という立札が立っているにもかかわらず道はわからず尾根えの道はささでおおわれぜんぜんわからなかった。昼寝からさめて尾根へ登るため腹ごしらえをし休んでからそこをたった。
 道がわからないので仕方なく尾根え向かって川ぞいに進んだ。川を登っていくと雪渓にさしかかったが僕等は雪渓の上を歩き進んだ。すると木の沢山密集した小高い丘の様な所に出た。
 そこで少し休んだが又歩き出した。今度は川はぜっぺきの下の方を流れているので川のそばを歩く事は出きない。そこで木の密集した所を歩かねばならない。僕達三人は木の密集地帯を歩いている時僕は休んでいた所で忘れ物をしたのです。早速三人は一緒に取りにいったが忘れ物はすぐに見つかった。
 又三人一緒に進んだが小さい「モミジ」や「ブナ」そしてその他の沢山のかつ葉樹が一面に茂っていて通行ははなはだ困難をきわめた。
 しかしようやくその茂みを出たが今度は又第二の雪渓にさしかかった。その雪渓はずい分大きい様に思われ僕等は雪渓を前進したがその時雪渓の上一面に「モミ」やその他の常緑針葉樹の枝や幹が雪渓の上一面にちらばっている、ふしぎだなあ。まさか熊がそういうものをおっていくはづがないし雪崩でもあってその時へしおられたのかどちらにしてもふしぎだった。そう云う事を思いながらも又前進した。
 僕達三人は尾根え尾根えと進んだ。ある時はがけを登りある時は大きい岩から岩えととび又ある時は五六回も雪渓を渡りながら尾根え近い所えついたのである。尾根の近くでは沢山の大きな石がありそのあたりには高山植物が小さな花をつけていた。休み終って立ち上りがけを登り終った所は横に長くなった雪渓であった。その向こう側ははひまつのブッシュだ。いよいよ高山での難所「ハヒマツ」のブッシュに入った。
 始めは「モミ」や「トドマツ」の茂みだったが磁石がないばかりに方向がわからずただめちゃくちゃに進んだ。「モミ」の木の下の方をはらばいになって進んだが時々上衣が枝にひっかかったりした。かなり進んだがブッシュから出ないので「モミ」の木の上に登って見るとすぐ出られる可能性があるのでそこえ向かって進んだ。出た所は小さい広場の様だった。そこには石がつんであったのでだれか此に来た事があるなとすぐに思った。
 これからが本当の「ハヒマツ」のブッシュである。始めはひざ程であったが間もなく背丈以上もある様なのが大部分になったが「ハヒマツ」ははっていて下の方からでも枝が沢山出ており進んでいくにしたがってなほさら困難をきわめた。途中ブッシュの中で「ハクサンシャクナゲ」の花が咲いているのを僕等は見たのだった。僕はいく分なぐさめてくれている様な気がしてならなかった。その間も一生懸命御前峰に向かって進み歩いた。
 その進み歩んでいる最中誰かがヤーホーと云っている様な気がしてならなかったがそう云う事ばかり気にしてはいられない。しかしやがて「ハヒマツ」のブッシュから出られる時が来た。
 ブッシュから出た所は広い草原だった。その時もヤーホーが聞えている様な気がしてならなかった。しかし僕だけが気がついているのではなかった。やはりおじさん達もわかっていたようである。それで僕達三人は歩きながらヤーホーと元気一ぱい叫んでみた。するとあちらからもヤーホーと答えてきたのでその方向を見ると大汝や剣ヶ峰え登った人達であったのである。地図を見ると此あたりにはカンクラの雪渓というのがあるはづだがぜんぜん見あたらなかった。そのあたりには沢山の岩石にまじって「ハクサンコザクラ」の大群落があった。僕は思った。「僕は花のすきな妹にとってはこんな沢山花のさいているを見せたらここから動かないだろうなあ」と思われてならないのだった。
 やがて皆と一緒になる時が来た。一緒になってからはいろいろ朝わかれた時からの出来事を話し合った。僕達のあった事も話した。先にブッシュの中で方角を失った時に別に行った人が御前の中復でヤーホーと声をかけたのは「ハヒマツ」のブッシュの一部分が動いたのをみとめたから叫んだのだと云われた。僕は歩きながら見た事、面白かった事、又色々な事を話した。大汝や剣ヶ峰え登った時に剣ヶ峰でただでさえあぶない山頂附近での帰り下りようとした時に二十米も落下したと云う。大汝峰では雪渓の上から下まですべったと云うし御前と大汝の中間の小草原で昼寝をしていた時に寝ている人に石を積み上げていたづらをし十一も大きい石をのせても平気の平座で知らん顔をして昼寝をしていて起きた時にはびっくりしていたと云う面白い話など色々な話を聞かされた。
 そう云って歩いている間に平瀬道(飛騨からの登山路)の最後の名所カンクラの雪渓についた。そこで一緒に一休みをした。カンクラの雪渓は白山の名所であるだけにすごく大きいものだった。谷間一ぱいにうずめた此雪渓は長さ五百米もある様に思われ僕の見た最大のものだった。
 休み終りそこをたってから十分乃至十五分とたたぬ内に室堂についた。室堂についてからは体をゆっくりと休めそして夕食を食堂で食べた。食堂と云ってもひんじゃくな小屋、石室にすぎないが食料は普通程度位であった。室堂は石室や木で作った小屋等七-八つはあったがそれらには全部名があって小屋の中と云う小屋の中はほり物、すなはち自分の名前をほって傷だらけになっていた。僕は見た時に野々市から行った者もほってあったので僕もほろうかと思ったけれども室堂をこんなにいためてはと思ってほられなかった。
 その晩は大変寒くしかももうふ一枚に二人三人とねなければならなかったので大変きゅうくつである。しかしそんな事を云っていてねられなかったら大そうどうである。僕はそう思っていくらねようと思ったって寒くひえるので大便に一晩四五回行ったのである。その度に困った事は便所が一通りの便所でなくしかも電池もなくろうそくもなくあぶないのである。でもその一晩もやがて明ける頃となったのである。

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