探蕎会の平成23年(2011)後期行事のトップは「仲佐」、探蕎会では結成2年目の平成11年(1999)11月に「飛騨そば探訪」として「仲佐」を訪れている。私はこのときは参加できず、噂では大変好評だったとか、特に蕎麦掻きが秀逸だったと聞いた。私はこれまで一度も訪ねたことはなく、その一因は何故か遠いという印象からだった。しかし家内に話すとぜひ行きたいとのこと、それではと今年の4月29日の祝日に長躯下呂温泉の「仲佐」へ出かけた。私は「蕎麦三昧」、家内は「天ざる」、二人で「蕎麦掻き」も食した。噂に違わず、全てに感動して帰ってきた。そしてこの度は、会でも二度目、私も二回目の訪問となった。
訪れたのは9月26日(月)、事務局では超有名店なので土日を外したとの配慮だった。高山まで高速道と専用自動車道で約1時間半、そこから下呂温泉まで国道41号線を1時間ばかり、開店は11時半、それまでには着いて下さいとのことだった。参加者は10名、和泉さんと前田さんの車に分乗して、金沢を午前8時半に出発した。天気は曇り、途中高速道の飛騨河合PAで休憩し、下呂へ向かう。途中41号線で長い片側交互通行があり、やきもきしたが、どうやら定刻5分位前に着くことができた。既に駐車場には3台の車がいた。
もう店の戸は開いていて、12名の畳の部屋は既に埋まっていた。私たちは小上がりの4人定員の座机2卓に5人ずつ座ることに。事務局に予約してもらって助かった。お客さんが次から次へと、今日は月曜なのにこの有様、待っている人を見ると若い女性の方が多い。この前来たときは、奥さんとほかに女性が二人だったが、今日は一人、てんてこ舞いである。
私達5人は「蕎麦三昧」を予定していたが、生憎付箋がしてあり、ではと「天ざる」を、それに10食限定の「蕎麦掻き」を二人に一つ、お酒は取り合えず天恩古酒を3本、それと酒のツマに「茸四種盛り」をお願いした。銚子とぐい飲みは黒の釉薬がかかった手捻りのセット、好い感じだ。付き出しには茄子の一夜漬け、中々酒に合う。そして茸盛り、訊ねると、カラスタケ、ムラサキアンズタケ、チチタケ、ショウゲンジ、聞いたことのない茸、でも飛騨ではよく見られる茸らしい。皆炊いて和え物に、若干味付けしてある。中でも烏茸は歯ごたえがあり、ヒジキやするめを噛んでいるようだった。時節もので珍しかった。次いで「蕎麦掻き」、二人で取り分けて食べる。粗挽きでホシが点々、香りも強く、温かいうちに召し上がって下さいとのこと。初めはそのまま、後は軽く醤油を付けて食べる。蕎麦の原点ともいうべき食べ方、堪能する。そして「天ざる」、天ぷらは車海老二尾にムラサキササゲに茄子、紫ささげの紫色は、お湯にくぐらしたり、油で揚げると鮮やかな緑色になることから、湯上り美人ともいうと教えられる。塩で頂く。「ざる」は二段になった鼓型の渋い濃い茶色の細い竹の編み笊、それに濃いホシのある透明感のある粗挽きの細打ちのそばがこんもりと、白い粒が見えているのは挽き割りか、こんな「そば」には中々お目にかかれないのでは。手繰ると蕎麦の香りと個性ある食感、そばつゆは辛いのでほんの少し浸して食する。こんな粗挽きで細打ちなのは、つなぎの威力なのだろう。店主は切れ切れのは「そば」じゃないと仰る御仁、だからこんな「そば」は此処以外ではお目にかかれないだろう。ここで扱っている蕎麦は、旧稲核(いねこき)村在来の「こそば」で、手刈り、天日干しにこだわり、自前目立ての大きな石臼での手挽き自家製粉、これ以上の「そば」は望めない。蕎麦湯は茹で汁、この方がナチュラルでよい。十分に堪能した。
どなたかの発案で、下呂市萩原上村の鮎の里にある観光ヤナへ向かう。国道41号線沿いで、下呂温泉から車で10分ばかり、帰り道にあたる。着いて観光ヤナに案内してもらう。飛騨川左岸寄りに設けられているが、設備は鉄製でしっかりしたものだが、先の台風12号と15号のダブルパンチの増水でヤナは水没、今は水は引いてはいるものの、ヤナには草や木の枝やゴミがかかったままになっていて、もちろん魚影はない。通常なら10月中旬まで行なうようだが、落ち鮎も予想を超える濁流で流され、ヤナ漁は見込めないとかだった。戻ると大場鰯大の鮎が串に、これから焼きに、頼んでからヤナへ行くのが正解だった。遠火で焼くので30~40分はかかるという。お酒と鮎の刺身をつなぎにして待つ。両面が焼けて塩焼きが完成、鮎は養殖だろうが、熱々は美味しい。
いつもの探蕎行だと、小矢部SAで総括を行なうのだが、今回は次に寄った高山市久々野町渚の道の駅「飛騨街道なぎさ」で流れ解散となった。帰着は午後5時だった。
2011年9月28日水曜日
2011年9月22日木曜日
『ドンキホーテの後悔』を読んで
『随想 ドンキホーテの後悔』 永坂鉃夫著 前田書店 1,500円 (2003)
この本を手にしたときの感想には、先生のタフさに感心し、一方で何と好奇心旺盛な物好きな方なのだろうと、また寝ずに書いたわけでもないだろうに、よくぞそんな暇がおありになったものだと、またボリュームも半端じゃありませんし、これはとても常人ではできる業ではないと記しました。頂いた当日は、家内は会議で遅れるという連絡があり、そこで『ドンキホーテの後悔』を格好のツマにして、チビリチビリと酒を飲みながら、読み出した次第です。読み出すと、実に愉快で、気分爽快。とはいっても、1/4を占める「体温十二講」は一寸アカデミック過ぎて、消化できない部分もあったようです。また1/5を割いたワインの話、これは薀蓄のある1章でした。読んで、この随想は、お酒に例えれば大吟醸、しかも清涼味のある美味しい淡麗辛口の逸品でした。以下は雑感です。
とまあ、これが当時の印象なのですが、今一度読み返して、当時の雑感に加えるべきは加えて、読後感としたいと思います。初の書き起こしは平成15年(2003)5月22日です。
1.さらなる羊歯への思い
小生も羊歯に興味があった一時期があったこと前に書きましたが、先生は羊歯の分類に維管束を取り上げられたとは、やはり半端じゃありません。段が違います。それにしてもブルターニュには人の背丈もあるワラビが生い茂っているとのこと、日本にはありますかね。蕨餅、ひょっとして食べたことがあるかも知れませんが、本当の蕨由来かどうかは疑問です。こちらのワラビは根茎が貧弱ですから、本気でやるなら、フランスからそのお化けワラビの根茎を輸入するのも一つの手ですね。蕨粉や葛粉は当田舎で作っているのを見たことはありません。石川では唯一「宝達葛」が復活しているのみです。
2.世界の蕎麦その後
今でこそ日本国はソバブームで作付け面積も増え、それでも足りず、中国、カナダ、オーストラリアからの輸入量も莫大ですが、これもブームだからで、もしブームが去れば、もっと実入りの良いよい作物の方に移行するでしょう。とは言っても、いくら味の良いそばでも、三度々々食べるには抵抗があるのではないでしょうか。それにしても、仏蘭西で蕎麦のあの白い花の波に遭遇されたあの記述、先生のクシャクシャ顔とダブって、小生まで感激してしまいました。食べ方もいろいろですが、やはり大和魂が宿っているせいか、日本国でのそばの食し方が最高と言わざるを得ません。オー・スザンナはニアミスでしたね。
3.凡人の名前
先生の名前は「鉃夫」であって「鉄夫」でないのは当然です。断じて「鉄夫」であってはならないのです。現在の戸籍簿を見ると、現在は全く許容されていない字体でも、彼等が持っているアンチョコにはチャンと網羅されています。したがって、先生の名前が「鉄夫」となっていたら、間違いなので訂正させるべきです。今となっては親御さんの意図は不明ですが、とにかく戸籍での名は重大な不都合がなければ大事にすべきです。もし「鉃」の字が勝手に作られた字とすると、戸籍に登録されません。一方読み方はどう読もうと勝手であって、「テツ」と読もうが「マル」と読もうが、戸籍簿にはカナは振りません。ですから、もしテツオだったら鉄が妥当という御仁がいたら、下司の勘繰りもいいとこです。
話は跳びますが、私の恩師の波田野先生、金沢へ来られてからもずっと「波多野」の姓を名乗っておいででした。永平寺を訪れた折に、永平寺の執事が先生の先祖とかで、その名は代々「波田野」とか、そして先生の戸籍も「波田野」とか、何が悲しくて「波多野」とされているのですかと。その後、先生は事の重大さに気付かれてか、以降は「波田野」の鞘に戻られた経緯があります。
4.WINE OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE
先生のワインに対する思い入れには凄い年季が入っているのにはびっくりしました。これは大関と褌担ぎ位の差に相当します。完全に参りました。御説ごもっとも、そうなんですか、そうだったんですか、一言半句口出しできません。この章だけでも、ワインの手引きとなる小冊子になります。項目を挙げておこう。項目の後の( )書きは、私の注書きである。・ワイン小史.・ブドウと酵母(ブドウの種類とワインの熟成期間).・ワインの醸造(ブレンドとブレンディング).・エチケットを読む(ラベル).・コルクと伝統.・お楽しみのはじまり(開栓).・お楽しみの最中(ワイングラス).・色香と味.・次のお楽しみのために(飲み残しの保存、グラスの管理).・ワインのマナー.の以上10項。これを読んだだけでマスターできるわけではありませんが、でも疑問だった一部の謎が解明でき、清々しい感じでした。感謝々々。
ところで小生も高松のブドウでブドウ酒なるものを、研究室でも自宅ででもよく造りました。とくに叔父貴のいた生薬学教室が場内の旅団司令部跡に引っ越していた頃は、よく大量に仕込んで、望楼でよく月見としゃれこんだものです。醗酵は試薬アルコールで止めてましたが、度数はかなりで、口当たりは良いのですが、余計飲むと必ず悪酔いしました。女性軍には格好でした。コツはブドウの野生酵母を落とさないように水洗いのみ、砂糖は10%以内に添加し、醗酵が進んで糖分が足りなくなれば足す、もうテンパイであれば純アルを加え、暫らく寝かす。これで出来上がりです。養命酒も造りましたが、極めて濃厚、薄めても薄めても濃いという代物、あれは儲かりますなぁ。
5.体温十二講
素晴らしい講義でした。一度も先生の御講義に接したことはないのですが、直接お聴きしているような錯覚で読ませて頂きました。私たちが遭遇する様々な現象に、何の不思議も感じないで過ごしているのが我々凡人ですが、実はその裏にはこんなことが起きているのだと、全部を咀嚼して消化することは全く無理ですが、あの学術的解説には、目から鱗でした。金玉のくだりなど、下世話もいいとこでした。話は替わって竹林のM、それかあらぬか良くなってきたように思います。
以下にこの章の項目を挙げる。:以下は私のメモである。
(1)体温:熱中症とは、暑熱障害のうち、高体温、発汗停止、意識障害から死に至ることの多い重篤なものをいう。(2)体温計:近代の体温計の原理はガリレオの体温計に基づいているが、ダビンチの体温計の豆球なるものが物質の特性(温度の変化で色が変わる等)を利用したものであったとすれば、初の考案者はダビンチということになる。(3)体温調節ー行動性と自立性ー:理解できました。メダカの実験は以外でした。でも悪寒はこの範疇外なのでしょうね。(4)頭部の汗:これは、これから脳が働かなくてはならないだろう場面を先取りして、機能を発動させるという合目的的な反応なのでは。(5)変わった汗ー半側発汗ー:片側の皮膚部位の圧迫により、反射的に同側の発汗の抑制が起きる。(6)動物の体温:測定方法の吟味が必要だ。(7)選択的脳冷却:体温と脳温に乖離ができるのは、体温が高くても脳温だけを低く保つメカニズムが働くからである。(8)対向流熱交換:流れの方向は反対だが並行して走る動静脈の間でおきる熱交換で、四肢や鰭ばかりでなく、ヒトや多くの哺乳動物の睾丸などにもその機能がある。(9)発熱と高体温:発熱は発熱物質が脳内の温度感受性ニューロンに働いてその特性を変え、体温のセットポイントが上昇したために起きる(調節された)高体温である。一方高温多湿の環境で熱放散が著しく阻害されたりしておきる体温の高い状態を高体温(鬱熱)といい、このうち最も重篤なのが熱中症で、高温のため脳機能が破壊され死に至る。解熱剤は全く無効である。(10)低体温と冬眠:低体温には、単に熱の産生と放散のバランスが崩れておきる受動的な低体温と、発熱の逆で何か低体温を惹き起こす物質などが中枢のセットポイントを変えておきる調節された低体温(アナパイレキシア)の2種類がある。冬眠は季節の気候変動や栄養状態の変化に対する種としての適応だといわれるが、その実態はいまだ明確ではない。(11)温泉と風呂:まだ日本では足湯なるものが普及していないときに、先生がデモまがいのことをされたのには驚きましたが、外国ではむしろこちらの方が普及していたのですね。近頃は日本でもそこここに普及していますが、確かに宣伝用でしょうね。先生のぬる湯好きはお聞きしていましたが、私は42℃にセットして入ります。この間テレビで40℃以上は身体によくないとのことで、家内がうるさく言います。(12)温度感覚:正常体温のとき、最も快適に感ずる皮膚温は33℃だそうですが、気温33℃では不快感の人が多いと思いますが、この点はどうなんでしょうか。
6.私の夢十夜
初めて先生の夢十夜を読んで寝た翌朝、カラーの夢を見ました。野々市の東田圃に健診車が停まっている。とそこへ、例えは悪いが、ピノキオに総太大根の上半分を双胸にくっつけたような超々ボインのおねぇちゃんが、素っ裸で小宅の庭を横切って健診車に向かって歩いて行く。ははん、近頃の若い娘はこうも大胆なのかと変に感心しているうちに目が覚めた。あんな夢、初めてだった。しかし夢なるもの、現実とどこかで接点があるのだろうか。吉の夢、凶の夢等々、学問的には全く検討に値しないものなのでしょうか。
臨死体験:小生も一度だけ体験しました。大出血して死にそびれたときです。これには空間遊泳と花園歩きがあるようですが、私のは後者で、途中で回れ右させられました。亡くなられた松原敏さんは二度体験され、両方体験されたとのことでした。
7.早飯・早〇、早仕度
先生の早飯の特技、生来のものなのでしょうか、それとも後天的に努力して獲得されたものなのでしょうか。いずれにしても、宴会の司会進行は先生にお任せしておけば、何の憂いもないことが明白になりました。凡人では可愛そうです。これは常人が努力して出来る技ではなく、先生は重要文化財保持者(探蕎会宝人)として登録されるべきです。
万力とビーカー、直しの万年筆の逸話は、正に真正なお笑いでした。
早糞は冬山では鉄則です。特に吹雪の時が大変で、生死に関わります。これにはとっておきの実体験があるのですが、今回は割愛します。
8.またまたドンキホーテの八つ当たり
2点以外は、全くその通り、小生身体全体が共鳴し、同感々々と震えました。
2点の内の1点は、「目線を合わせる」です。もうワープロでもすんなり出ますが、昨今、私の目とある女の子の目と合ったのは、正に目線が合ったとしか言いようがなく、とても視線が合ったでは収まりがつかないものでした。
もうい1点は英会話です。高校から大学教養まで英会話の授業はあったのですが、引っ込み思案で逃げ回っていました。今からすれば勿体なかったのですが、後の祭りです。日本人の英語ならまだしも、外人のは耳慣れしてないので、全くもって聞き取れません。筆談クラスです。実を言うと、新制中学では戦後間もなくで、英語の先生はいなくて専ら自習。ですから泉丘高校の入試では、特例で職業の農業を選択、英語の試験は免除でした。しかし2年後には中学校にも英語に堪能な先生が沢山復員して来られ、こんな制度はなくなりました。だから高校では大変でした。コンプレックスもいいとこです。
さて、すごく共鳴したのは、「じゃーないですか?」と「あげる」の乱発のくだりです。若い女の子が「じゃないですか」ならまだ可愛げもありますが、大の野郎がのたもうと反吐がでます。犬にあげる、植木にあげるなど、もってのほかです。お犬様にあげる、お植木様にあげるというならまだしも。よくぞ書かれました。
もう1点は某新聞社の乗っ取り暴君社長、糞喰らえ!です。全く同感。謝々謝々、謝々謝々。
本当に楽しい思いをさせていただきました。心身ともに爽快感漲る、実に素晴らしい近来稀な通読本です。今回こそは先生の偉大さが身にしみて実感できました。今までの横着さを正さなければと痛感しました。すべてに脱帽です。今時気付くとは癲癇持ちもいいとこですが、でも気が付かないよりはましと慰めています。こんな経験はこの歳になるまで初めてです。せめて20年若ければ弟子入りしたでしょうに。我が家では次のお迎えは小生です。今からどんどん若返られれば話は別ですが、でも、断念しましょう。ともあれ、今後ともどうか宜しく、ご指導。ご鞭撻下さい。
勝手にいろいろ書きましたが、これが手書きだと全く判読できない代物になる恐れがありますので、ワープロにしました。小生の家にはまだパソコンが鎮座していません。協会にはあるのですが、完全に消せないとなると勝手なメールでの送信は憚られます。
先生にはどうかご自愛専一になされて下さい。これからも末永いご交誼を賜ることを願って止みません。
[この項は、平成15年(2003)5月22日の記述です]
追記:本当に、このボリュームで誤字脱字がないのは、余程校閲がしっかりしているからでしょう。頼子嬢に負うところすこぶる大なのじゃないですか。ただ2箇所、ミスと思われる箇所がありました。
p 126 ⅴ の冒頭の NKH ⇒ NHK
p 138 ⅳ の5行目 対戦国の国家 ⇒ 対戦国の国歌
この本を手にしたときの感想には、先生のタフさに感心し、一方で何と好奇心旺盛な物好きな方なのだろうと、また寝ずに書いたわけでもないだろうに、よくぞそんな暇がおありになったものだと、またボリュームも半端じゃありませんし、これはとても常人ではできる業ではないと記しました。頂いた当日は、家内は会議で遅れるという連絡があり、そこで『ドンキホーテの後悔』を格好のツマにして、チビリチビリと酒を飲みながら、読み出した次第です。読み出すと、実に愉快で、気分爽快。とはいっても、1/4を占める「体温十二講」は一寸アカデミック過ぎて、消化できない部分もあったようです。また1/5を割いたワインの話、これは薀蓄のある1章でした。読んで、この随想は、お酒に例えれば大吟醸、しかも清涼味のある美味しい淡麗辛口の逸品でした。以下は雑感です。
とまあ、これが当時の印象なのですが、今一度読み返して、当時の雑感に加えるべきは加えて、読後感としたいと思います。初の書き起こしは平成15年(2003)5月22日です。
1.さらなる羊歯への思い
小生も羊歯に興味があった一時期があったこと前に書きましたが、先生は羊歯の分類に維管束を取り上げられたとは、やはり半端じゃありません。段が違います。それにしてもブルターニュには人の背丈もあるワラビが生い茂っているとのこと、日本にはありますかね。蕨餅、ひょっとして食べたことがあるかも知れませんが、本当の蕨由来かどうかは疑問です。こちらのワラビは根茎が貧弱ですから、本気でやるなら、フランスからそのお化けワラビの根茎を輸入するのも一つの手ですね。蕨粉や葛粉は当田舎で作っているのを見たことはありません。石川では唯一「宝達葛」が復活しているのみです。
2.世界の蕎麦その後
今でこそ日本国はソバブームで作付け面積も増え、それでも足りず、中国、カナダ、オーストラリアからの輸入量も莫大ですが、これもブームだからで、もしブームが去れば、もっと実入りの良いよい作物の方に移行するでしょう。とは言っても、いくら味の良いそばでも、三度々々食べるには抵抗があるのではないでしょうか。それにしても、仏蘭西で蕎麦のあの白い花の波に遭遇されたあの記述、先生のクシャクシャ顔とダブって、小生まで感激してしまいました。食べ方もいろいろですが、やはり大和魂が宿っているせいか、日本国でのそばの食し方が最高と言わざるを得ません。オー・スザンナはニアミスでしたね。
3.凡人の名前
先生の名前は「鉃夫」であって「鉄夫」でないのは当然です。断じて「鉄夫」であってはならないのです。現在の戸籍簿を見ると、現在は全く許容されていない字体でも、彼等が持っているアンチョコにはチャンと網羅されています。したがって、先生の名前が「鉄夫」となっていたら、間違いなので訂正させるべきです。今となっては親御さんの意図は不明ですが、とにかく戸籍での名は重大な不都合がなければ大事にすべきです。もし「鉃」の字が勝手に作られた字とすると、戸籍に登録されません。一方読み方はどう読もうと勝手であって、「テツ」と読もうが「マル」と読もうが、戸籍簿にはカナは振りません。ですから、もしテツオだったら鉄が妥当という御仁がいたら、下司の勘繰りもいいとこです。
話は跳びますが、私の恩師の波田野先生、金沢へ来られてからもずっと「波多野」の姓を名乗っておいででした。永平寺を訪れた折に、永平寺の執事が先生の先祖とかで、その名は代々「波田野」とか、そして先生の戸籍も「波田野」とか、何が悲しくて「波多野」とされているのですかと。その後、先生は事の重大さに気付かれてか、以降は「波田野」の鞘に戻られた経緯があります。
4.WINE OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE
先生のワインに対する思い入れには凄い年季が入っているのにはびっくりしました。これは大関と褌担ぎ位の差に相当します。完全に参りました。御説ごもっとも、そうなんですか、そうだったんですか、一言半句口出しできません。この章だけでも、ワインの手引きとなる小冊子になります。項目を挙げておこう。項目の後の( )書きは、私の注書きである。・ワイン小史.・ブドウと酵母(ブドウの種類とワインの熟成期間).・ワインの醸造(ブレンドとブレンディング).・エチケットを読む(ラベル).・コルクと伝統.・お楽しみのはじまり(開栓).・お楽しみの最中(ワイングラス).・色香と味.・次のお楽しみのために(飲み残しの保存、グラスの管理).・ワインのマナー.の以上10項。これを読んだだけでマスターできるわけではありませんが、でも疑問だった一部の謎が解明でき、清々しい感じでした。感謝々々。
ところで小生も高松のブドウでブドウ酒なるものを、研究室でも自宅ででもよく造りました。とくに叔父貴のいた生薬学教室が場内の旅団司令部跡に引っ越していた頃は、よく大量に仕込んで、望楼でよく月見としゃれこんだものです。醗酵は試薬アルコールで止めてましたが、度数はかなりで、口当たりは良いのですが、余計飲むと必ず悪酔いしました。女性軍には格好でした。コツはブドウの野生酵母を落とさないように水洗いのみ、砂糖は10%以内に添加し、醗酵が進んで糖分が足りなくなれば足す、もうテンパイであれば純アルを加え、暫らく寝かす。これで出来上がりです。養命酒も造りましたが、極めて濃厚、薄めても薄めても濃いという代物、あれは儲かりますなぁ。
5.体温十二講
素晴らしい講義でした。一度も先生の御講義に接したことはないのですが、直接お聴きしているような錯覚で読ませて頂きました。私たちが遭遇する様々な現象に、何の不思議も感じないで過ごしているのが我々凡人ですが、実はその裏にはこんなことが起きているのだと、全部を咀嚼して消化することは全く無理ですが、あの学術的解説には、目から鱗でした。金玉のくだりなど、下世話もいいとこでした。話は替わって竹林のM、それかあらぬか良くなってきたように思います。
以下にこの章の項目を挙げる。:以下は私のメモである。
(1)体温:熱中症とは、暑熱障害のうち、高体温、発汗停止、意識障害から死に至ることの多い重篤なものをいう。(2)体温計:近代の体温計の原理はガリレオの体温計に基づいているが、ダビンチの体温計の豆球なるものが物質の特性(温度の変化で色が変わる等)を利用したものであったとすれば、初の考案者はダビンチということになる。(3)体温調節ー行動性と自立性ー:理解できました。メダカの実験は以外でした。でも悪寒はこの範疇外なのでしょうね。(4)頭部の汗:これは、これから脳が働かなくてはならないだろう場面を先取りして、機能を発動させるという合目的的な反応なのでは。(5)変わった汗ー半側発汗ー:片側の皮膚部位の圧迫により、反射的に同側の発汗の抑制が起きる。(6)動物の体温:測定方法の吟味が必要だ。(7)選択的脳冷却:体温と脳温に乖離ができるのは、体温が高くても脳温だけを低く保つメカニズムが働くからである。(8)対向流熱交換:流れの方向は反対だが並行して走る動静脈の間でおきる熱交換で、四肢や鰭ばかりでなく、ヒトや多くの哺乳動物の睾丸などにもその機能がある。(9)発熱と高体温:発熱は発熱物質が脳内の温度感受性ニューロンに働いてその特性を変え、体温のセットポイントが上昇したために起きる(調節された)高体温である。一方高温多湿の環境で熱放散が著しく阻害されたりしておきる体温の高い状態を高体温(鬱熱)といい、このうち最も重篤なのが熱中症で、高温のため脳機能が破壊され死に至る。解熱剤は全く無効である。(10)低体温と冬眠:低体温には、単に熱の産生と放散のバランスが崩れておきる受動的な低体温と、発熱の逆で何か低体温を惹き起こす物質などが中枢のセットポイントを変えておきる調節された低体温(アナパイレキシア)の2種類がある。冬眠は季節の気候変動や栄養状態の変化に対する種としての適応だといわれるが、その実態はいまだ明確ではない。(11)温泉と風呂:まだ日本では足湯なるものが普及していないときに、先生がデモまがいのことをされたのには驚きましたが、外国ではむしろこちらの方が普及していたのですね。近頃は日本でもそこここに普及していますが、確かに宣伝用でしょうね。先生のぬる湯好きはお聞きしていましたが、私は42℃にセットして入ります。この間テレビで40℃以上は身体によくないとのことで、家内がうるさく言います。(12)温度感覚:正常体温のとき、最も快適に感ずる皮膚温は33℃だそうですが、気温33℃では不快感の人が多いと思いますが、この点はどうなんでしょうか。
6.私の夢十夜
初めて先生の夢十夜を読んで寝た翌朝、カラーの夢を見ました。野々市の東田圃に健診車が停まっている。とそこへ、例えは悪いが、ピノキオに総太大根の上半分を双胸にくっつけたような超々ボインのおねぇちゃんが、素っ裸で小宅の庭を横切って健診車に向かって歩いて行く。ははん、近頃の若い娘はこうも大胆なのかと変に感心しているうちに目が覚めた。あんな夢、初めてだった。しかし夢なるもの、現実とどこかで接点があるのだろうか。吉の夢、凶の夢等々、学問的には全く検討に値しないものなのでしょうか。
臨死体験:小生も一度だけ体験しました。大出血して死にそびれたときです。これには空間遊泳と花園歩きがあるようですが、私のは後者で、途中で回れ右させられました。亡くなられた松原敏さんは二度体験され、両方体験されたとのことでした。
7.早飯・早〇、早仕度
先生の早飯の特技、生来のものなのでしょうか、それとも後天的に努力して獲得されたものなのでしょうか。いずれにしても、宴会の司会進行は先生にお任せしておけば、何の憂いもないことが明白になりました。凡人では可愛そうです。これは常人が努力して出来る技ではなく、先生は重要文化財保持者(探蕎会宝人)として登録されるべきです。
万力とビーカー、直しの万年筆の逸話は、正に真正なお笑いでした。
早糞は冬山では鉄則です。特に吹雪の時が大変で、生死に関わります。これにはとっておきの実体験があるのですが、今回は割愛します。
8.またまたドンキホーテの八つ当たり
2点以外は、全くその通り、小生身体全体が共鳴し、同感々々と震えました。
2点の内の1点は、「目線を合わせる」です。もうワープロでもすんなり出ますが、昨今、私の目とある女の子の目と合ったのは、正に目線が合ったとしか言いようがなく、とても視線が合ったでは収まりがつかないものでした。
もうい1点は英会話です。高校から大学教養まで英会話の授業はあったのですが、引っ込み思案で逃げ回っていました。今からすれば勿体なかったのですが、後の祭りです。日本人の英語ならまだしも、外人のは耳慣れしてないので、全くもって聞き取れません。筆談クラスです。実を言うと、新制中学では戦後間もなくで、英語の先生はいなくて専ら自習。ですから泉丘高校の入試では、特例で職業の農業を選択、英語の試験は免除でした。しかし2年後には中学校にも英語に堪能な先生が沢山復員して来られ、こんな制度はなくなりました。だから高校では大変でした。コンプレックスもいいとこです。
さて、すごく共鳴したのは、「じゃーないですか?」と「あげる」の乱発のくだりです。若い女の子が「じゃないですか」ならまだ可愛げもありますが、大の野郎がのたもうと反吐がでます。犬にあげる、植木にあげるなど、もってのほかです。お犬様にあげる、お植木様にあげるというならまだしも。よくぞ書かれました。
もう1点は某新聞社の乗っ取り暴君社長、糞喰らえ!です。全く同感。謝々謝々、謝々謝々。
本当に楽しい思いをさせていただきました。心身ともに爽快感漲る、実に素晴らしい近来稀な通読本です。今回こそは先生の偉大さが身にしみて実感できました。今までの横着さを正さなければと痛感しました。すべてに脱帽です。今時気付くとは癲癇持ちもいいとこですが、でも気が付かないよりはましと慰めています。こんな経験はこの歳になるまで初めてです。せめて20年若ければ弟子入りしたでしょうに。我が家では次のお迎えは小生です。今からどんどん若返られれば話は別ですが、でも、断念しましょう。ともあれ、今後ともどうか宜しく、ご指導。ご鞭撻下さい。
勝手にいろいろ書きましたが、これが手書きだと全く判読できない代物になる恐れがありますので、ワープロにしました。小生の家にはまだパソコンが鎮座していません。協会にはあるのですが、完全に消せないとなると勝手なメールでの送信は憚られます。
先生にはどうかご自愛専一になされて下さい。これからも末永いご交誼を賜ることを願って止みません。
[この項は、平成15年(2003)5月22日の記述です]
追記:本当に、このボリュームで誤字脱字がないのは、余程校閲がしっかりしているからでしょう。頼子嬢に負うところすこぶる大なのじゃないですか。ただ2箇所、ミスと思われる箇所がありました。
p 126 ⅴ の冒頭の NKH ⇒ NHK
p 138 ⅳ の5行目 対戦国の国家 ⇒ 対戦国の国歌
2011年9月21日水曜日
槍見の湯は蒲田川の奥に槍の穂を望める秘湯の一軒宿
毎年秋の連休に、家内と家内の友人と私とで、どこかの温泉へ訪ねることにしているが、今年は新穂高温泉の大露天風呂のある宿にでもと思っていた。ところがその宿は部屋にトイレがないということで、元は槍見温泉と言われていた槍見館にした。折りよく一室のみ空いていた。この一帯は温泉が多く、大きく平湯、福地、新平湯、栃尾、新穂高とあるが、これら5温泉をまとめて、奥飛騨温泉郷と称している。そして新穂高温泉には、新穂高、中尾、蒲田の3つの源泉エリアがあり、新穂高エリアは最も奥に位置している。槍見館はこのエリアの中では最も南に位置し、しかも蒲田川の右岸にある。
9月の連休は18日(日)と19日(敬老の日)、朝9時に金沢を発つ。富山からは国道41号線で南下、神岡からは国道471号線を辿り、栃尾からは県道475号線で新穂高温泉へ向かう。天気予報では曇り時々雨、2日目は雨、しかし現況は時々晴れ、新穂高ロープウェイは明日の予定だったが、時間も正午前のこともあり、今日上ることにする。駐車場はほぼ満車、人も多い。第1ロープウェイ駅からは原則30分毎の発車、最後の5人に滑り込む。駅の標高は1,117m、鍋平抗原(1,305m)まで約4分、そこから第2ロープウェイ駅(しらかば平)まで歩き、次いで高度差848mを約7分で上る。西穂高口(2,156m)には沢山の人、笠ヶ岳が指呼の間、西穂山荘から西穂高岳まですっきり見えている。奥穂や槍は雲に隠れて見えない。晴れていれば白山も見えようものを、でもこんなに展望がきくとは僥倖だった。しかし次第にガスが湧いてきて、視界が悪くなってきた。早々に下りることに。鍋平で昼食し、新穂高ビジターセンターで双六小屋等のオーナーの小池潜さんの山の写真展を見たが、プロの目は鋭い。百号位の写真もあり、すごく魅せられた。
宿のチェックインは午後2時、2時半になったので宿に向かう。ナビを入れ損ねて栃尾まで下り、引き返す。今度は注意深く見ながら走ると、蒲田トンネルを抜けてすぐに槍見館の標識、左の山道に入る。一車線のため、対向車があると難儀する。この日は日曜で工事がなかったが、あると入るのも出るのも午前8時から午後5時までは、午前30分2回、午後も同様で、計2時間しか通れない。工事は崩れた路肩の復旧で、斜面が急なこともあって道幅の拡幅は困難なようだ。登山道に続いていることもあって、市道とか、ただ除雪は宿の自前とかだった。宿は年中無休である。
この湯は宿の人の説明では、大正時代に川辺に自噴しているのが見つかり、川の水を引いて湯船を造り、笠ヶ岳への登山者の宿や湯治場として開湯した。当時は林屋といった。しかし蒲田川は笠ヶ岳、抜戸岳、双六岳、槍ヶ岳、穂高連峰、焼ヶ岳を水源としている川で、梅雨時には降雨と雪解けでの増水で、湯槽は毎年流失した。その後豊富な水を利用して独自に水力発電を開発し、温泉を汲み上げて内湯を造り、一年を通じて営業できるようにした。現在は再ボーリングし、地下60mからポンプアップで毎分450ℓの51~60℃(季節により変動)の温泉水を汲み上げている。泉質は弱アルカリ性単純温泉、加水・加温はなく、かけ流しである。水は裏山から谷水を引き、温泉水で熱交換した水を温水として利用している。この場所からは、蒲田川の奥に、右から南岳、中岳、大喰岳、そしてその左に槍ヶ岳の穂が見えることから槍見温泉と名付けられた。川に近く露天風呂を配し、中でも「槍見の湯」や内風呂からはその槍の穂を見ることが出来る。また近景には新穂高第2ロープウェイの全貌も見える。周りの林にはイヌシデがまだ緑色の四出を下げている。
現在の槍見館は全15室、斜面に旧庄屋の建物を移築し、素朴で力強い印象が特徴だ。内湯は男女2湯とも今年1月に全部リニューアルされ、昼間は槍が見える北側と蒲田川側の東側の戸を全面開け放てる仕掛けにし、さながら露天風呂の様相である。もっとも混浴露天風呂「槍見の湯」「まんてんの湯」や女性専用の「岩見の湯」もあり、ほかに貸切露天風呂も4湯ある。この中で「まんてんの湯」はかなり大きく、湯への入り口が男女で異なるので混浴でも入りやすい。でも売りは「槍見の湯」、槍を見ながらの岩風呂は安らぐ。
チェックアウトは11時、それより道路の通行が10時半から30分のみ、対向車があり難渋する。朝は陽も射し天気は好かったが、次第に雲が多くなる。栃尾から平湯へ、そして国道158号線を高山へ向かう。市内へは入らず、枝道から国道41号線へ、そして飛騨市古川へ向かう。市役所の有料駐車場は何故か無料、案内のパンフレットを貰って、先ずはまつり会館へ、3D映像で祭りを体験し、展示の実物の屋台に感動し、本来なら32本もの糸で操るからくりがコンピューターで再現されるのに感心し、切り絵職人の手慰みとかだが、本物そっくりの精巧な彫りと塗りに驚嘆した。昼食はそば盛り、その後は瀬戸川と鯉と白壁土蔵を愛で、「蓬莱」醸造元を訪ね、古川を辞した。雨は時に強く、雨の中帰りを急いだ。
9月の連休は18日(日)と19日(敬老の日)、朝9時に金沢を発つ。富山からは国道41号線で南下、神岡からは国道471号線を辿り、栃尾からは県道475号線で新穂高温泉へ向かう。天気予報では曇り時々雨、2日目は雨、しかし現況は時々晴れ、新穂高ロープウェイは明日の予定だったが、時間も正午前のこともあり、今日上ることにする。駐車場はほぼ満車、人も多い。第1ロープウェイ駅からは原則30分毎の発車、最後の5人に滑り込む。駅の標高は1,117m、鍋平抗原(1,305m)まで約4分、そこから第2ロープウェイ駅(しらかば平)まで歩き、次いで高度差848mを約7分で上る。西穂高口(2,156m)には沢山の人、笠ヶ岳が指呼の間、西穂山荘から西穂高岳まですっきり見えている。奥穂や槍は雲に隠れて見えない。晴れていれば白山も見えようものを、でもこんなに展望がきくとは僥倖だった。しかし次第にガスが湧いてきて、視界が悪くなってきた。早々に下りることに。鍋平で昼食し、新穂高ビジターセンターで双六小屋等のオーナーの小池潜さんの山の写真展を見たが、プロの目は鋭い。百号位の写真もあり、すごく魅せられた。
宿のチェックインは午後2時、2時半になったので宿に向かう。ナビを入れ損ねて栃尾まで下り、引き返す。今度は注意深く見ながら走ると、蒲田トンネルを抜けてすぐに槍見館の標識、左の山道に入る。一車線のため、対向車があると難儀する。この日は日曜で工事がなかったが、あると入るのも出るのも午前8時から午後5時までは、午前30分2回、午後も同様で、計2時間しか通れない。工事は崩れた路肩の復旧で、斜面が急なこともあって道幅の拡幅は困難なようだ。登山道に続いていることもあって、市道とか、ただ除雪は宿の自前とかだった。宿は年中無休である。
この湯は宿の人の説明では、大正時代に川辺に自噴しているのが見つかり、川の水を引いて湯船を造り、笠ヶ岳への登山者の宿や湯治場として開湯した。当時は林屋といった。しかし蒲田川は笠ヶ岳、抜戸岳、双六岳、槍ヶ岳、穂高連峰、焼ヶ岳を水源としている川で、梅雨時には降雨と雪解けでの増水で、湯槽は毎年流失した。その後豊富な水を利用して独自に水力発電を開発し、温泉を汲み上げて内湯を造り、一年を通じて営業できるようにした。現在は再ボーリングし、地下60mからポンプアップで毎分450ℓの51~60℃(季節により変動)の温泉水を汲み上げている。泉質は弱アルカリ性単純温泉、加水・加温はなく、かけ流しである。水は裏山から谷水を引き、温泉水で熱交換した水を温水として利用している。この場所からは、蒲田川の奥に、右から南岳、中岳、大喰岳、そしてその左に槍ヶ岳の穂が見えることから槍見温泉と名付けられた。川に近く露天風呂を配し、中でも「槍見の湯」や内風呂からはその槍の穂を見ることが出来る。また近景には新穂高第2ロープウェイの全貌も見える。周りの林にはイヌシデがまだ緑色の四出を下げている。
現在の槍見館は全15室、斜面に旧庄屋の建物を移築し、素朴で力強い印象が特徴だ。内湯は男女2湯とも今年1月に全部リニューアルされ、昼間は槍が見える北側と蒲田川側の東側の戸を全面開け放てる仕掛けにし、さながら露天風呂の様相である。もっとも混浴露天風呂「槍見の湯」「まんてんの湯」や女性専用の「岩見の湯」もあり、ほかに貸切露天風呂も4湯ある。この中で「まんてんの湯」はかなり大きく、湯への入り口が男女で異なるので混浴でも入りやすい。でも売りは「槍見の湯」、槍を見ながらの岩風呂は安らぐ。
チェックアウトは11時、それより道路の通行が10時半から30分のみ、対向車があり難渋する。朝は陽も射し天気は好かったが、次第に雲が多くなる。栃尾から平湯へ、そして国道158号線を高山へ向かう。市内へは入らず、枝道から国道41号線へ、そして飛騨市古川へ向かう。市役所の有料駐車場は何故か無料、案内のパンフレットを貰って、先ずはまつり会館へ、3D映像で祭りを体験し、展示の実物の屋台に感動し、本来なら32本もの糸で操るからくりがコンピューターで再現されるのに感心し、切り絵職人の手慰みとかだが、本物そっくりの精巧な彫りと塗りに驚嘆した。昼食はそば盛り、その後は瀬戸川と鯉と白壁土蔵を愛で、「蓬莱」醸造元を訪ね、古川を辞した。雨は時に強く、雨の中帰りを急いだ。
2011年9月16日金曜日
石徹白への旅と話(続)
(承前)
『かつての修験道』:昔修験者が辿った修験道は一般の禅定道とは異なり、長滝白山神社からすぐ裏手の山に登り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て、神鳩社で一般参拝道と合流していた。長い尾根の途中には、神鳩社までに10の宿があったという。
『石徹白の室堂』:「民宿おしたに」の裏手からは、山の斜面の上の方に大師堂の基部が見えている。大師堂へは行かなかったが、その手前に倉庫のような建物があり、これは昔の白山の室堂を模して作られた宿舎だという説明を受けた。
『石徹白から市ノ瀬へ日帰り往復』:まだ旧の白山温泉があった頃、石徹白川で採れた岩魚や天魚(アマゴ)を、笠場峠を越えて白山温泉にまで日帰りで運んでいたという。三ツ谷へ出たというから、六本桧か杉峠越えをしたのだろうか。
『石徹白から室堂へ』:夏場なら、石徹白を朝5時に発てば、室堂には午後3時には着ける。
『室堂詰め』:室堂勤務初めの頃は、5月の春山に入って、秋山の11月まで山に居た。この間石徹白へ下りるのは3回程度。いつか11月に帰る時、ドカ雪で弥陀ヶ原で肩位のこともあった。困ったのは中飯場で車が埋まったことで、あの時はブル先導で下りた。その後鴛谷さんが居るときに、開設期間を現在の10月15日までと決めたそうだ。現在職員が室堂に入るのは、5月の連休と7月1日~10月15日である。
『奥宮の社殿焼失』:以前の奥宮社殿は落雷で全壊した。当時鴛谷さんは室堂に居て、灯油1缶を持って行き、檜の柱と銅版以外は全部社殿のあった場所で燃やしたという。檜の柱4本は後日白山比め神社へ届けたが、それは表札にされて氏子に配られたとかで、大変喜ばれた。現在の奥宮の社殿は、その後に再建されたものである。
『御前峰の方位盤』:以前あった方位盤は、山崎さんが一人で担ぎ上げ、それは語り草になっているが、その方位盤は落雷で無惨な姿になった。これは私も見ている。その後鴛谷さん達が中部電力と掛け合ったところ、再び方位盤を寄進して頂けることになり、出来上がった方位盤も中電のヘリで運んで頂けた。土台も新しく造り替えられた。
『森君のこと』:彼は金大山岳部の後輩で、3月に本隊の白山主脈縦走の激励に白山へ出向いたが、室堂手前の五葉坂で猛烈な吹雪に遭い、現役の一人と共に凍死した。5月になり、かの方位盤の山崎さんから遺体発見の連絡が入り、すぐに現役とOBとで隊を編成し収容した。遭難した場所には碑が置かれていて、鴛谷さんは折に触れてお参りしたと話されていた。坂に向かって右(東)に少し入った場所だったが、今は碑は撤去されて無い。
『コマクサ』:白山のコマクサは大汝峰のガレ場に植栽されているのは知っているが、鴛谷さんでは御前峰の転法輪岩屋下のガレ地にも植わっているという。これにはリキさんが噛んでいるが、鴛谷さんも協力したと言われ、これにはびっくりした。
『オオシラビソとクリ』:鴛谷さんの家の前庭には針葉樹があり、家内に何かと聞かれ、モミじゃないかと言っておいたが、後で鴛谷さんに聞くと、オオシラビソ(アオモリトドマツ)とのこと、52年前に白山から持ち帰った種子を蒔いたもので、ここが育つ限界の標高だとかだった。葉を揉むと、懐かしい独特の香りがした。またその近くにクリも植わっているが、実が熟する頃には、熊が栗の実を食べに来ると話されていた。
『野伏ヶ岳(300名山)』:この300名山には夏道がなく、残雪期にしか登れないので、3月4月は登山者が多い。スキー、ボード、スノーシュー、かんじき等、歩行具はいろいろだが、春の一日、私が案内してゆっくり往復できるので、喜ばれている。
『そのほか』:いろんな話が出たが、お酒の席の部分もあり、またメモしたわけでもないので、定かではない。翌朝も朝食が終わって、囲炉裏を囲んでいろんな話をした。沢山の人の名前が出たが、知っている人もあり、知らない人もあり、様々だ。家内に促されてようやく腰を上げた。帰り際に、奥さんから手製の精巧な可愛い草履のストラップを頂いた。
今日は月曜日、もう道路では工事が始まっていたが、なんとか通してもらった。それにしても、他家の駐車場を通らないと出入りできないというのは、何ともけったいな具合だ。
● 長滝白山神社・白山長瀧寺
昨日通った国道314号線を300m上って桧峠(960m)へ、さらに400m下って国道156号線に出る。そして少し南下すると、道の駅白鳥があり、ここからも歩いて行けるのだったが、知らずにもう少し走って、長良川鉄道はくさんながたき駅裏の駐車場に車を停める。参道を長滝白山神社へ向かう。両脇には、現存の三坊院や古の坊院跡がある。社務所で御朱印を貰い、隣の瀧宝殿を拝観する。ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像(中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩)、その両脇には、やはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造四天王立増(多聞天、広目天、持国天、増長天の四像)が置かれている。境内で往時の隆盛を偲ぶが、今は加賀馬場であった加賀一宮の白山比め神社の方が、はるかに活気がある。
● 白山やまぶどうわいん・白山ワイナリー
国道156号線を更に南下し、白鳥から国道158号線に入る。ここには中部縦貫自動車道が出来ていて、トンネルと高架ループで峠越えをしなくてよいことになっているが、あえて油坂峠(870m)へ向かう。そんな物好きはいないと見えて、会った車は1台のみ、往年の安房峠越えを想う。でも峠を越えると程なく新しい自動車道に合流した。九頭竜湖の湖岸沿いに走るが、ずっと追い越し禁止区間、昨日覗いた道の駅九頭竜には寄らずに走り続ける。日本百名山荒島岳の麓の勝原(かどはら)を過ぎて平野部にかかってからは、表示に従って走る。国道からは5分とあったが、そうは行かない。行き着いた先はこじんまりとした2階建て、その2階に商品が置いてあり、試飲もできるが、私も家内もパスした。折角来たのでやや辛口の白山ブランというのを求める。山ぶどうワインは甘口なのでやめた。
● あまごの宿
昼食はかねて行きたいと思っていた「あまごの宿」にする。初めは「あまごの里」と思っていたので、ナビでは検索できず、ドラッグストアで訊いたら宿と分かり、行き着くことができた。国道416号線に入り、行き止まり直前の横倉に目的の店はあった。広大な敷地、パノラマで見ると、32基もの八角形の養殖施設があり、山の際でもあり、常時清冽な谷水が供給されている。アマゴ(天魚)はサケ科サケ属の渓流魚、日本古来の在来種で、「渓流の女王」と呼ばれている。一方のイワナ(岩魚)はサケ科イワナ属の渓流魚、渓流の最上流に生息している日本古来の在来種で、「渓流の王様」と呼ばれている。
コース料理は6段階あるが、下から2番目の3千円にする。内容はアマゴの造り、塩焼き、天ぷら、甘露煮に、酢の物、山菜、吸い物、御飯で、飲み物は生中と一本義(勝山の酒)の「ひやおろし」にした。家内は川魚は得手でなく、山菜が主の野菜天と細麺の冷しかけにノンアルコール。中ではアマゴの造りが逸品だった。味もさることながら、淡い橙色が素晴らしかった。帰りに宿から3ℓもの美味しい水を土産にもらった。割り水にして下さいとのこと、有り難く頂戴した。
宿の女将では、神戸の人で、毎春一度はここで泊まり、越前甲へ登り、条件が良いと大日山まで行く人がいると話していた。私の美濃禅定道に付き合ってくれる宮川さんもこの間来たと話していた。登るにはここ以外にはない。
帰りは家内の運転、勝山までは戻らず、龍谷交差点を左折し、栃神谷で国道157号線に出て、白峰経由で家へ、途中額谷墓苑の三男の墓へ寄った。
『かつての修験道』:昔修験者が辿った修験道は一般の禅定道とは異なり、長滝白山神社からすぐ裏手の山に登り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て、神鳩社で一般参拝道と合流していた。長い尾根の途中には、神鳩社までに10の宿があったという。
『石徹白の室堂』:「民宿おしたに」の裏手からは、山の斜面の上の方に大師堂の基部が見えている。大師堂へは行かなかったが、その手前に倉庫のような建物があり、これは昔の白山の室堂を模して作られた宿舎だという説明を受けた。
『石徹白から市ノ瀬へ日帰り往復』:まだ旧の白山温泉があった頃、石徹白川で採れた岩魚や天魚(アマゴ)を、笠場峠を越えて白山温泉にまで日帰りで運んでいたという。三ツ谷へ出たというから、六本桧か杉峠越えをしたのだろうか。
『石徹白から室堂へ』:夏場なら、石徹白を朝5時に発てば、室堂には午後3時には着ける。
『室堂詰め』:室堂勤務初めの頃は、5月の春山に入って、秋山の11月まで山に居た。この間石徹白へ下りるのは3回程度。いつか11月に帰る時、ドカ雪で弥陀ヶ原で肩位のこともあった。困ったのは中飯場で車が埋まったことで、あの時はブル先導で下りた。その後鴛谷さんが居るときに、開設期間を現在の10月15日までと決めたそうだ。現在職員が室堂に入るのは、5月の連休と7月1日~10月15日である。
『奥宮の社殿焼失』:以前の奥宮社殿は落雷で全壊した。当時鴛谷さんは室堂に居て、灯油1缶を持って行き、檜の柱と銅版以外は全部社殿のあった場所で燃やしたという。檜の柱4本は後日白山比め神社へ届けたが、それは表札にされて氏子に配られたとかで、大変喜ばれた。現在の奥宮の社殿は、その後に再建されたものである。
『御前峰の方位盤』:以前あった方位盤は、山崎さんが一人で担ぎ上げ、それは語り草になっているが、その方位盤は落雷で無惨な姿になった。これは私も見ている。その後鴛谷さん達が中部電力と掛け合ったところ、再び方位盤を寄進して頂けることになり、出来上がった方位盤も中電のヘリで運んで頂けた。土台も新しく造り替えられた。
『森君のこと』:彼は金大山岳部の後輩で、3月に本隊の白山主脈縦走の激励に白山へ出向いたが、室堂手前の五葉坂で猛烈な吹雪に遭い、現役の一人と共に凍死した。5月になり、かの方位盤の山崎さんから遺体発見の連絡が入り、すぐに現役とOBとで隊を編成し収容した。遭難した場所には碑が置かれていて、鴛谷さんは折に触れてお参りしたと話されていた。坂に向かって右(東)に少し入った場所だったが、今は碑は撤去されて無い。
『コマクサ』:白山のコマクサは大汝峰のガレ場に植栽されているのは知っているが、鴛谷さんでは御前峰の転法輪岩屋下のガレ地にも植わっているという。これにはリキさんが噛んでいるが、鴛谷さんも協力したと言われ、これにはびっくりした。
『オオシラビソとクリ』:鴛谷さんの家の前庭には針葉樹があり、家内に何かと聞かれ、モミじゃないかと言っておいたが、後で鴛谷さんに聞くと、オオシラビソ(アオモリトドマツ)とのこと、52年前に白山から持ち帰った種子を蒔いたもので、ここが育つ限界の標高だとかだった。葉を揉むと、懐かしい独特の香りがした。またその近くにクリも植わっているが、実が熟する頃には、熊が栗の実を食べに来ると話されていた。
『野伏ヶ岳(300名山)』:この300名山には夏道がなく、残雪期にしか登れないので、3月4月は登山者が多い。スキー、ボード、スノーシュー、かんじき等、歩行具はいろいろだが、春の一日、私が案内してゆっくり往復できるので、喜ばれている。
『そのほか』:いろんな話が出たが、お酒の席の部分もあり、またメモしたわけでもないので、定かではない。翌朝も朝食が終わって、囲炉裏を囲んでいろんな話をした。沢山の人の名前が出たが、知っている人もあり、知らない人もあり、様々だ。家内に促されてようやく腰を上げた。帰り際に、奥さんから手製の精巧な可愛い草履のストラップを頂いた。
今日は月曜日、もう道路では工事が始まっていたが、なんとか通してもらった。それにしても、他家の駐車場を通らないと出入りできないというのは、何ともけったいな具合だ。
● 長滝白山神社・白山長瀧寺
昨日通った国道314号線を300m上って桧峠(960m)へ、さらに400m下って国道156号線に出る。そして少し南下すると、道の駅白鳥があり、ここからも歩いて行けるのだったが、知らずにもう少し走って、長良川鉄道はくさんながたき駅裏の駐車場に車を停める。参道を長滝白山神社へ向かう。両脇には、現存の三坊院や古の坊院跡がある。社務所で御朱印を貰い、隣の瀧宝殿を拝観する。ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像(中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩)、その両脇には、やはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造四天王立増(多聞天、広目天、持国天、増長天の四像)が置かれている。境内で往時の隆盛を偲ぶが、今は加賀馬場であった加賀一宮の白山比め神社の方が、はるかに活気がある。
● 白山やまぶどうわいん・白山ワイナリー
国道156号線を更に南下し、白鳥から国道158号線に入る。ここには中部縦貫自動車道が出来ていて、トンネルと高架ループで峠越えをしなくてよいことになっているが、あえて油坂峠(870m)へ向かう。そんな物好きはいないと見えて、会った車は1台のみ、往年の安房峠越えを想う。でも峠を越えると程なく新しい自動車道に合流した。九頭竜湖の湖岸沿いに走るが、ずっと追い越し禁止区間、昨日覗いた道の駅九頭竜には寄らずに走り続ける。日本百名山荒島岳の麓の勝原(かどはら)を過ぎて平野部にかかってからは、表示に従って走る。国道からは5分とあったが、そうは行かない。行き着いた先はこじんまりとした2階建て、その2階に商品が置いてあり、試飲もできるが、私も家内もパスした。折角来たのでやや辛口の白山ブランというのを求める。山ぶどうワインは甘口なのでやめた。
● あまごの宿
昼食はかねて行きたいと思っていた「あまごの宿」にする。初めは「あまごの里」と思っていたので、ナビでは検索できず、ドラッグストアで訊いたら宿と分かり、行き着くことができた。国道416号線に入り、行き止まり直前の横倉に目的の店はあった。広大な敷地、パノラマで見ると、32基もの八角形の養殖施設があり、山の際でもあり、常時清冽な谷水が供給されている。アマゴ(天魚)はサケ科サケ属の渓流魚、日本古来の在来種で、「渓流の女王」と呼ばれている。一方のイワナ(岩魚)はサケ科イワナ属の渓流魚、渓流の最上流に生息している日本古来の在来種で、「渓流の王様」と呼ばれている。
コース料理は6段階あるが、下から2番目の3千円にする。内容はアマゴの造り、塩焼き、天ぷら、甘露煮に、酢の物、山菜、吸い物、御飯で、飲み物は生中と一本義(勝山の酒)の「ひやおろし」にした。家内は川魚は得手でなく、山菜が主の野菜天と細麺の冷しかけにノンアルコール。中ではアマゴの造りが逸品だった。味もさることながら、淡い橙色が素晴らしかった。帰りに宿から3ℓもの美味しい水を土産にもらった。割り水にして下さいとのこと、有り難く頂戴した。
宿の女将では、神戸の人で、毎春一度はここで泊まり、越前甲へ登り、条件が良いと大日山まで行く人がいると話していた。私の美濃禅定道に付き合ってくれる宮川さんもこの間来たと話していた。登るにはここ以外にはない。
帰りは家内の運転、勝山までは戻らず、龍谷交差点を左折し、栃神谷で国道157号線に出て、白峰経由で家へ、途中額谷墓苑の三男の墓へ寄った。
2011年9月15日木曜日
石徹白への旅と話
未だ一度も通ったことのない美濃禅定道を、南竜山荘から下ろうと、7月と8月に挑戦したが、7月は台風6号による強風で、8月は停滞前線による濃霧と降雨で、石徹白へ下りることを断念した。下山した後は石徹白で宿泊することにして、民宿を白鳥観光協会にお願いしたところ、「民宿おしたに」を紹介してもらえた。この時の条件は、下山した際に登山口まで車で迎えに来てもらえることだった。これに対し鴛谷さんからは、①先ず前日の晩に一度連絡下さい。②下る日、別山か、三ノ峰か、最終的には銚子ヶ峰から携帯電話で連絡して下さい。そうすれば時間に合わせて迎えに行きますとのことだった。登山口へ下りてからは、電話は通じませんとも。朝5時に南竜を発てば、1時か2時には下りられるとのこと。ところでこれで二度もドタキャンしたので、一度お礼を兼ねて寄ろうということのなり、家内と9月11日に行くことにした。
● 石徹白へ
私はこれまで石徹白へ行ったことがない。金沢からは勝山回りで3時間ばかりとかで、朝9時に家を出た。白峰から谷峠を越えて勝山へ下り、九頭竜川を上流へ、ダム手前の旧和泉村役場から石徹白川に沿って、国道314号線を上流へ向かって進む。此処から石徹白下在所に至る途中にあった旧和泉村の3集落は廃村になり、石徹白まで部落はない。ただ旧村落の跡地は整備されてキャンプ場になっていた。途中から狭い峡谷沿いの一車線の道になる。かなり走って道路が広くなり、山間の峡谷から開けた明るい山地になり、家が点在してくると、そこが石徹白だった。石徹白は40年位前は福井県大野郡石徹白村だったが、昭和の大合併で岐阜県に越県合併し、現在は郡上市白鳥町石徹白となっている。
● 石徹白の大杉
朝は上天気だったのに、石徹白へ着いた頃には曇ってきて、雨もパラついてきた。今度も雨かと気が滅入ったが、とにかく石徹白道の登山口へ向かうことに。上在所の白山中居神社を過ぎると道は狭くなり一車線になる。ここから登山口までは6kmの道のり、途中10台位の車と交差する。登山口には、乗用車が10台位とマイクロバスが1台、車の人皆さん銚子ヶ峰まで行ったとか、バスには運転手と客が2人ばかり残っていて、皆が帰るまで待つとか。雨が降ってきたが、ここまで来たからには、大杉へは雨でも出かけようと、山スタイルに着替え、靴も山靴に履き替えた。石段は420段、段差20cmとすれば84mの高度差、10分程度の登り、この程度なら家内も行くというので一緒に登ることに。この登山口には休憩舎もトイレもあり、水場もある。また休憩舎の脇にはスキーのストックが沢山置いてあり、家内は運転手の方に勧められたとかで、ストックを2本持っていた。その方がよい。私は何時ものステッキである。かなり急な石段、石段は丸い石で組んであるので、雨で滑る。距離は340m、丁度10分で大杉に着いた。家内は歩くと浮腫が出るとかで全く歩いていないが、ここは時間も短く、本人は大丈夫と言っている。幹周り14.5m、樹高25m、樹齢1,800年といわれる国指定の特別天然記念物の大杉である。幹の半分は枯れて、白い樹肌を見せているが、残りでは葉が繁っている。ここは標高1,000mの小さな平になっていて大杉平というそうだ。ここには美濃禅定道の今清水社があった場所でもある。ここから銚子ヶ峰までは5km、ざっと900mの登り、上り3時間、下り2時間である。
● 白山中居神社
登山口から上在所に戻る。ここには20棟ばかりの家があるが、今は常住している人はいないと聞いたが、どうなのだろう。鳥居脇に駐車して参道を本殿へと向かう。大きな川石を組んだ段を下り、長瀧川を渡り、再び丸い川石を組んだ段を上ると拝殿に出る。八千余坪の境内は鬱蒼とした杉の老樹の森、中でも「浄安杉」は目通り12.1mで、この森とともに岐阜県の指定天然記念物になっている。そして一番高みには本殿があり、御祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神で、祀られたのは景行天皇12年(83)とのことである。その後元正天皇の養老年間(717-724)に、泰澄大師が白山開山の折に社殿を修復、社域を拡張し、神仏混交となった。そして江戸時代には、神職に関わる人は二百余戸にも達したという。その後明治になっての神仏分離では、仏像などは中在所に建立された「大師堂」に安置された。また鴛谷さんでは、神宮・神社の参道で、途中で川を渡るのは、日本広しと言えども、伊勢神宮とここ白山中居神社のみとかである。
● 満天の湯
今晩泊まる宿の主人は法事とかで、3時半過ぎにお出で下さいとのこと、神社を出たのが午後2時過ぎ、それで宿の主人も推奨の「満天の湯」へ向かうことにする。この天然温泉は国道314号線の桧峠近くにあり、標高は1,000mばかり、泉質はナトリウムー炭酸水素塩温泉で、源泉温度44.0℃、湧出量は134ℓ/分、本館には露天風呂、内風呂、サウナがあるほか、個室の露天風呂が10室ある。ここで1時間ばかり過ごす。土日祝日は午後9時まで営業しているので、夜は満天の星を見ながらの入浴も可能である。
● 民宿おしたに
午後4時に今宵の宿「民宿おしたに」へ向かう。鴛谷さんからは、水道工事をしているので迂回しなければならず、もし分からない時は連絡して下さいとのことだったが、日曜は工事をしてなくて、頂いた地図どおりに行くことができた。
主人の鴛谷さんは、白山室堂の厨房に33年間おいでたとのこと、沢山の方をご存知で家の前で初にお会いしたとき、木村先生には特に懇意にしてもらいましたという話が飛び出た。その木村さんは実は私の叔父ですと話したら、びっくりされていた。外での話しに花が咲いての立ち話、話題が次から次へと、奥さんに促されて漸く中へ入った。来週の土日は、恒例の室堂友の会の集まり(室堂職員と金大医学部の白山診療班で構成)がここでであるとか、20人ばかりがお集まり、私の知っている人も何人か入っている。
● 鴛谷さんから聞いた話
以下に聞いたことなどを、思いつくままに記してみる。
『美濃馬場』:平安時代の天長9年(832)に、白山には三つの馬場(加賀・越前・美濃)が開かれ、加賀馬場・白山中宮、越前馬場・平泉寺と並んで、美濃馬場・白山中宮長滝寺は、長滝から石徹白の白山中居神社を経て、白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。その後白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、石徹白の地も重要性を増し、最盛期には「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかし蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは失われつつあったが、それでも文政8年(1825)には再建後五百年を経た大講堂が改築され、盛大な上棟遷座法要が営まれた。だが、明治維新の際に発せられた神仏分離令により、それまでの白山中宮長滝寺は解体され、大御前・別山・大汝と他の末社は長滝白山神社に、大講堂と諸堂各坊は白山長瀧寺(ちょうりゅうじ)となった。ところが明治32年(1899)に近隣の民家から出た火災で、これら本殿や大講堂をはじめ大部分が灰燼に帰してしまった。そしてその後、長滝白山神社の本殿は大正8年(1919)に、白山長瀧寺は昭和11年(1936)に焼失した大講堂跡に規模を小さくして本堂が再建され、現在に至っている。
『大杉への参拝道近道』:現在の石徹白道の登山口へ行く林道が完成されたのは40年位前で、その折に石徹白の大杉までの420段の階段が新設された。それまでは白山中居神社の裏手から尾根通しに参拝道があり、最初に渡る谷の初河谷、次いで倉谷を渡り、大杉に至った。今この径は毎年7月半ば過ぎに、石徹白の有志により、刈り分けされている。
● 石徹白へ
私はこれまで石徹白へ行ったことがない。金沢からは勝山回りで3時間ばかりとかで、朝9時に家を出た。白峰から谷峠を越えて勝山へ下り、九頭竜川を上流へ、ダム手前の旧和泉村役場から石徹白川に沿って、国道314号線を上流へ向かって進む。此処から石徹白下在所に至る途中にあった旧和泉村の3集落は廃村になり、石徹白まで部落はない。ただ旧村落の跡地は整備されてキャンプ場になっていた。途中から狭い峡谷沿いの一車線の道になる。かなり走って道路が広くなり、山間の峡谷から開けた明るい山地になり、家が点在してくると、そこが石徹白だった。石徹白は40年位前は福井県大野郡石徹白村だったが、昭和の大合併で岐阜県に越県合併し、現在は郡上市白鳥町石徹白となっている。
● 石徹白の大杉
朝は上天気だったのに、石徹白へ着いた頃には曇ってきて、雨もパラついてきた。今度も雨かと気が滅入ったが、とにかく石徹白道の登山口へ向かうことに。上在所の白山中居神社を過ぎると道は狭くなり一車線になる。ここから登山口までは6kmの道のり、途中10台位の車と交差する。登山口には、乗用車が10台位とマイクロバスが1台、車の人皆さん銚子ヶ峰まで行ったとか、バスには運転手と客が2人ばかり残っていて、皆が帰るまで待つとか。雨が降ってきたが、ここまで来たからには、大杉へは雨でも出かけようと、山スタイルに着替え、靴も山靴に履き替えた。石段は420段、段差20cmとすれば84mの高度差、10分程度の登り、この程度なら家内も行くというので一緒に登ることに。この登山口には休憩舎もトイレもあり、水場もある。また休憩舎の脇にはスキーのストックが沢山置いてあり、家内は運転手の方に勧められたとかで、ストックを2本持っていた。その方がよい。私は何時ものステッキである。かなり急な石段、石段は丸い石で組んであるので、雨で滑る。距離は340m、丁度10分で大杉に着いた。家内は歩くと浮腫が出るとかで全く歩いていないが、ここは時間も短く、本人は大丈夫と言っている。幹周り14.5m、樹高25m、樹齢1,800年といわれる国指定の特別天然記念物の大杉である。幹の半分は枯れて、白い樹肌を見せているが、残りでは葉が繁っている。ここは標高1,000mの小さな平になっていて大杉平というそうだ。ここには美濃禅定道の今清水社があった場所でもある。ここから銚子ヶ峰までは5km、ざっと900mの登り、上り3時間、下り2時間である。
● 白山中居神社
登山口から上在所に戻る。ここには20棟ばかりの家があるが、今は常住している人はいないと聞いたが、どうなのだろう。鳥居脇に駐車して参道を本殿へと向かう。大きな川石を組んだ段を下り、長瀧川を渡り、再び丸い川石を組んだ段を上ると拝殿に出る。八千余坪の境内は鬱蒼とした杉の老樹の森、中でも「浄安杉」は目通り12.1mで、この森とともに岐阜県の指定天然記念物になっている。そして一番高みには本殿があり、御祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神で、祀られたのは景行天皇12年(83)とのことである。その後元正天皇の養老年間(717-724)に、泰澄大師が白山開山の折に社殿を修復、社域を拡張し、神仏混交となった。そして江戸時代には、神職に関わる人は二百余戸にも達したという。その後明治になっての神仏分離では、仏像などは中在所に建立された「大師堂」に安置された。また鴛谷さんでは、神宮・神社の参道で、途中で川を渡るのは、日本広しと言えども、伊勢神宮とここ白山中居神社のみとかである。
● 満天の湯
今晩泊まる宿の主人は法事とかで、3時半過ぎにお出で下さいとのこと、神社を出たのが午後2時過ぎ、それで宿の主人も推奨の「満天の湯」へ向かうことにする。この天然温泉は国道314号線の桧峠近くにあり、標高は1,000mばかり、泉質はナトリウムー炭酸水素塩温泉で、源泉温度44.0℃、湧出量は134ℓ/分、本館には露天風呂、内風呂、サウナがあるほか、個室の露天風呂が10室ある。ここで1時間ばかり過ごす。土日祝日は午後9時まで営業しているので、夜は満天の星を見ながらの入浴も可能である。
● 民宿おしたに
午後4時に今宵の宿「民宿おしたに」へ向かう。鴛谷さんからは、水道工事をしているので迂回しなければならず、もし分からない時は連絡して下さいとのことだったが、日曜は工事をしてなくて、頂いた地図どおりに行くことができた。
主人の鴛谷さんは、白山室堂の厨房に33年間おいでたとのこと、沢山の方をご存知で家の前で初にお会いしたとき、木村先生には特に懇意にしてもらいましたという話が飛び出た。その木村さんは実は私の叔父ですと話したら、びっくりされていた。外での話しに花が咲いての立ち話、話題が次から次へと、奥さんに促されて漸く中へ入った。来週の土日は、恒例の室堂友の会の集まり(室堂職員と金大医学部の白山診療班で構成)がここでであるとか、20人ばかりがお集まり、私の知っている人も何人か入っている。
● 鴛谷さんから聞いた話
以下に聞いたことなどを、思いつくままに記してみる。
『美濃馬場』:平安時代の天長9年(832)に、白山には三つの馬場(加賀・越前・美濃)が開かれ、加賀馬場・白山中宮、越前馬場・平泉寺と並んで、美濃馬場・白山中宮長滝寺は、長滝から石徹白の白山中居神社を経て、白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。その後白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、石徹白の地も重要性を増し、最盛期には「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかし蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは失われつつあったが、それでも文政8年(1825)には再建後五百年を経た大講堂が改築され、盛大な上棟遷座法要が営まれた。だが、明治維新の際に発せられた神仏分離令により、それまでの白山中宮長滝寺は解体され、大御前・別山・大汝と他の末社は長滝白山神社に、大講堂と諸堂各坊は白山長瀧寺(ちょうりゅうじ)となった。ところが明治32年(1899)に近隣の民家から出た火災で、これら本殿や大講堂をはじめ大部分が灰燼に帰してしまった。そしてその後、長滝白山神社の本殿は大正8年(1919)に、白山長瀧寺は昭和11年(1936)に焼失した大講堂跡に規模を小さくして本堂が再建され、現在に至っている。
『大杉への参拝道近道』:現在の石徹白道の登山口へ行く林道が完成されたのは40年位前で、その折に石徹白の大杉までの420段の階段が新設された。それまでは白山中居神社の裏手から尾根通しに参拝道があり、最初に渡る谷の初河谷、次いで倉谷を渡り、大杉に至った。今この径は毎年7月半ば過ぎに、石徹白の有志により、刈り分けされている。
2011年9月8日木曜日
大型ノロノロ台風来襲の日、展覧会とそばと音楽会(その2)
● OEK第310回定期公演(ファンタジー・シリーズ)
本来この第310回定期公演は、11月3日にショパン作曲ダグラス編曲のバレー「レ・シルフィールド(風の精)」が予定されていたが、福島原発の事故の煽りで来日中止となり、この時期に来日予定だった「ウィーンの歌姫」こと中嶋彰子(ソプラノ)とマティアス・フレイ(テノール)とピアノ伴奏ニルス・ムースの演奏会に変更となった。特にこのバレエ公演は期待していて、ぜひ観たかったのだが、来日中止ともなれば、どうしようもない。原発事故は思わぬところにも重い影響をもたらしている。
さてこの日はニルス・ムースがOEKを指揮した。この指揮者の名を聞くのは初めてだが、彼はデンマーク王立音楽院、カリフォルニア州立大学で指揮を学び、1992~1999年まで、インスブルック・チロル歌劇場で第1指揮者を、1999~2003年まではウィーン・フォルクスオーパーの正指揮者を勤め、ベルリン交響楽団でも客演指揮をしている。
ソプラノの中嶋彰子は1990年の全豪オペラ・コンクールに優勝し、シドニーとメルボルンの両歌劇場と契約、その後1992年のヨーロッパ国際放送連合年間最優秀賞を受賞、1999年にはドイツ・オペルンベルト誌年間最優秀新人賞を受賞し、同年ウィーン・フォルクスオーパーと専属契約している。これまでオペラ以外でも、メータ、マゼール、小澤征爾らの指揮で各国のオーケストラと共演している。
テノールのマティアス・フレイはミュンヘン工科大学で建築を学んだ後、ウィーン・コンセルトヴァトリウム私立音楽大学で声楽を学び、現在も研鑽を積んでいる若手である。
この日のプログラムはウィーンにまつわる楽しい音楽、冒頭はシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、太った体躯に似合わず軽やかに、しかもダイナミックな指揮をして楽しませてくれた。この後、中嶋さんのインタビューでは英語で会話、彼女の英語は実に流暢で、ネイティブそのもの、指揮者は今日の曲目はみな手の内、皆さんと共に大いに楽しみましょうと仰ってますと伝えてくれた。
次にテノールでモーツアルトの歌劇『コシ・ファン・テゥッテ』から「愛しい人の愛のそよ風は」が歌われたが、声は通るが、未だ歌い方は若いなあという印象を受けた。続いて中嶋彰子がモーツアルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』から「何というふしだらな~あの人でなしは私を欺き」を歌った。聴いて、これは凄いと思った。今、ヨーロッパを席捲しているウィーンの歌姫と言われているというが、これは掛け値なしで本当だと思った。イタリア語の綺麗な発音は勿論のこと、歌唱力、声量、声の艶、どれも卓越していて、実に素晴らしかった。久しぶりに感動した。そして小柄ながら妖艶、しかも演技力も抜群だという。
両名が歌っている間、指揮者は指揮をしながら歌を口ずさんでいるような仕草、やはりもうこれらは手の内なのだろう。だから余裕の指揮振りだ。次いでシュ-ベルトの歌劇『ロザムンデ』から間奏曲第3番アンダンティーノ、間奏曲の中では最もポピュラーな曲、楽しく聴けた。この後中嶋さんはマティアス・フレイにもインタビュー、今度はドイツ語でのやり取り、彼女は英語、ドイツ語、イタリア語に堪能とか、素敵な才女である。
次いでニコライの『ウィンザーの陽気な女房達』から「さあ早くここへ、才気、陽気な移り気」、今度は歌詞はドイツ語、実に聴いていて楽しい歌い手だ。好色漢をやっつける場面が彷彿とする艶のある歌い方、さすがである。前半の最後はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番、3曲ある中では最もよく演奏される曲、指揮者が指揮を楽しんでいる様子が伝わってくる。
休憩を挟んでの後半はウィーンの音楽、冒頭はモーツアルトの歌劇「魔笛」の序曲、筋書きがハッピーエンドだと、序曲も明るく、楽しく聴ける。またスコアなしで指揮に専念できるということは、実に素晴らしいの一言に尽きる。
次いでテノールで、シュトラウスⅡ世の喜歌劇『ヴェネツィアの一夜』から「来たれ!ゴンドラ」、彼は3階の客席から歌っているのだが、声は音楽堂全体に響き渡って、すごく声量があるように聴こえた。音楽堂の構造によるものなのか、少なくとも舞台で歌っているのとは全く別人のような響きだった。そして済んだ後、あっという間に舞台まで下りてきたのは驚きで、この時の拍手は凄かった。
そして次はソプラノで、レハールの喜歌劇『メリー・ウィドウ』から、あの有名な「ヴィリアの歌」、情感が前面に出た歌いに、場面の情景が目に浮かび、目頭が熱くなってきて涙が落ちそうになった。こんなに心を込めて歌い上げるとは、大した歌手だ。終わって再び指揮者とお喋りをする。この日は聴衆の入りが8割くらいで、舞台から見ると櫛の歯が抜けたように見えるだろうに、来場者に謝意を表するなど、なかなかできることではない。ただ、彼女も日本へは公演の時くらいしか帰れなく、日本語とは疎遠になっているからなのだろうけれど、次に演奏される "Kaiserwalzer"の "Kaiser”は日本語では何というのと聴衆に聞いたのは、おとぼけに映った。これは後でシューベルトの歌曲集でも、同じような聞き方をされたが、本当なのかなと訝った。それは日本語訳では「美しき水車小屋の娘」として知られている歌曲集のことである。
そしてシュトラウスⅡ世の「皇帝円舞曲」、シュトラウスのワルツの中でも大変よく演奏される曲だ。次いでデュエットで、ジーツィンスキーの「ウィーン、我が夢の街」、やはり彼女がリードする。でも息の合った、踊りも交えての二重唱は、見ていて聴いていて楽しかった。終わって、彼は楽屋からシャンパンの中瓶を持ち出してきて、勢いよく栓を抜き、彼女が持つ盆のグラスに注ぎ、どうするのかと思ったら、客席へ下りて客に提供、7人が恩恵に浴していた。これは次に演奏されるロンビの「シャンパン・ギャロップ」の前座だった。
彼女の演目最後の曲は、レハールの喜歌劇『ロシアの皇太子』から「誰かが来るでしょう」、これも情感がこもった歌いだった。そしてオーケストラの酉は、シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と稲妻」、パーカッションの乗りがよく、実に凄い盛り上がりだった。今日の演奏曲目はすべて十八番なのだろうけれど、最後にこの曲を持ってきたのは、やはり意図してのことだったに違いない。楽しかっただけに、もう少し聴衆が多かったらと悔やまれる公演だった。
一通り公演が終わって、独唱者二人と指揮者が何回か挨拶に出た。聴衆はアンコールを期待してか、拍手は鳴り止まない。時間はもう30分近くもオーバーしている。すると彼女が、明後日にここの邦楽ホールで、指揮者のニルス・ムースのピアノ伴奏で、私達二人のデュオ・リサイタル「金沢歌曲の夕べ」をしますので、皆さん聴きに来て下さいと。そして彼女はアンコールに日本の唄を歌った。曲名は知らないが知っている歌で、「恋はやさし、野辺の花よ、」を歌った。ところが外国人が歌っているような、日本語としては違和感のある感じの歌い方になっているのには驚いた。日本語を喋っている分には全く違和感がないのに、こと歌になると違っていた。また指揮者も公演はすべてスコアなしだったのに、この歌ばかりはそうも行かないらしく、スコアを見ながらの指揮だった。終わってコンサートマスターが次のアンコールのパートを出したので、もう1曲あるのかなあと思ったが、時間がかなり超過していたこともあり、3回挨拶の後は、サヨナラをして公演は終わった。
[閑話休題]
こうして金沢では、9月3日は台風の影響も少なく、無事に過ぎたが、熊野川流域では、未曾有の降雨に伴う土砂災害と洪水とで、未曾有の甚大な被害が出た。また死者と行方不明者は近畿南部を中心に百名を超え、台風被害としては、平成に入っての最悪の状況となっているとか。死者・行方不明者の多くは、急峻な山間での深層崩壊や土石流による家屋の崩壊や流出、また土石流の河川への堆積による流路の変更による家屋の流出等で、特に奈良県十津川流域は、一本しかない道路の国道168号線が、何箇所も土砂堆積や決壊、橋梁の流出で、現地へ入ること自体難しく、かつ電気、通信も途絶している。現在水、食料は自衛隊ヘリによる供給に頼らざるを得ない状況とか、総力挙げての1日も早いライフラインの復旧が望まれる。
本来この第310回定期公演は、11月3日にショパン作曲ダグラス編曲のバレー「レ・シルフィールド(風の精)」が予定されていたが、福島原発の事故の煽りで来日中止となり、この時期に来日予定だった「ウィーンの歌姫」こと中嶋彰子(ソプラノ)とマティアス・フレイ(テノール)とピアノ伴奏ニルス・ムースの演奏会に変更となった。特にこのバレエ公演は期待していて、ぜひ観たかったのだが、来日中止ともなれば、どうしようもない。原発事故は思わぬところにも重い影響をもたらしている。
さてこの日はニルス・ムースがOEKを指揮した。この指揮者の名を聞くのは初めてだが、彼はデンマーク王立音楽院、カリフォルニア州立大学で指揮を学び、1992~1999年まで、インスブルック・チロル歌劇場で第1指揮者を、1999~2003年まではウィーン・フォルクスオーパーの正指揮者を勤め、ベルリン交響楽団でも客演指揮をしている。
ソプラノの中嶋彰子は1990年の全豪オペラ・コンクールに優勝し、シドニーとメルボルンの両歌劇場と契約、その後1992年のヨーロッパ国際放送連合年間最優秀賞を受賞、1999年にはドイツ・オペルンベルト誌年間最優秀新人賞を受賞し、同年ウィーン・フォルクスオーパーと専属契約している。これまでオペラ以外でも、メータ、マゼール、小澤征爾らの指揮で各国のオーケストラと共演している。
テノールのマティアス・フレイはミュンヘン工科大学で建築を学んだ後、ウィーン・コンセルトヴァトリウム私立音楽大学で声楽を学び、現在も研鑽を積んでいる若手である。
この日のプログラムはウィーンにまつわる楽しい音楽、冒頭はシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、太った体躯に似合わず軽やかに、しかもダイナミックな指揮をして楽しませてくれた。この後、中嶋さんのインタビューでは英語で会話、彼女の英語は実に流暢で、ネイティブそのもの、指揮者は今日の曲目はみな手の内、皆さんと共に大いに楽しみましょうと仰ってますと伝えてくれた。
次にテノールでモーツアルトの歌劇『コシ・ファン・テゥッテ』から「愛しい人の愛のそよ風は」が歌われたが、声は通るが、未だ歌い方は若いなあという印象を受けた。続いて中嶋彰子がモーツアルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』から「何というふしだらな~あの人でなしは私を欺き」を歌った。聴いて、これは凄いと思った。今、ヨーロッパを席捲しているウィーンの歌姫と言われているというが、これは掛け値なしで本当だと思った。イタリア語の綺麗な発音は勿論のこと、歌唱力、声量、声の艶、どれも卓越していて、実に素晴らしかった。久しぶりに感動した。そして小柄ながら妖艶、しかも演技力も抜群だという。
両名が歌っている間、指揮者は指揮をしながら歌を口ずさんでいるような仕草、やはりもうこれらは手の内なのだろう。だから余裕の指揮振りだ。次いでシュ-ベルトの歌劇『ロザムンデ』から間奏曲第3番アンダンティーノ、間奏曲の中では最もポピュラーな曲、楽しく聴けた。この後中嶋さんはマティアス・フレイにもインタビュー、今度はドイツ語でのやり取り、彼女は英語、ドイツ語、イタリア語に堪能とか、素敵な才女である。
次いでニコライの『ウィンザーの陽気な女房達』から「さあ早くここへ、才気、陽気な移り気」、今度は歌詞はドイツ語、実に聴いていて楽しい歌い手だ。好色漢をやっつける場面が彷彿とする艶のある歌い方、さすがである。前半の最後はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番、3曲ある中では最もよく演奏される曲、指揮者が指揮を楽しんでいる様子が伝わってくる。
休憩を挟んでの後半はウィーンの音楽、冒頭はモーツアルトの歌劇「魔笛」の序曲、筋書きがハッピーエンドだと、序曲も明るく、楽しく聴ける。またスコアなしで指揮に専念できるということは、実に素晴らしいの一言に尽きる。
次いでテノールで、シュトラウスⅡ世の喜歌劇『ヴェネツィアの一夜』から「来たれ!ゴンドラ」、彼は3階の客席から歌っているのだが、声は音楽堂全体に響き渡って、すごく声量があるように聴こえた。音楽堂の構造によるものなのか、少なくとも舞台で歌っているのとは全く別人のような響きだった。そして済んだ後、あっという間に舞台まで下りてきたのは驚きで、この時の拍手は凄かった。
そして次はソプラノで、レハールの喜歌劇『メリー・ウィドウ』から、あの有名な「ヴィリアの歌」、情感が前面に出た歌いに、場面の情景が目に浮かび、目頭が熱くなってきて涙が落ちそうになった。こんなに心を込めて歌い上げるとは、大した歌手だ。終わって再び指揮者とお喋りをする。この日は聴衆の入りが8割くらいで、舞台から見ると櫛の歯が抜けたように見えるだろうに、来場者に謝意を表するなど、なかなかできることではない。ただ、彼女も日本へは公演の時くらいしか帰れなく、日本語とは疎遠になっているからなのだろうけれど、次に演奏される "Kaiserwalzer"の "Kaiser”は日本語では何というのと聴衆に聞いたのは、おとぼけに映った。これは後でシューベルトの歌曲集でも、同じような聞き方をされたが、本当なのかなと訝った。それは日本語訳では「美しき水車小屋の娘」として知られている歌曲集のことである。
そしてシュトラウスⅡ世の「皇帝円舞曲」、シュトラウスのワルツの中でも大変よく演奏される曲だ。次いでデュエットで、ジーツィンスキーの「ウィーン、我が夢の街」、やはり彼女がリードする。でも息の合った、踊りも交えての二重唱は、見ていて聴いていて楽しかった。終わって、彼は楽屋からシャンパンの中瓶を持ち出してきて、勢いよく栓を抜き、彼女が持つ盆のグラスに注ぎ、どうするのかと思ったら、客席へ下りて客に提供、7人が恩恵に浴していた。これは次に演奏されるロンビの「シャンパン・ギャロップ」の前座だった。
彼女の演目最後の曲は、レハールの喜歌劇『ロシアの皇太子』から「誰かが来るでしょう」、これも情感がこもった歌いだった。そしてオーケストラの酉は、シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と稲妻」、パーカッションの乗りがよく、実に凄い盛り上がりだった。今日の演奏曲目はすべて十八番なのだろうけれど、最後にこの曲を持ってきたのは、やはり意図してのことだったに違いない。楽しかっただけに、もう少し聴衆が多かったらと悔やまれる公演だった。
一通り公演が終わって、独唱者二人と指揮者が何回か挨拶に出た。聴衆はアンコールを期待してか、拍手は鳴り止まない。時間はもう30分近くもオーバーしている。すると彼女が、明後日にここの邦楽ホールで、指揮者のニルス・ムースのピアノ伴奏で、私達二人のデュオ・リサイタル「金沢歌曲の夕べ」をしますので、皆さん聴きに来て下さいと。そして彼女はアンコールに日本の唄を歌った。曲名は知らないが知っている歌で、「恋はやさし、野辺の花よ、」を歌った。ところが外国人が歌っているような、日本語としては違和感のある感じの歌い方になっているのには驚いた。日本語を喋っている分には全く違和感がないのに、こと歌になると違っていた。また指揮者も公演はすべてスコアなしだったのに、この歌ばかりはそうも行かないらしく、スコアを見ながらの指揮だった。終わってコンサートマスターが次のアンコールのパートを出したので、もう1曲あるのかなあと思ったが、時間がかなり超過していたこともあり、3回挨拶の後は、サヨナラをして公演は終わった。
[閑話休題]
こうして金沢では、9月3日は台風の影響も少なく、無事に過ぎたが、熊野川流域では、未曾有の降雨に伴う土砂災害と洪水とで、未曾有の甚大な被害が出た。また死者と行方不明者は近畿南部を中心に百名を超え、台風被害としては、平成に入っての最悪の状況となっているとか。死者・行方不明者の多くは、急峻な山間での深層崩壊や土石流による家屋の崩壊や流出、また土石流の河川への堆積による流路の変更による家屋の流出等で、特に奈良県十津川流域は、一本しかない道路の国道168号線が、何箇所も土砂堆積や決壊、橋梁の流出で、現地へ入ること自体難しく、かつ電気、通信も途絶している。現在水、食料は自衛隊ヘリによる供給に頼らざるを得ない状況とか、総力挙げての1日も早いライフラインの復旧が望まれる。
2011年9月7日水曜日
ノロノロ大型台風来襲の日、展覧会とそばと音楽会と(その1)
● ノロノロ大型雨台風
平成23年(2011)8月下旬、フィリピン東方海上に台風11号、小笠原南方洋上に台風12号が発生していた。いずれも当初は西へ移動していて、一時は両台風が揃って日本へ訪れるのではという危惧があった。ところが11号は向きが北西に変わったものの、更に北寄りに進路を取ることなく、台湾から中国へと行き、熱低になった。一方の12号は大型に発達し、目の径も50kmとバカでかい台風に成長した。でも進路は相変わらず西もしくは西北西、しかしいつ北方向へ転向するかが問題だった。当初の予報では、石川県への影響は、2日には通り抜けて、3日には天気は回復するとのことだった。ところが後々の弁明では、北太平洋とモンゴルに高気圧があって、行く手を阻まれ、かつ偏西風の流れが悪くて北へ転向できず、四国南洋上でようやく北北西に向きを変えたと。でもこの時暴風域は径500km、強風域は径1,200kmもの大型台風に、中心気圧も960hPaに発達していた。しかも速度は10~15km/hと自転車並み、そのことでこの台風はとんでもない土産をもたらすことになった。
紀伊半島の中央に位置する紀伊山地のうち、奈良県南部を南北に大峰山脈が、それに平行して三重県との県境には台高山脈が走り、前者を源として十津川(上流は天ノ川)が、後者を源として北山川が流れ、いずれの谷も深く、谷筋にはダムが多い。十津川は奈良県から和歌山県へ入り新宮市宮井で、北山川は奈良県から三重・和歌山の県境から「トロ峡」を経て宮井で十津川と合流し、和歌山・三重県境を熊野川(旧名新宮川)となって太平洋の熊野灘に注ぐ。このうち台高山脈の盟主大台ヶ原山は、日本で最も降雨量が多い、世界でも有数の多雨地域として知られている場所である。
台風の四国への上陸は9月3日だったが、南洋上にあるときから進行方向東側に、南から反時計回りの大きな温かい流れがあり、かつ北太平洋の高気圧の縁からも同様に時計回りに吹き出す流れがあり、この二つがぶつかり合って、台高山脈を中心に史上空前の降雨量が記録された。大台ヶ原山の東に位置する三重県大台町(旧宮川村)と西側に位置する上北山村では特に顕著で、後者では年間降雨量2,700mmのうちの2/3にあたる1,800mmが5日間で降ったという。大台町でも1,600mm、十津川村でも1,200mmが降った。そのため山間部では降雨による土砂災害、下流の熊野川では堤防決壊による浸水被害が起きた。この台風の特徴は、大型で速度が遅く、風害よりも台風の進行方向東側の雨雲の異常な発達による猛烈な降雨、時に時間当たりにして100mmを超す降雨が長時間続いたことによる。そして、この降雨は台風が日本海へ抜けた4日にも更に続いたという。被害は近畿南部で特に甚大であった。
● 金沢賛歌!大滝由季生大作展 時空を見つめて大地に立つ
表記展覧会が9月3日(土)~8日(木)の6日間、北國新聞交流ホールで開催されるという案内を大滝さんから頂いた。丁度台風が石川県へ最接近するという情報があり、心配していたが、台風はこの日の未明に高知県へ上陸したとか、金沢の天気は曇り、でも降水確率は50%ということで雨靴を履き傘を持って家を出た。当初の計画では、11時に「やまぎし」へ行きそばを食い、歩いて北國新聞社へ行き、とってかえして音楽堂に戻り、午後3時から今シーズン初のOEK第310回定期公演を聴くことにしていた。バス停は我が家の前にあり、10:19の金沢駅行きに乗る予定をしていた。バスが来て乗ったものの、このバスは遅れてきた小立野行きだった。仕方なく香林坊で下りて、北國新聞社に向かうことに。
交流ホールは赤羽ホールの1階にあり、大滝さんほか20人ばかりの方々が見えていた。大滝さんは4年前に探蕎会で講演されたが、それによると、昭和40年(1965)に文化勲章を授与された田崎広助さんに師事され、薫陶を受けられた。大滝さんのその頃の絵の題材は「山」が多く、これは師の影響を受けてのことだったと思われる。ただ大滝さんの弁では、その絵の中には必ず生活の営みが見えることが大前提、だから純粋に山のみを描いた絵は大滝さんにはない。ずっと一水会に所属されていたが、会で大滝さんの絵を探すには山がターゲットだった。ところが師から、自分が最も愛している郷里の山河や風土を描くようにと言われ、アトリエが寺町のW坂上の高台にあることから、犀川を挟んで見える金沢の町並み、犀川上流に見える医王山や戸室山、そして金沢の街角など、金沢を題材とした作品に取り組まれるようになった。5年前にはそれまで描き続けてこられた「大作百二十点」が金沢21世紀美術館市民ギャラリーで開催されたが、今回は「金沢賛歌」と題して、金沢やその街角の風景を題材にした300号や200号の大作を中心とした絵の展示が主である。以下に展示された作品の名称と制作年をメモした。順は制作年順である。
交流ホールの入り口には薔薇をあしらった画が4点置いてあった。 (1)「薔薇」(2007)6号F. (2)「薔薇の饗宴」(2008)120号. (3)「窓辺の薔薇」(2008)10号F. (4)「白い壷のばら」(2009)8号F.
交流ホールの展示作品: (1)「鳥小屋のある露地」 (1965)50号F. (2)「屋台のある街角」 (1966)80号F. (3)「辰巳用水の雪」 (1967)50号F. (4)「ポスターの前」 (1967)100号F. (5)「犀川夕照」 (1987)100号P. (6)「桜坂の月」 (1989)50号F. (7)「けむる医王」 (1991)100号F. (8)「戸室への道」 (1997)100号F. (9)「五月の高台」 (2001)100号F. (10)「神苑」 (2002)50号F. (11)「浅野川の雪」 (2003)100号F. (12)「戸室山と街と」 (2005)150号F. (13)「県都悠久」 (2005)300号P. (14)「画室の桜」 (2008)50号F. (15)「街道筋の老舗」 (2006)60号F. (16)「初春の賑わい広場」 (2007)60号F. (17)「画室の窓」 (2008)50号F. (18)「杜の都」 (2008)300号P. (19)「いいね金沢」 (2009)60号F. (20)「森の都に虹」 (2009)200号P. (21)「坂の上のかざみどり」 (2010)60号F. (22)「六月の涼風」 (2011)60号F. (23)「卯辰山の華の宴」 (2011)300号P. 以上23点。
この展示には、半世紀近く前の初期の作品も出品されているが、当初はモノトーンであった画が、次第に色彩が華やかになり、300号という大作でも細部にわたって筆を入れられ、金沢のエッセンスが凝縮されているというような印象を受ける。そしてここ3年位前からは、絵の具を盛る技法を用いることにより、より立体的な感覚を持たせた豪華な作品に仕上がっている。最後の300号の作品は、ミレー友好協会展での受賞作である。
大滝さんは昭和4年(1929)生まれの81歳、これからも絵を描き続けると、そして特に変貌していく金沢の古き良さを画に残しておきたいと仰る。現在、石川県美術文化協会理事・日展会友・元一水会会員(平成20年退会)・ミレー友好協会委員である。
● 蕎麦「やまぎし」
開店は11時半なのだが、いつも11時に入るようにしている。この時間だとまだお客は来ておらず、確実にジッツできるからである。新聞社を出たのが11:10、すぐにバスに飛び乗って「やまぎし」へ、11:25だった。バスを降りたら前の駐車場は満タン、これは遅かったか、もし一杯なら諦めようと思って入ったら、私が最初だった。もっとも開店時間には席は埋まってしまった。久しぶりである。券売機には焼酎、お酒、ビール、ノンアルコールの表示もあるようになっていて、こんなオプションも付加できるのだなと感心する。焼酎(100ml)2杯と「粗挽き大盛り」を求めた。満席の皆さんも粗挽きばかりなのには驚いた。奥さんはこれまでは水曜のみのお出ましの筈なのにおいでるので聞くと、開店時からおいでた女の方が辞められ、代わりの方の応援だとか。この焼酎には粗挽きが実に似合う。お客さんは大概30分程で回転するが、私は45分位だ。待つ人もあり、出ることに。演奏会は15:00から、音楽堂のカフェテリアで時間をつぶそう。
平成23年(2011)8月下旬、フィリピン東方海上に台風11号、小笠原南方洋上に台風12号が発生していた。いずれも当初は西へ移動していて、一時は両台風が揃って日本へ訪れるのではという危惧があった。ところが11号は向きが北西に変わったものの、更に北寄りに進路を取ることなく、台湾から中国へと行き、熱低になった。一方の12号は大型に発達し、目の径も50kmとバカでかい台風に成長した。でも進路は相変わらず西もしくは西北西、しかしいつ北方向へ転向するかが問題だった。当初の予報では、石川県への影響は、2日には通り抜けて、3日には天気は回復するとのことだった。ところが後々の弁明では、北太平洋とモンゴルに高気圧があって、行く手を阻まれ、かつ偏西風の流れが悪くて北へ転向できず、四国南洋上でようやく北北西に向きを変えたと。でもこの時暴風域は径500km、強風域は径1,200kmもの大型台風に、中心気圧も960hPaに発達していた。しかも速度は10~15km/hと自転車並み、そのことでこの台風はとんでもない土産をもたらすことになった。
紀伊半島の中央に位置する紀伊山地のうち、奈良県南部を南北に大峰山脈が、それに平行して三重県との県境には台高山脈が走り、前者を源として十津川(上流は天ノ川)が、後者を源として北山川が流れ、いずれの谷も深く、谷筋にはダムが多い。十津川は奈良県から和歌山県へ入り新宮市宮井で、北山川は奈良県から三重・和歌山の県境から「トロ峡」を経て宮井で十津川と合流し、和歌山・三重県境を熊野川(旧名新宮川)となって太平洋の熊野灘に注ぐ。このうち台高山脈の盟主大台ヶ原山は、日本で最も降雨量が多い、世界でも有数の多雨地域として知られている場所である。
台風の四国への上陸は9月3日だったが、南洋上にあるときから進行方向東側に、南から反時計回りの大きな温かい流れがあり、かつ北太平洋の高気圧の縁からも同様に時計回りに吹き出す流れがあり、この二つがぶつかり合って、台高山脈を中心に史上空前の降雨量が記録された。大台ヶ原山の東に位置する三重県大台町(旧宮川村)と西側に位置する上北山村では特に顕著で、後者では年間降雨量2,700mmのうちの2/3にあたる1,800mmが5日間で降ったという。大台町でも1,600mm、十津川村でも1,200mmが降った。そのため山間部では降雨による土砂災害、下流の熊野川では堤防決壊による浸水被害が起きた。この台風の特徴は、大型で速度が遅く、風害よりも台風の進行方向東側の雨雲の異常な発達による猛烈な降雨、時に時間当たりにして100mmを超す降雨が長時間続いたことによる。そして、この降雨は台風が日本海へ抜けた4日にも更に続いたという。被害は近畿南部で特に甚大であった。
● 金沢賛歌!大滝由季生大作展 時空を見つめて大地に立つ
表記展覧会が9月3日(土)~8日(木)の6日間、北國新聞交流ホールで開催されるという案内を大滝さんから頂いた。丁度台風が石川県へ最接近するという情報があり、心配していたが、台風はこの日の未明に高知県へ上陸したとか、金沢の天気は曇り、でも降水確率は50%ということで雨靴を履き傘を持って家を出た。当初の計画では、11時に「やまぎし」へ行きそばを食い、歩いて北國新聞社へ行き、とってかえして音楽堂に戻り、午後3時から今シーズン初のOEK第310回定期公演を聴くことにしていた。バス停は我が家の前にあり、10:19の金沢駅行きに乗る予定をしていた。バスが来て乗ったものの、このバスは遅れてきた小立野行きだった。仕方なく香林坊で下りて、北國新聞社に向かうことに。
交流ホールは赤羽ホールの1階にあり、大滝さんほか20人ばかりの方々が見えていた。大滝さんは4年前に探蕎会で講演されたが、それによると、昭和40年(1965)に文化勲章を授与された田崎広助さんに師事され、薫陶を受けられた。大滝さんのその頃の絵の題材は「山」が多く、これは師の影響を受けてのことだったと思われる。ただ大滝さんの弁では、その絵の中には必ず生活の営みが見えることが大前提、だから純粋に山のみを描いた絵は大滝さんにはない。ずっと一水会に所属されていたが、会で大滝さんの絵を探すには山がターゲットだった。ところが師から、自分が最も愛している郷里の山河や風土を描くようにと言われ、アトリエが寺町のW坂上の高台にあることから、犀川を挟んで見える金沢の町並み、犀川上流に見える医王山や戸室山、そして金沢の街角など、金沢を題材とした作品に取り組まれるようになった。5年前にはそれまで描き続けてこられた「大作百二十点」が金沢21世紀美術館市民ギャラリーで開催されたが、今回は「金沢賛歌」と題して、金沢やその街角の風景を題材にした300号や200号の大作を中心とした絵の展示が主である。以下に展示された作品の名称と制作年をメモした。順は制作年順である。
交流ホールの入り口には薔薇をあしらった画が4点置いてあった。 (1)「薔薇」(2007)6号F. (2)「薔薇の饗宴」(2008)120号. (3)「窓辺の薔薇」(2008)10号F. (4)「白い壷のばら」(2009)8号F.
交流ホールの展示作品: (1)「鳥小屋のある露地」 (1965)50号F. (2)「屋台のある街角」 (1966)80号F. (3)「辰巳用水の雪」 (1967)50号F. (4)「ポスターの前」 (1967)100号F. (5)「犀川夕照」 (1987)100号P. (6)「桜坂の月」 (1989)50号F. (7)「けむる医王」 (1991)100号F. (8)「戸室への道」 (1997)100号F. (9)「五月の高台」 (2001)100号F. (10)「神苑」 (2002)50号F. (11)「浅野川の雪」 (2003)100号F. (12)「戸室山と街と」 (2005)150号F. (13)「県都悠久」 (2005)300号P. (14)「画室の桜」 (2008)50号F. (15)「街道筋の老舗」 (2006)60号F. (16)「初春の賑わい広場」 (2007)60号F. (17)「画室の窓」 (2008)50号F. (18)「杜の都」 (2008)300号P. (19)「いいね金沢」 (2009)60号F. (20)「森の都に虹」 (2009)200号P. (21)「坂の上のかざみどり」 (2010)60号F. (22)「六月の涼風」 (2011)60号F. (23)「卯辰山の華の宴」 (2011)300号P. 以上23点。
この展示には、半世紀近く前の初期の作品も出品されているが、当初はモノトーンであった画が、次第に色彩が華やかになり、300号という大作でも細部にわたって筆を入れられ、金沢のエッセンスが凝縮されているというような印象を受ける。そしてここ3年位前からは、絵の具を盛る技法を用いることにより、より立体的な感覚を持たせた豪華な作品に仕上がっている。最後の300号の作品は、ミレー友好協会展での受賞作である。
大滝さんは昭和4年(1929)生まれの81歳、これからも絵を描き続けると、そして特に変貌していく金沢の古き良さを画に残しておきたいと仰る。現在、石川県美術文化協会理事・日展会友・元一水会会員(平成20年退会)・ミレー友好協会委員である。
● 蕎麦「やまぎし」
開店は11時半なのだが、いつも11時に入るようにしている。この時間だとまだお客は来ておらず、確実にジッツできるからである。新聞社を出たのが11:10、すぐにバスに飛び乗って「やまぎし」へ、11:25だった。バスを降りたら前の駐車場は満タン、これは遅かったか、もし一杯なら諦めようと思って入ったら、私が最初だった。もっとも開店時間には席は埋まってしまった。久しぶりである。券売機には焼酎、お酒、ビール、ノンアルコールの表示もあるようになっていて、こんなオプションも付加できるのだなと感心する。焼酎(100ml)2杯と「粗挽き大盛り」を求めた。満席の皆さんも粗挽きばかりなのには驚いた。奥さんはこれまでは水曜のみのお出ましの筈なのにおいでるので聞くと、開店時からおいでた女の方が辞められ、代わりの方の応援だとか。この焼酎には粗挽きが実に似合う。お客さんは大概30分程で回転するが、私は45分位だ。待つ人もあり、出ることに。演奏会は15:00から、音楽堂のカフェテリアで時間をつぶそう。
2011年9月1日木曜日
『ドンキホーテの弁解』を読んで
『ドンキホーテの弁解』 One Word Too Many Again 永坂鉃夫著 前田書店 1,000円 (2002)
私のワープロには、永坂先生の随想のドンキホーテ・シリーズの第2作から第4作の、いわゆる読後感を記したものが残っている。その読後感を「晋亮の呟き」に再録しようと思ったのだが、何故か第1作の読後感が手元にない。そこで改めて第1作の『ドンキホーテの弁解』を読み返して、読後感を書こうと思う。先生からご恵送頂いて御礼申し上げなかったことはないと思うのだが、何せ手元に残っていないこともあって、緊急に対応しようとした。ただ発行から9年を経ていて、あの時の印象と現在の印象とでは読後感に差が生じていると思われるが、それは止むを得ないのではと思っている。
以下の拙い読後感を、敬愛する永坂先生に捧げる。
1.羊歯への思い
先生が羊歯に一時大変熱中され、採集に営林署の許可を貰われて国立公園内で採集されたとあるのは、単なる収集でなく、学問的な裏付けのある実績がないと許可されない筈です。私の叔父も羊歯ではないのですが、同様の採集許可を貰って白山での植物調査に当たったことがあり、私も同行したことがありますが、やはり半端ではありませんでした。先生は夢中になられていたとありますが、もう一端の羊歯の権威にまで昇華されていたように思えます。私も一時羊歯に興味を持ち標本作りに励みましたが、とても横綱と褌担ぎ程の差があるようです。私も日本シダの会が編纂した東大出版会発行の本を持っていますが、十分な活用をしたわけではありません。先生が長崎の鳴滝で見られた珍しい羊歯がヨーロッパではごくありふれた種類とのこと、先生の推理は的を射てるかも知れません。
コケシノブは可愛い羊歯ですが、属名が Hymenophylum というのは、葉が一層で薄く、光を透過する様が、何とも初々しいからでしょうか。英名は filmy fern だそうです。あの浅い緑色はクジャクシダの淡い緑色に似てませんか。
春には先生お手摘みのクサソテツの若芽のコゴミをお届け下さり有り難うございます。大事にもっぱら天ぷらにして食べるのですが、何か保存方法があるのでしょうか。昔は裏の背戸にも生えていましたが、環境の変化からか、なくなってしまいました。そういえば、コンテリクラマゴケ rainbow fern も消えました。食用羊歯では古くからゼンマイは保存食でしたが、近頃はワラビも塩蔵して保存できるようです。羊歯の虫食いは余り見ませんが、先生は噛まれて何か薬用成分がと仰っていますが、薬学分野では余り興味を示す人がいないのは残念で、案外と盲点なのかも知れません。昔一時城内移転した生薬学教室の裏手にコタニワタリが生えていましたが、あのクルッとしたオオタニワタリの新葉を食べられたとか、うまいんでしょうね。でも内地ではできない相談です。
ヒカゲノカズラ、昔は詰め物によく使いましたが、あんなに沢山の量をどこから仕入れたのか不思議でした。山ではよく見かけますが、先生が言われるように、敷き詰めたように生えているのは見たことはありません。でも、あるところにはあるようですね。そしてあの黄色い花粉のような胞子、私たちも物理の実験で使いました。
先生のお母さんの実家、昔は竹薮や雑木林が広がる田舎だったとか、あっという間に竹薮や雑木林がなくなり、田圃が埋め立てられ、殺風景な街並みに変わってしまったようですね。核家族化がそれを助長しているのでは。ところで私が住む野々市町で竹薮のあるのは小生宅のみになりました。まだホウチャクソウやアオマムシグサが健在です。シケチシダ、ベニシダ、ゼンマイ、チャセンシダもいます。でも消えた植物も沢山あります。本文に出てくるドンドロベはジャノヒゲのことじゃないでしょうかね。
2.世界の蕎麦
確かに世界の蕎麦情報はかなり貧困で、産出量にしても蕎麦を輸出している国のデータしか出てきませんし、喫食状況にしても断片的な記載にしか接していません。先生が国内にある各国の大使館に質問状を出されたのは正に画期的なことですが、対応は実にお粗末ですね。おそらく温帯域であれば蕎麦は栽培されていると思われますが、マイナーな食物であれば、国としての把握がないことは十分考えられることです。食形態にしても、麺形態で食べるというのは恐らく少ないでしょうね。でも少なくとも蕎麦にまつわる言葉が現存していれば、蕎麦に野生はありませんから、栽培されていたということは十分考えられますね。一部でもその成果をお纏めになっては如何でしょうか。
語源的には、蕎麦の実がブナの実と似ているとするのが学名以外にもあるとすると、少なくともその地域に居住する人は、ブナの実を知っていなければならないことになりますね。だからブナ林がない地域では、ブナに因んだ名称が出てこないのは当然とも言えます。「〇〇の小麦」という言い回しは、それを物語っていると言えそうですね。日本でも「くろむぎ」と呼ばれ、源順の『倭名類衆抄』十七巻には「久呂無木」との訓読がみられ、漢名の俗称「烏麦」にも通じると新島繁の「蕎麦の事典」にあります。
一つ気になったことがあります。本文に、赤花、白花、黄花が互い違いに植えられていたりすると、眺めてどれほど美しい景色になるだろうとありますが、ダッタンそばは別として、白と赤は交配しますので、風媒花でもあり、一緒の作付けは多分出来ない相談と思います。
3.偉人の名前
先生の名前のテツヲのテツは金偏に矢と書く鉃ですが、この字は通常のパソコンでは出てこない字です。私のワープロでは合成できます。いま私の手元にある大修館の漢語新辞典という中辞典をを見ますと、金偏に矢と書く「鉃」は、漢音ではシ、呉音ではジ、ただ日本では鉄の俗字でテツとも読めるとあり、字義は、①やじり。とあります。一方「鉄」は、漢音ではテツ、呉音ではテチで、字義は、①てつ、くろがね。②武器、刃物。③かね、かなもの。④他の語の上につけて、堅い・強い・正しいなどの意を表す。とあり、旧字体は「 」、古字は金偏に夷である。このように前者は金+矢、後者は金+失で、元は金+夷であり、成因が違うようです。
ポンペ先生については、広辞苑では、先生が間違いとされる Jonnkeer Johannes Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort とありました。戸籍は外国では全くないのでしょうか。それにしても、称号や洗礼名や出身地などが付いたものが本名となるのは、往々にしてあることなのでしょうか。でもポンペがあだ名でなく本名に落ち着いたようですね。あの作曲家のメンデルスゾーンも本名は実に長ったらしいものでした。
4.恩師の蔵書
先生が恩師中の恩師と言われる高木健太郎先生、参議院議員で2期目の途中でお亡くなりになりましたね。献体法の制定に関わった方とありましたが、高木先生自身献体されたのではなかったでしょうか。私が知っているのはその程度ですが、研究者として教育者として、その発想が独創的なのは、高木先生の旺盛な好奇心のなせる業とか、弟子?達は戸惑うかも知れませんが、後になってみれば、それが大いなる財産になったことになるのでしょうね。門下生の方々は実に素晴らしい時空を持たれたものです。後に「やぶにらみの生理学」が出版されたのも、当然の帰結のような気がします。
さて、高木先生が残された膨大な蔵書のこと、先生が最後の整理をなさったとのことでしたが、ケリはついたのでしょうか。というのも、私の叔父は経営工学の草分けで、大学教授をしていて、その木村ゼミからは大学教授や国会議員、大会社の経営者などを多く輩出していて、争議には70人ばかりが来てくれました。沢山の蔵書があり、私は在籍していた大学に引き取って頂けないかと掛け合い、その時は快諾を得たのですが、後で組織としては困難ということになり、結果的には大部分がゴミとして処分されました。没後では、蔵書の処理というのは大変だということが分かりました。本というゴミは、通常のゴミより費用がずっと割高だとか、けったいなことなのですが、門外漢には本当にゴミなんでしょうね。
本の題名についた「やぶにらみ」という形容語、病名を表していないのは明白なのに、何をいちゃもんつけるのですかね。言葉そのものを抹殺するというのは正にファッショです。馬鹿の一つ覚えもいいとこです。でも病名は転換が多いですね。認知症という語を考えた人は自画自賛してるとのことですが、新しい差別語もどんどん作られているのに、これにもどんどん対応してほしいものです。先生の主張は的を射てます。「婦人」という語も差別語とか。ふざけています。
5.修道士カドフェル
先生は表題が主人公で、シュルスバリの修道院を主な舞台としたミステリー・シリーズに取りつかれ、日本で評判になる前から愛読され、実物に接されていないにもかかわらず、登場する事物が頭の中でリアルに描写されるまでになられました。こうなると、機会あれば訪ねてみたいという気持ちが募るのも、自然の成行きなのでしょう。でも本当に実現されたのには脱帽です。それで空想の世界と現実の世界とは異なっていたとしても、先生は訪ねなかった方が良かったかも知れないと仰っていますが、それは結果であって、一度は訪れないと気が済まなかったでしょうね。それにしても、舞台となった町がダーウィンの生まれた町だったとは、先生ご存知だったのでしょうか。
6.木ときのこ
この章を読むと、先生の博識と果てしない空想力に感心せずにはおれません。キノコはこちらでは通常コケと言ってますが、ミズゴケやスギゴケもコケです。ただコケ採りと言えば、対象はキノコです。私は採りに行く時は、必ず達人と行きます。採った茸も4割以上が毒か雑ですから、素人判断は禁物です。タマゴタケが味第一級とありますが、分かっていても採らないし食べないでしょう。それはベニテングタケが猛毒で、それに似ているからです。ムスカリンはその毒成分ですが、作用が拮抗するアトロピンはベラドンナや日本に自生するハシリドコロに含まれるアルカロイド、学生のときにはそのハシリドコロのノルヒヨスチアミンの精製に奮闘しました。しかし毒物を扱ったミステリーはあって当然でしょうし、現に事件としても起きてますね。
毒々しい色をした生物には触手が延びないのは人間様だけではないのですね。しかし警戒色である一方で、誘因色でもあるのではないでしょうか。落葉樹の芽鱗のほんのりとした紅色に合目的的な意味があったとは初めて知りました。
木に霊が宿るという念は私もそう思います。特に巨樹に出会うと、その樹には神が宿っているような気がします。巨樹の会には、発会したときの会長の里見先生とは懇意にして頂いていたこともあって、会員にはなっていますが、亡くなられてからは活動しない会員です。探蕎会でも寺田先生以下何人かが所属されているようです。今夏二度も国指定の特別天然記念物の石徹白の大杉への対面を逃してしまいましたが、せめて今年中には大杉だけにでも面会したいと願っています。仏師は樹の霊を信じ、そして魂を吹き込むと言いますが、敬虔になれば、万物に霊が宿ると思うようになるのではないでしょうか。
7.ドンキホーテの八つ当たり
①マスコミのお言葉:NHKが自局の番組のナレーターの話し方の暴走に物申せないとは、ならば話し方教室など止めてしまえと言いたいですね。しかし勇気ある先生の矛先をよくぞかわしましたね。 ②カタカナ語のアクセント:日本語のカナは便利で、どんな外国語もカナに変換できますが、どっこいアクセントは原語とは似ても似つかないものになっていますが、この矯正を教育の対象にするのは、難問ですね。 ③外国語の案内:交通法規ほか、規則が国によって違うことは、よく外国へ行かれる先生はよくご存知なのでしょうが、個人の判断で「良い」が「悪い」となると、頭が混乱します。金沢でも外国語の説明文や案内文があっても、採点が「可」ではね。 ④たらいまわし:役人というのはとかく責任の所在を曖昧にするのが本分、「たらいまわし」は日常茶飯事の常套手段です。役人は権力にはへいこらするが、一市民の申し出なぞ善処しますでお終いです。 ⑤マナーと国際語:「自分にされて嫌なことを他人にしない」というのは鉄則でしょうが、とかく外国語を喋られるようになると天狗になってしまい、私は偉いのだと勘違いし、とかくマナーは二の次になってしまう。 ⑥仕方がないは国を滅ぼす:老人や障害者に席を譲るのに出くわすと、何とも爽やかな気になる。でも中には老人優先席に座っていながら席を譲らない若者もいる。でもそれを注意するには大変な勇気が要る。 ⑦医の倫理:医の倫理などあってなきが如しでしょう。医師のあるべき姿が「安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨て人を救わんことを希ふべし」だとしても、実践される方は少ないのではないでしょうか。
私のワープロには、永坂先生の随想のドンキホーテ・シリーズの第2作から第4作の、いわゆる読後感を記したものが残っている。その読後感を「晋亮の呟き」に再録しようと思ったのだが、何故か第1作の読後感が手元にない。そこで改めて第1作の『ドンキホーテの弁解』を読み返して、読後感を書こうと思う。先生からご恵送頂いて御礼申し上げなかったことはないと思うのだが、何せ手元に残っていないこともあって、緊急に対応しようとした。ただ発行から9年を経ていて、あの時の印象と現在の印象とでは読後感に差が生じていると思われるが、それは止むを得ないのではと思っている。
以下の拙い読後感を、敬愛する永坂先生に捧げる。
1.羊歯への思い
先生が羊歯に一時大変熱中され、採集に営林署の許可を貰われて国立公園内で採集されたとあるのは、単なる収集でなく、学問的な裏付けのある実績がないと許可されない筈です。私の叔父も羊歯ではないのですが、同様の採集許可を貰って白山での植物調査に当たったことがあり、私も同行したことがありますが、やはり半端ではありませんでした。先生は夢中になられていたとありますが、もう一端の羊歯の権威にまで昇華されていたように思えます。私も一時羊歯に興味を持ち標本作りに励みましたが、とても横綱と褌担ぎ程の差があるようです。私も日本シダの会が編纂した東大出版会発行の本を持っていますが、十分な活用をしたわけではありません。先生が長崎の鳴滝で見られた珍しい羊歯がヨーロッパではごくありふれた種類とのこと、先生の推理は的を射てるかも知れません。
コケシノブは可愛い羊歯ですが、属名が Hymenophylum というのは、葉が一層で薄く、光を透過する様が、何とも初々しいからでしょうか。英名は filmy fern だそうです。あの浅い緑色はクジャクシダの淡い緑色に似てませんか。
春には先生お手摘みのクサソテツの若芽のコゴミをお届け下さり有り難うございます。大事にもっぱら天ぷらにして食べるのですが、何か保存方法があるのでしょうか。昔は裏の背戸にも生えていましたが、環境の変化からか、なくなってしまいました。そういえば、コンテリクラマゴケ rainbow fern も消えました。食用羊歯では古くからゼンマイは保存食でしたが、近頃はワラビも塩蔵して保存できるようです。羊歯の虫食いは余り見ませんが、先生は噛まれて何か薬用成分がと仰っていますが、薬学分野では余り興味を示す人がいないのは残念で、案外と盲点なのかも知れません。昔一時城内移転した生薬学教室の裏手にコタニワタリが生えていましたが、あのクルッとしたオオタニワタリの新葉を食べられたとか、うまいんでしょうね。でも内地ではできない相談です。
ヒカゲノカズラ、昔は詰め物によく使いましたが、あんなに沢山の量をどこから仕入れたのか不思議でした。山ではよく見かけますが、先生が言われるように、敷き詰めたように生えているのは見たことはありません。でも、あるところにはあるようですね。そしてあの黄色い花粉のような胞子、私たちも物理の実験で使いました。
先生のお母さんの実家、昔は竹薮や雑木林が広がる田舎だったとか、あっという間に竹薮や雑木林がなくなり、田圃が埋め立てられ、殺風景な街並みに変わってしまったようですね。核家族化がそれを助長しているのでは。ところで私が住む野々市町で竹薮のあるのは小生宅のみになりました。まだホウチャクソウやアオマムシグサが健在です。シケチシダ、ベニシダ、ゼンマイ、チャセンシダもいます。でも消えた植物も沢山あります。本文に出てくるドンドロベはジャノヒゲのことじゃないでしょうかね。
2.世界の蕎麦
確かに世界の蕎麦情報はかなり貧困で、産出量にしても蕎麦を輸出している国のデータしか出てきませんし、喫食状況にしても断片的な記載にしか接していません。先生が国内にある各国の大使館に質問状を出されたのは正に画期的なことですが、対応は実にお粗末ですね。おそらく温帯域であれば蕎麦は栽培されていると思われますが、マイナーな食物であれば、国としての把握がないことは十分考えられることです。食形態にしても、麺形態で食べるというのは恐らく少ないでしょうね。でも少なくとも蕎麦にまつわる言葉が現存していれば、蕎麦に野生はありませんから、栽培されていたということは十分考えられますね。一部でもその成果をお纏めになっては如何でしょうか。
語源的には、蕎麦の実がブナの実と似ているとするのが学名以外にもあるとすると、少なくともその地域に居住する人は、ブナの実を知っていなければならないことになりますね。だからブナ林がない地域では、ブナに因んだ名称が出てこないのは当然とも言えます。「〇〇の小麦」という言い回しは、それを物語っていると言えそうですね。日本でも「くろむぎ」と呼ばれ、源順の『倭名類衆抄』十七巻には「久呂無木」との訓読がみられ、漢名の俗称「烏麦」にも通じると新島繁の「蕎麦の事典」にあります。
一つ気になったことがあります。本文に、赤花、白花、黄花が互い違いに植えられていたりすると、眺めてどれほど美しい景色になるだろうとありますが、ダッタンそばは別として、白と赤は交配しますので、風媒花でもあり、一緒の作付けは多分出来ない相談と思います。
3.偉人の名前
先生の名前のテツヲのテツは金偏に矢と書く鉃ですが、この字は通常のパソコンでは出てこない字です。私のワープロでは合成できます。いま私の手元にある大修館の漢語新辞典という中辞典をを見ますと、金偏に矢と書く「鉃」は、漢音ではシ、呉音ではジ、ただ日本では鉄の俗字でテツとも読めるとあり、字義は、①やじり。とあります。一方「鉄」は、漢音ではテツ、呉音ではテチで、字義は、①てつ、くろがね。②武器、刃物。③かね、かなもの。④他の語の上につけて、堅い・強い・正しいなどの意を表す。とあり、旧字体は「 」、古字は金偏に夷である。このように前者は金+矢、後者は金+失で、元は金+夷であり、成因が違うようです。
ポンペ先生については、広辞苑では、先生が間違いとされる Jonnkeer Johannes Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort とありました。戸籍は外国では全くないのでしょうか。それにしても、称号や洗礼名や出身地などが付いたものが本名となるのは、往々にしてあることなのでしょうか。でもポンペがあだ名でなく本名に落ち着いたようですね。あの作曲家のメンデルスゾーンも本名は実に長ったらしいものでした。
4.恩師の蔵書
先生が恩師中の恩師と言われる高木健太郎先生、参議院議員で2期目の途中でお亡くなりになりましたね。献体法の制定に関わった方とありましたが、高木先生自身献体されたのではなかったでしょうか。私が知っているのはその程度ですが、研究者として教育者として、その発想が独創的なのは、高木先生の旺盛な好奇心のなせる業とか、弟子?達は戸惑うかも知れませんが、後になってみれば、それが大いなる財産になったことになるのでしょうね。門下生の方々は実に素晴らしい時空を持たれたものです。後に「やぶにらみの生理学」が出版されたのも、当然の帰結のような気がします。
さて、高木先生が残された膨大な蔵書のこと、先生が最後の整理をなさったとのことでしたが、ケリはついたのでしょうか。というのも、私の叔父は経営工学の草分けで、大学教授をしていて、その木村ゼミからは大学教授や国会議員、大会社の経営者などを多く輩出していて、争議には70人ばかりが来てくれました。沢山の蔵書があり、私は在籍していた大学に引き取って頂けないかと掛け合い、その時は快諾を得たのですが、後で組織としては困難ということになり、結果的には大部分がゴミとして処分されました。没後では、蔵書の処理というのは大変だということが分かりました。本というゴミは、通常のゴミより費用がずっと割高だとか、けったいなことなのですが、門外漢には本当にゴミなんでしょうね。
本の題名についた「やぶにらみ」という形容語、病名を表していないのは明白なのに、何をいちゃもんつけるのですかね。言葉そのものを抹殺するというのは正にファッショです。馬鹿の一つ覚えもいいとこです。でも病名は転換が多いですね。認知症という語を考えた人は自画自賛してるとのことですが、新しい差別語もどんどん作られているのに、これにもどんどん対応してほしいものです。先生の主張は的を射てます。「婦人」という語も差別語とか。ふざけています。
5.修道士カドフェル
先生は表題が主人公で、シュルスバリの修道院を主な舞台としたミステリー・シリーズに取りつかれ、日本で評判になる前から愛読され、実物に接されていないにもかかわらず、登場する事物が頭の中でリアルに描写されるまでになられました。こうなると、機会あれば訪ねてみたいという気持ちが募るのも、自然の成行きなのでしょう。でも本当に実現されたのには脱帽です。それで空想の世界と現実の世界とは異なっていたとしても、先生は訪ねなかった方が良かったかも知れないと仰っていますが、それは結果であって、一度は訪れないと気が済まなかったでしょうね。それにしても、舞台となった町がダーウィンの生まれた町だったとは、先生ご存知だったのでしょうか。
6.木ときのこ
この章を読むと、先生の博識と果てしない空想力に感心せずにはおれません。キノコはこちらでは通常コケと言ってますが、ミズゴケやスギゴケもコケです。ただコケ採りと言えば、対象はキノコです。私は採りに行く時は、必ず達人と行きます。採った茸も4割以上が毒か雑ですから、素人判断は禁物です。タマゴタケが味第一級とありますが、分かっていても採らないし食べないでしょう。それはベニテングタケが猛毒で、それに似ているからです。ムスカリンはその毒成分ですが、作用が拮抗するアトロピンはベラドンナや日本に自生するハシリドコロに含まれるアルカロイド、学生のときにはそのハシリドコロのノルヒヨスチアミンの精製に奮闘しました。しかし毒物を扱ったミステリーはあって当然でしょうし、現に事件としても起きてますね。
毒々しい色をした生物には触手が延びないのは人間様だけではないのですね。しかし警戒色である一方で、誘因色でもあるのではないでしょうか。落葉樹の芽鱗のほんのりとした紅色に合目的的な意味があったとは初めて知りました。
木に霊が宿るという念は私もそう思います。特に巨樹に出会うと、その樹には神が宿っているような気がします。巨樹の会には、発会したときの会長の里見先生とは懇意にして頂いていたこともあって、会員にはなっていますが、亡くなられてからは活動しない会員です。探蕎会でも寺田先生以下何人かが所属されているようです。今夏二度も国指定の特別天然記念物の石徹白の大杉への対面を逃してしまいましたが、せめて今年中には大杉だけにでも面会したいと願っています。仏師は樹の霊を信じ、そして魂を吹き込むと言いますが、敬虔になれば、万物に霊が宿ると思うようになるのではないでしょうか。
7.ドンキホーテの八つ当たり
①マスコミのお言葉:NHKが自局の番組のナレーターの話し方の暴走に物申せないとは、ならば話し方教室など止めてしまえと言いたいですね。しかし勇気ある先生の矛先をよくぞかわしましたね。 ②カタカナ語のアクセント:日本語のカナは便利で、どんな外国語もカナに変換できますが、どっこいアクセントは原語とは似ても似つかないものになっていますが、この矯正を教育の対象にするのは、難問ですね。 ③外国語の案内:交通法規ほか、規則が国によって違うことは、よく外国へ行かれる先生はよくご存知なのでしょうが、個人の判断で「良い」が「悪い」となると、頭が混乱します。金沢でも外国語の説明文や案内文があっても、採点が「可」ではね。 ④たらいまわし:役人というのはとかく責任の所在を曖昧にするのが本分、「たらいまわし」は日常茶飯事の常套手段です。役人は権力にはへいこらするが、一市民の申し出なぞ善処しますでお終いです。 ⑤マナーと国際語:「自分にされて嫌なことを他人にしない」というのは鉄則でしょうが、とかく外国語を喋られるようになると天狗になってしまい、私は偉いのだと勘違いし、とかくマナーは二の次になってしまう。 ⑥仕方がないは国を滅ぼす:老人や障害者に席を譲るのに出くわすと、何とも爽やかな気になる。でも中には老人優先席に座っていながら席を譲らない若者もいる。でもそれを注意するには大変な勇気が要る。 ⑦医の倫理:医の倫理などあってなきが如しでしょう。医師のあるべき姿が「安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨て人を救わんことを希ふべし」だとしても、実践される方は少ないのではないでしょうか。
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