白山へ登りはじめてから半世紀、正確に何回登ったかは整理しないと定かではないが、記憶の中では、年に17回というのが最も多いと思っている。大学に入るまではせいぜい年に一度程度、金沢大学に入ってからも、山岳部での活動の場のメインは北アルプスだったこともあって、白山に入れたのは年に数回程度だった。薬学部を卒業して石川県衛生研究所に就職して微生物検査に従事するようになってからは、山へはそんなに入れず、山へは年に数回、白山へは時折ストレス解消のため登っていたような状態だった。その後研究のため、当初は金沢大学細菌学教室(後の微生物学教室)、そしてその後新設されたがん研究所ウイルス研究部門へ移ってからは、昼間は衛生研究所の微生物部で業務をこなした後、夜間は大学で研究に没頭するようになり、山へは年に一度出かけられれば上等で、徹夜で仕事をすることも多かった。山のことは頭の片隅にはあったが、日常の検査業務と大学での研究テーマの遂行に懸命だった.しかし昭和50年には、一定の成果を上げることが出来、学位が授与された。
ところで私がタッチしていた分野はウイルス関係、県ではインフルエンザ、日本脳炎、ウイルス性下痢症のほか、インフルエンザ以外の上気道炎起因性の呼吸器ウイルスに対するサーベイにも取り組んでいて、当時は総勢3名で検査に当たっていた。とりわけこれら対象とするウイルスの検出には、生きた細胞が必須で、その培養が隘路になっていた。すなわち生きた細胞を閉じた空間で培養しようとすると、常に栄養物を与えなければならない一方、代謝された老廃物を除去してやらねばならないという作業がどうしても必要で、それには少なくとも3日おきにメディウムチェンジが必要だった.ということは、一人で責任を持って細胞培養をしようとすると、4日以上細胞を放置することは細胞を死に追いやることになりかねず、もし山へ出かけるとしても、3日以上連続して入山することは控えざるを得なかった。もっとも非常手段がないわけではないのだが、ウイルス検査をスムースに遂行するには、健全な細胞を常に確保しておくことが最低限必要だった.
学位取得後は、衛生研究所の業務のみに没頭できるようになり、ウイルス性の上気道疾患や下痢性疾患の原因究明がメインになった。しかしそれには細胞培養が必須の業務で、3名がそれぞれ分担して2〜3の培養細胞を持っていた。しかし細胞培養の合間を縫えば、山へは長期間は無理だが、3日間を限度としての入山は可能になった。病気の流行期や学会発表期での入山は困難だが、この時期、よく近場の山、とりわけ白山や白山山系の山々にはよく出かけたものだ。特に白山の多くある登山路には足繁く歩を運び足跡を残した。その結果は部屋に貼った5万分の1地形図10枚を繋ぎ合わせた図に克明に赤線でトレースした。因みに10枚というのは、北から「金沢・城端」「鶴来・下梨」「白峰・白川村」「越前勝山・白山」「荒島岳・白鳥」である。
白山の登拝路は、泰澄大師の開山以降、美濃・越前・加賀の三馬場を起点とした禅定道が発達した。中でも美濃馬場と白山御前峰を結ぶ美濃禅定道は、「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われ、三登拝路の中では最も賑わった。かつての修験道は、美濃馬場の長滝白山神社の裏手の山から尾根伝いに、西山・毘沙門岳・桧峠・大日ヶ岳・芦倉山・丸山と辿り、神鳩社で一般登拝路と合流していた。この間10の宿坊があったという。一般の登拝路は、石徹白の上在所にある白山中居神社の裏手の尾根から初河谷、倉谷を渡り、大杉に至るもので、このルートは毎年7月下旬に石徹白の人たちの手で刈り分けされているという。でもこのルートは40年程前に石徹白川に沿って林道が造られ、かつ大杉まで420段の石段ができて以降は、石徹白道の起点はこちらに移ってしまった。しかし石徹白の大杉から白山に至る石徹白道(南縦走路とも言われる)は忠実に美濃禅定道そのものを辿っている。ただ赤谷から南竜ヶ馬場へ上がる径は古い径とは異なる。もっとも古い径は廃道となっている。南竜ヶ馬場からトンビ岩への径には、往時の石畳道が残存している。
このように往時の禅定道が脚光を浴びて再開されたのが加賀禅定道で、道筋は尾添尾根を忠実に辿るもので、尾添(一里野温泉)が起点となっている。また越前禅定道は市ノ瀬からの旧道として一部が残存していたが、その後荒廃してしまったものの、十数年前に白山(越前)禅定道として市ノ瀬〜慶松平〜別当坂下間が復元された。それより上部は観光新道としてよく利用されている径だ。
2012年8月25日土曜日
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