2012年6月26日火曜日

平成24年の「子うし会」

 子うし会というのは、昭和11年(子年)生まれと昭和12年(丑年)生まれで、昭和23年に野々市小学校、昭和26年に野々市中学校を卒業した同窓生の集まりである。男28人女26人が名簿に載っているが、既に他界した人が男7人女5人いる。また全く消息不明が男に2人いる。したがって現在の会員は男19人女21人である。全員75歳で後期高齢者だ。何時から毎年会おうということになったか定かではないが、今年は地元でということで案が練られた。何時もは地元在住の皆さんに集まってもらって決めるのだが、今年は男のYさんと女のAさんの両世話人にお願いし、決まった段階で私から皆さんに案内することに。昨年は遠出ということで、「明日香村史跡巡りと十津川温泉・熊野三山」を催行したが、あの時訪れた地は台風と豪雨とで甚大な被害が出て、何か因縁めいた巡り合わせを感じた旅となった。これらの企画に当たっては、もう15年以上も付き合いのある北陸交通のNさんが窓口となっていて、いつも野々市発着のバス旅行となる。きっかけは高校の同級生が北陸交通の社長をしていたことにもよる。
 催行日は6月7日(木)と8日(金)、宿泊は山代温泉の森の出で湯「かが楽」、この宿は元は「大寿苑」といい、この会では過去に2回ばかり利用している。これまでは翌朝解散というスケジュールだったが、今回は女性会員からの要望で、翌日は観光したいということで、「永平寺・東尋坊と三国街並み散策」を追加した。この案は昼食場所さえ変えなければコース選定はかなりフレキシブルで、中には改築された越前松島水族館を見たいという要望もあったが、会費では賄えず、提案どおりとなった。また宿などでの食事は、足腰が弱っている人も多く、食事はテーブル・椅子という条件にしてある。当日の参加者は男10人女9人で、県外からの参加は、東京から2人、大阪から3人であった。
 宿には午後4時に着いた。宿は山際にあり、木立に囲まれている。先ず湯へ入り、冷えたビールと差し入れの焼酎とで話に花が咲く。不参者の近況も皆さんに知らせたが、病気で参加できない人が多く、元気でも他の同窓会とかち合ったとか、急に親戚に不幸があったとか、親や配偶者が入院していて看病しなければならないとか、もう会員全員が揃うのは至難である。でも会員のほぼ半数の出席があったことは多とすべきだろう。それにしても宴会がテーブル・椅子というのは、昔の「さしつさされつ」の動作がしにくく、親近感が今一だ。宴会が終わっても幹事部屋に集まり、皆で飲みかつ駄弁った。
 翌朝は9時に宿を出て永平寺に向かう。平日だが沢山の観光客、青い目の人もいる。永平寺は約760年前の寛元2年(1244)に道元禅師によって開かれた曹洞宗の大本山、三方を山に囲まれ、老杉が立ち茂る境内には70余りの建物があるという。正門参道から寺に上がる。久方ぶりだ。改築された傘松閣で簡単な説明を聞き、順路に従って七堂伽藍を巡る。法堂(はっとう)は最も高い位置にあり、廊下の階段を上らねばならない。約1時間かけて堂内を巡り駐車場へ戻った。
 永平寺からは北上して、三国の東尋坊へ向かう。天気は良い。40分後には目的地に着いた。最も海に近い潮騒の宿「やし楼」が昼食場所、店の方が東尋坊へ案内するという。階段を下り、全体を見渡せる場所で記念写真を撮る。もう少し案内するというのを断り、食事場所に戻った。気温も上がって暑く、ビールが美味かった。ここは越前海岸、魚料理一色だ。済んで一服していると、ここ特産という緑色をした干した海草、1袋600円、2袋1000円、何故かまんまと口車に乗せられて皆2袋を買う。中には土産にと6袋も買う人も出た。そのままでも、汁の具にも最適だとか。
 次いで三国の町へ、何回か来ているが、この古い街並みは記憶にない。この頃になると陽射しが強く、日傘が入り用だ。散策したのは北本町と南本町、ガイドの方に説明を受けながらそぞろ歩く。初めに寄ったのは北本町の旧岸名家の江戸時代の建物、代々材木商を営み、蔵の裏は川(湊)だったとか、ここは九頭竜川の河口、北前船の拠点でもあった場所だ。次いで南本町にある登録有形文化財の旧森田銀行本店、大正9年(1920)に作られた鉄筋コンクリート2階建で、外壁はタイル張りのルネサンス形式の建物。内部は至る所に象嵌が施され、取っ手は七宝焼、壁には彫刻、カウンターは欅の一枚板、何とも豪華な装飾だ。設計した山田七五郎は長崎県庁の設計者でもある。
 こうして今年の「子うし会」は幕を下ろした。来年は喜寿の祝いをすることに。

2012年6月25日月曜日

平成24年「会員そば打ち湯涌みどりの里」

   会を始めるに当たって、寺田会長から、この行事は平成15年に初めて開催され、今年は10年の節目に当たるという話があった。この企画を初めて提唱されたのは塚野さんだったのではなかろうか。爾来10年にわたってお世話いただき、今では恒例になってしまった。今年も多くの方のご協力で会は成功裡に終わった。有難うございました。以下に雑感を記す。

1.つきだし
  「そばスティック」:石野さんの作。蕎麦粉は粗挽き粉と細かい粉の二種、粗挽き粉のスティックは折れやすく、取り扱い注意、石野さんは慎重に分けられていた。味は味噌味とか抹茶入りとか何種類かあるとか、香ばしい甘さ、,2本のみ頂戴し、後は家へ持ち帰った。ところが家で開けると折れ折れだったが、旨さは変わらず、家内にも私にもこれが格好のビールの摘まみとなった。
  「ちりめん山椒」:早川さんの作。小皿に盛られて出てきたとき、これは前田さん仕込みの「鄙願」にぴったりとの予感、待てずに美味しそうな縮緬雑魚を摘まみ、鄙願を口に含む。これは至福の瞬間といえる。山椒は先生の自宅の庭に植生されているもの、緑色の若い実を採取し湯掻いてあく抜き、自らのお手製だとか。しらすも上等な逸品、京都の錦小路に並べられていたとしても不思議じゃない。一皿自宅へ持って帰った。家内にも賞味させよう。
  「大根の浅漬け」:何方の作なのだろうか。これも箸休めには絶好の摘まみだ。
2.そば
  蕎麦粉は粗挽き粉も細かい粉も共に長野県産と塚野さんから紹介があった。前者はキロ当たり1,800円、後者は2,100円とか、これはかなり高い部類に入るらしい。打たれたそばは「二八」「九一」「生粉打ち」の三種」,昨年から始まったのがこの三種を当てる競技、私は昨年は見事全部外れた。源野さんがそばを打った感想を話していたが、とにかく打ちづらかったと言っていた。特に加水加減に意外と苦労したとか。あとの二種は道下さんの作とか、今日は福井へ行かれているとかで、打って届けられたとかだった。
  先ず初めに配られたのは、細打ちの端正な手打ちそば、香りも良く、口に含んで呑み込んで、これは「二八」じゃないかと直感した。でも確たる根拠があるわけではない。汁は全くつけずに食した。でも美味いそばだ。暫らく間があり、その間にうっかり縮緬山椒の山椒の実を数個口にした。香りが口中に広がる。ところがこの強い香りは鄙願でも流せない。ややあって次のそばが来たが、舌が麻痺していて、全く用をなさない。これは前が「二八」なら「九一」か、こんがらかって分からなくなった。 結果は逆転して記載したようだ。また鄙願を飲む。そして最後の一盛り、これは何となく「生粉打ち」のようだと納得した。この味見の件については、一度塚野さんに講師になってもらって、目利きのコツを教えてもらわねばなるまい。食べ歩いていても、せめてこれ位は喝破できるようにならねば、本当のそば好きとは言えないのではと思ったりする。それにしても打たれた方の技量は大したものだ。速さはともかく、もう一流の域に達している。
3.でざーと
  「そば掻きぜんざい」:ぜんざいは久保さんの作。久保さんのところへは毎年越前大野から当地産の「大納言」が収穫できたと案内があるそうで、久保さんが受取りに行かれるとか。その後ぜんざいにまで仕上げられるのは奥さんとか、久保さんはぜんざいには全く目がない方だ。そば掻きは竹吉さんが両方掻かれたとか、残念ながら食していないので、全く評価できないのが残念である。せめてそば掻きを所望すれば良かった。後の祭だ。
  「シフォンケーキ」:石野さんの作である。やはり粗挽き粉と細かい粉を使っての作成、素晴らしい出来映えである。皆に等分に切り分けられ、お持ち帰りに。私が持ち帰ったケーキは家内のビールの摘まみに、いつもながらその腕前に舌を巻く。

  こうして楽しみにしていたみどりの里での会員そば打ちも、無事に終わった。私は何のお手伝いもせず、もっぱら食べて飲んでの二時間半、お世話いただいた方々には心から感謝します。本当にお疲れさんでした。有難うございました。

2012年6月21日木曜日

木村先生を囲んで生薬を懐かしむ会

表記の会は、旧生薬学教室に在籍した人及び先生が関わった植物研究や漢方研究の同好会のメンバーを母体にしている。この企画を初めて提唱したのは、生薬学教室に在籍し昭和37年に卒業した松本武さんで、彼は1年かけて名簿を作成し、翌平成18年6月25日(日)に金沢市で初の会を開いた。参加者は40名で盛会であった。その折この会を1年おきに開催することを申し合わせた。第2回は熊野正さん(昭29)が世話人となり、平成20年9月23日(水・祝)に23人が集い、金沢市で開かれた。第3回は私(昭34)が代表世話人となって、大正12年(1923)生まれの先生は、平成22年には88歳になられることもあって、米寿の祝いも兼ねて、6月20日(日)に金沢市で開催した。29名の参加があった。そして今年は安田幸子さん(昭41)が世話人代表となって、6月17日(日)に金沢市で開催され、27名が参加した。
 これまで4回の開催で参加された方の総数は54人で、松本さん作成の名簿搭載者167名に2010年発行の薬学同窓会名簿から未搭載の生薬学教室在籍者23名を加えた190名に対する割合を見ると、出席した人は全体の28.4%になる。そこで、卒業年次を昭28~33、昭34~43、昭44~53、昭54~63に区切って、それぞれの年代での出席率を見ると、順に73%(19/43),51%(20/39)、21%(14/67)、2%(1/58)となる。これから伺えることは、還暦(昭49卒が該当)前で現役で勤務されている方が多い年代の方の参加が極端に少なくなっていることだ。また還暦を過ぎた方でも、現に勤務されている方の参加は少ないようだ。近況から伺うと、年配の方の場合は体調を崩されたりで参加できないとか、中には親御さんや配偶者の介護のために参加できないとかである。また遠方の方の参加も少ないようだ。でも今回も北は福島、南は奈良からも参加があり、北陸3県以外からの参加者も14名と半数を超えた。また特徴的だったのは、今回初めてこの会に参加された方が8人もいたということである。
 この日の会場は金沢市香林坊の金沢エクセルホテル東急5階のエクセレントルーム、午前11時に開会し、凡そ40分間木村先生の講話後、最年少の千木良さんからの花束贈呈を行ない、その後別室で記念の集合写真を撮り、正午から午後2時まで会食という段取りである。私は先生の講話や出席者のスピーチを若干メモしたものの、どうも悪筆なこともあって、手前の字なのに判読に困るという始末、困ったことである。すると誤った記述をするかも知れず、ご指摘いただければ訂正するにやぶさかではない。

1.木村先生の講話から
 [薬草園のこと]:昭和25年に昭和女子薬科大学から金沢大学に赴任した当時、戸田構想で薬学部は城内へ移転ということになり、真先に生薬学教室が旧旅団司令部跡の敷地に移転した。ところで教室には薬用植物園がつきもので、先生は候補地になった旧第九師団の馬場跡で植物園造りに精出した。場所は現在玉泉院復元工事が行なわれている場所である。馬場であったからして砂地で、終戦後はそこにサツマイモなどが植えられていた。水はけがよいこともあって、草や木を植えた後は水やりが大変で、旧四高のプールからの水運びが大変だった。  然し漸く目処がついた頃、ここに県の体育館が建つことになり、薬草園は甚兵衛門坂を上がった一画に移ることに、ここは元は何だったか知らないが、私達が手伝ったのはこの頃である。そのうち薬学部の移転計画は白紙となり、ふたたび小立野で薬草園を開くことになった。候補の一帯は当時ゴミ捨て場同然の場所、動物の死骸なども埋められていた。先生は園丁の方と鍬を取り開墾され、皆が散策できる立派な薬草園に仕上げられた。きちっと区画されたものではないが、それがよい落ち着きを醸し出していた。しかし一部の先生からはあれは薬草園なんてものではない、先ず生えている木は皆切ってしまえとの御託宣、でも先生は容認できないと無視された。すると彼は草しか知らないとか、また思想が悪く、赤だとまで言われた。当時は上意下達のみ、下から上へは通らなかった。また植物園は園丁に任せて、研究室で仕事をしろとも、でもその傍ら薬草園は先生にとっては宝であった。そして昭和63年に退官されるまではこうして薬草園は守られた。  先生の退官後は、薬学部の角間への移転、小立野トンネル開通に伴う掘割で、旧の薬草園は随分削られたはずである。今の現状を私は知らない。あのメタセコイアは健在だろうか。
 [心の根底にあるもの]:先生の心底にあるのは宮沢賢治のヒューマノズムであり、仏教思想が根源となっている。それは人類平等の思想でもある。これは自然保護、すなわち生き物をいとおしむことにも通ずる。このことでは岩手県出身の熊谷君(昭和34年卒、後に岩手の名士と言われた)とは共感したという。先生がまだ東大の学生の頃、甲府の軍医学校に配属されていた当時、青少年義勇軍とか満蒙開拓団の人達は戦況が逼迫していて大陸へ渡ることが出来ず、山梨の笛吹川の上流で食料不足を補うために開墾をすることのなった。これには地元の樵夫や炭焼きの人達には大変な世話になったが、これも貴重な体験だった。一帯にはキハダ、ハシリドコロ、ヒキオコシなどの薬草が自生しており、これは大学へ戻って、ハシリドコロの分布調査の研究をする端緒となった。  四高から東大物理学科へ進まれた新保さんにも影響を受けた。彼の部屋には宮沢賢治の郷里の五万分の一の地図が一面に貼ってあり、心酔していた。後にこの先輩の妹と結婚することになる。また四高では、チェロの師であるアーネスト・ブライスという先生から、バッハのマタイ伝の中のコラールを教わった。この先生は俳句も嗜まれ、オーボエでパーセルの曲も披露してくれた。後に皇太子(現天皇)の英語教師もされたという。あの有名な○○女史の前のことだとか。また日本が負けたら日本人になるとも。  
 [桜のこと]:先生は石川県文化財保護委員もしていて、桜や椿に興味を持っていた。能登に自生する菊桜が新しい品種であることを見つけ、ケタノシロキクザクラなどいくつかは先生の命名による。それらは「日本の桜」として出版され、その本はこの前のこの会で先生から出席の皆さんに配布されたが、誰からも感想文が届いていないと嘆いておいでた。これらの桜から取り木されて植えられた木を別の地方で出会うと実に嬉しい。私は桜に没頭するために国立能登青年の家に移ろうとまで思ったが、それは大学で却下された。いま菊桜のことを後2年くらいかけて纏めたいと思っている。一方で辰巳用水を守るために、ダム建設に反対して来たが、係争中なのにダム本体は出来上がってしまった。

2.スピーチから
 マイクを使って話すのだが、先生は聞きづらいと言われ、傍に立って話すことに。
 [清水さん:昭44]: 福島県喜多方市の出身。もとは北方と書いたそうだ。福島は日本有数の薬草の産地なのだが、それが今放射能汚染に苦しんでいる。原発から100km離れているが、採取されたドクダミの全草、キハダやホオノキの樹皮は放射能で汚染されていて、廃棄しなければならない現況にある。洗浄による徐染でも、1,000Bqを20Bq以下にすることはできない。朝鮮人参も会津は信濃と並ぶ産地だが、製品になるには4年かかることから、放射能汚染が懸念される。稲の汚染でも、雨ばかりではなく、根からも吸収されているというから、天然物も栽培品も危機にさらされている。シイタケ、コシアブラ、ワカサギもである。
 [奥田さん:昭33]:一昨年のこの会で、奥田さんは生まれ故郷である喜界島での皆既日食(2009/7/22)の連続写真を配布された。奄美一帯が雨で観測できなかったのにである。この日は「思い出二話」ということで話された。  その一:終戦後、郷里の喜界島は琉球軍政府に統合され、国籍は琉球人ということに、そして昭和26年には米国陸軍省立の琉球大学へ入学した。ところが昭和28年12月に奄美諸島が日本に復帰し、国籍は日本人となった。その後文部省の計らいで日本の大学への道が開け、昭和29年に金沢大学に入学できた。そのとき大学での入学手続きでの女子事務員の心遣い、町で道案内をしてくれたお年寄りの親切、気配りしてくれた電車の運転手など、そのときの親切で心優しい金沢の人達を忘れることは出来ない。  その二:大学へ入ったが、家からは全く送金がなかった。そこで横安江町にあったうどん屋「いしや」で焚き木割りをした。日給は500円で3食付きだった。 『腹白いタラをタラ腹食べ過ぎて ダラになりけり我輩は』 『好きな勉強 ビーコン、トゥリコン、ダラダラダッタ』。 また凍てつく冬の雪下ろしは一屋根500円2食付きで、4軒も回ると収入は2,000円にもなった。当時の授業料は6,000円だった。木村先生の講義では、許可を得て早引けし、一目散にアルバイトへ。感謝、有難うだった。
 その他8人からスピーチが、磯野さんからは宝生流の謡「養老」が披露された。

2012年6月19日火曜日

京都へ行くまいかい(その2)

 {第2日)
 翌朝、再び展望風呂でゆっくり寛ぎ、朝食を済ませ、9時には一夜の宿「緑風荘」を後にする。すぐ近くには世界文化遺産の西本願寺があり、早朝に出かけた人もいたようだ。車は宿を出て、一旦西本願寺にほんの暫らく立ち寄り、門前から阿弥陀堂(本堂)や御影堂(大師堂)を仰ぎ見る。その後車は西進、桂川を渡って川の右岸沿いに北へ向かう。どこをどう通ったかは皆目分からないが、京都市内なのに町中に畑があったり、水田があったり、こんな経験は初めてだ。だがややあって漸く見慣れた渡月橋の袂に出た。橋を渡って、世界文化遺産でもある天龍寺へ向かう。天龍寺の境内は広く、かつては嵐山も亀山も境内だったという。係員に誘導されて境内にバスを停める。
  『天龍寺』:臨済宗天龍寺派の大本山、正しくは「霊亀山天龍資聖禅寺」とか。足利尊氏が夢窓国師を開祖として創建したという寺である。夢窓国師は堂宇建立の資金調達のために、「天龍寺船」による貿易を行ない、康永2年(1343)にはほぼ七堂伽藍が整えられた。度々大火に見舞われ、現在ある堂宇の多くは明治になってからの再建であるという。この夢窓国師によって作られた曹源池を含む庭園は、国の史跡・特別名勝第1号に指定されている。また天龍寺は平成6年(1994)には世界文化遺産に登録された。
 バスを降りてそぞろ歩くと、正面に豪壮な庫裏と相対する。私達は左手の受付から庭園拝観に入る。大方丈をぐるりと回り、さらに書院の脇を通り、曹源池に沿って付けられた白い砂利道を歩む。北側から見ると、向こう側に嵐山が見え、借景になっている。庭には桜や楓が多く、春や秋はさぞや見事であろうと思われる。拝観コースをさらに奥へ進むと竹林の庭、綺麗に手入れされている。我が家の竹薮とは全く違う。雨が少し降ってきた。
 天龍寺を出て南へ下がり、大堰川(上流は保津川、下流は桂川)へ向かう。川の岸には遊覧の川舟が多く繋がれている。その一隻に乗る。操舟は竹竿一本、見るとアベックで二人しか乗っていない舟もある。それにしても2人と17人とでは、上流へ向かう労力には差があろうに。でも後で知ったことだが、原則相乗りはないとのこと、要は貸切ということらしい。それにしても、2人ならともかく17人も乗ると船頭もしんどかろうに。相乗りは繁忙期のみとかである。ゆっくり上流へ。すると川の中流に飲み物や食べ物を売っている舟がいて、船頭はその舟に横付けた。うまくできている。グルだ。私はビールを頂く。皆さんそれぞれに何某かを求める。商売が済むと、その舟は別の場所に移動していった。やがて川に瀬が見えてきて、舟はその手前で反転して下りになり、元の舟乗り場に戻った。凡そ30分ばかりの嵐峡の遊覧であった。7月になるとここでは鵜飼が行なわれるし、秋には紅葉、冬には雪景色、春には桜と、四季折々に堪能できる。
 次に向かうのは湯豆腐の「嵯峨野」、予約の時間にはまだ少し早いとかで、暫らく川の辺りでぶらぶらする。やがて声がかかり、天龍寺へ戻るようにして「嵯峨野」へ向かう。
 『嵯峨野』:平屋建ての新館の前を通り、鍵の手に曲がって本館へ、入って二階へ上がり座敷席へ。眼下には庭が見下ろせ、枝振りのいい赤松が素晴らしい。その奥は竹林、でも竹は中途から切られていて、一寸風情がない。今は若竹が伸びている。パンフレットには冬は湯豆腐のみ、夏はほかに辛子豆腐、冷しそうめんも選択できるとあるが、やはり初めてなら湯豆腐だろう。大きな土鍋に京都伝統の嵯峨豆腐が、お酒がすすむ。ここは昼時は混み合うが、その時間帯を外せば、フリでも入れると教えてくれた。京の有名な湯豆腐に出会えて満足だった。
 この後、土産物を仕入れるとて、洛北の北山通りのとある洋菓子店へ寄る。店内は押すな押すなの混雑ぶり、有名な店なのだろう。通りを挟んでの南側には京都府立植物園、何回か足を運んだことがある。また近くには「じん六」とか「もうやん」といううまい蕎麦屋があり、ここにも数回足を運んだことがある。懐かしい場所だ。家内も随分と買い込んだ様子、私には縁のない店だ。皆さんが買い終えるのにかなりの時間を要した。
 さて、この「京都へ行くまい会」もそろそろ大団円、残すは伏見・醍醐にある醍醐寺の参拝のみとなった。嵐山は京の西の端、その後北の端の上賀茂まで行き、そして醍醐はというと京の東南の隅、端から端へぐるりと回ったことになる。醍醐寺に着いたのは午後3時半だった。
 『醍醐寺』:真言宗醍醐派の総本山である。醍醐寺は弘法大師の孫弟子にあたる理源大師・聖宝によって、貞観16年(874)に創建されている。いわれによると、山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った折、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神の示現によって、こんこんと」湧き出る霊泉(醍醐水)を得て、この山を譲り受け、ここに小堂宇を建立して、准抵・如意輪の両観音を刻み山上に祀ったのが醍醐寺の始まりであるという。その後延喜7年(907)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立され、更には五大堂も落成するに至って、山上の上醍醐の伽藍が完成した。この醍醐天皇の願いは朱雀・村上両天皇に引き継がれ、山下(下醍醐)の地にも伽藍の建立が計画され、延長4年(926)には釈迦堂が、天暦3年(949)には法華三昧堂が建立され、天暦5年(951)には五重大塔が落成し、山上山下にまたがる大伽藍が完成した。その後も多くの堂宇が建立された。
 しかし長い歴史のなかで何度も火災にあい、文明・応仁の乱では五重塔を残して下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃した。その後長い間復興されなかったが、慶長3年(1598)の春に豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に、秀吉や秀頼によって金堂や三宝院、また山上では開山堂や如意輪堂などが再建された。
 現在一山は国の史跡に指定され、長年護り続けられてきた10万点以上の寺宝類の多くは国宝(41点)、重要文化財(63,692点)に指定されている。(平成22年度末現在) また醍醐寺は世界文化遺産にも登録されている。
 私達は朱塗りの西大門(仁王門)から入り、国宝の五重塔へと進んだ。この塔は、醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が承平元年(931)に起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成したもので、完成に20年を要した。京都では最古の木造建築物と言われている。高さは38m、そのうち相輪部が12.8mで、全体の3割以上を占める。塔内部の壁画は創建当時のもので、塔本体とは別に国宝に指定されている。見上げると、その重厚さに圧倒される。次いで真如三昧耶堂へ向かう。この堂は法華三昧堂として創建されたものだが、後に焼失し、平成9年(1997)に再建された。内陣には中央に伊藤真乗が謹刻した涅槃尊象が安置され、向かって右には伊藤真乗、左には伊藤友司のいずれも金色の胸像が安置されている。伊藤真乗は真言宗醍醐派の阿ジャ梨であり、昭和59年(1984)には、弘法大師御入定1150年遠忌では導師を務められている。尊象は真如苑の教主様と霊祖様である。
 次いで少し下って醍醐寺の本堂である金堂へ行く。この金堂は豊臣秀吉の発願により紀州から移築されたもので、移築は秀吉の没後の慶長5年(1600)に落慶している。正面7間側面5間の入母屋造り本瓦葺きの建物である。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作とされ、いずれも重要文化財に指定されている。
 今回は約1時間の参拝で、下醍醐にある伽藍のごく一部しか見ることが出来なかったが、またの機会には開山堂がある上醍醐にも行ってみたい。そこへは登山口にある女人堂から山道を約1時間かけて登らねばならないというが、ぜひ訪れてみたいものだ。また醍醐寺は「醍醐の花見」や力自慢の男女が大きな鏡餅を持ち上げる「餅上げ力奉納」でも有名である。
 
 こうして今回の「京都へ行くまいかい」は終わった。随分と盛り沢山であったが、これも車という機動力があったからで、それにも増して優れた企画の賜物である。少なくとも彼女はもう1年は在学するし、大学院へ進学すれば、少なくとも更に2年は続けられる皮算用になる。企画実行に当たったT先生夫妻に感謝したい。また当初の予算内に納まったと報告され、これには驚きを隠せなかった。正にオンブにダッコの楽しい旅だった。

2012年6月18日月曜日

京都へ行くまいかい(その1)

私の家内の兄弟姉妹は5人で、上から順に、長姉、長兄、次姉、本人、弟である。この中での総帥は長姉で、夫のほうも長男である旦那が総帥で宮田一家を仕切っている。一方で姉御の方も別に宮田組を形成している。それは血族と姻族の差であって、当然のことかも知れない。宮田の長姉と家内とは姉妹であるから繋がりは強く、家内はよく訪ねている。長姉には三人の娘がいて、それぞれ順に3人、3人、2人の孫がいる。そしてさらに長女の二人の娘には3人と1人の曾孫がいる。曾孫にとって長姉は曾祖母にあたるし、家内の姪に当たる長女は祖母ということになsる。家内よりずっと若いのにである。
 さて、家内は宮田組の一員であるからともかく、私までも声がかかって、家内の姪の子の結婚式、一泊旅行、進学祝、内輪の会などに、都合5回もお誘いを受けた。このうち平成21年(2009)の3月に、家内の姪にあたる三女の娘さんが、二水高校から京大に合格したとかで祝賀会が持たれ、素晴らしい快挙ということで私も参加した。宮田組の一族郎党が集まった楽しい会であった。後で聞いたことだが、その折に京都に娘が一人で行くのだから、皆で京都へ行くまいかということで「京都へ行くまい会」というのを発足させたとかであった。でもその年の秋には京都から娘さんが帰郷して、能登の輪島ねぶた温泉「能登の庄」へ旅行したし、平成22年(2010)には私達の三男坊が他界したこともあってか、旅行には出なかったし、平成23年(2011)には宮田家に面々が寄って、名目は忘れたが内輪の会が持たれた。
 そして今年、平成24年(2012)には晴れて「京都へ行くまい会」が現実に駆動することになった。日取りは6月2,3日の土日、この時期私は学童健診で忙しい時期なのだが、土日とあれば休日なので全く問題はない。二つ返事で参加することにした。そして東京の次姉夫婦も参加するという。そして程なく家内の姪に当たる三女の方から「京都へ行くまいかい!」というカラー刷りの冊子パンフレットが届いた。これまでも旅行の後にスナップ写真を編集した冊子を戴いていたが、今回のはこれまでになく実に素晴らしい内容になっていた。この夫妻は共に中学校の先生である。先生にこんな技術が必須なのかどうかはともかく、スケジュールから訪ねる場所まで、説明も写真とイラスト付きで実に分かりやすく解説されている。驚きである。先生は多忙だと聞いているが、ひょっとして睡眠時間を削っての制作じゃなかったろうか。冊子はA4で18ページ、とても誰もが簡単に真似できるものではない。
 今度の旅行には延べ17人の参加、アシにはマイクロバスを使用とか、運転は家内の姪にあたる三女の旦那先生、マイクロバス運転の免許をお持ちとか。国体でも県で責任ある立場にあることもあって、よくマイクロバスを運転して遠出することもあるという。彼の運転には以前にも接したことがあるが、正確な運転で乗っていて安心感があるのが嬉しい。嫁はんも運転上手だ。ところで家内からは、曾孫が4人同乗するが、中々活発な子達なのでバスでは騒ぐのは必定、気分を害することがあっても絶対怒らないでと釘をさされた。私は妙薬を飲んで乗るから大丈夫と言ったものの、どう対処すべきかはその場に当たってみないと分からないと思っていた。会費は男性5万円、女性3万円とのことだったが、それで足りるのかと心配だったが、足りなきゃ集めればよいとのことだった。
{第1日}
 宮田家からの出発は午前7時、東京の次姉夫婦は京都で合流とかである。上荒屋を出た後、すぐ近くに開設された白山ICから高速道へ、途中女形谷PAでトイレ休憩、南条SAで軽い朝食、多賀SAでトイレ休憩し、京都東ICで高速道を下りた。時間は11時少し前、京大生の娘さんの住まいが銀閣寺の近くとかで、娘さんと合流した後予定を変更して銀閣寺へ行くことに。娘さんは来週から教育実習とか、実習は郷里の出身母校でとのことで、選んだのは出身中学校、期間は3週間、このバスでいったん帰郷ということになった。
 『銀閣寺』:正しい寺名は「東山慈照寺」というそうだ。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、世界文化遺産になっている。訪れたのは大学の山岳会の総会が京都嵯峨の地であった時以来だ。総門から中門への参道の両脇に聳える背の高い生垣が印象的である。境内では径を辿り展望所へ上がった。ここからは境内を一望できる。観音菩薩を祀る銀閣(観音殿)の落ち着いた佇まいをを見ると心が休まる。踏襲したという金閣とは別の佇まいだ。
銀閣寺を出て、バスは西へ向かい、京都大学をぐるりと回って、昼食場所の「六盛」に向かう。
 『六 盛』:場所は平安神宮西横、疎水北側とある。名を聞いたことはあるが、訪れるのは初めてだ。創業は明治22年(1899)とか、京料理の老舗である。この六盛の名は、明治25年(1892)に学区制が敷かれた際、この学区内の6地区の繁栄を願って出来た組織「六盛会」に由来するという。二階へ上がる。部屋は明るくて開放的、本来は畳敷きなのだろうが、テーブルと椅子が設えてある。京料理そのものの、小奇麗な籠盛り弁当が出る。そして私たちは京の地酒の冷酒を当てに弁当を戴いた。
 六盛を出て、すぐ近くなのだがバスで移動して、京都市動物園と疎水を挟んで向い側にある「無リン庵へ行くグループに分かれる。子供らの親子は動物園へ行く。
 『無リン庵』:ここは元老・山県有朋が京都に造営した別荘であって、広い敷地の大半は彼自身の構想により、造園家の小川治兵衛が作庭したものだという。疎水から水を引き、滝、せせらぎ、池、芝生を配した池泉回遊式庭園である。この庭は明治時代の名園として国の「名勝」に指定されている。建物は母屋と茶室と洋館、中でも洋館は明治31年(1898)の建立で、二階には江戸初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、ここでは明治36年(1903)4月21日に、元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人による日露開戦直前の我が国の外交方針を決める無リン庵会議が開かれたという。
 その後シニアグループは、お茶屋「静閑院」に入り、抹茶の乗ったソフトクリームをゆっくり腰を下ろして堪能、だが私には天敵だ。
 再び合流してバスに乗り、長躯洛北の大徳寺へ向かう。でも時間はやがて午後4時、大方の塔頭は閉まっていたが、まだ拝観できる龍源院へ行く。
 『龍源院』:洛北にある臨済宗大徳寺の塔頭で、大徳寺では最も古い寺であるそうだ。方丈や表門などの建物は室町時代に作られた檜皮葺き、重厚だが素朴さが漂う。方丈前の石庭は「一枝坦」と言われ、左に大きな楕円形の「亀島」、そして右奥には石組の「蓬莱山」、右手前には石組の「鶴島」を配し、綺麗に掃かれた白い小石は大海原を模しているという。しばし縁に腰掛けて、不要なもののない庭と対峙する。また方丈の北側には「竜吟庭」がある。一面の杉苔の海原の中央奥には、須弥山を模した奇岩が聳えている。そして手前に遥拝石が配されている。そして方丈の東には、我が国最小という深く吸い込まれそうな感じの石庭「東滴壺」がある。また書院の間には、ショーケースの中に天正11年(1583)の銘のある種子島銃が飾ってあったが、かなり大きく重たそうだ。後年の銃よりはるかに大きい。また豊臣秀吉と徳川家康とが対局したという四方蒔絵の碁盤と碁筒も展示してあった。
 大徳寺を出て、今宵の宿の緑風荘へ向かう。
 『緑風荘』:小奇麗な西洞院通りに面した宿、西本願寺と東本願寺の中間の北側に位置している。よくある大団体用の宿ではなく、部屋も大部屋ではない。男性4人が一緒の部屋。先生もようやく運転手から解放された。本当にお疲れさんでした。6階にある展望風呂から上がり、先ずは持参の「菊水」で乾杯し、次いで次女の旦那が持参した「キス・オブ・ファイア」とかいうブルーの洒落た瓶に入った酒を頂く。欧米では人気の逸品とか、私は始めて接するサケだった。「常きげん」の蔵の作品とかである。夕食前にホロ酔いになってしまった。夕食は季節感のある京会席料理、充分に堪能した。はじめパンフレットを見たときは、町方のありふれた旅館と思っていたが、どうしてどうして、料理も応対もとても良くて、またぜひ訪れたいと思った宿である。

2012年6月13日水曜日

平成24年ゼレン会イン加賀

ゼレン会というのは、昭和34年(1959)に金沢大学薬学部を卒業した同窓生の会の名称である。卒業の34年に因み、元素番号34から元素名を頂戴し「ゼレン会」としたものだ。ところが私がこの経緯を聞いたのは随分後のことで、卒業生の総意で決めたことだから、知らないのは、卒業式に出席できなかった私のみということだった。私はというと、卒業時には、胃潰瘍と十二指腸潰瘍で洗面器一杯の吐血をして大学病院に入院していた。当時は大きな潰瘍は切除するのが通例、それは朝の連続テレビドラマを観ている方なら、当時の治療方針がそうだったということは理解してもらえよう。私も母親も切腹は覚悟していたのだが、丁度時は年度末、外科学会の総会があって、主治医の先生が10日ばかり大学を留守にされ、その間に快方に向かったことから、帰られた先生から手術はしなくてもよいかも知れないと言われ、切腹を免れたという経緯がある。
 さて、何時頃からか、ゼレン会は毎年の開催になった。それまでは2年置き、ただゴルフコンペは毎年やっていたようだ。それで現在は開催を地元とそれ以外の地とで交互に行なうことにしている。それで今年は石川の地での開催である。現在地元には同窓生が4人いるが、よく顔を会わせるのは3名で、通称トクさんのN君がゼレン会の会長をしていることもあって、すべて彼が中心となって行なわれる。O君も私も彼任せで、オンブにダッコだ。一夜の宿はダイヤモンドオーナーズホテル片山津温泉ソサエティという会員組織の宿、これは「東伸」という会社の現社長である同窓のFさんの世話である。彼女は岐阜の大垣に在住しているが、旦那他界の後は社長を継ぎ、年に数回は外国へも商談に行くというキャリアウーマン、この宿は旦那存命中から会社ぐるみでよく利用しているとか。それで彼女の提案もあって、実に割安の料金で利用できることになった。
 5月25日金曜日、私は午前中ぎょう虫の鏡検をし、午後会場へ向かった。前日にはゴルフ組が前泊していて、当日はゴルフ三昧、でもいつもは8人2組なのに、今年は4人1組、不参加なのは身体の調子が良くないからとか、参加人数はこれから年々減るようだ。現在ゼレン会の会員は29名、今回の参加者は15名、半数が集まったことになる。アシは車と電車、長駆仙台や四日市からも車での参加があり、後期高齢者と言えども、まだまだ元気だ。私が着いたのは午後3時、もう半数の人が着いていた。何にもお世話できなかったので、せめてもの罪滅ぼしに残りの人の到着を待つことに。駅への出迎えはホテルの方でやってくれ、当初は私たちがしなければと思っていただけに、これは助かった。
 入湯の後、全員浴衣に羽織掛け(浴衣のみでは廊下へは出られない)、これは彼女の希望だった。宴席はテーブルで椅子席、献立も「ゼレン会様」となっていて、彼女の采配が伺われる。品は一品ずつ出され、都合十二品、お酒も清酒、ビール、ワイン、焼酎など充分に堪能した。2時間半の宴席、済んでは幹事部屋でのお喋り、久しぶりに時を忘れて話し合った。宴会でも皆さん近況を話したが、かいつまんで少し紹介してみよう。
●世話人のO君:彼は飛騨高山の出身だが、卒後居座り、金沢の人になってしまった。四国八十八箇所巡りを三度も、それも徒歩で完遂したという剛の者、一方で今でも名の通った合唱団のメンバーの一員であり、また俳壇でもこの人ありと知られた存在、翌日の半日観光でも、常にメモをとるという熱心さ、頭が下がる。
●仙台在住のO君:東北大震災に遭遇、幸い住居は高台にあって、津波の被害はなかったものの、当時の生々しい状況を聞かされた。停電10日、断水20日、それにモノ不足が深刻だったという。今は生活は元に戻って、囲碁とゴルフが生活の中心だとのことだが、前日のゴルフコンペでは往年の影がなかったとは同行者の弁、どうしたのだろうか。
●富山在住のNさん:旦那さんは同級生で、あの金大トップで入学したN君、他界されてしまったが、彼女は今娘さん夫婦と一緒にお住まいとか。ガンで手術され、その近況を身辺句として披露され、彼女の日常と折々の感情を吐露してくれた。
●前橋在住のK君:会社経営は息子さんに任せ、県の学薬会長も後進に譲り、自由な時間を謳歌していると思いきや、腰痛からくる間欠跋行と下肢の痺れ・痛みなどで杖が必要な毎日、それで温泉治療をしながらのリハビリ、一見そんな風には見えないけれど、好きなゴルフが出来ないなど、本当なのだと思わざるを得ない。
●関西在住のK君:同窓では一番のゴルフのやり手じゃなかろうか。奥さんも中々の腕前だとか、夫婦揃っての同じ趣味とは羨ましい。ところで車の運転は片道100kmを超える運転は許可にならないとか。それで今回は電車での参加、夫を想う気持ちが伝わる。
●四日市在住のN君:まだ現役で週3日の管理薬剤師。ゼレン会には以前は自動二輪での参加だったが、今は四輪にしたとか。まだ勤務しているのは、趣味のゴルフと社交ダンスの費用捻出のためとか、目的があるということは素晴らしい。
●会長のN君:世話好きで、この人が居ないと会が立ち行かない。あの震災があった3月11日が誕生日だったとは。昨年は石川県薬の会長をされていた兄貴さんが急逝され大変だったが、それでも彼は会の開催に尽力してくれた。頭が下がる。
●所沢在住のT君:学生の頃はスポーツマン、今は肥満タイプだし、薬も9種類飲んでいるとかで、一見不養生なようだが、見せてくれた検査データを見る限りは、私よりずっと健康状態が良い。でも彼は今年はゴルフに参加しなかった。その理由の一つはゴルフ場でのカート利用が必須なのだとか。
●さいたま在住のTさん:もう薬局も閉められ、山などへもよく出かけられていたけど、今は代わりに観光地へ出かけているとか、これは「暇人の仕事」と嘯かれる。元気そうで、毎回参加される常連だ。
●富山在住のN君:学生の頃から「御大」で通っている。金大トップ入学のN君の相棒でもある頑張屋だ。彼は日医工の専務で辞めたが、現役中は訛りのある英語を駆使して世界中を飛び回った。役職に就いて間もなくゴルフをせざるを得なくなり、3週間の練習でグリーンに出たとかだが、その時のスコアが190だったとか。でもアメリカの名門コースでホールインワンを成し遂げ、証明書を頂いたことがあり、努力と運の持ち主でもある。その彼が一昨年大腸癌に。部位は上行結腸、手術のため常用していたアスピリンを一時中止したところ、心臓に生じた血栓が脳に飛んでの脳梗塞、もしもを予想して息子に遺書までしたためたとか。大腸癌の方はリンパ節転移もなく、小腸と結腸を吻合した後は、脳梗塞の影響は若干出ているものの、今はほぼ八割方近く回復したという。
●福井在住のN君:彼は心臓弁膜症で手術をしたという。彼とは学生時代に一緒に山へ行ったことはないのだが、いろいろ話を聞いていると、一念発起して階段上り下りのトレーニングで足腰を鍛え、以来私よりは遥かに広範囲の山々を踏破しているのには驚いた。今もまだ出かけているとかだが、とにかく恐れ入った。彼は金沢生まれなのだが、卒業後はずっと福井に住み、福井の人になってしまった。
●福井在住のKさん:旦那さんを亡くし、薬局も閉め、今は一人暮らしとか。以前は山へも出かけたそうだが、今は本を読み、音楽を聴き、趣味の書道をし、小旅行をし、充実した日々を送られているとか、羨ましい。今は家庭菜園も始め、これがとても楽しいとか。
●富山在住のM君:彼は製薬会社を辞めてからは郷里の福光で調剤薬局を経営している。彼は学生時代には山へはあまり行っていなかったように思うが、就職してからはよく行き、日本山岳会にも所属しているはずだ。今でも昔の仲間と春と秋には登山しているという。私よりはるかに元気だ。また彼の特技は絵を描くことで、今回も寄せ書きの挿絵も彼が描いたが、正に玄人はだしである。そして驚いたことに、彼の父は101歳とか、お元気で毎日一合の晩酌を楽しまれているとか、彼も長生き筋だ。

 翌日は半日観光、3人が帰り、残り12人が3台の車に分乗して那谷寺を拝観し、次いで加賀市橋立にある北前船の里資料館を見学した。私にとっては初めての入館、北前船が単に物資の輸送をしたのではなく、その商品を必要とする土地での商いをする商社の働きをも兼ね備えていたという。その利ざやで巨万の富を築いたのだそうだ。でも鉄道の敷設で、この海上輸送の役目は終わったという。
 昼食は宿から推奨されたという、資料館とは程近い小塩町の山本屋へ入った。何か歴史を感じさせる店で、橋立港に隣接しているので、新鮮な魚料理もさることながら、ずわい蟹の蒸し焼き2尾が3人に1盛り出たのにはたまげた。とても食べ尽くせなかった。しかも当てがノンアルコールでは・・。そして加賀温泉駅で解散。次回は再度O君の世話で、再び仙台で開催することになった。元気で再会したいものだ。

2012年6月6日水曜日

ラ・フォル・ジュルネ金沢 2012 サクル・リュス

ラ・フォル・ジュルネ(LFJ)は1995年にフランスの港町ナントで誕生したという。ナント市は金沢市とは姉妹都市でもある。このLFJを創出した仕掛け人は、この地で生まれたルネ・マルタンで、初めはナント市だけでのイベントだったが、それがフランス国内に広がり、さらに国外にも広がっていった。日本には東京に2005年に上陸、そして金沢では2008年に初めて開催された。以後、5月3日~5日のゴールデンウィークに開かれるLFJ金沢には、多くのアーティストが集まり、世界の一流の演奏家たちの演奏を、1公演約45-50分で、しかも低料金で聴くことができる。これまではモーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ショパンといった作曲家をメインテーマにしたものだったが、今年のテーマはフランス語でサクル・リュス、日本語では「ロシアの祭典」と銘打っている。この日本語訳はストラヴィンスキーのバレー音楽の名作「春の祭典」のフランス語題名に因んでいる。これまでのテーマとの違いは、作曲家個人ではなくロシア音楽としたことで、ロシア音楽の歴史の様々な切り口を知ることが出来ることである。公式パンフレットには、先頭にラフマニノフ、右手にチャイコフスキーとリムスキー・コルサコフ、左手にストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチが揃い踏みしている。LFJ金沢には上記6人のほかにも、ロシア音楽の父とも言われるグリンカ、ロシア五人組のバラキレフ、ボロディン、ムソルグスキー、ほかにも、グラズノフ、スクリャービン、カバレフスキー、シュニトケ、リャードフなど、普段なかなか聴けない作曲家の曲も演奏される。
 オーケストラ・アンサンブル金沢の定期会員の場合、5月3日ー5日の公演については、一般会員よりも早くに予約が可能で、私はコンサートホールの5公演を予約した。1公演あたりの料金は1,500~3,000円である。印象としては、年々聴衆の数が増えているようで、県外からもバスをチャーターして来る人たちや、金沢駅に近いこともあって電車で来る人も目立った。終了後に発表された観客動員数は延べ12万人とか、年々増えていて、このイベントが金沢に定着した印象を受ける。以下に私が聴いた公演の印象を述べる。
 5月3日(木・憲法記念日)石川県立音楽堂コンサートホール
・公演112(12:00-12:45)ウラル・フィルハーモニー管弦楽団.ドミトリー・リス指揮.庄司紗矢香(Vl). ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 op.77.
 このオーケストラは現監督が就任してからというもの、田舎の楽団から脱皮して大きく飛躍したと言われる。毎年訪れているが、今年は庄司紗矢香との協演、しかも来日直前にこの曲をリリースしたと聞いていたので、ぜひ聴いてみたかった。曲は1948年に作曲され、ダヴィド・オイストラフに献呈されたが、前衛的な内容から作曲家批判が起き、初演は1955年になったという曰く付きの曲である。庄司紗矢香は1999年に16歳の若さでパガニーニ国際コンクールに優勝していて、今や世界で活躍する日本を代表するヴァイオリニストの一人である。ウラル・フィルは四管編成の大オーケストラ、特に今年はテーマ国の楽団でもあり、存在感が大きかった。この曲は難曲なうえに、オケとの間合いの取り方が難しいのに、弾ききったのには感激した。特に第3楽章の終わりのソロのカデンツァは特に技巧が必要で、その弾きぶりに皆が釘付けになった。だから終わった後、一瞬の静寂、そして万雷の拍手、拍手が鳴り止まず、感動で席を立つ人はなく、次の公演がありますのでとまでとまで言わせてしまった。ウラル・フィルはこの日、井上道義の指揮で「交響曲第12番」も演奏した。
・公演113(14:00-14:45)台北市立交響楽団.西本智実指揮. チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 op.74「悲愴」.
 ロシアを中心に活躍してきた人気女性指揮者の彼女が、台湾を代表するオーケストラを指揮した。演奏する曲は彼女の得意とする人気の曲、でも先のウラル・フィルと規模は同じなものの、聴き比べると劣っているように思えた。私の興味は初めて聴く台北市立交響楽団の実力と西本智実のその後を見たかったのだが、この日は指揮棒なしでの指揮だったが、いつも左右対称の腕の振りと不自然なスコアのめくりが気になった。指揮棒を持っての方が良いのではと感じた。
 5月3日(土・みどりの日)石川県立音楽堂コンサートホ-ル<br /> ・公演212(12:00-12:45)オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK).山田和樹指揮.アンリ・ドマルケット(Vc). グリンカ:「カマリンスカヤ」ロシアの踊り歌の主題によるスケルツォ. リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲 op.34. チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲イ長調 op.33.
 山田和樹は2009年の第51回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、日本やヨーロッパで活躍している。現在OEKのミュージックパートナーである。また今秋には、スイス・ロマンド管弦楽団客演指揮者、日本フィルハーモニー管弦楽団正指揮者に就任の予定である。チェリストのアンリ・ドマルケットは初めて聞く名前の人である。私がこの公演を聴いた目的はヤマカズで、その指揮ぶりに興味をもった。3曲ともよく演奏されるポピュラーな曲で、ヤマカズはもう何度もOEKを振っていて、よく息が合っていた。端正で若々しい指揮ぶりには好感が持てる。スコアはめくるものの、コバケンの指導よろしく、指揮に専念する様子が伺えて頼もしい。まだ33歳、これからの飛躍が期待される。また第3曲目のチャロとの協演もチェリストを慮っての指揮、見事だった。昨日は二つの大編成のオーケストラを聴き、今日はその半分にも満たない編成のOEKとを聴き比べて、音の響きの違いを実感した。演奏者の技量もさることながら、楽器にも一因があるような印象を受けた。第2曲目のヴァイオリン・ソロなどは特に光った。
 5月4日(土・こどもの日)石川県立音楽堂コンサートホール
・公演314(14:45-15:30)オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK).井上道義指揮.ロマン・ルルー(Trp)小曽根真(Pf). チャイコフスキー:弦楽セレナードハ長調 op.48. ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 op.35.
 OEKは1988年に岩城宏之を音楽監督として創設された日本初のプロ室内オーケストラであって、国内ばかりでなく海外でも活躍している。岩城宏之他界の後、2007年からは井上道義が音楽監督を務め、彼はこのLFJ金沢ではアーティスティック・プロデューサーとして音楽祭を牽引している。また小曽根真(おぞね・まこと)は世界で活躍する我が国を代表するミュージシャンである。テレビのインタビューでは、近頃は即興とは縁遠いクラシックにも1年に1本の割りで本格的に取り組むとしており、CDもリリースしている。演奏は熱狂的で、凄い迫力がある。ロマン・ルルーは初に聞く名前、フランス生まれの29歳、2009年にはフランス最大の音楽賞「ヴィクトワール」の新人賞を受賞しているという。
 第1曲の弦楽セレナードはOEKが初めてCDの録音をした際、県内に適した録音場所がなく、中でもましだった野々市町文化会館の「フォルテ」を利用したのでよく覚えている。この時はモーツアルトの交響曲第40番も録音された。利用されたのはこれ1回のみだ。この曲はモーツアルトへの愛情から作曲されたとされる。特に第2楽章のワルツが有名である。井上道義の指揮は指揮棒なしで、ジェスチュアが大げさであるが、的確で好感が持てる。第2曲のショスタコーヴィチのピアノ協奏曲はトランペットも入る変則的な曲だが、勿論メインはピアノ、小曽根のピアノは実に大胆な弾きぶり、聴衆を圧倒した。演奏が終わるや正に熱狂的な拍手の嵐、久々に興奮した。彼はクラシックを弾くと、ジャズでは使わない筋肉を使うと言い、それがまたジャズに新鮮味をもたらすとと言う。終了後のサイン会には長蛇の列、サインの後には一人一人と握手、彼の人柄が滲み出ていた。
・公演315(16:45-17:30)京都市交響楽団,井上道義指揮. グリンカ:歌劇「リュスランとリュドミラ」序曲. ムソルグスキー(ラヴェル編曲)組曲「展覧会の絵」.
 このオーケストラは1956年に日本で唯一の自治体直営の楽団として設立された。したがって団員は京都市の職員で、その地位は安定している。現在OEKの音楽監督をしている井上道義は、前任は京都市響の音楽監督であり、古巣のオーケストラを振ったことになる。京都市響も四管編成の大オーケストラで、2曲とも大編成に相応しい演奏を披露してくれた。ただ若い女性が多く、専属で専念できる環境でありながら、プロ意識が足りない印象を受けた。井上道義が古顔が少ないと言っていたが、そのことが気になった。
 こうして今年のラ・フォル・ジュルネ金沢「熱狂の日」音楽祭 2012 は終わった。今年は昨年に懲りてクロージング・コンサートは敬遠したが、来年のテーマはフランスだとか。