2010年8月27日金曜日

「もっとカンタービレ」へのお誘い

 米田さんから「もっとカンタービレ第22回(IMA&カンタービレ・ジョイントコンサート)」に出演される江原さんからお誘いがあったとの手紙を頂いた。〔江原さんからのメール:22日18時より、音楽堂地下交流ホールにて、室内楽シリーズの「もっとカンタービレ」があります。数年前にチャイコフスキーコンクールで優勝した神尾真由子さんが弾きますし、江原も一曲出ます。チケットは出演者割引で預かっています。もし興味と時間のある方がいらしたら、聴いていただけると嬉しいです〕。続いて米田さんからは、「一夜缶ビールをやめて、江原さんからのプレゼントをお受け取りになりませんか。魅力的な価格のチケットにつきましては、米田にお申し付け下さい」と。
 早速お願いしたところ、わざわざチケットを届けて下さった。米田さんの仲介で、探蕎会の方々も聴きに行かれるとか。これまでこの室内楽コンサートがあることは私も知ってはいたが、聴いたことはない。後で知ったことだが、この企画はOEK(オーケストラ・アンサンブル金沢)の楽団員がオールプロデュースしているとのことだった。
 コンサートの当日、開場5時半少し前に着いたのだが、もう長蛇の列、前田さんや寺田先生は既に前の方に並んでおいでた。エライ人気なのに驚いた。私は永坂、早川両先生、米田さんとご一緒、後で岩先生も見えられた。交流ホールは固定した椅子席がなく、何人入られるかは知らないが、係員に聞くと、これ位の人数なら十分入れますと。私はこの会場でラ・フォル・ジュルネのクロージング・コンサートがあった際、始めから終いまで立ち見だったことをふっと思い出した。
 1曲目は神尾真由子さんのヴァイオリン独奏でパガニーニの24のカプリースから5曲。この曲は超難曲として知られ、ヴァイオリンのあらゆる難しい技法が随所に盛り込まれていることで知られる曲、中でも最終の第24曲は特に有名で、リストやブラームス、ラフマニノフなどがこの曲を主題とした狂詩曲や変奏曲を作曲していて、私はむしろこちらの方が馴染み深い。だから生のソロで聴いたのは勿論初めてで、とても新鮮だった。しかも弾きぶりも大したもので、堪能した。この曲は昨年リリースされている。特に驚いたのは弾きながらの撥弦、今度で二度目だが、実に凄い技術だ。彼女は今24歳、3年前には4年に一度開催される若手演奏家の登竜門であるチャイコフスキー国際コンクール(第43回)のヴァイオリン部門で優勝している。この部門での日本人の優勝は、1990年の諏訪内晶子以来2人目である。という彼女は2000年と2001年にIMA(いしかわミュージックアカデミー)を受講している。また2008年にはOEKと共演している。使用楽器は、名ヴァイオリニストのヨアヒムが生前使用していた1727年製のストラディヴァリウスで、2001年にサントリーから貸与されている。
 2曲目はブラームスのクラリネット五重奏曲、ブラームスがクラリネットの名手ミュールフェルトに出会い感銘し、わずか3週間で書き上げたといわれるよく演奏される名曲である。IMAからは音楽監督の原田幸一郎(第1ヴァイオリン)とサンミン・パク(チェロ)、OEKからはクラリネットの遠藤文江、第2ヴァイオリン首席の江原千絵、ヴィオラのシンヤン・ベックで、この組み合わせは偶然にも師弟コンビだと紹介された。原田さんは江原さんの大学での師、パクさんはベックさんの師とのことだった。遠藤さんのクラリネットは定評があり、私も何度かソロを聴いているが、音色といい、緩急自在のテクニックといい、聴いていて心が和み、惚れ惚れとする。弦の4人も超ベテラン、特に原田さんは室内楽では多くの人を指導されていて、この曲でもアンサンブルをリードしておいでた。おそらくこのメンバーではリハーサルも1回でOKなのではなかろうか。素晴らしい調和で楽しかった。
 3曲目はドヴォルザークのピアノ五重奏曲で、3曲ある弦楽五重奏曲、2曲あるピアノ五重奏曲の中では最もよく演奏される名曲である。特に第二楽章と第三楽章に流れる民族舞曲のリズムは実に楽しく興味深かった。5人のメンバーは皆さんがIMAの講師の方々。第1ヴァイオリン:レジス・パスキエ(パリ国立高等音楽院教授)、第2ヴァイオリン:神尾真由子(前出)、ヴィオラ:原田幸一郎(IMA音楽監督・桐朋学園大学教授・国際コンクール審査員)、チェロ:毛利伯郎(桐朋学園大学教授)、ピアノ:チュンモ・カン(韓国国立芸術大学教授)。メンバーの顔ぶれもさることながら、実に息の合ったハイレベルの演奏を聴くことができた。
 ただ、第1曲は立っての演奏だったので表情も手や指のさばきも見えたが、第2曲と第3曲は座っての演奏、交流ホールというフラットな場での演奏だったので、演奏者の姿が見えず、こんな素晴しいメンバーだったらホールで演奏してほしかった。

2010年8月26日木曜日

山岳遭難でのヘリ出動自己負担の是非

 山岳遭難を主な執筆テーマとして取材を続けているフリーライターの羽根田治さんが、2010年(平成22年)8月12日付の朝日新聞のオピニオン欄に寄せた主張の主題は「安易な救助要請が山岳遭難を助長する」で、副題は「連れられ登山は無責任。ヘリ出動費は全額負担させ自覚を促せ」である。これに対し朝日新聞の尾沢智史氏が異議ありとした。結論から言うと、羽根田さんは、山の事故の99%は自己責任であるからして、自己責任に基づく山での事故の救助費用は全額自己負担すべきであると主張されている。これに対し尾沢氏は、山での遭難をすべて自己責任とするには違和感があるとする。確かに本人のせいで起きた遭難もあるだろうけれど、しかし相手は何しろ大自然、計算できないこともあるはずだし、しかも山の遭難は命にかかわる問題、簡単に割り切るわけにはいかないのではないかと反論する。
 警察庁のデータによると、平成21年(2009)の山岳遭難の発生件数は1,676件、遭難者数は2,085人と過去最多、そして遭難者の75%以上は40歳以上の中高年者であるという。ここでの「遭難」の定義は、救助要請があったすべてで、中には救助要請する必要が全くなかったような例も包含されている。遭難の内訳は、道迷い43.5%、滑落15.6%、転倒12.4%の順で、前年(2008)と比較すると、道迷い、疲労6.2%、悪天候2.2%による遭難者が増加した一方、滑落、病気、鉄砲水による遭難者は減少している。
 このようにして山岳遭難の件数は年々増加しているが、羽根田さんによると、大したことがない怪我、ただ疲れた、足が痛いというだけで救助を頼むケースが目立つという。山岳診療班が駐在する山域もあり、極端な例では、「近くの山小屋まで歩けませんか」と言っても、「早くヘリを」の一点張りもあるとか。50年位前、金沢大学山岳部が早春の白山で遭難者を出したとき、自衛隊小松基地のヘリが山岳地帯を飛ぶこと自体、予期しない乱気流で墜落の危険があるということで自粛したものだが、でもその後の試験行でゴーとなった経緯がある。現在は山への荷物の運搬ばかりでなく、遭難者の救助・捜索にもヘリは大活躍、むしろなくてはならない存在になっている。先週白山の岩間道を下っていて転落した遭難者もヘリで発見された。当然悪天候をおして出動することはないが、しかしヘリが山岳地帯を飛ぶことには確実に危険が伴う。昨年の奥穂高岳での防災ヘリの墜落、今年の秩父での沢筋での防災ヘリの墜落は記憶に新しい。特に地形的には大変危険を伴う救助があるということを、救助を要請する側も救助する側もよく認識すべきだと思う。
 また平成に入ってからの中高年の登山ブームにのって登山を始めた方々の中には、登山をハイキングの延長と考え、山は危険だという認識がない人も多い。この類の人たちは、ちょっと厳しい状況になると、すぐに救助を求めてしまうことになる。これには携帯電話の普及も一役かっている。近頃流行の「ツアー登山」などでは、全くの素人の場合には山での危機管理について話すだろうけれど、しっかりしたリーダーがいないグループ登山の場合は問題で、でも少なくともグループのリーダーと名が付けば、グループの危機管理もすべきである。もっとも携帯電話といっても、山域により機種により通話できないことがあることは十分認識しておくべきである。その場合は昔と同じように、近くの有人山小屋へ救助を求めるか、麓まで下って救助を要請するしかない。
 救助を要請した場合、救助に当たるのは、管轄する警察や消防の職員や民間の救助隊である。民間の救助隊やヘリに要請した場合には、その程度がどうであれ、要した費用は要請者に後日請求されるから問題はないが、問題となるのはヘリの出動が必須でないにもかかわらず、民間以外のヘリを要請した場合である。因みに昨年(2009)長野県内で起きた山岳遭難でのヘリの出動回数は、警察ヘリ113件、消防防災ヘリ33件、民間ヘリ4件で、民間要請は僅かに2.7%でしかない。はたして安易な救助要請に対して、貴重な税金を使わねばならないかという批判が出てくることもむべなるかなである。
 民間の「ツアー登山」や「ガイド登山」、また山岳団体や学校山岳部での登山には、今の時節必ず保険が掛けられている。1回の山行ごとに掛けるものもあれば、年単位の商品もある。またこれら死亡・後遺障害、入院・通院を主としたもののほか、捜索・救助を主とした商品、両方を含むもの等々、今は多彩な商品が売り出されている。一般の人の場合、当初から危険な時期に、あるいは危険な場所に行くことはなく、一般登山道を歩くような場合であれば1,000円で、受傷して自力下山できずにヘリ等で救助されることを見込んだレスキュー保険でも年額5,000円でOKである。今後は一般の方々にも、これら山岳保険制度があるということを普及すべきかも知れない。
 個人の山行でも、その延長線上にあるパーティー登山でも、登山というのは山に登るだけではなく、安全に下りてくるまでまでが登山であるということは、肝に銘ずべきことである。特にパーティーの場合には、リーダーはもちろんだが、個々のメンバーも単に連れられて行くではなく、ある程度の主体性も持ち合わせ、各人が責任を持った登山をすべきだろう。
 今ヘリを飛ばすとどれ位費用がかかるのだろうか。遠近にもよるだろうけれど、羽根田さんでは、遭難場所が特定できていて、ヘリの飛行時間が1時間以内で救助できるケースでは、費用は100万円以内で済むという。しかし百万円というのは大金である。もしこれが自己負担であれば、対応するにはレスキュー保険の活用しかない。これに加入していれば、通常の遭難事故ならば、救助費用のほとんどはカバーできる(但し限度300万円)。羽根田さんは、「保険に入らなければ山に登るべきではないという位の危機管理意識を持って山へ登る方がいい」とも。
 「登山での事故でのヘリ出動の費用は全額自己負担させ自覚を促せ」というのが羽根田さんの持論である。その考えは、登山という行為自体もともとリスクの高い場所へ自らの意思で行くという点、もう一つは登山での事故の99%は不可抗力ではなく、自己責任であると考えているという点に立脚している。しかし全額自己負担するとして、1%ある不可抗力な遭難も自己負担にするのか、もしそうでないとすれば、その線引きをどうするのか、乗り越えねばならない制度上の問題点は多い。現に警察や消防のヘリは救急患者の搬送や災害時にも使われているが、受益者負担ではない。平成16年(2004)に長野県の田中康夫知事(当時)が、山岳救助に県の税金を使うことに批判的な声に考慮して、山岳救助に県のヘリが出動した場合の有料化を検討したが、結局線引きが難しく断念した経緯がある。これまでは、長野県内の山岳で起きた事故には、長野県だけで対処してきたが、現在では富山県とか岐阜県とかとの広域体制が確立されている。人道上という言葉を振りかざされると、自己負担という主張の勢いは衰えてしまう。とすれば、登山者の自覚とモラルに待つしかないか。

羽根田 治(はねだ おさむ)1961年生まれ 48歳。フリーライター。山岳遭難を主な執筆テーマとし、警察や民間の救助関係者、遭難当事者などの取材を続けている。著書に「山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か」「トムラウシ山遭難はなぜ起きたか」(共著)など。

2010年8月24日火曜日

飛騨そばの老舗 恵比壽本店(高山市)

 子供達3家族が旧盆で一堂に会することができるのは8月13日しかないというので、夕方6時半に集まることにした。いつもはこちらで料理するのだが、今年は略して個々に手巻き寿司でやるのだという。その材料だけは家内が調達し、私も刺身のサクを切り分けるのを手伝った。しかし総員13名ともなると、大きなテーブルでもすし詰めの状態、その上寿し飯や沢山の材料がのっかるものだから、修羅場である。この類は家では初めてだが、子供達の家族ではチョクチョクやるという。まあ大変な賑わい、私はそんな喧騒の場には加わらずに、用意されたレタスと生ハムで赤ワインを飲んでいた。
 そろそろ孫達もお腹が膨れ、別の部屋へ移動した。長男が明日どこかへ皆で行こうと言う。15日は旧盆、16日には長男も横浜へ帰るから、もし一緒に出かけるとすれば明日の14日しかない。何処にするかも問題だったが、何かのはずみで高山へ蕎麦を食べに行こうということになった。どうも私が蕎麦を食べに行くのなら付き合いすると言ったらしい。次男の家族は保留、三男の家族は小旅行で参加できないという。金沢から高山までは2時間ばかり、それで家を朝10時に出ることにする。
 当日私は家内の車で行こうと思っていたら、突然私に運転の命が下った。そんな折、次男の家族も同道したいとの連絡、じゃとにかく10時に家を出てほしいと伝言する。長男と私達は10時に家を出た。ルートはともかく、北陸道の小矢部SAで集合することにする。長男は金沢西ICから、私達は例の如く山側環状から森本IC経由で向かうことに、次男も私達と同じルート、ところがこの日のこの時間帯、山環は強烈な渋滞、ノロノロは高速道に上がるまで続いた。私達が小矢部SAに着いたのは11時53分、次男が着いたのは10分延、それに対して長男は11時頃の着き、ここで朝食も取れたほどの余裕、高速道はそんなに混んでいなかったから、早くに高速道へ上がった長男の作戦勝ちだった。天気は小雨模様、3台ともガソリン補給し、次は飛騨清見ICの手前、長い飛騨トンネル(10.7km)を抜けた飛騨河合PAで集まることにする。
 東海北陸自動車道は大部分が2車線、片側1車線の対面通行、バラバラになることもなく河合PAに着いた。トイレ休憩して清見ICへ向かう。この辺りはトンネルと橋が交互といった山岳地帯、ICを出て、そのまま高山清見道路を高山へ、目的とする蕎麦屋は老舗の恵比壽本店にした。市内の道路はことのほか混んでいる。先ずは駐車しなければ、蕎麦屋にも若干の駐車スペースがあるらしいが。通りをゆるゆる走っていると、丁度駐車整理をしているのに出くわした。渡りに船、そこは高山別院の境内だった。料金は前払い、夕方5時までには出ると言うと800円、一安心して蕎麦屋に向かう。
 雨はまだ降っている。漸く目的の店を特定できた。この店を選んだのは、高山市で最も古い店だし、名前は思い出せないが、誰かがこの店で修業したと書いてあったからで、一度訪れたかった店である。外見は古い平屋建て、屋根の勾配が緩く、以前は板葺きだった雰囲気だ。入り口の上の厚い一枚板には横書きで「手打そば 恵比壽本店」とある。そしてその上には立派な飾り屋根のついた大きな行灯が鎮座し、「そば」「宇どん」とある。また入り口の行灯には「ひだ手打そば ゑびす本店」と、また暖簾には「飛騨そば 明治31年創業」とある。ここは高山市上二之町46、この場所は創業時と変わっていないそうだ。中へ入る。手前の土間にはテーブル席が、十数人は入られよう。奥は上がり框になっていて、二人座れる小さな座机が20ばかり、人数によって離合集散できる仕掛け、私達は通路を挟んで右手に2家族8人、左手に私達2人が座った。奥には坪庭が、涼しげだが、戸が開け放たれていると、むしむしする暑さがそのまま部屋に流れ込む。私達は「天ざる」を注文した。皆思い思いに注文するが、見たところ「天ざる」が最も多い。ただ天ざるは、天ぷらの揚げたてをお持ちしますので少々時間がかかりますと。最も注文の早かった私達のところに漸く天ざるが来た。そばつゆとは別に天つゆと塩が付いている。これは良心的だ。ただ「ざる」にはたっぷりの刻み海苔が、「ざる」と「もり」の違いが海苔のあるなしということがあったが、それを踏襲しているのでは。蕎麦粉は業者から購入した粉を二八で打っているのだろう。今は四代目が打っておいでとか。打ちは大変きれいで、切りも丁寧だ。ただ蕎麦の産地とかは不明で、時期が時期だけに、香り高いそばを求めるのは無理だ。そばは並み、量は多いほうだ。片や天ぷらの方は大変上手に揚げてあって、海老も野菜も満足いくものであった。私達が食べ終わった頃に、やっと次男のところに「天ざる」が届いた。
 店を出る頃には雨も上がり、古い町並みをブラつき、ゆっくり買い物をした。付き合いも孝行のうちか。孫たちもお気に入りの土産を買い、満足げだった。私も「鬼ころし」の本舗で、蕎麦焼酎「甚六」をゲットした。終えて駐車場を出たのは午後5時少し前だった。

2010年8月20日金曜日

シンリョウのツブヤキ (2)

・オハグロトンボ
 お盆前に路地の草むしりをしていた土曜(7月31日)の午前、この日はオオバコに絞って根から抜く作業をしていた。オオバコは小さくてもしたたかで、小さくても穂をつけ、実もつけている。一区画の掃討が済んで、取った草を竹薮(孟宗竹と矢竹)へ捨てに行った折に、薄暗い林床でオハグロトンボ数匹に出会った。何十年ぶりのことである。ずっと昔、それは昭和20年代だろうか、裏の背戸では普通に見られていたのに、いつの間にか姿が消え今日まできた。それが突然現れたものだから驚いた。正式な和名はハグロトンボ、イトトンボ亜目、カワトンボ科に属し、以前はハグロカワトンボともいった。翅が黒く、尾?は雄は黒緑色、雌は黒褐色、全身黒づくめのトンボである。飛ぶ様は翅をゆっくり上下し、蝶よりももっと優雅にひらひらと飛ぶ。このように翅が黒いからハグロと思いがちだが、名の由来は黒色でも「お歯黒」の色に似た色のトンボということで、私たちが子供の頃にはオハグロトンボと言っていたが、するとこちらの読みが正統かも知れない。しかしどうして出現したのか、背戸には南北に用水が流れているが、幼虫のヤゴが生息できそうな環境はというと、?がつく。来年ももし見られるならば、用水の曲水のどこかで繁殖しているということになろうか。でももし一斉消毒されると、生息できないかも知れない。
・オナガとヒヨドリ
 オナガはカラス科の、ヒヨドリはヒヨドリ科の留鳥である。どちらも群れで庭に来て、よく啼いている。オナガは頭が黒く、背は灰褐色、翼と長い尾は青灰色、喉から腹は灰白色、そして尾の先が白い。郊外ではよく見かける鳥だが、私にとっては特にお気に入りの鳥でもある。ところでカラス科の鳥は皆鳴き声がよくなく、オナガも例外ではない。鳴き声は文字では表しにくいが、敢えて書くと、グェーイグェイグェイグェイグェイとギューイギュイギュイギュイギュイの中間の発声になろうか。庭に来ていると姿でも声でもすぐに判る。一方のヒヨドリは頭と胴体は灰色の羽毛に被われ、頬に褐色の部分があり目立つ。翼と尾羽は灰褐色で、飛び方に特徴があり、波のような上下動があり、一目でそれと判る。鳴き声はヒーヨヒーヨかピーヨピーヨと聴こえる。こちらも来ているとすぐに判る。どちらもある程度の群れをなしているからか、両方が一緒にいることは少なく、どちらか一方が占拠するような状況になる。ただどちらも長逗留することはない。もっとも両方の群れを包容するほど大きなキャパがないことにもよるのかも知れない。私は雨が降っていなければ山側環状道路まで早朝に往復しているが、途中の久安一丁目にある御馬神社の境内の森にはいつもヒヨドリがいて、棲みついているというような印象を受ける。
・庭に昔はなかった草木が生えた(続き)
 〔イワヒバ〕イワヒバ科の羊歯植物で、そのものは観賞用として市販されている。大概は岩に付着した形で、ヒバの葉に似たような印象があるから命名されたと思われる。ところで道路(旧北國街道)を隔てた向かいの家2軒の庭には、イワヒバが付いた岩が鎮座している。私の家にも石や岩があるが、私の家の前庭に生え出したイワヒバは、岩でなく露地に育っている。そしてこの野性的なイワヒバはどんどん増える傾向にある。だが起源は前2軒からかどうかは判らない。家内が春先に前年の古葉を刈ったところ、後に綺麗な新葉が出てきた。 〔ヒメツルソバ〕タデ科の植物で、ヒマラヤ原産だという。花はピンク色の小花が毬形にまとまっていて、盛夏以外は年中咲いている。葉は赤みがかった緑色、中央にV字形の斑紋がある。茎は匍匐性で、どちらかというと乾いた地面を好むようだ。一面びっしりになるのでグラウンドカバー植物となる。どうして私の家に訪れたのかは全く不明だが、家とアスファルト舗装との間の隙間に種がこぼれて芽吹いて、今では玄関の外のタタキの半分を覆い尽している。まん丸な球花が可愛い。 〔センリョウ〕センリョウ科の常緑小低木。漢字では千両と書き、冬には赤い実をつけることもあって、お正月にはやはり赤い実をつける万両(マンリョウ:ヤブコウジ科の常緑小低木)と共に縁起物とされる。去年の秋、前庭に十数株の赤い実をつけたセンリョウを見つけ家内に話したところ、以前に誰かから貰った苗木をコウジミカンの根元に植えたとのこと、どうもこれが元になって、実が散らばり殖えたらしい。よほど環境が好かったのだろう。そこはまたフキの原でもある。 〔余談〕縁起物としては他に百両と十両がある。百両とはヤブコウジ科の常緑低木のカラタチバナ(タチバナ)のことで、赤い実をつける。花は白色の5弁花で、文化勲章のデザインとなっている。また十両はヤブコウジ科の常緑小低木のヤブコウジのことで、やはり赤い実をつける。これは私の家の庭にも生えている。これら万両、千両、百両、十両は本来は赤い実だが、白い実をつけるものもある。 

2010年8月19日木曜日

シンリョウのツブヤキ (1)

 こんな表題で、思ったこと、あったことなどを、思いついたまま、全く無作為に書き留めておこうと思い、この項を立てた。大体何項目かで2,000字程度になったら、「晋亮の呟き」に組み込もうと思う。1項目を何字くらいにするかは特に決めてなくて、成り行き次第である。
・庭の草むしり
 旧盆前になると、お盆に叔父が見えるので、どうしても庭の掃除をしなければならない破目になる。平生から庭の手入れをしていれば慌てることはないのだが、草が繁って目に余るようになり、しかもお盆前という逼迫した状態になってからやり出すものだから、負担も大きい。しかも156坪の建屋に住んでいるのは私と家内のみ、年々歳をとるせいか段々しんどくなる。家の周りは344坪、うち見た目にきれいにしなければならない庭の部分はその3分の1位だろうか。大きな草は処理しやすいが、日当たりのよい場所によく生えるメヒシバ(メイシバ、メイジワとも)とオオバコには往生する。苔の間に密集して生えているのが最も難物、私が受け持ったたかが20坪ばかりの草むしりに丸1日もかかってしまった。しかもメヒシバは少し大きくなると、延びた茎の節が地に触れると根が出て、次々と更に広がっていくから厄介だ。ひところ難物だったスズメノカタビラは奮闘の甲斐あってどうやら少なくなってきた。これらイネ科の雑草は一年草なので、種子が落ちないようにするのが少なくするのには肝要なのだが、想うは易く、行なうは難しである。
・庭で鳴く蝉
 裏の背戸には樹木が鬱蒼と繁っていて、夏至が終わった6月下旬になると、チーとかシーとかジーとかニーとかに聞こえるニイニイゼミが鳴きだす。個体数は少なくはない。合唱の声は、丁度私の耳鳴りのシーに近い鳴き声だ。しかし7月になってアブラゼミが鳴き出すと、あのジジジジという大きな声にかき消されてしまって、優しいニイニイの声は居るのだろうけれど聞けなくなる。ニイニイゼミは小型の蝉で、表に出ている前翅が褐色のまだら模様になっていて、可愛い。次いで現れるのがヒグラシ、あのカナカナと鳴く蝉である。声が聞けるのは7月下旬までで、ニイニイと似ている。大きさは中型で細身、雌は小さく雄は大きい。翅は透明、薄暮の日の出前とか日の入り後に声が聞ける。個体数は少ない。鳴き声には秋の夕暮れの雰囲気があり、俳句では秋の季語になっているそうだが、実は夏の蝉、でも8月にはもう居ない。7月になるとアブラゼミの登場、あのジジジジの音は暑さを一層増幅する。大きさはクマゼミ程ではないが大型、茶色の不透明な翅を持っていて、特に暑さが大好きで、熱帯夜では夜も鳴き続ける。だから薄暮での鳴きは少ない。個体数は多く、9月になっても鳴いている。旧盆の頃になると、ツクツクボウシとミンミンゼミが前後して鳴き出す。前者は中型、後者は大型で、いずれも透明な翅を持っていて、しかも暑さが苦手である。だから夜明けや夕暮れによく鳴く。もっとも日中でもそんなに暑くなければ鳴いているが、猛暑日の日中は遠慮している。個体数は少ないが、ヒグラシよりは多いような気がする。ツクツクはツクツクオイースを十数回、ウイヨースを数回、最後にジーで終わる。ミンミンはミーンミンミンミンミンを音程を変えながら数回鳴く。この声を聞くと、秋が近くに来ているなあといつも想う。
・庭に昔はなかった草木が生えた
 〔ホンモンジスゲ〕旧盆に植物には詳しい久吉叔父が来て言うには、このスゲは一部では絶滅危惧種になっているとか。始め株が小さいうちは家内に引っこ抜かれていたが、私はこれまで見たことがなかったので、一部残しておいたのが大株の小群落となった。変わった見たことがない草木は大きくしてどうなるか見てみたいのが私の趣味だが、家内には通じないこともある。 〔ヤブニッケイ〕ツワブキの小群落の間に生えていて、もう高さ1メートルくらいになっている全身濃い緑色の木で、緑の葉はやや厚めで光沢がある。叔父はこれを見て、珍しいと言って葉を千切って揉んで匂いを嗅いだ。私も嗅いだが、クスノキ科に特有な精油の匂いがした。鳥が種子を運んできたのだろうとのこと、言われて初めて気付いた。植木屋に切られないようにしなければ。でもそのまま大きくすると喬木になるらしいから、どうしたものか。 〔ヤブミョウガ〕数年前に変わった草があるなあと想って見守ってきた。冬には地上部は枯れてしまうので一年草と思っていたが、同じ場所に生えてくるので、種子が落ちて生えてくるのだとばかり思っていた。ツユクサが繁るやや湿った場所に生えている。花が白くて可愛く、毎日見て楽しんでいたが、ある日家内に切られて玄関に飾られてしまった。そこで調べたところ、ツユクサ科のヤブミョウガだと判明した。そういえば葉はミョウガに似ている。この時期(8月)にはミョウガも花盛り、でも茗荷の花は株の根元の地面から咲いていて別物だ。ミョウガはショウガ科の植物である。

2010年8月9日月曜日

信州の二湯(2)仙仁温泉「岩の湯}

仙仁温泉/滝のある大洞窟風呂の宿/花仙庵「岩の湯」 (長野県須坂市仁礼3159)
 この宿では、できるだけお客様に寛いでもらおうということで、チェックアウトは正午、チェックインは午後2時と、他の宿と比べて逗留時間が長くなっている。梓川SAで昼食を済ませて、上信越自動車道の須坂長野東ICを下りたのが午後2時少し前、昨日は時間潰しをしたが、この日は途中で給油したのみで、ナビを頼りに大笹街道の国道406号線を菅平高原に向かって走る。須坂市を出た頃に1台のBMWが後にぴったりくっつく。やがて山へ入り込もうという所でナビの音声案内は終了した。左手に駐車場があるが、宿らしき建物は見えない。道で止まると、件の外車はその左手の砂利敷きの駐車場へ入っていった。私達も勝手が分からないまま後について入り込むと、ようこそと言われてイケメンのお兄さんが、車を枠内に停めて下さいと。家内が訝って、ここは岩の湯ですかと聞くと、そうだと言う。ここでも荷物を全部もってくれて、砂利を踏んで東屋風の門をくぐり、滔々と流れる仙仁川を渡って、庵にも似た玄関に着いた。きれいに植え込まれた木々は清々しく、深い山間にいるような錯覚を覚える。
 ここは古くは山伏の里、近世では清和源氏の流れをくむ仙仁氏の居城があった場所とも言われる。この湯は草津白根山修験道の山伏、湯本行者によって平安末期頃に発見されたという。客室数は19室、収容は100名、離れ仙山亭4室、旧本館仙郷亭9室、仙寿亭6室で、料金は2名だと税抜きで順に、42000円、35000円、30000円となっていて、6名だと28、24、22千円となる由。また休前日と特別期間は2000円高となる。田舎の温泉にしてはかなり高い部類だと思うが、何故か評判がよくて中々予約が難しく、帰り際に来年の予約をする客も多いというから、1年先でも予約できない日もあるとか。確かに玄関へ入っての雰囲気は他所にはない心を和ませる気が漂っていて中々よい。この宿は「日本秘湯を守る会」の宿でもあるという。
 宿のフロントでチェックインした後、暫く待って下さいと言われる。庵だからロビーとは言わないのだろうけれど、まだ3組20人以上の人達が待っている。まだ案内までに時間がありそうなので、付近をブラつく。待ち屋風の涼み処にはハンモックやロッキングチェアが置いてある。林間からは仙仁川の流れが見える。右手に延びる突き当りの庵は喫茶所なのだろうか。池に鯉がいるが、この池にはかけ流しの湯が入り込んでいるという。前の組の人達が案内され、玄関が静かになるのを見計らって、先のテーブルに戻ると、抹茶の接待があり、涼しげな茶菓子付き、家内では大変美味しい一品だと言っていた。初老のお姐さんから宿の説明を受ける。
 ここの名物は何といっても洞窟風呂である。宿の一番奥まったところに男女の大浴場があって、ここが洞窟風呂の入り口でもあるとのこと。どうして出来たのか、目的は何だったのかの説明はなかったものの、要は洞窟風呂は混浴なので、洞窟入り口で所定の湯浴み着を着用してから入って下さいと。男の場合、パンツをはき、その上に布製の腰蓑をつけてお入り下さいと。これら着衣は水を吸いにくい特殊な素材らしい。洞窟内にはお湯(34.2℃)の滝があり、また深みもありますので御注意をと。どうやらこれが売りの「岩の湯」の由来らしい。今日も満室ですが、部屋は分散しているので、やたら他人と鉢合わせするようなことはありませんとも。何とも贅沢な宿だ。
 風呂の説明の後は、旧本館仙郷亭の「竹の間」に案内される。途中別亭の喫茶所、あちこちにある休み処、テラス、蔵書4千冊の図書室(仙人文庫)、書斎、談話室等の説明を頂くが、どの部屋も隠し部屋のような風情、貸切りの露天風呂も3ヵ所あるという。あちこちに階段があるのは、ここの各部屋は山の段丘を上手に利用しているからで、それぞれの棟が離れのようになっている。どうやら「竹」に着いた。入ると10畳の和室に山荘風の談話室、その先にバルコニー、クローゼット、洗面所、シャワールーム、ミニキッチンが付いている。BGM用のCDとプレーヤーも。ここでも説明がある。キーは2個、引き出しには男物、女物のフルサイズの浴衣が2着ずつ、裁縫道具や置き薬も常備してある。床の間には「山」の一字の書の軸と生け花、最後にエアコンを調節してくれて案内の人は去った。この案内の方と顔を会わせたのはこの時のみだった。
 取り敢えずは風呂へ、家内とは大浴場へ入ってから、洞窟風呂で会いましょうということで出かける。タオルもバスタオルもそれぞれの浴場に十分用意してあるとのこと、内湯は大きな檜風呂、加温かけ流しである。総ガラス張りなので、露天風呂に入っているような印象、山の樹々が美しい。身体を洗ってから、やおら湯浴み着を着けて洞窟へと進む。少し進むと左手に岩で囲った湯船があり、ここは熱い。洞窟内ではこの湯だけが加温されているとかだった。堰を乗り越えて少し進むと、右手からお湯(34.2℃)が滝となって流れ落ちているが、その量は半端ではない。その奥にも小さな滝がある。ここで洞窟は二手に分かれる。先ず左へ、下は粗めの砂利が敷き詰められていて歩きにくい。やがて広い空間に、ここでは十数人がゆっくり座れるほどの広さ、洞窟はここで右に緩く曲がっているが、ここが最奥である。元へ戻って右の洞窟へ、こちらはやや水深が深く、腰辺りまでの深さ、どんどん進むと堰があり、乗り越えて進むと更に高い堰が現れ、それを越えると深い湯壷に達する。湯壷を更に奥へ進むと、左手からお湯の急流が迸って出ている。でもその先は真っ暗で行けるかどうかは分からない。私がこうした探検をしている間には誰とも出会わなかった。一通り探検をして女性の入り口で待っていると、やっと家内が武装して現れた。さっき通ったルートをもう一度辿った。奥行きは20mばかりだろうか、所々に灯りがあるが、真っ暗では遭難しかねない。分かれて出る頃、新参の人が見えた。お湯は単純泉とかである。
 湯上りに冷たい山の水を一口、部屋には柿の葉茶が冷えている。神の河で割り、喉を潤す。やがて希望した夕食の時間になり、食事処深仙庵へ向かう。食事は山里懐石料理、地元の旬の食材だけを使っての料理とか、家内は獣肉や川魚ばかりだったらどうしようと案じていた。深仙庵はすべて個室になっている。ローソクの明かりもあって幻想的である。外には真竹の林が見える。飲み物は生ビールと冷酒、お品書きにしたがって料理が運ばれてくる。ざっと二時間ばかり、適度な間を置いて、ここでもその出しようは絶妙というべきか、こちらで催促する必要は全くなかった。昨晩もそうだったが、その辺りは客の意を予め酌んでいるような完璧ともいえる接待、恐れ入った。至れり尽くせりとはこのことかと思う。
 昨晩のお品書きには、材料がこと細かく記されていたが、今宵のは材料は色々沢山入っているのだが、何かとなると分からない。ここでは品書きに書いてあった言葉を「 」を付けて記した。(頭書)「山里料理・七月五日」、(先附)「蕨琥珀寄せ」、(前菜)「風待月のおもてなし」五品、(中鉢)「松代蒸し」、(造り)「山里のお造り」鮎と鯉、(焼肴)「鮎の塩焼き」笹に稚鮎二尾と根曲がり竹三本一皿、大きな鮎の串刺し一皿、(椀物)「北信濃根曲がり竹汁」、(強肴)「石焼ステーキ」陶板に信州牛のミディアムは家内が、私は「杉の香焼き」陶板に鯛?の切り身の焼き、(箸休め)「梅酒ゼリー」、(温物)「新じゃが蒸し」片葉を添えて、「御食事」御飯、止椀、香の物、「デザート」五品、「飲み物」珈琲と紅茶、優に四杯分くらいあり、飲みつくせなかった。
 程よく酔って部屋に戻る。床が部屋の真ん中に敷いてあるが、6人も入れる部屋に2人だから、贅沢なかぎりだ。テーブルには夜食の寿司が置いてある。テレビを見ながら、駄弁りながら、柿の葉茶を飲みながら、神の河も空になった。後は白川夜船、朝までぐっすりだった。
 朝5時に覚醒する。家内を誘って露天風呂へ出かける。この時間だともう明るい。この貸切風呂のうち最も古いのが「風姿の湯」で一見洋風、外湯1、内湯1の構成。この露天風呂の湯は120mのボーリング掘削で自噴しているもので、泉質や泉温は大浴場や洞窟風呂とほぼ同じらしい。次に出来たのが「野守の湯」で、ここは雰囲気が和風で、湯船は外湯1、内湯1の構成である。最も新しいのは2007年に出来た「無想の湯」、和洋折衷で面積も最も広く、外湯2、内湯1の構成で、最も高い処にある。私たちはこんな知識は全く持たずに、順に覗きながら一番高みの露天風呂へ行ったのだが、幸いすべて空いていたものの、最も高みの湯が最も新しくすばらしい露天風呂だったことになる。環境も最高、申し分のない露天風呂で、このような経験はこれまでにない。途中で来訪者があったが、当然使用中、それにしても空いていればいつでも利用できるというのがよい。後で家内が姪に良かったと電話したら、夜中に入ると満天の星でなお最高とのこと、聞いておけばよかった。またリピートすることもあろうから、その時は挑戦しよう。
 戻ってから朝食を頂く。昨晩と同じ個室で食事をする。この日の朝も豪華な食事、蕎麦粥が嬉しかった。ゆっくりと頂く。午後には小布施をブラつくことに、蕎麦屋も数件推薦してもらえた。宿には正午近くまで居た。帰るまで床は敷かれたまま、誰も来ず、寛げた。
 チェックアウトし、男の方と女の方に送っていただいた。仙仁川の橋の上でと、東屋風の入り口とで、家内とのツーショットを撮ってあげますと言ってくれたが、こんな気配りも嬉しかった。機会があればまた訪れたい宿だ。
 

2010年8月6日金曜日

信州の二湯(1)早太郎温泉「二人静」

 三男誠孝の四十九日満中陰が済んだら、ブラッとどこかの温泉にでも出かけようかというのは、私と家内の暗黙の了解だった。とは言っても、いざ何処にするかとなると星の数ほどあって決めかねてしまう。一計はよく旅行もする姪に相談したらという逃れだった。すると二の返事で「岩の湯」にしたらと、姪によると一押しの名湯とかである。聞けば長野県の温泉だという。だったらもう一湯は、随分前に行ったことのある「二人静」にしようかと、ここは以前は中々予約が取れないことで有名な宿、でも一応チャレンジしてみることに。出かける日は7月4日(日)から年休2日とっての3日間、車で行こうということになった。HPで調べると、「仙仁温泉・岩の湯」は、申込みは直接来館か電話のみの申込みということで、電話で申込みすると、4日の空きはなく、5日はありますとのこと、ただし35,000円の室しか空いていませんとの返事、家内に相談すると、折角の推薦の宿、お願いしましょうということで、2日目の宿は決まった。次に初日の「早太郎温泉・二人静」の方はインターネットでの申し込み、こちらの方は空きがあって、最も安い離れ「花心庵」が13,000円で空いているとのことで、そのまま申し込んだ。この両方の宿では22,000円もの開きがあり、どうしてこんなに差があるのか訝っていた。後日心配になって電話で問い合わせたところ、本邸まで80m位離れていて、それがハンディらしく、食事も入浴も本邸まで出向かねばならないという。雨の日は大変ですというから、本邸に空きはないかと聞くと、洋室ならありますとのこと、和室はと聞くと洋室折衷のが別邸「一花一葉」に1室あるとのことで、そこに変更してもらった。料金は22,000円という。
 7月4日日曜日は小雨がぱらつく生憎の空模様、本来なら8時頃に出かけようと思っていたのだが、この日は町内一斉の清掃の日、出られないと連絡はしてあるものの、堂々と出かけるのも憚り、6時出発とする。山側環状道路経由で森本ICから北陸自動車道へ、有磯海SAで朝食、長野自動車道の梓川SAで早めの昼食、このまま中央自動車道の駒ヶ根ICまで行くと、チェックインは午後3時なので時間を持て余すので、塩尻北ICで下りて、一般道を南下することに。それでも駒ヶ根市に着いたのは午後2時前、それで宿近くにある駒ヶ根高原美術館を見学してから初日の宿に入った。広い駐車場に車を止めると、女将が直々にようこそいらっしゃいましたと挨拶されたのには驚いた。部屋への挨拶ではなく、宿へ着いたときに挨拶されるのも、新しい合理的な方法と思ったものだ。また荷物を運ばれる方も一緒、西洋では当たり前の光景だが、これはいい意味での和洋折衷と思った次第。

信州駒ヶ根高原/早太郎温泉/山野草の宿「二人静」 (長野県駒ヶ根市赤穂4-161)
 宿は本邸の「二人静」、別邸の「一花一葉」、離れ「花心庵」、教会の「トラムス」からなっていて、本邸は1995年のオープン、別邸は2005年のオープンとかで、前回に訪れたのは2002年だったので宿は5階建ての本邸のみ、教会が出来立てだったような気がする。チェックイン後、別邸へ案内される。本邸から別邸へは専用カードキー(通行札)がないと 入られない仕組みになっていて、私と家内に1枚ずつカードが渡された。別邸の3Fには大露天風呂付き特別室が6室、4Fには擬似洋風和洋室(擬洋室)が10室あり、話題の旅館デザイナー、和創匠の松葉啓氏のプロデュースになるものだという。私達が入ったのは4Fで、畳に高床式ふとん(ベッドスタイル)が設えてある新感覚の部屋であった。部屋とウッドデッキとの間には猫足バスが置いてあるが、これは湯浴みするにはチョッとチャチだ。バルコニーに出ると、下には太田切川がうるさい位の高い瀬音を立てて流れている。川には対岸へ赤い駒ヶ根橋が架かっている。東に目を向けると、中央アルプスの宝剣岳(2932m)が遠く尖って見えている。天気が良ければ西に、南アルプスの仙丈ヶ岳(3033m)、左手に甲斐駒ヶ岳(2966m)、右手に北岳(3192m)が望めるはずだが、雲に隠れていて見えない。ここは標高860mの駒ヶ根高原の一角、取り敢えずは冷えたビールと持参の神の河で喉を潤す。山野草の宿というだけあって、あちこちに山野草を主とした花が生けられている。
 小憩の後、本邸の大浴場へ、そこからはさらに開放感のある大きな露天風呂へと続いている。温泉は単純アルカリ泉、さらりとした好い湯だ。露天風呂は程よい湯加減、周りは緑の樹々に覆われていて、深山幽谷の趣、いつまで入っていても飽きがこない。ゆっくりと十分に手と足を伸ばす。
 夕食は2Fの金宝珠という食事処、三箇所ある中の一つ、ペアでゆっくり8組が入れる大きさの部屋、落着ける雰囲気と細やかな気配りが伝わってくる。料理は懐石料理、一品一品がゆっくり間を置いて出てくる。別邸は本邸とは棟が別なこともあって、料理は恐らく別と思われる。料理長渡辺徹のこの日のお品書きは、食前酒(山葡萄と山桃のカクテル)、先附(若筍豆腐、蔓菜、キャヴィア)、前菜(千代久‐自家製塩辛、自家製牛肉燻製、姫大根、蛤貝焼、丸十レモン煮)、椀物(手毬海老真薯、花びら麩、口‐木の芽)、造里(平目、サーモン、牡丹海老、妻一式)、焼肴(鮎塩焼、昆布有馬煮、白アスパラ梅肉和え)、温物(炊き合わせ、飛龍頭、蓮根、筍、コーン)、揚物(こしあぶらと桜海老のかき揚げ、穴子)、強肴(国産牛ロース肉の笹蒸し)、食事(鯛釜飯)、留椀(信州味噌袱紗仕立て)、香物(野沢菜、はんなり漬、山牛蒡)、水菓子(駒ヶ根産胡麻のプリン)の13品、十分堪能した。多過ぎず、少なくもなく、程よい分量、しかも素材が本来もっている甘味や旨みを引き出す素朴な料理、私も心掛ける目標でもある。奇を衒った小細工は無用だ。その点此処での料理は満足すべきものだった。飲み物は白ワインと生ビール、よく料理と合った。ゆっくり時間をかけての夕食、本当に至福の時を過ごした。スタッフの細やかな気配りが嬉しかった。
 翌朝見上げると、宝剣岳は雲に隠れている。昨晩のフロントへの問い合わせでは、もし山の天候が悪くなくて、ロープウェイが運行する場合には、朝一番にここへも連絡が入りますとのことだったので問い合わせると、運行するとのこと、山は見えないが出かけることにする。ロープウェイ駅への連絡バスは30分おきとのこと、豪華な朝食を昨晩と同じ場所で済まし、チェックアウトする。車は川上の黒川平駐車場にもって行かないでここに置いて出かけたほうがよいとのことで、駐車したまま向かいの橋の袂の駒ヶ根橋バス停に向かう。バスには数人の登山姿の人が乗っている。ロープウェイ駅のあるしらび平は標高1661.5mで、ここよりさらに800m高みにある。細い道をバスは喘いで上る。所々に交差可能な場所はあるものの、今はまだ朝早くで下りの車はないが、日中は大変な混雑だろう。40分くらいで終点のしらび平に着いた。途中は山の中とて、バス停はあるものの、客の乗り降りはなかった。
 いよいよ待望のロープウェイである。驚いたことに搬器の定員は61人、案内嬢が一人付くので客は60人乗れる勘定、通常は20分毎の発車である。バスに乗っていた客がそっくり乗り込む。料金は往復2200円。終点の千畳敷(2611.5m)へは950mの上り、この高低差も終点駅の高度も日本最高だそうである。完成は昭和42年、平成10年にリニューアルしている。秒速7m、所要時間は7分30秒とかである。山は厚い雲で閉ざされていて見えない。ところが上昇するにつれ、下では曇りだったのに、搬器が雲の上に飛び出ると、そこは快晴の世界、あの宝剣岳が真っ正面にくっきり見えている。やがて千畳敷駅、初めて来た中央アルプス、この遊び格好で山へ登るわけにはゆかないが、バスにいた乗客は木曽駒ケ岳まで行って来ますと言って登山道を登って行った。まだ雪渓が沢山残っていて、初夏の感じ、径の傍らにはキバナコマノツメ、クロユリ、コイワカガミなどが咲いている。ここから木曽駒ケ岳(2956m)までは上り2時間、下り1時間40分の行程である。行きたいが行けないもどかしさ、途中の雪渓まで下りてみた。
 小一時間ばかりいたろうか、帰ることに。駅へ戻ると沢山の観光客が上がってきている。下るのは私達二人のみ、下りは臨時便だった。厚い雲は2200m辺り、さらに下がると再び曇りの世界になった。しらび平のターミナルには大型観光バスが10台くらい停まっていた。聞くと、どんどん臨時便を出して上へ上げるという。正にラッシュである。私たちは定期バスで下に下りるが、この時間帯に下りる人は誰もいない。ただバスの交差は大丈夫なのかとそれが心配になる。途中で数台の上りのバスに遭遇したが、チャンとうまく交差している。実に魔術師のようなテクニックに感心する。一度は行きたいと思っていた千畳敷カールだが、取り敢えずは足を運べた。この次には山にも登りたいものだ。このカールには72人泊まれるホテルもあり、通年営業している。ここも良さそうだ。
 バスを駒ヶ根橋で下り、「二人静」に戻り、再び車に乗る。駒ヶ根ICから中央自動車道、長野自動車道、上信越自動車道と継いで、須坂長野東ICで下りる。ナビに今晩の宿を入力し、宿に向かう。