2013年6月3日月曜日

第50回25周年記念巨樹探訪会〔第1日〕

 5月18日(土)
 今回の参加者は30名、29名は金沢駅西口の観光バス乗り場で、残り1名は北陸高速道の尼御前SAで合流する。バスは45人乗りのKSバス、初めてだが、このバスの運転手の運転は実に的確、しかも大変上手だったことを帰着して思った。出発は 7:30、金沢西ICから高速道に入る。天気が良く暑いくらい、加賀平野はほぼ田植えは終了している。白山が白く輝いている。越前平野に入ると今が田植えの真っ盛り、大麦もそろそろ麦秋、麦の作付けはかなり多く、加賀平野では見られない光景だ。南条SAで休憩、ここまで1時間半、休憩後出発、高速道を敦賀ICで下り、国道 27 号線を小浜市へと向かう。車内では源頼光による大江山の酒呑童子退治の冊子が回覧される。最初の目的地の若狭一之宮には、近くにある森林の水PR館 (道の駅) の駐車場を利用する。到着は 10:30 だった。

1.若狭彦神社  福井県小浜市龍前
 奈良時代の和銅7年 (714) に創建された「海彦・山彦」の神話で知られる海と山の神を祀る古社で、上社である若狭彦神社と、養老5年 (721) に上社から分祀された下社である若狭姫神社 (上社の北 2km、小浜市遠敷) がある。当初上社を若狭一之宮、下社を二之宮と呼んでいたが、現在は二社を併せて若狭一之宮と呼んでいる。元々は上社が神事の中心であったが、室町時代頃からは下社に移ってしまった。またお水送りの神事 (毎年3月2日に東大寺二月堂に香水を送る) も、別当寺であった若狭神宮寺 (遠敷川上流の上社より南へ約1kmにある. 小浜市神宮寺) に移った。上社には現在神職は常駐していない。
 道の駅から若狭彦神社まで徒歩で3分ばかり、鬱蒼とした杉が主体の社叢林が広がっている。入口の左にツバキの大樹、右にサカキの老樹、参道を進み二之鳥居をくぐると左に夫婦杉がある。タブノキ (別名イヌグス) やケヤキやスダジイの大樹も目立つ。ナギの高木もある。本殿前にもサカキが植えられていた。ヤブニッケイの成樹もある。辞して道の駅で早めの昼食をとる。PR館では「お水取り」の儀式の順序が絵で示されていた。
 上社を出て北へ向かい、下社の前を通り、国道 27 号線を西へ向かう。やがて前方に端正な三角形をした若狭富士の青葉山 (693m) が見えてきた。松尾寺はこの山の南西麓にある。

2.松尾寺 真言宗醍醐寺派 西国第二十九番札所  京都府舞鶴市松尾
 御本尊は馬頭観世音菩薩で秘仏となっている。開山は和銅元年 (708)、中国から渡来した威光上人が此処に草庵を結び、馬頭観音を安置したとされる。古寺であり国宝や重要文化財も多い。以前来た時は正面から入ったが、大型バスは通れないとかで、裏手から入ったが、練達の運転手だからこそ入れたという感じだった。境内に入ると、右手高みにお宮が祀られ、そして道を挟んで左手に大イチョウ (鳥羽天皇お手植えの銀杏、幹周 536cm、樹高 23m) とモミ (幹周 433cm、樹高 30m) の巨樹、右手にスギの巨樹 (幹周 618cm 、樹高 30m) が並ぶ。この前来た時は本堂まで上がらなかったこともあって、こんな巨樹や大樹、老樹があることには全く気付かなかった。本堂前にはイロハモミジの大樹もある。寺務所まで下りて御朱印を頂く。御朱印袋を見ると次の和歌がしたためられていた。
 「そのかみはいくよへむらむたよりおば ちとせもここにまつのおのてら」。
 午後1時近く、再び国道 27 号線に戻り、舞鶴西ICで舞鶴若狭自動車道に上がり、綾部JCTで京都縦貫自動車道に入り、宮津天橋立ICで下り、天の橋立へ向かう。

3.智恩寺 臨済宗妙心寺派  京都府宮津市文珠
 大同3年 (808) に平城天皇の勅願寺として創建され、日本三文殊の一つとして知られ、「切戸の文殊」「九世戸の文殊」「知恵の文殊」とも呼ばれている。この寺の本尊は文殊菩薩だが、この仏像は秘仏とされ、公開されていない。境内にある多宝塔は二重塔で、国の重要文化財に指定されている。境内に入ると、黒松の枝に沢山の小さな扇が吊るされているのが目に入る。ここのおみくじは変わっているとのことだが、どうもこれがそうであるらしい。とにかく夥しい数の扇である。ここでの探訪のお目当てはムクロジの大木だったが、代わりに見たのは霊木「文樹」であった。これは「もんじゅ」と読み、文殊に通う名称とか。高札にはタモ又はタブの木と称し、その樹液は霊気を発し、上質の線香作成に用いられるとあった。霊木には注連縄が巻いてあった。

4.天の橋立  日本三景・国の特別名勝・丹後天橋立大江山国定公園
 古代より名勝として知られ、小式部内侍が母 (和泉式部) を焦がれて詠んだ歌「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」は百人一首にも収められている。ここは宮津湾と阿蘇海を東西に隔てる全長 2.6km の湾口砂州で、約5千本の松が生えているという。智恩寺のある陸地と砂州の間には「九世の戸」という島?があり、天の橋立へは、古くは渡し船で渡っていて、「九世の渡し」と言われていたが、後に小天橋 (回旋橋) と大天橋で結ばれ今日に至っている。私たちはここで約1時間ばかり、由緒ある松と黒松に寄生する寄生木を観察した。その後私は砂州の略3分の1の地点まで往復した。
 出会った命名松は次の通りである。南から北に向かって、小天橋を渡った所には「九世戸の松」(九世の戸にある松.傍らには特別名勝天橋立碑が立っている)。大天橋を渡った砂州の最も南には「知恵の松」(三人寄れば文殊の知恵というが,一つの根から三又になった松)。更に北へ、恩賜記念碑の近くには「雲井の松」(雲の合間に座るが如く聳え立つ松)。そして名勝天橋立の碑に近く「式部の松」(ほっそりした赤松の美しい姿から,和泉式部に例えられた松)。更に北へ進むと天橋立神社があり、皇太子殿下お手植えの松の記念碑の傍に「御手植の松」がある。これは大正5年 (1916) に昭和天皇が皇太子時代に御手植えされた松である。私が見たのはこの5本だが、更に北の船越までにはまだ10本の命名松がある。名称のみを挙げておく。南から順に、「千貫松」「阿蘇の松」「夫婦松」「羽衣の松」「雪舟の松」「なかよしの松 (2代目)」「小袖の松」「見返りの松」「双龍の松」「船越の松」。

 午後4時に智恩寺の駐車場を出て、府道9号を南下し峠越えして、福知山市大江町佛性寺にある宿舎の大江山グリーンロッジに入る。当初は私たちのみとのことだったが、入口の案内板には、石川巨樹の会のほかに、関西学院大学と同志社大学の名があった。ところで翌朝、私はアルコールの勢いもあって朝まで熟睡したが、大学生らは一晩中廊下で騒いでいたという、これには恐れ入った。人の迷惑を顧みない傍若無人ぶり、これが一流大学の学生の実態とすれば、何をか言わんやである。朝、廊下で寝ている女子学生がいた。

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