2013年5月24日金曜日

25年ぶりに出席した巨樹の会 ー その徒然と断章 ー

 会報「巨樹いしかわ」48号が手元に届いて、その中に二十五周年記念の通常総会・講演会の通知と巨樹探訪会の案内があった。私はこれまで石川県に33年、石川県予防医学協会に16年いて、現在漸く毎日がフリータイム、いわゆるサンデー毎日となった。ということもあって、一度出かけてみようかと思う気になった。私はこの会には林業試験場であった設立総会に出席して以来、一度も行事に出席していないペーパー会員なのである。ところが後日の探訪会で田中さんから第1回の設立総会は白嶺会館であったと聞くに及んで、あれは石川きのこの会であって、巨樹の会ではなかったのだと思い知らされた。正に青天の霹靂である。ということは、巨樹の会には一度も参加したことはなく、今度出るとすればまっさらの初めてということになる。ちなみに設立総会は4月22日、私が入会したのは6月9日だった。
 
 先ずは総会、場所は県立自然史資料館とか。私は県に奉職して、衛生研究所、衛生公害研究所、保健環境センターと名称は変遷したものの、ずっと微生物分野の仕事をしてきて、太陽が丘へ移ってからも4年ばかりいた。でも私がいた当時は表記の県施設はなく、案内図を見るとどうも旧養護学校があった場所らしい。当日は早めにでかける。着いて時間があったので、展示室を見て回ったが、中々工夫してあって分かりやすい展示がされていて感心した。会場へ足を運ぶが、当然のことながら知った人は一人もいない。受付で5月の探訪会の申込みをする。総会の会場には雛壇、同好の志の集まりにしては中々本格的である。総会の資料を見ていると、八木豊夫氏の名前が、私が知っている唯一の人だった。彼は私も所属している金沢大学山岳会の事務局を預かっていて、樹木医でもある。その彼が私の隣に座ってくれた。彼は今でも厳冬期を除くシーズンには山へ入っているが、喜寿の私にはもう無理である。彼が言うには、この会の総会と理事会には常時出席だという。
 総会が始まり聞いていて、独自で行なう事業・調査のほか、県や関係団体が行なう事業にも積極的に参加しているのには感心した。また全国レベルでの会にも参加しているのを聞くにつれ、とても半端でなくて本格的だなと思った。またフロアからの発言も活発で、会員の熱気も伝わってきた。また総会の後に、濱野会長の「スペイン・ポルトガルの巨樹を訪ねて」という講演があったが、趣味もここまで高ずれば正に国際派である。私が知っているある大病院の事務長は、皆既日食や金環日食があると、世界の果てまでも必ず出かけているが、会長と大同小異だと思った。

 さて次なる巨樹探訪会、知った人がいないので、探蕎会というそば好きの志が集まる会で、巨樹の会の会員でもある寺田先生に打診したが、出席されないとのこと、こうなれば意を決するしかない。それにしても、予め探訪先の解説やパンフレット、参加者名簿などが事務局から送られてきたが、何とも痒いところに手が届く気遣い、これには驚きもし感激した。本当にお世話されている方々に深謝したい。さて当日は新参で転校生の境地、でもこの二日間、皆さんと共に楽しもうと心に誓う。
 先ずは若狭一之宮の若狭彦神社、スギやケヤキやタブノキの大樹もさることながら、サカキが沢山植わっているのに驚いた。北陸にはヒサカキしかないと思っていただけに。何方かが時期を選べば簡単に植栽できますと話された。昼食後松尾寺へ、途中の山道の際にはシャガが咲き誇っていた。このお寺は以前探蕎会でも訪れたことがある。前の住職の方は寺田先生と陸軍幼年学校?での同期とかで、あの時はお座敷で茶菓の接待まで受けた。境内にはモミ、スギ、イチョウ、ケヤキの巨樹があるが、この前訪れた折には全く気付かなかった。その後智恩寺と天の橋立、クロマツに寄生する寄生木を初めて教えてもらい、また簡単に個体数が増える種明かしまで教えて頂いた。こうして初日はここまで、その後宿舎の大江山グリーンロッジに入る。
 その日の晩の懇親会、私達5号室の6人はほぼ一固まりに、私は一方の端、すると隣に中年のオバさんが座られた。その時、びっくりのジェ・ジェ・ジェが起きた。
「わたくし、田中といいます。よろしく」。
「木村といいます。わたくし第1回の総会の時に林業試験場へ行ったのですが、それっきりで、会の行事には今日が初めての参加です」。
「わたしも白嶺会館での第1回の設立総会以来の会員です」。
 ここで、私の林業試験場での第1回の総会という思い込みは間違っていたことに気付く。
 続けて、「木村さんは、野々市にお住まいですね」。
「そうです」。
「わたしも野々市に居たことがあります。わたくしウツノミヤアキラの姉です」。
「エッ、十兵衛のお姉さん?」。
「そうなんです」。
 彼とは小中高と一緒で、彼の家にも寄ったことがある。十兵衛とは当時野々市山に住んでいた仙人の名で、何故かこの名が彼の通称名となり、皆は今でもアキラではなく、十兵衛とか十兵衛さんとか呼んでいる。
「わたくし、昨年の6月末で勤務を終え、漸くフリーになり、これからは会の行事にも参加したいと思っていますので、よろしくお願いします」。
「わたしも20年にわたって会の事務局を預かってきましたが、やっとフリーになれました」。
 エッ、この隣にいるオバハンは何者?。でもそれ以上の詮索はせず、楽しく会はお開きに。

 翌朝、朝食前に大江山の登山口ともなっている鬼岳稲荷神社へ、ここから南望して見られる雲海はNHKでも紹介されたという。帰って朝食後、元伊勢内宮皇大神社へ、長い石段を上がって本殿へ、脇には樹齢2千年と言われる「龍灯の杉」が、ほかにもスギ、スダジイ、シラカシ、クスノキ、エノキの大樹が、祢宜の方と観光協会の方から説明を受ける。その後更に奥にある天岩戸神社まで行く。最後には岩伝いになる。途中イノモトソウが沢山生えていた。帰りは神社へ戻らず、車道を駐車場へと戻った。この頃より雨になる。山にはヒメウツギの白い花が、また説明にもあったジャケツイバラの黄色い花にも出会った。
 昼食は由良川の水運で財を成したという旧平野家で、食事後係の方から説明を受ける。現在ある建物は明治42年の築造とか、中々凝った建物である。小雨降る中、バスで「才の神のフジ」を見に行く。ケヤキの大木に絡む樹齢2千年というフジ、圧巻だった。
 こうして記念すべき巨樹探訪会は終わった。腕に緑の腕章を巻かれた会長以下4名の方々には大変お世話になった。しかしそのうちの一人の三浦さんから後刻、今回の印象を書くようにと、言葉の端々には田中さんのお薦めとも。解散しての別れ際に、田中さんに、何故初めての私に無理難題をと言うと、実は私も書くのですと。腹をくくって挑戦するか。
 家へ帰って、「巨樹いしかわ」を引っくり返してみた。すると田中豊子さん執筆の文章の如何に多いことか。また十五周年記念誌には夫君の敏之氏(元林業試験場長、当時会理事・事務局、後に第3代会長)と共著で「植物紋様雑記」という長文を載せられているし、二十周年記念誌でも「石川の巨樹・巨木林」の調査に参加されている。ところで帰宅した翌日、田中豊子さんから「不思議を訪ねる ー 無用の用・用の用を楽しむ」という冊子が郵便で届いた。A4300頁に及ぶ大作、先の植物紋様雑記を更に集大成したもの、それにしても膨大な資料をよくぞ纏められたものだと感服した。早速御礼の電話を差し上げたが、これでは関取と褌担ぎではないか。読ませて頂いてから改めて御礼を申し述べることにする。
〔閑話休題〕
 創設者で初代会長の里見信生先生が金沢へおいでたのは新制の金沢大学が開学された時だろうと思う。私の叔父の木村久吉もそうで、里見先生は理学部植物学教室の正宗先生の元へ、叔父は薬学部生薬学教室の黒野先生の元への赴任だった。当時金沢大学は金沢城内にまとまる構想があり、薬学部では先陣を切って生薬学教室が城内の旧旅団司令部跡に引っ越した。この時点で理学部は旧四高跡にあり、同じ植物分類に関わることもあって、里見先生はよく城内にもおいでていた。私は当時中学生、先生とはよく叔父の教室でお会いした。植物標本の多寡がよく話題になっていて、何か良きライバルでもあったようだった。
 昭和35年に波田野基一先生が医学部微生物学教室の西田先生の元に赴任された。私は昭和38年に先生の元でウイルス学を研鑽すべく入局した。翌年先生は癌研究施設、後のがん研究所の教授になられ、私も移籍した。この頃、波田野先生と里見先生は旧制中学校で同期だったと聞いた。その当時里見先生は大学で落語研究会を立ち上げ、自らも山遊亭銭朝と称されていて、何かの折、先生の高座を聴かんと、波田野先生以下数人の先生方に拙宅へお集まり願ったことがある。また、里見先生は新制高校の記章を収集されていて、先生のお宅の蔵でその夥しい数の収蔵品を見せていただいたこともある。ずいぶん昔のことだ。

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