2013年4月25日木曜日

飛騨古川逍遥

「ざる蕎麦 せと」を出たのは正午過ぎ、これからの予定は、高山は丁度桜が満開で見頃なので、臥龍桜を見てから、飛騨古川をブラつこうかということになった。車は和泉さんの奥方の運転で、国道41号線を北へ進む。この臥龍桜、国道からも見えるはずだし、看板も出ているはずで、後は助手席においでの寺田会長に一任した。ところが、もう古川という辺りまで来て、そんな看板は一切見なかったとのこと、狐にだまされたようで腑に落ちなかった。ところで、これは私や前田さんの思い違いで、その場所は、高山市街を北ではなく、南へ4kmばかり行った場所だった。国道からはその臥龍桜も見えるし、標識もあるので、見落とすことはないはずなのだが、如何せん、方角が反対だと分からない訳である。
〔臥龍桜〕案内では、JR高山本線飛騨一ノ宮駅下車、徒歩1分とある。大撞寺境内の臥龍公園内にあり、樹齢1,100年以上のエドヒガンザクラの大樹で、国の天然記念物に指定されている。一本の長い幹が地面すれすれにまで延びていて、枝張り30mにも及び、樹形全体を見ると、さながら龍が臥している姿に見えることから名付けられたという。丁度見頃だったはずで、高山駅から南に4kmばかりだから、方角さえ間違えてなければ、その素晴らしい姿を拝見できたろうに、残念なことをした。
 ところで国道41号線を北上していると、ずっと電柱に、ある区間では「蓬萊」という看板が、ある区間では「白真弓」という看板が、交互に何kmも続く。これが高山より南だと「久寿玉」となる。これは清酒の広告なのだが、石川県では考えられない。さて車は古川の街へ入る。街中のあちこちに駐車の案内が出ている。私達の車は、高山本線の飛騨古川駅の近くの踏切を渡ったところにある飛騨市文化交流センターの駐車場に車を停めた。そして三々五々、今来た道を再び戻り、街の中心部へと向かう。右手に飛騨市役所が見えたので、その前にある観光案内所へ向かう。私が古川に来る時は、大概この駐車場に停めるようにしている。無料である。今日は平日なので案内の人はおらず、適当にパンフレットを頂き、そぞろ歩く。
 先ず始めに「飛騨古川まつり会館」の前を通る。ここでは本物の屋台3台が展示されているし、からくり人形や伝統工芸の実演もやっている。また明日と明後日(4月19日と20日)に行なわれる古川祭の様子なども立体映像で見せてくれる。見たことがあるが、大変勇壮で実に迫力がある。通りの向かい
側には「まつり広場」がある。
 次いで通りを渡ると「飛騨の匠文化館」がある。これは飛騨の匠の伝統技術を駆使して建てられた建物で、中には匠が使った道具等が展示されているし、木組み等も体験できる。
 福全寺蕎麦(あまり旨くない)の前を通り、次に左に折れて壱之町通りの町並みに入る。この街の家々は、飛騨の伝統的な町家建築様式をとっていて、家の軒下には「雲」と呼ばれる腕肘木があり、これはその家を建てた棟梁の印だという。少し歩くと、左側に渡辺酒造店の重厚な建物がある。あの「蓬萊」の醸造元で、建物は国指定有形文化財になっている。またもう少し歩くと、「白真弓」の醸造元である蒲酒造場の古い建物もあり、やはり国指定有形文化財で、白壁の酒蔵は裏を流れる瀬戸川用水を背にして建っている。
 会長の希望で三嶋和ろうそく店へ寄る。240年以上続く「生掛け和ろうそく」の老舗、原料はすべて植物性で、すべて手作業、全国ではもう10軒もないとか。交差点に出ると、対角に本光寺が見える。十四間四面総檜造りで、飛騨では最も大きい木造建築とされる。山門も見応えがある。浄土真宗の開祖・親鸞上人の御遺徳を偲び、円光寺、真宗寺との三寺を参拝する三寺参りが毎年1月15日に行なわれるという。
 瀬戸川に沿ってある白壁土蔵街をそぞろ歩く。この川は古川にあった平城の増島城の壕の水を、新田開発に利用するために作られたもので、世話人の名をとって「瀬戸川」と名付けられたという。現在千尾もの鯉が放流されているという。立派な鯉ばかり、冬期には越冬池に移されるというが、常に流れている川で鯉は休めるのかと思う。さらに歩くと三寺参りの一寺の円光寺に至る。ここの山門は増島城の城門を移築したと言われている。これでざっと一巡したことになるが、飛騨の匠文化館の近くにある大イチョウを見に行く。この樹は今はない福全寺の境内にあったもので、男木で高さ30m、樹齢700年と推定されていて、飛騨市指定の天然記念物になっている。最後に若山牧水の歌碑を見に行く。前半は分からないが、「ひだのくにの 古川の町に 時雨ふるなり」は読めた。
 駐車場へ戻り、午後1時40分に古川を発つ。スキーに通ったことのある数河高原や流葉を通って神岡に下り、県境を抜けて富山の道の駅細入で休憩し、白山IC で下りて出発した「和泉」に戻った。帰着は午後4時10分過ぎ、充実した1日だった。
 今日1日運転の労をとって頂いた和泉さんご夫妻に深謝します。   

春の探蕎は飛騨高山の蕎麦処「せと」へ

 平成25年の探蕎会総会で、今年前半の行事で、3月はかほく市白尾の「龜屋」、4月は高山市の「ざる蕎麦 せと」と決定していた。4月は18日の月曜日、ここを選んだのは、野々市の「敬蔵」の店主の推薦とかだった。このところ探蕎会の蕎麦屋巡りは平日ということもあって、参加する方はどうしても限定されてしまう。この日も参加者は8名で、5名(大滝、寺田、早川夫妻、木村)は前田さんの好意で車に便乗させてもらい、集合場所の白山市番匠の「和泉」へ向かった。今回も和泉さんの車(8人乗り)で行くことに、出発は9時予定だったが、揃ったので15分前に出た。
 天候は晴れ、でも今日の天気予報は曇り後雨、用心して折り畳みの傘を持参した。白山ICから北陸自動車道へ入る。砺波平野へ入ると、靄なのか霞なのか、視界は2kmばかり、立山連峰は全く見えない。東海北陸自動車道に入ると、前に袴腰山が見え、中腹以下が靄か霞で白く隠れている。袴腰トンネルを抜けると五箇山、さらにいくつかトンネルを抜けると白川郷、次に長大な10.7kmの飛騨トンネルを抜けてすぐの飛騨河合PAで少し長めの休憩をとる。天気は良く温かい。蕗の薹が咲いている。再び高速道へ、トンネルと高架橋が交互に、よくぞ作ったものだ。清見ICから中部縦貫自動車道に入り、高山ICで下りる。正面には真っ白な乗鞍岳が見えている。連絡道から国道41号線に入ると、程なく左側に目指す「手打ちそば処 せと」の看板が見えた。到着は10時45分近く、休憩時間を入れて約2時間弱の乗車だった。この店は私のリストでは「蕎麦正 せと」となっていたので、どうしたのかと思ってその看板をよく見ると、「せと」と書いてある看板の上部の蕎麦正の文字は白ペンキで塗りつぶされていた。この店は蕎麦正グループから離脱したのだろう。
 11時半開店なので、少々付近をブラつく。店は国道41号線に面した平屋建て、車は8台駐車可能である。店の前にはミニ水車が回り、手回しで風を送り穀粒を重さで分別する、昔の農家では必需品だった「とうみ」が置かれ、何故か行灯?も飾ってある。開店時間前だったが、「お待たせしました」と女御に言われ、暖簾をくぐる。当初は奥の畳敷きの部屋と思ったが6人しか入れず、土間の6人テーブルに4人ずつ腰を下ろす。でも少々窮屈だ。席数は6人テーブルが3卓、カウンターに15席、それと奥の小間、ざっと40人は入れそうだ。
 テーブルにはチラシが置いてあり、店主の瀬戸靖史さんの「そば」に対する想いが述べられている。曰く「そばが好きで蕎麦屋を始めました。毎日蕎麦と取り組んでいると、蕎麦のいろんな味の表情に出会います。そのいろんな蕎麦の味をお客さんにも楽しんで貰おうと4種用意しました。いろんなそばの特徴を楽しんで下さい」と。ということもあって、皆さん「四種盛」(1500円)を注文する。注文は半皿単位で注文でき、この四種盛の一盛りは半皿相当ということである。蕎麦前のお酒は一種のみ、「神代」という飛騨神岡の大坪酒造の酒、先ず1合で3本、後で2合を1本追加した。冷やといっても常温、でも飲みやすい酒だった。つまに「山菜・野菜の天ぷら」をテーブルに2皿ずつ注文する。でもこの天ぷら、出初めと最後とでは大変な時間差があり、またテーブルでも差があり、私と寺田会長に運ばれたのは、そばの4番目が出る少し前、もう1杯お酒が欲しくなる頃でもあった。
 今日の四種盛は、4月10日〜5月中旬限定で、チラシの順では「奈川在来」「白川郷」「丸岡在来」「大野完熟」とあったが、出された順はこの順ではなく、また前田さんの「めくれない日めくり日記」に書かれた順と私達のテーブルの順も一部異なっていた。この四種を混同しないように、小さな色付きのタグを容器に載せて運んでいたが、訊くとこれは間違えないための智慧とか。テーブルには生山葵と鮫皮下ろし。「そば」は出汁徳利と蕎麦猪口、白磁の皿に刻み葱、青色の小さな壺に砕いた湖塩と小匙が載った角盆に載せられて出てきた。以下に私達のテーブルに運ばれた順に、能書等を記す。
(1)大野完熟・大野在来(福井県大野市)玄そば挽きぐるみ、二八、細打ち
「在来種の多い福井県の品種の中でも、地元の消費率が高い。『落ち着いた味わい、馴染みやすいソバ』。蕎麦にとって好条件の地形や気候の整っている大野市でこそなし得る刈り取り時の黒化率97%という数値、その完熟の味わいをお楽しみ下さい。どちらかというと、温かいメニューやおろしそば・とろろそばにお勧めです」。そばは朱塗りの長方形のせいろの簾の上に盛られていた。目印は黄色。そばの色はやや黒い。初めは塩で頂く。程よい硬さ、細打ちということもあって、のどごしも良い。標準品だ。つゆはどちらかというとあっさりした甘味のある淡い色で、辛味は感じない。
(2)奈川在来(北海道・黒松内町)丸ヌキ、手臼挽き、十割、平打ち
「飛騨と信濃をつなぐ〔ブリ街道〕の宿場でもあった旧奈川村に伝わる味の濃い品種で、北海道で栽培。『超粗挽きーソバの甘さを知る蕎麦』。ソバの実の香りは実はココナッツのような香りです。その香りの最も強いのがこの奈川在来の特徴です。ソバの実から可能な限り雑味を取り除き、また極端な大粒に挽くことで、鼻腔を刺激し、甘味を感じやすくするよう工夫しました。最初の一口は、つゆもワサビも付けずにソバの甘さを体験して下さい」。そばは厚手の角皿の中央部が丸く平らに窪んで黒い釉薬がかけられた皿に盛られて出てきた。目印は緑色。色はやや白っぽい。平打ちだが幅は2mmばかり、でも厚さは薄く、一寸見た目には細打ちに見える。しかしとても超粗挽きには見えない。超粗挽きと銘打つなら、むしろ太打ちにして噛んで食べるようにすれば、確実に甘味を感ずるだろうにと思う。それにしても信州の奈川在来の蕎麦が、北海道で栽培されているとは知らなかった。驚いた。
(3)白川郷/信濃1号(岐阜県白川村)玄そば挽きぐるみ、十割、太打ち
「そばは『田舎のお婆ちゃんちで食べたそば』。飛騨地方で多く栽培されている品種。白川郷の個人の農家さんが手がけた、自然に恵まれた深い香りと甘味が特徴」。そばは波形菊紋の平皿に盛られて出てきた。目印は赤色。見た目には黒っぽく、太打ちとあったが、中打ち程の太さ、ただいけないのは麺がキレギレなことだ。これは昔の田舎の婆さんが打ったそばのようで、正に素人さんの出来としか言いようがない。信濃1号は長野県で改良された品種で、現在日本では最もよく栽培されている蕎麦の品種でもある。
(4)丸岡粗挽・丸岡在来(福井県坂井市)挽きぐるみ、十割
「〔一筆啓上〕でお馴染みの丸岡のそばです。今や全国で引っ張りだこのブランド品です。『奥深い甘味・ボリュームあるソバ』。蕎麦の実を、甘味が強く色がよい直径3.8mm以上の粒と、それ未満の香りと味わいの深い粒に選別し、前者は殻をむいて粗挽きにし、後者は殻付きのまま石臼で挽き、ブレンドしました」。そばは薄い焦げ茶色をした、白っぽい細打ちのそば。片方を折り曲げた四角な陶板に載って出てきた。目印は青色。味はそこそこだが、丸岡の海道さんのところで食したあの「そば」に比べると、正に香りは雲泥の差だ。またここでは2種類に分別していたが、海道さんのところでは、多いときは7種類にも分別するとかだった。味や香りをより先鋭化するためとかである。
 ところでこの4種、色や太さ加減では鑑別できそうだが、ブラインドで食べた場合、果たして鑑別は可能だろうか。この中で田舎そばは何とか分かっても、後の3品はそう思って食べているのであって、私にはとても見分ける自信がない。いつか京都の「じん六」で、異なる3産地の「そば」を出され食したことがあったが、食べた時は、ああ前のとは味や香りが違うなあと思っても、後でどう違ったかを口にするのは、実に至難の技だった。もっとも近頃はソムリエならぬソバリエという人がいて、品種や産地までも鑑別できる人もいるようだが、前田さんもブログに書いていたが、せいぜい二種盛りくらいが私達には妥当なのかも知れない。
(5)山菜や野草、旬野菜の天ぷら(八品ほどの盛り合わせ)
 黒縁の丸皿に半紙を敷いて、その上に砕いた湖塩と盛り合わせの天ぷらが載っていた。リストには、蕗の薹、蕗の葉、コンテツ、浅葱、タラの芽、こごみ、金時草、新牛蒡、姫竹、嫁菜、蓮根、蓬、蕨、独活、野日草、雪の下などが書かれていたが、出てきたのは、蓬、こごみ、縦割りの牛蒡、姫竹、ほかに店主に教えてもらったアズキナとナンテンハギの葉があったが、これで6品、もう2品は失念した。

 終わって今日の会費を徴収、一人5000円。残金は車を提供して頂いた和泉さんへ。ところで店の前で待ったいると、和泉さんから皆さんに頂き物、品は「チベットの華雪(はなゆき)」Tibet plateau Lake salt、店で出ていたあの湖塩だと思う。有り難く頂戴した。この後集合写真を撮った。

「ざる蕎麦 せと」:岐阜県高山市下岡本町 1650-5  TEL (0677) 35-5756
 開店11時 閉店16時(LO 15:30) 定休日 毎週水曜日(祝日営業)
・おしながき:(1)そばがき、炊き込みご飯 (2)飲み物(ビール、ノンアルコールビール、地酒、焼酎蕎麦湯割り) (3)冷たい蕎麦(ざるそば、ざるおろし、ざるとろろ、四種盛、二種盛、薬味三種盛) (4)温かい蕎麦(かけそば、かけおろし、かけとろろ) (5)天ぷら(山菜・野草・旬野菜、孟宗竹の竹の子、タラの芽、半熟玉子) 蕎麦の注文は半皿単位。      

2013年4月18日木曜日

井上道義の指揮でショスタコーヴィチを聴く

 井上道義の指揮によるサンクト・ペテルブルク交響楽団の金沢公演は、4月14日に石川県立音楽堂コンサートホールで開催された。主催は創刊120周年を迎えた北國新聞社と石川県音楽振興事業団である。この公演は、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の定期会員には先行予約できる特権があって、今回はスムースにS席のチケットを購入することができた。ずっと以前、おそらく金沢観光会館(現金沢歌劇座)でだったと思うが、痩身で背の高いエフゲニー・ムラヴィンスキーの指揮によるレニングラード交響楽団の大編成による圧倒された演奏を思い出した。ソビエト連邦共和国の体制が崩壊して、連邦内の共和国が独立し、ロシア共和国が生まれ、レニングラードは旧名だったサンクト・ペテルブルクと名称が替わり、それに伴って交響楽団の名称も変わった。

● サンクト・ペテルブルク交響楽団
 1931年の創設というから、創立して80年を超えている。現在の常任指揮者は1977年に就任したアレクサンドル・ドミトリエフである。これまで E.ムラヴィンスキー、I.ムーシン、K.エリアスベルク、N.ラビノヴィッチ、A.ヤンソンス、Y.テミルカーノフらが首席指揮者を勤めてきた。第二次世界大戦の最中、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦で街は包囲されたが、それでも1948年8月には、エリアスベルクの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第7番が初演されたのは、今でも語り種になっている。この楽団では現在でもショスタコーヴィチの作品はレパートリーの重要な部分を占めており、2004年にはレニングラード包囲戦反攻60周年を記念して、作曲家の息子のマキシム・ショスタコーヴィチの指揮で演奏が行なわれたとかである。この日の演奏後、井上道義は、40年前にレニングラード交響楽団を客演指揮したが、その時のメンバーは一人もいないと述懐していた。
● 指揮者・井上道義
 OEKの創設者である岩城宏之が亡くなって、後任の音楽監督選びに入った時に、最も有力な候補は井上道義であった。彼は何度かOEKを客演指揮していて、気心も知れていて、この人以外に適任者はいないと考えられていた。ただ前任者とはそのオーラは全く異質なものだという印象があった。彼は国内では、新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督を6年、京都市交響楽団の音楽監督・常任指揮者を9年勤めてきた。その後、1999年から2000年にかけて、新日本フィルとマーラーの交響曲の全曲演奏会を行ない、当時日本におけるマーラー演奏の最高水準と高く評価された。また2007年11月から12月にかけて、彼は日本とロシアの5つのオーケストラを指揮し、「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト」を東京で開催、その時、全15曲中8曲は サンクトペテルブルク交響楽団が担った。現在彼は「日本ショスタコーヴィチ協会」の会長でもある。また彼はこれまで名だたる外国のオーケストラを20余りも客演指揮している。
 指揮者・井上道義をOEKに就任以来ずっと見ていると、型破りな面があると思う。ついこの間も北朝鮮の平壌に招かれてベートーベンの第九を振ったときも、何の躊躇もなく出かけ、この時期に何故と県議会でも参考人として呼べとの話も出たが、とにかく一般的常識は彼には不要のようだ。でも演奏会で共演者がいるときの指揮ぶりは実にナイーブで繊細、大概このときは指揮棒を持ってリードしている。しかしそうでない時は、身振り手振り、独特なボディ・ランゲージでもって、時にはバレーダンサーの片鱗を伺わせる、破天荒とも思える仕草を伴う指揮をする。この日の演奏も正にそうであった。彼は言う。『わかりにくいものに僕は心を惹かれる。わかりやすいものは飽きやすい』と。
● 演奏曲目
 今回のツアーは4月14日の金沢を皮切りに、4月21日まで6都市で7公演される。金沢での演奏曲目は次のようであった。
(1)チャイコフスキー:幻想的序曲「ロメオとジュリエット」(第3稿.1986)
(2)ストラヴィンスキー:バレー音楽「火の鳥」組曲(1919年版)
(3)ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
 交響曲第5番は、ショスタコーヴィチの全15曲の中では最もよく演奏される曲である。前作の第4番が、共産党体制の中で反体制との批判を受け、その名誉挽回のために作曲され、その結果は「社会主義リアリズムの偉大な成果」と称賛された曲である。終楽章第4楽章の管と打の素晴らしさには圧倒された。暫し拍手が鳴り止まなかった。応えてのアンコール曲は、ショスタコーヴィチ作曲のバレー音楽の組曲「黄金時代」から「ポルカ」、井上さんに促されて、聴衆全員が手拍子、一体感が凄かった。

2013年4月15日月曜日

久しぶりの金聖響を聴いて

 4月10日に、金聖響の指揮によるオーケストラアンサンブル金沢(OEK)の第336回定期公演が石川県立音楽堂コンサートホールであったs。この日の演奏曲目は、ワーグナー作曲の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から第1幕への前奏曲、ラフマニノフ作曲のピアノ協奏曲第2番ハ単調 op,18、ブラームス作曲の交響曲第1番ハ短調 op,68 の3曲である。ピアノ独奏は外山啓介という若手のピアニストで、失礼だが名前を聞くのは初めての人だった。OEKは現在正規の団員は、外国人の第1コンサートマスターを入れても32人で、通常の定期公演では、客演の奏者を入れて、ほぼ40人規模での室内オーケストラとして演奏している。でもこの日は演目の関係もあって、大阪フィルハーモニー交響楽団34人の協力を得て、総勢75人での大編成での演奏となった。
 大阪フィルは現在百名を擁する大編成のオーケストラで、朝比奈隆が中心となって1947年に設立された関西交響楽団が母体であり、1960年に現在の名称になった名門オーケストラである。この度大阪市に竣工した大阪・フェスチバルホールで5年ぶりに開催されることになっている、第51回大阪国際フェスチバルの杮落とし公演にも出場が決まっている。
 指揮者の金聖響は大阪生まれの中堅指揮者、2009年4月からは神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任していて、以前からOEKとは浅からぬ縁もあって、2009年12月からはOEKのアーティスティック・パートナーに就任している。これまでブラームスやベートーベンの交響曲をOEKを指揮してリリースしている。そんあこともあって、今回のブラームスの第1番は非常に期待が持てた。
 ピアニストの外山啓介は東京芸術大学大学院を出た若手、私には初めての方、この日の演奏曲目は、ラフマニノフの3曲のピアノ協奏曲の中では最も演奏される回数が多いとされる第2番、しかし難曲なだけに期待と不安が過った。

● ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
 この曲は単独で演奏されることが多いが、やはり大編成であってこそ、その真価が発揮されるように思う。演奏は実に荘厳で重厚、しかも晴れやかさも持ち合わせていて、実に壮麗な演奏であった。この曲は楽劇上演のときには、前奏曲と次の開幕場面が楽譜上では連続しているので、単独で演奏されるときには、最後のエンディングが問題となる。この日は、ティンパニは最初からロール打ち(長音連打)、ただし4打目の和音を聴いてからロール停止、5打目はオケと一緒にロール打ちして、見事に終曲した。実に感動した。
● ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調 op.18
 24歳の自信家ラフマニノフが世に問うた自信作の交響曲第1番は散々の酷評で、この不成功によりこの曲は彼の生前には全く演奏されなかったことは有名な逸話である。その結果ノイローゼになり、「作曲すれば、また酷評される」と作曲できないでいた。その時に彼の治療にあたったのが精神科医のダール 博士で、その苗向きな暗示療法によって彼は劇的に恢復し、そして作曲されたのがこの曲である。この曲はダール博士に献呈されている。現在4曲あるピアノ協奏曲の中では、最も多く演奏されている。この日の外山の演奏は、自信に満ちた清澄なタッチと流れるような楽想、でも緊張していたのか、よく汗を拭っていた。そして終楽章では劇的な高揚があった。オケとの調和も絶妙で、私も久々に興奮し感激した。この演奏に聴衆は万雷の拍手、拍手は鳴り止まなかった。素晴らしかった。アンコールに応えて弾いた静かな曲、メロディーは知っているが、曲名は失念したが、嵐の後の静けさを感じた。
● ブラームス 交響曲第1番ハ短調 op.68
 ベートーベンがシラーの「歓喜に寄す」の詩に感動し、その詩に作曲すると決心してから出来上がるまでに32年が経過したことは有名である。そしてこの交響曲第9番「合唱付」を聴いたブラームスが、これに匹敵する交響曲を書こうと思い詰めたものの、出来上がるまでに21年を要したという逸話も有名である。それでこの第1番は、ベートーベンの第10番とも言われるとか。第1楽章の冒頭は巨人の足音、それはベートーベンの足音なのか、そしてハ短調の序奏部とハ長調のコーダを両端にもつ調性は『運命』と同じだという。第2楽章は旋律美のある室内楽的な響き、第3楽章は澄明なハーモニーが光と影を演出し、そして第4楽章はあのアルペンホルンの旋律と沸き上がる崇高な主題、最後は凄く圧倒的な大編成ならではの素晴らしい高揚感で結ばれた。久々の感激、拍手が鳴り止まなかった。応えてハンガリー舞曲第5番が演奏された。時間は20分もオーバーしたが、帰る人はなく、満員の客は感激に酔いしれた。



2013年4月9日火曜日

三度目の満山荘(二日目)

 朝5時に目が覚めた。シャッターを上げると、空には下弦前の月が輝いている。冷え込んだ翌日は晴れるとか、本当だった。80km彼方に、前穂高岳から小蓮華岳に至る、これまた80kmにわたる白い雪を頂いた北アルプス連峰の全貌がシルエットとなって見えている。今日は快晴、三度目の訪問で初めてその勇姿に接することができた。あの峰々を昔縦走したのだと思うと、正に感無量である。暫く待っていると白い峰々が朝日を浴びて薄桃色になってくる。何とも贅沢な一瞬である。朝食は午前8時、6時になって、男女交替になった檜風呂へ行く。露天風呂からもゆっくり大パノラマを堪能できた。
 8時になって風土へ、卓には沢山の朝食が並べられている。大きな白い角皿に十品ばかり、ほかにも蒸し物や和え物、それにデザート、合六椀にご飯と汁物、見ただけで食べられるのかと訝る。私、朝は小食なのにこの量、でも残すのは失礼と懸命に食べた。食事をしてると館主の堀江文四郎さんが見えた。83歳とか、125歳まで生きようと思っていると仰る。その秘訣のうちの二つは、腹八分目と寝るとき寝室の窓を少し開けて寝ること、夏は10cm、冬は5cm、寝ている時に自分の吐いた空気をまた吸うのは良くなく、常に新鮮な空気を部屋に取り入れるのだと言う。ただ今朝はあまりに寒くて目が覚めたという。驚いた。私が三度目の訪問で初めて山を見ることができましたと言うと、今日は80%の出来だと、そして今日だと11時頃が最もコントラストが良くなると教えてもらった。ベランダに500倍の望遠鏡が置いてあるというので覗くと、眼下には長野市の町並みがくっきりと、山に目をやると、五龍岳の武田菱も、唐松岳から延びる八方尾根も、そして正面の鹿島槍ヶ岳に焦点を会わすと右肩に劔岳が、さすがに倍率500倍の威力である。これは昔軍艦に搭載されていたものとかs、これほど解像力のある望遠鏡は他の観光地でもないとか。これまでは天候も悪くお目にかかったことはなかったが、これは実に凄い。話しながらのゆっくりとした朝食、時間をかけ、どうやら平らげた。
 満腹になって、部屋で寛ぐ。陽が高くなってくると空の青さが濃くなり、山の稜線がくっきりとしてきた。飽かずに眺める。チェックアウトは11時、30分前にフロントに下り、土産を買う。玄関には沢山の下足が、温泉組合の寄り合いがあるとかだった。昼食は小布施のおお西流十割蕎麦の手打百藝「おぶせ」で昼食をと予定していたが、とても入る状態ではなく、たまたまフロントに置いてあったパンフレットを頼りに、近くの中野市にある中山晋平記念館と高野辰之記念館を訪ねることにする。
● 「中山晋平記念館」 中野市新野
 山を下りて小布施の郊外でナビを入れる。指示に従って20分ばかり、長野電鉄の電車をやり過ごして山手へ向かうと記念館があった。丁度正午で、正面ゲートに吊り下げられたカリヨンがメロディーを奏でている。丁度の時刻に皆がよく知っているメロディーが流れる仕組み。入ると20分間ビデオで晋平の生涯を教えてくれる。父の死後学業もままならないが、漸く母親の許しを得て上京、島村抱月の書生をしながら東京音楽学校に入学する。その後抱月は芸術座を旗揚げ、依頼されて作曲した劇中歌の「カチューシャの唄」や「ゴンドラの唄」が大ヒットした。さらに「船頭小唄」や「波浮の港」などの歌謡曲や「證城寺の狸囃子」「シャボン玉」「背くらべ」などの童謡、「東京音頭」など全国各地の新民謡など、作曲した曲の数は三千曲とも。日本のフォスターとも言われている。日本著作権協会会長にも就任、昭和27年に65歳でなくなった。館内にあるリスリングコーナーで家内と晋平作曲の唄を10曲ばかり歌った。出たのは丁度2時、この時は「シャボン玉」が奏でられていた。
● 「高野辰之記念館」 中野市永江
 ここへもナビで案内してもらった。この記念館は高野辰之が学び、また教鞭をとった永田小学校の跡地に建っている。よく敷衍している「故郷」の作詞者が高野辰之であることは知っていたが、どんな人物なのかは全く知らず、それが入館して見せてもらったビデオを見て驚いた。青天の霹靂だった。東京音楽大学の教授で「日本歌謡史」を講義し、これを纏めた論文で大正14年に東京帝国大学から文学博士の学位を、また昭和3年には帝国学士院賞を授与され、天皇・皇后両陛下にご進講されている。田舎の先生かと思っていたのに、とても驚いた。昭和18年に現野沢温泉村の別荘「対雲山荘」に隠棲し、昭和22年に71歳で亡くなった。高野辰之は尋常小学唱歌(全六冊)の作成に岡野貞一と携わり、第一学年用「日の丸の旗」、第二学年用「紅葉」、第三学年用「春が来た」、第四学年用「春の小川」、第六学年用「故郷」「朧月夜」を作詞している。これらの歌は、文化庁実施の「親子で歌いつごう日本の歌百選」に5曲が選ばれ、人々に愛され続けられている。 

2013年4月5日金曜日

三度目の満山荘(一日目)

 日本秘湯を守る会と朝日旅行がタイアップして、会に加入している秘湯の宿凡そ200軒に、3年間のうちに10軒宿泊すると、訪れた宿のうちの希望する1軒に無料で宿泊招待されるという企画がある。これまでも会員の宿に宿泊したことはあったが、このような企画があるというのを知ったのはつい3年前のこと、平成22年の秋に長野県の中の湯温泉旅館に泊まった時のことである。そして2年後、このスタンプ帳を初めて貰った旅館で10個目のスタンプを貰い、希望旅館を満山荘にして申請したところ、第1希望の3月31日に招待宿泊の返事が届いた。
第1日(3月31日)
 当日午前7時半に家を出る。天候は曇り、山側環状道路を経由して森本ICから北陸自動車道に入る。朝食は有磯海SAで摂り、上信越自動車道の妙高PAで小憩し、昼は久しぶりに小布施のそば処「せきざわ」に寄ることにし、中野ICで下りる。
● 「せきざわ」 小布施市中松
 ここには数回訪れているが、近頃訪れた人の評ではあまり芳しくないとか。そんなこともあって一度確かめに寄ってみようと思った。目的地に着いたのは11時少し前、開店は11時半、既に2組が待っていた。車のナンバーは八王子と富山、まだ人気があるようだ。車は8台駐車可能とか、以前開店前でも駐車スペースがなく、離れた道路隅に停めたこともあった。11時半きっかりに戸が開けられ、11人が入る。ここは原則相席である。この店の原蕎麦は北信濃栄村での自家栽培のものを手刈りで天日干しにし、自家製粉しての提供が売りだった。そばは冷たい「三昧そば」(1400円)をお願いする。ややあって、初めに生粉打ち(十割)、長方形のせいろに盛られ、色は白っぽい、打ちは中細、並の味、なぜか以前ほどの感激はない。次いで変わりそば、これは二八で、この日は紫蘇切りとか、せいろの真ん中にこんもり盛られて出てきた。微かな香りと味がする。次いで粗挽き、やはりこんもりと、九一の中太で、これが最も蕎麦らしい味、でも三枚とも水切りが悪くびしょついていたのは頂けなかった。風評は本当だった。
● 「満山荘」 高山村奥山田温泉
 小布施から松川渓谷沿いに、山田温泉を経由して奥山田温泉へ向かう。微かに小雨が間断なく降っている。奥山田温泉は標高1560mの高地、山へ入るとガスが立ち込め小雪が舞っている。チェックインは午後2時、宿近くの空き地で小1時間待機した。2時になり宿へ入る。無料招待なので旧館だろうと話し合う。何時もだと新館でと言うのだが、今回はそうも言えず成り行き任せにする。案内されたのは旧館の202号室の「槍」。しかし旧館は1年前に改装されていて、随分感じが素晴らしくなっていたのには驚いた。トイレも最新の設備で完全自動、古いのは骨組みだけで、インテリアも実に素晴らしい。料金を積み増しして新館へと思っていたが、杞憂に終わった.実に満足いく空間だった。
 早速に風呂へ。この時間帯、男性は館主手製の岩風呂、女性は大枚かけて改装した檜風呂、これは午後10時から朝の8時までは男女の風呂は交替する。いずれにも内風呂と露天風呂がある。お湯は硫黄泉で白濁している。源泉は96℃だが、配湯されるお湯は65℃とかである。掛け流しである。天気が良ければ、露天風呂からは北アルプスの峰々が望めるのだが、今は小雪とガスで全く視界が利かない。今日は2組だけとか。今までは満室ばかりだったので、こんな日もあるのだと変に納得する。
 夕食は午後6時半とかで、部屋でテレビを見ながら、持参の「神の河」を飲み寛ぐ。時々ガスが切れると、眼下に雲海が広がっているのが見える。6時半になって食事処のFOOD風土へ行く。席にはもう食事が用意されている。旬の食材をふんだんに使った嫁はんの創作料理、「北信濃風 春の献立」の数々、見た目の色彩感覚も実に素晴らしい。飲み物は地の赤ワインにする。料理の説明がある。曰く「食前酒」「信州サーモン塩糀」「生湯葉」「手作り牛乳豆腐」「サラダ十種角皿盛り」「十六穀米スープ」「春の山菜天麩羅」「大岩魚のジェノバ風ソース」「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」「チーズの茶碗蒸し」「野沢菜茶漬け」「りんごあいす」等々、ワインはハーフを3本お願いした。私も家内も、この献立にはワインが最もお似合いと思った。ゆっくり旬の創作料理を堪能した。その後部屋で寛ぐ。外は寒いらしく、降った雪が氷化している。0℃近くまで下がったのだろう。明日は天気は良くなるという。期待しよう。