野々市市の広報では、2011年11月11日に、石川県内で11番目の市になるという触れ込みで、11が重なるような日を選んで市に昇格させるとあった。またこの日行なった新市を祝う記念式典も午前11時に行なうという懲りようだった。そして石川県での合併によらない単独での新市誕生は、昭和45年(1970)の松任市誕生以来41年ぶりとのことである。とは言っても松任市も野々市町も、昭和の大合併では、旧松任町は1町に12村が編入して新松任町が出来ているし、野々市町も富奥村と昭和30年(1955)に合併して新野々市町が出来、その後昭和31年(1956)には郷村の9大字が、また昭和32年(1957)には旧押野村の4大字が金沢市から編入して、新野々市町が出来上がっている。このようにして、昭和の大合併では、多くの例では、全町村挙げて合併や編入が行なわれたが、新生野々市町の場合は、編入に際しては相当な紆余曲折があった。
昭和の大合併の前には、野々市町は石川郡の中では四部という枠組みで、旧の額村、富奥村、野々市町、押野村の4町村が共同体のような形で、私が国民学校や小学校の頃はしょっちゅう行き来があったもので、特に野々市町は押野村と絆が強かった。したがって、昭和の大合併の時もこの1町3村が一緒になるものと思っていたら、いち早く昭和29年(1954)に額村が離脱して金沢市に編入してしまった。これは村の住民の意向というより、むしろ村役場や村議会の意向が優先したためだろうと推測している。
額村が抜けた後、全町全村が一致して合併に前向きになったのは野々市町と富奥村のみで、そこでこの1町1村の合併で新野々市町が昭和30年(1955)4月1日に発足した。そしてもう一つの相棒であった押野村は、村議会の議決で昭和31年(1956)1月1日に金沢市に編入してしまった。この事態に押野、御経塚、野代、押越の4部落の住民は猛反対し、小中学生を野々市小中学校へ無理やり転校させ抵抗した。この時期部落へ入る道路の入り口では厳重な検問があり、関係者以外は村へは入れない事態になった。この事態を重く見た金沢市議会は、住民のほぼ全部が野々市町への編入を希望している押野町を除く3町を野々市町へ編入させる議決をした。ところが旧押野村の役場があった押野町は決着がつかず、住民投票の結果を待つことになった。このときの殺気立った様子はすごかった。結局旧押野村大字押野の南側3分の2は野々市町へ編入、北側3分の1は金沢市に残ることになり、昭和32年(1957)4月10日に野々市町への編入と金沢市への残置が決まった。現在その名残は地名に残っていて、野々市町には押野1~7丁目、金沢市にも押野1~3丁目がある。今バス停に押野2丁目とあっても野々市か金沢かの判別はできず、本押野とか押野6丁目とあれば野々市地内だと判別できる。これは交差点名でも同じことである。
郷村の場合は、12ある大字のうち、予め松任町寄りの4大字は松任町へ、野々市町寄りの7大字は野々市町へ編入することに村内で同意が成立していたが、ここでも旧郷村の役場があった大字田中では大いにもめた。そして結果として、役場、学校、公民館のあった中央部が松任町へ編入、南と北の地内は郷町と名を変えて野々市町へ編入することになった。両町への編入は昭和31年(1956)9月30日であった。
こうして新しい野々市町が誕生したが、当時の人口は1万人にも満たなかった。その後人口が1万人を超えたのは昭和39年(1964)、その10年後の昭和49年(1974)には2万人を突破、さらに7年後の昭和56年(1981)には3万人をクリア、その14年後の平成7年(1995)には4万人を超え、その14年後の平成21年(2009)には5万人を超えたと石川県統計情報部から発表があった。翌平成22年(2010)10月1日には国勢調査が行なわれ、翌年2月の速報値では5万人達成が報じられた。そして市制移行を希望する野々市町に対して、総務省は平成23年(2011)8月12日付けの官報で野々市町を野々市市とすることを告示した。国勢調査による確定値は51,885人である。但し野々市市の住民基本台帳に記載された人口は、平成23年(2011)12月末現在で48,025人である。ちなみに野々市市の面積は13.56平方kmで県内最小だが、1平方km当たりの人口密度は3,826.33人と県内では跳び抜けて高い。また年齢別人口構成を見ると、20代が特に多く、これは市内に石川県立大学と金沢工業大学があるので、その学生数が反映されているのではと言われている。なお平成24年(2012)1月1日現在の石川県統計情報室の数字では、野々市市の人口は53,246人である。
町から市へ移行になって設置しなければならないのは福祉事務所だけである。それはそうとして、町が市になっても、その要件ではないにしろ、自前の消防、ゴミ処理、火葬の施設がないと言われる。これは市の面積が小さく、高低差が5m以内とほとんどまっ平らという地形とも関係している。しかしこれに対しては、旧石川郡の松任市、美川町、鶴来町、白山麓5村とも密接に連携していて、消防では旧松任市と、ゴミ処理は旧松任市、鶴来町と、火葬は旧鶴来町、白山麓5村と、総合医療は旧松任市、美川町と公立松任石川中央病院を運営していて、これらの連携は今も白山野々市広域事務組合の形で運用されている。
[附1]市への要件は人口50,000人
町から市に移行するには、5年に一度実施される国勢調査での確定数が50,000人以上であることが要件である。もっとも平成の大合併では、合併した場合に限って30,000人以上ならば「市」を呼称してよかったが、今はこの特例はない。平成24年2月26日の朝日新聞に、「市昇格へ人口水増しか」「愛知・東浦町、国勢調査で」という見出しの記事が載った。東浦町は名古屋市の南、知多半島の根っこに位置する町で、産業としては、自動車関連や木材加工などの製造業が盛んで、かつ名古屋市のベッドタウンともなっている。ところで町は2010年10月1日の国勢調査では5万人を超えると予測し、2008年4月には市制準備室を設けて対応してきた。事実、総務省は2011年2月の速報値では「50,080人」と発表した。ところが調査票の点検で、同じ人が重複していたり、同居人が後で書き加えられたらしいと疑われる例があったり、一人暮らしの日本人世帯に複数の外国人が同居していたりと、ミスでは説明できない事例があり、町に調査を依頼したが、回答では「不正はなかった」「原因は不明」とのことだった。そこで国が調査したところ、少なくとも280人分の調査票については居住実態がないこと、そのうちの90人は住所が空き地であることが確かめられた。そして2011年10月、速報値から280人を引いた「49,800人」を国勢調査の確定値とした。この結果、町は市への昇格を断念したという。当初の目論見が外れた原因としては、2008年秋のリーマン・ショックを契機に外国人労働者の帰国が続き、人口が減り続けたことがあり、それを受けての苦肉の策としての水増しだったようだ。
ふりかえって、野々市町に金沢工業大学が出来たとき、大学は野々市町に対して金沢市へ合併するよう強力に働きかけてきた。そして住所は石川県石川郡野々市町と書かず、石川県金沢南局区内野々市町と表示していたのを思い出す。という私も早く市にならないかと願望していた一人だ。「市」にはそれなりに「郡」や「町」にない魅力があるようだ。
[附2]石川郡の生い立ちから消滅までの変遷
野々市町が野々市市になったことで、石川県から石川郡の名が消えてしまった。少しその沿革を追ってみたい。
古く平安時代に加賀国が設置された後、手取川以北浅野川以南を石川郡と称した。
明治5年(1872)には加賀国が金沢県を経て石川県になり、明治11年(1978)には郡区町村法により金沢区が石川郡より分立した。そして明治22年(1989)には市制により金沢市が誕生した。その後この金沢市には石川郡から、大正14年(1925)には野村・弓取村の2村が、昭和10年(1935)には大野町・富樫村・米丸村・鞍月村・潟津村・粟崎村の1町5村、昭和11年(1936)には三馬村・崎浦村の2村、昭和18年(1943)には金石町・戸板村・二塚村・大野村の1町3村、昭和29年(1954)には額村・内川村・犀川村・湯涌谷村・安原村の5村、昭和31年(1956)には押野村の1村の、計2町18村が石川郡から金沢市に編入された。
野々市町は、大正13年(1924)に野々市村が町になり、昭和30年(1955)に富奥村と合併、昭和31年(1956)には郷村、昭和32年(1957)には旧押野村が編入して新野々市町ができた。
松任町には、昭和29年(1954)に柏野村・笠間村・宮保村・一木村・御手洗村・旭村・中奥村・林中村・石川村の9村が編入、昭和31年(1956)には郷村、昭和32年(1957)には山島村が編入し、新松任町ができ、その後昭和45年(1970)には松任市となった。
美川町は、昭和29年(1954)に蝶屋村・能美郡湊村の2村が編入し、新美川町ができた。
鶴来町は、昭和29年(1954)に館畑村・林村・蔵山村・一ノ宮村の4村が編入し、新鶴来町ができた。
平成17年(2005)、松任市と石川郡の美川町、鶴来町、白山麓5村(河内村・吉野谷村・白峰村・尾口村・鳥越村)が合併して白山市となった。
そして平成23年(2011)には、野々市町は野々市市となり、こうして石川郡は消滅した。
2012年3月1日木曜日
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