● 旧野々市小中学校
私が入学した野々市町立国民学校は、終戦後には野々市小学校になったが、今は私たちが通った古い学校の面影は全くない。というのは、古い小学校・中学校は、町村合併によって、統合した小学校、中学校が新しく建てられて移転したからである。しかも旧校舎の敷地は、新たに開通した県道窪野々市線(193号線)によって東西に分断され、今は西側の敷地跡に建てられた野々市中央公民館の前にひっそりと立つ跡地碑によって、昔ここに野々市小中学校があったことが僅かに偲ばれるのみである。ほぼ正方形だった旧敷地は、東は白山神社、南は町道、西と北は住吉川に囲まれていて、一辺は150m位あったろうか。旧校舎は南向きに建っていて、町道を挟んで右手には旧野々市町役場が、左手には旧公民館があった。校舎の裏にあたる北側には広い運動場があり、町の球技大会や盆踊りは此処で開催されるのが恒例だった。
● 小学生の頃の遊び(1) 樹上での鬼ごっこ
運動場の東に接してあった白山神社の境内はそんなに広くはないが、沢山の木々が植わっていて、それらが絡み合っていて、木から木へ容易に移ることができ、三抱えはあろうという銀杏のてっぺんまでも上ることができた。この大銀杏のほかに、欅や赤松とか杉や銀杏などが数本ずつ植わっていて、ここで樹上鬼ごっこをした。私は小さかったが木登りは得意で、木を伝いながら、大銀杏の頂までもよく上がった。身が軽かったこともあって、鬼に捕まったことはないし、逆に鬼になったら確実に狙った相手を捕まえることができた。一度鬼に負われて杉の枝を伝って逃げようとしてたら足元の枝が折れ、宙ぶらりんになったことがあった。ここでの遊びの空間の高さは、大銀杏を除けば5-10mほどだが、とにかく昼休みの時間などにはよくここへ来て遊んだものだ。もっともこれは男の子の遊びで、女の子が混じったことはない。高学年になってからは、松の横枝を絡ませ、藁縄を張り巡らせ、ターザン紛いの樹上遊びもした。でも先生や父兄から咎められたことは一度もない。もっともこれは好きな連中が集まってすることで、空が利かない子に強要したことはない。事故は一度もなく、唯一私の宙ぶらりんが、らしき出来事だった。
あるとき一計をめぐらし、高のきく3人を誘って、NHK金沢放送局の野々市送信所の送信塔に上ることにした。塔は対になっていて、高さは30m位だったろうか、もっと高かったかも知れない。今は送信塔は棒状だが、以前のは送電線の鉄塔のように鉄骨組みで、足場さえ確保できれば上られるはずで、最上部には船型の部分があった。今では鉄塔に簡単に上れないように、忍び返しなどが付けてあるが、当時はそんなものもなく、上っていけないとの表示もなく、難なく全員登頂に成功した。そして船の部分で横になっていたら、送信所の方に見つかって、お目玉を食った。でも学校への通報もなく、以後しませんで堪忍してもらった。今のご時世なら大変な一騒動になっていたに相違ない。
● 小学生の頃の遊び(2) パッチ遊び
パッチというのは、厚紙を直径二寸とか三寸に丸く切り抜かれたもので、通常、表には色々と彩色した絵が、裏には単色の簡単な模様などが描かれているものが多く、自作のはゲームには使用できず、通常市販のものが遊びに使われていた。これは一人でも遊べるが、大概は数人で遊ぶことが多かった。人数分のパッチを表を上にして置いておき、順が回ってきたら、自分のパッチで他の人のパッチに挑戦し、相手のパッチの下へ潜らせたり、相手のを引っ繰り返したりすれば、そのパッチをゲットすることができるというわけである。場所は屋内でも屋外でも、時には凹凸のある所や傾斜のある所、土の上、コンクリート、砂地など、場所を選ばずにやることができる。上手な子は片手では持てない位ゲットしたものだ。
パッチでのもう一つの遊び方は、「ダム」といわれたゲームで、数人でやるのが常で、例えば一人10枚位ずつ皆等分に出し合い、段差がある上の部分に集まったパッチを横長に固めて置き、それを大きなパッチ、もしくは二寸×三寸位の長方形の厚紙(ダマ)で、積まれているパッチに当てたり、あおったりして段下へ落とすもので、落とした分をゲットできる仕掛けになっている。うまくあおってバラして落とすのがコツだった。
またよく似た遊びで、名は忘れたが、同じように同数ずつ出したパッチを平たい所にバラ積みにし、同じように大きめのパッチやダマで当てたり、あおったりして、バラして一枚にするとゲットできるという遊びもした。この手の遊びにはコツがあって、とりわけ上手な名人がいた。オップというあだ名の私らの2級上の大将は、この遊びでは敵なしで、恐れられた存在だった。
● 小学生の頃の遊び(3) かくれんぼ、「ぼいやっこ」
前者はそんなに広くもない区域で、鬼になった子が他の子を見つける遊びだが、後者はかなり広い区域での遊びで、鬼も2,3人いて、他の子を見つけるだけでなく捕まえなければならないというかなりハードな走り回りもしなければならない遊びである。
● 小学生の頃の遊び(4) 杉鉄砲、紙鉄砲、(付 パチンコ)
前者は杉の実、後者は丸めた湿った紙の球を竹の筒から打ち出すもので、前者は杉の実が丁度入る位の細い竹を選び、銃身には節のない部分を、打ち出す方は内径にぴったりの竹ひごを用い、これを銃身下部の竹の節のある部分に刺し、これで内圧を高めて杉の実を飛び出させるもので、竹ひごの長さは調節する必要があった。後者は銃身にはもっと太いヤダケなどを用い、丁度内径にぴったりの細身の竹を探して装着するもので、発射のスピードも威力も杉鉄砲より強く、当たると痛いし、当たり場所が悪いと怪我したりした。
パチンコも作った。これは二又の木のY字の先に幅広のゴムバンドを装着し、小石を挟む部分を革などで補強したもので、これは危険な遊具だった。鳥なんかをこれで狙った。
● 小学生の頃の遊び(5) 独楽回し、凧上げ、剣玉
どこでも行なわれたお馴染みの遊びの数々である。凧は自製が多かった。
● 小学生の頃の遊び(6) 「Sけん」「だっちょぶくろ」 前者は地面に大きなSの字を描き、Sの字の中にいるときは両足で立っていてもよいが、一旦出口から外へ出ると、片足立ちして、ケンケンしなければならないのが決まりで、相手方と遭遇して揉み合い、先に両足が着いた方が負けになる。大概は5,6人が組になって、二組で戦う。
後者は、地面に大きな長方形を描き、その角に膨らんだ円を四つ描き、これがダッチョという部分になる。長方形の内側に、人が一人通れる幅の回遊できる通路を設け、その内側が陣地になる。これを等分に半分にして、通路に向け一カ所の出口を設ける。やはり5,6人が一組になり、二組で争う。遭遇して外枠からはみ出されると負けで、残り人数で比較したり、とことん決着つけたりする。 ● 小学生の頃の遊び(7) 腕相撲など
教室ではよく腕相撲をした。
また、握手をした状態で、右足を前に出して互いに向き合い、足の位置はそのままで、腕や身体を前後左右に振ったりして、相手をよろけさせたり、倒したりすると勝ちになる遊びで、駆け引きが面白い。何と言ったか思い出せない。
また手と手ではなく、両者間の媒体に縄や紐を使うもので、これは二人が相対峙して行なう。これは前者よりもっと駆け引きが必要で、やはり足の位置がずれた方が負けになるもので、面白かった。やはり遊びの名前は分からない。
● 小学生の頃の遊び(8) 「ほっけうま」
一人が壁を背にして立ち、次の人は前に立った人の股に頭を突っ込んで「うま」になり、順次、次々と5,6人が同様に前の人の股に首を突っ込み、こうして連続した「うま」ができ上がる。そこへもう一組の者が、後ろから跳び箱を飛び越す要領で、相手方の「うま」に飛び乗り跨る。このとき「うま」の人は、故意に身体を動かして乗られないようにしたり、振り落としたりすることもできる。二組同数で、交互に「うま」になったり、飛び乗る側になったりして、最後に多く残って乗っていた組が勝ちとなる。しかし時に一人の「うま」に集中して乗られると、その重みで「うま」がつぶれることもしばしばで、そんなときには危険を伴った。
● 小学生の頃の遊び(9) 陣取り
決められた範囲の地面に五寸釘を上手に突き刺して、刺せた点と点とを線で結んで陣地を作るもので、先ずは上手に釘を刺すことと、如何に効率的に場所取りをするかで勝負が決まる。これは地面が乾いていて固いと釘が刺さらず、勝負にならない。
2011年12月28日水曜日
2011年12月22日木曜日
「シンリョウのジュッカイ」 (5)
● 年暮れの餅搗き(1) 戦前
年暮れになると、どこの家でも、正月に飾る大小の紅白の鏡餅や、雑煮に用いる紅白の延し餅を搗くのが習いだった。だからこの季節になると、近所からはペッタンペッタンという音が伝わってきたものだ。私が生まれたのは昭和12年、だから私の戦前の餅搗きの記憶というと、あの皇紀二千六百年の祝いがあった昭和15年から終戦前年の昭和19年にかけてということになる。もっとも近くには造り菓子屋があって餅菓子も造っていたが、自家消費する餅を商売屋に頼む家はなく、わが家で食べる餅は皆自前で餅搗きしていた。
戦前の木村家は大地主だったので、祖父や父が餅搗きに加わることはなく、僅かに祖母(当時60歳前後)や母(当時30歳前後)が手伝う程度で、前日に行なう洗米から当日の蒸し、搗き、鏡餅造り、延し餅造りは、近くに住む大口の小作人のうち、いつも決まった顔ぶれの男手二人と女手二人が手伝いに来てくれていた。その皆さん方は当時40歳前後だったのではと思う。しかし手伝いとは言っても、四人の技量はまるで職人並みで、手際の良さには目を見張るものがあった。また搗く糯米の量は半端でなく、多いときは4斗(40升)、重さで言うと16貫、60kg にもなった。お米は精白するとかち減りするが、一晩水に浸けるとふやけて体積は元に戻る。通常は二升一臼なので、単純には20臼ということになる。
当時は道具蔵と米倉・納屋と母屋に囲まれた空間が、高い吹き抜けの広い土間になっていて、その場所は蔵や倉と同じ高さの瓦屋根で覆われていた。その片隅に直径二尺はあろうという鉄製の大きな竈を置き、それに架ける大きな釜、その上を覆う真ん中に穴の開いた厚い大きな鉄板を置き、その上に厚手のやはり真ん中に穴の開いた布を敷き、その上へ蒸篭を四段に積んで載せた。蒸篭と蒸篭の間にも穴の開いた厚い布が挟まれ、蒸気が漏れないようにしていた。
水に浸けてある米を笊に上げ、蒸篭に簾を敷き、その上に荒く編んだ目の布を敷き、そこへ上げた米を移す。溢れないようにほぼ一杯にすると、水量りで二升入る。真ん中に拳で窪みを作り、その蒸篭を積み重ねる。大体四段で餅搗きを支障なく回転させることができる。竈には薪を使う。納屋には沢山の割った薪が積まれていて、どんどん焚かれる。火力が衰えないように竈前は大事な仕事である。そして一番上、下から四段目の蒸篭から勢いよく蒸気が出てきたら、一番下段の蒸篭が蒸せた目安になるので、その最初の蒸篭を取り出し、お湯で温められた欅の大きな臼に、蒸篭の中の蒸し米を移す。よく蒸せていると布からの蒸し米の離れはよいが、そうでないと布に蒸し米がくっついて往生する。この最初の取り出し時に、蒸篭と鉄板を外し、釜にお湯を補充する。釜の空焚きは厳禁である。その後前と同じ順で蒸篭を積み重ねる。新しい蒸篭が最上段になるようにする。
餅搗きは最初の捏ねが大事で、この段階でほぼ餅の塊になる。この後搗きと返しを交互に繰り返す。このときは搗く人と返す人との呼吸が合っていなければならず、間合いが大事である。また返す人は、適宜餅に水を補給し、餅を返し、突いて凹みを付け、万遍なく均一な餅となるようにする。でも慣れた人は、阿吽の呼吸で、凡そ80回近く搗くと餅が搗き上がり、その後20回位軽く搗いて仕上げる。出来上がった餅は、大きさに応じて、そのまま、半分、適宜の大きさに臼の中で手で切り分け、盤台に米粉を篩った処に餅を置き、周囲から餅を摘まみ上げ、包むように結んで球にし、引っ繰り返して回転させながら風を送って冷やす。そうしないとだれて平べったい鏡餅になる。ずっと後には枠に入れてだれないようにしたものだが、当時はなく、またその必要もなかった。この出来が餅の形を左右する。さすが当時来てくれていた人達は皆ベテランだった。終戦後、全くの自前でやるようになったが、この時の経験が糧になった。鏡餅は下が白、上が赤、赤は若干小さく造った。延し餅は米粉を篩って、張り板に直接長方形になるように斗棒で延した。
餅搗きの合間に、餅に餡や黄粉を付けて食べたり、餡を餅でくるんで大福餅にしたり、また水餅にして大根下ろしで和えて食べたりした。2日後位になると延し餅は堅くなるので、両方に握りの付いた包丁で二寸角の大きさに切り分けた。こうして正月準備が整う。餅搗きにおいでてた女の方達は、正月料理の手伝いにもおいでてた。餅は向かいにあった分家にも届けていたようだった。
こんな餅搗きは、寒に入っては「かき餅」造りになった。10臼ばかり、中にはいろんなものが入った。色では、そのままの白、色粉の入った赤や黄、ほかには黒豆、切り昆布、胡麻などの入った餅が搗かれた。餅は細長い箱に入れられ、固まったら莚の上に置き、2日後位に一分程の厚さに切り、藁で十枚ほどずつ編み上げ、蔵の前に三段に簾状に吊るしたが、実に壮観だった。乾いてくると割れて落ちてくることがあるので、それを拾って食べるのも楽しみの一つだった。餅搗きは春秋のお祭りや御十夜(報恩講)にもされた。
● 年暮れの餅搗き(2) 戦後
終戦後、農地改革が進み、木村家は漸く一町歩の田を確保できた。ところが父は師団の戦後処理のうち、旧野村錬兵場の広い土地を元の持ち主に返還する事業の責任者として現地駐在ということになり、私達一家は金沢市十一屋町へ移った。ここには終戦翌々年の3月まで居た。この間、暮れの餅搗きはどうしていたのか、全く分からない。前に来てくれてた方々が義理立てして手伝いに来てくれていたかも知れないし、そうでなかったかも知れない。ただ三番目の叔父が除隊して帰ってきていたから、叔父が中心になってやっていたかも知れない。でも父が野々市に帰ってからは、自前でしか餅搗きはしていない。
道具はそのまま残っていたので、同じように餅搗きをすることが出来た。幸い祖母も母も元気でしかも器用だったので、心配するようなことはなかった。ただ三番目の叔父が養子に出てからは、餅搗きは父一人で請け負った。私は小学校でも中学校でも背が低く、順ではずっと前から5番目で、とても大きな杵を持つなど思いもよらなかった。その頃は竈前と団扇扇ぎが関の山だった。背が伸び出したのは高校へ入ってからで、三年生になってやっと杵が持てるようになった。でも父はまだ50代後半、まだ主役だった。百姓になってからは、農家が皆そうしていたように、田圃一枚は糯米作りに当てていた。この頃はとても以前のように4斗は搗いていないが、でも2斗は搗いていた。そして四番叔父が所帯を持ってからは、そこへ正月のお餅を届けに行った。一番大変だったのは三八豪雪のときだった。前年の暮れ、吹雪と降雪で電車は動かず、リュックにお餅を詰めて、徒歩で横安江町近くの叔父の家までお餅を届けた。その折、やはり降雪と着雪で北陸線の架線が切れ、帰省客を乗せた列車が途中で動かなくなり、乗客は雪道の国道8号線を歩いて帰る破目に。長靴を履いている人はほとんどなく、中には靴下だけで歩いている人も見受けられた。大変な光景だった。
こうした餅搗きは、私が昭和40年に結婚した後も続けられ、石川県職員を退職する平成8年まで続いた。もっともその頃には田圃は全面委託していたし、餅搗きといっても1斗ほど、自家用のみとなっていた。そしてその後、米倉も納屋も旧宅も壊して新宅にしてからというもの、餅搗きをすることは全くなくなり、必要な分は菓子屋にお願いするというふうになった。もうあれから15年にもなる。
● 餅搗き外聞
(1)大釜の空焚き:私の後輩である金沢大学山岳部員が、冬山合宿に餅を持って行きたいが、市販の餅ではなく、自分たちで搗いた餅を持って行きたいという。誰に相談したのか、その話が私のところに回ってきた。糯米の量は5kgとのことなので2臼程度、いつも使っている大釜を用意した。餅搗きも無事終わり、餅はすべて丸餅にした。でもうっかり油断してしまって、大釜が空焚きになってしまい、ひびが入って大釜はお釈迦になってしまった。このトラブルで翌年からは新しく大きめの釜を使用することにし、それに合う竈を新設しなければならないことになった。昭和40年頃のことである。
(2)中村先生ご家族の餅搗き体験:金沢大学医学部微生物学教室の同門会でお会いした中村先生(現金大学長)から、子供たちに一度餅搗きを体験させてやりたいのでお願いできないかと相談を受けた。餅搗きの当日には奥さんもおいでて、2臼ばかり搗いた。先生も杵を持たれて搗いたし、奥さんや子供さんも餅を丸められたり、搗きたてを食べられたり、ご満悦のご様子で感謝された。昭和60年頃のことだったろうか。
(3)予防医学協会へ出張餅搗き:日本寄生虫予防会が主催した寄生虫病診断講習会には発展途上国数カ国から十数人の医師や検査技師が参加し、その一行が私が勤務する石川県予防医学協会にも寄られることになった。そのアトラクションに餅搗きをしようということになり、私に相談があった。臼と杵を提供し、屋根のある大きな駐車場で餅搗きをした。まあお祭りなので、搗く人も入れ代わり立ち代りで、外人の方は特に盛り上がっていた。平成10年頃だったろうか。
年暮れになると、どこの家でも、正月に飾る大小の紅白の鏡餅や、雑煮に用いる紅白の延し餅を搗くのが習いだった。だからこの季節になると、近所からはペッタンペッタンという音が伝わってきたものだ。私が生まれたのは昭和12年、だから私の戦前の餅搗きの記憶というと、あの皇紀二千六百年の祝いがあった昭和15年から終戦前年の昭和19年にかけてということになる。もっとも近くには造り菓子屋があって餅菓子も造っていたが、自家消費する餅を商売屋に頼む家はなく、わが家で食べる餅は皆自前で餅搗きしていた。
戦前の木村家は大地主だったので、祖父や父が餅搗きに加わることはなく、僅かに祖母(当時60歳前後)や母(当時30歳前後)が手伝う程度で、前日に行なう洗米から当日の蒸し、搗き、鏡餅造り、延し餅造りは、近くに住む大口の小作人のうち、いつも決まった顔ぶれの男手二人と女手二人が手伝いに来てくれていた。その皆さん方は当時40歳前後だったのではと思う。しかし手伝いとは言っても、四人の技量はまるで職人並みで、手際の良さには目を見張るものがあった。また搗く糯米の量は半端でなく、多いときは4斗(40升)、重さで言うと16貫、60kg にもなった。お米は精白するとかち減りするが、一晩水に浸けるとふやけて体積は元に戻る。通常は二升一臼なので、単純には20臼ということになる。
当時は道具蔵と米倉・納屋と母屋に囲まれた空間が、高い吹き抜けの広い土間になっていて、その場所は蔵や倉と同じ高さの瓦屋根で覆われていた。その片隅に直径二尺はあろうという鉄製の大きな竈を置き、それに架ける大きな釜、その上を覆う真ん中に穴の開いた厚い大きな鉄板を置き、その上に厚手のやはり真ん中に穴の開いた布を敷き、その上へ蒸篭を四段に積んで載せた。蒸篭と蒸篭の間にも穴の開いた厚い布が挟まれ、蒸気が漏れないようにしていた。
水に浸けてある米を笊に上げ、蒸篭に簾を敷き、その上に荒く編んだ目の布を敷き、そこへ上げた米を移す。溢れないようにほぼ一杯にすると、水量りで二升入る。真ん中に拳で窪みを作り、その蒸篭を積み重ねる。大体四段で餅搗きを支障なく回転させることができる。竈には薪を使う。納屋には沢山の割った薪が積まれていて、どんどん焚かれる。火力が衰えないように竈前は大事な仕事である。そして一番上、下から四段目の蒸篭から勢いよく蒸気が出てきたら、一番下段の蒸篭が蒸せた目安になるので、その最初の蒸篭を取り出し、お湯で温められた欅の大きな臼に、蒸篭の中の蒸し米を移す。よく蒸せていると布からの蒸し米の離れはよいが、そうでないと布に蒸し米がくっついて往生する。この最初の取り出し時に、蒸篭と鉄板を外し、釜にお湯を補充する。釜の空焚きは厳禁である。その後前と同じ順で蒸篭を積み重ねる。新しい蒸篭が最上段になるようにする。
餅搗きは最初の捏ねが大事で、この段階でほぼ餅の塊になる。この後搗きと返しを交互に繰り返す。このときは搗く人と返す人との呼吸が合っていなければならず、間合いが大事である。また返す人は、適宜餅に水を補給し、餅を返し、突いて凹みを付け、万遍なく均一な餅となるようにする。でも慣れた人は、阿吽の呼吸で、凡そ80回近く搗くと餅が搗き上がり、その後20回位軽く搗いて仕上げる。出来上がった餅は、大きさに応じて、そのまま、半分、適宜の大きさに臼の中で手で切り分け、盤台に米粉を篩った処に餅を置き、周囲から餅を摘まみ上げ、包むように結んで球にし、引っ繰り返して回転させながら風を送って冷やす。そうしないとだれて平べったい鏡餅になる。ずっと後には枠に入れてだれないようにしたものだが、当時はなく、またその必要もなかった。この出来が餅の形を左右する。さすが当時来てくれていた人達は皆ベテランだった。終戦後、全くの自前でやるようになったが、この時の経験が糧になった。鏡餅は下が白、上が赤、赤は若干小さく造った。延し餅は米粉を篩って、張り板に直接長方形になるように斗棒で延した。
餅搗きの合間に、餅に餡や黄粉を付けて食べたり、餡を餅でくるんで大福餅にしたり、また水餅にして大根下ろしで和えて食べたりした。2日後位になると延し餅は堅くなるので、両方に握りの付いた包丁で二寸角の大きさに切り分けた。こうして正月準備が整う。餅搗きにおいでてた女の方達は、正月料理の手伝いにもおいでてた。餅は向かいにあった分家にも届けていたようだった。
こんな餅搗きは、寒に入っては「かき餅」造りになった。10臼ばかり、中にはいろんなものが入った。色では、そのままの白、色粉の入った赤や黄、ほかには黒豆、切り昆布、胡麻などの入った餅が搗かれた。餅は細長い箱に入れられ、固まったら莚の上に置き、2日後位に一分程の厚さに切り、藁で十枚ほどずつ編み上げ、蔵の前に三段に簾状に吊るしたが、実に壮観だった。乾いてくると割れて落ちてくることがあるので、それを拾って食べるのも楽しみの一つだった。餅搗きは春秋のお祭りや御十夜(報恩講)にもされた。
● 年暮れの餅搗き(2) 戦後
終戦後、農地改革が進み、木村家は漸く一町歩の田を確保できた。ところが父は師団の戦後処理のうち、旧野村錬兵場の広い土地を元の持ち主に返還する事業の責任者として現地駐在ということになり、私達一家は金沢市十一屋町へ移った。ここには終戦翌々年の3月まで居た。この間、暮れの餅搗きはどうしていたのか、全く分からない。前に来てくれてた方々が義理立てして手伝いに来てくれていたかも知れないし、そうでなかったかも知れない。ただ三番目の叔父が除隊して帰ってきていたから、叔父が中心になってやっていたかも知れない。でも父が野々市に帰ってからは、自前でしか餅搗きはしていない。
道具はそのまま残っていたので、同じように餅搗きをすることが出来た。幸い祖母も母も元気でしかも器用だったので、心配するようなことはなかった。ただ三番目の叔父が養子に出てからは、餅搗きは父一人で請け負った。私は小学校でも中学校でも背が低く、順ではずっと前から5番目で、とても大きな杵を持つなど思いもよらなかった。その頃は竈前と団扇扇ぎが関の山だった。背が伸び出したのは高校へ入ってからで、三年生になってやっと杵が持てるようになった。でも父はまだ50代後半、まだ主役だった。百姓になってからは、農家が皆そうしていたように、田圃一枚は糯米作りに当てていた。この頃はとても以前のように4斗は搗いていないが、でも2斗は搗いていた。そして四番叔父が所帯を持ってからは、そこへ正月のお餅を届けに行った。一番大変だったのは三八豪雪のときだった。前年の暮れ、吹雪と降雪で電車は動かず、リュックにお餅を詰めて、徒歩で横安江町近くの叔父の家までお餅を届けた。その折、やはり降雪と着雪で北陸線の架線が切れ、帰省客を乗せた列車が途中で動かなくなり、乗客は雪道の国道8号線を歩いて帰る破目に。長靴を履いている人はほとんどなく、中には靴下だけで歩いている人も見受けられた。大変な光景だった。
こうした餅搗きは、私が昭和40年に結婚した後も続けられ、石川県職員を退職する平成8年まで続いた。もっともその頃には田圃は全面委託していたし、餅搗きといっても1斗ほど、自家用のみとなっていた。そしてその後、米倉も納屋も旧宅も壊して新宅にしてからというもの、餅搗きをすることは全くなくなり、必要な分は菓子屋にお願いするというふうになった。もうあれから15年にもなる。
● 餅搗き外聞
(1)大釜の空焚き:私の後輩である金沢大学山岳部員が、冬山合宿に餅を持って行きたいが、市販の餅ではなく、自分たちで搗いた餅を持って行きたいという。誰に相談したのか、その話が私のところに回ってきた。糯米の量は5kgとのことなので2臼程度、いつも使っている大釜を用意した。餅搗きも無事終わり、餅はすべて丸餅にした。でもうっかり油断してしまって、大釜が空焚きになってしまい、ひびが入って大釜はお釈迦になってしまった。このトラブルで翌年からは新しく大きめの釜を使用することにし、それに合う竈を新設しなければならないことになった。昭和40年頃のことである。
(2)中村先生ご家族の餅搗き体験:金沢大学医学部微生物学教室の同門会でお会いした中村先生(現金大学長)から、子供たちに一度餅搗きを体験させてやりたいのでお願いできないかと相談を受けた。餅搗きの当日には奥さんもおいでて、2臼ばかり搗いた。先生も杵を持たれて搗いたし、奥さんや子供さんも餅を丸められたり、搗きたてを食べられたり、ご満悦のご様子で感謝された。昭和60年頃のことだったろうか。
(3)予防医学協会へ出張餅搗き:日本寄生虫予防会が主催した寄生虫病診断講習会には発展途上国数カ国から十数人の医師や検査技師が参加し、その一行が私が勤務する石川県予防医学協会にも寄られることになった。そのアトラクションに餅搗きをしようということになり、私に相談があった。臼と杵を提供し、屋根のある大きな駐車場で餅搗きをした。まあお祭りなので、搗く人も入れ代わり立ち代りで、外人の方は特に盛り上がっていた。平成10年頃だったろうか。
2011年12月12日月曜日
名無草と金沢大学校歌
こう二つを並べて挙げると、何だろうと訝られそうだ。この二つに共通しているのは、両方とも歌であるということである。後者は校歌とあるから歌であることに間違いはない。でも前者の方は、先ず関係者の間でしか歌われていないから、先ず無関係の方には無縁の歌といえる。もう一つの共通点は、作詞が郷土の詩人室生犀星(1889-1962)によっているということである。ところで「名無草」とは何かというと、旧金沢薬専(金沢医科大学付属薬学専門部)の学生歌に類する歌といえばよいだろうか。
この名無草が作られたのは昭和4年(1929)で、現存する楽譜の原本には趣意書が付けられていて、その経緯を知ることができる。昭和3年(1927)、金沢薬専が広坂通りの第四高等学校(四高)の校舎から、小立野の金沢医科大学の敷地に移転したのを機会に、学園の面目を一新せんとし、当時の二年生らがそれに相応しい歌をという発案をし、彼等が卒業する翌年にそれを具体化すべく、一,二年生と相はかり、郷土の詩人室生犀星の門をたたき、ここに「名無草」なる一草を得たという。そして弘田龍太郎(1892ー1952)が曲を付け、この歌が完成した。こうして学生の熱意で作られたこの歌は、薬専生のみならず新制大学の薬学生にも受け継がれ愛唱されてきた。私も薬学部の学生になってこの歌の洗礼を受けた。同窓会でもコンパでも、薬学生の集いには、必ず自然発生的に歌いだ出される歌である。以下に歌詞を記す。
名 無 草
室生犀星 作詞
深雪(みゆき)のしたの 名無草(ななしぐさ)
けふは匂はむ はるは来ぬ
くろがねいろの とびらさえ
打ちくだかれむ 汝(なれ)が日に
汝(なれ)が日に はるのとびらよひらかれむ
さて、金沢大学校歌であるが、依頼されて出来上がった室生犀星の詞に、信時潔(1887-1965)が曲を付けて出来上がった。出来たのは恐らく新制大学ができた昭和24年(1949)前後じゃなかろうか。私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)であるが、入学の時にこの校歌を聴いたかどうかは定かではない。しかしこの歌を私が諳んじているということは、どこかで最初に接したはずなのだが、その覚えが全くない。かといって、何か大学の行事で歌ったという記憶もない。ところで今はどうなのだろうか。折角こんなに素晴らしい歌があるのに、学生がもっと誇りをもって歌えるように、大学は努力すべきじゃなかろうか。在学生、卒業生の皆さん、ぜひこの格調の高い校歌を歌いませんか。以下に歌詞を記す。
金沢大学校歌
室生犀星 作詞
天(あま)うつなみ けぶらひ
天(あま)そそる 白ねの
北方(ほくほう)のみやこに学府のありて
燦然(さん)たる燈(ともしび)をかかげたり。
人は人をつくるため
のろしをあげ
慧智(えいち)の時間(とき)を磨く
光栄(はえ)ある人間(ひと)をつくらむと
新風文化の扉(と)は 開かれ
あたらしの人 世代にあふれ
手はつながれ 才能(さい)は結ばれ
こぞりてわが学府につどへり。
こぞりてわが学府につどへり。
この名無草が作られたのは昭和4年(1929)で、現存する楽譜の原本には趣意書が付けられていて、その経緯を知ることができる。昭和3年(1927)、金沢薬専が広坂通りの第四高等学校(四高)の校舎から、小立野の金沢医科大学の敷地に移転したのを機会に、学園の面目を一新せんとし、当時の二年生らがそれに相応しい歌をという発案をし、彼等が卒業する翌年にそれを具体化すべく、一,二年生と相はかり、郷土の詩人室生犀星の門をたたき、ここに「名無草」なる一草を得たという。そして弘田龍太郎(1892ー1952)が曲を付け、この歌が完成した。こうして学生の熱意で作られたこの歌は、薬専生のみならず新制大学の薬学生にも受け継がれ愛唱されてきた。私も薬学部の学生になってこの歌の洗礼を受けた。同窓会でもコンパでも、薬学生の集いには、必ず自然発生的に歌いだ出される歌である。以下に歌詞を記す。
名 無 草
室生犀星 作詞
深雪(みゆき)のしたの 名無草(ななしぐさ)
けふは匂はむ はるは来ぬ
くろがねいろの とびらさえ
打ちくだかれむ 汝(なれ)が日に
汝(なれ)が日に はるのとびらよひらかれむ
さて、金沢大学校歌であるが、依頼されて出来上がった室生犀星の詞に、信時潔(1887-1965)が曲を付けて出来上がった。出来たのは恐らく新制大学ができた昭和24年(1949)前後じゃなかろうか。私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)であるが、入学の時にこの校歌を聴いたかどうかは定かではない。しかしこの歌を私が諳んじているということは、どこかで最初に接したはずなのだが、その覚えが全くない。かといって、何か大学の行事で歌ったという記憶もない。ところで今はどうなのだろうか。折角こんなに素晴らしい歌があるのに、学生がもっと誇りをもって歌えるように、大学は努力すべきじゃなかろうか。在学生、卒業生の皆さん、ぜひこの格調の高い校歌を歌いませんか。以下に歌詞を記す。
金沢大学校歌
室生犀星 作詞
天(あま)うつなみ けぶらひ
天(あま)そそる 白ねの
北方(ほくほう)のみやこに学府のありて
燦然(さん)たる燈(ともしび)をかかげたり。
人は人をつくるため
のろしをあげ
慧智(えいち)の時間(とき)を磨く
光栄(はえ)ある人間(ひと)をつくらむと
新風文化の扉(と)は 開かれ
あたらしの人 世代にあふれ
手はつながれ 才能(さい)は結ばれ
こぞりてわが学府につどへり。
こぞりてわが学府につどへり。
2011年12月8日木曜日
「シンリョウのジュッカイ」 (4)
● 学生時代に愛唱した歌
私が入った大学は地元の金沢大学である。大学へ入ってしまえばこちらのものという風潮があり、まだ未成年なのによく友達と酒を飲んだ。その頃は未成年だから酒を飲んではならぬと誰も言わず、飲めば歌を歌った。私はどちらかというと硬い方だったので、歌うのは旧制高校の寮歌が主だった。これを覚えたのは新制高校の時で、何故か類をもって集まったという連中と、酒を飲んでは寮歌をガナった。金沢には旧制の第四高等学校があったが、やはりそれに対する一種の憧れがあったからだろう。よく歌ったのは四高の寮歌や応援歌、追悼歌が主だが、一高、三高、五高、北大予科の寮歌などもよく歌った。大学へ入ってもこの傾向は変わらず、当時学内で台頭していた歌声運動には一顧だにしなかった。入学後、私は山岳部(当時は「山の会」といった)に入ったが、ここでは山の歌も一緒に歌ったが、私は寮歌にこだわりを持っていたから、それも披瀝した。また高校の同期で金大に入った連中の集まりでは、寮歌で蛮声をあげたものだ。
寮歌がメインだったが、そのうちデカンショ節が入ってきた。もっともこの歌、学生の間ではかなり敷衍していて歌われていたらしいが、それが次第に我々の持ち歌になった。元歌はもとより替え歌も面白く、出来るだけ蒐集した。今私の手元に当時のメモがあり、それを披瀝してみたいと思う。もっとも歌ったことがある方はご存知だろうし、即興もありだろうが、でもとにかく私たちが高吟した唄の文句を紹介することにする。
「デカンショ節」
[元 唄]
・デカンショデカンショで半年ァ暮らす(アヨイヨイ)
後の半年ァ寝て暮らす(ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ)
・丹波篠山 山家(やまが)の猿が 花のお江戸で 芝居する
・酒は飲め飲め 茶釜で湧かせ お神酒(みき)上らぬ 神はない
・丹波篠山 山奥なれど 霧の降る時ァ 海の底
・丹波篠山 鳳鳴(ほうめい)の熟で 文武鍛えし 美少年
・私ァ丹波の搗栗(かちぐり)育ち 中に甘味も渋もある
・明日は雪降り 積もらぬ先に 連れてお立ちよ 薄雪(うすゆき)に
掛け声の「デカンショ」については諸説があり、私たちがよく聞かされ知っているのは、デカルト(フランスの哲学者)、カント(ドイツの哲学者)、ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)の略であるという説である。この根拠は、藩校の鳳鳴義塾での優秀な者は東京へ遊学したが、夏には千葉の八幡の浜で合宿し、その折に歌っていたのを一高生が聞き、共鳴して愛唱するようになり、学生歌として広まったというものである。折しも丹波篠山では、学生歌として高唱されていたデカンショ節が逆輸入されることになる。もっとも由来については、「デコンショ」という盆踊り唄からきたとか、「ドッコイショ」の転訛だとか、篠山方言の「デゴザンショ」や、或いは丹波杜氏の「出稼ぎしょ」の意味をもつとかの説もある。また旧味間村に古くから歌われている農婦の哀歌(糸紡ぎ唄)の「テコンショ」を鳳鳴義塾の学生が聞き、歌い出したとの説もある。でも、いずれにしても定説はない。
[替え歌] 順不同
・論語孟子を読んではみたが 酒を飲むなと書いてない
・酒を飲むなと書いてはないが 酒を飲めとも書いてない
・勉強する奴ァ頭が悪い 勉強せぬ奴ァ尚悪い
・昔ァ神童と言われたけれど 今じゃドイツ語で目を廻す
・ほんにドイツ語は夫婦の喧嘩 デルのダスのと喧しい
・飯は食いたし朝寝はしたし 飯と朝寝の板挟み
・仮病使って電報打てば 金の代わりに親父来る
・説教聞く時ァ頭が下がる 説教頭の上かする
・どうせやるならデカイことなされ 奈良の大仏 屁で飛ばせ
・どうせやるなら小チャイことなされ 蚤のキンタマ串で刺せ
・デカンショ踊ればポリ公が怒る 怒るポリ公の子が踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 俺が死んだら息子踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 息子死んだら孫踊る
・理科の奴等の頭を叩きァ サインコサインの音がする
・理科の奴等の夜見る夢は 四角三角円(まる)五角
・理科よ理科よと威張るな理科よ 末は土方か藪医者か
・文科文科と威張るな文科 末は心中か駆け落ちか
・文科の奴等の頭を叩きァ 文明開化の音がする
・教師教師と威張るな教師 教師生徒の成れの果て
・生徒生徒と威張るな生徒 生徒教師の一滴(ひとしずく)
・親爺親爺と威張るな親爺 親爺息子のひねたもの
・息子息子と威張るな息子 息子親爺の一滴
・息子頭にコウコを載せて 親父これみよ親孝行
・息子頭にコウコを載せて これがホントの親孝行
・俺が死んだら三途の川で 鬼を集めてデカンショ踊る
・ホンに美味いもんだよ親爺のスネは 齧(かじ)りゃ齧るほど味が出る
・親爺のスネを分析すれば シネマ メッチェン トリンケン
・ホームシックと馬鹿にするな 之(これ)が拡がりゃ愛国心
・大井川なら俺でも越すが 越すに越されぬ学期末
・地球抱えて太陽呑んで 星の世界で俺は寝る
・出来ることなら一年中を 夜と日曜にしてみたい
・俺のリーベは世界に二人 クレオパトラと楊貴姫
・頭禿げでも浮気は止めぬ 止めぬ筈だよ先がない
・電車の窓から小便(ションベン)すれば これが本当(ホント)の電車チン
・橋の上から小便すれば 下じゃドジョウの滝のぼり
・橋の上から大便すれば 下じゃドジョウの玉子とじ
・富士の山から小便すれば 流れながれて太平洋
・万里の長城から小便すれば ゴビの砂漠に虹がたつ
・エッフェル塔から小便すれば パリの空には虹がたつ
・朝の目覚まし一度は止めて 腹の時計で跳ね起きる
さまざまな歌詞が創作されて伝わっているが、要は都々逸と同じく、七・七・七・五の語呂にさえなれば、OKということになる。私が大学を卒業してから既に半世紀が過ぎた。今は時代も変わり、もう旧制高校の寮歌やデカンショ節を歌う学生はいまい。もっとも私だって歌う機会は滅多にない。そこでメモとして記載した。
私が入った大学は地元の金沢大学である。大学へ入ってしまえばこちらのものという風潮があり、まだ未成年なのによく友達と酒を飲んだ。その頃は未成年だから酒を飲んではならぬと誰も言わず、飲めば歌を歌った。私はどちらかというと硬い方だったので、歌うのは旧制高校の寮歌が主だった。これを覚えたのは新制高校の時で、何故か類をもって集まったという連中と、酒を飲んでは寮歌をガナった。金沢には旧制の第四高等学校があったが、やはりそれに対する一種の憧れがあったからだろう。よく歌ったのは四高の寮歌や応援歌、追悼歌が主だが、一高、三高、五高、北大予科の寮歌などもよく歌った。大学へ入ってもこの傾向は変わらず、当時学内で台頭していた歌声運動には一顧だにしなかった。入学後、私は山岳部(当時は「山の会」といった)に入ったが、ここでは山の歌も一緒に歌ったが、私は寮歌にこだわりを持っていたから、それも披瀝した。また高校の同期で金大に入った連中の集まりでは、寮歌で蛮声をあげたものだ。
寮歌がメインだったが、そのうちデカンショ節が入ってきた。もっともこの歌、学生の間ではかなり敷衍していて歌われていたらしいが、それが次第に我々の持ち歌になった。元歌はもとより替え歌も面白く、出来るだけ蒐集した。今私の手元に当時のメモがあり、それを披瀝してみたいと思う。もっとも歌ったことがある方はご存知だろうし、即興もありだろうが、でもとにかく私たちが高吟した唄の文句を紹介することにする。
「デカンショ節」
[元 唄]
・デカンショデカンショで半年ァ暮らす(アヨイヨイ)
後の半年ァ寝て暮らす(ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ)
・丹波篠山 山家(やまが)の猿が 花のお江戸で 芝居する
・酒は飲め飲め 茶釜で湧かせ お神酒(みき)上らぬ 神はない
・丹波篠山 山奥なれど 霧の降る時ァ 海の底
・丹波篠山 鳳鳴(ほうめい)の熟で 文武鍛えし 美少年
・私ァ丹波の搗栗(かちぐり)育ち 中に甘味も渋もある
・明日は雪降り 積もらぬ先に 連れてお立ちよ 薄雪(うすゆき)に
掛け声の「デカンショ」については諸説があり、私たちがよく聞かされ知っているのは、デカルト(フランスの哲学者)、カント(ドイツの哲学者)、ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)の略であるという説である。この根拠は、藩校の鳳鳴義塾での優秀な者は東京へ遊学したが、夏には千葉の八幡の浜で合宿し、その折に歌っていたのを一高生が聞き、共鳴して愛唱するようになり、学生歌として広まったというものである。折しも丹波篠山では、学生歌として高唱されていたデカンショ節が逆輸入されることになる。もっとも由来については、「デコンショ」という盆踊り唄からきたとか、「ドッコイショ」の転訛だとか、篠山方言の「デゴザンショ」や、或いは丹波杜氏の「出稼ぎしょ」の意味をもつとかの説もある。また旧味間村に古くから歌われている農婦の哀歌(糸紡ぎ唄)の「テコンショ」を鳳鳴義塾の学生が聞き、歌い出したとの説もある。でも、いずれにしても定説はない。
[替え歌] 順不同
・論語孟子を読んではみたが 酒を飲むなと書いてない
・酒を飲むなと書いてはないが 酒を飲めとも書いてない
・勉強する奴ァ頭が悪い 勉強せぬ奴ァ尚悪い
・昔ァ神童と言われたけれど 今じゃドイツ語で目を廻す
・ほんにドイツ語は夫婦の喧嘩 デルのダスのと喧しい
・飯は食いたし朝寝はしたし 飯と朝寝の板挟み
・仮病使って電報打てば 金の代わりに親父来る
・説教聞く時ァ頭が下がる 説教頭の上かする
・どうせやるならデカイことなされ 奈良の大仏 屁で飛ばせ
・どうせやるなら小チャイことなされ 蚤のキンタマ串で刺せ
・デカンショ踊ればポリ公が怒る 怒るポリ公の子が踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 俺が死んだら息子踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 息子死んだら孫踊る
・理科の奴等の頭を叩きァ サインコサインの音がする
・理科の奴等の夜見る夢は 四角三角円(まる)五角
・理科よ理科よと威張るな理科よ 末は土方か藪医者か
・文科文科と威張るな文科 末は心中か駆け落ちか
・文科の奴等の頭を叩きァ 文明開化の音がする
・教師教師と威張るな教師 教師生徒の成れの果て
・生徒生徒と威張るな生徒 生徒教師の一滴(ひとしずく)
・親爺親爺と威張るな親爺 親爺息子のひねたもの
・息子息子と威張るな息子 息子親爺の一滴
・息子頭にコウコを載せて 親父これみよ親孝行
・息子頭にコウコを載せて これがホントの親孝行
・俺が死んだら三途の川で 鬼を集めてデカンショ踊る
・ホンに美味いもんだよ親爺のスネは 齧(かじ)りゃ齧るほど味が出る
・親爺のスネを分析すれば シネマ メッチェン トリンケン
・ホームシックと馬鹿にするな 之(これ)が拡がりゃ愛国心
・大井川なら俺でも越すが 越すに越されぬ学期末
・地球抱えて太陽呑んで 星の世界で俺は寝る
・出来ることなら一年中を 夜と日曜にしてみたい
・俺のリーベは世界に二人 クレオパトラと楊貴姫
・頭禿げでも浮気は止めぬ 止めぬ筈だよ先がない
・電車の窓から小便(ションベン)すれば これが本当(ホント)の電車チン
・橋の上から小便すれば 下じゃドジョウの滝のぼり
・橋の上から大便すれば 下じゃドジョウの玉子とじ
・富士の山から小便すれば 流れながれて太平洋
・万里の長城から小便すれば ゴビの砂漠に虹がたつ
・エッフェル塔から小便すれば パリの空には虹がたつ
・朝の目覚まし一度は止めて 腹の時計で跳ね起きる
さまざまな歌詞が創作されて伝わっているが、要は都々逸と同じく、七・七・七・五の語呂にさえなれば、OKということになる。私が大学を卒業してから既に半世紀が過ぎた。今は時代も変わり、もう旧制高校の寮歌やデカンショ節を歌う学生はいまい。もっとも私だって歌う機会は滅多にない。そこでメモとして記載した。
2011年12月6日火曜日
「シンリョウのジュッカイ」 (3)
●「坂の上の雲」を見て頭に去来した唄など
NHKのテレビドラマ「坂の上の雲」の第三部が始まった。これまでと同じように師走の日曜日の午後7時半から9時まで、ドラマは4回にわたって放送される。第一部と第二部の総集編も11月最後の土曜日と12月最初の土曜日に放映された。予告でも知らされていたが、第三部は日露戦争のハイライトである旅順攻略と日本海海戦がメインになるのだろう。すると主役は乃木希典と東郷平八郎、それに秋山好古と秋山真之ということになろうか。12月4日の日曜日はその第1回、この日の夕方には木村家の御十夜(浄土真宗でいう内報恩講)があり、次男と三男の家族が揃ったので、久しぶりの会食、飲みながら食べながら1時間半のドラマを見た。丁度この日は亡くなった三男の誕生日でもあった。この日のクライマックスは旅順要塞の奪取に非常に大きな犠牲を払った場面、真っ当な正面からの攻撃が全く通じないという悲壮感がリアル感をもって映し出されていた。だが同じ手法での作戦の繰り返しで、6万人もの死傷者を出したことに対し、司馬遼太郎は「名将」乃木を「愚将」として扱っている。でもそれはともかく、何よりもドラマに出てきた人たちや地名にすごく懐かしさを覚えた。人では、大山巌 満州軍総司令官、児玉源太郎 満州軍総参謀長、乃木希典 第三軍司令官、アレクセイ・クロパトキン ロシア軍総司令官、土地では、旅順、二〇三高地、遼陽などである。
クロパトキンと乃木の名を聞いて思い出したのが、次の尻取り唄である。
「ジャーマノシゴトハナンジャッタ タカシャッポ ポンヤーリ リクグンノ ノギサンガ ガイセンス スズメ メジロ ロシヤ ヤバンコク クロパトキン キンノタマ マケテニゲルハチャンチャンボウ ボウデタタクハインコロシ シンデモカマワンニッポンヘイ ヘイタイナランデトットコト トヤマノサンジュウゴーレンタイ タイホウイッパツドン ドンガナッタラヒルメシジャ」。 これを繰り返すのである。
これを区切りを入れないで唄う唄い方もある。この唄、こちらの方言も入っているし、富山の第35連隊も出てくるから、金沢辺りが起原の尻取り唄なのではなかろうか。当時は皆誰でも唄えるほど敷衍していた。
もう一つことのほか懐かしく思ったのは「遼陽」の地名である。この地名が出てきたのは児玉満州軍総参謀長が遼陽から第三軍の司令部へ寄った場面だった。乃木第三軍司令官が旅順要塞を攻めあぐね、徒に死傷者が続出しているのを見かねての出馬、作戦変更により4日間で二〇三高地を奪取し、ロシア軍は降伏した。私が諳んじていた懐かしい歌は「橘中佐」という歌で、旅順攻略の前年の遼陽会戦でのことで、テレビドラマにその場面があったかどうかは定かではない。ドラマを見ていたとき、遼陽という地名を聞くや、突如としてこの歌が、頭の中で繰り返し繰り返し鳴り響いた。そして口ずさんだのが次の歌詞の歌である。
一、 遼陽城頭(じょうとう)夜はたけて 有明月(ありあけつき)の影すごく
霧立ちこむる高梁(こうりょう)の 中なる塹壕(ざんごう)声絶えて
目ざめちがちなる敵兵の 胆(きも)驚かす秋の風
二、 我が精鋭の三軍を 邀撃(ようげき)せんと健気(けなげ)にも
思い定めて敵将が 集めし兵は二十万
防禦(ぼうぎょ)至らぬ隈(くま)もなく 決戦すとぞ聞こえたる
この闘いで橘少佐は戦死するが、その勇猛果敢ぶりが全軍を鼓舞し、この戦いを勝利に導いたとされている。陸軍では橘中佐、海軍では広瀬中佐が軍神として崇められた。この歌は全部で19節あり、橘大隊長が戦死するまでを物語風に綴っている。
NHKのテレビドラマ「坂の上の雲」の第三部が始まった。これまでと同じように師走の日曜日の午後7時半から9時まで、ドラマは4回にわたって放送される。第一部と第二部の総集編も11月最後の土曜日と12月最初の土曜日に放映された。予告でも知らされていたが、第三部は日露戦争のハイライトである旅順攻略と日本海海戦がメインになるのだろう。すると主役は乃木希典と東郷平八郎、それに秋山好古と秋山真之ということになろうか。12月4日の日曜日はその第1回、この日の夕方には木村家の御十夜(浄土真宗でいう内報恩講)があり、次男と三男の家族が揃ったので、久しぶりの会食、飲みながら食べながら1時間半のドラマを見た。丁度この日は亡くなった三男の誕生日でもあった。この日のクライマックスは旅順要塞の奪取に非常に大きな犠牲を払った場面、真っ当な正面からの攻撃が全く通じないという悲壮感がリアル感をもって映し出されていた。だが同じ手法での作戦の繰り返しで、6万人もの死傷者を出したことに対し、司馬遼太郎は「名将」乃木を「愚将」として扱っている。でもそれはともかく、何よりもドラマに出てきた人たちや地名にすごく懐かしさを覚えた。人では、大山巌 満州軍総司令官、児玉源太郎 満州軍総参謀長、乃木希典 第三軍司令官、アレクセイ・クロパトキン ロシア軍総司令官、土地では、旅順、二〇三高地、遼陽などである。
クロパトキンと乃木の名を聞いて思い出したのが、次の尻取り唄である。
「ジャーマノシゴトハナンジャッタ タカシャッポ ポンヤーリ リクグンノ ノギサンガ ガイセンス スズメ メジロ ロシヤ ヤバンコク クロパトキン キンノタマ マケテニゲルハチャンチャンボウ ボウデタタクハインコロシ シンデモカマワンニッポンヘイ ヘイタイナランデトットコト トヤマノサンジュウゴーレンタイ タイホウイッパツドン ドンガナッタラヒルメシジャ」。 これを繰り返すのである。
これを区切りを入れないで唄う唄い方もある。この唄、こちらの方言も入っているし、富山の第35連隊も出てくるから、金沢辺りが起原の尻取り唄なのではなかろうか。当時は皆誰でも唄えるほど敷衍していた。
もう一つことのほか懐かしく思ったのは「遼陽」の地名である。この地名が出てきたのは児玉満州軍総参謀長が遼陽から第三軍の司令部へ寄った場面だった。乃木第三軍司令官が旅順要塞を攻めあぐね、徒に死傷者が続出しているのを見かねての出馬、作戦変更により4日間で二〇三高地を奪取し、ロシア軍は降伏した。私が諳んじていた懐かしい歌は「橘中佐」という歌で、旅順攻略の前年の遼陽会戦でのことで、テレビドラマにその場面があったかどうかは定かではない。ドラマを見ていたとき、遼陽という地名を聞くや、突如としてこの歌が、頭の中で繰り返し繰り返し鳴り響いた。そして口ずさんだのが次の歌詞の歌である。
一、 遼陽城頭(じょうとう)夜はたけて 有明月(ありあけつき)の影すごく
霧立ちこむる高梁(こうりょう)の 中なる塹壕(ざんごう)声絶えて
目ざめちがちなる敵兵の 胆(きも)驚かす秋の風
二、 我が精鋭の三軍を 邀撃(ようげき)せんと健気(けなげ)にも
思い定めて敵将が 集めし兵は二十万
防禦(ぼうぎょ)至らぬ隈(くま)もなく 決戦すとぞ聞こえたる
この闘いで橘少佐は戦死するが、その勇猛果敢ぶりが全軍を鼓舞し、この戦いを勝利に導いたとされている。陸軍では橘中佐、海軍では広瀬中佐が軍神として崇められた。この歌は全部で19節あり、橘大隊長が戦死するまでを物語風に綴っている。
2011年12月2日金曜日
「シンリョウノジュッカイ」 (2)
● 母のこと(1) 奈井江から野々市へ嫁に
私の母好子は明治45年に北海道空知郡奈井江で、父細野生二・母しずの四女としてこの世に生を受けた。上に姉が三人、下に弟が一人と妹が四人、長女と八女とは歳に大きな隔たりがあり、一番末の妹は私の母がよく面倒を見たものだから、大きくなってからも、私の母が実の母だと思っていたと述懐していたのを聞いたことがある。当時細野生二は奈井江原野に開拓された広大な高島農場の管理人をしていた。生二は金沢の生まれで、若くして易に興味を持ち、横浜の高島嘉右衛門の内弟子になっていた。兄弟子は高島易断を継いだ高島呑象である。生二は嘉右衛門が奈井江に高島農場を開いた折に、そこの管理人として出向いた。私も小さい時に二、三度母と母の実家に寄ったことがあるが、町から遠くに見える山の際までが農場だと聞かされ、驚いたものだ。屋敷も広く、門から家まで百米もあったろうか、家は平屋だったが広くて、優に小作人が全員入れる広さがあった。
さて、私の父仁吉は大学を卒業した後、第九師団に主計少尉として任官していた。結婚適齢期になり、隣村の地主の長女を嫁に貰った。ところが気立ては好かったが身体が弱く、しかも肺病らしいということもあって、また相手の石高が小さかったこともあって、離縁となった。父は好いていたと私に話したことがあるが、病には勝てなかったようだ。そのうちどういう風の吹き回しか、仁吉の母の玉は、北海道にいる兄の生二には女の子が沢山いるから、そのうちの一人を嫁に貰ったらということになり、父と祖母は一度奈井江へ出かけたようだ。生二は生まれ故郷に娘を嫁にやるのも悪くはないと、話を進めることにしたという。ところが、厳しそうな姑とお坊ちゃん然とした婿さんに皆が尻込みし、しかも北海道を離れたくないと突っ張ったという。困った生二は、妹の世話をよくみた四女の好子に懇願することになる。母が話していたが、姉妹の中では一番色も黒く、他の姉や妹では、野々市ではとてもやって行けないと思ったようで、それで白羽の矢が私に来たのだろうと話していた。そして母はしぶしぶ承諾してしまうことに。その頃の木村家は素封家、輿入れの用意は全て野々市でするから、身体一つで来て貰えばよいとのこと、生二は妹玉のこの言葉を信じた。
昭和11年(1936)春、好子は父生二と二人きりで野々市に来た。途中鎌倉にいた兄の申三(号燕台)のところへ寄っている。母は初めてで終いの二人旅だったと話していた。母が北海道から持ってきたのは柳行李一つのみだったこと、結婚は父が二度目だったこと、北海道は敷居が高くないと値踏みされたこともあって、家での結婚式は簡素だった。仲人もおらず、もちろん結納もなく、身内の従兄妹添いとあって、母の方はオンブにダッコの筈だったが、これがまた苦労の初めとなる。
● 母のこと(2) 私の出生と父の出征、
私の父は長男で、妹が一人と弟が三人いた。妹は既に小立野の片岡家へ嫁いでいたが、片岡の姑も中々の人で、まあ苦労はされたらしい。しかしその反動もあって、野々市へ帰って来ると、お里ということもあって、存分に小姑ぶりを発揮したようだが、姑の玉は知らん振り、母に言わせると、父が居ないともう姐や扱いだったという。お金は一切持たせてもらえず、葉書を出すにも一々頭を下げて頼んだとか。父も内緒で少しは融通したのだろうけど、バレたら怖かったという。甘いものが食べたかったと話していた。母は妊娠して私を身籠ったが、朝から晩まで働きづめ、私が生まれる数日前までそうだったという。
丁度時を同じくして小姑の片岡繁も妊娠し、しょっちゅう実家へ来ていたという。そして小姑は産婆でなく、金沢一の内田病院に通っていた。臨月になり、小姑は内田病院に入院した。その頃病院で出産するなど、余程の素封家か産婆の手に負えないようでないと利用しないものなのだが。そして出産、時に昭和12年(1937)2月10日のことである。逆子で女の子だった。そしてその翌日の2月11日の朝、母も産気づき、近所の産婆さんに来てもらい取り上げてもらった。この日は紀元節で、しかも旧正月の元旦、そして男の子の誕生とあって、父も祖父も大喜びで祝盃を挙げていたというが、姑は実に機嫌が悪かったという。祖父は私に吾助という名前を付けたかったらしいが、さすがに母もこれだけは願い下げてもらったという。
しかしこの年の7月7日、盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発、父は出征することになる。そして母は孤立無援に、私が唯一の心の砦だったという。母は寝る前には必ず私の成長を日記につけ、一週間分をまとめて戦地の父に手紙として送っていたという。この手紙は父の生前に私に託され、今私の手元にある。まだ一度も開いたことはないが、いつかは開かねばならないだろう。
私の母好子は明治45年に北海道空知郡奈井江で、父細野生二・母しずの四女としてこの世に生を受けた。上に姉が三人、下に弟が一人と妹が四人、長女と八女とは歳に大きな隔たりがあり、一番末の妹は私の母がよく面倒を見たものだから、大きくなってからも、私の母が実の母だと思っていたと述懐していたのを聞いたことがある。当時細野生二は奈井江原野に開拓された広大な高島農場の管理人をしていた。生二は金沢の生まれで、若くして易に興味を持ち、横浜の高島嘉右衛門の内弟子になっていた。兄弟子は高島易断を継いだ高島呑象である。生二は嘉右衛門が奈井江に高島農場を開いた折に、そこの管理人として出向いた。私も小さい時に二、三度母と母の実家に寄ったことがあるが、町から遠くに見える山の際までが農場だと聞かされ、驚いたものだ。屋敷も広く、門から家まで百米もあったろうか、家は平屋だったが広くて、優に小作人が全員入れる広さがあった。
さて、私の父仁吉は大学を卒業した後、第九師団に主計少尉として任官していた。結婚適齢期になり、隣村の地主の長女を嫁に貰った。ところが気立ては好かったが身体が弱く、しかも肺病らしいということもあって、また相手の石高が小さかったこともあって、離縁となった。父は好いていたと私に話したことがあるが、病には勝てなかったようだ。そのうちどういう風の吹き回しか、仁吉の母の玉は、北海道にいる兄の生二には女の子が沢山いるから、そのうちの一人を嫁に貰ったらということになり、父と祖母は一度奈井江へ出かけたようだ。生二は生まれ故郷に娘を嫁にやるのも悪くはないと、話を進めることにしたという。ところが、厳しそうな姑とお坊ちゃん然とした婿さんに皆が尻込みし、しかも北海道を離れたくないと突っ張ったという。困った生二は、妹の世話をよくみた四女の好子に懇願することになる。母が話していたが、姉妹の中では一番色も黒く、他の姉や妹では、野々市ではとてもやって行けないと思ったようで、それで白羽の矢が私に来たのだろうと話していた。そして母はしぶしぶ承諾してしまうことに。その頃の木村家は素封家、輿入れの用意は全て野々市でするから、身体一つで来て貰えばよいとのこと、生二は妹玉のこの言葉を信じた。
昭和11年(1936)春、好子は父生二と二人きりで野々市に来た。途中鎌倉にいた兄の申三(号燕台)のところへ寄っている。母は初めてで終いの二人旅だったと話していた。母が北海道から持ってきたのは柳行李一つのみだったこと、結婚は父が二度目だったこと、北海道は敷居が高くないと値踏みされたこともあって、家での結婚式は簡素だった。仲人もおらず、もちろん結納もなく、身内の従兄妹添いとあって、母の方はオンブにダッコの筈だったが、これがまた苦労の初めとなる。
● 母のこと(2) 私の出生と父の出征、
私の父は長男で、妹が一人と弟が三人いた。妹は既に小立野の片岡家へ嫁いでいたが、片岡の姑も中々の人で、まあ苦労はされたらしい。しかしその反動もあって、野々市へ帰って来ると、お里ということもあって、存分に小姑ぶりを発揮したようだが、姑の玉は知らん振り、母に言わせると、父が居ないともう姐や扱いだったという。お金は一切持たせてもらえず、葉書を出すにも一々頭を下げて頼んだとか。父も内緒で少しは融通したのだろうけど、バレたら怖かったという。甘いものが食べたかったと話していた。母は妊娠して私を身籠ったが、朝から晩まで働きづめ、私が生まれる数日前までそうだったという。
丁度時を同じくして小姑の片岡繁も妊娠し、しょっちゅう実家へ来ていたという。そして小姑は産婆でなく、金沢一の内田病院に通っていた。臨月になり、小姑は内田病院に入院した。その頃病院で出産するなど、余程の素封家か産婆の手に負えないようでないと利用しないものなのだが。そして出産、時に昭和12年(1937)2月10日のことである。逆子で女の子だった。そしてその翌日の2月11日の朝、母も産気づき、近所の産婆さんに来てもらい取り上げてもらった。この日は紀元節で、しかも旧正月の元旦、そして男の子の誕生とあって、父も祖父も大喜びで祝盃を挙げていたというが、姑は実に機嫌が悪かったという。祖父は私に吾助という名前を付けたかったらしいが、さすがに母もこれだけは願い下げてもらったという。
しかしこの年の7月7日、盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発、父は出征することになる。そして母は孤立無援に、私が唯一の心の砦だったという。母は寝る前には必ず私の成長を日記につけ、一週間分をまとめて戦地の父に手紙として送っていたという。この手紙は父の生前に私に託され、今私の手元にある。まだ一度も開いたことはないが、いつかは開かねばならないだろう。
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