2010年6月18日金曜日

マチャ(三男誠孝)の不治の病との闘い

1.三度目の入院でモルヒネと遭遇
 平成21年11月のPET精密検査では、仙骨へのがんの転移が明確となり、原発巣は肺がんということになったが、腰や下腿の痛みは思ったほどではなく、酸素吸入をしながらも勤務していたようだった。でも12月の初めには痛みがひどくなったので、県立中央病院呼吸器内科へ三度目の入院をした。この入院当日の痛みはかなりひどかったようで、主治医は飲み薬のモルヒネ製剤を出しましょうとのことだったが、すぐにはもらえず、漸くもらえて飲んでも直ぐには効かず、本人はいらいらしていた。私はこれまで飲めばすぐ効くのが麻薬だと思っていたが、どうも即効性ではないらしい。詳しいことは知らないが、効きがよくないとのことで、かなり大量に投与されたようだ。家内と私は午後8時頃に帰宅したが、その晩マチャは副作用の発汗が凄かったうえに幻覚も出て、かなり参ったようだった。当直の看護師にコールしても顔の汗を拭いてくれる程度で、着てる衣類はもちろん、布団までも汗を吸って濡れたほどの発汗、このことは翌朝訪れたときに初めて分かった。マチャは弱気にもこんな状態を看護師には告げていない。さすが今度ばかりは辛かったようだった。発汗で一晩ずぶぬれだったので、翌朝は体温も血圧も異常に低下していて、家内の進言で病院も慌てたらしい。麻薬の扱いに慣れていなかったのだろう。幻覚は翌朝も続いていたという。こんな状態だったから、マチャは家内に晩居てほしいと頼んでいた。これまでの入院だと、門限近くになると、「家にトウが待っているから早く帰れヤ」と言っていたのにである。私は冗談めいて、マチャに「誰も経験したくてもできない経験をしたなあ」と言ってみたものの、何の慰めにもならなかった。もちろんモルヒネの経験はないが、終末医療に用いられるので、鎮痛性にも優れ、習慣性はあるにせよ、どんな痛みにも万能だと思っていたのに、とんだ酷い副作用もあることから、決してオールマイティーではないことが分かった。この大量発汗は次の日も続き、家内では一晩に8回も着替えしなければならなかったとのこと、夜中に洗濯して乾燥しての作業が必要だったという。
2.家内は病院で仮眠して付き添い・その褒美は病院食
 こうして家内は病院で夜間仮眠しながらマチャに付き添うことになった。家内は勤務する病院の特別な配慮もあって、午後5時に早退し、ストアでマチャ用の副食(白身魚の刺身や鶏肉の焼き鳥など)の買い物をして病院へ。病院の夕食は午後6時なので、それに合わせて病室へ寄り、マチャ用の食事を手伝い、通常の病院の夕食は家内が食べることに。その後一旦帰宅して私の夕食材料を持ち込み、翌朝のマチャの野菜サラダを作り、午後8時頃までに病院へとんぼ返りする。夜は1時間半もしくは2時間おきに全身の汗拭きをしなければならないので、確実に起きられるように、できるだけ夜は水分補給することにし、ペットボトル入りのお茶を毎日4本求めていた。マチャの言では、何故か日中は痛みがさほどではないので、オプソ(モルヒネ塩酸塩液)を飲む回数は少ないが、夜はどうしても痛みが出るので飲まざるを得ず、結果として夜は発汗が多くなるようだという。ただ痛みがあっても、次の投薬まで最低30分は空けねばならないのだそうだ。そして朝、マチャは洗顔後、合作の特別食を食べ、病院の薬や差し入れのサプリを飲む。病院食は家内が食べる。その後部屋を整理して、使用済みのタオルを抱えて、午前9時に病院を出て、1時間遅れで勤めの病院の勤務に入る。これが家内の日課となった。
 一方、細君の方は、朝は子供二人に食事をさせ、学校へ送り出し、昼と夜の特別食を作り、病院へは11時前に入る。病院では腰や大腿部のマッサージを1時間ばかり、昼食を付き合い、それで病院には午後4時頃まで居て、帰宅する。細君が作る特別食は、主食は玄米食、新鮮な野菜(通常のスーパーのではなく、無農薬で新鮮なものを売っている店で求める)のジュースとサラダ、それにレモンほかの新鮮な果物、肉は鶏肉、水はバナジウム入りの天然水など、菓子なども吟味していたようだ。また家内は夕食時の白身魚の刺身と翌朝の野菜サラダ、それに1日1個の烏骨鶏の卵の補給をする。ほかにマチャは、社長や友人やその他諸々の人からの差し入れと思われる、形状はいろいろ、液状や粒状や粉末など、数種類のサプリメントを飲んでいたが、中には抗がんサプリも入っていたかも知れない。マチャはわりと几帳面な性格、皆さんの行為を無にしないように気配っていた。私がマチャのところへ行けるのは、平日の夕方か休日、私の前ではあまり痛がったりする表情を見せていないが、我慢していたのだろうか。もっとも居ても30分程度だったが、でも食事をしている印象では、よく食べるなあと感心したことだった。ただ動かないのと大食なので、むしろ排便がスムースであればと心配だったが、麻薬の副作用も考慮しての下剤の投与はあるようだった。
3.骨転移した部位への放射線治療
 平成21年12月の入院での主治医のがん治療の方針では、肺炎が治ったら、放射線治療を10回行い、その後抗がん剤治療をするとのことだったが、2回照射した時点で肺の状態が悪くなり、ステロイド剤を用いての間質性肺炎の治療に入った。結果として肺機能の改善があり、再び放射線照射を再開し、その結果痛みはかなり遠のいたようだった。調子に乗ってもう少しお願いできないかと言ったらしいが、10回が限度だと言われたという。よくなったことから、病院にいながら仕事も一部再開できるほどになり、沢山の個人用の年賀状も自署していた。そして12月25日、クリスマスの日に退院できた。正月は家で迎えられる。また肝心の抗がん剤治療の方は、年が明けて肺の状態が良ければという条件付きでということになった。
4.がんの温熱療法
 年末になって、誠孝の勤務する会社の相談役から、温熱療法を勧められた。施術の本はあるのだが、中々効果が出ない。原理では、特殊な端子で体をさすると、がんのある部位が赤くなり、正常な部位とは異なることが分かり、その部位にさらに施術を続けると、がんが縮小し、終には無くなるということだった。しかし施術にはコツが要るらしく、それを問い合わせると、一度いらっしゃいということになった。マチャにしてみたら居ても立ってもいられなくなり、出かけることになった。酸素吸入をしていたので、その手配が大変であったが、業者間の連絡でそれも解決し、善は急げで正月元旦の朝4時に静岡県伊東市へ向かって出発した。マチャの一家4人に家内が同伴することに。運転は細君、難しければマチャか家内、でも長距離は初めてという細君だったが、中々運転はしっかりしていたとのことだった。夕方に着き、宿を探し、マチャと細君は施術所に泊まることに。聞けば山の中の一軒家、家内と子供らは山の麓の宿、辺鄙なところ、病気を治すのが大義名分とあれば致し方ないが、子供たちは大いに不満だったらしい。
 本来ならば技術の習得には2日間要るらしいが、細君はその道の心得もあって、1日で習得してしまったので、1月2日の夕方には伊東市から帰られることに。帰路、静岡の三島市のあたりで、雄大な雪を纏った富士山を見て感動し、マチャは私に電話をかけてきた。晴れ晴れとした声には、これでがんは克服できるという自信も伺えた。なんとも嬉しい瞬間だった。家には3日の午前2時頃に着いた。加賀一の宮の白山さんへも初参りに行くことを約束して別れたが、何かこの年、明るい兆しが見えてくるような新年となった。
5.がんのペプチド療法
 比較的元気になったことで、酸素吸入をしてはいるものの、病院での定期検診がない日は会社に勤務していたようだった。もっともフルタイムではなかったようだが。そんな折、マチャから出所は不明だが免疫療法というのがあるがどうかと、たまたま私はテレビでペプチド療法によるがん治療を目にした。素晴らしい画期的な方法だと感激した。原理はかなり前からあったものの、その実際となると中々ことが運ばないのが現実だが、それが現実に治療に用いられているというものだ。舞台はガンセンター東病院、懇意にしている元ガンセンターの先生に、テレビで実際に担当しておいでるN先生の話をしたところ、その先生は以前私の研究室で研究していた方とか、藁をも縋る思いで紹介された先生にお聞きしたところ、私がいま取り組んで行っているのは肝臓がんであって、肺となると五里霧中ですと言われた。マチャにはそのまま伝えた。また福岡社長からは、がんの最先端治療の重粒子線とか陽子線による治療や免疫療法を紹介したDVDも頂いたが、マチャは肺機能が肺気腫で落ちているうえ間質性肺炎であることを考慮すると、金銭は別として、何か二の足を踏まざるを得ない状況だった。
6.今の主治医に命を預けることにしたマチャ
 1月半ば、次男がH銀行の東京支店から金沢中央支店に転勤になって、実家に転がり込んできた。弟の病気には親身になって気をかけてくれ、食事療法を勧めたのも彼である。次男の細君の父親は元金大外科の先生で、次男はよく先生に相談に行っていたようだ。それで次男はマチャに一度大学病院で診察を浮けたらとしつこく言ったらしいが、首を縦に振ることはなかったので、私に説得を頼むと言ってきた。マチャが固執したのは、以前親しい代議士秘書からセカンドオピニオンに大学病院の先生を紹介され出かけたところ、言ってみれば子方の先生の患者だったために、親方の先生からすれば今の診療で十分だと、マチャにすればけんもほろろのおちょくられたという応対と映ったらしい。帰り際にあとどれ位かと聞いたところ「あと1年」と言われたとか。これにはショックだったとマチャは言っていた。先生が次男に紹介したのは正にその先生、今度は丁寧に対応するだろうが、マチャにすれば全く顔を合わせたくないというのが本音だった。私も折角だから一度出かけてみたらと言ったが、翻意させることはできなかった。「じゃ好きなようにしなさい」と言ったが、それが見放したというような印象としてとられ、そういう意図ではないという誤解を解くのには時間を要することに。一方で間に入って頂いた先生にも謝らねばならず、往生した。ただ謝りに訪れた折、中病の麻酔科には優秀なペインクリニックの認定医がいて、女の先生だが中々優秀だと言われた。後にマチャはその先生にお世話になることになる。
7.再び痛みが訪れ四度目の入院
 2月初旬、再び痛みが訪れ、入院することになった。マチャが中病にこだわった理由は、一つには主治医が結構マチャの仕事に対する熱意や気性というものを理解してくれていて、わがままも聞いてくれ、少し良くなって外出したいとか、土曜に外泊したいなどは、治療にあまり影響しなければ便宜を図ってくれたことにもよる。大学病院じゃこうはゆかないと思う。痛みに対しては飲み薬で対応していたが、量も多くなったことから、主治医は麻酔科に相談したようだ。以前の説明では、硬膜外ブロックをするようになると、ずっと寝たきりになり、外泊はおろか外出もできなくなるとの説明だったが、医術は日進月歩していて、硬膜外ブロックでも携帯できるタイプも開発されているとのこと、これは呼吸器内科ではなく麻酔科の先生から説明を受けた。それで結果的にはその手術をしてもらうことになった。経口投与で痛みをブロックするには、一旦消化管から吸収されて血管に入り、その後脳に到達するという時間と効率の悪さがあり、加えていろんな副作用をもたらすことになる。直接神経をブロックできれば、少量で迅速に痛みをブロックできるというわけである。こうして痛みもブロックされるようになり、3月半ばには退院できた。でも肝心の肺がんや痛みの元凶の仙骨の状況はどうなのだろうか。また間質性肺炎の方はステロイド療法を行っているというが、どうなのだろうか。家ではトイレへ立つのでも大仕事だと聞いたが。
(追記) マチャの闘病生活が終わって、主治医のN先生と麻酔科のT先生に挨拶に行った。臨終にはN先生は学会出張中で、立ち会ってもらえなかった。T先生は女性だが、痛みのブロックの腕前はすごいと評判の先生、先生にお会いしてお礼を述べようとして私は「あっ」と言った。先生も「あっ」と言われた。それ以上の会話はなかったが、どこかでご一緒だったような気がするが、思い出せない。先生にお聞きしたら分かったかも知れないが、謎だ。先生は県中の麻酔科では唯一人のペインクリニック認定医とのことだ。

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