(承前)
国宝 大法寺三重塔 長野県小県群青木村当郷
道の駅で大法寺への道順を訊くと、上田に向かって1km ばかり行くとコンビニがあるので、その手前を山に向かって入って下さいと。礼を言って車を走らすと、コンビニの手前に標識があり、そこから山に入る。このお寺は子檀嶺岳 (こまゆみだけ) (1223m) の中腹にあり、ここからは塩田平を一望できるという。坂道を上がって行くと駐車場があり、ここに車を停める。寺はさらに高みにあり、径を辿り、階段を上がると本堂と思しき建物の前に出た。でも堂の正面は閉ざされていて、一見無住の感じである。塔は何処かと見回すが、此処からは見えない。すると三重塔への順路の標識があり、それに従って歩むと、上に三重塔が見えた。さらに急な石段を二つばかり上がると、三重塔の全容が見えた。右手に寺務所があり、拝観料を払い、御朱印も頂いた。案内所によると、このお寺は天台宗で、古くは大宝寺といい、奈良前期の大宝年間 (701-704) に創設されたという。この三重塔が造られたのは鎌倉時代から南北朝時代に移る過渡期とされ、この三重塔の特徴は、初重が特に大きいことで、このような形式の塔は他には奈良の興福寺の三重塔のみという。高さは 18.38 m、塔の姿があまりにも美しいので「見返りの塔〕という名で親しまれているとか。全国で国宝の三重塔は 13 基あるそうで、その内の一基は、近くの塩田平にある安楽寺の八角三重塔で、以前訪れたことがある。また寺には重要文化財の木造十一面観音立像や木造普賢菩薩立像ほか四点があるという。三重塔は素朴で静かな佇まいをして建っていた。境内には樹齢 480 年という榧 (かや) の樹があった。
麻績 (おみ) IC への道を間違えて松本へ
寺を出て国道 143 号線沿いのコンビニまで戻り、ナビで自宅へ戻る指示を出すと、上田菅平 IC へという指示、それで一旦解除して西へ進んでからナビを入力しようと思った。国道を西進すると、途中には国道 143 号線と麻績 IC への表示が大きく出ていたので、安心して車を走らせた。沓掛温泉、そして田沢温泉への分岐を過ぎ、そろそろ県道 12 号線に入り、修那羅峠越えをしなければならなかったのに、つい快適に車を走らせ、しかもナビに入力するのも忘れ、分岐を過ごしてしまった。IC への分岐点には大きな表示があるものと思い込んでいたものだからどんどん走り、九十九折りの道になってやっと間違えたと分かった。そして青木峠を越えて松本市に入った。ここまで来たのだから腹を決めて松本へ下りようと思っていたら、暫くして道端に麻績 IC へとの表示、細い山道だが、表示を信じて山を下った。篠ノ井線を渡り、国道 403 号線に出て長野自動車道を潜り、こうしてどうやら麻績 IC に辿り着けた。
先ずは姥捨 SA で小憩し、ここからは家内の運転で取り敢えずは小布施 PA まで、でももう少しというので新井 PA まで、これから北陸自動車道に入るとトンネルが 26 も続くので私が運転をと思っていたが、新井 PA でも停まらず、さらに名立谷浜 SA も通過、もうこうなればトンネル嫌いとかは言っておれず、観念して運転は家内に任せた。そして家内は長駆し有磯海 SA まで運転してしまった。トンネル嫌いと言っていたが、これで少々自身がついたとは彼女の言だった。後は私が運転して自宅まで。走行キロ数は 650 km、所要時間は3時間半だった。
付.蕎麦タチアカネのこと
道の駅あおきで見たタチアカネという品種の蕎麦について紹介する。これは長野県野菜花き試験場が育成した長野県オリジナルの蕎麦の品種で、名前は茎が丈夫で倒れにくいことから「タチ」、また蕎麦の白い花が実になると茜色になることから「アカネ」、名はこの2つに由来する。今長野県では、信濃1号という中間秋型品種が最も多く栽培されているが、このタチアカネという品種 (平成 21 年登録) はより耐倒伏性に優れ、ゆで麺色の評価や千粒重や容積重がより優れているという。ただ蕎麦は他花受粉性の作物で、他の品種が近在すると交雑するので、長野県では今は青木村に限定して栽培させているという。白い花と赤い実とのコントラストが美しく、今では青木村の風物詩として定着しているという。現在村には蕎麦屋が4軒ある。
付.山田牧場よりの日本アルプス連峰全山の山名(堀江文四郎さん撮影・制作)
写真に表示してある山名と標高をそのまま転記した。標高にはマチガイもある。
左から右へ。前穂高岳 (3090)、奥穂高岳 (3190)、常念岳 (2857)、涸沢岳 (3110)、北穂高岳 (3106)、槍ヶ岳 (3180)、燕岳 (2763)、三俣蓮華岳 (2841)、鷲羽岳 (2924)、野口五郎岳 (2924)、烏帽子岳 (2628)、蓮華岳 (2799)、針ノ木岳 (2821)、赤沢岳 (2678)、爺ヶ岳 (2670)、立山・雄山 (3003)、鹿島槍ヶ岳 (2890)、劔岳 (2998)、五龍岳 (2814)、唐松岳 (2698)、八方尾根、天狗の大下り (2812)、白馬鑓ヶ岳 (2903)、白馬杓子岳 (2900)、白馬大雪渓、白馬岳 (2933)、白馬乗鞍岳 (2469)、戸隠連峰 (1904)、飯綱山 (1817)
2016年6月17日金曜日
2016年6月15日水曜日
満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その2)
(承前)
うっかりしていて、食事ですと呼ばれて、慌てて食事処「風土」へ行く。この名前は前と全く同じ、架かっている暖簾も前と同じだ。中へ入ると、これまた前の満山荘と見間違う位同じスタイル、驚く程似ている。指定のテーブルには料理が並べられていて、予め注文してあった地ビールと地元ワイナリーの赤ワイン、それに今夕の食事の献立表も置かれていた。前の宿でもそうだったが、料理は奥さんの創作料理、次にその献立を紹介しよう。
〔信州沓掛 夏の献立〕 平成28年6月5日 料理明子 印
「食前酒」枸杞酒
「生湯葉」クコ柚子胡椒
「信州サーモンのコンフィー」塩糀、アロエヤングリーフ、シーサラダ
「地物野菜他とピクルスなど」野菜 (アスパラ、茄子、赤蕪、豌豆、ブロッコリー、パプリカ、長芋、大根、オクラ、ベビーコーン)、ビーツとパプリカのソース、蕗味噌マヨネーズ、醤油ジュレ
「牛乳豆富」柚子味噌
「十六穀米スープ」ドライベジタブル
「夏の天麩羅」エリンギ茸、万願寺甘唐、モロッコ隠元、破竹、信州りんご、抹茶
「チーズの茶碗蒸し」トマト、葱
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」独活、人参、クレソン
「大岩魚のジェノバ風ソース」サラダ大根生ハム巻、クリームチーズ、ミニトマト、ブルーベリーソース
「野沢菜茶漬け」
「りんごシャーベット」りんご赤ワイン煮、マンゴーヨーグルトソース
飲み物が不足したので、清酒「八海山」を追加した。
終わって部屋に戻り、翌日の計画を立てることに。私の当初の計画では、沓掛温泉の背後の夫神山の東側に広がる塩田平の寺院、前山寺や安楽寺や北向観音などを拝観して、その後上信越自動車道の上田菅平 IC から帰ろうと算段していた。ところが色好い返事が貰えず、ではこの青木村の道の駅で買い物をして、近くにある国宝の大法寺の三重塔を見て帰ることにした。それで沓掛温泉への車でのアクセスを見ると、上田 IC からも長野自動車道の麻績 (おみ) IC からも、距離は20km、時間は30分と同じなので、帰りは麻績からとした。
6月6日(月) 朝5時に起きて風呂に行く。内湯はともかく、露天風呂は少々温くて、上がると寒い。それで早々に上がって外へ。宿の前から急な崖に付けられた細い径を辿って、下に見える池まで下りる。径は樹林に聳える欅の大樹を巻くようにして付けられている。ウグイスやホトトギスやヒヨドリの啼き声が聴こえる。下の池には掛け流しの湯が流れ込んでいて、池には熱帯魚のピラニアがいると書かれている。魚の群れが見えたが、果たしてそうだったのかは不明だった。帰りは車道を歩いて満山荘のさらに奥にある外湯の「小倉乃湯」まで足を延ばした。この湯は開湯が平安時代とか、また小倉の由来は裏山の山容が京都の小倉山に似ているところから名付けられたと記してあった。そして以前はここは湯治場で、宿も数軒あったというが、今は3軒のみである。宿へ戻ると入り口に、温泉に入りたい方は「小倉乃湯」へどうぞとの貼り紙がしてあった。そして中の帳場の横には、ビニール袋に入ったピラニアの餌が置いてあった。
朝食は8時から、でも朝の NHK の連ドラを見てからだったので、食事処へ行くと、もう皆さん食事の真っ最中だった。朝はバイキング形式、肉、魚、野菜、果物、煮物、焼物、揚物、漬物、サラダ、飲物など、その数 30 種位、無くなると追加される仕組み。こういうバイキング方式で、美味しそうな物が並んでいると、つい取り過ぎになってしまい勝ちで、取ってしまった以上は残すことは憚られ、つい食べ過ぎになってしまう。ご飯とお汁が副食になってしまう感じである。食事は9時まで、時間になって部屋へ戻った。
暫し部屋で寛いで、チェックアウトの 10 時になって宿を出た。昨晩車は6台あったが、既に出発したのは1台のみ、我々が第2陣ということに。県道 12 号線を北上して国道 143 号線に出て右折し、上田方面に向かうとやがて左手に「道の駅あおき」が見えた。青木村は山に囲まれた農村、地元の野菜を主とした農産物やその加工品が直売されていた。中に青木村限定栽培の「タチアカネ」という品種の蕎麦がお勧め品に入っていた。
うっかりしていて、食事ですと呼ばれて、慌てて食事処「風土」へ行く。この名前は前と全く同じ、架かっている暖簾も前と同じだ。中へ入ると、これまた前の満山荘と見間違う位同じスタイル、驚く程似ている。指定のテーブルには料理が並べられていて、予め注文してあった地ビールと地元ワイナリーの赤ワイン、それに今夕の食事の献立表も置かれていた。前の宿でもそうだったが、料理は奥さんの創作料理、次にその献立を紹介しよう。
〔信州沓掛 夏の献立〕 平成28年6月5日 料理明子 印
「食前酒」枸杞酒
「生湯葉」クコ柚子胡椒
「信州サーモンのコンフィー」塩糀、アロエヤングリーフ、シーサラダ
「地物野菜他とピクルスなど」野菜 (アスパラ、茄子、赤蕪、豌豆、ブロッコリー、パプリカ、長芋、大根、オクラ、ベビーコーン)、ビーツとパプリカのソース、蕗味噌マヨネーズ、醤油ジュレ
「牛乳豆富」柚子味噌
「十六穀米スープ」ドライベジタブル
「夏の天麩羅」エリンギ茸、万願寺甘唐、モロッコ隠元、破竹、信州りんご、抹茶
「チーズの茶碗蒸し」トマト、葱
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」独活、人参、クレソン
「大岩魚のジェノバ風ソース」サラダ大根生ハム巻、クリームチーズ、ミニトマト、ブルーベリーソース
「野沢菜茶漬け」
「りんごシャーベット」りんご赤ワイン煮、マンゴーヨーグルトソース
飲み物が不足したので、清酒「八海山」を追加した。
終わって部屋に戻り、翌日の計画を立てることに。私の当初の計画では、沓掛温泉の背後の夫神山の東側に広がる塩田平の寺院、前山寺や安楽寺や北向観音などを拝観して、その後上信越自動車道の上田菅平 IC から帰ろうと算段していた。ところが色好い返事が貰えず、ではこの青木村の道の駅で買い物をして、近くにある国宝の大法寺の三重塔を見て帰ることにした。それで沓掛温泉への車でのアクセスを見ると、上田 IC からも長野自動車道の麻績 (おみ) IC からも、距離は20km、時間は30分と同じなので、帰りは麻績からとした。
6月6日(月) 朝5時に起きて風呂に行く。内湯はともかく、露天風呂は少々温くて、上がると寒い。それで早々に上がって外へ。宿の前から急な崖に付けられた細い径を辿って、下に見える池まで下りる。径は樹林に聳える欅の大樹を巻くようにして付けられている。ウグイスやホトトギスやヒヨドリの啼き声が聴こえる。下の池には掛け流しの湯が流れ込んでいて、池には熱帯魚のピラニアがいると書かれている。魚の群れが見えたが、果たしてそうだったのかは不明だった。帰りは車道を歩いて満山荘のさらに奥にある外湯の「小倉乃湯」まで足を延ばした。この湯は開湯が平安時代とか、また小倉の由来は裏山の山容が京都の小倉山に似ているところから名付けられたと記してあった。そして以前はここは湯治場で、宿も数軒あったというが、今は3軒のみである。宿へ戻ると入り口に、温泉に入りたい方は「小倉乃湯」へどうぞとの貼り紙がしてあった。そして中の帳場の横には、ビニール袋に入ったピラニアの餌が置いてあった。
朝食は8時から、でも朝の NHK の連ドラを見てからだったので、食事処へ行くと、もう皆さん食事の真っ最中だった。朝はバイキング形式、肉、魚、野菜、果物、煮物、焼物、揚物、漬物、サラダ、飲物など、その数 30 種位、無くなると追加される仕組み。こういうバイキング方式で、美味しそうな物が並んでいると、つい取り過ぎになってしまい勝ちで、取ってしまった以上は残すことは憚られ、つい食べ過ぎになってしまう。ご飯とお汁が副食になってしまう感じである。食事は9時まで、時間になって部屋へ戻った。
暫し部屋で寛いで、チェックアウトの 10 時になって宿を出た。昨晩車は6台あったが、既に出発したのは1台のみ、我々が第2陣ということに。県道 12 号線を北上して国道 143 号線に出て右折し、上田方面に向かうとやがて左手に「道の駅あおき」が見えた。青木村は山に囲まれた農村、地元の野菜を主とした農産物やその加工品が直売されていた。中に青木村限定栽培の「タチアカネ」という品種の蕎麦がお勧め品に入っていた。
2016年6月13日月曜日
満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その1)
(株) 朝日旅行では、「日本の秘湯を歩く」という企画をしていて、3年間の間に、社団法人「日本の秘湯を守る会」に所属する温泉宿に10軒訪れると、その中の1軒に無料で招待され宿泊できるという仕組みになっている。宿の数は出入りがあるが、平成27年3月現在、1都1道30県にある178軒の宿が会員になっていて、北陸3県では、富山2軒、石川3軒、福井1軒が対象になっている。振り返って、この3年間に私たち夫婦が訪れたには、長野県の角間温泉、七味温泉、白骨温泉、小谷温泉、中の湯温泉、奥山田温泉、岐阜県の福地温泉、平瀬温泉で、このうち奥山田温泉の満山荘にはこの間に3回訪れた。ここは志賀高原に近い標高 1,550 m に建つ宿で、天気が良ければ、南は前穂高岳から北は白馬乗鞍岳までの、南北 80 km に及ぶ北アルプスが、その奥には立山・劔岳、手前には飯綱山、戸隠連峰、黒姫山の三山、眼下には善光寺平が眺められ、しかもこれらを露天風呂に浸りながら俯瞰できるのが醍醐味の宿である。もっとも天気が悪ければ、このような景色は見られない。それで無料で宿泊できる宿に、この満山荘を希望したのは必然だったとも言える。以前の招待の時もここで宿泊した。
この無料宿泊には制限があって、正月、ゴールデンウイーク、旧盆、それに土曜日や祝祭日の前日は除外される。申込みには、宿は第1から第3希望まで、宿泊日も第1から第3希望までを指定して出すことになっている。ところで3月末に連絡があって、第1希望の満山荘は1月3日をもって閉館し、元の奥山田温泉から場所を離れて、沓掛温泉「おもとや旅館」を引き継ぐことになりましたが、それでも宜しいですかとのこと。それで場所は違うけれども手配をお願いしますと連絡した。その結果、新しい満山荘への招待は6月5日 (日) ということになった。
6月5日 (日) の朝10時15分前に家を出た。この日はまだ百万石行列行事が金沢市内で行なわれているので、それを避けて白山 IC から北陸自動車道へ、そして時々休みながら、その後上信越自動車道に入り、上田菅平 IC で下りて沓掛温泉へ向かった。上田市内が混雑していて、通り抜けるのに少々時間がかかったが、その後国道143号線を西へ進み、青木村沓掛にある沓掛温泉満山荘に着いた。着時刻は午後3時15分で、所要時間は5時間半だった。
沓掛温泉は国道筋にある青木村役場から鹿教湯温泉へ抜ける県道12号線の途中の山間にあり、県道から温泉への標識に従って小高い山腹を上がると着いた。ここには温泉宿が3軒と外湯 (大衆浴場) があり、すべて源泉かけ流しで、泉質はアルカリ性単純温泉とかである。この温泉は夫神岳 (おかみだけ) の西の麓の海抜 670 m に位置していて、反対側の東の麓には別所温泉 (上田市) がある。
宿に入ってお会いしたこの宿の主人は、正しく奥山田温泉の主人だった。記帳した後に此処の温泉の特徴の説明があった。この温泉には泉源が2本あって、泉質は同じだが泉温が36℃と39℃で、ここでの内湯には前者を41℃に加温して用い、後者はそのまま露天風呂に用いていると説明があった。部屋は1階に7室、2階に4室、3階に3室あり、私たちは2階の201号室の「穂高」、2階では最も大きい部屋で、洋間風の寝室と居室、それに広縁の付いた青畳の和室までも付いていた。洋間はどちらもゆったりとしていて、窓を開けると、鬱蒼と繁った樹々の間からは青木村の田園風景が広がっているのが見えた。和室の窓を開けると、下に駐車場が見え、ここが玄関の上だということが知れた。居室には大きなソファと大型テレビとハンモック、部屋のスタイルは前の満山荘を彷彿とさせる雰囲気だ。
風呂から上がって、高速道の SA で買ったつまみで焼酎「神の河」を飲む。今の時間帯は男性は内湯のみ、女性は内湯と露天風呂、家内はまったりのお湯三昧だった。ややあって2階にあるラウンジへ行く。前の宿でもこんなスペースがあったが、この新しい宿では2間も開放されていて、ここではコーヒー、紅茶、お茶、冷水などを自由に飲めるようになっている。また客室では禁煙だが、ラウンジの1室は喫煙可能とかだった。そして前の当主の堀江文四郎さんが、奥山田温泉の山田牧場から撮影された北アルプスの山並みの横幅4mもの写真も置かれていた。残雪期の写真で、山名はもちろん雪形なども記してあった。あの爺様は今はどうされているのだろうか、今の当主には何となく言い出すのが憚られ、聞きそびれてしまった。今夕の食事は午後6時半とか、それまでゆっくりと部屋で寛いだ。
この無料宿泊には制限があって、正月、ゴールデンウイーク、旧盆、それに土曜日や祝祭日の前日は除外される。申込みには、宿は第1から第3希望まで、宿泊日も第1から第3希望までを指定して出すことになっている。ところで3月末に連絡があって、第1希望の満山荘は1月3日をもって閉館し、元の奥山田温泉から場所を離れて、沓掛温泉「おもとや旅館」を引き継ぐことになりましたが、それでも宜しいですかとのこと。それで場所は違うけれども手配をお願いしますと連絡した。その結果、新しい満山荘への招待は6月5日 (日) ということになった。
6月5日 (日) の朝10時15分前に家を出た。この日はまだ百万石行列行事が金沢市内で行なわれているので、それを避けて白山 IC から北陸自動車道へ、そして時々休みながら、その後上信越自動車道に入り、上田菅平 IC で下りて沓掛温泉へ向かった。上田市内が混雑していて、通り抜けるのに少々時間がかかったが、その後国道143号線を西へ進み、青木村沓掛にある沓掛温泉満山荘に着いた。着時刻は午後3時15分で、所要時間は5時間半だった。
沓掛温泉は国道筋にある青木村役場から鹿教湯温泉へ抜ける県道12号線の途中の山間にあり、県道から温泉への標識に従って小高い山腹を上がると着いた。ここには温泉宿が3軒と外湯 (大衆浴場) があり、すべて源泉かけ流しで、泉質はアルカリ性単純温泉とかである。この温泉は夫神岳 (おかみだけ) の西の麓の海抜 670 m に位置していて、反対側の東の麓には別所温泉 (上田市) がある。
宿に入ってお会いしたこの宿の主人は、正しく奥山田温泉の主人だった。記帳した後に此処の温泉の特徴の説明があった。この温泉には泉源が2本あって、泉質は同じだが泉温が36℃と39℃で、ここでの内湯には前者を41℃に加温して用い、後者はそのまま露天風呂に用いていると説明があった。部屋は1階に7室、2階に4室、3階に3室あり、私たちは2階の201号室の「穂高」、2階では最も大きい部屋で、洋間風の寝室と居室、それに広縁の付いた青畳の和室までも付いていた。洋間はどちらもゆったりとしていて、窓を開けると、鬱蒼と繁った樹々の間からは青木村の田園風景が広がっているのが見えた。和室の窓を開けると、下に駐車場が見え、ここが玄関の上だということが知れた。居室には大きなソファと大型テレビとハンモック、部屋のスタイルは前の満山荘を彷彿とさせる雰囲気だ。
風呂から上がって、高速道の SA で買ったつまみで焼酎「神の河」を飲む。今の時間帯は男性は内湯のみ、女性は内湯と露天風呂、家内はまったりのお湯三昧だった。ややあって2階にあるラウンジへ行く。前の宿でもこんなスペースがあったが、この新しい宿では2間も開放されていて、ここではコーヒー、紅茶、お茶、冷水などを自由に飲めるようになっている。また客室では禁煙だが、ラウンジの1室は喫煙可能とかだった。そして前の当主の堀江文四郎さんが、奥山田温泉の山田牧場から撮影された北アルプスの山並みの横幅4mもの写真も置かれていた。残雪期の写真で、山名はもちろん雪形なども記してあった。あの爺様は今はどうされているのだろうか、今の当主には何となく言い出すのが憚られ、聞きそびれてしまった。今夕の食事は午後6時半とか、それまでゆっくりと部屋で寛いだ。
2016年6月8日水曜日
平成28年5月のあれこれ(その5)
16.魯山人寓居跡「いろは草庵」訪問
子うし会での傘寿の祝宴を山代温泉の「ゆのくに天祥」で行なった折に、同じ山代温泉の旧吉野屋別荘の「いろは草庵」で、「燕台ー魯山人を支えた文人」という企画展が開かれていることを知った。この企画展は「魯山人の美の原点を探る」という一連のシリーズの一つで、3ヵ月毎にテーマを換えて行なっていて、今回は第44回だという。北大路魯山人は今ではつとに有名で、誰一人として知らぬ者はいない程の有名人であるが、しかし彼が本来持っていた書家や篆刻家としての才能の上に、中でも料理人兼美食家/陶芸家として花開いたのは、細野燕台との邂逅があったからこそで、でなければ彼の才能がこれほどまでに発揮できたかどうかは疑問である。
私がこの企画展に興味を持ったのは魯山人ではなくて、燕台の名が出ていたからで、今まで一度も「いろは草庵」には足を運んだことがなかったこともあって、尚更興味が沸いた。細野燕台については、金沢市下本多町にある金沢ふるさと偉人館にかなりの資料があり、何度か訪れたことがある。また常設展示はしていないが、伊東深水が描いた晩年の細野燕台の全身像が、金沢市出羽町にある石川県立美術館に収蔵されている。
細野燕台は本名は申三といい、金沢の商家細野家の長男として生まれた。次男は生二といい、私の母の父親 (母方の祖父) である。そして長女は玉といい、私の父の母親、即ち私の祖母である。であるからして、私の父と母はいとこ添いということになる。こういう近い縁であるからして、燕台は野々市の家にもよく来てお出でで、私も会った記憶がある。そんなこともあって、私の家には燕台が書いた筆跡や上絵付けした器などが残っている。
5月31日の火曜日に車で山代温泉の「いろは草庵」へ出かけた。場所は山代温泉総湯の近くにある。燕台に伴われて山代温泉に来た魯山人 (当時は福田大観といった) は、吉野屋旅館の食客になり、篆刻家としてこの吉野屋別荘で刻字看板の制作を始め、当時の山代の温泉旅館のほとんどの看板を彫ったとされる。いろは草庵の中には、当時の篆刻をしていた作業場が再現されていて、彫りかけの作品も置かれていた。その後燕台や吉野屋の紹介で初代の須田菁華の窯に入ることが叶い、上絵付けを体験することになる。
展示室には、燕台が彫った「吉野屋」という刻字看板と、福田大観 (魯山人) が彫った「吉野屋」という刻字看板が並べて置いてあった。また二人が書いた書や扁額、それに鉢や花入れ、皿や向付け等が置かれていた。また燕台が魯山人に宛てた書簡も展示されていた。中でも一際目をひいたのは、燕台の長男の結婚式に当たって魯山人が作陶したという「乾山風梅椿手付鉢」で、魯山人の大胆な形状の器と構図には目を見張った。これは初めて目にした作品だった。この庵の展示スペースは広くはなく、それで何回にも分けて展示するのだろう。私は小一時間ばかりいて辞した。
付.庭に出た孟宗竹の筍を食す
私の家がある地所は、旧北國街道沿いで、南北に長い矩形状をしている。そして地所のやや東寄りに、用水が南から北へ流れていて、後半は曲水になっている。用水の西側の通りに面した方は約390坪、用水の東側は約110坪ある。後者の南端は竹薮で、以前は孟宗竹と真竹の薮だったが、真竹は花が咲いて枯れて無くなった。もう50年前のことである。今は此処には孟宗竹と矢竹が繁っている。ところで真竹が無くなって以降は、孟宗竹が勢いを増して、至る所に根を張り巡らすようになり、とんでもない所に筍が出るようになった。特に築山に置かれている台石や飛び石を持ち上げたり、植木の間に出たり、もう3日も回らないとアッという間に大きく成長する。
以前母が元気だった頃は、まだ竹薮の範囲が今ほど広がっておらず、薮以外に出た筍は丹念に掘って捨てていた。というのは、こんな庭に出てくる筍など、多分えぐみがあって食べられないと思っていたからである。母が亡くなって、筍退治の役目は私に回ってきた。今竹が生えて薮になっている面積は、往時の2倍にもなっていよう。それで薮以外に生えてきた筍は総て取って捨てていた。ところで3年前、私の妹が一度食べてみたいと言うので渡したところ、食べられるとのこと、それではと持ち帰ってもらうことにした。でも量が多い時は家でも食してみた。ところが思っていたえぐみは全くなく食べられた。ところで昨年は裏年で数はそれ程多くはなかったが、今年は表年、丹念に取った。その数50本以上、大きなものは径が15㎝ もあり、私と妹とでは処分しきれず、知人にも引き取ってもらった。それでも取り残しが大きくなり、伐って捨てたものも20本はあった。ところで食した方からは、市販の筍よりも美味しかったというお世辞もあり、これには目尻が下がった。薮の50本ばかりは今は大きく成長している。
子うし会での傘寿の祝宴を山代温泉の「ゆのくに天祥」で行なった折に、同じ山代温泉の旧吉野屋別荘の「いろは草庵」で、「燕台ー魯山人を支えた文人」という企画展が開かれていることを知った。この企画展は「魯山人の美の原点を探る」という一連のシリーズの一つで、3ヵ月毎にテーマを換えて行なっていて、今回は第44回だという。北大路魯山人は今ではつとに有名で、誰一人として知らぬ者はいない程の有名人であるが、しかし彼が本来持っていた書家や篆刻家としての才能の上に、中でも料理人兼美食家/陶芸家として花開いたのは、細野燕台との邂逅があったからこそで、でなければ彼の才能がこれほどまでに発揮できたかどうかは疑問である。
私がこの企画展に興味を持ったのは魯山人ではなくて、燕台の名が出ていたからで、今まで一度も「いろは草庵」には足を運んだことがなかったこともあって、尚更興味が沸いた。細野燕台については、金沢市下本多町にある金沢ふるさと偉人館にかなりの資料があり、何度か訪れたことがある。また常設展示はしていないが、伊東深水が描いた晩年の細野燕台の全身像が、金沢市出羽町にある石川県立美術館に収蔵されている。
細野燕台は本名は申三といい、金沢の商家細野家の長男として生まれた。次男は生二といい、私の母の父親 (母方の祖父) である。そして長女は玉といい、私の父の母親、即ち私の祖母である。であるからして、私の父と母はいとこ添いということになる。こういう近い縁であるからして、燕台は野々市の家にもよく来てお出でで、私も会った記憶がある。そんなこともあって、私の家には燕台が書いた筆跡や上絵付けした器などが残っている。
5月31日の火曜日に車で山代温泉の「いろは草庵」へ出かけた。場所は山代温泉総湯の近くにある。燕台に伴われて山代温泉に来た魯山人 (当時は福田大観といった) は、吉野屋旅館の食客になり、篆刻家としてこの吉野屋別荘で刻字看板の制作を始め、当時の山代の温泉旅館のほとんどの看板を彫ったとされる。いろは草庵の中には、当時の篆刻をしていた作業場が再現されていて、彫りかけの作品も置かれていた。その後燕台や吉野屋の紹介で初代の須田菁華の窯に入ることが叶い、上絵付けを体験することになる。
展示室には、燕台が彫った「吉野屋」という刻字看板と、福田大観 (魯山人) が彫った「吉野屋」という刻字看板が並べて置いてあった。また二人が書いた書や扁額、それに鉢や花入れ、皿や向付け等が置かれていた。また燕台が魯山人に宛てた書簡も展示されていた。中でも一際目をひいたのは、燕台の長男の結婚式に当たって魯山人が作陶したという「乾山風梅椿手付鉢」で、魯山人の大胆な形状の器と構図には目を見張った。これは初めて目にした作品だった。この庵の展示スペースは広くはなく、それで何回にも分けて展示するのだろう。私は小一時間ばかりいて辞した。
付.庭に出た孟宗竹の筍を食す
私の家がある地所は、旧北國街道沿いで、南北に長い矩形状をしている。そして地所のやや東寄りに、用水が南から北へ流れていて、後半は曲水になっている。用水の西側の通りに面した方は約390坪、用水の東側は約110坪ある。後者の南端は竹薮で、以前は孟宗竹と真竹の薮だったが、真竹は花が咲いて枯れて無くなった。もう50年前のことである。今は此処には孟宗竹と矢竹が繁っている。ところで真竹が無くなって以降は、孟宗竹が勢いを増して、至る所に根を張り巡らすようになり、とんでもない所に筍が出るようになった。特に築山に置かれている台石や飛び石を持ち上げたり、植木の間に出たり、もう3日も回らないとアッという間に大きく成長する。
以前母が元気だった頃は、まだ竹薮の範囲が今ほど広がっておらず、薮以外に出た筍は丹念に掘って捨てていた。というのは、こんな庭に出てくる筍など、多分えぐみがあって食べられないと思っていたからである。母が亡くなって、筍退治の役目は私に回ってきた。今竹が生えて薮になっている面積は、往時の2倍にもなっていよう。それで薮以外に生えてきた筍は総て取って捨てていた。ところで3年前、私の妹が一度食べてみたいと言うので渡したところ、食べられるとのこと、それではと持ち帰ってもらうことにした。でも量が多い時は家でも食してみた。ところが思っていたえぐみは全くなく食べられた。ところで昨年は裏年で数はそれ程多くはなかったが、今年は表年、丹念に取った。その数50本以上、大きなものは径が15㎝ もあり、私と妹とでは処分しきれず、知人にも引き取ってもらった。それでも取り残しが大きくなり、伐って捨てたものも20本はあった。ところで食した方からは、市販の筍よりも美味しかったというお世辞もあり、これには目尻が下がった。薮の50本ばかりは今は大きく成長している。
2016年6月1日水曜日
平成28年5月のあれこれ(その4)
13.子うし会物故者法要
物故者法要は5月24日午後1時、場所は野々市市本町三丁目にある真宗大谷派の照臺寺で行なった。このお寺は大変古く、創建は康平4年 (1061) とか、開基は道圓、当時は近くに加賀の国司だった富樫氏の館があった。しかし一向一揆が起きて富樫氏が滅亡し、その後嘉禄元年 (1225) には天台宗から一向宗 (浄土真宗) に転宗したという経緯がある。
法要が始まる 30 分前には、男9人と女9人、それに 21 日に亡くなった U 君の妹さんもお参りに来られた。皆さん大概は昔の面影があり、昔話をして旧交を温めたが、1人名を思い出せない方がいて、失礼ですが何方ですかとお聞きしたところ、K 君と分かった。数え四十歳の厄除け以来で、40 年ぶりの再会だった。また 90 歳になられた前住職の方もお見えになり、以前毎年法要をしていた頃は、この方に導師をして頂き、またお説教もして頂いたものだ。今は娘婿の方が住職をなされておられ、今日の導師はこの方がなされた。
物故者は男 12 人女4人の計 16 人、本堂の本尊阿弥陀如来立像の前の仏壇に、16 人の名前と亡くなった年月日と享年を墨書した名簿が掲げられてあった。一番初めに亡くなった方の年齢が当時で 40 歳、今年亡くなった U 君の享年が 80 歳、40 年経過したことになる。もう子うし会で行う物故者法要は、これを区切りにしようということに申し合わせたこともあって、意義ある会になったのではと思う。法要は1時間ばかり、唱えられたお経は観無量寿経のようだった。順に焼香して、故人の冥福を祈った。
(閑話休題)法要を行った照臺寺の前住職の照岡淳さんは、北國新聞社刊行の「日本の名僧 100 人 この一字」に名を連ねておいでで、真宗大谷派全国正副議長会の会長を歴任されたことがあるとか。そして書かれた一字は「臺 (だい, うてな)」で、これは「物事の土台となる基盤」「尊い場所」を示し、万物の生を支えてくれる大地を表するという。
14.山代温泉「ゆのくに天祥」で傘寿の祝宴
1泊2日の傘寿の祝宴に参加するのは男性5名女性6名の 11 人、当初は宿の車を利用しようと思って交渉していたが、15 名に満たないと宿のマイクロバスは出せないとのことで、急遽自家用車3台に分乗して出かけることにした。野々市から山代温泉までは 50 km 弱、午後2時過ぎに寺を出て、3時には宿に着いた。白雲本館の 20 畳はあろうかという標準和室、隣り合わせの部屋に女性6人と男性5人が入った。
小憩の後、浴場へ行く。この宿では4年前に自家源泉を掘削し、これまでの共同源泉からの引湯とで、加水なしで3つの大きな浴場を掛け流しにしている。この時間帯は、男性が1階の「九谷の湯処」の6湯、女性が3階の「悠幻の湯殿」の7湯と1階の「滝見の湯屋」の5湯、翌日の午前にはこれが男女入れ替えになり、すべてで 18 の湯を巡ることもできる。新しく造られた天祥の館には、温泉露天風呂付きの客室もあるとかである。ただ標準仕様の部屋の浴室の湯は温泉水ではないと断り書きがしてあった。
食事は午後6時に食事処・四季でテーブル形式、この会ではもう十年位前から、足腰不自由な人が居るので、食事はもっぱらこのスタイルにしてもらっている。傘寿の祝いの宴と銘打ってあり、献立の品数も 15 品ばかりと多く、十分満足できるものだった。そして部屋には紫色のちゃんちゃんこと冠りものが用意されていて、これらを身につけて記念写真を撮った。そして十分に食べて飲んで駄弁った後、部屋に戻り、その後男性部屋で再び二次会、地元での会は久しぶりで、遠くだと参加できないという方々の参加もあって、随分と話が弾んだ。それで来年以降は、この「子うし会」も有志で行なうことにし、石川の私を入れた地元3人は世話人を下りることにし、以降の世話は何故か皆元気がいい関西在住の方々にお願いすることにした。
15.叔父と同道して旧薬学部薬草園へ
5月 29 日の日曜日に、かねて叔父が世話をしていた小立野にある旧薬草園を一度見に行きたいと話されていたので、午後1時に叔父宅へ出向いた。この日は天気が良く、汗ばむ程だった。医学部構内の旧薬学部前に車を停め、旧薬草園へ行った。元は薬草園の入り口に植えられていたメタセコイアは、伐られずに高く成長していた。叔父の話では石川県に植えられた第1号だとか。私の家の庭にも叔父が植えたのがあるが、欅と孟宗竹に囲まれて樹勢は今一である。ところで旧薬草園は、小立野トンネル貫通の際と、医学部の付属施設が造られて、旧の面積の4分の1位になり、しかも残りは高いフェンスに囲まれていて、中へは全く入られず、しかも全く手入れされずで、密林状態になっていた。以前は4百種ばかりの薬用植物が植えられていたというが、今は草本は多分なく、木本が繁っている状態である。外からウツギの白い花が咲いているのが見えた。訪れた記念に大きなハクウンボクの葉を持ち帰った。
物故者法要は5月24日午後1時、場所は野々市市本町三丁目にある真宗大谷派の照臺寺で行なった。このお寺は大変古く、創建は康平4年 (1061) とか、開基は道圓、当時は近くに加賀の国司だった富樫氏の館があった。しかし一向一揆が起きて富樫氏が滅亡し、その後嘉禄元年 (1225) には天台宗から一向宗 (浄土真宗) に転宗したという経緯がある。
法要が始まる 30 分前には、男9人と女9人、それに 21 日に亡くなった U 君の妹さんもお参りに来られた。皆さん大概は昔の面影があり、昔話をして旧交を温めたが、1人名を思い出せない方がいて、失礼ですが何方ですかとお聞きしたところ、K 君と分かった。数え四十歳の厄除け以来で、40 年ぶりの再会だった。また 90 歳になられた前住職の方もお見えになり、以前毎年法要をしていた頃は、この方に導師をして頂き、またお説教もして頂いたものだ。今は娘婿の方が住職をなされておられ、今日の導師はこの方がなされた。
物故者は男 12 人女4人の計 16 人、本堂の本尊阿弥陀如来立像の前の仏壇に、16 人の名前と亡くなった年月日と享年を墨書した名簿が掲げられてあった。一番初めに亡くなった方の年齢が当時で 40 歳、今年亡くなった U 君の享年が 80 歳、40 年経過したことになる。もう子うし会で行う物故者法要は、これを区切りにしようということに申し合わせたこともあって、意義ある会になったのではと思う。法要は1時間ばかり、唱えられたお経は観無量寿経のようだった。順に焼香して、故人の冥福を祈った。
(閑話休題)法要を行った照臺寺の前住職の照岡淳さんは、北國新聞社刊行の「日本の名僧 100 人 この一字」に名を連ねておいでで、真宗大谷派全国正副議長会の会長を歴任されたことがあるとか。そして書かれた一字は「臺 (だい, うてな)」で、これは「物事の土台となる基盤」「尊い場所」を示し、万物の生を支えてくれる大地を表するという。
14.山代温泉「ゆのくに天祥」で傘寿の祝宴
1泊2日の傘寿の祝宴に参加するのは男性5名女性6名の 11 人、当初は宿の車を利用しようと思って交渉していたが、15 名に満たないと宿のマイクロバスは出せないとのことで、急遽自家用車3台に分乗して出かけることにした。野々市から山代温泉までは 50 km 弱、午後2時過ぎに寺を出て、3時には宿に着いた。白雲本館の 20 畳はあろうかという標準和室、隣り合わせの部屋に女性6人と男性5人が入った。
小憩の後、浴場へ行く。この宿では4年前に自家源泉を掘削し、これまでの共同源泉からの引湯とで、加水なしで3つの大きな浴場を掛け流しにしている。この時間帯は、男性が1階の「九谷の湯処」の6湯、女性が3階の「悠幻の湯殿」の7湯と1階の「滝見の湯屋」の5湯、翌日の午前にはこれが男女入れ替えになり、すべてで 18 の湯を巡ることもできる。新しく造られた天祥の館には、温泉露天風呂付きの客室もあるとかである。ただ標準仕様の部屋の浴室の湯は温泉水ではないと断り書きがしてあった。
食事は午後6時に食事処・四季でテーブル形式、この会ではもう十年位前から、足腰不自由な人が居るので、食事はもっぱらこのスタイルにしてもらっている。傘寿の祝いの宴と銘打ってあり、献立の品数も 15 品ばかりと多く、十分満足できるものだった。そして部屋には紫色のちゃんちゃんこと冠りものが用意されていて、これらを身につけて記念写真を撮った。そして十分に食べて飲んで駄弁った後、部屋に戻り、その後男性部屋で再び二次会、地元での会は久しぶりで、遠くだと参加できないという方々の参加もあって、随分と話が弾んだ。それで来年以降は、この「子うし会」も有志で行なうことにし、石川の私を入れた地元3人は世話人を下りることにし、以降の世話は何故か皆元気がいい関西在住の方々にお願いすることにした。
15.叔父と同道して旧薬学部薬草園へ
5月 29 日の日曜日に、かねて叔父が世話をしていた小立野にある旧薬草園を一度見に行きたいと話されていたので、午後1時に叔父宅へ出向いた。この日は天気が良く、汗ばむ程だった。医学部構内の旧薬学部前に車を停め、旧薬草園へ行った。元は薬草園の入り口に植えられていたメタセコイアは、伐られずに高く成長していた。叔父の話では石川県に植えられた第1号だとか。私の家の庭にも叔父が植えたのがあるが、欅と孟宗竹に囲まれて樹勢は今一である。ところで旧薬草園は、小立野トンネル貫通の際と、医学部の付属施設が造られて、旧の面積の4分の1位になり、しかも残りは高いフェンスに囲まれていて、中へは全く入られず、しかも全く手入れされずで、密林状態になっていた。以前は4百種ばかりの薬用植物が植えられていたというが、今は草本は多分なく、木本が繁っている状態である。外からウツギの白い花が咲いているのが見えた。訪れた記念に大きなハクウンボクの葉を持ち帰った。
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