2015年8月24日月曜日

残暑の能登へドライブ(その2)

(承前)
(2)能登半島突端の禄剛崎 (ろっこうざき) へ
 昼近くになり、間垣の里を辞して輪島の市街地に戻る。昼食は市中の喧騒を避けて、道の駅「千枚田」でもと国道 249 号線を東進する。沖には七ツ島が見えている。ねぶた温泉を過ぎ、さらに 10km ばかり走ると白米 (しろよね) の千枚田が見えて来る。稲穂はまだ緑だ。ところで道の駅は以前に比べ随分と整備が進み広くはなっているが、平日なのに観光客が実に多いのに驚く。そこへ観光バスも到着したものだから大変な混雑、とても昼食をとれる環境ではない。それではと曽々木を目指す。
 曽々木は白米からはさらに 10km ばかり先、ところで少し走って名舟 (なぶね) の「御陣乗太鼓発祥の地」の碑を過ぎた辺りに、地内は輪島市なのに、テレビドラマ「まれ」に出て来る「奥能登揚げ浜塩田輪島塩」の看板が出ていたのには驚いた。本来は珠洲の塩のはずなのに、ここではあのドラマの輪島の塩と銘打っていた。しかも観光客に海水を撒くのを体験させたり、海水を運ぶ桶を担ぐ仕草をさせたり、中々商売上手である。ところで売っている塩や海産物は実に高く、消費税ばかりか観光税も上乗せしているのではと感じた。素晴らしい魂胆だ。窓岩が見え、曽々木に着いた。時間は午後1時半近く、天然活魚と看板のある食事処へ入る。昼時とあってかなり混み合ってはいるが、空いた席もある。板敷きの広間の一卓に陣取る。窓からは海が見え、窓岩も見えている。注文は海鮮丼と刺身定食、私は冷酒を1合貰う。折しも高校野球は今日が決勝戦、まだ序盤戦、テレビ放送の音だけが聞こえて来るが、どうも神奈川代表が勝っているらしい。漸く順番が回ってきて、注文の品が届いた。魚介類は全てが地の物ではないにしろ、まずまずの品、鮮度も良かった。
 午後2時に曽々木を発ち、能登半島珠洲岬突端の禄剛崎へと向かう。程なく真浦海岸の千畳敷が見えてくる。続く仁江海岸の一帯は、日本で唯一受け継がれてきた揚げ浜式製塩の塩田があるところ、この辺り一帯には塩田が多い。一時は廃れていたが、連続テレビドラマ「まれ」のせいもあって、珠洲塩は人気沸騰で品薄とか、塩田も息を吹き返したようだ。またこの仁江海岸一帯は「日本の夕陽・百選」にも選ばれている景勝地でもある。
 珠洲市大谷町からは国道は外浦から大谷峠を越えて内浦の珠洲市役所のある飯田町に至っているが、頭上のループ橋に魅力を感じて国道を進む。よくぞこんなに立派な道路を造ったものだ。ループ橋の通り心地を満喫し、トンネル手前でUターンし、大谷から狼煙への県道、別名「奥能登絶景海道」を進む。高台から木ノ浦海岸と日本海を眺めながらのドライブは実に快適だ。道の駅「狼煙」には午後2時40分に着いた。
 道の駅から禄剛崎灯台へは坂道を登ること5分とか、家内はしんどいので道の駅で待っているというが、5分ばかりの上りだから行こうと促す。以前は道は山道だったが、今はきれいにアスファルト舗装されている。家内が先に歩き出し、私が後を追う。坂は短いが、かなり急である。遅く歩き出した長男に抜かれるのは覚悟だが、家内に追いつけないばかりか、観光バスの団体さんにもどんどん抜かれる始末、息は上がらないものの、足が重い。これではとても山へ登るなど出来ない相談だ。漸く灯台のある広場に着いた。広場には「ここが日本の真ん中」という碑もある。ここは能登半島の最北端、ここでは海から昇る朝日と海に沈む夕陽が共に見られるとか、天気が良ければ立山や佐渡も見渡せるという。灯台へは以前は入られたが、今は無人で入れない。かれこれ 30 分ばかり居て道の駅へ戻った。
 道の駅から南下して 1.5km ばかり、下によしが浦温泉の「ランプの宿」を見下ろせるパーキングへ寄った。ここ一帯は能登双見という景勝地、突端は金剛崎という岬だが、この岬一帯を「聖域の岬」として開発し、陸からも海からもこの景勝の地を巡ることができるようにしてある。もちろん有料である。10 分ばかりいて、見附海岸へ向かう。
 県道大谷狼煙飯田線をさらに南下し、日本海側一帯の守護神とされる須須 (すず) 神社 (第十代崇神天皇の時代に創建されたとされる由緒ある神社) の前を通り、半島内浦の海岸線に沿って付けられた道路を走り、珠洲市中心の飯田町を通り抜け、見附島へ向かう。駐車場に車を停め、松林を抜けて海岸へ。見附島は珠洲のシンボルとも言える、一名軍艦島の異名のある高さ 30m ばかりの島、今はこの一帯は「えんむすびーち」と呼ばれるカップルに人気のスポットとか。少し南には恋路海岸という場所もある。観光客も沢山来ていた。ここへは弘法大師も訪れたという言われ書きがあり、近くには露天風呂「弘法の湯」もあるそうだ。しばらく散策して帰宅の途につく。飯田の町まで戻り、珠洲道路 (のとスターライン)を経て穴水へ、途中道の駅「能登空港」へ寄り道した。帰宅したのは午後7時少し前、走行キロ数は 350km だった。

残暑の能登へドライブ(その1)

 私の長男は昭和 41 年生まれの 49 歳、現在横浜に住んでいるが、今ではこちら石川県に住んでいた期間よりはあちらに住んでいる期間の方が長くなった。長男一家は娘2人がいる4人家族、長女は大学生、二女は高校生、子供が小さい頃は家族で帰郷していたが、長ずるにつれて、受験や部活動などで来られないことも度々である。今年も二女が受験とかで、長男のみの帰郷、彼は車を駆って帰って来る。それで家族を伴わないで帰郷した時には、近隣の地へ1日ドライブするのが常で、当初私は乗り気でなくて家内が付き合っていたが、昨年からは私も一緒に出掛けるようになった。これまで三方五湖や九頭竜湖などへ出掛けたようだが、昨年は私も一緒で氷見へ出掛けた。長男の今年の休暇は8月 19 〜 23 日、今年は 20 日に輪島・珠洲方面へ出掛けるようだと家内から伝言があった。このドライブはあくまでも長男の意向に沿ったものであって、それに私たちが付き合うという趣向だ。

(1)間垣の里大沢 (おおざわ) へ
 出発は朝8時、ところで車を動かすと画面に大きくバッテリー不良の警告表示、動いて暫くして警告表示は消えたが、長丁場なので念のためディーラーへ。前日横浜から長駆帰郷したのだから心配ないとは思ったものの、確たる根拠があるわけではない。でも点検の結果では特に異常はないとのことで、9時前には一路輪島へと出立した。道路は平日にもかかわらずかなりの渋滞、長男は金沢西 IC から森本 IC までは高速道を利用、こんな使い方もあるのだと感心する。IC を下りて津幡バイパスを通って「のと里山海道」の白尾 IC へ、天候は曇り、途中道の駅「高松」でトイレ休憩をして、その後は終点の穴水 IC までノンストップで走る。途中別所岳 SE 近くの下り線に設置されている、車が時速 70km で走ると奏でられるという連続テレビ小説「まれ」の主題歌のメロディーが聞こえてきたが、車のタイヤの音と相まって、斬新な思いつきには違いないが、今ひとつすっきりした感じではなかった。メロディーは1分間ばかり続いたろうか。
 穴水 IC で下りて県道を輪島へと北上する。以前は金沢と輪島間には七尾線が敷設されていたが、穴水ー輪島間は廃線になってしまった。でもこの「まれ」の人気がもう少し前だったならば存続されたろうにと思う。あの当時、沿線の住民は鉄道より自家用車やバスが便利との声が多かったものだから、致し方なかったろう。でも今のと鉄道では観光目的でお座敷列車を七尾ー穴水間で運行していて人気があるそうだが、七尾ー輪島間だったらもっと効果は大だったろうにと思う。旧輪島駅前を過ぎて中心部の河井町から河原田川に架かるテレビでお馴染みの新橋を渡り、間垣の里の大沢へ向かう。距離は 12km、山から外浦の海へ一気に落ちる山肌を縫うようにして道が付けられている。でもこの県道輪島浦上線、西保海岸に近づくと道路は1車線の箇所が多くなり、対向車があると交差が大変だ。幸い私たちは1車線の箇所での対向車との出会いはなく、無事大沢に着けた。町の入り口には 20 台近く停められる臨時の駐車場が設えてあって、平日ながら車が 10 台ばかり停まっていた。
 車から降りて県道に沿って歩く。右に西保海岸と漁港、左には間垣に囲まれた家々が道路に沿って続いている。テレビでお馴染みの風景だ。でも以前に来た時は、間垣の竹は古く色あせたものが多かったが、今見て新しく整備されているのは、この度のテレビロケの所為だと思う。間垣は距離にして 200m  ばかり続いている。民宿「おけさく」は一番手前にある一般民家で、中へは入られない。そして少し先には田中屋旅館という立派な宿があるが、ロケでは拠点になったろうが、普段はどんな人が投宿するのだろうか。そして案内の方からぜひ寄るようにと言われた大沢では最も高い建物という外浦 (そとら) 村役場を外から眺めた。またすぐ近くには大変立派な静浦神社が鎮座しているし、少し山手には真宗大谷派の霊高寺という寺もある。
 またここには西保公民館、西保郵便局、大沢駐在所があり、以前には西保小・中学校もあった。ここ大沢は昭和 29 年に輪島市と合併するまでは、近隣7村が合併してできた西保村の役場所在地でもあった。町の中央には谷坂川 (別名桶滝川) が流れ、上流1km には石川県の天然記念物・名勝の桶滝がある。背後には動坂山と烏ヶ山があり、西保海岸には大沢漁港がある。それにしても訪れて思うことは「素朴で静かな海の里」という感じ、一時の喧騒の時が過ぎれば、また元の静かな半農半漁の間垣の里に戻るのではなかろうか。聞けば、多い日には7百人を超える人が押し寄せたとか、さぞかし道路の渋滞は相当なものだったろう。

2015年8月10日月曜日

白山の三馬場めぐり(その3)

(承前)
3.長滝白山神社と天台宗白山長瀧寺  岐阜県郡上市白鳥町長滝
 午前 11 時頃に平泉寺を発つ。以前ここで名物のアイスクリームを皆が食していたのを思い出し、家内に言ったところ、ゲットしてきた。美味しいという。でも私は食べない。再び国道 157 号線に戻り南へ、ルートは九頭竜湖、油坂峠を経由して国道 156 号線を北上して長滝へ至る予定にしていた。ところで九頭竜川沿いの国道を 157 号線と思い込んでいたものだから、谷が狭まってきて初めてこの道は温見峠越えの道だと気付き、山に入る直前に迂回して 158 号線に戻った。大野から長滝へは 158 号線、次いで 156 号線が正解だ。道の駅九頭竜に着いたのは正午近く、でもここでの昼食はパスして先を急ぐ。石徹白への道をやり過ごし、九頭竜湖の右岸に付けられた道路を上流へと進み、やがて道路は湖岸を離れて油坂峠へ。峠の手前には白鳥西 IC へ向かう中部自動車縦貫道があるがここへは入らずに忠実に国道を辿る。トンネルを過ぎれば岐阜県、九十九折りの道を下ると、やがて国道 156 号線と合流する。ここから荘川までは国道 156 号線と国道 158 号線の併用区間である。合流してからは北へと進み、道路左手に長良川鉄道の白山長滝駅が見えて来ると、線路を挟んで目的地の長滝白山神社が見えて来る。
 広い駐車場の北側には、巨大な石の碑が立っていて、上部には横書きに「白山文化の里」、そしてその下には大きく「霊峰 白山への道」と揮毫されている。ここに車を停め、ここから表参道を進んで長滝白山神社・白山長瀧寺へと向かう。途中参道の両脇には、現存の三坊院や今はなき古の坊院跡があったことを示す標柱があちこちに見られる。そして参道から境内へ上がる広い石段の両側には銀杏の大木が植わっていて、小さい粒の実が一面に落ちていた。
 境内へ上がると、長滝白山神社の拝殿と白山長瀧寺の堂社が並ぶように建っていて、拝殿前には正安4年 (1302) に寄進されたという重要文化財の石燈籠がある。一角にある社務所に寄り、御朱印と牛王宝印を頂く。隣には龍宝殿があり、ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像 ( 中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩 )、その両脇にはやはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財である木造四天王立像 ( 多聞天、広目天、持国天、増長天の四像 ) が置かれている。
 ここ美濃馬場の白山中宮長滝寺は、平安時代の天長9年 (832) に他の二つの馬場、加賀馬場の白山中宮や越前馬場の平泉寺と並んで開かれ、長滝から石徹白の白山中居神社を経て白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。そして白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、平安から室町時代にかけての最盛期には、「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかしその後蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは薄れていった。そして明治維新の際に発せられた神仏分離令によって白山中宮長滝寺は解体され、長滝白山神社と白山長瀧寺に分離された。ところで明治 32 年 (1899) に近隣の家から出た火災によって、その大部分が焼失してしまった。現在ある神社本殿は大正8年 (1919) に、寺本堂は規模を小さくして昭和 11 年 (1936) に再建されたものである。
 美濃禅定道は美濃馬場から桧峠を越えて石徹白に入り、白山中居神社を経て谷を二つ渡り、今清水社があった大杉平 (石徹白の大杉) を経て神鳩 (かんばと)社 (現在ここには神鳩ノ宮避難小屋がある)に出る。一方ここまでは美濃馬場の裏手から山に上り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て神鳩社で一般禅定道と合流する修験道があった。禅定道はここから銚子ヶ峰、一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰を経て別山に至り、南竜ヶ馬場を経て室堂に至っていた。現在でも石徹白から別山を経て南竜ヶ馬場に至る道は石徹白道 (南縦走路) として、また南竜ヶ馬場から御前坂を登って室堂へ行くコースはトンビ岩コースとして現在も利用されていて、至る所に往年の禅定道の面影を見ることができる。
 今私の手元にある資料では、美濃馬場の白山中宮長滝寺の神仏習合時の垂迹神と本地仏を記した資料がない。でも現在ある長滝白山神社の社殿が三社あるということは、越前馬場の平泉寺と同じような形態であったろうと思われる。今一度訪れて確かめてみたい。
 こうして三馬場巡りは終わった。帰りに自宅への帰路をナビに入れたところ、最優先が高速自動車道路、白山スーパー林道 (現 白山白川郷ホワイトロード) 経由を希望しても白川郷 IC 経由でと、荘川 IC を過ぎるまで執拗に誘われた。健気としか言いようがない。帰宅したのは午後5時、走行キロ数は 300 km だった。


白山の三馬場めぐり(その2)

(承前)
2.平泉寺白山神社と天台宗霊王山平泉寺  福井県勝山市平泉寺町平泉寺
 白山比口羊神社を出て、鶴来山手バイパスから国道 157 号線に出て南下する。途中で道の駅「瀬女」へ寄ってから再び国道に戻り南下する。手取ダム堰堤近く、東二口第一隧道の一時通行止めになっていた崖崩れ現場は、現在は片側交互通行になっているが、一時は白山登山の基地市ノ瀬に入るのに、福井県勝山市を経由しなければならなかった。車は手取湖左岸のトンネル群を抜けて白峰へ、更に谷峠を越えて勝山市に入る。更に国道を進み、左に越前大仏が見えると程なく道路に標識があり、左折すると平泉寺白山神社に着いた。
 駐車場には大型観光バスが停まっていた。今日は日射しが強く、家内は日傘を持ってきたが、それでもアスファルト道路の照り返しは半端ではない。以前に波田野先生と訪れたのはもう随分昔なので、当時とは辺りの雰囲気は随分と変わっている。元あった広い駐車場の半分には、新しく白山平泉寺歴史探遊館「まほろば」が出来ていて、ここは国史跡である平泉寺旧境内の総合案内施設とのこと。勝山市が運営していて、入館は無料とのことだった。暑さを逃れて「まほろば」に入る。
 館内はエアコンが効いていて実に快適、映像やパネルで平泉寺の歴史や越前禅定道のこと、また平成元年 (1989) から始まった発掘調査で出土した品々の展示など、資料は実に豊富だ。開山は養老元年 (717) 、弟子と共に白山へ向かう泰澄は、この地の美しい泉 (境内にある御手洗池 ) の辺りで白山女神 (イザナミノミコト) から白山の頂上に来るよう告げられたという。その後登拝に成功した泰澄が、下山後にこの泉の辺りに構えた庵が後に平泉寺になったとかで、ここより白山室堂への道が越前禅定道である。
 白山平泉寺は白山御前峰を本社、白山大汝峰を越南知 (おおなんじ) 社、白山別山を別山社とし、これを白山三社といい、ここでは神仏習合が見られた。すなわち本社の垂迹神は伊◯◯尊 (イザナミノミコト)、本地仏は十一面観音菩薩、越南知社の垂迹神は大己貴尊 (オオナムチノミコト)、本地仏は阿弥陀如来、別山社の垂迹神は天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト)、本地仏は聖観音菩薩である。〔註〕ここでいう本地垂迹とは、仏・菩薩が衆生を救うためにその本身を仮に種々の姿に変えて現れることで、日本の神々も印度の仏・菩薩が仮に姿を表したものとして説かれる ( 維摩経序 )。こうして白山平泉寺は最盛期には 48 社、36 堂 6千坊、僧兵 約8千人の巨大な宗教都市であったという。しかし天正2年    (1574) には一向一揆の焼き討ちにより全山焼亡してしまった。後に一部再建されたものの、明治の神仏分離令によって、名称は平泉寺白山神社となり、祭神は垂迹神のみとなった。また廃寺となった天台宗霊応山平泉寺はその後村民らによって境内に復活されたとのことだ。
 バスツアーの方々は約1時間かけて境内を巡るという。どこからどこまでが境内なのかが分からない位、とにかく広大である。現在は南谷三千六百坊跡、北谷二千四百坊跡の発掘が進められているという。そして一部復元された門や土塀、それに中世の石畳道、大門や堂宇や道場の跡、平泉寺焼亡の折にも焼けずに残ったという大杉などが見られるという。しかしこれらをまだ私は目にしたことはない。でも今日は牛王印巡りということで、またの機会にゆっくり訪れようと思う。ところで牛王印は社務所で頂くのだが、その場所が分からず、改めて探遊館で教えてもらった。奥にある拝殿への参道を辿り、精進坂の石段を上り、一の鳥居をくぐると左手にあるとか。進むと標柱があり、門をくぐって少し歩むと古ぼけた社務所があった。人が居るような気配はなく、牛王印とスタンプ台が式台に置いているのみ。裏の旧玄成院庭園を拝観したい人は拝観料を納めて鑑賞して下さいとある。北陸最古の庭園であると。
 以前に来た時は参道を更に奥まで進み、二の鳥居をくぐり拝殿に参拝し、さらに奥にある三の宮まで上がった。これより上は越前禅定道になっていて、禅定道は平泉寺の背後にある三頭山、法恩寺山、経ヶ岳を経て、小原峠から三ツ谷へ下り、一ノ瀬に達し、ここから旧道尾根 (現白山禅定道 )に上って、更に現在の観光新道を経て室堂に達していた。ただ法恩寺山から小原峠までの道筋は未だもって確定されていない。でもこのように現在の市ノ瀬から先の旧道は白山禅定道として復活し、真砂坂分岐より上は観光新道として利用されている。翻って現在白山への登山には、旧越前禅定道が最もよく利用されていると言っても過言ではない。ただ平泉寺から市ノ瀬に至るまでの道は特定されていないこともあって、この区間は一部がハイカーの対象となっているに過ぎない。ただ福井県では最もよく登られるという赤兎山の登山で、最もよく利用されるのがこの小原峠である。

白山の三馬場めぐり(その1)

 6月の下旬、日は定かではないが、地元紙の北國新聞の社会面に、平成 29 年に白山開山 1300 年を迎えるに当たって、白山・泰澄大師ゆかりの地をめぐる旅として「白山の三馬場めぐり」が企画され、加賀の白山比口羊神社、越前の平泉寺白山神社、美濃の長滝白山神社を回り、三カ所で牛王宝印を集めると、記念品を贈呈するとのことだった。地元の白山さんにはしょっちゅう、越前の平泉寺へは十回近く、美濃の長滝白山神社にも過去2回訪れたことがある。この三馬場は泰澄大師による白山開山後、白山登拝の禅定道の起点ともなった場所であり、これら三禅定道は今でもその一部や全部が白山への登山道として現存している。
 それで早速6月 28 日の日曜日に白山さんに出向き、社務所で新聞でこの企画を見たが、そのスタンプラリーのパンフレットを頂けないかと頼んだところ、この企画は7月からなので、7月になってからでないと渡せないとのことだった。そしてこのパンフレットは7月になれば道の駅でも貰えますとのこと。7月1日になり早速道の駅「しらやまさん」へ出向き、スタンプラリーのパンフレットを貰った。でも置いてある場所はすぐには分からず、案内の人に聞いて初めてその場所が分かったような目立たない所に置いてあった。このパンフレットは立派な出来で、A5版 12 頁のカラー刷り、しかも A3版の折りたたみ案内地図まで付いている優れものだった。
 このラリーの有効期間は、7月と8月の2ヵ月間のみ、この間家内と一緒にと思ってはみたものの、家内はまだ市内の医院に勤務の身、日曜日しか空きがなく、彼女がフリーでも私に用事があったりで、ようやく都合がついたのが8月2日の日曜日、でも私は2,3日前から原因不明の左手手首の痛みと腫れ、車の運転が危ぶまれたが、いざとなったら家内が運転するとのことで出掛けることにした。三馬場巡りへの出発である。

1.白山比口羊神社(旧国弊中社) 石川県白山市三宮町
 家を午前8時に出る。旧鶴来町の山側バイパス ( 県道 103 号線 ) を通って神社の駐車場へ。昨日は別の用事で来ていたが、1日とあって駐車場はほぼ埋まっていた。これは毎月1日には早朝4時半から「おついたちまつり」の特別祈祷があるからで、月の初めにお祓いを受ける方々が参集する。それにしてもこんなにいるのだなあと感心した。でも今日は駐車している車はまばらである。この大きな駐車場ができてからは、車で参拝する人はもっぱらこちらからの利用が通常で、表参道から参拝する人はごく一部でしかない。表参道にも駐車場はあるがずっと狭い。ずっと以前にまだ北陸鉄道の加賀一宮駅があった頃は、ここから表参道を上がって参拝したものだ。
 駐車場から北の鳥居をくぐって北参道から境内へ、手水舍から一旦表参道へ回り、神門から再び境内へ、お参りしてから社務所で牛王宝印を頂く。また御朱印も頂いた。牛王宝印とは、神仏を勧請した守り札として社寺から出されたもので、古くは延命長寿や家内安全の御守とされていたとある。印は「白山権現牛王寳印」と読める。
 パンフレットを見ると、創建は紀元前 91 年 (崇神天皇7年 )。白山を神体山とし、白山比口羊大神 ( 菊理媛尊=ククリヒメノミコト)、伊◯諾尊 (イザナギノミコト)、伊◯◯尊 (イザナミノミコト ) を御祭神とするとある。また全国にある白山神を祀る三千社以上ある白山神社の総本宮であり、神社信仰の神社数としては全国では第8位である。因みに最も多いのは八幡信仰、次いで伊勢信仰、天神信仰、稲荷信仰と続く。
 ここで疑問なのは、白山を開山した泰澄大師は当時の加賀の国には足を踏み入れてはいないのではないかとのこと、従って神仏習合の時代にあっても寺は存在しなかったようだし、明治になって廃仏毀釈になった際にも、白山本宮のあった加賀馬場は何の影響も受けず、却ってこれを機に白山は白山比口羊神社の所領となった。そしてこの折白山に安置されていた多くの仏像が壊されたりしたが、それを危惧した村人達が山から下ろした仏像が白峰の林西寺の白山本地堂に安置されているが、これは加賀馬場とか、白山信仰が全国に広まった後に栄えた加賀禅定道とかとは縁がない。加賀禅定道とは、加賀馬場を起点として、中宮から尾添尾根を経て白山室堂に至る道で、現在は白山一里野温泉と白山室堂との間で復元されている。
 ここに小一時間程いて、次の越前平泉寺へと向かった。