先の「植物由来の紋所を探る」に引き続いて、田中豊子さんの「不思議を訪ねる」を参考にして、動物由来の紋所を探った。田中さんは動物のジャンルを、動物,鳥,魚、昆虫に分けて記載されたが、ここでは動物と一括りにして五十音順に記載した。前回と同じく、松村朗監修の「大辞泉」から紋所の名と記載のある動物を抽出し、その動物の和名と漢字名と簡単な説明、〔1〕紋所の由来、〔2〕代表的な紋所の名称 を記載した。
● あげはちょう 揚羽蝶 :アゲハチョウ科の蝶(昆虫)の総称
[1] 揚羽蝶の側面を図案化したもの。 [2] 揚羽の蝶、丸に揚羽、対揚羽蝶など。
● いせえび 伊勢海老 :イセエビ科の甲殻類の総称
[1] 伊勢海老全体を図案化したもの。[2] 伊勢海老の丸など。
● いたやがい 板屋貝(半辺蚶) : イタヤガイ科の二枚貝の総称
[1] 貝を図案化したもの。 [2] 一半辺蚶、二半辺蚶、三半辺蚶など。
● うさぎ 兎 : ウサギ科の哺乳類の総称
[1] 兎を図案化したもの。 [2] 真向き兎(1)、向かい兎(2) など。
● うま 馬 ; ウマ科の哺乳類の総称
[1] 馬を図案化したもの。 [2] 左かけ馬、右かけ馬、相馬(二杭)繋ぎ馬など。
● おしどり 鴛鴦 : カモ科の鳥
[1] 鴛鴦を図案化したもの。 [2] 番い鴛鴦の丸など。
● かりがね 雁金(雁の別名): カモ科の鳥のうち、ハクチョウ類を除いた大型のものの総称
[1] 雁を図案化したもので、数が多い。
[2] 雁金、結び雁金、飛び雁金(以上一羽)、雁金菱(二羽)、亀甲雁金、三つ盛り雁金(以上三羽)。
● かめ 龜 : カメ目の爬虫類の総称
[1] 龜を図案化したもの。 [2] 龜の字、光琳龜、登り龜、龜の丸、親子龜など。
● しか 鹿 : シカ科の哺乳類
[1] 鹿の角の形を図案化したもの。 [2] 抱き角、違い角など。
● たか 鷹 : タカ科の鳥のうち、小型〜中型のものの総称
[1] 鷹の羽(たかのは)とその斑紋をかたどったもので、数が多い。
[2] 並び鷹羽、久世鷹羽(以上並び)、違い鷹羽、白川鷹羽(以上違い)、芸州鷹羽、浅野鷹羽(以上丸に違 い)。
● ちどり 千鳥 : ちどり科の鳥の総称
[1] 千鳥を図案化したもの。 [2] 波に千鳥、波輪に陰千鳥など。
● ちょう 蝶 : アゲハチョウ上科とセセリチョウ上科に属する蝶(昆虫)の総称
[1] 蝶を図案化したもの。 [2] 鎧蝶、向い蝶、胡蝶、蝶菱、蝶花形、源氏蝶など。
● つばめ 燕 : ツバメ科の鳥の総称
[1] 燕を図案化したもの。 [2] 対飛び燕など。
● つる 鶴 : ツル科の鳥の総称
[1] 鶴の形を様々な形に図案化したもので、数が多い。
[2] 鶴の丸、諏訪鶴、南部鶴丸、光琳舞鶴、三つ鱗鶴、鶴菱、折り鶴など。
● とんぼ 蜻蛉 : トンボ目の昆虫の総称
[1] 蜻蛉を図案化したもの。 [2] 対蜻蛉、三蜻蛉など。
● はと 鳩 : ハト科の鳥の総称
[1] 鳩を図案化したもの。 [2] 対鳩、向い鳩など。
● はまぐり 蛤 : マルスダレガイ科の二枚貝
[1] 蛤を図案化したもの。 [2] 一蛤、二蛤、三蛤、四蛤、五蛤、蝶蛤など。
● ほうおう 鳳凰 : 古代中国で、麟、龜、竜と共に四瑞として尊ばれた想像上の霊鳥。
体は前は麟、後は鹿、首は蛇、尾は魚、背は龜、顎は燕、嘴は鶏に似ていると言われる。
[1] 鳳凰を図案化したもの。 [2] 鳳凰の丸、桐に鳳凰など。
● ほらがい 法螺貝 : フジツガイ科の巻貝
[1] 法螺貝を図案化したもの。 [2] 法螺貝、対法螺など。
● りゅう 竜 : 想像上の動物。中国では、凰、龜、麟と共に四瑞として尊ばれる。
体は大きな蛇に似ていて、四本の足、二本の角、耳、髭を持ち、全身は鱗に被われている。
多くは水中に住み、天に昇り雲を起こして雨を降らすという。
[1] 竜を図案化したもの。 [2] 竜丸、昇降竜、雨竜、雨竜菱など。
2013年7月31日水曜日
2013年7月29日月曜日
信州の秘湯:角間温泉と七味温泉(その2)
真田の郷を離れて、上田市街地にある上田城に向かう。真田氏歴史館ではゆっくりと過ごしたので、上田城址公園の駐車場に着いたのはやがて午後1時近く、本丸堀の橋を渡り、東虎口櫓門から城址に入る。真っ直ぐ行き真田神社に参拝し、横を抜け、真田井戸の脇を抜け、西櫓に達する。この櫓のみが当時から残っている本丸隅櫓、中へは入られない。ここで引き返し、本丸跡を逍遙し、再び東虎口櫓門に戻る。虎口とは城の出入り口のことで、この本丸には、かつては櫓門2基、隅櫓7基があったが、明治になり城は民間に売られ、その後篤志家により買い戻され、寄贈された経緯がある。その後南櫓と北櫓が移築復元され、城門も平成6年に復元されたとのこと。今回は南北両櫓と城門へ入ることが出来た.本丸隅櫓は寒冷地によく見られる、壁の下部が板張りの「下見板」になっている。また窓は突き上げ戸の「武者窓」、また射撃用の小窓「矢狭間・鉄砲狭間」も設けられている。
本丸跡を出て、二の丸跡に向かう。ここには上田市立博物館がある。ここには上田城の城主であった真田氏2代40年間、仙石氏3代85年間、松平氏7代166年間の資料が保存されている。この城がつとに有名になったのは、この城を築城して間もなくの天正13年に、武田家が滅亡して、徳川家康から城を明け渡すようにと言われノーと返事したことで家康が7千の兵で攻撃したのを撃退したこと、また慶長5年の関ヶ原の戦いの折、中山道を進んだ徳川秀忠軍3万8千人を釘付けにしたことによる。天守閣もないろくに石垣もない平城での奮戦、ほかに例がないといわれる。
城を出て、今宵の宿へは一般道で行くことにして、途中千曲市稲荷山にある「つる忠」でそばを食べることにする。電話すると今日は営業の由、ナビに従い国道18号線を北上し、千曲川を渡ってかの店へ、時間は閉店時間の午後3時少し前、滑り込んだという感じだった。客は3組、間もなく暖簾は中へ取り込まれた。家内は「ざるそば」、私は「鴨せいろ」とお酒を注文した。お酒は升にコップ、久しぶりだ。主の市川富士子さんは所用でおいでないとか、もう80歳は出ておいでるのではなかろうか。そばはまずまず、家内は龜屋のそばには及ばないという。でも探蕎会では訪れられなかっただけに,私は満足だった。
ここからも一般道経由で高山村へ、家内の運転で、須坂市を経由して松川渓谷へ、天気も良く快適だ。八滝や雷滝の駐車場や日帰り温泉の駐車場は混んでいる。やがて満山荘へ上がる道と分かれ、七味温泉へと松川まで下り、松川を渡るとそこに今宵の宿がある。この温泉にはホテル渓山荘のみと思っていたが、ほかに温泉旅館1軒、日帰り温泉が1軒あった。着いたのは午後4時頃、チェックインしていると、3年前にできた露天風呂「恵の湯」へぜひ入って下さいと言われる。宿からゆっくり歩いても5分ばかりとか、出かけることにする。部屋は2階の「飯綱」、この階の部屋は北信五岳、戸隠、黒姫、妙高、斑尾など。浴衣に着替えて「恵の湯」へ、近くの駐車場には沢山の車、ここは日帰り温泉施設でもあって、9:30〜17:30の営業とか。宿の親子2代で手作りで仕上げた自然石を配した実に大きな露天の岩風呂、男湯・女湯のほかに貸切りの湯もあるとかである。お湯は乳白色、肌触りがよい。資料によると、泉質は単純硫黄泉、源泉かけ流し、源泉の温度は62.5℃、湧出量は毎分383ℓとある。
食事は午後6時半、時間になって囲炉裏のある部屋へ案内された。長方形の大きな囲炉裏には5人はゆっくり吸われそうだ。串を打った岩魚が焼かれ、網にはエリンギや獅子唐辛子や万願寺唐黍が乗っている。囲炉裏の縁は幅広で沢山の料理が載せられる。先付けは蕨のお浸し、前菜は川海老の唐揚げや小鯛の手鞠寿司など5品、造りは馬刺し、煮物は冬瓜と蓮芋の餡掛け、酢の物は地の夏野菜のおろし酢和え、蒸し物は銀杏・百合根・三つ葉の豆乳蒸しにフカヒレ餡掛け。取り敢えずは食前酒の果実酒で乾杯する。家内はビール、私は渓流なる生酒をもらう。この酒は須坂の酒、探蕎会でも行って求めたことがあり、さらりとした飲み口の良い酒、4合も頂戴した。次いで天ぷら、茸2種、根曲がり竹、ベビーコーン、南瓜と植物ばかり、抹茶塩で頂く。食事も半ばに、岩魚の塩焼きが串付きで卓に、骨まで食べられますと言うが、大きいのでそうはゆかない。茸鍋に火が入る。こんなには食べられそうにない。後で信州牛のステーキが出ると言うから、少し腹に余裕を持たせないとと思いながら食べる。囲炉裏の野菜も焼き上がったが、腹に入りそうにない。そうこうするうちに件のステーキが来た。焼きはミディアムで良いのだが、小さく切ってあり、汁がかかっていて、口にするとグンナリした感じ、何とも頂けなかった。終盤になり、五穀米と吸物と香の物、そしてデザートのプリン、満腹になって食事を終えた。
翌朝5時に内湯へ行く。源泉かけ流し、露天の岩風呂も風情がある。ゆっくり浸る。包み込まれるような優しい湯である。上がってカウンターで志賀高原への道路状況を訊く。道路の拡張工事はされているが、通行は可能とのこと、今日は横手山へ行こう。家内に話すと、この前のように歩くのはお断りとのこと、合点した。朝食は8時、着替えて出かける。食事は個室、相変わらず多め、ご飯は軽く一膳だが、副食で満腹になる。家内は今日はハッスルしていて、山道とトンネルの多い高速道路以外は私が運転すると言う。彼女は私よりはるかに運転歴が長い。そうしよう。
宿を出立したのは午前9時20分、満山荘の前を通り、山田牧場を抜け、笠ヶ岳(2075m)を回り込むようにして道路は続く。途中交互通行があり、10分ばかり待機した。志賀草津道路の国道292号線に合するまで14km、対向車を心配したが、2台のみでうまく交わせた。平床大噴泉、熊の湯、硯川を経て「のぞき」に着いたのは午前10時10分、ここから横手山スカイレーターとスカイペアリフトを利用して横手山(2305m)へ、頂上の展望台からは西方向に、遠く北アルプス連峰とその手前に北信五岳、近くには通ってきた笠ヶ岳が見える。南に目を転ずると、晴れていれば遠くに富士山を望めるのだが、今日は生憎雲が湧いていて見えていない。私は一度だけ正月にスキーに来ていて見たことがあるが、見えると何故か心がときめく。付近を散策する。ハクサンチドリの赤紫、モミジカラマツの白、ミヤマキンポウゲの黄、アオモリトドマツの青紫の毬果が目を楽しませてくれる。凡そ1時間ばかり滞在して車へ戻る。ペアリフトに乗っているときに写された写真が売られていて求めた。これも思い出だ。
車で山を下り、道の駅「北信州やまのうち」で小憩する。ここからは家内の運転で中野ICから高速道に入り名立谷浜SAまで、次いで私が有磯海SAまで、そして再び自宅までは家内の運転、家には午後4時40分に着いた。走行キロ数は 982kmだった。
本丸跡を出て、二の丸跡に向かう。ここには上田市立博物館がある。ここには上田城の城主であった真田氏2代40年間、仙石氏3代85年間、松平氏7代166年間の資料が保存されている。この城がつとに有名になったのは、この城を築城して間もなくの天正13年に、武田家が滅亡して、徳川家康から城を明け渡すようにと言われノーと返事したことで家康が7千の兵で攻撃したのを撃退したこと、また慶長5年の関ヶ原の戦いの折、中山道を進んだ徳川秀忠軍3万8千人を釘付けにしたことによる。天守閣もないろくに石垣もない平城での奮戦、ほかに例がないといわれる。
城を出て、今宵の宿へは一般道で行くことにして、途中千曲市稲荷山にある「つる忠」でそばを食べることにする。電話すると今日は営業の由、ナビに従い国道18号線を北上し、千曲川を渡ってかの店へ、時間は閉店時間の午後3時少し前、滑り込んだという感じだった。客は3組、間もなく暖簾は中へ取り込まれた。家内は「ざるそば」、私は「鴨せいろ」とお酒を注文した。お酒は升にコップ、久しぶりだ。主の市川富士子さんは所用でおいでないとか、もう80歳は出ておいでるのではなかろうか。そばはまずまず、家内は龜屋のそばには及ばないという。でも探蕎会では訪れられなかっただけに,私は満足だった。
ここからも一般道経由で高山村へ、家内の運転で、須坂市を経由して松川渓谷へ、天気も良く快適だ。八滝や雷滝の駐車場や日帰り温泉の駐車場は混んでいる。やがて満山荘へ上がる道と分かれ、七味温泉へと松川まで下り、松川を渡るとそこに今宵の宿がある。この温泉にはホテル渓山荘のみと思っていたが、ほかに温泉旅館1軒、日帰り温泉が1軒あった。着いたのは午後4時頃、チェックインしていると、3年前にできた露天風呂「恵の湯」へぜひ入って下さいと言われる。宿からゆっくり歩いても5分ばかりとか、出かけることにする。部屋は2階の「飯綱」、この階の部屋は北信五岳、戸隠、黒姫、妙高、斑尾など。浴衣に着替えて「恵の湯」へ、近くの駐車場には沢山の車、ここは日帰り温泉施設でもあって、9:30〜17:30の営業とか。宿の親子2代で手作りで仕上げた自然石を配した実に大きな露天の岩風呂、男湯・女湯のほかに貸切りの湯もあるとかである。お湯は乳白色、肌触りがよい。資料によると、泉質は単純硫黄泉、源泉かけ流し、源泉の温度は62.5℃、湧出量は毎分383ℓとある。
食事は午後6時半、時間になって囲炉裏のある部屋へ案内された。長方形の大きな囲炉裏には5人はゆっくり吸われそうだ。串を打った岩魚が焼かれ、網にはエリンギや獅子唐辛子や万願寺唐黍が乗っている。囲炉裏の縁は幅広で沢山の料理が載せられる。先付けは蕨のお浸し、前菜は川海老の唐揚げや小鯛の手鞠寿司など5品、造りは馬刺し、煮物は冬瓜と蓮芋の餡掛け、酢の物は地の夏野菜のおろし酢和え、蒸し物は銀杏・百合根・三つ葉の豆乳蒸しにフカヒレ餡掛け。取り敢えずは食前酒の果実酒で乾杯する。家内はビール、私は渓流なる生酒をもらう。この酒は須坂の酒、探蕎会でも行って求めたことがあり、さらりとした飲み口の良い酒、4合も頂戴した。次いで天ぷら、茸2種、根曲がり竹、ベビーコーン、南瓜と植物ばかり、抹茶塩で頂く。食事も半ばに、岩魚の塩焼きが串付きで卓に、骨まで食べられますと言うが、大きいのでそうはゆかない。茸鍋に火が入る。こんなには食べられそうにない。後で信州牛のステーキが出ると言うから、少し腹に余裕を持たせないとと思いながら食べる。囲炉裏の野菜も焼き上がったが、腹に入りそうにない。そうこうするうちに件のステーキが来た。焼きはミディアムで良いのだが、小さく切ってあり、汁がかかっていて、口にするとグンナリした感じ、何とも頂けなかった。終盤になり、五穀米と吸物と香の物、そしてデザートのプリン、満腹になって食事を終えた。
翌朝5時に内湯へ行く。源泉かけ流し、露天の岩風呂も風情がある。ゆっくり浸る。包み込まれるような優しい湯である。上がってカウンターで志賀高原への道路状況を訊く。道路の拡張工事はされているが、通行は可能とのこと、今日は横手山へ行こう。家内に話すと、この前のように歩くのはお断りとのこと、合点した。朝食は8時、着替えて出かける。食事は個室、相変わらず多め、ご飯は軽く一膳だが、副食で満腹になる。家内は今日はハッスルしていて、山道とトンネルの多い高速道路以外は私が運転すると言う。彼女は私よりはるかに運転歴が長い。そうしよう。
宿を出立したのは午前9時20分、満山荘の前を通り、山田牧場を抜け、笠ヶ岳(2075m)を回り込むようにして道路は続く。途中交互通行があり、10分ばかり待機した。志賀草津道路の国道292号線に合するまで14km、対向車を心配したが、2台のみでうまく交わせた。平床大噴泉、熊の湯、硯川を経て「のぞき」に着いたのは午前10時10分、ここから横手山スカイレーターとスカイペアリフトを利用して横手山(2305m)へ、頂上の展望台からは西方向に、遠く北アルプス連峰とその手前に北信五岳、近くには通ってきた笠ヶ岳が見える。南に目を転ずると、晴れていれば遠くに富士山を望めるのだが、今日は生憎雲が湧いていて見えていない。私は一度だけ正月にスキーに来ていて見たことがあるが、見えると何故か心がときめく。付近を散策する。ハクサンチドリの赤紫、モミジカラマツの白、ミヤマキンポウゲの黄、アオモリトドマツの青紫の毬果が目を楽しませてくれる。凡そ1時間ばかり滞在して車へ戻る。ペアリフトに乗っているときに写された写真が売られていて求めた。これも思い出だ。
車で山を下り、道の駅「北信州やまのうち」で小憩する。ここからは家内の運転で中野ICから高速道に入り名立谷浜SAまで、次いで私が有磯海SAまで、そして再び自宅までは家内の運転、家には午後4時40分に着いた。走行キロ数は 982kmだった。
信州の秘湯:角間温泉と七味温泉(その1)
4月のとある日、家内から7月14日(日)と15日(海の日・7月の第3月曜日)の連休にもう1日年休をとって3日間、信州の温泉にでも行かないかと提案があった。私は毎日サンデーなので問題はなく、早速手配した。私が選んだ候補は、上田市の奥の真田地区角間渓谷にある角間温泉の岩屋館と、かたや高山村の松川渓谷にある七味温泉渓山亭である。2軒とも「日本秘湯を守る会」の会員宿で、申込みは3ヵ月前ということもあって、すんなり予約ができた。宿泊料金はいずれの宿も16〜24千円である。それで初日は角間温泉に、2日目は七味温泉に投宿することにした。
7月14日(日)朝、突然の客人があり、家を出たのは午前10時近くになった。森本ICで高速道に入り、有磯海、名立谷浜、妙高、坂城の各SAやPAで休憩しながら、上田菅平ICで高速道を下りた。時間は午後2時半近く、昼食に上田の刀屋でそばでもと思ったが、生憎と休み、宿のチェックインタイムは午後3時なので、そのまま宿へ向かうことに。国道144号線を北上し、真田交差点を右折し角間渓谷に入り、山道を6kmばかり進むと、真田家の隠し湯と言われる角間温泉岩屋館に着く。先着が1組、宿の前の駐車場には8台停められるスペースがある。周りは岩盤に囲まれた渓谷の猫の額ほどの土地に建つ一軒家、入り口は古ぼけた隠れ家風、でも奥には鉄筋の建物も見える。
案内されたのは、鉄筋の建物を通り抜け、斜面に沿って付けられた屋根のある階段を上って行き着いた最上部の帰鳥庵という離れ、案内してくれた女将によると、ここはこの宿では最もとびきりの部屋とか、玄関から部屋へ上がると、内装も調度も素晴らしいが古めかしい趣きの部屋、でもあまり使われていないような印象を受ける。離れは階段の途中にもう一つあり、渓勝庵という。案内では全体で18室あるとのことだ。
階段を更に10段ばかり上がると、暖簾の向こうに瀟洒な露天風呂がある。お湯は2槽あり、大きな石で組まれた透明で湯温がやや高い湯槽とやや小さく木枠で組まれた茶褐色で温めの湯槽とがある。泉質は前者がナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉、後者は含鉄・炭酸水素塩泉で、後者の源泉は透明なのだが、空気に触れると酸化されて鉄錆色になるとかで、前者よりは温度が低いとかだった。早速入りにいったが、すでに2組の夫婦が入浴していた。ここは原則として混浴だが、女性のみの入浴も1時間ずつ2回設けられている。ところで入浴できるのは日中のみ、夜間は覆いがかけられ、入浴はできない。周りは鬱蒼とした樹々に囲まれ、渓谷や岩峰が眺められる素晴らしいスポットになっている。
2組の夫婦は温い茶色の湯に入っているが、のぼせることもなく、長い間浸かっておいでである。一方私の方は温度が高く、10分も浸かっているとのぼせそうになる。それでそこそこに退散する。離れは鍵がかかったまま、家内は内湯からまだ上がって来ていないので、階段を下り、新館を抜け、本館のフロントまで行き、スペアキーをもらう。この頃にはお客はぞくぞく、案内は女将のみなので、てんてこ舞い。ビールの追加をお願いしたが、とうとう夕食まで届かなかった。漸く家内も戻って、2本しかないビールを分け合って飲む。私は仕方なく持参の神の河で喉を潤す。客への気配りが今一である。
夕食は本館1階の個室、座机にはもう既に八品が並べられている。お品書きは付いていないので、献立の詳細は記すことはできないが、中々豪華である。飲み物は家内はアサヒビール、私は地の冷酒「本泉菊」を貰う。先付け、前菜5品目、瓜の漬物、煮物、蒸し物、ジュンサイの酢の物、鮎の塩焼き、鯉の唐揚げに続いて、順に茄子の田楽、岩魚の造り、蓼科牛と菅平の野菜のすき焼き、海老と地元野菜の天ぷら、もり蕎麦、五穀米とお汁、デザートに甘柑と桃、中でも牛肉と岩魚は絶品だった。
満腹になり、部屋へ戻って寛ぐ。ここは山奥とかで、テレビはBSしか見られない。早々に就寝する。夜は寒く、足袋を履かねばならなかった。家内はいつも朝までに2回は小用に起きるのに、この日は朝までグッスリ、温泉の効能の素晴らしさに驚嘆した。朝5時に、私は内湯へ行く。まだ誰もいない。やはり湯槽は二つあって、茶色の湯は温く、透明な方は熱い。湯冷ましに外を散歩する。渓谷の右岸には豪壮な岸壁が連なっている。谷沿いに歩き、ぐるっと回って駐車場へ、都合8台の車は、東京、横浜、名古屋、大阪、石川からの車、地元の車はいなかった。
離れへ戻り、午前7時半の露天風呂の開湯時間を見計らって、すぐ上にある風呂へ行くと、何と8人ばかりの若い女の子が既に入っているではないか。いくら混浴可とはいっても、これには暖簾から顔を出しただけで、一旦離れへ戻った。食事は朝8時半、8時まで待ち、上へ行くと、まだ2人が入っていたが、入ることに。私が湯に入ろうとすると、彼女らは湯槽から上がった。すれ違ったときに元気な朝の挨拶、清々しかった。彼女らが浴衣を着てカメラを構えて、私の入浴シーンを写したいと、どうぞと言った。今朝の女の内湯からは岩場が間近に見えるので入られたらと話したが、後で入られたようだった。
翌15日朝の朝食は二階とか、皆さんも二階なので彼女たちに会えるのではと楽しみにしていたが、私たち離れの二組はダイニングルーム隣りの特別ルームだった。今朝も15品目、これはとても平らげられない。ご飯は軽く一杯、なます、紅白、きんぴら、海苔佃煮、長芋おろし、イクラ大根おろし和え、紅葉子、梅干し、紅鱒甘露煮、卵巻き、豆腐、サラダ、牛乳、果物ジュース、西瓜と林檎、そしてお汁。本当に満腹になった。
午前10時少し前に清算をして宿を後にする。今日の予定は真田の里を巡り、上田城と記念館を見てから七味温泉へ入ることに。始めに真田家の菩提寺でもある長谷寺へ。ここは真田幸村(信繁)の父の昌幸や祖父母の幸隆夫妻の墓がある。境内には沢山のシダレザクラが植わっていて、春の満開時にはさぞや見事だろうと思われる。お参りを済ませて、次に真田氏歴史館へ向かう。長谷寺からは遠くはないものの、一旦国道144号線まで出たので、大回りになった。駐車場には十数台の車、人気があるようだ。建物はそんなに大きくはないが、ここには真田三代の資料がぎっしりと詰まっている。中でも天正13年(1585)に豊臣秀吉が真田昌幸に宛てた書状や大阪夏の陣之屏風(複製)、NHK時代劇「真田太平記」で着用された真田親子の鎧・兜などはさすがに圧巻である。そしてこの日は休日、真田の赤い甲冑を着けた兄さんが、真田父子の二度にわたる上田城での攻防を、自製の絵巻物を使って講談風に語っていたが、中々堂に入っていて、つい終わりまで聞いてしまった。
7月14日(日)朝、突然の客人があり、家を出たのは午前10時近くになった。森本ICで高速道に入り、有磯海、名立谷浜、妙高、坂城の各SAやPAで休憩しながら、上田菅平ICで高速道を下りた。時間は午後2時半近く、昼食に上田の刀屋でそばでもと思ったが、生憎と休み、宿のチェックインタイムは午後3時なので、そのまま宿へ向かうことに。国道144号線を北上し、真田交差点を右折し角間渓谷に入り、山道を6kmばかり進むと、真田家の隠し湯と言われる角間温泉岩屋館に着く。先着が1組、宿の前の駐車場には8台停められるスペースがある。周りは岩盤に囲まれた渓谷の猫の額ほどの土地に建つ一軒家、入り口は古ぼけた隠れ家風、でも奥には鉄筋の建物も見える。
案内されたのは、鉄筋の建物を通り抜け、斜面に沿って付けられた屋根のある階段を上って行き着いた最上部の帰鳥庵という離れ、案内してくれた女将によると、ここはこの宿では最もとびきりの部屋とか、玄関から部屋へ上がると、内装も調度も素晴らしいが古めかしい趣きの部屋、でもあまり使われていないような印象を受ける。離れは階段の途中にもう一つあり、渓勝庵という。案内では全体で18室あるとのことだ。
階段を更に10段ばかり上がると、暖簾の向こうに瀟洒な露天風呂がある。お湯は2槽あり、大きな石で組まれた透明で湯温がやや高い湯槽とやや小さく木枠で組まれた茶褐色で温めの湯槽とがある。泉質は前者がナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉、後者は含鉄・炭酸水素塩泉で、後者の源泉は透明なのだが、空気に触れると酸化されて鉄錆色になるとかで、前者よりは温度が低いとかだった。早速入りにいったが、すでに2組の夫婦が入浴していた。ここは原則として混浴だが、女性のみの入浴も1時間ずつ2回設けられている。ところで入浴できるのは日中のみ、夜間は覆いがかけられ、入浴はできない。周りは鬱蒼とした樹々に囲まれ、渓谷や岩峰が眺められる素晴らしいスポットになっている。
2組の夫婦は温い茶色の湯に入っているが、のぼせることもなく、長い間浸かっておいでである。一方私の方は温度が高く、10分も浸かっているとのぼせそうになる。それでそこそこに退散する。離れは鍵がかかったまま、家内は内湯からまだ上がって来ていないので、階段を下り、新館を抜け、本館のフロントまで行き、スペアキーをもらう。この頃にはお客はぞくぞく、案内は女将のみなので、てんてこ舞い。ビールの追加をお願いしたが、とうとう夕食まで届かなかった。漸く家内も戻って、2本しかないビールを分け合って飲む。私は仕方なく持参の神の河で喉を潤す。客への気配りが今一である。
夕食は本館1階の個室、座机にはもう既に八品が並べられている。お品書きは付いていないので、献立の詳細は記すことはできないが、中々豪華である。飲み物は家内はアサヒビール、私は地の冷酒「本泉菊」を貰う。先付け、前菜5品目、瓜の漬物、煮物、蒸し物、ジュンサイの酢の物、鮎の塩焼き、鯉の唐揚げに続いて、順に茄子の田楽、岩魚の造り、蓼科牛と菅平の野菜のすき焼き、海老と地元野菜の天ぷら、もり蕎麦、五穀米とお汁、デザートに甘柑と桃、中でも牛肉と岩魚は絶品だった。
満腹になり、部屋へ戻って寛ぐ。ここは山奥とかで、テレビはBSしか見られない。早々に就寝する。夜は寒く、足袋を履かねばならなかった。家内はいつも朝までに2回は小用に起きるのに、この日は朝までグッスリ、温泉の効能の素晴らしさに驚嘆した。朝5時に、私は内湯へ行く。まだ誰もいない。やはり湯槽は二つあって、茶色の湯は温く、透明な方は熱い。湯冷ましに外を散歩する。渓谷の右岸には豪壮な岸壁が連なっている。谷沿いに歩き、ぐるっと回って駐車場へ、都合8台の車は、東京、横浜、名古屋、大阪、石川からの車、地元の車はいなかった。
離れへ戻り、午前7時半の露天風呂の開湯時間を見計らって、すぐ上にある風呂へ行くと、何と8人ばかりの若い女の子が既に入っているではないか。いくら混浴可とはいっても、これには暖簾から顔を出しただけで、一旦離れへ戻った。食事は朝8時半、8時まで待ち、上へ行くと、まだ2人が入っていたが、入ることに。私が湯に入ろうとすると、彼女らは湯槽から上がった。すれ違ったときに元気な朝の挨拶、清々しかった。彼女らが浴衣を着てカメラを構えて、私の入浴シーンを写したいと、どうぞと言った。今朝の女の内湯からは岩場が間近に見えるので入られたらと話したが、後で入られたようだった。
翌15日朝の朝食は二階とか、皆さんも二階なので彼女たちに会えるのではと楽しみにしていたが、私たち離れの二組はダイニングルーム隣りの特別ルームだった。今朝も15品目、これはとても平らげられない。ご飯は軽く一杯、なます、紅白、きんぴら、海苔佃煮、長芋おろし、イクラ大根おろし和え、紅葉子、梅干し、紅鱒甘露煮、卵巻き、豆腐、サラダ、牛乳、果物ジュース、西瓜と林檎、そしてお汁。本当に満腹になった。
午前10時少し前に清算をして宿を後にする。今日の予定は真田の里を巡り、上田城と記念館を見てから七味温泉へ入ることに。始めに真田家の菩提寺でもある長谷寺へ。ここは真田幸村(信繁)の父の昌幸や祖父母の幸隆夫妻の墓がある。境内には沢山のシダレザクラが植わっていて、春の満開時にはさぞや見事だろうと思われる。お参りを済ませて、次に真田氏歴史館へ向かう。長谷寺からは遠くはないものの、一旦国道144号線まで出たので、大回りになった。駐車場には十数台の車、人気があるようだ。建物はそんなに大きくはないが、ここには真田三代の資料がぎっしりと詰まっている。中でも天正13年(1585)に豊臣秀吉が真田昌幸に宛てた書状や大阪夏の陣之屏風(複製)、NHK時代劇「真田太平記」で着用された真田親子の鎧・兜などはさすがに圧巻である。そしてこの日は休日、真田の赤い甲冑を着けた兄さんが、真田父子の二度にわたる上田城での攻防を、自製の絵巻物を使って講談風に語っていたが、中々堂に入っていて、つい終わりまで聞いてしまった。
2013年7月19日金曜日
植物由来の紋所を探る(その2)
(承前)
● ささ 笹:イネ科の多年生植物で、一般に丈の低いタケ類をいう
〔1〕笹の葉や枝などを図案化したもので、種類が多い。
〔2〕丸に篠笹、三枚熊笹、五枚笹、六枚笹、九枚笹、雪待ち笹、仙台笹、上杉笹など。
● しだ 羊歯 歯朶:シダ植物の総称
〔1〕シダの葉を図案化したもので、少ない。〔2〕歯朶の丸など。
● しゅろ 棕櫚:ヤシ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕シュロの葉の開いた形を図案化したもので、少ない。〔2〕棕櫚など。
● すいせん 水仙:ヒガンバナ科の多年草
〔1〕水仙の花と葉を図案化したもの。〔2〕水仙の丸など。
● すぎ 杉:スギ科の常緑大高木
〔1〕杉の木をかたどったもの。〔2〕一本杉、丸に二本杉、三本杉、杉巴など。
● すすき 薄 芒:イネ科の多年草 秋の七草の一(おばな)
〔1〕ススキの穂と葉を図案化したもので、少ない。〔2〕薄に露、雪輪に薄など。
● すみれ 菫:スミレ科スミレ属の総称
〔1〕菫の花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕菫車など。
● せり 芹:セリ科の多年草 春の七草の一
〔1」芹の葉と根を図案化したもの。〔2〕三つ芹など。
● だいこん 大根:アブラナ科の越年草または一年草 春の七草の一(すずしろ)
〔1〕葉付き大根を図案化したもの。〔2〕違い大根、大根の丸など。
● たけ 竹:イネ科タケ亜科の総称
〔1〕竹を図案化したもの。〔2〕一本竹、竹丸紋、竹に雀など。
● たちばな 橘:ミカン科の常緑小高木
〔1〕橘の葉と実を組み合わせて描いたもの。〔2〕橘、葉敷き橘、彦根橘など。
● たんぽぽ 蒲公英:キク科タンポポ属の多年草の総称
〔1〕タンポポの花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕蒲公英など。
● ちゃ 茶:ツバキ科の常緑低木
〔1〕茶の実を図案化したもの。少ない。〔2〕茶の実、違い茶の実など。
● ちょうじ 丁子 丁字:フトモモ科の常緑高木
〔1〕丁子の実をかたどったもの。〔2〕丸に一つ丁子、六つ丁子など。
● つた 蔦:ブドウ科の落葉性の蔓植物
〔1〕蔦の葉をかたどったもの。〔2〕鬼蔦、中陰蔦、結び蔦など。
● つばき 椿:ツバキ科の常緑高木
〔1〕椿の花を図案化したもの。花がポトリと落ちるので数は少ない。〔2〕三つ椿など。
● でんじそう 田字草:デンジソウ科の多年生のシダ
〔1〕デンジソウの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕田字草など。
● なぎ 梛:マメ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕ナギの葉を図案化したもの。〔2〕一梛葉、二梛葉、違い梛葉など。
● なずな 薺:アブラナ科の越年草 春の七草の一
〔1〕ナズナの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕八つ薺など。
● なでしこ 撫子 矍麦:ナデシコ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕ナデシコの花を図案化したもの。〔2〕矍麦、石竹、三つ割り矍麦など。
● はぎ 萩:マメ科ハギ属の落葉低木の総称 秋の七草の一
〔1〕萩の花、葉、枝を図案化したもの。〔2〕萩の丸など。
● はす 蓮:スイレン科の水生の多年草
〔1〕蓮の花、葉、茎を図案化したもの。〔2〕丸に一つ蓮の花、立ち蓮の花など。
● ひいらぎ 柊:モクセイ科の常緑小高木
〔1〕柊の葉を図案化したもの。〔2〕丸に一つ柊、違い柊、抱き柊など。
● びわ 枇杷:バラ科の常緑高木
〔1〕枇杷の葉を図案化したもの。少ない。〔2〕三つ枇杷の葉など。
● ふじ 藤:マメ科の蔓性の落葉低木
〔1〕藤の花房や葉を図案化したもの。〔2〕上がり藤、下がり藤、九条藤など。
● ぶどう 葡萄:ブドウ科の蔓性の落葉低木
〔1〕葡萄の葉や実を図案化したもの。〔2〕葡萄、三つ葡萄の葉など。
● ぼたん 牡丹:ボタン科の落葉低木
〔1〕牡丹の花、葉、枝を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕大割り牡丹、乱れ牡丹、蟹牡丹、利休牡丹、薩摩(島津)牡丹、仙台(伊達)牡丹など。
● まつ 松:マツ科マツ属の常緑高木
〔1〕松の幹、枝、葉、松毬を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕櫛松、二蓋松、丸に三蓋松、四つ若松、永井(松葉)松毬、松葉菱など。
● みょうが 茗荷:ショウガ科の多年草
〔1〕茗荷の芽や花を図案化したもの。〔2〕丸に抱き茗荷、入れ違い茗荷など。
● もも 桃:バラ科の落葉小高木
〔1〕桃の実や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕丸に葉付き桃、糸輪に三つ桃など。
● やまぶき 山吹:バラ科の落葉低木
〔1〕山吹の花や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕山吹に水など。
● ゆうがお 夕顔:ウリ科の蔓性の一年草
〔1〕夕顔の花を図案化したもの。少ない。〔2〕夕顔の花、夕顔に月など。
● りんどう 竜胆:リンドウ科の多年草
〔1〕リンドウの花や葉を図案化したもの。〔2〕丸に竜胆、竜胆車、二つ竜胆など。
● わらび 蕨:イノモトソウ科のシダ
〔1〕ワラビの若芽を図案化したもの。〔2〕蕨、三本蕨、五つ蕨、子持ち蕨など。
● ささ 笹:イネ科の多年生植物で、一般に丈の低いタケ類をいう
〔1〕笹の葉や枝などを図案化したもので、種類が多い。
〔2〕丸に篠笹、三枚熊笹、五枚笹、六枚笹、九枚笹、雪待ち笹、仙台笹、上杉笹など。
● しだ 羊歯 歯朶:シダ植物の総称
〔1〕シダの葉を図案化したもので、少ない。〔2〕歯朶の丸など。
● しゅろ 棕櫚:ヤシ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕シュロの葉の開いた形を図案化したもので、少ない。〔2〕棕櫚など。
● すいせん 水仙:ヒガンバナ科の多年草
〔1〕水仙の花と葉を図案化したもの。〔2〕水仙の丸など。
● すぎ 杉:スギ科の常緑大高木
〔1〕杉の木をかたどったもの。〔2〕一本杉、丸に二本杉、三本杉、杉巴など。
● すすき 薄 芒:イネ科の多年草 秋の七草の一(おばな)
〔1〕ススキの穂と葉を図案化したもので、少ない。〔2〕薄に露、雪輪に薄など。
● すみれ 菫:スミレ科スミレ属の総称
〔1〕菫の花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕菫車など。
● せり 芹:セリ科の多年草 春の七草の一
〔1」芹の葉と根を図案化したもの。〔2〕三つ芹など。
● だいこん 大根:アブラナ科の越年草または一年草 春の七草の一(すずしろ)
〔1〕葉付き大根を図案化したもの。〔2〕違い大根、大根の丸など。
● たけ 竹:イネ科タケ亜科の総称
〔1〕竹を図案化したもの。〔2〕一本竹、竹丸紋、竹に雀など。
● たちばな 橘:ミカン科の常緑小高木
〔1〕橘の葉と実を組み合わせて描いたもの。〔2〕橘、葉敷き橘、彦根橘など。
● たんぽぽ 蒲公英:キク科タンポポ属の多年草の総称
〔1〕タンポポの花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕蒲公英など。
● ちゃ 茶:ツバキ科の常緑低木
〔1〕茶の実を図案化したもの。少ない。〔2〕茶の実、違い茶の実など。
● ちょうじ 丁子 丁字:フトモモ科の常緑高木
〔1〕丁子の実をかたどったもの。〔2〕丸に一つ丁子、六つ丁子など。
● つた 蔦:ブドウ科の落葉性の蔓植物
〔1〕蔦の葉をかたどったもの。〔2〕鬼蔦、中陰蔦、結び蔦など。
● つばき 椿:ツバキ科の常緑高木
〔1〕椿の花を図案化したもの。花がポトリと落ちるので数は少ない。〔2〕三つ椿など。
● でんじそう 田字草:デンジソウ科の多年生のシダ
〔1〕デンジソウの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕田字草など。
● なぎ 梛:マメ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕ナギの葉を図案化したもの。〔2〕一梛葉、二梛葉、違い梛葉など。
● なずな 薺:アブラナ科の越年草 春の七草の一
〔1〕ナズナの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕八つ薺など。
● なでしこ 撫子 矍麦:ナデシコ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕ナデシコの花を図案化したもの。〔2〕矍麦、石竹、三つ割り矍麦など。
● はぎ 萩:マメ科ハギ属の落葉低木の総称 秋の七草の一
〔1〕萩の花、葉、枝を図案化したもの。〔2〕萩の丸など。
● はす 蓮:スイレン科の水生の多年草
〔1〕蓮の花、葉、茎を図案化したもの。〔2〕丸に一つ蓮の花、立ち蓮の花など。
● ひいらぎ 柊:モクセイ科の常緑小高木
〔1〕柊の葉を図案化したもの。〔2〕丸に一つ柊、違い柊、抱き柊など。
● びわ 枇杷:バラ科の常緑高木
〔1〕枇杷の葉を図案化したもの。少ない。〔2〕三つ枇杷の葉など。
● ふじ 藤:マメ科の蔓性の落葉低木
〔1〕藤の花房や葉を図案化したもの。〔2〕上がり藤、下がり藤、九条藤など。
● ぶどう 葡萄:ブドウ科の蔓性の落葉低木
〔1〕葡萄の葉や実を図案化したもの。〔2〕葡萄、三つ葡萄の葉など。
● ぼたん 牡丹:ボタン科の落葉低木
〔1〕牡丹の花、葉、枝を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕大割り牡丹、乱れ牡丹、蟹牡丹、利休牡丹、薩摩(島津)牡丹、仙台(伊達)牡丹など。
● まつ 松:マツ科マツ属の常緑高木
〔1〕松の幹、枝、葉、松毬を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕櫛松、二蓋松、丸に三蓋松、四つ若松、永井(松葉)松毬、松葉菱など。
● みょうが 茗荷:ショウガ科の多年草
〔1〕茗荷の芽や花を図案化したもの。〔2〕丸に抱き茗荷、入れ違い茗荷など。
● もも 桃:バラ科の落葉小高木
〔1〕桃の実や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕丸に葉付き桃、糸輪に三つ桃など。
● やまぶき 山吹:バラ科の落葉低木
〔1〕山吹の花や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕山吹に水など。
● ゆうがお 夕顔:ウリ科の蔓性の一年草
〔1〕夕顔の花を図案化したもの。少ない。〔2〕夕顔の花、夕顔に月など。
● りんどう 竜胆:リンドウ科の多年草
〔1〕リンドウの花や葉を図案化したもの。〔2〕丸に竜胆、竜胆車、二つ竜胆など。
● わらび 蕨:イノモトソウ科のシダ
〔1〕ワラビの若芽を図案化したもの。〔2〕蕨、三本蕨、五つ蕨、子持ち蕨など。
2013年7月18日木曜日
植物由来の紋所を探る(その1)
「巨樹いしかわ」の15周年記念誌に、田中さんご夫妻が「植物紋様雑記」というA4で28頁という長文を寄せられていて、植物と紋様の関わりについて記述されている。その当時田中さんご夫妻は石川巨樹の会の事務局を担当されていて、この役目は旦那さんが亡くなるまで20年間続いた。その後は奥さんも事務局を辞退され、それ以降は、それまで蒐集された膨大な、主として紋様に関わる諸々の事柄の集大成に時間を費やされ、「不思議を訪ねる」というA4で300頁を越す本にまとめられ、自費出版された。その副題には「無用の用・用の用を楽しむ」とあり、これはこれまでご夫妻が興味を持った事象についての備忘録のまとめでもある。ここには、植物、動物、架空動物、鳥、魚、昆虫、紋様、民具・その他の8ジャンルにわたり、256項目について、名称のいわれ、説明、民族文化・伝承・風習・行事との関わり、故事来歴や縁起、紋様との関わり、用途等々、それも古今東西にわたって記されていて、それを読むと、さながら大事な玉手箱から、何が入っているのかと、興味津々な気持ちで、一つ一つ取り出すような感じがあって、実に楽しい。
私はこの中で最も項目数も多く、身近に興味を持てた植物の紋所について、田中さんの本を参考にしながら、小学館の松村朗監修の「大辞泉」から紋所の名と記載のある植物を抽出し、その植物の和名と簡単な説明、〔1〕紋所の由来、〔2〕代表的な紋所の名称 を列記してみた。植物名は50音順とした。
● あおい 葵:アオイ科アオイ属・フヨウ属に含まれる植物の総称
〔1〕フタバアオイ(カモアオイ)を図案化したもので、種類が多い。〔2〕葵巴(葵三枚を巴形にかた どったもので、徳川氏の紋.三つ葉葵、徳川葵)、本田立ち葵など。
● あさ 麻:クワ科の一年草 雌雄異株
〔1〕麻の葉を図案化したもの。〔2〕麻の葉など。
● あさがお 朝顔:ヒルガオ科の蔓性の一年草
〔1〕朝顔の花を図案化したもので、数は少ない。〔2〕朝顔の花など。
● あし 葦 蘆:イネ科の多年草
〔1〕細い葦の葉を図案化したもの。〔2〕二つ葦の葉、違い葦の葉など。
● いちょう 銀杏 公孫樹:イチョウ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕銀杏の葉を図案化したもので、多くの種類がある。
〔2〕丸に立ち銀杏、一つ巴銀杏、三つ銀杏、剣銀杏、五つ銀杏、六つ銀杏など。
● いね 稲:イネ科の一年草
〔1〕稲穂を図案化したもので、数は少ない。〔2〕丸に一本稲、二つ稲、違い稲など。
● うめ 梅:バラ科の落葉高木
〔1〕一重の梅の花を正面や裏から見たものを図案化した「梅花紋」と幾何学構成で花弁が必ず円形の 「梅鉢紋」とがある。
〔2〕梅花紋:梅の花、捻梅、裏梅、横見梅、八重梅、三つ割向こう梅など。
梅鉢紋:剣梅鉢、星梅鉢、加賀梅鉢など。
● うり 瓜:ウリ科の植物のうち、実を食用にするものの総称
〔1〕瓜の花と実を図案化したもの。〔2〕瓜の花、捻り瓜、陰の瓜など。
● おおばこ 車前草 大葉子:オオバコ科の多年草
〔1〕全草を図案化したもの。〔2〕抱き車前草など。
● おもだか 沢潟 面高:オモダカ科の多年草
〔1〕オモダカの葉と花を組み合わせて紋様化したもの。
〔2〕立て沢潟、丸に沢潟、子持ち抱き沢潟、沢潟に水など。
● かえで 楓:カエデ科カエデ属の落葉高木の総称
〔1〕楓の葉を図案化したもの。〔2〕中輪に楓、糸輪に三つ楓など。
● かきつばた 杜若 燕子花:アヤメ科の多年草
〔1〕カキツバタの葉と花を図案化したもの。〔2〕立ち杜若、石山(三花)杜若など。
● かじのき 梶:クワ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕梶の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕立ち梶の葉、諏訪梶の葉など。
● かしわ 柏 槲:ブナ科の落葉高木
〔1〕柏の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕三つ柏、抱き柏、結び柏など。
● かたばみ 酢漿草:カタバミ科の多年草
〔1〕カタバミの葉を図案化したもの。〔2〕酢漿草、剣酢漿草、石持ち酢漿草など。
● かぶ 蕪:アブラナ科の越年草 春の七草の一(すずな)
〔1〕葉付き蕪を図案化したもの。〔2〕抱き蕪など。
● ききょう 桔梗:キキョウ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕桔梗の花をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕丸に桔梗、抱き桔梗、蔓桔梗、三つ割り桔梗、八重桔梗、土岐桔梗、光琳桔梗、剣桔梗など。
● きく 菊:キク科キク属の総称
〔1〕菊の花や葉などを図案化したもの。皇室の十六葉八重表菊のほか種類が多い。
〔2〕十六葉裏菊、十四葉一重表菊、丸に八葉菊、三つ割り菊など。
● きり 桐:ゴマノハグサ科の落葉高木
〔1〕桐の花と葉をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕五七の桐、太閤桐、五三の桐、花桐など。
● くず 葛:マメ科の蔓性の多年草 秋の七草の一
〔1〕葛の花や葉を図案化したもの。〔2〕三つ葛葉、葛花、横見葛花、葛花車など。
● くり 栗:ブナ科の落葉高木
〔1〕栗の実と葉を図案化したもの。〔2〕栗など。
● こうほね 河骨 川骨:スイレン科の多年草
〔1〕河骨の葉を図案化したもの。〔2〕三つ河骨など。
● さくら 桜:バラ科サクラ属の落葉高木
〔1〕桜の花を図案化したもの。〔2〕八重桜、一重桜、山桜など。
私はこの中で最も項目数も多く、身近に興味を持てた植物の紋所について、田中さんの本を参考にしながら、小学館の松村朗監修の「大辞泉」から紋所の名と記載のある植物を抽出し、その植物の和名と簡単な説明、〔1〕紋所の由来、〔2〕代表的な紋所の名称 を列記してみた。植物名は50音順とした。
● あおい 葵:アオイ科アオイ属・フヨウ属に含まれる植物の総称
〔1〕フタバアオイ(カモアオイ)を図案化したもので、種類が多い。〔2〕葵巴(葵三枚を巴形にかた どったもので、徳川氏の紋.三つ葉葵、徳川葵)、本田立ち葵など。
● あさ 麻:クワ科の一年草 雌雄異株
〔1〕麻の葉を図案化したもの。〔2〕麻の葉など。
● あさがお 朝顔:ヒルガオ科の蔓性の一年草
〔1〕朝顔の花を図案化したもので、数は少ない。〔2〕朝顔の花など。
● あし 葦 蘆:イネ科の多年草
〔1〕細い葦の葉を図案化したもの。〔2〕二つ葦の葉、違い葦の葉など。
● いちょう 銀杏 公孫樹:イチョウ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕銀杏の葉を図案化したもので、多くの種類がある。
〔2〕丸に立ち銀杏、一つ巴銀杏、三つ銀杏、剣銀杏、五つ銀杏、六つ銀杏など。
● いね 稲:イネ科の一年草
〔1〕稲穂を図案化したもので、数は少ない。〔2〕丸に一本稲、二つ稲、違い稲など。
● うめ 梅:バラ科の落葉高木
〔1〕一重の梅の花を正面や裏から見たものを図案化した「梅花紋」と幾何学構成で花弁が必ず円形の 「梅鉢紋」とがある。
〔2〕梅花紋:梅の花、捻梅、裏梅、横見梅、八重梅、三つ割向こう梅など。
梅鉢紋:剣梅鉢、星梅鉢、加賀梅鉢など。
● うり 瓜:ウリ科の植物のうち、実を食用にするものの総称
〔1〕瓜の花と実を図案化したもの。〔2〕瓜の花、捻り瓜、陰の瓜など。
● おおばこ 車前草 大葉子:オオバコ科の多年草
〔1〕全草を図案化したもの。〔2〕抱き車前草など。
● おもだか 沢潟 面高:オモダカ科の多年草
〔1〕オモダカの葉と花を組み合わせて紋様化したもの。
〔2〕立て沢潟、丸に沢潟、子持ち抱き沢潟、沢潟に水など。
● かえで 楓:カエデ科カエデ属の落葉高木の総称
〔1〕楓の葉を図案化したもの。〔2〕中輪に楓、糸輪に三つ楓など。
● かきつばた 杜若 燕子花:アヤメ科の多年草
〔1〕カキツバタの葉と花を図案化したもの。〔2〕立ち杜若、石山(三花)杜若など。
● かじのき 梶:クワ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕梶の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕立ち梶の葉、諏訪梶の葉など。
● かしわ 柏 槲:ブナ科の落葉高木
〔1〕柏の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕三つ柏、抱き柏、結び柏など。
● かたばみ 酢漿草:カタバミ科の多年草
〔1〕カタバミの葉を図案化したもの。〔2〕酢漿草、剣酢漿草、石持ち酢漿草など。
● かぶ 蕪:アブラナ科の越年草 春の七草の一(すずな)
〔1〕葉付き蕪を図案化したもの。〔2〕抱き蕪など。
● ききょう 桔梗:キキョウ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕桔梗の花をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕丸に桔梗、抱き桔梗、蔓桔梗、三つ割り桔梗、八重桔梗、土岐桔梗、光琳桔梗、剣桔梗など。
● きく 菊:キク科キク属の総称
〔1〕菊の花や葉などを図案化したもの。皇室の十六葉八重表菊のほか種類が多い。
〔2〕十六葉裏菊、十四葉一重表菊、丸に八葉菊、三つ割り菊など。
● きり 桐:ゴマノハグサ科の落葉高木
〔1〕桐の花と葉をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕五七の桐、太閤桐、五三の桐、花桐など。
● くず 葛:マメ科の蔓性の多年草 秋の七草の一
〔1〕葛の花や葉を図案化したもの。〔2〕三つ葛葉、葛花、横見葛花、葛花車など。
● くり 栗:ブナ科の落葉高木
〔1〕栗の実と葉を図案化したもの。〔2〕栗など。
● こうほね 河骨 川骨:スイレン科の多年草
〔1〕河骨の葉を図案化したもの。〔2〕三つ河骨など。
● さくら 桜:バラ科サクラ属の落葉高木
〔1〕桜の花を図案化したもの。〔2〕八重桜、一重桜、山桜など。
2013年7月2日火曜日
アニメ映画「王舎城の悲劇」
6月半ばのある日、表題の上映会が野々市市役所の一室であるというチラシが舞い込んでいた。私の家は旧宅と新宅があるが、その両方に舞い込んでいたから、配付した人はそのことには疎い人だったに違いない。ところで上映されるのは6月27日の木曜日の午後1時半から3時半まで、何となく興味がひかれ、出かけることにした。副題には「現代と変わらぬ『家庭悲劇』をハッピーエンドに転回させたお釈迦さまの物語」とあった。
なぜ私が興味を持ったのか、それは浄土宗や浄土真宗の聖典である浄土三部経の中の中経といわれる観無量寿経(観経)で、善導大師が序説とした部分が実は「王舎城の悲劇」の一節であって、このお経には概略のみで詳しい顛末は書かれていないが、これのみでは1時間もの筋を立てるには余程想像をたくましくしなければ無理である。ところで手元にある岩波文庫の「浄土三部経」の下巻の註を見ると、この物語は「涅槃経」にはかなり詳しくその経過が書かれているようだし、日本では親鸞上人が著した「教行信証」には長々と引用されていると書かれている。
チラシに書かれた概略では、「インドで最強を誇ったマガダ国の王舎城に住むビンバシャラ王とその妃イダイケ夫人は、一人息子のアジャセによって虐待され、ついには獄中の人となる。この2600年前にインドで起きた仏教史上最大の悲劇を救ったお釈迦さまの物語」とある。それで私なりに筋を辿ってみた。お経の中に出てくる地名や人名は、原語(岩波文庫の浄土三部経の註から引用)の音訳を漢字で表してあるが、その漢字読みと原語のカナ読みをその後に付した。漢字がない場合は、その部分は仮名書きとした。
ブッダ(釈迦・釈尊)在世時、中部インドでは大国であったマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう・ラージャグリハ)の王宮には、国王の頻婆沙羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)と王妃の韋提希(いだいけ・ヴァイデーヒー)が住んでいた。ところで二人の間には子供がなく、心配した王は占い師にそのことを尋ねたところ、ある山で修行している仙人がやがて死ぬが、死後、王子として生まれ変わるであろうと予言した。それにはもう5年待たねばならないと。これを聞いた王妃は、もう5年もしたら私は子供を産めなくなる体になるので、それまで待てないと王に懇願した。すると王は王妃の言を聞き入れ、王は仙人のいる山へ三百の兵を引き連れ、王と王妃は象に乗り出向く。そして端座瞑想している仙人を殺害した。仙人は死ぬ間際に王と王妃を罵り、必ず復讐すると言ってこと切れる。
すると予言通り、王妃は懐妊する。しかし復讐のことが頭から離れず悶々とした日々を送っていた。そこで再び占い師に尋ねたところ、お腹の赤ちゃんは仙人の身代わり、この王子は生まれたら必ず両親へ仇を報ずるであろうと言った.怖くなった王と王妃は一計を巡らし、出産の折に、剣を逆に沢山林立させた剣の林に子を産み落として殺そうとした。ところが運良く赤子は剣と剣の間に落ち、小指を半分切断しただけで助かった。王と王妃は罪もない赤子を不憫に思い、大事に育てることにした。しかしこの事実を知っている者達には厳重な箝口令を敷いた。
王位を継承する王子の阿闍世(あじゃせ・アジャータシャトル)太子は、手厚く育てられ、聡明な子に育った。しかし弓矢を与えたところ、生きるものを平気で殺すという気性があることが分かってきた。弓の腕は大したもので、狙った獲物は確実に仕留めた。この頃釈尊の従兄弟の提婆達多(でいばだった・デーヴァダッタ)は、釈尊の布教には大変大勢の人が集まるのを妬み、何とか釈尊を亡き者にしようと企んでいた。釈尊の一行が旅の途中、山道にさしかかった折、崖の上から大きな岩を落としたり、原では獰猛な象の群れで襲わせたりしたが、岩は外れ、象はおとなしく跪き、計はことごとく徒労に終わった。この頃には、王も王妃も釈尊に帰依していた。
そこで提婆は一計を企んだ。それは太子を味方につけ、太子を新王にし、釈尊の地位に自らがなろうという悪計であった。ある時、太子は家来を連れずに一人で狩りに出た。提婆はこの機会を逃さず、太子に獰猛な虎を差し向かわせた。矢で射殺するには余りにも大きく、太子は観念した。その時提婆が象に乗って現れ、太子を救った。太子は大いに喜び、提婆を王宮に招き入れ、諸事全てを提婆に相談して事を運んだ。太子の信頼を得たのを見計らい、提婆は出生の秘密を太子に吹き込んだ。太子の小指の経緯である。凶暴な太子は大いに怒り、王を周りを堀で巡らした塔の一室に幽閉し、家臣には「食わすな、飲ますな」と厳命した。王は叫んで我が身を嘆くが、どうにもならなかった。王は釈尊に助けを求め、親友の目連尊者を遣わしてほしいと懇願した。当時釈尊は王都を取り巻く峰々の一つの耆闍崛山(ぎしゃくつせん・グリドウフラクータ)(又の名を霊鷲山りょうじゅせん、鷲の峰とも言い、釈尊はこの山を説法の会座としていた)にいた。王が幽閉されている室には高いところに小さな窓があり、光が射し込んでいた。釈尊は十大弟子で神通第一の大目鍵連(だいもくけんれん・マハーマウドガリヤーヤナ)と、やはり十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな・プールナ)を遣わして王に八戒を授け、法を説いた。善因善果、悪因悪果、自因自果、因果応報。王は己が修行の仙人を殺し、我が子を剣の林立した所へ産み落とさせたことを懺悔し、悔いた。
王が幽閉されてから、王妃は毎日王に会いに行った。王妃は毎朝沐浴して身を清め、精製したバターに乾飯の粉末を混ぜ合わせたものをその身に塗り、胸飾の中に葡萄酒を入れ、秘かに王に与えていた。王には他の誰も面会できず、王妃のみが会えたが、物を持ち込むことは禁じられていた。こうして王は乾飯の粉末を食べ、葡萄酒を飲み、口を漱ぎ、その後鷲の峰に向かい合掌し、長老の説法を聞いた。この時の王は幽閉の身でありながら、顔の色は穏やかで、喜びに満ちていた。このようにして37日が過ぎた。
幽閉して37日も過ぎたのだから、父王はもう死んでいるだろうと思い、門を守る者に「父王はどうしているか」と問うたところ、王妃が毎日食物と葡萄酒を与えておられること、沙門の長老のお二方が空からやって来て説法されていること、そしてこれらを禁制することは私たちにはできないと。これを聞いた太子は激怒し母に向かい、「私の母は賊であり、沙門は悪人である」と言い、剣を取り母を殺そうとした。その時太子の側には二人の大臣がいた。一人は月光(がっこう・チャンドラプラディーバ)といい聡明で智慧者、もう一人は耆婆(ぎば・ジーヴァカ)という名医で、二人は太子に説いた。「太子よ、はるかな昔より、多くの悪王がいて王位に即こうと父を殺した者は1万8千人にも上る。しかし未だかって母を殺したというためしは聞いたことがない。殺害すればそれは賤民の所行、王宮に住まわせることはできない」と言い、剣の柄に手をかけ、後ずさりした。これを見て太子は剣を捨て、代わりに母である王妃を内務の役人に命じて奥深い部屋に幽閉した。王妃は王に会えなくなり、王は衰弱し亡くなった。この時代は異母の王子が何人もいて、王位に即きたい王子は、時にこういう強行手段に訴えたという。そして太子は王となった。
王毋は愁いに閉ざされ憔悴し、尊者を殺し、我が子をも殺そうとしたことを悔い、この所行は地獄へ行くしかないと悟る。そして五体投地し、哀れみを求めて懺悔した。そして願わくは木蓮尊者と阿難(あなん・アーナンダ)尊者にお目にかかりたいと願い、悲しみの涙を流して、釈尊のおいでる鷲の峰に向かって礼拝した。すると釈尊は王毋の思念を知り、目連を左に阿難を右に侍して王毋の前に姿を現された。釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、天人たちは天花を降らして供養しているのが見えた。王毋は釈尊のお姿を見て、五体を地に投じて礼をし、釈尊の愛おしみを求めて懺悔した。そして私に清らかな行いのある世界を観せて下さいと願った。
こうして王毋は、憎しみ、怒り、呪いのない、ひたすら苦悩のない清らかな世界に生まれたいと願い、釈尊はこれに応えて、諸仏の世界を光明を放って見せしめた。その「幸あるところ」とは極楽浄土であり、その西方浄土を観想するには、心を一筋にし、思いを一処に集中して思い浮かべねばならないと説いた。〔正説〕(一、心統一して浄土を観想する十三の方法、定善十三観)
一方で心統一することが出来ない散乱心の凡夫に対しても、王毋の請いにより、悪を廃め善を修めて浄土往生を得しめる散善を説いた。〔正説〕(二、散心の凡夫、往生を得る九種の方法)
その後、王は父王を殺したことを悔い、王毋を牢より出した。その後、王は重い病気になり、名医の耆婆に導かれて釈尊の教えを仰ぎ、病が癒えて後は菩提心を発して改心し、そして釈尊に帰依することになる。
なぜ私が興味を持ったのか、それは浄土宗や浄土真宗の聖典である浄土三部経の中の中経といわれる観無量寿経(観経)で、善導大師が序説とした部分が実は「王舎城の悲劇」の一節であって、このお経には概略のみで詳しい顛末は書かれていないが、これのみでは1時間もの筋を立てるには余程想像をたくましくしなければ無理である。ところで手元にある岩波文庫の「浄土三部経」の下巻の註を見ると、この物語は「涅槃経」にはかなり詳しくその経過が書かれているようだし、日本では親鸞上人が著した「教行信証」には長々と引用されていると書かれている。
チラシに書かれた概略では、「インドで最強を誇ったマガダ国の王舎城に住むビンバシャラ王とその妃イダイケ夫人は、一人息子のアジャセによって虐待され、ついには獄中の人となる。この2600年前にインドで起きた仏教史上最大の悲劇を救ったお釈迦さまの物語」とある。それで私なりに筋を辿ってみた。お経の中に出てくる地名や人名は、原語(岩波文庫の浄土三部経の註から引用)の音訳を漢字で表してあるが、その漢字読みと原語のカナ読みをその後に付した。漢字がない場合は、その部分は仮名書きとした。
ブッダ(釈迦・釈尊)在世時、中部インドでは大国であったマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう・ラージャグリハ)の王宮には、国王の頻婆沙羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)と王妃の韋提希(いだいけ・ヴァイデーヒー)が住んでいた。ところで二人の間には子供がなく、心配した王は占い師にそのことを尋ねたところ、ある山で修行している仙人がやがて死ぬが、死後、王子として生まれ変わるであろうと予言した。それにはもう5年待たねばならないと。これを聞いた王妃は、もう5年もしたら私は子供を産めなくなる体になるので、それまで待てないと王に懇願した。すると王は王妃の言を聞き入れ、王は仙人のいる山へ三百の兵を引き連れ、王と王妃は象に乗り出向く。そして端座瞑想している仙人を殺害した。仙人は死ぬ間際に王と王妃を罵り、必ず復讐すると言ってこと切れる。
すると予言通り、王妃は懐妊する。しかし復讐のことが頭から離れず悶々とした日々を送っていた。そこで再び占い師に尋ねたところ、お腹の赤ちゃんは仙人の身代わり、この王子は生まれたら必ず両親へ仇を報ずるであろうと言った.怖くなった王と王妃は一計を巡らし、出産の折に、剣を逆に沢山林立させた剣の林に子を産み落として殺そうとした。ところが運良く赤子は剣と剣の間に落ち、小指を半分切断しただけで助かった。王と王妃は罪もない赤子を不憫に思い、大事に育てることにした。しかしこの事実を知っている者達には厳重な箝口令を敷いた。
王位を継承する王子の阿闍世(あじゃせ・アジャータシャトル)太子は、手厚く育てられ、聡明な子に育った。しかし弓矢を与えたところ、生きるものを平気で殺すという気性があることが分かってきた。弓の腕は大したもので、狙った獲物は確実に仕留めた。この頃釈尊の従兄弟の提婆達多(でいばだった・デーヴァダッタ)は、釈尊の布教には大変大勢の人が集まるのを妬み、何とか釈尊を亡き者にしようと企んでいた。釈尊の一行が旅の途中、山道にさしかかった折、崖の上から大きな岩を落としたり、原では獰猛な象の群れで襲わせたりしたが、岩は外れ、象はおとなしく跪き、計はことごとく徒労に終わった。この頃には、王も王妃も釈尊に帰依していた。
そこで提婆は一計を企んだ。それは太子を味方につけ、太子を新王にし、釈尊の地位に自らがなろうという悪計であった。ある時、太子は家来を連れずに一人で狩りに出た。提婆はこの機会を逃さず、太子に獰猛な虎を差し向かわせた。矢で射殺するには余りにも大きく、太子は観念した。その時提婆が象に乗って現れ、太子を救った。太子は大いに喜び、提婆を王宮に招き入れ、諸事全てを提婆に相談して事を運んだ。太子の信頼を得たのを見計らい、提婆は出生の秘密を太子に吹き込んだ。太子の小指の経緯である。凶暴な太子は大いに怒り、王を周りを堀で巡らした塔の一室に幽閉し、家臣には「食わすな、飲ますな」と厳命した。王は叫んで我が身を嘆くが、どうにもならなかった。王は釈尊に助けを求め、親友の目連尊者を遣わしてほしいと懇願した。当時釈尊は王都を取り巻く峰々の一つの耆闍崛山(ぎしゃくつせん・グリドウフラクータ)(又の名を霊鷲山りょうじゅせん、鷲の峰とも言い、釈尊はこの山を説法の会座としていた)にいた。王が幽閉されている室には高いところに小さな窓があり、光が射し込んでいた。釈尊は十大弟子で神通第一の大目鍵連(だいもくけんれん・マハーマウドガリヤーヤナ)と、やはり十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな・プールナ)を遣わして王に八戒を授け、法を説いた。善因善果、悪因悪果、自因自果、因果応報。王は己が修行の仙人を殺し、我が子を剣の林立した所へ産み落とさせたことを懺悔し、悔いた。
王が幽閉されてから、王妃は毎日王に会いに行った。王妃は毎朝沐浴して身を清め、精製したバターに乾飯の粉末を混ぜ合わせたものをその身に塗り、胸飾の中に葡萄酒を入れ、秘かに王に与えていた。王には他の誰も面会できず、王妃のみが会えたが、物を持ち込むことは禁じられていた。こうして王は乾飯の粉末を食べ、葡萄酒を飲み、口を漱ぎ、その後鷲の峰に向かい合掌し、長老の説法を聞いた。この時の王は幽閉の身でありながら、顔の色は穏やかで、喜びに満ちていた。このようにして37日が過ぎた。
幽閉して37日も過ぎたのだから、父王はもう死んでいるだろうと思い、門を守る者に「父王はどうしているか」と問うたところ、王妃が毎日食物と葡萄酒を与えておられること、沙門の長老のお二方が空からやって来て説法されていること、そしてこれらを禁制することは私たちにはできないと。これを聞いた太子は激怒し母に向かい、「私の母は賊であり、沙門は悪人である」と言い、剣を取り母を殺そうとした。その時太子の側には二人の大臣がいた。一人は月光(がっこう・チャンドラプラディーバ)といい聡明で智慧者、もう一人は耆婆(ぎば・ジーヴァカ)という名医で、二人は太子に説いた。「太子よ、はるかな昔より、多くの悪王がいて王位に即こうと父を殺した者は1万8千人にも上る。しかし未だかって母を殺したというためしは聞いたことがない。殺害すればそれは賤民の所行、王宮に住まわせることはできない」と言い、剣の柄に手をかけ、後ずさりした。これを見て太子は剣を捨て、代わりに母である王妃を内務の役人に命じて奥深い部屋に幽閉した。王妃は王に会えなくなり、王は衰弱し亡くなった。この時代は異母の王子が何人もいて、王位に即きたい王子は、時にこういう強行手段に訴えたという。そして太子は王となった。
王毋は愁いに閉ざされ憔悴し、尊者を殺し、我が子をも殺そうとしたことを悔い、この所行は地獄へ行くしかないと悟る。そして五体投地し、哀れみを求めて懺悔した。そして願わくは木蓮尊者と阿難(あなん・アーナンダ)尊者にお目にかかりたいと願い、悲しみの涙を流して、釈尊のおいでる鷲の峰に向かって礼拝した。すると釈尊は王毋の思念を知り、目連を左に阿難を右に侍して王毋の前に姿を現された。釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、天人たちは天花を降らして供養しているのが見えた。王毋は釈尊のお姿を見て、五体を地に投じて礼をし、釈尊の愛おしみを求めて懺悔した。そして私に清らかな行いのある世界を観せて下さいと願った。
こうして王毋は、憎しみ、怒り、呪いのない、ひたすら苦悩のない清らかな世界に生まれたいと願い、釈尊はこれに応えて、諸仏の世界を光明を放って見せしめた。その「幸あるところ」とは極楽浄土であり、その西方浄土を観想するには、心を一筋にし、思いを一処に集中して思い浮かべねばならないと説いた。〔正説〕(一、心統一して浄土を観想する十三の方法、定善十三観)
一方で心統一することが出来ない散乱心の凡夫に対しても、王毋の請いにより、悪を廃め善を修めて浄土往生を得しめる散善を説いた。〔正説〕(二、散心の凡夫、往生を得る九種の方法)
その後、王は父王を殺したことを悔い、王毋を牢より出した。その後、王は重い病気になり、名医の耆婆に導かれて釈尊の教えを仰ぎ、病が癒えて後は菩提心を発して改心し、そして釈尊に帰依することになる。
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