2012年3月22日木曜日

越前探蕎:「一福」と「森六」

平成24年の第1回の探蕎は、春分の日の3月20日に越前の「谷川」ということになっていた。ここには会では平成11年と平成15年の2回訪れている。店主は脱サラで始められたそうだが、中々こだわりの方で、自家製粉の十割そばを提供していた。それだけに久しぶりの訪問を楽しみにしていたのだが、直前になり団体さんお断りとのことで、行き先は急遽池田町の「一福」に変更になった。この日の参加者は10名、近場の探蕎なのに、参加者は少なめだった。

「一福」(福井県今立郡池田町稲荷)
 この日は上々の天気、白山市番匠町の「和泉」に集合し、車2台に分乗して9時に出発する。北陸高速道を福井ICで下り、旧美山町から足羽川を遡上して池田町に至る。ここは標高300mの高原、通称日本のチベットと言われている町、薪能でも有名な地である。またここは岐阜県との県境に聳える冠山(1257m)に登るにはどうしても通らねばならない町でもある。それはそうと、初めて新装なった「一福」へ寄ったときは、場所も分からずに随分町中をうろうろしたものだが、今回はあっけなくすんなり着いてしまった。この時期ここではまだ冬の名残の雪がそこここに、駐車場にもまだ沢山残っている。時に11時10分前、丁度二代の篤文・幸枝夫妻が駐車場においでて、どうぞ中へと招き入れられる。程なく暖簾も出された。中は明るくて広く、土間には厚くて大きな一枚板のテーブルが2脚、ゆっくり12人は座れる。小上がりには2人掛けと4人掛けの座机がそれぞれ3脚、都合30人は入られよう。旧店は10人も入られたろうか、ずいぶん狭かった。私たちが店へ入ると、先ほどの女将が「久保さんじゃないですか」と言われる。久保副会長は以前池田のお米を送ってもらっていたことがあるとか、これには驚いた。
 私たちは小上がりに上がる。予約席となっていた。席に着くと早速溶いた蕎麦湯が運ばれる。湯飲みは越前焼き、趣がある。これに蕎麦焼酎を割ると最高なのだが。蕎麦前は吟醸生原酒の「一福」、旧今立町の酒蔵の酒で、4合瓶のみ、皆さんで1本お願いする。瀟洒なグラスが運ばれ、運転手の前田・和泉のお二方には申し訳なかったが、寺田会長の発声で乾杯する。甘口で芳醇な感じのお酒、少々戴くには中々美味しい口当たりだ。つまみはメニューには「葉山葵」が載っていたが、聞くと品切れとかで、代わって片葉の薄味の煮しめが出てきた。
 ここの本命は何といっても「塩だし」、これは皆さんがご注文になる。もう一品は、前田さんのみ「醤油だし」、後の方は私も含めて、一度も食したことがない「生醤油」にする。「醤油だし」は越前そばでお馴染みの出汁だったこともあり、もの珍しさがあっての注文であって、皆さんもそんな意図があったようだ。始めに「塩だし」が届いた。そばは田舎そばの太打ち、先代の富治さんが打っておいでた頃は、九一で自然薯をつなぎとしたちょっと硬めのそばだったが、今出てきたのは喉越しもよいところをみると、二八なのかも知れない。越前焼きの中皿に載ったそばに塩だしが掛かっていて、その上に大根おろし、刻み葱、幅広の鰹の削り節が載っている。それにしてもこの塩味は中々奥行きが深い。先代が試行錯誤して工夫し、単なる塩味ではなくて、こくのある、でもさらっとした味わいに仕上げられたものだ。この味は一朝一夕に出来るものではない。天然山葵も一役かっているという。私の住む野々市市の「敬蔵」でも、店主が数年前から塩味に挑戦しているのだが、まだ発展途上、とても「一福」の塩だしの味には及ばない。
 次いで「生醤油」、皿に載った格好は一見前の「塩だし」に似ているが、大根おろしの上に下ろした天然山葵が一摘まみ乗っかっている。パンフでは、地元の甘口醤油をサッとかけて食べるとあったが、もうすでにかかっていた。そばは同じだが、味は生醤油味、比較するとやはり塩味の方が奥が深い。
 終わって、会長・副会長は 生原酒の「一福」を求められる。そこで女将を挟んでワンショット。そこで、先代がおいでのときに、3回ばかり寄せて頂きましたと話していて、てっきりもう亡くなられたのかと思っていたら、店には出ないけれどまだ健在とか、これは失礼しました。今じゃ三代目も修行中とかで、手伝っていた。玄関前での集合写真を女将にお願いした。お礼に握手をして、お暇した。

「森六」(福井県越前市粟田部町)
 まだ陽は高く、もう一軒ということで、旧今立町の越前和紙会館へ寄り、その近くにある「あみだそば」へ寄ることにする。「あみだそば」には平成12年に会の行事で、故波田野会長が元所長であった福井県衛生研究所の職員の案内で、今立町を巡った折に、「あみだそば」と「森六」へ寄ったことがある。久保副会長の案内で和紙会館に着き入ろうとすると休館とある。祝日が休館とはと訝りながら、三椏の生垣が植わった和紙の里通りを歩きながら「あみだそば」へ向かうと、どうも様子が変である。訊くと、数年前に閉店したとか、いたし方がない。あの大きな丸いテーブルが印象的だったのに。
 それではと「森六」へ向かう。旧今立町にはそば屋は4軒あり、森六、勘助、大福の3軒は同じ粟田部町にある。久保さんの先導で向かうが、この前は地元の人の案内だったのでまかせっきりだったが、今回は森六のある通りの印象は残ってはいるものの、そこへ辿り着くのが容易ではない。車で通りを巡ると、勘助と大福はすぐ目についたが、本命の森六が見当たらない。ガソリンスタンドでも訊くが、知らない人が多いのに驚く。でも漸く場所が特定できた。駐車場に車を止め、私が先に店へ入るともう一杯、奥の丸テーブルの相席には4人位入れそう。10人と言うと、中ででも外ででももう少しお待ち下さいとのこと、取り合えず4人が奥の丸テーブルに座る。後の方たちは店には入って来なくて、外でお待ちなのだろうか。部屋には色紙が所狭しと飾ってある。その中には、平成3年に今上両陛下が福井へ行幸の折に、当店のおろしそばを差し上げたとの新聞記事も掲げてあった。初代の森田六三郎がこの地で「森六」を始めたのは明治4年(1871)とか、福井県でも有数の老舗である。
 現在のご主人は四代目とか、店には20人位しか入れず、混み合っている。メニューは「越前おろしそば」と「せいろ」の二種類である。「おろしそば」は二八でやや太打ちながら幾分平たく打ってある。色は一福より淡い。色柄の皿にそばが入り、大根おろし、刻み葱、削り鰹節が載っていて、それで醤油味という典型的な越前おろしそばである。たぐると喉越しは良く、程よい味付けである。おろしは、辛味大根の信州地大根かねずみ大根の搾り汁を、水分が豊富で甘味のある青首大根と辛味もあり身も美味しいという練馬大根の二種の大根にブレンドして、甘味、辛味、旨味を出しているとかで、特に「おろし」にはこだわりを持っておいでとか。しかも大根はこだわりの自家生産とかである。
 また「せいろ」は十割で細打ちだとか、どんな味がするのだろうか。それはまたの機会のお楽しみでもある。中でも「スペシャルせいろ」というのは山海の珍味が絡んでいるとか、ぜひ味わってみたいものだ。またこの時節、冬期の12月~3月には、「かけそば」と「鴨南ばん」が加わるとか、こちらも十割だそうである。
 奥の丸テーブルが空いたが、皆さんは入って来られず、今回の越前探蕎はこれにて打ち止めとなった。一般道を鯖江まで北上し、鯖江ICから北陸道へ、美川ICで下り、出発した白山市番匠へ戻った。着いたのは午後三時半少し前だった。

2012年3月16日金曜日

ガモフのビッグバン仮説の提唱と実証

ジョージ・ガモフはロシア生まれのアメリカの理論物理学者である。私が知っているのは高校3年の時に、担任で数学の先生であった西野先生に勧められてガモフ全集(当時は全9巻)を読み、数学や物理学の面白味を味わったことで忘れられない人なのだが、私は彼をずっと難解な物理理論を一般向けに解説し啓蒙する物理学者とばかり思い込んでいた。ところが、今日でいう「ビッグバン仮説」は彼が提唱し、それも核物理学者らしく明晰な論理立てでもって組み立てた末に自信を持って構築し、かつ彼が予見したことが後に実証されたということで、宇宙の創造を解き明かした偉大な先人であることが分かった。ここではその経過を経時的に記してみたい。以前に読んだガモフ全集には、ビッグバンに関わる記述はなく、最初の提唱は全集発行後の1948年である。以下に科学雑誌「ニュートン」の2010年10月号の「無からはじまった宇宙誕生の1秒間」及び創刊30周年記念企画の2011年8月号の前編「大宇宙」及び9月号の後編「大宇宙137億年」から抜粋したものをまとめてみた。なお、彼は64歳で早逝している。

[宇宙定常説」
 宇宙は永遠の昔から変わらずに存在していて、星座の位置が僅かに変化することがあっても、宇宙全体が大きく変化することはないと考えられていた。この考え方は20世紀初頭までは圧倒的に支持されていて、かのアルバート・アインシュタインでさえも、「宇宙は永遠に不変である」と考えていたようである。もっとも太陽の周りを公転する惑星の存在は知られていたので、宇宙は完全に不変で固定されたものであると考えられていたわけではない。
[原始的原子説]
 1927年、ベルギーの司祭であり天文学者でもあったジョルジュ・ルメートルは、遠くにある銀河が地球に対して遠ざかっているという観測結果から、独自の方程式を導き出し、時間を逆に戻すと一点に集約されることから、宇宙は「原始的原子」の爆発から始まったのではないかというモデルを提唱した。しかしそれは単なる思いつきと一笑に付され、支持する科学者は皆無だったという。
[ハッブルの法則]
 1924年、エドウィン・ハッブルは天体観測で、天の川銀河以外にも似たような星の大集団、すなわち銀河があることを明らかにした。1929年、これらほとんどの銀河が、地球に対してあらゆる方向に遠ざかっていて、その速度は地球から各銀河までの距離に比例していることを発見した。いわゆる「ハッブルの法則」の発見である。この法則の発見は、ルメートルの「原始的原子」の爆発から宇宙は始まったという仮設に対して、基礎的な裏付けを与えるものであった。しかし、ハッブル自身定常説を信じていたし、彼自身は天体観測こそが使命と考えていて、「宇宙の成り立ち」とか「宇宙の膨張」とかに対しては興味を示さなかった。
[火の玉宇宙]
 ジョージ・ガモフは自然界には92の元素があるが、全体の92.4%が水素(原子番号1)、7.5%がヘリウム(原子番号2)で、二つの元素で99.9%を占めるが、彼はこの数字は多すぎると考えた。ヘリウムは太陽などの恒星では、水素から核融合反応によってつくられるが、太陽に含まれるヘリウムの量を説明するには核融合反応のみでは不十分で、太陽ができる以前から大量のヘリウムが存在していないと説明がつかないとした。1948年、これを説明するために、「大昔、宇宙全体に水素が満ちていて、超高温・超高密度の状態で起きた核融合反応で大量のヘリウムが合成された」とした。宇宙の温度が10億℃になると、核融合反応によって、最終的に陽子2個と中性子2個が結合したヘリウム原子核がつくられる。陽子に比べて数が少ない中性子は、すべてヘリウムの原子核に取り込まれ、残された陽子は1個でそのまま水素の原子核になる。この火の玉宇宙での元素合成の理論(αーβーγ理論)はガモフが提唱した後、日本の宇宙物理学者の林忠四郎により改良され、αーβーγー林理論と言われている。このガモフの考えはハッブルの観測結果で裏打ちされ、過去の宇宙は今の宇宙より遥かに小さくて、かつ超高温・超高密度だったという考えに到達した。
[ビッグバン宇宙]
 1948年、この宇宙に始まりがあるとする考え方に対して、宇宙恒常説を信奉していたフレッド・ホイルは、出演したラジオ番組で、嫌悪の気持ちをこめて、そのような考え方(モデル)を "this big bang idea" と罵った。これ以降「火の玉宇宙」は「ビッグバン宇宙」と称されるようになった。
[原子の誕生と宇宙の晴れ上がり]
 核融合反応によってヘリウム原子核がつくられた後も、あまりの高温のために原子核と電子はバラバラに空間を飛び交っていた(プラズマ状態)。しかし宇宙誕生から38万年後に宇宙がさらに膨張し、現在の1000分の1の大きさになり、宇宙の温度が3000℃程度に下がると、電子や原子核の飛び交う速度が遅くなり、電子は負に帯電し、原子核は正に帯電し、遅くなった電子は電気的な引力によって原子核に捕捉されるようになる。こうして水素やヘリウムの原子が誕生した。するとこれまで空間を自由に飛び回っていた電子がなくなり、不透明だった宇宙が透明になり(宇宙の晴れ上がり)、光は真っ直ぐに進めるようになった。
[宇宙背景放射の実証]
 1965年、宇宙背景放射はアーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンによって初めて観察された。彼等はマイクロ波の受信機の性能を試験していた時に偶然、このマイクロ波を測定を妨害するノイズとして捕らえていたのである。その後ロバート・ディッチとジェームズ・ピープルズは、ペンジアスとウィルソンが捕らえていたノイズが、ガモフが予言した宇宙背景放射であることを実証した。ペンジアスとウィルソンはこの功績により、1978年にノーベル物理学賞を受賞している。この宇宙背景放射の発見は、過去にビッグバン宇宙が存在したことを示す証拠でもある。この宇宙背景放射は観測可能な最古の光で、特定の天体からやって来る光ではなく、全天のあらゆる方向からやって来ている。

[無から始まった宇宙誕生:原子の誕生まで]
● 0秒後:
 生まれた瞬間の宇宙は、原子(約10のー10乗m)や、原子核(約10のー15乗m)の大きさよりも小さかったとされている。誕生直後の宇宙では、自然界における基本的な4つの力の「重力」「電磁気力」「強い力」「弱い力」は統一されていたと考えられている。強い力と弱い力は、素粒子の間や原子核の中で働く力である。
● 10のー44秒後:
 宇宙温度は10の32乗K(ケルビン:絶対温度)くらい。重力が最初に分離する。
● 10のー43秒後:プランク時代
 現在の物理学で扱うことのできる最小の長さは約10のー33乗cm(プランク長)で、この10のー43乗秒という数字は、プランク長の真空中を光が通過するのに要する時間である。光速は30万km/秒。
● 10のー36乗秒~-34乗秒後:インフレーション(加速的な膨張)
 この時の宇宙の大きさは100m程度。この概念は佐藤勝彦とアラン・グースが個別に提唱したモデルである。宇宙は生まれた直後に、凄まじい速度で巨大化(10の30乗~43乗)した。この巨大化は初期宇宙を満たしていたエネルギー(インフラトン)によって惹き起こされたと考えられている。理論的には、宇宙のエネルギーがおよそ10の25乗電子ボルトの時に急膨張が起きそうだと推定されている。そして10の25乗電子ボルトになったのは10のー36乗秒後のことである。この時に真空の相転移がおき、宇宙が急膨張する。この頃に強い力が分離する。宇宙温度は10の29乗Kくらい。このインフレーション(急激な加速膨張)があったことで、宇宙の一様性をある程度説明できるとされている。インフレーションの命名はグースによる。
● 10のー27乗秒後:ビッグバン(インフレーション後に起きた灼熱状態の宇宙の誕生)
 宇宙の大きさは1000kmくらい。この時期物質の基となる素粒子が生まれる。宇宙は灼熱状態で、宇宙温度は10の23乗Kくらいで、物質と光が生まれる火の玉宇宙(ビッグバン宇宙)である。
● 10のー11乗秒後:弱い力と電磁気力が分離
 宇宙温度は10の15乗Kくらい。
● 10のー10乗秒後:反粒子の消滅
 反粒子がなくなる。(4秒後にはすべての反粒子=陽電子がなくなる)。ポール・ディックは1927年、反粒子の存在を予言する論文を発表した。それによると、すべての素粒子には電荷の異なるパートナーが存在し、粒子と反粒子はペアで生まれ、衝突すればペアで消滅するとした。そして超高温の宇宙では、粒子と反粒子の生成と消滅は同じ割合で起きていたが、膨張して温度が下がってくると、生成は起きにくくなり、消滅ばかりが起きるようになる。実際の宇宙では、何らかの理由で粒子が反粒子より僅かに多かったので、粒子が残った。生き残った粒子によって、銀河や星や生物ができた。
● 10のー8乗秒後:素粒子の海
 宇宙の大きさは今の数兆分の1、宇宙温度は数兆℃。クオークと呼ばれる素粒子とそれらの反粒子が、バラバラの状態で飛び交っていた。
● 10のー5乗秒後:陽子と中性子の誕生
 宇宙の大きさは今の1兆分の1、宇宙温度は1兆℃。素粒子のうち、アップクオークとダウンクオークが互いに集まって、陽子と中性子ができる。陽子はアップクオーク2個とダウンクオーク1個が集まったもの、中性子はアップクオーク1個とダウンクオーク2個が集まったもので、アップクオークの電荷は+2/3、ダウンクオークの電荷はー1/3で、計算すると、陽子の電荷は+1、中性子の電荷は0になる。
● 1秒後:
 宇宙の大きさは今の100億分の1。陽子、中性子、電子、陽電子が飛び交う。
● 4秒後:陽電子消滅
● 3分後:ヘリウムの原子核の誕生
 宇宙の大きさは今の10億分の1、宇宙温度は10億℃。核融合反応によってヘリウムの原子核(陽子2個と中性子2個が結合)が誕生した。
● 38万年後:水素原子、ヘリウム原子の誕生と「宇宙の晴れ上がり」
 宇宙の大きさは今の1000分の1.宇宙温度は3000℃。光は電子や陽子などの電荷を持つ粒子にぶつかりやすいという性質があるため、これらがあると光は直進することができない。しかし温度が下がって電子が原子核に捕らえられると、電気的に中性な原子が生まれ、光はぶつかる相手がなくなり、直進するようになる。これが「宇宙の晴れ上がり」で、この時の光を現在の地球で観測することができる。直進するようになった光は、宇宙の膨張とともに引き延ばされて、波長が長くなる。この波長の長い光が「マイクロ波宇宙背景放射」である。

2012年3月13日火曜日

「シンリョウのジュッカイ」 (8)

● ペンギンとトムキンスとガモフ
 ペンギンというのは高校の数学の先生で、僕等の三年の学級担任でもあった西野哲也先生のニックネームである。先生自らも私はペンギンだと言われていたから、余程気に入っておいでだったのだろう。ひょうきんで気さくで、親しみやすく、卒業時にはいろいろとお世話になり、手木町のお宅へも何回かお邪魔した。その後先生は高校長にもなられ、最後は教育委員会で定年を迎えられたが、世渡りも大変お上手だったようで、辞められて間もなく生前叙勲で勲三等瑞宝章を授けられた。先生は昨年他界された。
 高校時代は私は数学が大好きで、西野先生の授業を心待ちにするくらいであった。数学の授業だったか、ホームルームの時だったか覚えはないが、こんな話をされた。大和百貨店はとても大きくて重くて、持てるなんて考えも及ばないが、それをつぶして5cm角位の大きさにしたら、一見持てそうに思えるが、しかしその本体は大和百貨店なのだから、べらぼうに重く持てるはずがない。しかし原子間距離を極端に小さくすれば、このようなことも起りうる。このような非現実的な夢のようなことは、いろんな物理法則を逆手にとれば可能なことで、もしこのようなことに興味があれば、先ずは「不思議の国のトムキンス」という本を読んで見なさいと勧められた。受験を控えていたが、面白そうなので買って読んでみた。発行は1940年、日本語版の発行は1950年で、私が買って呼んだのは昭和29年(1954)である。
 この物語は、物理学の最先端の相対性原理や量子論に関する通俗講演を聴いたトムキンス氏が奇妙な夢を見るが、その夢の中で遭遇した奇妙な出来事を記したもので、日本語訳を担当した訳者は、この本はまるで物理学の漫画であると言っている。著者はジョージ・ガモフ、ロシア(現ウクライナ)生まれの物理学者、文章のみならず挿絵も描いていて、多才な一面を見せている。当時の訳者は物理学者で大阪大学教授の伏見康治である。教授講演内容は、「空間及び時間の相対性」「空間の彎曲と引力」「作用量子」の三講である。トムキンス氏が見た夢をいくつか紹介してみよう。夢では講演のテーマがいくつかオーバーラップしている。
 [夢 1] おもちゃの宇宙:この世界では、光の速度は秒速30m、万有引力は私達の宇宙の百万倍も大きく、宇宙直径は10km、最も大きく膨張した時の宇宙半径は約200km、宇宙の脈動周期は約2時間、岩石の密度は地球上のものと同じという設定である。ここでは「我々の住むこの空間は彎曲し、それ自身において閉じ、加えて膨張しつつある」という言葉と関連している。トムキンス氏と教授は直径10mの岩に乗っているが、これは宇宙の岩であるので、朝はない。ところが隕石が飛んできて、教授の手帳を突き飛ばした。しかし教授は一向に慌てず、この空間は閉じているのでやがて手帳は帰ってくると言う。それは東へ行けと命令された人が、地球を一回りして西から帰ってくるのと似ていると。そして光も帰ってくる。またこの宇宙は今は膨張しているが、やがて収縮するとも。その時遠方の物体の色は赤から紫に変わる。やがて収縮してきて熱くなり、耐えられなくなって目が覚めた。
 [夢 2] のろい街:ここでは光の速度だけ20km/時になっている。街角にいたトムキンス氏が見た自転車の人は、信じられない位平たくなって見えた。また通りを走っているタクシーもちっとも速くなく、這っているようだ。自分も自転車に乗ったが、スピードが上らない。それは光の速度を超えることは不可能だからだとか。また光速では時間の経過も遅くて、いつも光速で旅行している人はゆっくりとしか歳をとらない。
 [夢 3] 量子の叢林:トムキンス氏は教授と狩りの名人リチャード卿と象に乗り、量子定数の極めて高い量子のジャングルへ虎狩りに出かける。森へ入ると物凄い唸り声がして虎の一群が象を襲ってきた。リチャード卿は一番近い虎の両眼の間を狙って引き金を引いたが、虎はちっとも傷を受けていない。教授はぐるりといる虎をずっと撃ちまくれ、虎はたった一頭なのだと言う。弾丸が当たると、虎は忽ち一頭になった。帰りにカモシカの大群が竹薮から現れた。リチャード卿は銃を構えたが、教授は押し止めた。撃っても無駄だよ。一頭のカモシカが廻折格子の中を通っている時は滅多に当たらないよと。
 ここにはほかに「量子の部屋」「休息の一日」「最後の冒険」の3編が載っている。

2012年3月7日水曜日

漸く石川県予防医学協会を退職できることに

もう随分以前から退職をお願いしてあったのだが、今年の2月11日の誕生日には75歳になることでもあり、これを機にぜひ退職をとお願いしてあったところ、2月上旬になって専務理事から、今年度末で退職ということでお許しが出た。ただその時点ではまだ他言しないでとのことで、このことは家内にのみ話した。その後事務的には誕生日を境に社会保険証を返上し、以降は後期高齢者の保険証に切り替わった。その後協会の人事担当から、毎年4月から6月にかけて集中して実施される石川県の春季学童健診に、これまで私が協力してきたぎょう虫検査に今年も協力していただきたいので、退職を6月末にしてもらえないか、これは理事長にも専務理事にも了解を得ているとのこと、この事業は協会創立以来の根幹事業でもあり、また後の体制を整備するには時間を要するとのことで、それじゃこれを最後のご奉公にしようと思い了承した。この事業、少子化で年々数は減っているとはいうものの、昨年同期には主に県下の小学生・幼稚園児・保育園児8万3千人を対象に、12万枚もの鏡検が行なわれ、そのうち私は10万枚強を鏡検した。
 それで退職願は退職1ヵ月前に提出することになっているが、今年度末の退職ということで、3月1日付けで退職願を提出、ただ退職日は6月末とした。
 当初、専務理事からは今年度末で退職ということで、私は幾つかの会合や私的な旅行をスケジュールに入れていたが、これは一旦は白紙にせざるを得なかった。この時節は年金の支給が65歳からということもあって、60歳を過ぎても沢山の方が働いておいでるが、自営業の方ならいざ知らず、小中学校・高校・大学の同窓生で、70歳を超えて常勤で勤務されている人はごく少数である。大部分の人はサンデー毎日であるが、でもそれぞれに有意義な人生を謳歌されておいでる。これは羨ましい。
 ある中堅の特殊染色メーカーの常務だった方、特殊な仕事でもあり、会社でも重宝され、定年後もかなり長く勤務されていた。この方はお酒は大好き、女の子も大好き、両手に花でないとご機嫌が悪いという大変な御仁だった。ところで念願がかなって退職されたので、その折小宅へお招きして小宴を催したことがある。その日もお酒は召し上がられたが、以前のような豪快さはなく、一見して随分お疲れという印象を受けた。本人はその異変に既にお気付きだったのかも知れない。そしてその方は私に、「木村さん、請われて定年後も勤務を続けられるのもよいけれど、元気なうちに辞めて、心も体も労わってやって下さい」と。「私はもう疲れてしまって、以前のように飲んだり楽しんだりする元気が失せてしまいました」とも。「体を壊してから辞めたのでは、もう遅いんです」とも言われた。その方の疲れというのはずいぶんと曲者であったらしい。その後その方は入院されたが、医者では対症療法でしか治療できないという難病だということで、好きだったお酒も飲めなくなり、1年余の療養で亡くなられてしまった。私にはいつもあの方が親身になって話された言葉が頭を過ぎる。
 今は家内と二人の生活、二人とも勤めに出ている。私はこの6月で悠々自適のサンデー毎日になる予定だが、500坪もの敷地の管理、100坪の居宅の管理、書画骨董蔵書ガラクタの整理等、私が生きている間にしておかねばならないことは山積している。長男はまだ46歳、60歳定年としてまだ14年、私がもし生きていたとすると89歳、多分定年以前には帰ってこないだろうから、それまでには何としても整理をしておかねばならないと思う。
 今年はスキーに行ったのは1回きり、昨年よりももっと脚力の衰えを感ずる。緩斜面ならいざ知らず、もうそろそろ出る幕ではないような気がする。ただ念願の白山禅定道の石徹白道の踏破だけはどうしても今年中にやりたいと思っているのだが、果たして実現できるだろうか。また家内とも旅行をしたいと思ってはいるが、これも家内が退職しないとままならないようだ。また共に楽しむには共に元気であることが必須な最低要件でもある。

2012年3月1日木曜日

石川県石川郡野々市町から石川県野々市市へ

野々市市の広報では、2011年11月11日に、石川県内で11番目の市になるという触れ込みで、11が重なるような日を選んで市に昇格させるとあった。またこの日行なった新市を祝う記念式典も午前11時に行なうという懲りようだった。そして石川県での合併によらない単独での新市誕生は、昭和45年(1970)の松任市誕生以来41年ぶりとのことである。とは言っても松任市も野々市町も、昭和の大合併では、旧松任町は1町に12村が編入して新松任町が出来ているし、野々市町も富奥村と昭和30年(1955)に合併して新野々市町が出来、その後昭和31年(1956)には郷村の9大字が、また昭和32年(1957)には旧押野村の4大字が金沢市から編入して、新野々市町が出来上がっている。このようにして、昭和の大合併では、多くの例では、全町村挙げて合併や編入が行なわれたが、新生野々市町の場合は、編入に際しては相当な紆余曲折があった。
 昭和の大合併の前には、野々市町は石川郡の中では四部という枠組みで、旧の額村、富奥村、野々市町、押野村の4町村が共同体のような形で、私が国民学校や小学校の頃はしょっちゅう行き来があったもので、特に野々市町は押野村と絆が強かった。したがって、昭和の大合併の時もこの1町3村が一緒になるものと思っていたら、いち早く昭和29年(1954)に額村が離脱して金沢市に編入してしまった。これは村の住民の意向というより、むしろ村役場や村議会の意向が優先したためだろうと推測している。
 額村が抜けた後、全町全村が一致して合併に前向きになったのは野々市町と富奥村のみで、そこでこの1町1村の合併で新野々市町が昭和30年(1955)4月1日に発足した。そしてもう一つの相棒であった押野村は、村議会の議決で昭和31年(1956)1月1日に金沢市に編入してしまった。この事態に押野、御経塚、野代、押越の4部落の住民は猛反対し、小中学生を野々市小中学校へ無理やり転校させ抵抗した。この時期部落へ入る道路の入り口では厳重な検問があり、関係者以外は村へは入れない事態になった。この事態を重く見た金沢市議会は、住民のほぼ全部が野々市町への編入を希望している押野町を除く3町を野々市町へ編入させる議決をした。ところが旧押野村の役場があった押野町は決着がつかず、住民投票の結果を待つことになった。このときの殺気立った様子はすごかった。結局旧押野村大字押野の南側3分の2は野々市町へ編入、北側3分の1は金沢市に残ることになり、昭和32年(1957)4月10日に野々市町への編入と金沢市への残置が決まった。現在その名残は地名に残っていて、野々市町には押野1~7丁目、金沢市にも押野1~3丁目がある。今バス停に押野2丁目とあっても野々市か金沢かの判別はできず、本押野とか押野6丁目とあれば野々市地内だと判別できる。これは交差点名でも同じことである。
 郷村の場合は、12ある大字のうち、予め松任町寄りの4大字は松任町へ、野々市町寄りの7大字は野々市町へ編入することに村内で同意が成立していたが、ここでも旧郷村の役場があった大字田中では大いにもめた。そして結果として、役場、学校、公民館のあった中央部が松任町へ編入、南と北の地内は郷町と名を変えて野々市町へ編入することになった。両町への編入は昭和31年(1956)9月30日であった。
 こうして新しい野々市町が誕生したが、当時の人口は1万人にも満たなかった。その後人口が1万人を超えたのは昭和39年(1964)、その10年後の昭和49年(1974)には2万人を突破、さらに7年後の昭和56年(1981)には3万人をクリア、その14年後の平成7年(1995)には4万人を超え、その14年後の平成21年(2009)には5万人を超えたと石川県統計情報部から発表があった。翌平成22年(2010)10月1日には国勢調査が行なわれ、翌年2月の速報値では5万人達成が報じられた。そして市制移行を希望する野々市町に対して、総務省は平成23年(2011)8月12日付けの官報で野々市町を野々市市とすることを告示した。国勢調査による確定値は51,885人である。但し野々市市の住民基本台帳に記載された人口は、平成23年(2011)12月末現在で48,025人である。ちなみに野々市市の面積は13.56平方kmで県内最小だが、1平方km当たりの人口密度は3,826.33人と県内では跳び抜けて高い。また年齢別人口構成を見ると、20代が特に多く、これは市内に石川県立大学と金沢工業大学があるので、その学生数が反映されているのではと言われている。なお平成24年(2012)1月1日現在の石川県統計情報室の数字では、野々市市の人口は53,246人である。
 町から市へ移行になって設置しなければならないのは福祉事務所だけである。それはそうとして、町が市になっても、その要件ではないにしろ、自前の消防、ゴミ処理、火葬の施設がないと言われる。これは市の面積が小さく、高低差が5m以内とほとんどまっ平らという地形とも関係している。しかしこれに対しては、旧石川郡の松任市、美川町、鶴来町、白山麓5村とも密接に連携していて、消防では旧松任市と、ゴミ処理は旧松任市、鶴来町と、火葬は旧鶴来町、白山麓5村と、総合医療は旧松任市、美川町と公立松任石川中央病院を運営していて、これらの連携は今も白山野々市広域事務組合の形で運用されている。

[附1]市への要件は人口50,000人
 町から市に移行するには、5年に一度実施される国勢調査での確定数が50,000人以上であることが要件である。もっとも平成の大合併では、合併した場合に限って30,000人以上ならば「市」を呼称してよかったが、今はこの特例はない。平成24年2月26日の朝日新聞に、「市昇格へ人口水増しか」「愛知・東浦町、国勢調査で」という見出しの記事が載った。東浦町は名古屋市の南、知多半島の根っこに位置する町で、産業としては、自動車関連や木材加工などの製造業が盛んで、かつ名古屋市のベッドタウンともなっている。ところで町は2010年10月1日の国勢調査では5万人を超えると予測し、2008年4月には市制準備室を設けて対応してきた。事実、総務省は2011年2月の速報値では「50,080人」と発表した。ところが調査票の点検で、同じ人が重複していたり、同居人が後で書き加えられたらしいと疑われる例があったり、一人暮らしの日本人世帯に複数の外国人が同居していたりと、ミスでは説明できない事例があり、町に調査を依頼したが、回答では「不正はなかった」「原因は不明」とのことだった。そこで国が調査したところ、少なくとも280人分の調査票については居住実態がないこと、そのうちの90人は住所が空き地であることが確かめられた。そして2011年10月、速報値から280人を引いた「49,800人」を国勢調査の確定値とした。この結果、町は市への昇格を断念したという。当初の目論見が外れた原因としては、2008年秋のリーマン・ショックを契機に外国人労働者の帰国が続き、人口が減り続けたことがあり、それを受けての苦肉の策としての水増しだったようだ。
 ふりかえって、野々市町に金沢工業大学が出来たとき、大学は野々市町に対して金沢市へ合併するよう強力に働きかけてきた。そして住所は石川県石川郡野々市町と書かず、石川県金沢南局区内野々市町と表示していたのを思い出す。という私も早く市にならないかと願望していた一人だ。「市」にはそれなりに「郡」や「町」にない魅力があるようだ。

[附2]石川郡の生い立ちから消滅までの変遷
 野々市町が野々市市になったことで、石川県から石川郡の名が消えてしまった。少しその沿革を追ってみたい。
 古く平安時代に加賀国が設置された後、手取川以北浅野川以南を石川郡と称した。 
 明治5年(1872)には加賀国が金沢県を経て石川県になり、明治11年(1978)には郡区町村法により金沢区が石川郡より分立した。そして明治22年(1989)には市制により金沢市が誕生した。その後この金沢市には石川郡から、大正14年(1925)には野村・弓取村の2村が、昭和10年(1935)には大野町・富樫村・米丸村・鞍月村・潟津村・粟崎村の1町5村、昭和11年(1936)には三馬村・崎浦村の2村、昭和18年(1943)には金石町・戸板村・二塚村・大野村の1町3村、昭和29年(1954)には額村・内川村・犀川村・湯涌谷村・安原村の5村、昭和31年(1956)には押野村の1村の、計2町18村が石川郡から金沢市に編入された。
 野々市町は、大正13年(1924)に野々市村が町になり、昭和30年(1955)に富奥村と合併、昭和31年(1956)には郷村、昭和32年(1957)には旧押野村が編入して新野々市町ができた。
 松任町には、昭和29年(1954)に柏野村・笠間村・宮保村・一木村・御手洗村・旭村・中奥村・林中村・石川村の9村が編入、昭和31年(1956)には郷村、昭和32年(1957)には山島村が編入し、新松任町ができ、その後昭和45年(1970)には松任市となった。
 美川町は、昭和29年(1954)に蝶屋村・能美郡湊村の2村が編入し、新美川町ができた。
 鶴来町は、昭和29年(1954)に館畑村・林村・蔵山村・一ノ宮村の4村が編入し、新鶴来町ができた。
 平成17年(2005)、松任市と石川郡の美川町、鶴来町、白山麓5村(河内村・吉野谷村・白峰村・尾口村・鳥越村)が合併して白山市となった。
 そして平成23年(2011)には、野々市町は野々市市となり、こうして石川郡は消滅した。