2012年1月23日月曜日

「シンリョウのジュッカイ」 (7)

● 大怪我で九死に一生を得る
 父の軍隊での土地返還の残務整理も終わり、私たちは金沢市十一屋町から野々市町へ帰ってきた。そして4月には野々市小学校へ転校して5年生に転入、弟は新入生として入学することになった。そして1町歩の農地を耕してお米を作る百姓の一歩を踏み出すことになった。巷の噂では、まったくの素人百姓が長続きする筈がない、いずれは早晩ギブアップするのは火を見るより明らかと言われていた。だから近所でノウハウを教えてくれる人は誰もなく、四面楚歌での米作りが始まった。でも捨てる神あれば拾う神ありで、田起こしは、父の軍隊の関係で、町で馬喰をしている方が協力してくれた。当時は田起こしは牛か馬に犂を引かせてしたものだ。荒起こし、代掻きの後、苗を植えるには田を均さねばならず、それには重い板を引っ張って均した。苗は苗代田で育て、均した田には枠を回して枠の跡を付け、苗を植え付ける。しかしこの枠回しは中々熟達した技が必要で、田圃一面に綺麗な枠跡を付けるのは、素人にとっては至難の技、しかもやり直しがきかず、しかも優劣の差が歴然とする。これには苦労した。
 百姓をしていて集中して忙しいのは田植えと稲刈り、初年度は周りの人の協力もなく、馬喰の方の斡旋で、植え付けの時期が遅い羽咋の方から何人かに来て頂いて、どうやら田植えを乗り切った。
 私が田圃に借り出されたのは、「田植え」と「らち打ち」と「稲刈り」だった。らち打ちは今では全く行なわれていないが、草取りと稲の根に活力を与えるために行なうもので、どこの家でも大概子供の分担だった。ところで百姓をして数年も経った後には、田植えは「結い」といって数軒が纏まってやるようになったので、始めた頃のような心配はなくなった。それから秋の仕事の稲刈りも一時(いっとき)仕事なので、初めての年はやはり応援を頼んだ。稲刈りは天気の良い日に刈ることにし、午前に刈った稲は、午後には何株かをまとめて結び、それを「きらば」にして積む。その後、明日天気が良いようだと夕方まで刈り、刈り倒しにしておく。全部刈り上がって積んだら、順次「きらば」を崩して天日干しにし、乾かしてまた積み直し、大体3回位干すと乾燥するので、荷車に積んで納屋に運ぶ。その後納屋で脱穀する。納屋が小さくて入らない家は、天気の良い日に田圃で脱穀していた。その点私の家は大きな米倉と納屋があったので、稲束を全部収容できた。当時の脱穀は足踏み式の脱穀機でしていた。ただ籾摺りは小型の籾摺り機で対応していた。その後米選機で粒を揃え、4斗ずつ米俵に詰め、供出用のには新しい俵を、保有米のには前に使った古い俵を使った。供出に使う米俵と桟俵は、農閑期の冬の間に藁で編んだ。
 さて、稲刈りが済んだ後のとある秋の昼下がり、私は弟と妹と三人で、近くにある学校の運動場にいた。何をしていたかは定かではないが、夕方近くになり家へ帰るのに競争して帰ろうということになった。お宮さんの境内を通って帰れば、ものの1分程で帰られる距離、私が一番に納屋に着いた。両親は納屋には居らず、納屋には足踏み式脱穀機が置いてあった。一度は使ってみたいと思ってはいたが、子供では稲藁が引っ張られて危ないとかで使わせてもらえなかった。弟たちはまだ帰ってこず、これは千載一遇のチャンスとばかり、足踏み板を踏んで機械を動かした。稲束を持って機械に当てたが、予想以上の引張りがあり、途中で稲束を放してしまった。それで機械を止めねばと思った。ブレーキは付いておらず、本来なら踏み板を足で踏んで抑えればよいのだが、私は噛み合っている歯車に左手の中指を入れて止めようとした。ところがアッと言う間に中指は歯車に巻き込まれてしまった。機械は止ったものの代償は大きかった。
 歯車を戻し、指を抜き、手が油まみれなので、流しへ行って手押しポンプで水を汲み、水で左手を洗った。痺れていたせいか痛みはそんなになく、出血もさほどでもなかった。見ると、中指は完全に潰れていたし、人差し指は根元の所でくっついてはいるものの、ブランと下がっていた。黒い油は水だけではほとんど取れなかった。こんな私を最初に見つけてくれたのは、薬剤師で山崎太可堂へ婿入りすることになっていた叔父で、持ってきたマーキュロクロム液(通称赤チン)をぶっかけ、包帯で左手をぐるぐる巻きにしてくれた。当時の野々市町には二軒の医院があったが、いずれも内科医だった。両親に連絡し、ハイヤーで大学病院へ、熊埜御堂外科だったと思う。緊急に手術がなされた。結果として中指は切除、人差し指は挫滅していたがどうにか繋がっていたので、縫合された。でもこの縫合が後で火種となった。
 一応表向きの傷は塞がって退院した。しかし何となく傷の場所に爆弾を抱えているような違和感があった。そんなある日の午後、布団に横たわって寝ていたとき、突然左手の傷の部分から大出血した。「かあちゃん、でたっ」と叫んだ。何か生ぬるいものが左手の包帯の中に充満した。そして記憶を失った。
 私は夢を見ていた。始めは暗いトンネルを歩いていた。遠くに明かりが見えている。トンネルの出口なのだろうか。私はその明かりに向かって歩いている。衣装は纏っているのだろうけど、どんなかは記憶にない。しかし行けども行けども遠くの明かりは近づかない。でも突然暗闇だった視野が明るい野原に反転した。野原にはポピーのような丈の低い草が一面に生えていて、いろんな色の花を咲かせている。そんな中に一筋の道がついていて、私はそこを歩いている。行く手には靄がかかっている。明るい陽が射しているかどうかは分からない。ただ何処へ行くという当てがあるわけではないが、足が何かに魅かれるように動いて行く感じだ。やがて遠くに低いが山のような丘が見えてきた。どれ位時間が経ったのかは分からない。すると行く手に小川が見えてきた。少し左にカーブして、小川の辺に着いた。すると、向こう岸に男の人か女の人かは区別がつかない人がいて、此処は子供の来るところではないから帰りなさいと言われる。何の疑義も差し挟まないまま、黙って今辿ってきた道を戻ることに。すると程なく野の風景は突然なくなり、現実に。そして正気に返った。九死に一生を得た瞬間だった。
 後で母に聞いた話では、母が戻ると出血して布団も血で濡れていて、私は気を失っていたとか。母は私を抱こうとしたらしいが、抱いてはいけないと叔父に言われ、取り敢えずかかりつけでもあった川畑さんという医師へ連絡し来てもらったという。これは輸血しないと命を落とすと言われ、父か母かどちらかは分からないが、緊急なので親の血を輸血することにしたという。私の腕の血管からは輸血ができず、窮余の一策で足のくるぶしのところから試みてやっと輸血できたという。そうしてやっと血の気が射してきたとかだった。大学病院へハイヤーで搬送され、緊急手術を受けた。人差し指の縫合部分が化膿していたのは、藁などの夾雑物を閉じ込めたまま縫合してしまったためとかだった。今度は念入りにきれいにして縫合し、その後はトラブルもなく退院できた。
 その後暫らくは左手に添え木を当てて、包帯でぐるぐる巻きにして学校へ通った。当時学校にはナトコとかいう巡回映画が学校を回っていて、そのときに野口英世の伝記ものが上映された、彼は幼い時に、囲炉裏に掛かっていた鉄瓶のお湯で火傷して、指がくっついて開けなくなる大火傷を負った。それで「てんぼう」というあだ名が付けられたという。一方で私も左手をぐるぐる巻きにしていたものだから、早速「てんぼう」というあだ名を頂戴することになった。その時の印象では、似ていたから致し方はないものの、あまり有り難いあだ名ではなかった。傷がきちんと治ってからも、一時は手の先に針金の輪を付け、人差し指を真っ直ぐに引っ張っていたこともあったが、その効果はあったのだろうか。爪が伸びてくるので、指も伸びるのかと期待したが、医者からは骨が切れているのでそれはないと言われた。だから今でも左手の人差し指の長さは、小学5年の時のままである。
 私の父親の末弟の四番目の叔父は、当時東大の学生だった。当時は医学部薬学科に在籍していた。終戦後は学費の仕送りもままならず、大変だったようだ。一時は小石川植物園の元クジャクがいた部屋で寝泊りしたという話を聞いたことがある。でもお盆とお正月には野々市の実家に帰ってきていた。私は博学だったこの叔父に傾倒し、草木、鳥、星、そして音楽の楽しみを教えてもらった。そして学校にあったタテ型のピアノで、運指をバイエルで教えてもらっていた。しかしそれも一夏だけで、秋には大怪我をして左手の第2指と第3指を廃絶してしまい、ピアノは中止せざるを得なかった。私が博物学や音楽に興味を持ったのも、大学へ進学するのに医学部ではなく、薬学部へ進んだのも、叔父の影響が極めて大であった。その叔父は今年卒寿を迎える。
[異 聞]
 高校から大学へ進学するに当たって、先生からも親戚からも金沢大学の医学部を受験するよう強く勧められた。今の泉丘高校と違って、一時は小学区制だったこともあるが、とにかく総合成績では3番を下ることはなかった。しかし左手の二指の廃絶は重くのしかかり、医学部へ入るとは医者になることと思い込んでいたから、こんな手で診療はできないと思うと、とても受験はできなかった。もしあの時、基礎研究もできると誰かから聞いていれば、そんなに抵抗はしなかったと思う。私の卒業した昭和30年(1955)当時は、金沢大学で最も偏差値が高かったのは薬学部で、医学部はその次だった。だから医学部へは当時の泉丘で20番位までだったらストレートで進学できた時節だった。この年の金沢大学のトップ合格者は、薬学部を受験した定時制高校出の人で、新聞には大々的に報道された。母子家庭の方で、私より5歳年長だった。

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