2012年1月17日火曜日

山崎家の法事での話題

平成24年(2012)1月9日、山崎家の現当主の御母堂の満中陰の法要があり、その後での食事をしながらの懇談では、いろんな話が出て、興味が尽きなかった。その中からのいくつかを紹介してみようと思う。

(1)浄住禅寺の御住職の話
 このお寺は金沢市長土塀三丁目にあり、山崎家の菩提寺で、現住職は50代目、開山したのは七百年前とか、御住職の話では門前の総持寺より古いとのことであった。七百年前というと鎌倉時代後期、開山時は山崎の庄にあったとされ、山崎家も同じく山崎の庄の出という。兼六園内には山崎山というのがあるが、これは山崎の庄に因んだものだと、山崎家の先代(木村の出で、私の叔父)が話してくれたことがある。山崎家と浄住寺との付き合いは七百年昔の頃からあったのだろうか。とにかく山崎家の先祖代々の墓は浄住寺の墓地にはある。宗派は曹洞宗で、浄住寺の開山時には、現在金沢市長坂にある「東香山大乗寺」は既に野市(現在の野々市市)にあったという。現住職の話では、明治になり武家の衰退で檀家が少なくなったこともあって、寺の維持が大変だという。でも御住職のお話では、現在金沢市での既存仏教の色分けは、浄土真宗が8割、次いで曹洞宗(禅宗)が15%、次いで日蓮宗、浄土宗だというから、満更でもないのではないか。そういう木村家は浄土宗なのだが、そういえば旧野々市町には木村家以外には浄土宗の家はなく、大部分は浄土真宗である。ひるがえって、往時野々市町の学校へ寄留していた金沢市の旧三馬村横川出の家はそのほとんどが禅宗である。
 門前の総持寺はその前身は「諸嶽観音堂」という真言律宗の教院であって、大乗寺の二世の榮山禅師が時の住職の定賢から請われて入院し、1321年に寺号を「総持寺」、山号を旧名に因んで「諸嶽山」と改名し、禅院としたとのことだ。その後大本山としての総持寺は明治44年(1911)に石川県から神奈川県(横浜市鶴見区)へ移転し、以後門前にある総持寺は「総持寺祖院」と呼ばれているという。
 山崎の叔父は金沢薬専を出た薬剤師であるが、その先々代も、未だ薬専が広坂の第四高等学校の校舎にあった時の卒業生であったという。ある時金沢で下痢を主徴とする病気(何か不明)が流行った時に、その先々代が患者に石炭酸を飲ませたところ(どういう処方か全く不明)本復し、患者はもとより、健康者も予防に飲んだことから、それで一財産を築き、旧英町一帯はほとんどが山崎太可堂(たいかどう)の地所だったという。しかしその後の相続に際して、そのほとんどを手放したとのことだった。

(2)山崎とみさんの話
 彼女は三人兄妹弟(皆さん薬剤師)の真ん中、未だ独身、天衣無縫というか、行動も大胆で、時に常軌を逸することもあり、しかも神出鬼没、恐れを知らない胆力の持ち主である。女性であることに間違いはないが、女らしさは持ち合わせてはいなくて、またそれが武器となっているという女御である。父の死に際しては、デスマスクを二面採ったと話していた。
● 納骨のこと
 父の死の時もそうだったが、この度の母が亡くなったときも、とみさんの一存で、火葬後の骨はすべて彼女が持ち帰った。父の骨はどうしたのかと浄住寺の住職の方が聞くと、菩提寺の浄住寺の先祖代々の墓へ入れたほかに、父が生前わしは山崎の墓へ入らんと私に話していたので、木村の菩提寺の法船寺に新しく父の墓を作ってそこにも納めたと、それは私も案内を受けて知っている。後は本山の永平寺と榮山禅師の誕生寺へ納めたとか。それは皆さんと相談してそうしたのかとお寺さんが聞くと、私の一存でという返事、これには母も兄弟も関わっていないとのことだった。
● 音楽との関わり
 彼女は独身貴族である。よくある海外旅行の話は彼女から余り聞くことはないが、音楽会にはよく出かけているようだ。いつか持っているチケットを見せてもらったことがあるが、かなりの枚数を持っているのに驚いたことがある。私が聴くのは金沢でだけだが、彼女は東京や大阪、時にはウィーンやザルツブルグへも出かけるというから驚きで、その現地での証拠だといって写真を見せてくれたりする。金大名誉教授の岩先生も音楽に造詣が深く、外国特にオーストリアへ出かけられたりするが、彼女は先生とどこかでお会いしたことがあるとか、とかく行動範囲が広いのに驚く。
 また本人は声楽はアマチュア・プロであると自称している。事実アンサンブル金沢とかの合唱団に所属していたこともあって、第九やメサイアにもアルトのパートで出たことがあり、下の弟もテノールのパートで出ていたという。私も二度ばかり聴かしてもらったことがある。一方ヴァイオリンも弾くようである。亡くなった母親の長姉(故人)は金沢で初の脳神経外科医院を開業した山本医師(他界)の許へ嫁いだが、その家から借りていたヴァイオリンをやっと返してくれたと、現当主の山本院長(彼女と従兄の間柄)が話していたが、彼女は代わりに30万円のヴァイオリンを買ったとか。それで何とかいうプロのピアニストとデュエットするとかで、相手の写真も見せてくれたが、独りよがりでなく、人にも聴かせられる程のものなのかどうか、話を聞いていて何とも不思議な気分になった。叔父で彼女の父の弟は四高時代からチェロや声楽をやっていたほか、ヴァイオリンやフルートや琴などにも堪能だったが、彼女にもそんな血が流れているのだろうか。
 話がオーケストラアンサンブル金沢(OEK)のことに及び、今年のニューイヤーコンサートの指揮をした山田和樹は私が提案して実現できたという。昨年の東日本大震災で日本への渡航を拒否した指揮者がいて、金沢では代わりに山田和樹が振ったが、その折とみさんが彼と馴れ馴れしく会話しているのを見て驚いたものだが、満更話に嘘でもないらしいところがある。OEKの専務理事(泉丘高・県庁の後輩)や音楽監督とも自由に話すとか、また正規ではないが自称応援団と称していて、主演・共演する奏者の提案も時折するとのことだが、当然のことながら決定権はないものの、大概は私の提案は通るとか言っていたが、これも驚きである。山田和樹は現在OEKのミュージック・パートナーに就任している。
 例のカラヤンの件のことを聞いたら、大阪でのコンサートの折、コンサートホールとホテルとが地下通路でつながっていて、たまたまその通路をカラヤンが一人で歩いているのに出くわし、色紙にサインをお願いしたところ気軽に応じていただけ、握手もして頂いたとかで僥倖だったと言っていたが、これはまだあのヴァイオリンを借りていた時のことで、あのヴァイオリンには不思議な魔力が宿っていて、それにあやかったからだと述懐していた。
● 叔父が山崎へ婿入りした経緯
 叔父が薬専を卒業した後、地元の製薬会社に就職したものの、程なく召集され、内地勤務となった。当時私はよく叔父に手紙を書き、叔父からも絵葉書で便りをくれていた。終戦後は野々市の実家に帰ってきていたが、程なく縁談がまとまり、英町の山崎太可堂に婿入りすることになった。この縁談がどうして纏まったのかを知りたくて話を出した。すると山本院長は、私の母は山崎の長女で、医者である父は軍医となって、叔父とは習志野で一緒になり、医師と薬剤師の関係だったという。当時山崎の長女と次女は既に嫁いでいて、その下に長男と次男がいたが二人とも他界してしまって山崎を継ぐ男性がいなくなり、急遽三女に婿をということになり、白羽の矢が立ったのが山本軍医のお眼鏡に適った叔父だったということだった。これは山本院長からばかりでなく、とみさんからも、また同席されたとみさんの叔母の次女の方からも聞かされた。

(3)山本院長の話
 叔父は調剤薬局が導入されると、卸部門は止めて、漢方薬の勉強を始め、市販の漢方薬ではなく、自分でいろんな処方をしていた。その処方は叔父の方から医者に患者の様子を聞いて処方し、医師にその教えた処方を書いてもらうというやり方をしていた。山崎脳神経外科医院も親戚であり、漢方薬の勉強をするようにとテキストも頂き、それなりに知識を集積したとは院長の言だった。ところが、時に院長の私の意見と叔父の意見が一致しないことがあり、おかしいと言ったことがあるが、叔父はがんとして処方を改めることはなく、当惑したこともあったとか。同じ意見の不一致は、金沢大学薬学部生薬学教室に席を置き、学生らの漢方薬研究会の顧問をしていた2歳下の叔父との間でもあり、二人が会うとよく議論をしていた。私にも勉強するようにと漢文のテキストを頂いたが、深入りすることはなかった。漢方処方は現当主も踏襲はしていないようである。

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