2011年6月15日水曜日

丹但探蕎の二日目は出石町へ

 初日の晩に投宿したのは城崎温泉の「つばきの旅館」、諸氏は着くなり城崎温泉の外湯巡り、また今朝も早朝から外湯巡り、中には一番乗りをして記念の手形を頂いた方もいた。朝食を済ませての出立の予定は午前9時、今日の予定の目玉は、円山川沿いにある玄武洞の見学、昼は南下して出石町まで行き、「出石皿そば」を食し、北上して天の橋立に立ち寄り、その後帰沢する予定となっている。朝出立となって旅館の主人の椿野さんがお出でになり、玄武洞見学の後、出石町への途中に、コウノトリが自然繁殖しているハチゴロウの戸島湿地とか、コウノトリを飼育しているコウノトリの郷公園やコウノトリ文化館があり、ぜひ見て行かれたらと言われる。椿野さんは合併後の豊岡市の市会議員であり、また城崎町の消防団長でもあって、また「そば」ならここと、旧日高町の神鍋や旧但東町の赤花の地産地消の「そば」を勧められた。でも出石の町が初めてという方もお出でることから、予定どうりの行動とする。ただコウノトリは途中とのことで寄ることにした。玄武洞では自然の匠の技に感嘆し、コウノトリの子育てを見、飼育施設と文化館を見学し、予定通りの時間に出石町へ入った。車を空いていた鉄砲町駐車場に停める。すぐそばにはこれまで二度寄ったことのある「そば庄鉄砲店」がある。今日のお目当ては「南枝小人店」である。
 出石町は三方を山に囲まれた町で、中心部を南から北へ出石川が流れていて、美しい白糸の滝や奥山渓谷とかもある自然豊かな町である。ここ出石とそばのつながりは、三百年前の宝永3年(1706)に出石藩主松平氏と信州上田の仙石氏がお国替えとなったことに由来する。その際、家臣と共に随伴したそば打ち職人が出石で最初のそば店を出し、初め「大黒屋」と称した。その後嘉永6年(1853)、時の藩主から漢代の五言詩の一首の中の一句「越鳥巣南枝」から「南枝」の屋号を賜り、今日に至っている。「南枝」には本店の柳店と支店の小人店があるが、私達の向かったのは後者の方である。駐車場からは大手前通りを城の方へ南下し辰鼓楼の脇を通り、内町通りを右に折れ、旧国道を左へ折れると左側にある。大きな看板には「創業宝永三年 出石皿そば元祖」とある。店の前は広く、車は優に10台は置けそうだ。ところが店の戸は閉まったまま、日曜だから休みな訳はない。案内を乞うと、もうしばらく待ってほしいとのこと、止むを得まい。
 11時に戸が開く。右手にあるテーブルに陣取る。左手には小上がりと和室、51名収容できるそうだ。皿そば6人前と蕎麦前を頼む。客はほかに居ない。出石皿そばは、出石焼の白い小皿にそばを小分けして盛りつけてあり、その独特なスタイルが特徴となっている。このスタイルは昭和30年代になって確立されたという。1人前は5枚で、これに薬味と出汁の入った徳利と猪口が付く。薬味は多彩で、一般的な「ねぎ」「大根おろし」「わさび」のほか、「とろろ」や「玉子」が付く。この生の鶏卵が付くのが特徴であり、そぼとしては珍しい食べ方と言える。出汁は一般的には鰹と昆布の濃厚な出汁が特徴とされているが、店により独自の工夫をしているのは当然の帰結だろう。現在出石には50軒を超すそば店があり、100人を超す収容人数の団体さん対応の大型店はともかく、大部分の店は手打ちのそばを提供しているようだ。旧来の出石そばは、生地を円形に延ばす丸打ち製法が多かったそうだが、現在ではそうでもないらしい。そして「挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」が伝統の「三たて」製法だというのだが、これはどうだか。そば店の大部分は出石皿そば組合に所属しており、組合内には食麺部もあり、4店が加盟していて、出石皿そばを製造販売している。
 店には出石そばの「おせっかい 食べ方指南」というのが置いてある。引用する。一、つゆをお猪口に注ぎ、つゆの旨味を味わう。ニ、まず、そばとつゆだけで、麺を味わう。三、次に薬味。ねぎ、わさびでさっぱりと。四、山芋・玉子で、違った美味しさを味わう。五、最後はそば湯でしめて、ごちそうさま。ところで以前の食べ方は、出雲割り子そばのように、皿に直接出汁と薬味をかけて食していたというが、今はそば猪口に出汁と薬味を入れ、それにそばを浸して食べるというのが一般的だという。そばを盛る小皿は出石焼で、店ごとにオリジナルな絵付けがされていて、楽しみの一つになっている。
 蕎麦前は地元の酒蔵「出石酒造」の地酒「楽々鶴(ささつる)」。やがてそばつゆと薬味5種類、スペアのそばつゆが徳利に、そして皿そばが運ばれる。そばは田舎そばの感じ、私は皿につゆと薬味を1種類ずつ入れて食した。今は流行らない食し方であるが、その方がいろんな薬味で食べる楽しみがあろうというものだ。こだわることはないのだが。そばは茹でがしっかりしていてコシがあり、喉越しもよく、皿そばはうまくないという印象は、名の通った店ならば賞味に値するもののようだ。皿も徳利も藍で染付けされていて、清楚な感じがしてよい。若い夫婦の応対もよく、清々しかった。皿そばは一人前840円、追加は一皿130円である。店にはお土産用の皿そばを売っていたが、これは組合の食麺部に属する製麺所での製品なのだろう。
 もう1軒寄りたくなり提案すると、4名はOK、ではと全国新そば会員の「甚兵衛」に寄ることに、聞けばすぐ近くである。住所は同じ出石町小人である。新そば会というのは全国で百店あり、発起人は東京の老舗蕎麦屋連である。この出石では、「そば庄鉄砲店」と「甚兵衛」が入っている。名だたる会の会員の店ならば、まず不味くはなかろうとの思惑からである。石川県では、当時県内では唯一の蕎麦屋であった金沢の「砂場」が会員だったが、廃業してしまってから久しい。今北陸では、富山市にある明治28年(1895)創業の「富山大黒や」と福井市にある越前おろしそばの「福そば」が会員となっている。
 南枝から歩いて程ない距離に甚兵衛はある。店はお客でごった返している。前の店とは活気が全く違う。丁度数人が出るところ、運良く入れ換えで入れる。入口に近く、囲炉裏型のテーブルに座る。「そば庄」でも同じタイプのがあったことを思い出す。食べられる人は5枚、でない人は2枚注文する。入口には女将が山から採ってきたというミツバツツジや山野草が生けられている。シャガも花盛りで清々しい。ここの皿そばは一人前900円、後で調べたら、出石では最も高いと分かった。追加は一枚150円、これも一番高い。しかも薬味も別料金で一人前150円取られる。これも後日知ったことである。今年は創業35周年とか、すると昭和51年(1976)の開店である。収容人数は90人、奥の広間に座机が沢山並んでいる。すると蕎麦前もとの要望があり、再び「ささづる」(この店ではなぜか「づ」と濁っていた)をお願いする。結果的には出石で最も高いという皿そばを食したことになったが、そばの味は先の店とも大差ない似たり寄ったりのような気がした。諸氏からも特にうまかったとの発言はなかった。昨夜の旅館の主人が、出石ではおいしいそばは食べられませんと言ったのを反芻する。豊岡でおいしいそばを食べるなら地産地消の神鍋か赤花と言われたのが分かる。
 ここに「そば庄」のそばの配合を示したのがある。他の店も大なり小なり似通っているのではないかと思い、記しておく。「そば庄」の主人は出石そば組合の組合長であり、創業は昭和41年(1966)とのことだ。それでここの皿そばは、製粉会社で玄そばをロール製粉したそば粉と丸ぬきを電動石臼で挽いた粉とを混合し、これに小麦粉を外2に加えて手打ちしている。皿そばは一人前850円、追加は一皿140円である。ところがこの店には、ほかに「ちひろそば」といって丸ぬきを電動石臼で挽いたそば粉で打ったそばとか、玄そばを同様に挽いて打った「田舎そば」があるが、これは予約しないと口に入らないという。ということは名の通った有名店であっても、「出石皿そば」というと、大衆のありきたりのそばという感を拭えない。ただずっと昔に観光バスで寄ったときに食べたあの実に不味かった皿そばは、陰を潜めたような気がする。そして観光バスが横付けする店以外では、手打ちをしているらしいということは良いことだ。
 出石でのそば店は、店こそこだわりをもって選んだが、その店のそばが特別に美味かったとか不味かったとかの話も出ず、探蕎行は無事終了した。豊岡でもし美味いそばを食べようと欲すれば、どうも山へ分け入らねばならないようだ。
[追記]
 今回の探蕎は、丹後の篠山と但馬の出石、宿の城崎も但馬であるので、順に「丹但」とした。ただこの丹但という語句は私の造語ではなく、丹波と但馬を合わせて言うときに、「丹但」もしくは「但丹」と言うようだ。またこの二国に丹後が入ると「三たん」と言うとある。天の橋立は丹後の国、とすれば「三たん探蕎」とすべきだったか。 

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