2011年4月8日金曜日

東日本大震災でO君に教わったこと

 平成23年(2011)3月11日、午後2時26分、未曾有というべきか、1900年以降、世界で4番目に大きいマグニチュード9.0の巨大地震「東北地方太平洋沖地震」、通称「東日本大震災」が起きた。この地震が凄かったのは、地震の規模もさることながら、震源が宮城県沖の海底であったことから、高さ20mともいわれる大津波が東北地方の太平洋沿岸一帯を襲い、あっという間に多くの家屋、自動車、船舶、それとかけがえのない大切な命を飲み込んでしまった。さらに追い討ちをかけたのは福島第一原子力発電所の事故、これによって原発はクリーンであるという完全神話は無惨にも吹き飛んだ。チェルノブイリやスリーマイルズ島での原発事故は、日本とは無縁のものと信じさせられてきたが、原発がこれほど危険な代物だとは、これからは国民の考え方も変わってこよう。地震は天災だが、備えを怠った原発の事故は正に人災だ。
 私の親戚には、今回の地震で大きな被害を受けた東北や北関東の太平洋岸に住んでいる人はいないので、その方の心配はなかったが、大学の同窓生で仙台に在住しているO君の消息だけが気懸かりだった。震災発生当初は電気も水も電話も、ライフラインはすべてストップしていて、入る情報はテレビと新聞のみに頼っていた。でも2週間位たった頃、クラス会のまとめをしているN君から、ようやくO君と連絡がついて、不自由な生活をしているけれども彼は元気でいるとの連絡を受けた。加えて、ついては彼に生活支援の意味もこめてカンパしたいので、現金を送ってほしいとの要請があり、早速送金した。彼は皆の分をまとめてO君に送金したようだ。配達もままならないのかも知れないが、そこは彼のこと、先方と連絡して万全を期したことだろう。その後O君から、4月5日付けで丁重な御礼の封書が届いた。彼はその中で、沢山の方々の励ましと援助のお陰で、生活物資の供給や環境も徐々に改善されつつあり、間もなく元の生活に戻れそうだと述べている。そして良い友を持てた幸せと、良い国に生まれた幸せを噛みしめていると述懐している。加えて生まれて初めて経験した大地震のことを報告することで、御礼に代えたいとあった。この彼の経験は私たちにとっても他山の石とすべきことと思い、以下に紹介することにした。 
 彼の住所は仙台市青葉区吉成3丁目、グーグルマップで調べると、仙台駅の北西6kmにある地点、海岸線からは約20km奥まっている低い丘陵地である。西方600mには南北に東北自動車道が走り、南方3kmにはJR仙山線と国道48号線(作並街道)が東西に走っている。近くには東北福祉大学や大崎八幡宮などがある仙台市の西郊の地である。
 彼は震災当日の午後は「脳トレ」と称して麻雀をしていたが、その最中にグラッと、これまで経験したことがない大きな揺れを感じ、とっさにストーブを消し、靴も履かずに外へ飛び出したという。火をとっさに消したのも、すぐ外へ出たのも、彼のカミさんの平生の言い草を守ったまでだという。
 このような言い草を言うのは、彼のカミさんが戦後すぐの昭和23年(1948)6月28日に起きた「福井大震災」を経験していたからという。この地震は、「関東大震災」「阪神・淡路大震災」、それに今回の「東日本大震災」に匹敵する日本の災害史上最悪の震災といわれている。規模こそM7.1だったが、都市直下型であったことが被害を大きくした。当時私は小学校5年生、彼のカミさん、もし私と同い年としても小学生、なのに彼のカミさんは地震に備えて、一通りの緊急物資は勿論のこと、主食、副食、飲料水、燃料等々、いつかは来るといわれている「宮城県沖地震」に備えて、周到な準備をしていたと彼は言う。この備えがどれほど役に立ったかを彼は手紙の中で述べている。
 大きなユレが治まってまだ余震があるなか、建物が倒壊しないと見極め、先の建物に戻り、後片付けをして(エライ)から自宅へ向かった。途中、仙台市では地盤立地条件の悪いといわれる場所の建物、瓦屋根の家屋、耐震強度が悪いとされるビルには、倒壊などの被害が出ていた。また海岸線に近い場所では大津波に襲われ大きな被害が出たことを知る。ところで彼の家はというと、とにかく外観は無事、カミさんは外で佇んでいた。彼は薬剤師で薬品会社の営業を担当していたが、彼の後輩2人が津波で命を落としたと言伝に聞く。
 家の中はヒドイ状態で、棚こそ耐震対策で倒れなかったものの、棚は観音開きだったため、食器、飾り物、書籍等は飛び出して散乱、かなりの被害だったとか。彼が言うには、棚には頑丈なスライド付きのものを薦めますとあった。そして台所も片づけし、停電、断水を予想し、篭城の覚悟を決めたという。
 食品は緊急時のもののほか、大きな冷蔵庫を買い込み大量の食品を冷凍してあり、米も大量備蓄、従って停電・断水でも食事はタラフク食べさせてもらえたとか。携帯ラジオ、ケータイ、懐中電灯(電池予備)、ローソク、灯油用ポリタンク複数(1個以上備蓄)、飲料水用ポリタンク及び飲料水、卓上コンロと複数のカセットボンベ。旧式の石油ストーブ(捨てないで)もあった方がよいという。彼の家では、灯油はドラム缶に備蓄、仏壇は電池式灯明で、悠々耐えられたという。
 また余震が多く、昼間はすぐに逃げ出せるように有り金は全部を携帯し、上下を着て対応、夜はズボンと上着のみ脱いで寝たという。電気と電話は1週後に回復し、皆さんから励ましやお見舞いの言葉をかけて頂き、心強く嬉しかったという。困ったのは水で、水道の回復は仙台でも最も遅い回復予定区域に入っていたため、始めは遠い小学校まで車で、後で近くに給水所ができてからは徒歩+キャリアで運んだという。飲料水はストックもあり深刻ではなかったが、水洗便所用の水には苦労したという。結局大便後にポリ容器1杯分を一気に流すのが効率的であるということを会得したという。風呂は断水中は入れなかったが、プロパンと灯油でお湯を沸かして身体を拭けたし、2週後に水道が回復してからは灯油給油で存分に風呂に入れたという。
 街で困っていたのは燃料関係で、都市ガスはタンクの一部がダメになり、他県からの応援も得て復旧に努めてはいるものの、破損は水道管の比ではなく、まだ目途は立っていないという。都市ガスオンリーの家庭は大変だという。ガソリンや灯油の供給も当初はままならず、前日の晩8時や9時から翌日の給油のために並ぶという始末、これも漸く4月になって改善されてきたという。車は震災当初に水運び用に使用した以外は自粛したこともあって、物資調達のため行列に並んだのはたったの2回のみ、これも備蓄があったからこそと思っていると。
 彼の提言では、平常の家庭での光熱には、災害時を考慮に入れると、電気のほかに、石油と、都市ガスかプロパンの3種類は採用すべきだと、都市ガスとプロパンはどちらが優位とは言えないが、少なくとも煮炊きも風呂を含む給湯も都市ガス一本に集中させるのは避けるべきだと。
 燃料類の一般供給の回復は遅れたものの目途がつき、都市ガスの復旧は遅れてはいるものの、食料などの日常品の供給も被災2週間後には回復した。公共交通は道路の回復は進んではいるものの、まだ所々道路封鎖がある。鉄道は仙台駅壊滅の影響で全面復旧は5月にずれ込むという。全面回復にはもう少し時間を要するという。
 彼自身は、家の立地条件や日頃からの備蓄の備えなどもあって、恵まれた自宅避難生活を送れたという。でもこれはたまたまのことではなく、日頃の災害に備えての対応がしっかりとしていたためと思われる。そして近くや近県に住む息子さん、娘さん、そして従兄妹さんも無事だったとのこと、何よりだった。

 今年の私たち大学の同窓会は、5月下旬に彼の世話で仙台で催されることになっていたが、この震災で中止になった。でもこれは止むを得ないこと。来年は金沢での開催であるが、ぜひ元気な顔を見せてほしい。そして直に貴重な体験を聞かせてほしいものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿