2011年2月22日火曜日

コンダスの女王 「シェルピ・カンリ」 (2)

(承前)
 [ベースキャンプ(BC)の建設]:これから遡行するシェルピ・ガン氷河は約20kmを高度差2000mという急勾配で流下しているため、4つの大きなアイスフォール(IF)がある。氷河に大きな落差があるため氷河が砕け、無数のセラックが乱立し、しかも縦横無尽に大小様々なクレバスがある。しかも昼夜の寒暖の差でセラックが崩壊する。大きなものは高さが30mもあるという。第1IFの舌端から上部への荷揚げにはポーター50人を選抜した。チョンギー下からは右岸のチョンギー峠まで500m上り、そして300m下り。第2IF下端に仮BC(4300m)を設け、ピストンで3.5tの荷物を集結させた。ここは一次隊のBCとなった場所、草花が咲き乱れる桃源郷である。ここからBCまでは第2IFと第3IFを越える氷の世界、その荷揚げに10人の中間ポーターが選出された。既に右岸には隊員によりルートが開かれ、6月28日から荷揚げが開始され、30日にはBCが建設された。
 ここで隊長は次のことを厳命した。仮BC以上の高所では、その人が初めて体験する高度のテントでは絶対に泊まってはいけない。だからBCで泊まる場合には、少なくともその前日までに必ずBCまで往復しておくこと。この資格取得は高度障害を防ぐための必要最低限の手段であり、高所順応は厳格に守るように。これは以後全期間にわたって全員で厳守された。こうして7月6日には3.5tの全ての荷物がBCに集結、帰る中間ポーターたちにはボーナスがはずまれた。BCの高度は4850mである。
 [高所衰退]:高所では、食物を摂取しても、そのエネルギー効率は悪く、呼吸など普通に生活するために消費される基礎エネルギーが摂取エネルギーを上回り、体は次第に衰退し、永続的な生活ができなくなる。この限界高度が5200mとされている。BCの位置を5000m前後にするというのは、このことを考慮してのことだという。これは高所順応によりある程度補えるものの、長期間にわたった場合には衰弱は免れず、したがって如何に短期間で登頂を終えるかが肝要となる。
 [登頂ルートは西尾根]:前進BC(ABC)(5250m)は既に4日に第4IF手前に建設されており、5日からは隊員とハイポーターによる荷揚げと登路の偵察が行われた。そして7日夕食後の作戦会議で隊長は、正面の第4IFを突破し東尾根から登頂するルートは無理と判断、左手のビヤンダック(鷲)氷河を通過し西尾根から登頂するとの決定を下した。そしてここABCから見て当面問題となったのは、氷河上部と下部にある氷壁の突破と西尾根にそびえる男根状の岩峰(イーグルヘッド)の通貨だった。
 下部氷壁は一部垂壁はあるものの、早朝通過ならば問題ないとされ、12日にはこの氷壁を越えた氷河上部の雪原にC!(5850m)が建設された。ここから西尾根に上がるには上部氷壁を突破しなければならないが、この400mの垂壁にルートを開くのに1週間を要した。そして漸く23日に西尾根末端の雪原にC2(6350m)を建設した。この高度は一次隊が到達した最高高度でもある。このC1からC2へのユマールによる垂壁の荷揚げはハイポーターの技術では無理なので、すべて隊員で行った。またC2からC!への下りは、一旦天候が悪化すると雪崩の危険度が高く、通過不可能となることが予測され、これは後で悪天候が10日も続いた折に、事前にC2を脱出させる大きな決め手となった。
 西尾根最難間のイーグルヘッド(6550m)攻略には3日を要すると見られたが、翌24日にはピークまで、翌々25日にはヘッドを越えて西尾根のコルまで、次の26日には6600mにまでルートを延ばした。ところで27日、視界は良好だが雲行きが怪しく、ルート工作に出るという二人に隊長はC1への帰還を命じた。もしC2に残っていたら10日も閉じ込められたろう。28日には全員がC1に集結したので、隊長はアタック隊員2名とサポート隊員6名を発表した。8月1日にも天候回復が望めず、全員ABCへ下り、以降6日まで停滞する。7日には漸く天気が回復、活動を再開する。でも、C1は降雪で埋没、ルートも全部雪で埋もれていた。9時間かけてC2に辿り着いたが、C2も深い雪の下になっていた。8日、西尾根をラッセルしてコルに達し、6500mに仮C3を設置、翌9日には予定した6800m地点にC3を建設した。サポート隊は25kgもの重荷を担いで、最大斜度80°という急傾斜の尾根を登った。これでアタック態勢が完了した。後は明日一日の晴天を待つのみ。午後7時に就寝。
 [登頂]:8月10日、午前1時50分に起床、外は風は強いが満天の星、気温はー17℃、朝食を済ませ、4時15分にC3を出る。雪稜の先には大きな垂直の菱形岸壁がある。直登に失敗したので右手にトラバースし斜上する。ハーケンを連打し、岸壁を回り込む。そしてさらに大きくトラバースして、頂上へ続く岩稜に出た。少憩の後、頂上へ続くギザギザの岩稜に向かう。下端にある三角岸壁は最難関と目され、この突破が西尾根ルート決定にあたっての鍵であったが、幸運にも基部が雪のコルになっていて、見るとここが東尾根と西尾根のジャンクションで、その間は広い雪の大斜面になっていた。しかも頂上へ続くギザギザの岩稜の東側には安定した雪庇があり、岩稜を上下せずに頂上ドーム直下へ着けた。そして最後の岩峰を越えると奇怪な、我々が下で「シェルピの牙」と名付けた岩塔が現れた。ここで一服して、下に見えるC1に連絡する。そして遂にシェルピ・カンリに登頂。9時15分だった。快晴の頂上、喜びの声がC1,C2とサポート隊との間に交わされる。日本とパキスタンの国旗を掲げて記念写真を撮り、パノラマ写真を撮り、頼まれた岩石と雪を採取し、一次隊・二次隊・山岳部・山岳会の名簿が入ったピー缶を埋没した。あっという間に45分が経過、午前10時に岐路に着く。下りは登り以上に慎重に、登りには打たなかった岸壁にもハーケンを打ち、トップを交代しながらC3に下った。C3に着いたのは午後1時、この日はサポートの2人とC3で泊まった。翌日も天候は約束され、2次登頂も十分可能であったが、隊長の初めからの方針どおり、登頂は打ち切られることに。
 [撤収]:翌11日も快晴、C3とC2を撤収、12日にはC1を撤収、ABCに全員が揃う。13日にはハイポーターが上部キャンプに残置した器具等をC1まで取りに行き、隊員はABCを整理、14日と15日にはABCを撤収してBCに入る。16日には1週間続いた晴天も下り坂となり、朝から氷雨、BCの整理をし、ハイポーターたちには残った装備の分配をした。午後にはゴミを燃やしたが、うっかりハイポーターが未使用の医療用酸素ボンベを火にくべて大爆発、でも怪我人は出ずに一安堵。17日には降雪の中、BCを後にして仮BCに向かう。仮BCは雨に煙っていたが、美しい草花が咲き乱れ、若草の匂いがし、空気がうまく、生き返った心地だったという。その日の晩は、全員で登頂成功のキャンプファイアーと大祝宴、夜遅くまで歌と踊りが続いた。18日には新しいポーター24人が加わり、キャラバンを組み、チョンッギー峠を越えてコルコンダスに向かう。
 [帰途]:コルコンダスからは4日かけてカパルに着く。ここで不要なものを整理し、8月25日にはジープでスカルドへ。ドイツ、イギリスなどの遠征隊も帰ってきた。大阪大学や学習院大学のパーティとも会う。来るときもそうだったが、天候とコネの優劣とで13日目にやっと機上の人となり、9月7日にラワルピンディに着けた。関係先に挨拶し、それぞれにさみだれ帰国する。荷物は輸送機が飛ばないと着かないので、届くのを待って日本へ送り返すため、一人が残留する。全員が帰国したのは10月3日だった。
 [悪徳警官]:ハイポーターたちには、使用した登山装備や支給した衣服類はもちろんのこと、下山後不要になった衣料を与えた。分配が終わった後で、彼らはこの装備や衣料が盗んだものではなく、遠征隊から頂いたものであるという証明書を欲しいという。村に駐在している警察官が往々にして盗品だと決めつけ、品物ばかりではなく罰金100ルピーまでも巻き上げるという。現に一人が証明書を持っていたにもかかわらずこの災難に遭い、隊長は得意のウルドゥ語を駆使して悪徳ポリスを割り出し、中央警察に告発したという。装備も衣料もあちらでは大変な貴重品であるという。

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