2011年2月21日月曜日

コンダスの女王「シェルピ・カンリ」 (1)

 2月8日(火)9日(水)の両日、第7期泉丘高校の同窓会の有志の会である耳順会が山代温泉「かが楽](旧大寿苑)であった。世話人は輪番で2名ずつ、年に数回開いていて、一度は温泉一泊となる。今回は私が当番、温泉での宿泊なので、宿の選定や開催日は以前北陸交通の社長をしていた山田君にお願いする。会員の皆さんはどなたも悠々自適、サンデー毎日なので、開催は成り行きからして平日となる。ただ小生のみが常勤の宮仕えなので、勤務を休んでの参加となる。まあ気心の知れた同窓生ともあって和気藹々、お酒も入ると談論風発、話題は実に多岐にわたる。宴会が終わっても熱気は冷めず、真夜中まで話題が尽きない。まだまだ気だけは若い。
 会員の一人に諸(もろ)君がいる。彼は高校時代にも人望があり、生徒会長や応援団長をしていて、応援団長は一泉同窓会でも続けていたようだ。彼は高校を卒業して金沢大学法文学部へ進学し、サークルは当時の「山の会」、後の「山岳部」に入部した。私は薬学部へ進学し、やはり「山の会」に入部した。この会は振り返って、今でいえばワンゲル的な要素が強いサークルだった。もっとも段々先鋭的な側面も出てきて、名実ともに山岳部に成長するのだが、私たちが入った頃はどちらかと言えば「歩き」がメインだった。彼も私も今は大学のOB会である「金沢大学山岳会」に所属している。
 その彼が私に「木村、これ読めや」といって一冊の本を差し出した。この本は、ずっと昔、金大の工学部にいた平井先生が、神戸大学のカラコルム遠征隊の隊長となって遠征され、その時の紀行や記録を纏めた報告書で、先生が当時工学部の学生だった米(よね)君に送ってきたものを、山と関わりのある同窓の諸君に読むようにと渡し、読後私に回ってきたということだった。私としては、この報告書がまさかそんなに昔のものとは知らずに、てっきり近々のものだとばかり思っていたものだから、「じゃ、早速やましてもらいます」と言ったら、諸君は「別に慌てなくてもいいし、何なら返してもらわなくてもいい」と言うではないか、ふっと違和感が過ぎった。でもその謎は家へ帰ってから本を開いた時に分かった。米君に届いたのは遠征隊が帰国して2年後の12月、ところが諸君が預かったのは36年後、近々の記録とばかり思っていたので、これには少々正直ガッカリした。でも折角だから読んでみた。A5変形判の330頁、かなり読み応えがあり、面白かったので紹介しよう。

 閑話休題
 「コンダスの女王 シェルピ・カンリ」 1976年神戸大学カラコルム遠征隊の記録
 平井一正 編著、 唱和53年5月25日  神戸新聞出版センター発行

●編著者の略歴:昭和6年(1931)生まれ。
 唱和29年(1954)京都大学工学部卒業。
 昭和31年(1956)修士課程終了後、金沢大学工学部助手。
 昭和36年(1961)京都大学工学部助手、翌年助教授。
 昭和39年(1964)神戸大学工学部助教授、昭和47年(1972)教授。
●登山暦:京都大学在学中は山岳部に在籍。
 [遠征1] 昭和33年(1958)京都大学チョゴリザ(7654m)遠征隊(隊長:桑原武夫)にアタック隊員(2人) として参加し、初登頂。26歳。
 [遠征2] 昭和37年(1962)日本・パキスタン合同サルトロ・カンリ(7742m)遠征隊(総隊長:四手井綱 彦)にサポート隊員として参加、パキスタン人を含む3人が初登頂。31歳。
 [遠征3] 昭和51年(1976)神戸大学シェルピ・カンリ(7380m)遠征隊に隊長として参加、2人が初登頂。 44歳。
 [遠征4] 昭和61年(1986)日本・中国合同クーラ・カンリ(7554m)に総隊長として参加、6人が初登 
 頂。54歳。
 この4座の初登頂は、すべて無事故であった。
 [遠征5] 平成15年(2003)神戸大学ルオニイ峰(6805m)遠征隊に隊長として参加、登頂断念し撤退、
 無事故。72歳。

●「シェルピ・カンリ初登頂」
 [発端]:昭和45年(1970)、神戸大学山岳部とそのOB有志で、カラコルム遠征の目標に、サルトロ山群の7000mを超える処女峰として選んだのがシェルピ・カンリ(7380m)である。測量番号ではピーク33と記された山で、地元のコルコンダス村ではシェレ・ガリと呼ばれていて、シェレは太陽が昇るとか東を、ガリはチベット語のカンと同じで氷を意味する。また、リは山で、目的とする山は「朝日の昇る氷の山」ということになる。
 [一次隊]:地形もルートも分からないことから、偵察を主目的とした一次隊を派遣することにしたが、インドとパキスタンの紛争で国境領域への登山許可が中々下りなかったが、4年後の昭和49年(1974)に漸く下りて6月に出発できた。入山してからは急峻な南側のアイスフォールが4つもあるシャルピ・ガン氷河の源頭にまで至ったが、固定ザイルの不足で東尾根からの登頂は断念し、残りの日数をフルに使って氷河内院の測量を行い、地図を作成し、シェルピ・カンリ登頂ルートの偵察を行った。
 [二次隊]:平井は神戸大学に来て10年を経過、この間に山岳部員らと山行を共にし、この計画は神戸大学の山岳部OBが主体となって実施するものであったが、請われて隊長を引き受けることになる。メンバーが決まったのは翌々年(1976)の初頭で、構成隊員はこの遠征隊が学術調査を兼ねることもあって、隊員9名の出身学部は極めて多彩、うち一次隊からも2名の参加があり、彼らはプロモーターの役割を果たす。2月に入り、登山許可が下りないまま、船便の都合もあり見切り発車で荷物の発注などをする。やっと月末に許可が下りた。一方で、学長以下大学職員あげて募金活動に取り組み、4月には募金目標に達し、5月10日には先発隊が、24日には全員が出発できた。
 [入山]:羽田から空路北京で給油し、パキスタンのラワルピンディに直行する。先発隊はこの間にカラチへ船便の荷を取りに行く。ここから入山するには麓のスカルドへ飛行機で飛ばねばならないが、それには間に横たわる8000m峰があるパンジャブヒマラヤを越えねばならず、少しでも天候が悪いと飛行は中止になる。それと連絡将校が決まらないと出発はできない。結局スカルドには16日間留め置かれた後、全員一緒ではなく、さみだれ式に2人3人ずつ飛び、最後は4tの荷物と3人が輸送機で飛んだ。隊長の言では、14年前のスカルドは素朴な町だったが、今は役人がのさばり、物価が3倍にも上がり、すっかり都会の悪習に染まり、とても以前のように長居できる町ではなく、翌6月11日にはジープで約100km上流のカパルに向かった。ケロシン(灯油)を買うにも、ジープを手配するにも、すべて官憲を通さないといけないということに。でも、悪路をジープで移動中に大事な個人装備のザックを落とすトラブルがあったが、それを拾って、10kmも歩いて届けてくれた村人がいたという。拾ったものは見つけた人のものという国柄なのに、ここではまだこんな素朴な善意が残っていたとは驚きだ。スカルドでは考えられないことだ。
 [キャラバン]:カパルはオアシスで、古くは王国だったという。ここからはキャラバンを組むために、荷物を30kgに再梱包する。そしてポーターの選定。今は一つの遠征隊にいいポーターが集中しないように、地方行政官が候補者名簿を出す仕組みになっている。見ると高所の村出身の者は少ないという。連絡将校が遠征経験の有無を聞き、体の弱そうな者、人相の悪そうな者をはね、ドクターが健康診断し、病気とか、とりわけ心電図で不整があればはね、合格者を決める。何しろ年に一度とあって大変だ。以前は途中で賃上げ要求をしたものだが、今は政府の辺境福祉対策から日当は1日60ルピー(邦貨で1800円)と決められている。因みに小学校の先生の給料が1ヵ月300ルピーというから悪くない仕事だ。また以前にポーターであった証明書を出した者は、隊長がフリーでもぐりこませたものだから、隊員は彼らをコネワラ(ワラはウルドゥ語で人の意)と呼んだ。こうして138人のポーターが選ばれた。ほかに6人のハイポーターも決まった。6月16日に出発する。1週間後に最奥の部落コルコンダス(標高3400m)に着いた。この間、途中の村々では診療を求めて訪ねてくる村人が多く、中には骨折した子も、医師は多忙を極める。大キャラバンの行程があと半日という昼近く、座り込みが起きた。もう半日の行程は明日にしようという要求、でなければ帰るという。この反乱組には仕方なく50ルピーを支払い解雇、コルコンダスでポーターを補充し、なんとか氷河舌端のチョンギー下(3700m)に荷物を集結できた。ここまで1日の行程は10~13kmだった。

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