・「山と人」
遠征隊の隊員はパキスタンの標準語であるウルドゥ語を大なり小なり話せて、それが潤滑油的な働きをしたという。でもポーターや村人は、学校へ行った人(義務教育でない)は標準語を話せるが、そうでない人は地元のバルディ語しか話せない。バルディ語はインド・アーリア語のウルドゥ語とはまったく別の言語で、チベット語系だという。もっともポーターの中には両方の言語を話せる者もいるので、意を伝えることはできる。因みに隊長は英語とウルドゥ語が堪能、連絡将校はウルドゥ語のみ、ハイポーターでコックのコルコンダス村の村長は、英語もウルドゥ語もバルディ語もOKだった。隊員は登山のかたわら、村人の生活や文化を、主にコルコンダスの村長を通じて収集した。その一端を紹介する。
[バルディの音楽]:キャラバンでも休むと必ずといっていいほど歌を歌いだす。そして歌には必ず踊りがつきもので、したがって歌のみ歌うことはない。登頂を祝って行なったキャンプファイアーでは、彼らポーターたちと隊員たちとで歌合戦をやったが、こちらは全員で歌う歌がほとんどないのに、彼らは常に全員で合唱していた。これらの音楽をテープで録音し、後で採譜したものが一部報告書に載っているが、バルディの歌は、バルディに住む者なら誰でも、しかもそれらを全部知っているという。日本で全員で歌えるのは国歌の「君が代」くらいか。またラジオで流れるウルドゥ語の歌もよく覚えていて歌ってくれた。
[辺境の村人の生活]:遠征隊が通った谷筋の村のうち、車道があるカパルを除くと、村落の住民の数は平均して500人前後である。村の立地条件として必要なことは、年間を通して水が豊富にあること、必要十分な耕地が得られることで、村落の大きさや人口は耕地面積に左右される。交通手段は徒歩のみ、道らしい道はなく、輸送手段は自分らの背中、牛は飼っているが運搬に使うことはない。住民は敬虔なイスラム教徒で、朝夕には15歳以上の男性は簡易なモスクに集まり祈りを捧げる。女性は家で祈る。女性は夫以外には人前で顔を見せることはない。家から出るのは農地へ行く時と家畜の世話をする時のみで、それも人の気配がすると隠れてチャドルで顔を隠してしまう。他の村へ行くとすれば、結婚のときのみという。でもラワルピンディなどの大都会では、もう顔を隠す女子はいないという。村の生活については、コルコンダスの村長から聞いたことを詳細に記している。
・「学術調査」
[コンダス谷の気象と氷]:遠征中は毎日気象観測をした。カラコルムは乾燥地帯ということだったが、天気には周期的変化があった。でもどちらかといえば晴天の日が雨天の日より多かった。BCでは建設から撤収までの45日間、百葉箱もどきを設置して本格的な気象観測を行なった。また氷河のクレバスに入り、氷縞の垂直分布の調査をし、経年の積雪状況を調査した。しかし完全に氷化した下部については、切り出しができず、調査は困難だった。また以前の記録と比較すると、氷河の舌端は明らかに後退しているし、厚みも減っていた。
[谷水の水質]:現地で谷水や氷雪の融水について簡易検査を行い、試料は日本へ空輸し精査した。水はすべて氷河融水であり、若干白濁しているが濾過すれば透明で、pHは5.1~5.8の弱酸性、極微量のFeを含むものの全金属量は極めて少なく、すべて飲用可であった。またコルコンダスには温泉があり、泉温は50℃で、微かな硫黄臭がした。
[医療報告]:医療監視では、高所障害を心電図所見と眼底所見とからある程度予測することができることが分かり、隊員の行動に反映させることができた。ドクターもC3まで登り健康管理を行なった。
[コンダス谷の植物]:作物調査では、谷奥ほど標高の関係から種類が少なく、最奥のコルコンダスでは、作物としては小麦、大麦、蕎麦のみ、でも下流域になるほど種類は多くなる。また樹木調査でも、コルコンダスでは果樹は生育できず、樹木もヤナギのみだが、下流にゆくにしたがってポプラやクルミ、それに果樹が見られるようになる。一方で、キャラバン時に沿線の植物も百点ばかり採集した。また仮BCでは、往きの6月28日にハツカダイコン、ダイコン、アサガオ、ワタの種子を砂地に蒔き、帰りの8月17日に状況を観察したところ、ハツカダイコンは生育、ダイコンは発芽のみで生育なし、他は発芽なしという結果だった。また植物名について、ウルドゥ語とバルディ語の収集もしたが、両方の言語に共通した名称は全くなかった。
[シェルピ・カンリの地形]:氷河内院で地形測量を行い、一次隊が作成した概念図をより正確なものにすることができた。
[シェルピ・カンリの花崗岩の年代測定]:シャルピ・カンリ頂上の岩石を採取し、帰国後年代測定を行なった結果、980万年という数字が得られ、ネパール・ヒマラヤが1500~1800万年というから、それよりは若く、これはカラコルムの他の峰のデータともほぼ一致するものであった。
2011年2月23日水曜日
2011年2月22日火曜日
コンダスの女王 「シェルピ・カンリ」 (2)
(承前)
[ベースキャンプ(BC)の建設]:これから遡行するシェルピ・ガン氷河は約20kmを高度差2000mという急勾配で流下しているため、4つの大きなアイスフォール(IF)がある。氷河に大きな落差があるため氷河が砕け、無数のセラックが乱立し、しかも縦横無尽に大小様々なクレバスがある。しかも昼夜の寒暖の差でセラックが崩壊する。大きなものは高さが30mもあるという。第1IFの舌端から上部への荷揚げにはポーター50人を選抜した。チョンギー下からは右岸のチョンギー峠まで500m上り、そして300m下り。第2IF下端に仮BC(4300m)を設け、ピストンで3.5tの荷物を集結させた。ここは一次隊のBCとなった場所、草花が咲き乱れる桃源郷である。ここからBCまでは第2IFと第3IFを越える氷の世界、その荷揚げに10人の中間ポーターが選出された。既に右岸には隊員によりルートが開かれ、6月28日から荷揚げが開始され、30日にはBCが建設された。
ここで隊長は次のことを厳命した。仮BC以上の高所では、その人が初めて体験する高度のテントでは絶対に泊まってはいけない。だからBCで泊まる場合には、少なくともその前日までに必ずBCまで往復しておくこと。この資格取得は高度障害を防ぐための必要最低限の手段であり、高所順応は厳格に守るように。これは以後全期間にわたって全員で厳守された。こうして7月6日には3.5tの全ての荷物がBCに集結、帰る中間ポーターたちにはボーナスがはずまれた。BCの高度は4850mである。
[高所衰退]:高所では、食物を摂取しても、そのエネルギー効率は悪く、呼吸など普通に生活するために消費される基礎エネルギーが摂取エネルギーを上回り、体は次第に衰退し、永続的な生活ができなくなる。この限界高度が5200mとされている。BCの位置を5000m前後にするというのは、このことを考慮してのことだという。これは高所順応によりある程度補えるものの、長期間にわたった場合には衰弱は免れず、したがって如何に短期間で登頂を終えるかが肝要となる。
[登頂ルートは西尾根]:前進BC(ABC)(5250m)は既に4日に第4IF手前に建設されており、5日からは隊員とハイポーターによる荷揚げと登路の偵察が行われた。そして7日夕食後の作戦会議で隊長は、正面の第4IFを突破し東尾根から登頂するルートは無理と判断、左手のビヤンダック(鷲)氷河を通過し西尾根から登頂するとの決定を下した。そしてここABCから見て当面問題となったのは、氷河上部と下部にある氷壁の突破と西尾根にそびえる男根状の岩峰(イーグルヘッド)の通貨だった。
下部氷壁は一部垂壁はあるものの、早朝通過ならば問題ないとされ、12日にはこの氷壁を越えた氷河上部の雪原にC!(5850m)が建設された。ここから西尾根に上がるには上部氷壁を突破しなければならないが、この400mの垂壁にルートを開くのに1週間を要した。そして漸く23日に西尾根末端の雪原にC2(6350m)を建設した。この高度は一次隊が到達した最高高度でもある。このC1からC2へのユマールによる垂壁の荷揚げはハイポーターの技術では無理なので、すべて隊員で行った。またC2からC!への下りは、一旦天候が悪化すると雪崩の危険度が高く、通過不可能となることが予測され、これは後で悪天候が10日も続いた折に、事前にC2を脱出させる大きな決め手となった。
西尾根最難間のイーグルヘッド(6550m)攻略には3日を要すると見られたが、翌24日にはピークまで、翌々25日にはヘッドを越えて西尾根のコルまで、次の26日には6600mにまでルートを延ばした。ところで27日、視界は良好だが雲行きが怪しく、ルート工作に出るという二人に隊長はC1への帰還を命じた。もしC2に残っていたら10日も閉じ込められたろう。28日には全員がC1に集結したので、隊長はアタック隊員2名とサポート隊員6名を発表した。8月1日にも天候回復が望めず、全員ABCへ下り、以降6日まで停滞する。7日には漸く天気が回復、活動を再開する。でも、C1は降雪で埋没、ルートも全部雪で埋もれていた。9時間かけてC2に辿り着いたが、C2も深い雪の下になっていた。8日、西尾根をラッセルしてコルに達し、6500mに仮C3を設置、翌9日には予定した6800m地点にC3を建設した。サポート隊は25kgもの重荷を担いで、最大斜度80°という急傾斜の尾根を登った。これでアタック態勢が完了した。後は明日一日の晴天を待つのみ。午後7時に就寝。
[登頂]:8月10日、午前1時50分に起床、外は風は強いが満天の星、気温はー17℃、朝食を済ませ、4時15分にC3を出る。雪稜の先には大きな垂直の菱形岸壁がある。直登に失敗したので右手にトラバースし斜上する。ハーケンを連打し、岸壁を回り込む。そしてさらに大きくトラバースして、頂上へ続く岩稜に出た。少憩の後、頂上へ続くギザギザの岩稜に向かう。下端にある三角岸壁は最難関と目され、この突破が西尾根ルート決定にあたっての鍵であったが、幸運にも基部が雪のコルになっていて、見るとここが東尾根と西尾根のジャンクションで、その間は広い雪の大斜面になっていた。しかも頂上へ続くギザギザの岩稜の東側には安定した雪庇があり、岩稜を上下せずに頂上ドーム直下へ着けた。そして最後の岩峰を越えると奇怪な、我々が下で「シェルピの牙」と名付けた岩塔が現れた。ここで一服して、下に見えるC1に連絡する。そして遂にシェルピ・カンリに登頂。9時15分だった。快晴の頂上、喜びの声がC1,C2とサポート隊との間に交わされる。日本とパキスタンの国旗を掲げて記念写真を撮り、パノラマ写真を撮り、頼まれた岩石と雪を採取し、一次隊・二次隊・山岳部・山岳会の名簿が入ったピー缶を埋没した。あっという間に45分が経過、午前10時に岐路に着く。下りは登り以上に慎重に、登りには打たなかった岸壁にもハーケンを打ち、トップを交代しながらC3に下った。C3に着いたのは午後1時、この日はサポートの2人とC3で泊まった。翌日も天候は約束され、2次登頂も十分可能であったが、隊長の初めからの方針どおり、登頂は打ち切られることに。
[撤収]:翌11日も快晴、C3とC2を撤収、12日にはC1を撤収、ABCに全員が揃う。13日にはハイポーターが上部キャンプに残置した器具等をC1まで取りに行き、隊員はABCを整理、14日と15日にはABCを撤収してBCに入る。16日には1週間続いた晴天も下り坂となり、朝から氷雨、BCの整理をし、ハイポーターたちには残った装備の分配をした。午後にはゴミを燃やしたが、うっかりハイポーターが未使用の医療用酸素ボンベを火にくべて大爆発、でも怪我人は出ずに一安堵。17日には降雪の中、BCを後にして仮BCに向かう。仮BCは雨に煙っていたが、美しい草花が咲き乱れ、若草の匂いがし、空気がうまく、生き返った心地だったという。その日の晩は、全員で登頂成功のキャンプファイアーと大祝宴、夜遅くまで歌と踊りが続いた。18日には新しいポーター24人が加わり、キャラバンを組み、チョンッギー峠を越えてコルコンダスに向かう。
[帰途]:コルコンダスからは4日かけてカパルに着く。ここで不要なものを整理し、8月25日にはジープでスカルドへ。ドイツ、イギリスなどの遠征隊も帰ってきた。大阪大学や学習院大学のパーティとも会う。来るときもそうだったが、天候とコネの優劣とで13日目にやっと機上の人となり、9月7日にラワルピンディに着けた。関係先に挨拶し、それぞれにさみだれ帰国する。荷物は輸送機が飛ばないと着かないので、届くのを待って日本へ送り返すため、一人が残留する。全員が帰国したのは10月3日だった。
[悪徳警官]:ハイポーターたちには、使用した登山装備や支給した衣服類はもちろんのこと、下山後不要になった衣料を与えた。分配が終わった後で、彼らはこの装備や衣料が盗んだものではなく、遠征隊から頂いたものであるという証明書を欲しいという。村に駐在している警察官が往々にして盗品だと決めつけ、品物ばかりではなく罰金100ルピーまでも巻き上げるという。現に一人が証明書を持っていたにもかかわらずこの災難に遭い、隊長は得意のウルドゥ語を駆使して悪徳ポリスを割り出し、中央警察に告発したという。装備も衣料もあちらでは大変な貴重品であるという。
[ベースキャンプ(BC)の建設]:これから遡行するシェルピ・ガン氷河は約20kmを高度差2000mという急勾配で流下しているため、4つの大きなアイスフォール(IF)がある。氷河に大きな落差があるため氷河が砕け、無数のセラックが乱立し、しかも縦横無尽に大小様々なクレバスがある。しかも昼夜の寒暖の差でセラックが崩壊する。大きなものは高さが30mもあるという。第1IFの舌端から上部への荷揚げにはポーター50人を選抜した。チョンギー下からは右岸のチョンギー峠まで500m上り、そして300m下り。第2IF下端に仮BC(4300m)を設け、ピストンで3.5tの荷物を集結させた。ここは一次隊のBCとなった場所、草花が咲き乱れる桃源郷である。ここからBCまでは第2IFと第3IFを越える氷の世界、その荷揚げに10人の中間ポーターが選出された。既に右岸には隊員によりルートが開かれ、6月28日から荷揚げが開始され、30日にはBCが建設された。
ここで隊長は次のことを厳命した。仮BC以上の高所では、その人が初めて体験する高度のテントでは絶対に泊まってはいけない。だからBCで泊まる場合には、少なくともその前日までに必ずBCまで往復しておくこと。この資格取得は高度障害を防ぐための必要最低限の手段であり、高所順応は厳格に守るように。これは以後全期間にわたって全員で厳守された。こうして7月6日には3.5tの全ての荷物がBCに集結、帰る中間ポーターたちにはボーナスがはずまれた。BCの高度は4850mである。
[高所衰退]:高所では、食物を摂取しても、そのエネルギー効率は悪く、呼吸など普通に生活するために消費される基礎エネルギーが摂取エネルギーを上回り、体は次第に衰退し、永続的な生活ができなくなる。この限界高度が5200mとされている。BCの位置を5000m前後にするというのは、このことを考慮してのことだという。これは高所順応によりある程度補えるものの、長期間にわたった場合には衰弱は免れず、したがって如何に短期間で登頂を終えるかが肝要となる。
[登頂ルートは西尾根]:前進BC(ABC)(5250m)は既に4日に第4IF手前に建設されており、5日からは隊員とハイポーターによる荷揚げと登路の偵察が行われた。そして7日夕食後の作戦会議で隊長は、正面の第4IFを突破し東尾根から登頂するルートは無理と判断、左手のビヤンダック(鷲)氷河を通過し西尾根から登頂するとの決定を下した。そしてここABCから見て当面問題となったのは、氷河上部と下部にある氷壁の突破と西尾根にそびえる男根状の岩峰(イーグルヘッド)の通貨だった。
下部氷壁は一部垂壁はあるものの、早朝通過ならば問題ないとされ、12日にはこの氷壁を越えた氷河上部の雪原にC!(5850m)が建設された。ここから西尾根に上がるには上部氷壁を突破しなければならないが、この400mの垂壁にルートを開くのに1週間を要した。そして漸く23日に西尾根末端の雪原にC2(6350m)を建設した。この高度は一次隊が到達した最高高度でもある。このC1からC2へのユマールによる垂壁の荷揚げはハイポーターの技術では無理なので、すべて隊員で行った。またC2からC!への下りは、一旦天候が悪化すると雪崩の危険度が高く、通過不可能となることが予測され、これは後で悪天候が10日も続いた折に、事前にC2を脱出させる大きな決め手となった。
西尾根最難間のイーグルヘッド(6550m)攻略には3日を要すると見られたが、翌24日にはピークまで、翌々25日にはヘッドを越えて西尾根のコルまで、次の26日には6600mにまでルートを延ばした。ところで27日、視界は良好だが雲行きが怪しく、ルート工作に出るという二人に隊長はC1への帰還を命じた。もしC2に残っていたら10日も閉じ込められたろう。28日には全員がC1に集結したので、隊長はアタック隊員2名とサポート隊員6名を発表した。8月1日にも天候回復が望めず、全員ABCへ下り、以降6日まで停滞する。7日には漸く天気が回復、活動を再開する。でも、C1は降雪で埋没、ルートも全部雪で埋もれていた。9時間かけてC2に辿り着いたが、C2も深い雪の下になっていた。8日、西尾根をラッセルしてコルに達し、6500mに仮C3を設置、翌9日には予定した6800m地点にC3を建設した。サポート隊は25kgもの重荷を担いで、最大斜度80°という急傾斜の尾根を登った。これでアタック態勢が完了した。後は明日一日の晴天を待つのみ。午後7時に就寝。
[登頂]:8月10日、午前1時50分に起床、外は風は強いが満天の星、気温はー17℃、朝食を済ませ、4時15分にC3を出る。雪稜の先には大きな垂直の菱形岸壁がある。直登に失敗したので右手にトラバースし斜上する。ハーケンを連打し、岸壁を回り込む。そしてさらに大きくトラバースして、頂上へ続く岩稜に出た。少憩の後、頂上へ続くギザギザの岩稜に向かう。下端にある三角岸壁は最難関と目され、この突破が西尾根ルート決定にあたっての鍵であったが、幸運にも基部が雪のコルになっていて、見るとここが東尾根と西尾根のジャンクションで、その間は広い雪の大斜面になっていた。しかも頂上へ続くギザギザの岩稜の東側には安定した雪庇があり、岩稜を上下せずに頂上ドーム直下へ着けた。そして最後の岩峰を越えると奇怪な、我々が下で「シェルピの牙」と名付けた岩塔が現れた。ここで一服して、下に見えるC1に連絡する。そして遂にシェルピ・カンリに登頂。9時15分だった。快晴の頂上、喜びの声がC1,C2とサポート隊との間に交わされる。日本とパキスタンの国旗を掲げて記念写真を撮り、パノラマ写真を撮り、頼まれた岩石と雪を採取し、一次隊・二次隊・山岳部・山岳会の名簿が入ったピー缶を埋没した。あっという間に45分が経過、午前10時に岐路に着く。下りは登り以上に慎重に、登りには打たなかった岸壁にもハーケンを打ち、トップを交代しながらC3に下った。C3に着いたのは午後1時、この日はサポートの2人とC3で泊まった。翌日も天候は約束され、2次登頂も十分可能であったが、隊長の初めからの方針どおり、登頂は打ち切られることに。
[撤収]:翌11日も快晴、C3とC2を撤収、12日にはC1を撤収、ABCに全員が揃う。13日にはハイポーターが上部キャンプに残置した器具等をC1まで取りに行き、隊員はABCを整理、14日と15日にはABCを撤収してBCに入る。16日には1週間続いた晴天も下り坂となり、朝から氷雨、BCの整理をし、ハイポーターたちには残った装備の分配をした。午後にはゴミを燃やしたが、うっかりハイポーターが未使用の医療用酸素ボンベを火にくべて大爆発、でも怪我人は出ずに一安堵。17日には降雪の中、BCを後にして仮BCに向かう。仮BCは雨に煙っていたが、美しい草花が咲き乱れ、若草の匂いがし、空気がうまく、生き返った心地だったという。その日の晩は、全員で登頂成功のキャンプファイアーと大祝宴、夜遅くまで歌と踊りが続いた。18日には新しいポーター24人が加わり、キャラバンを組み、チョンッギー峠を越えてコルコンダスに向かう。
[帰途]:コルコンダスからは4日かけてカパルに着く。ここで不要なものを整理し、8月25日にはジープでスカルドへ。ドイツ、イギリスなどの遠征隊も帰ってきた。大阪大学や学習院大学のパーティとも会う。来るときもそうだったが、天候とコネの優劣とで13日目にやっと機上の人となり、9月7日にラワルピンディに着けた。関係先に挨拶し、それぞれにさみだれ帰国する。荷物は輸送機が飛ばないと着かないので、届くのを待って日本へ送り返すため、一人が残留する。全員が帰国したのは10月3日だった。
[悪徳警官]:ハイポーターたちには、使用した登山装備や支給した衣服類はもちろんのこと、下山後不要になった衣料を与えた。分配が終わった後で、彼らはこの装備や衣料が盗んだものではなく、遠征隊から頂いたものであるという証明書を欲しいという。村に駐在している警察官が往々にして盗品だと決めつけ、品物ばかりではなく罰金100ルピーまでも巻き上げるという。現に一人が証明書を持っていたにもかかわらずこの災難に遭い、隊長は得意のウルドゥ語を駆使して悪徳ポリスを割り出し、中央警察に告発したという。装備も衣料もあちらでは大変な貴重品であるという。
2011年2月21日月曜日
コンダスの女王「シェルピ・カンリ」 (1)
2月8日(火)9日(水)の両日、第7期泉丘高校の同窓会の有志の会である耳順会が山代温泉「かが楽](旧大寿苑)であった。世話人は輪番で2名ずつ、年に数回開いていて、一度は温泉一泊となる。今回は私が当番、温泉での宿泊なので、宿の選定や開催日は以前北陸交通の社長をしていた山田君にお願いする。会員の皆さんはどなたも悠々自適、サンデー毎日なので、開催は成り行きからして平日となる。ただ小生のみが常勤の宮仕えなので、勤務を休んでの参加となる。まあ気心の知れた同窓生ともあって和気藹々、お酒も入ると談論風発、話題は実に多岐にわたる。宴会が終わっても熱気は冷めず、真夜中まで話題が尽きない。まだまだ気だけは若い。
会員の一人に諸(もろ)君がいる。彼は高校時代にも人望があり、生徒会長や応援団長をしていて、応援団長は一泉同窓会でも続けていたようだ。彼は高校を卒業して金沢大学法文学部へ進学し、サークルは当時の「山の会」、後の「山岳部」に入部した。私は薬学部へ進学し、やはり「山の会」に入部した。この会は振り返って、今でいえばワンゲル的な要素が強いサークルだった。もっとも段々先鋭的な側面も出てきて、名実ともに山岳部に成長するのだが、私たちが入った頃はどちらかと言えば「歩き」がメインだった。彼も私も今は大学のOB会である「金沢大学山岳会」に所属している。
その彼が私に「木村、これ読めや」といって一冊の本を差し出した。この本は、ずっと昔、金大の工学部にいた平井先生が、神戸大学のカラコルム遠征隊の隊長となって遠征され、その時の紀行や記録を纏めた報告書で、先生が当時工学部の学生だった米(よね)君に送ってきたものを、山と関わりのある同窓の諸君に読むようにと渡し、読後私に回ってきたということだった。私としては、この報告書がまさかそんなに昔のものとは知らずに、てっきり近々のものだとばかり思っていたものだから、「じゃ、早速やましてもらいます」と言ったら、諸君は「別に慌てなくてもいいし、何なら返してもらわなくてもいい」と言うではないか、ふっと違和感が過ぎった。でもその謎は家へ帰ってから本を開いた時に分かった。米君に届いたのは遠征隊が帰国して2年後の12月、ところが諸君が預かったのは36年後、近々の記録とばかり思っていたので、これには少々正直ガッカリした。でも折角だから読んでみた。A5変形判の330頁、かなり読み応えがあり、面白かったので紹介しよう。
閑話休題
「コンダスの女王 シェルピ・カンリ」 1976年神戸大学カラコルム遠征隊の記録
平井一正 編著、 唱和53年5月25日 神戸新聞出版センター発行
●編著者の略歴:昭和6年(1931)生まれ。
唱和29年(1954)京都大学工学部卒業。
昭和31年(1956)修士課程終了後、金沢大学工学部助手。
昭和36年(1961)京都大学工学部助手、翌年助教授。
昭和39年(1964)神戸大学工学部助教授、昭和47年(1972)教授。
●登山暦:京都大学在学中は山岳部に在籍。
[遠征1] 昭和33年(1958)京都大学チョゴリザ(7654m)遠征隊(隊長:桑原武夫)にアタック隊員(2人) として参加し、初登頂。26歳。
[遠征2] 昭和37年(1962)日本・パキスタン合同サルトロ・カンリ(7742m)遠征隊(総隊長:四手井綱 彦)にサポート隊員として参加、パキスタン人を含む3人が初登頂。31歳。
[遠征3] 昭和51年(1976)神戸大学シェルピ・カンリ(7380m)遠征隊に隊長として参加、2人が初登頂。 44歳。
[遠征4] 昭和61年(1986)日本・中国合同クーラ・カンリ(7554m)に総隊長として参加、6人が初登
頂。54歳。
この4座の初登頂は、すべて無事故であった。
[遠征5] 平成15年(2003)神戸大学ルオニイ峰(6805m)遠征隊に隊長として参加、登頂断念し撤退、
無事故。72歳。
●「シェルピ・カンリ初登頂」
[発端]:昭和45年(1970)、神戸大学山岳部とそのOB有志で、カラコルム遠征の目標に、サルトロ山群の7000mを超える処女峰として選んだのがシェルピ・カンリ(7380m)である。測量番号ではピーク33と記された山で、地元のコルコンダス村ではシェレ・ガリと呼ばれていて、シェレは太陽が昇るとか東を、ガリはチベット語のカンと同じで氷を意味する。また、リは山で、目的とする山は「朝日の昇る氷の山」ということになる。
[一次隊]:地形もルートも分からないことから、偵察を主目的とした一次隊を派遣することにしたが、インドとパキスタンの紛争で国境領域への登山許可が中々下りなかったが、4年後の昭和49年(1974)に漸く下りて6月に出発できた。入山してからは急峻な南側のアイスフォールが4つもあるシャルピ・ガン氷河の源頭にまで至ったが、固定ザイルの不足で東尾根からの登頂は断念し、残りの日数をフルに使って氷河内院の測量を行い、地図を作成し、シェルピ・カンリ登頂ルートの偵察を行った。
[二次隊]:平井は神戸大学に来て10年を経過、この間に山岳部員らと山行を共にし、この計画は神戸大学の山岳部OBが主体となって実施するものであったが、請われて隊長を引き受けることになる。メンバーが決まったのは翌々年(1976)の初頭で、構成隊員はこの遠征隊が学術調査を兼ねることもあって、隊員9名の出身学部は極めて多彩、うち一次隊からも2名の参加があり、彼らはプロモーターの役割を果たす。2月に入り、登山許可が下りないまま、船便の都合もあり見切り発車で荷物の発注などをする。やっと月末に許可が下りた。一方で、学長以下大学職員あげて募金活動に取り組み、4月には募金目標に達し、5月10日には先発隊が、24日には全員が出発できた。
[入山]:羽田から空路北京で給油し、パキスタンのラワルピンディに直行する。先発隊はこの間にカラチへ船便の荷を取りに行く。ここから入山するには麓のスカルドへ飛行機で飛ばねばならないが、それには間に横たわる8000m峰があるパンジャブヒマラヤを越えねばならず、少しでも天候が悪いと飛行は中止になる。それと連絡将校が決まらないと出発はできない。結局スカルドには16日間留め置かれた後、全員一緒ではなく、さみだれ式に2人3人ずつ飛び、最後は4tの荷物と3人が輸送機で飛んだ。隊長の言では、14年前のスカルドは素朴な町だったが、今は役人がのさばり、物価が3倍にも上がり、すっかり都会の悪習に染まり、とても以前のように長居できる町ではなく、翌6月11日にはジープで約100km上流のカパルに向かった。ケロシン(灯油)を買うにも、ジープを手配するにも、すべて官憲を通さないといけないということに。でも、悪路をジープで移動中に大事な個人装備のザックを落とすトラブルがあったが、それを拾って、10kmも歩いて届けてくれた村人がいたという。拾ったものは見つけた人のものという国柄なのに、ここではまだこんな素朴な善意が残っていたとは驚きだ。スカルドでは考えられないことだ。
[キャラバン]:カパルはオアシスで、古くは王国だったという。ここからはキャラバンを組むために、荷物を30kgに再梱包する。そしてポーターの選定。今は一つの遠征隊にいいポーターが集中しないように、地方行政官が候補者名簿を出す仕組みになっている。見ると高所の村出身の者は少ないという。連絡将校が遠征経験の有無を聞き、体の弱そうな者、人相の悪そうな者をはね、ドクターが健康診断し、病気とか、とりわけ心電図で不整があればはね、合格者を決める。何しろ年に一度とあって大変だ。以前は途中で賃上げ要求をしたものだが、今は政府の辺境福祉対策から日当は1日60ルピー(邦貨で1800円)と決められている。因みに小学校の先生の給料が1ヵ月300ルピーというから悪くない仕事だ。また以前にポーターであった証明書を出した者は、隊長がフリーでもぐりこませたものだから、隊員は彼らをコネワラ(ワラはウルドゥ語で人の意)と呼んだ。こうして138人のポーターが選ばれた。ほかに6人のハイポーターも決まった。6月16日に出発する。1週間後に最奥の部落コルコンダス(標高3400m)に着いた。この間、途中の村々では診療を求めて訪ねてくる村人が多く、中には骨折した子も、医師は多忙を極める。大キャラバンの行程があと半日という昼近く、座り込みが起きた。もう半日の行程は明日にしようという要求、でなければ帰るという。この反乱組には仕方なく50ルピーを支払い解雇、コルコンダスでポーターを補充し、なんとか氷河舌端のチョンギー下(3700m)に荷物を集結できた。ここまで1日の行程は10~13kmだった。
会員の一人に諸(もろ)君がいる。彼は高校時代にも人望があり、生徒会長や応援団長をしていて、応援団長は一泉同窓会でも続けていたようだ。彼は高校を卒業して金沢大学法文学部へ進学し、サークルは当時の「山の会」、後の「山岳部」に入部した。私は薬学部へ進学し、やはり「山の会」に入部した。この会は振り返って、今でいえばワンゲル的な要素が強いサークルだった。もっとも段々先鋭的な側面も出てきて、名実ともに山岳部に成長するのだが、私たちが入った頃はどちらかと言えば「歩き」がメインだった。彼も私も今は大学のOB会である「金沢大学山岳会」に所属している。
その彼が私に「木村、これ読めや」といって一冊の本を差し出した。この本は、ずっと昔、金大の工学部にいた平井先生が、神戸大学のカラコルム遠征隊の隊長となって遠征され、その時の紀行や記録を纏めた報告書で、先生が当時工学部の学生だった米(よね)君に送ってきたものを、山と関わりのある同窓の諸君に読むようにと渡し、読後私に回ってきたということだった。私としては、この報告書がまさかそんなに昔のものとは知らずに、てっきり近々のものだとばかり思っていたものだから、「じゃ、早速やましてもらいます」と言ったら、諸君は「別に慌てなくてもいいし、何なら返してもらわなくてもいい」と言うではないか、ふっと違和感が過ぎった。でもその謎は家へ帰ってから本を開いた時に分かった。米君に届いたのは遠征隊が帰国して2年後の12月、ところが諸君が預かったのは36年後、近々の記録とばかり思っていたので、これには少々正直ガッカリした。でも折角だから読んでみた。A5変形判の330頁、かなり読み応えがあり、面白かったので紹介しよう。
閑話休題
「コンダスの女王 シェルピ・カンリ」 1976年神戸大学カラコルム遠征隊の記録
平井一正 編著、 唱和53年5月25日 神戸新聞出版センター発行
●編著者の略歴:昭和6年(1931)生まれ。
唱和29年(1954)京都大学工学部卒業。
昭和31年(1956)修士課程終了後、金沢大学工学部助手。
昭和36年(1961)京都大学工学部助手、翌年助教授。
昭和39年(1964)神戸大学工学部助教授、昭和47年(1972)教授。
●登山暦:京都大学在学中は山岳部に在籍。
[遠征1] 昭和33年(1958)京都大学チョゴリザ(7654m)遠征隊(隊長:桑原武夫)にアタック隊員(2人) として参加し、初登頂。26歳。
[遠征2] 昭和37年(1962)日本・パキスタン合同サルトロ・カンリ(7742m)遠征隊(総隊長:四手井綱 彦)にサポート隊員として参加、パキスタン人を含む3人が初登頂。31歳。
[遠征3] 昭和51年(1976)神戸大学シェルピ・カンリ(7380m)遠征隊に隊長として参加、2人が初登頂。 44歳。
[遠征4] 昭和61年(1986)日本・中国合同クーラ・カンリ(7554m)に総隊長として参加、6人が初登
頂。54歳。
この4座の初登頂は、すべて無事故であった。
[遠征5] 平成15年(2003)神戸大学ルオニイ峰(6805m)遠征隊に隊長として参加、登頂断念し撤退、
無事故。72歳。
●「シェルピ・カンリ初登頂」
[発端]:昭和45年(1970)、神戸大学山岳部とそのOB有志で、カラコルム遠征の目標に、サルトロ山群の7000mを超える処女峰として選んだのがシェルピ・カンリ(7380m)である。測量番号ではピーク33と記された山で、地元のコルコンダス村ではシェレ・ガリと呼ばれていて、シェレは太陽が昇るとか東を、ガリはチベット語のカンと同じで氷を意味する。また、リは山で、目的とする山は「朝日の昇る氷の山」ということになる。
[一次隊]:地形もルートも分からないことから、偵察を主目的とした一次隊を派遣することにしたが、インドとパキスタンの紛争で国境領域への登山許可が中々下りなかったが、4年後の昭和49年(1974)に漸く下りて6月に出発できた。入山してからは急峻な南側のアイスフォールが4つもあるシャルピ・ガン氷河の源頭にまで至ったが、固定ザイルの不足で東尾根からの登頂は断念し、残りの日数をフルに使って氷河内院の測量を行い、地図を作成し、シェルピ・カンリ登頂ルートの偵察を行った。
[二次隊]:平井は神戸大学に来て10年を経過、この間に山岳部員らと山行を共にし、この計画は神戸大学の山岳部OBが主体となって実施するものであったが、請われて隊長を引き受けることになる。メンバーが決まったのは翌々年(1976)の初頭で、構成隊員はこの遠征隊が学術調査を兼ねることもあって、隊員9名の出身学部は極めて多彩、うち一次隊からも2名の参加があり、彼らはプロモーターの役割を果たす。2月に入り、登山許可が下りないまま、船便の都合もあり見切り発車で荷物の発注などをする。やっと月末に許可が下りた。一方で、学長以下大学職員あげて募金活動に取り組み、4月には募金目標に達し、5月10日には先発隊が、24日には全員が出発できた。
[入山]:羽田から空路北京で給油し、パキスタンのラワルピンディに直行する。先発隊はこの間にカラチへ船便の荷を取りに行く。ここから入山するには麓のスカルドへ飛行機で飛ばねばならないが、それには間に横たわる8000m峰があるパンジャブヒマラヤを越えねばならず、少しでも天候が悪いと飛行は中止になる。それと連絡将校が決まらないと出発はできない。結局スカルドには16日間留め置かれた後、全員一緒ではなく、さみだれ式に2人3人ずつ飛び、最後は4tの荷物と3人が輸送機で飛んだ。隊長の言では、14年前のスカルドは素朴な町だったが、今は役人がのさばり、物価が3倍にも上がり、すっかり都会の悪習に染まり、とても以前のように長居できる町ではなく、翌6月11日にはジープで約100km上流のカパルに向かった。ケロシン(灯油)を買うにも、ジープを手配するにも、すべて官憲を通さないといけないということに。でも、悪路をジープで移動中に大事な個人装備のザックを落とすトラブルがあったが、それを拾って、10kmも歩いて届けてくれた村人がいたという。拾ったものは見つけた人のものという国柄なのに、ここではまだこんな素朴な善意が残っていたとは驚きだ。スカルドでは考えられないことだ。
[キャラバン]:カパルはオアシスで、古くは王国だったという。ここからはキャラバンを組むために、荷物を30kgに再梱包する。そしてポーターの選定。今は一つの遠征隊にいいポーターが集中しないように、地方行政官が候補者名簿を出す仕組みになっている。見ると高所の村出身の者は少ないという。連絡将校が遠征経験の有無を聞き、体の弱そうな者、人相の悪そうな者をはね、ドクターが健康診断し、病気とか、とりわけ心電図で不整があればはね、合格者を決める。何しろ年に一度とあって大変だ。以前は途中で賃上げ要求をしたものだが、今は政府の辺境福祉対策から日当は1日60ルピー(邦貨で1800円)と決められている。因みに小学校の先生の給料が1ヵ月300ルピーというから悪くない仕事だ。また以前にポーターであった証明書を出した者は、隊長がフリーでもぐりこませたものだから、隊員は彼らをコネワラ(ワラはウルドゥ語で人の意)と呼んだ。こうして138人のポーターが選ばれた。ほかに6人のハイポーターも決まった。6月16日に出発する。1週間後に最奥の部落コルコンダス(標高3400m)に着いた。この間、途中の村々では診療を求めて訪ねてくる村人が多く、中には骨折した子も、医師は多忙を極める。大キャラバンの行程があと半日という昼近く、座り込みが起きた。もう半日の行程は明日にしようという要求、でなければ帰るという。この反乱組には仕方なく50ルピーを支払い解雇、コルコンダスでポーターを補充し、なんとか氷河舌端のチョンギー下(3700m)に荷物を集結できた。ここまで1日の行程は10~13kmだった。
2011年2月10日木曜日
「さむらい」というサケ
私が勤務している石川県予防医学教会の専務理事で事務局長の松川さんが、能登のそば屋を特集している「能登」というローカル雑誌を手に、ブラリと私のところへおいでになった。忙しいので滅多に来られることはないのだが、………。おいでた目的というのは、たまたま丸一日からだが空く日があるので、家内と能登のそば屋巡りでもしようかと話していて、私にどこか好い店を推薦してもらったらということだった。私は能登のそば屋は一通り巡ったのだが、松川さん持参の雑誌を見せてもらうと、知らない店もあった。でも読むと、中には店舗を構えていない青テンのそば屋もあって、中々面白い。松川さんもそこそこ出かけられているから、行くのだったら、今まで行っていない店にするか、今までに行った店でも奥さんに喜んでもらえるそこそこ美味しい店にするか、そのどちらかになる。でも回るとしても時間的制約があるから、最大3軒、遠く離れているとなると、1軒か2軒、また開店は大概午前11時頃、閉店を考慮すると、少なくとも午後4時までには最後の蕎麦屋には入るように段取りしないといけない。そこで、松川さん不参のそば屋を3軒挙げると、柳田の「夢一輪館」、門前の「手仕事屋」、押水の「上杉」ということになろうか。でもこの3軒を1日で回るというのは至難の技だ。珠洲の「さか本」もあるが、あそこは泊まらないとそばは出してもらえないという隘路がある。また既参の3軒を回るとしたら、私だったら、中島の「くき」、七尾国分の「欅庵」、羽咋神子原の「茗荷庵」とするなどと、他愛もない蕎麦談義をした。
閑話休題
ところで話は一転して、酒の話になった。松川さんが会議で何処かへ(聞いたが失念してしまった)出張した折、晩に居酒屋で酒を飲んでいると、店主が珍しいお酒を飲んで見ませんかといって出してくれたのが「さむらい」という酒、これは何とアルコール度数が46度とか、表示は清酒ではなくリキュールとなっていたという。酒税法では、日本での醸造酒のアルコール度数は、清酒では20度以下、焼酎では45度が限度、ただ与那国島の3軒の醸造元のみ60度が特別に認可されている。ところで清酒の場合、アルコールを造ってくれる酵母自体、アルコール度数が23度に達するまでに自壊自滅してしまうから、もし清酒原料でアルコール度数が高いとすれば醸造用アルコールを添加するしかないが、この手は許可されているのだろうか。でも松川さんはその「さむらい」という46度の酒を、帰ってから酒造会社から取り寄せたという。蔵元は新潟・魚沼の玉川酒造だという。私が驚いていると、じゃ今度少しおすそ分けしましょうと言われた。どんな酒なのだろう。
早速インターネットで玉川酒造を検索すると、Tamagawa Sake Brewaryとあり、場所は魚沼市須原、豪雪地帯である。蔵元の歴史は古く、創業は寛文13年(1673)、江戸時代初期(徳川四代将軍家綱の時代)、当時の守門村の庄屋の主、目黒五郎助が時の藩主から清酒醸造のお墨付けを頂いて酒造りを始めたという。爾来340年、伝統の酒「清酒玉風味」を醸してきた。現在この蔵元が行っているユニークな企ては、冬季に天然の雪を特殊な方法で雪蔵に貯蔵し、年間を通してこの雪蔵で大吟醸を醸造し、大吟醸をこの雪蔵で低温貯蔵していることだろう。大吟醸以外の醸造酒は常温保存である。現在醸造している酒は、本醸造の「十八代玉風味」と「越の玉梅」、純米吟醸の「越の雪蔵」、純米大吟醸の「目黒五郎助」、大吟醸の「越後ゆきくら」等である。
そしてもう一点ユニークなのは、新しい珍しいタイプのサケ造りと、日本酒からの化粧品開発へのチャレンジである。紹介してみよう。 ①スパークリング大吟醸「ゆきくら」:生酒(発泡酒)でアルコール度数は12.5%、冷蔵。 ②越後武士(えちごさむらい)(リキュール):アルコール度数は46%、1年熟成、常温保存。 ③越後武士ナポレオン(リキュール):越後武士をオーク樽に詰めて長い年月寝かせて熟成したもので、アルコール度数は43.7%、常温保存。 ④スーパー舞36:7年貯蔵の古酒。アルコール度数36%、常温保存。 ⑤化粧品:天然化粧酒「ゆきくら美白水」。ほかに「ゆきくら」銘の乳液(モイスチャーミルク)、エッセンスソープ、エッセンスクリームなど。
私が松川さんから頂いたのは、②の「越後さむらい」で、ポリ容器に入った200mlばかり、早速試飲した。松川さんではオンザロックがよいとかで、ロックグラスにそれ用の氷を入れ、上から全量を注いだ。アルコール度数は46%とはいえ、ベースは清酒なので、当然清酒風味、エキス分があるので、焼酎やウィスキーなどよりははるかに口当たりがよくかつ飲みやすく、もつ煮を肴にあっという間に胃の腑に納まってしまった。46度というと清酒ぬ約3倍のアルコール濃度、換算すれば3合ということになるが、そんな抵抗はまったく感じられず、実にすっきりした飲み口だった。ウィスキーだとこうはゆかない。清酒の水の粒子がアルコールの粒子を包み込んでしまったような印象を受けた。面白いサケだった。現品はインターネットでも申し込めるようだ。
閑話休題
ところで話は一転して、酒の話になった。松川さんが会議で何処かへ(聞いたが失念してしまった)出張した折、晩に居酒屋で酒を飲んでいると、店主が珍しいお酒を飲んで見ませんかといって出してくれたのが「さむらい」という酒、これは何とアルコール度数が46度とか、表示は清酒ではなくリキュールとなっていたという。酒税法では、日本での醸造酒のアルコール度数は、清酒では20度以下、焼酎では45度が限度、ただ与那国島の3軒の醸造元のみ60度が特別に認可されている。ところで清酒の場合、アルコールを造ってくれる酵母自体、アルコール度数が23度に達するまでに自壊自滅してしまうから、もし清酒原料でアルコール度数が高いとすれば醸造用アルコールを添加するしかないが、この手は許可されているのだろうか。でも松川さんはその「さむらい」という46度の酒を、帰ってから酒造会社から取り寄せたという。蔵元は新潟・魚沼の玉川酒造だという。私が驚いていると、じゃ今度少しおすそ分けしましょうと言われた。どんな酒なのだろう。
早速インターネットで玉川酒造を検索すると、Tamagawa Sake Brewaryとあり、場所は魚沼市須原、豪雪地帯である。蔵元の歴史は古く、創業は寛文13年(1673)、江戸時代初期(徳川四代将軍家綱の時代)、当時の守門村の庄屋の主、目黒五郎助が時の藩主から清酒醸造のお墨付けを頂いて酒造りを始めたという。爾来340年、伝統の酒「清酒玉風味」を醸してきた。現在この蔵元が行っているユニークな企ては、冬季に天然の雪を特殊な方法で雪蔵に貯蔵し、年間を通してこの雪蔵で大吟醸を醸造し、大吟醸をこの雪蔵で低温貯蔵していることだろう。大吟醸以外の醸造酒は常温保存である。現在醸造している酒は、本醸造の「十八代玉風味」と「越の玉梅」、純米吟醸の「越の雪蔵」、純米大吟醸の「目黒五郎助」、大吟醸の「越後ゆきくら」等である。
そしてもう一点ユニークなのは、新しい珍しいタイプのサケ造りと、日本酒からの化粧品開発へのチャレンジである。紹介してみよう。 ①スパークリング大吟醸「ゆきくら」:生酒(発泡酒)でアルコール度数は12.5%、冷蔵。 ②越後武士(えちごさむらい)(リキュール):アルコール度数は46%、1年熟成、常温保存。 ③越後武士ナポレオン(リキュール):越後武士をオーク樽に詰めて長い年月寝かせて熟成したもので、アルコール度数は43.7%、常温保存。 ④スーパー舞36:7年貯蔵の古酒。アルコール度数36%、常温保存。 ⑤化粧品:天然化粧酒「ゆきくら美白水」。ほかに「ゆきくら」銘の乳液(モイスチャーミルク)、エッセンスソープ、エッセンスクリームなど。
私が松川さんから頂いたのは、②の「越後さむらい」で、ポリ容器に入った200mlばかり、早速試飲した。松川さんではオンザロックがよいとかで、ロックグラスにそれ用の氷を入れ、上から全量を注いだ。アルコール度数は46%とはいえ、ベースは清酒なので、当然清酒風味、エキス分があるので、焼酎やウィスキーなどよりははるかに口当たりがよくかつ飲みやすく、もつ煮を肴にあっという間に胃の腑に納まってしまった。46度というと清酒ぬ約3倍のアルコール濃度、換算すれば3合ということになるが、そんな抵抗はまったく感じられず、実にすっきりした飲み口だった。ウィスキーだとこうはゆかない。清酒の水の粒子がアルコールの粒子を包み込んでしまったような印象を受けた。面白いサケだった。現品はインターネットでも申し込めるようだ。
2011年2月3日木曜日
「ストラディヴァリウス」&「デル・ジェス」
1月29日の土曜日、ストラディヴァリウスとデル・ジェスという2つのヴァイオリンの名器を聴き比べるというチャリティーコンサートが北國新聞社赤羽ホールで開催されることになっていた。早々とチケットを買い、この日を待った。
久しぶりの土曜日の外出とあって、じゃ金沢駅まで出向いて「蕎麦やまぎし」へ寄ることにした。この前に寄ったのは大晦日、予約をして年越し蕎麦を食べに出かけて以来、1ヵ月ぶりだ。暮れの年越し蕎麦は予約制、午後4時からおおよそ30分入替えで、午後10時半まで、全部予約済みだというから、単純には満席は9人だから延べ108人ということになる。除夜の鐘の数と同じなのも何かの因縁か。私たちは4家族7人の予約をした。第1陣は午後4時半、第2陣は午後6時、私は第1陣、いつものように券売機でチケットを買おうとしたら、山岸さんが木村さんは皆さん「黒」(挽きぐるみ)と奥さんから伺っているとのこと、ならば従わないといけない。予約の皆さんには時間もさることながら、品も予め決めて頂いたという。蕎麦は契約栽培してもらっている加賀市宮地町の産、自宅で石臼挽きしての十割である。そばは中打ち、新蕎麦で香りもよく、皆さん大喜びで私も推薦した甲斐があるというものだ。この日は奥さんと娘さんが助っ人だった。
その日は午前11時に出かけた。開店は11時半だが、11時には開いている。ただ、そばが出てくるのは、いろいろ事前の用意もあることから11時半過ぎになる。先客はいなくて、券売機で「粗挽き入り」の大盛りにする。ほどなく東京からの客人と地元の客、皆さん「粗挽き入り」、山岸さんでは、予約もあるので、今日は「粗挽き入り」は完売とか、凄い人気だ。暫らく話していて、ついこの前、松田さんと新田さんが見えましたと言われる。探蕎会のことを何方か耳に入れたのだろうか。でなかったらこんな話が出るわけがない。松川さんも二度ばかり見えましたとか。前田さんと一緒に見えられた方は何といわれましたと言われるから、小塩さんでしょうと話す。例によって「財宝」、今日はコンサートがあるので2杯にしておこう。家内からは予め小銭を400円もらってある。というのは千円札を出すと往々にして釣り銭がないので、どうしても小銭が必要となるからである。今じゃ「蕎麦やまぎし」は大変な人気のようだ。この間はラジオでのインタビューもあったという。
正午過ぎに「蕎麦やまぎし」を出る。その時はてっきりコンサートは午後2時開演とばかり思い込んでいたものだから、雪のなか、鞍月用水沿いに赤羽ホールへ向かった。でも着いてから分かったことだが、開演は午後3時だった。
閑話休題
「ストラディヴァリウス&デル・ジェス チャリティーコンサート2011」
-2つの1736年製ヴァイオリン「ムンツ」-
● ストラディヴァリウス「ムンツ」(1736年製)
これはアントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)が92歳の最晩年に製作したヴァイオリンである。彼が93歳で亡くなるまでに製作した弦楽器は、ヴァイオリン約1100挺、ヴィオラ約10挺、チェロ約50挺と言われていて、このうちヴァイオリンで現存が確認されているのは約半数と言われている。愛称の「ムンツ」は1874年以降にイギリスのアマチュア演奏家で収集家のムンツ氏が所有していたことに因む。そしてこのヴァイオリンの内部にはラベルが貼ってあり、それにはストラディヴァリ本人の手書きで「d’anni92(92歳の作品)」と書かれているという。現在の所有は日本音楽財団、彼には息子が二人いてやはり弦楽器を作ったそうだが、親父の作品には遠く及ばなかったという。したがって「ストラディヴァリウス」というのは親父の製品のみを指す。でもこの楽器、個々では音色や保存状態によって差があり、ピンからキリだと聞いたことがある。
● グァルネリ・デル。ジェス「ムンツ」(1736年製)
製作者はバルトロメオ・ジュセッペ・グァルネリ(1698-1744)で、作られたのはヴァイオリンのみで、ロンドンの老舗楽器商のヒル商会が確認している数は世界で147挺のみ、外聞では女に手出しして刑務所にも入っていて、その間は製作できず、製作本数はそんなに多くはないとか。40歳台で他界したことも影響していよう。兄がいて兄も楽器を製作していたそうだが、グァルネリの名器といえば、弟の作ったものを指す。彼は自分が作ったヴァイオリンの内部には、イエズス会を示すIHSの符号と十字架を記したラベルを貼っていたことから、彼が製作したヴァイオリンは「デル・ジェス」(イエスの)と呼ばれている。また愛称はムンツ氏が一時所有していたことに因む。現在の所有は日本音楽財団。
● 日本財団と日本音楽財団
日本財団(会長 笹川陽平)はこれまでもモーターボート収益金で海洋船舶関連事業や公益・福祉事業、国際協力事業を支援してきたが、1993年以降、会長の発案により、文化芸術活動の支援をする目的で名器(とりわけ弦楽器)を購入し、内外の演奏家に無償で貸与する事業を日本音楽財団に託して支援を行っている。財団では、現在ストラディヴァリウス19挺(ヴァイオリン15挺、ヴィオラ1挺、チェロ3挺)とグァルネリ・デル・ジェス2挺(ヴァイオリン)を保有している。ただ貸与者には楽器を3ヵ月に一度、財団が指定する世界各国の楽器商でメンテナンスすることを義務づけているが、その費用は財団が負担している。その経費は年間5千万円にもなるという。楽器貸与先の決定は財団の楽器貸与委員会(委員長は指揮者のロリン・マゼール氏)が行っている。
● 演奏者
ヴァイオリン演奏:[ストラディヴァリウス使用] 有希・マヌエラ・ヤンケ(2007年サラサーテ国際コンクール優勝・ドイツ国籍) [グァルネリ・デル・ジェス使用] 渡辺玲子(1986年パガニーニ国際コンクール最高位受賞・日本国籍)
ピアノ伴奏:江口 玲(1986年ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール最優秀伴奏者賞受賞・日本国籍・ニューヨーク在住)
● プログラム
演奏会に先立って挨拶した日本音楽財団の塩見和子理事長は演奏者を、「有希」「玲子」と言っていたので、以下には演奏者をそのように略記する。
1.ヴァイオリン二重奏:ルクレール作曲 2つのヴァイオリンのためのソナタ第2番イ長調(3楽章)。
2.「有希」独奏(ピアノ伴奏):サン=サーンス作曲 序奏とロンド・カプリッチョーソイ長調 と ヴィエニャフスキ作曲 華麗なるポロネーズ第1番ニ長調。 3.ヴァイオリン二重奏とピアノ演奏:モシュコフスキ作曲 2つのヴァイオリンとピアノのための組曲ト短調(4楽章)。 4.ヴァイオリン独奏(同じ曲を2つのヴァイオリンで聴き比べる特別企画).「有希」と「玲子」:J.S.バッハ作曲 独奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調からガボット。 5.「玲子」独奏(ピアノ伴奏):クライスラー作曲 ウィーン奇想曲/愛の喜び と ワックスマン作曲 カルメン幻想曲。 6.ヴァイオリン二重奏(ピアノ伴奏):サラサーテ作曲 ヴァイオリン二重奏曲「ナバラ」。
以上を休憩なしの90分で、息継ぐ間もない演奏、演奏者は大変だったろうと思う。それにしても曲はみなヴァイオリン曲としては難曲の類、特に二重奏は息がピッタリ合ってないと様にならないのだが、実に見事で聴き応えがあった。3人の演奏家は共に始めてであるが、さすが国際コンクールで優勝したり最高位だったりした人たちとあって、何とも素晴らしい迫力だった。また楽器が楽器だけに、500人収容のホールの隅々にまで音が響きわたり、極端な言い方をすると、うるさい位、ピチカートでもビンビン音が響いた。あの小さい楽器であの音量と音色、十分堪能した。2台のヴァイオリンの弾き比べでは、ストラディヴァリウスは全体に女性を思わせるようで、特に高音部は繊細で心を震わせるような音色、それでいて芯が強く、放射線で言えばガンマ線のようだ。片やデル・ジェスは、どちらかというと男性的な響き、中でも中低音部での野太い豊かで野生的な音が印象的だった。高音部も澄んではいるものの繊細さはなく、むしろ力強さを感じた。放射線で言えばベータ線だ。ピアノで例えると、ストラディヴァリウスは優等生のスタインウェイ、デル・ジェスは野生児のベーゼンドルファーといったところだろうか。話は変わるが、五嶋みどりは以前は日本音楽財団からストラディヴァリウスを長期貸与されていたが、現在はグァルネリ・デル・ジェス「エクス・フーベルマン」(1734年製)を林原共済会より終身貸与されて使用しているとかである。ちなみにこの日に使われた「ムンツ」2挺の合計評価額は、嘘か真か、約13億円とか、大変な共・競演だったわけだ。
この企画は北國新聞社の飛田社長のたっての希望で実現したと塩見理事長が挨拶の中で述べていた。演奏会には理事長も社長も出席していた。
久しぶりの土曜日の外出とあって、じゃ金沢駅まで出向いて「蕎麦やまぎし」へ寄ることにした。この前に寄ったのは大晦日、予約をして年越し蕎麦を食べに出かけて以来、1ヵ月ぶりだ。暮れの年越し蕎麦は予約制、午後4時からおおよそ30分入替えで、午後10時半まで、全部予約済みだというから、単純には満席は9人だから延べ108人ということになる。除夜の鐘の数と同じなのも何かの因縁か。私たちは4家族7人の予約をした。第1陣は午後4時半、第2陣は午後6時、私は第1陣、いつものように券売機でチケットを買おうとしたら、山岸さんが木村さんは皆さん「黒」(挽きぐるみ)と奥さんから伺っているとのこと、ならば従わないといけない。予約の皆さんには時間もさることながら、品も予め決めて頂いたという。蕎麦は契約栽培してもらっている加賀市宮地町の産、自宅で石臼挽きしての十割である。そばは中打ち、新蕎麦で香りもよく、皆さん大喜びで私も推薦した甲斐があるというものだ。この日は奥さんと娘さんが助っ人だった。
その日は午前11時に出かけた。開店は11時半だが、11時には開いている。ただ、そばが出てくるのは、いろいろ事前の用意もあることから11時半過ぎになる。先客はいなくて、券売機で「粗挽き入り」の大盛りにする。ほどなく東京からの客人と地元の客、皆さん「粗挽き入り」、山岸さんでは、予約もあるので、今日は「粗挽き入り」は完売とか、凄い人気だ。暫らく話していて、ついこの前、松田さんと新田さんが見えましたと言われる。探蕎会のことを何方か耳に入れたのだろうか。でなかったらこんな話が出るわけがない。松川さんも二度ばかり見えましたとか。前田さんと一緒に見えられた方は何といわれましたと言われるから、小塩さんでしょうと話す。例によって「財宝」、今日はコンサートがあるので2杯にしておこう。家内からは予め小銭を400円もらってある。というのは千円札を出すと往々にして釣り銭がないので、どうしても小銭が必要となるからである。今じゃ「蕎麦やまぎし」は大変な人気のようだ。この間はラジオでのインタビューもあったという。
正午過ぎに「蕎麦やまぎし」を出る。その時はてっきりコンサートは午後2時開演とばかり思い込んでいたものだから、雪のなか、鞍月用水沿いに赤羽ホールへ向かった。でも着いてから分かったことだが、開演は午後3時だった。
閑話休題
「ストラディヴァリウス&デル・ジェス チャリティーコンサート2011」
-2つの1736年製ヴァイオリン「ムンツ」-
● ストラディヴァリウス「ムンツ」(1736年製)
これはアントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)が92歳の最晩年に製作したヴァイオリンである。彼が93歳で亡くなるまでに製作した弦楽器は、ヴァイオリン約1100挺、ヴィオラ約10挺、チェロ約50挺と言われていて、このうちヴァイオリンで現存が確認されているのは約半数と言われている。愛称の「ムンツ」は1874年以降にイギリスのアマチュア演奏家で収集家のムンツ氏が所有していたことに因む。そしてこのヴァイオリンの内部にはラベルが貼ってあり、それにはストラディヴァリ本人の手書きで「d’anni92(92歳の作品)」と書かれているという。現在の所有は日本音楽財団、彼には息子が二人いてやはり弦楽器を作ったそうだが、親父の作品には遠く及ばなかったという。したがって「ストラディヴァリウス」というのは親父の製品のみを指す。でもこの楽器、個々では音色や保存状態によって差があり、ピンからキリだと聞いたことがある。
● グァルネリ・デル。ジェス「ムンツ」(1736年製)
製作者はバルトロメオ・ジュセッペ・グァルネリ(1698-1744)で、作られたのはヴァイオリンのみで、ロンドンの老舗楽器商のヒル商会が確認している数は世界で147挺のみ、外聞では女に手出しして刑務所にも入っていて、その間は製作できず、製作本数はそんなに多くはないとか。40歳台で他界したことも影響していよう。兄がいて兄も楽器を製作していたそうだが、グァルネリの名器といえば、弟の作ったものを指す。彼は自分が作ったヴァイオリンの内部には、イエズス会を示すIHSの符号と十字架を記したラベルを貼っていたことから、彼が製作したヴァイオリンは「デル・ジェス」(イエスの)と呼ばれている。また愛称はムンツ氏が一時所有していたことに因む。現在の所有は日本音楽財団。
● 日本財団と日本音楽財団
日本財団(会長 笹川陽平)はこれまでもモーターボート収益金で海洋船舶関連事業や公益・福祉事業、国際協力事業を支援してきたが、1993年以降、会長の発案により、文化芸術活動の支援をする目的で名器(とりわけ弦楽器)を購入し、内外の演奏家に無償で貸与する事業を日本音楽財団に託して支援を行っている。財団では、現在ストラディヴァリウス19挺(ヴァイオリン15挺、ヴィオラ1挺、チェロ3挺)とグァルネリ・デル・ジェス2挺(ヴァイオリン)を保有している。ただ貸与者には楽器を3ヵ月に一度、財団が指定する世界各国の楽器商でメンテナンスすることを義務づけているが、その費用は財団が負担している。その経費は年間5千万円にもなるという。楽器貸与先の決定は財団の楽器貸与委員会(委員長は指揮者のロリン・マゼール氏)が行っている。
● 演奏者
ヴァイオリン演奏:[ストラディヴァリウス使用] 有希・マヌエラ・ヤンケ(2007年サラサーテ国際コンクール優勝・ドイツ国籍) [グァルネリ・デル・ジェス使用] 渡辺玲子(1986年パガニーニ国際コンクール最高位受賞・日本国籍)
ピアノ伴奏:江口 玲(1986年ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール最優秀伴奏者賞受賞・日本国籍・ニューヨーク在住)
● プログラム
演奏会に先立って挨拶した日本音楽財団の塩見和子理事長は演奏者を、「有希」「玲子」と言っていたので、以下には演奏者をそのように略記する。
1.ヴァイオリン二重奏:ルクレール作曲 2つのヴァイオリンのためのソナタ第2番イ長調(3楽章)。
2.「有希」独奏(ピアノ伴奏):サン=サーンス作曲 序奏とロンド・カプリッチョーソイ長調 と ヴィエニャフスキ作曲 華麗なるポロネーズ第1番ニ長調。 3.ヴァイオリン二重奏とピアノ演奏:モシュコフスキ作曲 2つのヴァイオリンとピアノのための組曲ト短調(4楽章)。 4.ヴァイオリン独奏(同じ曲を2つのヴァイオリンで聴き比べる特別企画).「有希」と「玲子」:J.S.バッハ作曲 独奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調からガボット。 5.「玲子」独奏(ピアノ伴奏):クライスラー作曲 ウィーン奇想曲/愛の喜び と ワックスマン作曲 カルメン幻想曲。 6.ヴァイオリン二重奏(ピアノ伴奏):サラサーテ作曲 ヴァイオリン二重奏曲「ナバラ」。
以上を休憩なしの90分で、息継ぐ間もない演奏、演奏者は大変だったろうと思う。それにしても曲はみなヴァイオリン曲としては難曲の類、特に二重奏は息がピッタリ合ってないと様にならないのだが、実に見事で聴き応えがあった。3人の演奏家は共に始めてであるが、さすが国際コンクールで優勝したり最高位だったりした人たちとあって、何とも素晴らしい迫力だった。また楽器が楽器だけに、500人収容のホールの隅々にまで音が響きわたり、極端な言い方をすると、うるさい位、ピチカートでもビンビン音が響いた。あの小さい楽器であの音量と音色、十分堪能した。2台のヴァイオリンの弾き比べでは、ストラディヴァリウスは全体に女性を思わせるようで、特に高音部は繊細で心を震わせるような音色、それでいて芯が強く、放射線で言えばガンマ線のようだ。片やデル・ジェスは、どちらかというと男性的な響き、中でも中低音部での野太い豊かで野生的な音が印象的だった。高音部も澄んではいるものの繊細さはなく、むしろ力強さを感じた。放射線で言えばベータ線だ。ピアノで例えると、ストラディヴァリウスは優等生のスタインウェイ、デル・ジェスは野生児のベーゼンドルファーといったところだろうか。話は変わるが、五嶋みどりは以前は日本音楽財団からストラディヴァリウスを長期貸与されていたが、現在はグァルネリ・デル・ジェス「エクス・フーベルマン」(1734年製)を林原共済会より終身貸与されて使用しているとかである。ちなみにこの日に使われた「ムンツ」2挺の合計評価額は、嘘か真か、約13億円とか、大変な共・競演だったわけだ。
この企画は北國新聞社の飛田社長のたっての希望で実現したと塩見理事長が挨拶の中で述べていた。演奏会には理事長も社長も出席していた。
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