信州は山の国、温泉も数え切れない程沢山あり、これは私が住む石川県の比ではない。また秘湯というと、山の中にぽつんとある一軒家を思い浮かべるが、正にその通りで、信州にはこの類の一軒のみの温泉も多く、それは山峡であったり、山奥であったり、時には車道が途切れて歩かねばならない処だったりする。
この秋、家内と訪れたのは信州でも高台にある温泉で、そこでのんびり露天風呂にでも浸かって山でも眺めようという趣向である。家内とは定年になったら、二人であちこちの山に出かけ、そして山の出湯に浸ろうと、そんな山巡りをしたいと願っていたが、私自身脚力の衰えが目立ってきたこともあり、とても以前のような山行は無理になった。また家内の方も以前は私がバテてもシャンとしていたこともあったのに、どうも近頃は山歩きするとその後の体調が思わしくなく、結果として出かけなくなってしまった。そうならば山は眺めることにして、それで今回は温泉に浸りながら山を眺められるという条件を満たすような、しかも秘湯といわれる山の湯宿を物色することにした。
信濃の国は周りが高い山で囲まれていることから、北信濃の長野盆地や中信濃の松本盆地からは、西に飛騨山脈(北アルプス)を眺められるし、南信濃の伊那盆地からは東に赤石山脈(南アルプス)、西に木曽山脈(中央アルプス)を仰ぐことができる。これらの盆地にも沢山の温泉があり、居ながらにして山々を眺めることは可能である。しかし里ではなく山の温泉にこだわった場合、山懐へ入ってしまうと、山間では山は見えても近くの山のみ、もし高い峰々を見たいと願望するとすれば、もっと高みまで上らないと眺望はきかず、今回はそういう高台にあって、しかもアルプスの山並みが見える秘湯と称される温泉をチョイスすることにした。
そこで選択されたのが「中の湯温泉」と「奥山田温泉」で、前者は奥穂高岳や前穂高岳を眺められるし、後者は西穂高岳から小蓮華岳までの大パノラマを居ながらにして眺めることができる。いずれも標高1,500mを超える高地にある。ただこういう標高のところだと、10月には初雪を見る場所ともなる。
・中の湯温泉旅館(長野県松本市安曇中の湯4467)
古くから岳人の湯、焼岳登山口の宿として知られ、梓川沿いにあったが、安房トンネル掘削工事のため閉鎖しなければならなくなり、平成10年春に現在地に移転し開業した。新しい宿の標高は1,580m、平湯からだと国道158号線の安房トンネルを抜けて直ぐ左手の安房峠へ行く旧国道に入り(ここが1号カーブ)、7号カーブを過ぎると左手緩斜面に宿がある。だから松本方面からだと安房トンネルに入る前に右折して旧道に入ることになる、1号カーブにゲートがあるが、ここから旧道を2.2km、標高にして200m上がると着く。この道路は、旧道に降雪があると、それ以降道路は閉鎖され、ゲートは閉められる。また降雪がなくても11月15日以降はゲートが閉められる。ただ「中の湯温泉」は通年営業なので、ゲートの施錠はない。バス利用の客は路線バスの「中の湯}バス停にある中の湯温泉案内所に行けば、迎えの車が来る。徒歩では40分位かかるそうだ。
駐車場からはさらに10mばかり高みにある玄関にまで上がることになる。新築してまだ10年余り、木の香がしそうな玄関、日本秘湯を守る会のあのおなじみの提灯が下がっている。入ると広い広いロビー、山の宿とは思えないくらいモダンで、調度も立派な温泉クラス、でも外は原生林、総ガラス張りなので居ながらにして自然の中に居るような錯覚、左手には雪を纏った奥穂高岳、吊り尾根、前穂高岳、明神岳が見えている。そして正面には霞沢岳の大きな山体、高倍率の望遠鏡も置いてある。ゆったりとした空間でお茶を頂き寛ぐ。右手の林の、男性の露天風呂の先に小鳥の餌台が置いてあって、主人が言うには、今年は山では木の実が少ないので、ひまわりの実を置いておくと、次から次と小鳥が訪れ、それがロビーからも大変よく見え、これがまた心を癒す。本当に次から次と、その数は夥しい。主人では、今来ているのは、シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、ゴジュウカラだという。野生の小鳥だが、後で露天風呂に入っていても、物怖じしないで寄ってくる。見ていて飽きない。
部屋へ案内される。部屋は二階の「蓮華」、8畳で板の縁付き、ここからも穂高がよく見える。着替えて風呂へ行く。硫黄の匂いがする。内風呂は2槽あり、大きい浴槽は温かく、小さな浴槽は熱く、お湯はかけ流しである。ところがこのお湯は、元の泉源からここまでポンプアップしているという。泉源から何キロもお湯を引いている例は幾らも知っているが、アップするというのは初めて聞いた。主人では此処ではボーリングしてもお湯は出ず、元の泉源から引くことにしたと。道端に大きなタンクがあったが、これはお湯の中継点だそうだ。さて、露天風呂は内湯に匹敵する大きさ、温めで長く浸かっていても大丈夫だ。此処からも穂高が見える。そしてすぐ目の前に小鳥の群れ、入れ替わり立ち代り訪れる。結構なお湯だ。ただ後で聞いたのだが、女性の露天風呂からは穂高は見えないという。湯上りに秘湯ビールを貰う。陽も傾いて、穂高が紅に染まり始める。何ともいえない風情だ。明日は寒気の南下で寒くなり、午後は雨になるという。明日は誘われて上高地の閉山祭に行くことにしているのだが。夜の帳が下りると、外は漆黒の闇である。
夕食は食堂のテーブルで、家内は生ビール、私は地酒を貰う。11品が次々と出てくる。一品料理に馬刺しを貰ったが、これが柔らかくて実に美味しかった。ここは急峻な地形、しかも公園内?とあって、天然の山の幸、川の幸は出ないが、素朴で家庭的な雰囲気だ。
〔温泉情報〕源泉温度:55℃、温泉使用量:120ℓ/分、泉質:単純硫黄温泉、利用形態:かけ流し(加水・加温あり).
・奥山田温泉満山荘(長野県上高井郡高山村奥山田温泉3681-343)
上高地閉山祭が終わって中の湯に戻ったのが午後1時半、そばをお願いしてあったが、職人が休みとかで食べ損ねる。もう時間もなく、高速道路に松本ICで上り、須坂・長野東ICで下りる。道路事情に疎く、ナビに従って行く。途中工事で通行止めがあり、迂回する。パンフではICを下りて45分とあったが、1時間くらいかかったろうか。山田温泉を過ぎると道は松川渓谷沿いになる。五色温泉を過ぎ、七味温泉への分岐から山へ分け入る。高度が増すと一面の雪景色、幻想的だ。着いたのは午後4時半頃、奥山田温泉には満山荘だけだと思っていたら、現在11軒も点在するとか、山の中、日が暮れる前に着けたのは僥倖だった。駐車場には私の車が入って満車状態、シンガリだった。
宿の入り口は草庵風、玄関には日本秘湯を守る会の提灯と日本の秘湯・満山荘をデフォルメしたと思われる暖簾がかかっている。ここは標高1,550m、外は小雪がちらついている。入ると玄関にも帳場にもロビーにも人影がない。掛け声で宿の若い主人が現れた。勝手知ってる人だと、上がって帳場の上に釣り下がっている鐘を叩くというのだが、それは後で説明を聞いて分かったこと、ここには内線電話はないとのことだった。主人から囲炉裏で沸かしたお湯で入れたお茶を頂く。手続きを済ませて部屋へ案内される。部屋は和洋室の観山(みやま)館の一室、畳の部分には既に布団が敷かれている。窓は東向き、天気が好ければ雪を頂いた北アルプスが一望できるのに、雪とガスで視界は利かない。ここには新館と旧館があり、新館をお願いしておいたが、これが新館なのだろうか。
作務衣に着替えて風呂へ行く。階段を下って行き着いた男風呂は、古いパンフに出ていた見覚えのある石組み、何でもここの親父さんが自ら選んで造ったという岩の内湯、ゴツゴツした感じがそれを物語る。露天風呂は切り石の岩風呂、ここも天気が好ければ、北アルプス連峰の山々を眺めながらの別天地なのだが、今日は真っ白な雪の世界を眺めながらの入湯である。お湯は真夜中の0時から朝の8時までは男湯と女湯が反転するとか、もう一方は朝早くに入ることにしよう。家内が出てくるのを展示室で待つ。
展示室には図書や撮影機具、写真集、パノラマ写真、アルペンホルン等が置いてある。特に奥に飾ってある山田牧場からの北アルプス連峰のパノラマ写真は圧巻で、南北約80kmがくっきり写っている。眺めているとそこへ矍鑠としたご老体が敬礼してのご登場、特攻隊の生き残りとか。先ずはガラス製のアルペンホルンの説明、長さは2mはあろうか、吊り下げてあるのは触られないようにとか、何せスイスで大枚出して買ってきたもの、特に直管の部分を真っ直ぐに伸ばすのが大変という。この間何人もの人が挨拶する。聞くと皆さんリピーターで、京都の女性は年に3回、これまで37回、50回は来たいと仰る。群馬の男性も40回は来てるとのこと、それだけ魅力があるということだ。ここは家族での切り盛りという。
話が温泉のことになった。ここは源泉かけ流し、でも泉源は松川渓谷の一角、そこから700mもお湯をアップしているとか、途中30箇所もの中継点があり、コンピューターで制御しているという。これまで7億円を投じたとか。この温泉組合には当時20軒が加盟していたが、今は11軒、この堀江文四郎さんは現在も組合長をされていて、お湯の管理も自身でされている。また雪形にも興味を持たれ、旧来の白馬岳の代掻き馬とか五竜岳の武田菱のほかに、爺ヶ岳に日本カモシカ、白馬鑓ヶ岳にアルプスの少女ハイジを発見、写真で見ると実によく似ている。
夕食は食事処で、私たちはテーブルだったが、奥には畳の間もある。テーブルもゆったりしていて、隣りとは暖簾で仕切られている。ほぼ満席、夕食は「北信濃風いなか料理」、奥さん手書きのお品書き、大したものだ。品は13品、書いてある素材だけでも40近く、しかも創作料理、というけれど変な衒いはなく、見た目は実に新鮮、また色彩の配合が素場らしい。その上個性があって美味しいので、お湯もさることながら、料理でも人を魅せ引きつけてしまう。本当に驚いた。家内もリピーターになりそうだ。
翌朝、天気は快方に向かうとはいうものの、ガスが薄れた程度、チェックアウトは11時とか、朝食後も部屋で寛ぐ。すると一瞬陽が射し、ガスが一瞬切れ、北アルプスが半分くらいだが見えた。一瞬とはいえ、見えたことに感動を覚えた。何という僥倖、満足して宿を後にすることができた。出たのは私たちがラス前だった。
〔温泉情報〕源泉温度:72℃、温泉使用量:40ℓ/分、泉質:単純硫黄温泉、利用形態:源泉かけ流し(加水・加温なし)、但し冬期加温あり(給湯口源泉・浴槽加温・濾過・殺菌循環),、
2010年11月22日月曜日
2010年11月17日水曜日
上高地閉山祭
11月14日、かねて家内と山の湯宿ということで選んだのが「中の湯温泉」である。ここは安房トンネルを平湯から沢渡方面へ抜けたあと、左折して安房峠へ行く旧道を七曲りして、高さにして200mばかり上がったところにある標高1500mの温泉である。以前は梓川沿いにあったのだが、安房トンネル掘削の煽りをくって閉鎖の破目になり、新しく旧の峠道の脇にある緩斜面の場所に移して建てられたもので、聞くともう11年を経過したとか。ここは焼岳の中の湯登山口でもある。11月初旬に電話したところ、もう一度は降雪があったとかで、車のタイヤは冬用のスタッドレスの方がよいとのこと、切り換えして出かけた。出立した日の天気は曇り、翌日は下り坂とのこと、この日は日曜日なので、松本まで高速自動車道を利用し、中の湯へと向かった。この国道158号線を通ったのは随分昔のこと、ガタガタした道だったが、今はきれいに舗装されている。途中で携帯電話があり、安房峠への道路はゲートが閉まっているが、鍵は掛かっていないので、開けて通って下さい、通った後はまた閉めておいて下さいと連絡があった。この連絡がなかったら、パニックになるところだった。中の湯温泉旅館には午後2時半頃に着いた。
着くなり、主人に明日上高地へ行きませんかと誘われた。何と15日には上高地の閉山祭が河童橋畔であるという。次の日は松本をブラつく予定をしていたが、お願いすることにした。上高地へは旅館の車でお送りしますとのこと、出発は午前8時30分、主人では天気が好ければ大正池から明神池まで歩いて穂高神社の奥宮へお参りしてから、正午に始まる閉山祭に参加して御神酒を頂いて帰ってくればよいとのこと、車はここに置いて出かけた方がよいとも。帰りは上高地から釜トンネルを出た処にある中の湯バス停までは路線バスで来て、バス停の近くには中の湯温泉の案内所があるので、電話があれば車で迎えに行きますと。歩くと40分はかかるとのことだった。この日は旅館のロビーからは雪を纏った奥穂高岳、吊り尾根、前穂高岳、明神岳が見え、すぐ目の前には霞沢岳がどっしりと対峙する。青空をバックの峰々にも感動したが、夕方、夕陽に赤く染まった穂高も中々印象的だった。
翌朝、今日の天気予報は曇り後雨とか、朝起きた時は部屋の窓からは穂高が見えていたが、暫くしてからはガスがかかり見えなくなった。今日は上空に冬並みの寒気が流れ込んで気温が急に下がるとか、8時半頃にはもう雨が降り出した。それでも宿泊客のうち10人が上高地へ行くという。主人では今日は雨なので、バスターミナルから河童橋周辺とビジターセンターで時間を潰した方が賢明だと言われる。河童橋は夏の雑踏はないものの、でもまだかなりの観光客がいる。セーターを着てきたのは正解だった。気温がどんどん下がるのが分かる。素手では手が冷たく手袋を求める。カラマツの落ち葉を踏んで路を歩く。ケショウヤナギも葉はすっかり落ち、寒空に梢を伸ばしている。すっかり冬の景色だ。岳沢はもう白く雪化粧をしている。奥穂も前穂も雲に覆われ見えていない。雨のなか、明神池へ行くのは止して、河童橋からビジターセンターへ向かう。
ビジターセンターは環境省の管轄、上高地は黒部峡谷と並んで、国の特別名勝・特別天然記念物に指定されていることもあって、じっくりと落着いて見学できるだけの沢山の資料があり、実に見応えがある。ここで2時間ばかり費やしたろうか。外は寒いが中は温かい。この後、五千尺ホテルで温かいコーヒー、紅茶を飲みながら、すぐ外で行われている閉山祭の準備を眺める。外は風も出てきて寒そうだ。紅白の幔幕が風を孕んで、はためいている。時間も迫り、寒いが外へ出る。世話人は明るいグリーンの法被を着ている。中の湯の主人の顔も見えている。人数は関係者、登山者ほかを合わせて300名くらいだろうか。
正午きっかりに式が始まる。すると不思議にも雨が止んだ。神官二人で、修祓、降神の儀、献餞、祝詞奏上、玉串奉奠、撤餞、昇神の儀、直会の順で式が運ばれる。この間約30分ばかり。この後、河童橋の中央で薦被りの樽酒の鏡開き、先ず梓川に御神酒を注ぐ。その後紙コップに樽酒を酌み、参加者の皆さんに振舞ってくれる。私も家内も頂き、先ず梓川の清流に頂いた酒を少々注ぎ、残りを感謝して頂く。報道陣もかなり来ていた。この閉山祭が済むと、上高地は冬の静寂に包まれることになる。
式が済む頃、雪がちらついてきた。着いたころは寒暖計は15℃を指していたが、雪とともに気温は2℃と急激に低下した。バスターミナルへ急ぎ、折りよく発車寸前のシャトルバスに乗り、上高地を後にした。中の湯の案内所で迎えを頼み、温泉旅館に戻った。ここは上高地とほぼ同じ標高、ここでも粉雪が舞っていた。
着くなり、主人に明日上高地へ行きませんかと誘われた。何と15日には上高地の閉山祭が河童橋畔であるという。次の日は松本をブラつく予定をしていたが、お願いすることにした。上高地へは旅館の車でお送りしますとのこと、出発は午前8時30分、主人では天気が好ければ大正池から明神池まで歩いて穂高神社の奥宮へお参りしてから、正午に始まる閉山祭に参加して御神酒を頂いて帰ってくればよいとのこと、車はここに置いて出かけた方がよいとも。帰りは上高地から釜トンネルを出た処にある中の湯バス停までは路線バスで来て、バス停の近くには中の湯温泉の案内所があるので、電話があれば車で迎えに行きますと。歩くと40分はかかるとのことだった。この日は旅館のロビーからは雪を纏った奥穂高岳、吊り尾根、前穂高岳、明神岳が見え、すぐ目の前には霞沢岳がどっしりと対峙する。青空をバックの峰々にも感動したが、夕方、夕陽に赤く染まった穂高も中々印象的だった。
翌朝、今日の天気予報は曇り後雨とか、朝起きた時は部屋の窓からは穂高が見えていたが、暫くしてからはガスがかかり見えなくなった。今日は上空に冬並みの寒気が流れ込んで気温が急に下がるとか、8時半頃にはもう雨が降り出した。それでも宿泊客のうち10人が上高地へ行くという。主人では今日は雨なので、バスターミナルから河童橋周辺とビジターセンターで時間を潰した方が賢明だと言われる。河童橋は夏の雑踏はないものの、でもまだかなりの観光客がいる。セーターを着てきたのは正解だった。気温がどんどん下がるのが分かる。素手では手が冷たく手袋を求める。カラマツの落ち葉を踏んで路を歩く。ケショウヤナギも葉はすっかり落ち、寒空に梢を伸ばしている。すっかり冬の景色だ。岳沢はもう白く雪化粧をしている。奥穂も前穂も雲に覆われ見えていない。雨のなか、明神池へ行くのは止して、河童橋からビジターセンターへ向かう。
ビジターセンターは環境省の管轄、上高地は黒部峡谷と並んで、国の特別名勝・特別天然記念物に指定されていることもあって、じっくりと落着いて見学できるだけの沢山の資料があり、実に見応えがある。ここで2時間ばかり費やしたろうか。外は寒いが中は温かい。この後、五千尺ホテルで温かいコーヒー、紅茶を飲みながら、すぐ外で行われている閉山祭の準備を眺める。外は風も出てきて寒そうだ。紅白の幔幕が風を孕んで、はためいている。時間も迫り、寒いが外へ出る。世話人は明るいグリーンの法被を着ている。中の湯の主人の顔も見えている。人数は関係者、登山者ほかを合わせて300名くらいだろうか。
正午きっかりに式が始まる。すると不思議にも雨が止んだ。神官二人で、修祓、降神の儀、献餞、祝詞奏上、玉串奉奠、撤餞、昇神の儀、直会の順で式が運ばれる。この間約30分ばかり。この後、河童橋の中央で薦被りの樽酒の鏡開き、先ず梓川に御神酒を注ぐ。その後紙コップに樽酒を酌み、参加者の皆さんに振舞ってくれる。私も家内も頂き、先ず梓川の清流に頂いた酒を少々注ぎ、残りを感謝して頂く。報道陣もかなり来ていた。この閉山祭が済むと、上高地は冬の静寂に包まれることになる。
式が済む頃、雪がちらついてきた。着いたころは寒暖計は15℃を指していたが、雪とともに気温は2℃と急激に低下した。バスターミナルへ急ぎ、折りよく発車寸前のシャトルバスに乗り、上高地を後にした。中の湯の案内所で迎えを頼み、温泉旅館に戻った。ここは上高地とほぼ同じ標高、ここでも粉雪が舞っていた。
2010年11月11日木曜日
「百萬石」と「ギャルド」
・百萬石ウィンドオーケストラ
10月25日付けの朝日新聞石川版に、「百萬石」が銀(吹奏楽コン)という見出しの記事が載った。これは全日本吹奏楽連盟と朝日新聞の主催で、10月24日に松山市の愛媛県県民会館(ひめぎんホール)で開催された第58回全日本吹奏楽コンクールの結果の記事で、百萬石ウィンドオーケストラが職場・一般の部に北陸支部代表として出場し、銀賞を受賞したとあった。このウィンドオーケストラは石川県で数多くある吹奏楽団の中ではトップクラスで、私も二度ばかり聴いたことがあるが、かなりレベルの高い演奏内容をもっている。何故この楽団を紹介したかというと、このオーケストラの団長の谷井君は、私が勤務している予防医学協会の同じフロアで仕事をしているからで、彼のこのオーケストラでのパートはユーフォニウムというあまり聞いたことがない金管楽器である。彼に会って「おめでとう」と言うと、地元新聞での報道がないのに、どうして分かりました」と言ったものの、あまり嬉しそうでないのに驚いた。聞くと「金賞だと嬉しいのですが、実は金と銅は少ないのですが、他はみな銀賞なんです」と。でもこれまで10回も出場しているというし、定期演奏会も行い、今回の自由曲もマッキー作曲の「オーロラの目覚め」という幻想的なオーロラの情景が思い浮かぶような繊細な演奏が必要とあって、全体として一つのサウンドにもっていくのに、実に緻密な練習を繰り返したと語っていた。団員は学生のほかは皆さん手に職を持っている人たち、息を合わせるのは大変だったろう。谷井君はまだ30代、協会では仕事もバリバリやっている静かな闘志を秘めた若い子煩悩な父親だ。
・パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団(パリ共和国親衛隊音楽隊)
10月末の30日には、石川県ほか2団体の主催で、通称「ギャルド」として知られる世界の名門吹奏楽団の金沢公演が県立音楽堂であった。この種の公演は大概座席指定なのに、この公演ではS席とA席はグループ内自由席という変則的な方式、だから開始前1時間というのに長い長い列、その数は数百人、私は1時間半前に来て200番くらい、とても往生した。しかし約160年の伝統があるこの吹奏楽団の演奏は実に素晴らしく、その音色は心を震撼した。指揮者は第10代楽長のフランソワ・ブーランジェ氏、全員が金モールの付いたブルーの軍服もどきの制服を着用、女性もいる。総勢は80人ばかり、金管より木管が多い編成で、特にクラリネットは20人ばかりいて、楽員の4分の1を占め、その首席奏者はコンサートマスターも務める。本邦での公開公演は7回、メインはクラシックの吹奏楽編曲、歴代の楽長/主席指揮者の手になるものが多い。
金沢公演での曲目は、バーンシュタインの「キャンディード」序曲、ハチャトゥリアンのバレー音楽「ガイーヌ」から剣の舞とレズギンカ、組曲「仮面舞踏会」からワルツ、レスピーギの交響詩「ローマの松」、次いでマーチが2曲、「サンブル・エ・ミューズ連隊行進曲」と「ロレーヌ行進曲」、そして最後にラヴェルの「ボレロ」だった。聴いていて中でもマーチ曲の演奏が最も生き生きとしていたように感じた。十八番というべきか。でも金管が主のウィンドオーケストラとは一味違った、華やかさがある中にも落ち着きのある響きだった。木管のなせる業なのだろうか。ところでこのマーチの演奏は金沢公演だけだったらしい。演奏の前半のバーンシュタインとハチャトゥリアンも、吹奏楽では見せ場の多い曲、大編成を武器にした迫力ある演奏は、管弦楽とは違った感動で心を揺さぶった。最後のラヴェルの「ボレロ」、吹奏楽ではどうなるのだろうと固唾を呑んだが、あの初めから終いまで続く単調な小太鼓の響きはなく、少々落胆した。聞けば、パーカッションで共演の石川直(なおし)が、なぜか金沢公演のみ欠席だったとか、正に画竜点晴を欠くきらいがあった。この編曲の初演にはラヴェル本人が指揮し、しかも満足したというから尚更である。あのただひたすら繰り返される同じリズムがないと、またあの単調で根気の要るワザが聴けないと、この曲は生きて来ないように思う。
ちなみに、この楽団の入団応募資格は「パリ音楽院で一等賞を獲得した者またはそれと同等の能力を持つ者」となっていて、しかもその応募者の中からコンクールによって採用者を決めるという厳しい条件が課せられているから大変だ。また金沢との関係でいえば、「ギャルド」第9代楽長のロジェ・プトリー氏は、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)のコンポーザー・イン・レジデンスを務めたことでも知られている。
10月25日付けの朝日新聞石川版に、「百萬石」が銀(吹奏楽コン)という見出しの記事が載った。これは全日本吹奏楽連盟と朝日新聞の主催で、10月24日に松山市の愛媛県県民会館(ひめぎんホール)で開催された第58回全日本吹奏楽コンクールの結果の記事で、百萬石ウィンドオーケストラが職場・一般の部に北陸支部代表として出場し、銀賞を受賞したとあった。このウィンドオーケストラは石川県で数多くある吹奏楽団の中ではトップクラスで、私も二度ばかり聴いたことがあるが、かなりレベルの高い演奏内容をもっている。何故この楽団を紹介したかというと、このオーケストラの団長の谷井君は、私が勤務している予防医学協会の同じフロアで仕事をしているからで、彼のこのオーケストラでのパートはユーフォニウムというあまり聞いたことがない金管楽器である。彼に会って「おめでとう」と言うと、地元新聞での報道がないのに、どうして分かりました」と言ったものの、あまり嬉しそうでないのに驚いた。聞くと「金賞だと嬉しいのですが、実は金と銅は少ないのですが、他はみな銀賞なんです」と。でもこれまで10回も出場しているというし、定期演奏会も行い、今回の自由曲もマッキー作曲の「オーロラの目覚め」という幻想的なオーロラの情景が思い浮かぶような繊細な演奏が必要とあって、全体として一つのサウンドにもっていくのに、実に緻密な練習を繰り返したと語っていた。団員は学生のほかは皆さん手に職を持っている人たち、息を合わせるのは大変だったろう。谷井君はまだ30代、協会では仕事もバリバリやっている静かな闘志を秘めた若い子煩悩な父親だ。
・パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団(パリ共和国親衛隊音楽隊)
10月末の30日には、石川県ほか2団体の主催で、通称「ギャルド」として知られる世界の名門吹奏楽団の金沢公演が県立音楽堂であった。この種の公演は大概座席指定なのに、この公演ではS席とA席はグループ内自由席という変則的な方式、だから開始前1時間というのに長い長い列、その数は数百人、私は1時間半前に来て200番くらい、とても往生した。しかし約160年の伝統があるこの吹奏楽団の演奏は実に素晴らしく、その音色は心を震撼した。指揮者は第10代楽長のフランソワ・ブーランジェ氏、全員が金モールの付いたブルーの軍服もどきの制服を着用、女性もいる。総勢は80人ばかり、金管より木管が多い編成で、特にクラリネットは20人ばかりいて、楽員の4分の1を占め、その首席奏者はコンサートマスターも務める。本邦での公開公演は7回、メインはクラシックの吹奏楽編曲、歴代の楽長/主席指揮者の手になるものが多い。
金沢公演での曲目は、バーンシュタインの「キャンディード」序曲、ハチャトゥリアンのバレー音楽「ガイーヌ」から剣の舞とレズギンカ、組曲「仮面舞踏会」からワルツ、レスピーギの交響詩「ローマの松」、次いでマーチが2曲、「サンブル・エ・ミューズ連隊行進曲」と「ロレーヌ行進曲」、そして最後にラヴェルの「ボレロ」だった。聴いていて中でもマーチ曲の演奏が最も生き生きとしていたように感じた。十八番というべきか。でも金管が主のウィンドオーケストラとは一味違った、華やかさがある中にも落ち着きのある響きだった。木管のなせる業なのだろうか。ところでこのマーチの演奏は金沢公演だけだったらしい。演奏の前半のバーンシュタインとハチャトゥリアンも、吹奏楽では見せ場の多い曲、大編成を武器にした迫力ある演奏は、管弦楽とは違った感動で心を揺さぶった。最後のラヴェルの「ボレロ」、吹奏楽ではどうなるのだろうと固唾を呑んだが、あの初めから終いまで続く単調な小太鼓の響きはなく、少々落胆した。聞けば、パーカッションで共演の石川直(なおし)が、なぜか金沢公演のみ欠席だったとか、正に画竜点晴を欠くきらいがあった。この編曲の初演にはラヴェル本人が指揮し、しかも満足したというから尚更である。あのただひたすら繰り返される同じリズムがないと、またあの単調で根気の要るワザが聴けないと、この曲は生きて来ないように思う。
ちなみに、この楽団の入団応募資格は「パリ音楽院で一等賞を獲得した者またはそれと同等の能力を持つ者」となっていて、しかもその応募者の中からコンクールによって採用者を決めるという厳しい条件が課せられているから大変だ。また金沢との関係でいえば、「ギャルド」第9代楽長のロジェ・プトリー氏は、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)のコンポーザー・イン・レジデンスを務めたことでも知られている。
2010年11月5日金曜日
生蕎麦に纏わること
〔蕎麦屋の暖簾〕
今秋の10月半ばに、長野県松本市の美ヶ原温泉で開かれた薬学部昭和34年卒の同窓会:ゼレン会の席で、大阪在住のK君から、君なら知ってるだろうと難問を吹きかけられた。それは以前はよく蕎麦屋で見かけた暖簾に書かれた文字のことである。金沢では往時蕎麦屋は一軒しかなく無いに等しかったが、東京辺りではよく見かけたものだ。何て書いてあるのと言われれば「生そば」でしょうと言えるが、彼の質問の主旨は「きそば」はよいとして、どういう漢字を崩したのかそれを知りたいと言う。「まさか『生蕎麦』じゃないでしょうね」と念を押された。これには一本取られた。これまで「きそば」と思っていただけで、そこまでは詮索しなかった。彼が言うには、蕎麦屋へ入って聞いても全く埒が開かないとのこと、じゃ手前が調べればよいものをと思ったものだ。
いわゆる変体仮名を読める人には、こんな字を読むことは朝飯前、暖簾に書いてある文字は「生蕎麦」ではなく「幾楚者」で、漢字を崩して書いたものではなく、この漢字を字母とした平仮名だという。110年前の1900年(明治33年)に、帝国教育会が同音の仮名に当時数種あるのを一種に限ると議決し、小学校令施行規則の第1号表に当時使われていた48種の字母による平仮名(一音一字)が誕生し、それ以外の字母による仮名はいわゆる「変体仮名」として扱われるようになり、日常生活には使われなくなった。すなわちそれまでは現代の平仮名も制定後は変体仮名とされた仮名も区別なく平仮名として巷で用いられてきた。乱暴な言い方をすれば、ある「音」の字母が数種あれば、数種の平仮名が存在したことになり、その使いようは時代によっても、時に個人によっても好みで異なるようであった。その数は多く、200とも300とも言われている。
さて、本題に戻ろう。現在用いられている字母は、「き」は「幾」、「そ」は「曽」、「は」は「波」である。ところが暖簾の字は、「そ」は「楚」、「は」は「者」を字母とした今でいう変体仮名である。しかしこの暖簾の文字は明治の制定以前から用いられていて、いわば伝統として特に当時の業界が抵抗して残したものと言え、このような例は他にもありそうだ。暖簾を見ると「者」の変体仮名の「む」のような字に濁点が振られているが、濁点の歴史は浅いから、これは以前はなかったかも知れない。近頃は「そば」は変体仮名を用い、「き」は「生」を当てている暖簾もある。しかし新しく興った大部分の蕎麦屋は、伝統にこだわることなく、自由な発想で暖簾を作成している。
それではこの「生蕎麦」とは何だろうか。あれこれ辞書を見ると、とにかく「蕎麦粉だけで混ぜものがないそば、もしくは蕎麦粉だけで打ったそば」と要約することができる。すなわちいわゆる純粋な蕎麦粉や十割蕎麦もしくは生粉打ちということらしい。ところが全部の辞書ではないが、少量のつなぎを加えたそば、混ぜものが少ないそばもそう呼ばれるとある。しかしこの「生蕎麦」と染め出された暖簾ができた当時は、うちは100%の蕎麦粉でつなぎを入れずに打っています、生粉打ちですという表示だったらしいが、時代を経るにしたがって、自分の処で「そば」を打っていますとの表示となり、もっと下がっては、単に「そば」を出していますという店でも出すようになったらしい。
〔挽きぐるみ〕
私は長い間「挽きぐるみ」とは玄蕎麦を石臼で挽いたそばと思っていた。では丸抜きを石臼で挽いたものはというと?となる。そこで蕎麦に関することばの解説をあれこれ読むと、玄蕎麦であろうが丸抜きであろうが、そのまま三番粉まで挽きこんだ全層粉を「挽きぐるみ」というそうだ。昔は玄蕎麦をそのまま石臼で挽き、その後篩にかけて殻を取り除いていたが、これでは殻を完全に取り除けないため、黒っぽいボソついた食感の「田舎そば」となる。しかし現在市場で「挽きぐるみ粉」と呼ばれている粉は、殻を完全に取り除いてから製粉していて、甘皮も挽き込んでいるため、野趣に富んだ粉となる。「蕎麦やまぎし」では自家製粉で、前者を「黒」、後者を「白」と呼んでいる。
〔注1〕植原路郎の蕎麦辞典(昭和47年刊)によると、「蕎麦実を最初に置上げと言って、臼の間隔を広げて軽く挽いたものが『さらしな』、次に甘皮まで挽き込んだ二番粉が、世間でいう普通の蕎麦粉、これから更に挽き込んだものが三番粉の『挽きぐるみ』、もう一歩進めて、蕎麦殻のきわまで引き込むと『さなご』となる」とある。
〔注2〕中村綾子による上記蕎麦辞典の改訂新版(平成14年刊)では、「玄そば(殻つき)をそのまま挽き、篩で殻を取り除く製粉法をいう。これは外皮や甘皮部分の壊れくず等も混ざるので、黒っぽくてぼそつくが、香りも強く栄養価も高い。そばを丸ごと食べるようなものである。 ※ 殻を除いた丸抜きをそのまま挽いて粉の取り分けをしない粉を全層粉というが、これと混同されやすい」とある。
今秋の10月半ばに、長野県松本市の美ヶ原温泉で開かれた薬学部昭和34年卒の同窓会:ゼレン会の席で、大阪在住のK君から、君なら知ってるだろうと難問を吹きかけられた。それは以前はよく蕎麦屋で見かけた暖簾に書かれた文字のことである。金沢では往時蕎麦屋は一軒しかなく無いに等しかったが、東京辺りではよく見かけたものだ。何て書いてあるのと言われれば「生そば」でしょうと言えるが、彼の質問の主旨は「きそば」はよいとして、どういう漢字を崩したのかそれを知りたいと言う。「まさか『生蕎麦』じゃないでしょうね」と念を押された。これには一本取られた。これまで「きそば」と思っていただけで、そこまでは詮索しなかった。彼が言うには、蕎麦屋へ入って聞いても全く埒が開かないとのこと、じゃ手前が調べればよいものをと思ったものだ。
いわゆる変体仮名を読める人には、こんな字を読むことは朝飯前、暖簾に書いてある文字は「生蕎麦」ではなく「幾楚者」で、漢字を崩して書いたものではなく、この漢字を字母とした平仮名だという。110年前の1900年(明治33年)に、帝国教育会が同音の仮名に当時数種あるのを一種に限ると議決し、小学校令施行規則の第1号表に当時使われていた48種の字母による平仮名(一音一字)が誕生し、それ以外の字母による仮名はいわゆる「変体仮名」として扱われるようになり、日常生活には使われなくなった。すなわちそれまでは現代の平仮名も制定後は変体仮名とされた仮名も区別なく平仮名として巷で用いられてきた。乱暴な言い方をすれば、ある「音」の字母が数種あれば、数種の平仮名が存在したことになり、その使いようは時代によっても、時に個人によっても好みで異なるようであった。その数は多く、200とも300とも言われている。
さて、本題に戻ろう。現在用いられている字母は、「き」は「幾」、「そ」は「曽」、「は」は「波」である。ところが暖簾の字は、「そ」は「楚」、「は」は「者」を字母とした今でいう変体仮名である。しかしこの暖簾の文字は明治の制定以前から用いられていて、いわば伝統として特に当時の業界が抵抗して残したものと言え、このような例は他にもありそうだ。暖簾を見ると「者」の変体仮名の「む」のような字に濁点が振られているが、濁点の歴史は浅いから、これは以前はなかったかも知れない。近頃は「そば」は変体仮名を用い、「き」は「生」を当てている暖簾もある。しかし新しく興った大部分の蕎麦屋は、伝統にこだわることなく、自由な発想で暖簾を作成している。
それではこの「生蕎麦」とは何だろうか。あれこれ辞書を見ると、とにかく「蕎麦粉だけで混ぜものがないそば、もしくは蕎麦粉だけで打ったそば」と要約することができる。すなわちいわゆる純粋な蕎麦粉や十割蕎麦もしくは生粉打ちということらしい。ところが全部の辞書ではないが、少量のつなぎを加えたそば、混ぜものが少ないそばもそう呼ばれるとある。しかしこの「生蕎麦」と染め出された暖簾ができた当時は、うちは100%の蕎麦粉でつなぎを入れずに打っています、生粉打ちですという表示だったらしいが、時代を経るにしたがって、自分の処で「そば」を打っていますとの表示となり、もっと下がっては、単に「そば」を出していますという店でも出すようになったらしい。
〔挽きぐるみ〕
私は長い間「挽きぐるみ」とは玄蕎麦を石臼で挽いたそばと思っていた。では丸抜きを石臼で挽いたものはというと?となる。そこで蕎麦に関することばの解説をあれこれ読むと、玄蕎麦であろうが丸抜きであろうが、そのまま三番粉まで挽きこんだ全層粉を「挽きぐるみ」というそうだ。昔は玄蕎麦をそのまま石臼で挽き、その後篩にかけて殻を取り除いていたが、これでは殻を完全に取り除けないため、黒っぽいボソついた食感の「田舎そば」となる。しかし現在市場で「挽きぐるみ粉」と呼ばれている粉は、殻を完全に取り除いてから製粉していて、甘皮も挽き込んでいるため、野趣に富んだ粉となる。「蕎麦やまぎし」では自家製粉で、前者を「黒」、後者を「白」と呼んでいる。
〔注1〕植原路郎の蕎麦辞典(昭和47年刊)によると、「蕎麦実を最初に置上げと言って、臼の間隔を広げて軽く挽いたものが『さらしな』、次に甘皮まで挽き込んだ二番粉が、世間でいう普通の蕎麦粉、これから更に挽き込んだものが三番粉の『挽きぐるみ』、もう一歩進めて、蕎麦殻のきわまで引き込むと『さなご』となる」とある。
〔注2〕中村綾子による上記蕎麦辞典の改訂新版(平成14年刊)では、「玄そば(殻つき)をそのまま挽き、篩で殻を取り除く製粉法をいう。これは外皮や甘皮部分の壊れくず等も混ざるので、黒っぽくてぼそつくが、香りも強く栄養価も高い。そばを丸ごと食べるようなものである。 ※ 殻を除いた丸抜きをそのまま挽いて粉の取り分けをしない粉を全層粉というが、これと混同されやすい」とある。
2010年11月4日木曜日
三男誠孝の魂を継ぐと語ってくれた福岡社長
三男誠孝が生前に勤めていたフリークスグループの福岡 悟社長から、誠孝の遺宅の千晶さんに、北國新聞からインタビューを受けたとの連絡があったのが10月の25日、2-3日後に新聞に掲載されるはずとのこと、私は家内からその報を聞いた。福岡社長では、誠孝のことを記者に話しておいたが、どれくらい取り上げてくれるかははっきりしないがとも話されていたとも。北國新聞では、朝刊2面の「北國経済」欄に、主に石川県と富山県の経済人を対象に、経済人「やるしかない」というタイトルで、トップのやるしかないという強い想いを語ってもらっている。福岡社長の記事が載ったのは10月25日(木曜日)だった。故人の三男誠孝のことも語られていて、家内共々嬉しかったので、以下に再録したが、ひょっとしてこうした行為は違反事例なのかも知れないと危惧する。でもアレンジして載せるよりは記事そのものの方が、社長の真意が伝わるような気がする。お許しいただきたい。
● 北國新聞 2010年(平成22年)10月28日(木曜日)第2面〔北國経済〕欄
〔経済人「やるしかない」〕
〔タイトル〕「次のステージへ命懸ける」 フリークスグループ社長 福岡 悟氏
起業から11年。いわゆる「インターネットカフェ」で事業を拡大してきた。創業時はニュービジネスだった業態も今ではすっかり定着し、北陸でも店舗数は飽和気味だ。
「次の柱を見つけないといけない。具体的には飲食ですね。カレーに焼肉、鉄板焼き。何でもやっていきますよ」。飲食店は現在4店。来月にハンバーグ店、年内にはラーメン店も開業させる。
初期投資に1億円ほどかかるネットカフェに比べ、飲食店なら2~3千万円で済む。客の回転も速く、利益率は高い。だが、飲食にこだわる理由はもう一つある。
〔魂を継ぐ〕
今年5月、大切な「右腕」を失った。常務の木村誠孝氏が肺がんで40歳で亡くなった。
創業間もないころ、清涼飲料の営業マンとして出会った。鳴かずと飛ばずのまま閉店した漫画喫茶時代からの付き合いで、能力と情熱を買って引き抜いた。一手に任せた新規事業の中でも、飲食は木村氏の肝いりだった。
「入院後も、鼻に酸素吸入のチューブを通して出社してたんです。まさに、仕事に命を懸けていた。彼の魂は絶対に引き継ぎます」。6月にオープンした漫画喫茶「キムラ39珈琲(こーひー)」の店名には、木村氏への感謝の思いを込めている。
先日開いた「経営計画発表会」で、全国の店長クラス約60人に「経営者になりたい人はいるか」と質問した。本当は全員が手を挙げるのを期待したが、3分の1ほどだった。
「飲食店にしろネットカフェにしろ、勤め人感覚じゃ駄目なんです。全員が起業家、経営者という気概を持ってほしい」。独立を目指す社員は全力で応援したい。
〔えこひいきはする〕
「えこひいきはする」と社内で宣言している。怠けてうそばかりつく人間と、汗水垂らして努力する人間が同じ評価でいいはずがない。
「人から『頑張ってるね』と言われる仕事をしたい。評価は他人がするものです」。全社員を奮い立たせ、会社を次のステージへと成長させることが役割だと感じている。
「笑顔と感謝にあふれる店づくりを進めたい」。
◆ふくおか さとし 加賀市出身 1983年日本体育大学卒
体育教員、スポーツクラブの統括エリア支配人などを経て1999年に創業。48歳。
◆フリークスグループ (石川県野々市町)
サイバーカフェフリークスや飲食店を展開、北陸、東海、東北エリアに32店舗を持つ。
資本金は9300万円。2010年3月期の売上高は約30億円。
● 北國新聞 2010年(平成22年)10月28日(木曜日)第2面〔北國経済〕欄
〔経済人「やるしかない」〕
〔タイトル〕「次のステージへ命懸ける」 フリークスグループ社長 福岡 悟氏
起業から11年。いわゆる「インターネットカフェ」で事業を拡大してきた。創業時はニュービジネスだった業態も今ではすっかり定着し、北陸でも店舗数は飽和気味だ。
「次の柱を見つけないといけない。具体的には飲食ですね。カレーに焼肉、鉄板焼き。何でもやっていきますよ」。飲食店は現在4店。来月にハンバーグ店、年内にはラーメン店も開業させる。
初期投資に1億円ほどかかるネットカフェに比べ、飲食店なら2~3千万円で済む。客の回転も速く、利益率は高い。だが、飲食にこだわる理由はもう一つある。
〔魂を継ぐ〕
今年5月、大切な「右腕」を失った。常務の木村誠孝氏が肺がんで40歳で亡くなった。
創業間もないころ、清涼飲料の営業マンとして出会った。鳴かずと飛ばずのまま閉店した漫画喫茶時代からの付き合いで、能力と情熱を買って引き抜いた。一手に任せた新規事業の中でも、飲食は木村氏の肝いりだった。
「入院後も、鼻に酸素吸入のチューブを通して出社してたんです。まさに、仕事に命を懸けていた。彼の魂は絶対に引き継ぎます」。6月にオープンした漫画喫茶「キムラ39珈琲(こーひー)」の店名には、木村氏への感謝の思いを込めている。
先日開いた「経営計画発表会」で、全国の店長クラス約60人に「経営者になりたい人はいるか」と質問した。本当は全員が手を挙げるのを期待したが、3分の1ほどだった。
「飲食店にしろネットカフェにしろ、勤め人感覚じゃ駄目なんです。全員が起業家、経営者という気概を持ってほしい」。独立を目指す社員は全力で応援したい。
〔えこひいきはする〕
「えこひいきはする」と社内で宣言している。怠けてうそばかりつく人間と、汗水垂らして努力する人間が同じ評価でいいはずがない。
「人から『頑張ってるね』と言われる仕事をしたい。評価は他人がするものです」。全社員を奮い立たせ、会社を次のステージへと成長させることが役割だと感じている。
「笑顔と感謝にあふれる店づくりを進めたい」。
◆ふくおか さとし 加賀市出身 1983年日本体育大学卒
体育教員、スポーツクラブの統括エリア支配人などを経て1999年に創業。48歳。
◆フリークスグループ (石川県野々市町)
サイバーカフェフリークスや飲食店を展開、北陸、東海、東北エリアに32店舗を持つ。
資本金は9300万円。2010年3月期の売上高は約30億円。
登録:
投稿 (Atom)