2012年9月29日土曜日

三方の秘湯と小浜の古寺

 今私たちは日本秘湯を守る会に加盟する温泉を訪ねている。今回夕日が見られる宿ということで、福井県若狭町の宿を選んだ。朝に野々市を発ち、昼は武生辺りで「そば」を食い、三方五湖を巡り、湖畔の宿に泊まり、翌日は小浜の古寺を訪ね、帰りに敦賀の昆布館や小牧の蒲鉾にでも寄って帰ろうという段取りである。ところで宿から家内に確約の電話があった折、お勧めの場所はありますかと訊いたところ、鯖街道の熊川宿を勧められたとか。そこは私の手元の案内書にはなく、漸く国道303号線に道の駅「若狭熊川宿」を見つけた。家内と連れの女性は訊いた手前乗り気で、そうならば行かずばなるまい。
● 〔そば〕 当初は武生の「谷川」を予定していたが、調べると第3日曜と月曜は定休日、出かけたのが9月の第3日曜日、ならばとずっと以前に寄ったことがある「かめや」へ寄ることにした。以前は町中にあったが、今は郊外へ出たとか、パンフレットを見ると、総檜造りで高級料亭の雰囲気、しかも座席も80席とか、とにかく寄ってみることにする。場所はナビで簡単に見つかった。しかし早く着き過ぎたので、すぐ近くにある紫式部公園をブラつくことにする。陽射しが強い。池があり、東屋があり、太鼓橋があり、紫式部の像があり、でも東屋で寝転がっている人以外は誰もいない。公園を横切ったところには資料館を兼ねた売店があり、そこでヒマラヤの岩塩を求める。人気の商品とか。ステンのおろし金付き、重さ400グラム、死ぬまでには消費できまい。11時近くになり「かめや」へ戻る。駐車場は優に20台は止められる。玄関には龜の古字が三和土に、凝っている。案内された一階は小上がりとカウンター、30人は入られよう。彼女らは天ぷらとざるとビール、飲めない私は天おろしとノンアルコールビール、天ぷらはまずまずだが、二八の太めのそばは今一、そば好きが来る店ではない。でも客は多く満席、駐車場も満杯、でもそばを別にすれば雰囲気は最高だ。
● 〔ドライブと秘湯の宿〕 武生から南下して8号線に出た後、山越えせずに旧有料道路の海沿いの「しおかぜライン」に出、敦賀湾沿いに走る。再び8号線と合し、敦賀半島を対岸に見ながら海岸線を南下する。その後27号線に入り、小浜方面へ向かう。敦賀から美浜まで30分弱、美浜から久々子湖(くぐしこ)の北端を回り、三方五湖レインボウラインに入る。ラインは日向湖(ひるがこ)と久々子湖の背を南下し、日向湖と水月湖(すいげつこ)を結ぶ嵯峨隧道を越え、梅丈岳駐車場へと上がる。500台収容できるというが、ほぼ満車、大型バスも来ている。有料リフトで山頂へ、風は荒いが眺望はよい。若狭湾(日本海)や三方五湖を一望でき、今宵の宿も見えている。山頂公園から常神半島の根を水月湖の西岸へと下る。更に南下し三方湖(みかたこ)をぐるりと回り、菅湖(すがこ)を左に見て、水月湖の東岸にある湖畔の紅岳島(こがしま)温泉の紅岳島荘に入る。茅葺きの重厚な門が印象的だ。ロビーからは水月湖がすぐ間近、湖面をクルーザーがひっきりなしに往来する。対岸には梅丈岳が聳える。早速にラドン温泉へ行く。源泉は気温より低く、加温されている。小さいが源泉そのものの露天風呂もある。湯上がりの「神の河」が美味い。夕食は部屋で、足を下ろせる座卓で、若狭牛と若狭湾の海の幸を若狭の地酒で頂く。十品はあったろう。充分堪能した。
● 〔小浜の古寺〕 翌朝、宿を発つ時にこれから熊川宿へ行くと話すと、宿の姐さんはあまり推奨できないと言う。家内は宿の人から是非と勧められたのに変だと言う。でも車から降りてかなり歩く必要があるとのこと、でも乗りかかった船、とりあえずは道の駅「若狭熊川宿」まで行くことに。概略は国道27号線から国道303号線、通称鯖街道を南下すればよいのだが、ナビに従う。途中ひどい雨に遭う。宿から小一時間、9時近くに道の駅に着いた。広くて閑散としている。ここから宿場へはどうして行くのか、どうも歩かねばならない様子、しかも案内は10時からとか、なので宿場はパスして次へ急ぐ。
 一旦27号線へ出てナビに従って明通寺(みょうつうじ)へ、道は松永川を遡行する。やがて明通寺に、奥の駐車場に車を止める。かなり広い。川にかかる橋を渡り寺へ、右手に割烹旅館、左へ進み寺へ。境内は広く、老杉が鬱蒼と繁る。参道を進み山門を潜り、高みにある本堂へ、すると本堂から若い僧が声をかけてくれ、お上がり下さいと、本堂へ上がる。縁起を語られる。この寺は大同元年(806)に征夷大将軍・坂上田村麻呂によって創建されたという。本堂の一段高みには三重塔があり、共に国宝、他に木造の仏像4体が国指定の重要文化財になっている。心洗われる名刹である。宗派は真言宗御室派である。
 次に妙楽寺(みょうらくじ)へ向かう。これもナビに従う。一旦国道27号線へ戻るように北上し、途中から若狭西街道へ入る。トンネルを3つ抜けて国道162号線に出ると妙楽寺は近い。この寺は養老3年(719)に僧行基が開創し、延暦16年(797)に弘法大師により再興されたとある。本堂は若狭では最古の建造物とか、そしてここに安置されている檜一木刻みの二十四面千手観音菩薩立像は、本堂と共に国指定の重要文化財になっている。帰りに連れが梵鐘を撞いた。澄んだ心に染みる音だった。宗派は真言宗高野山派である。

2012年9月22日土曜日

高岡の蕎麦と豆腐と前田家縁の寺(その2)

● 「坊ちゃんとうふ」  高岡市下島町 287-6   電話;0766-24-0031
 そば「蕎文」の向かいというよりは、そば「蕎文」が「坊ちゃんとうふ」の向かいにあるとした方が分かりやすい。駐車場の広さにも驚いたが、店へ入ってケースに並べられていた0円の「おから」が真っ白なのにびっくりした。大概は少し大豆色というか若干黄ばがかっているものだが、晒されたように白かった。これはただものではない。
 店は大正13年(1924)の創業、江戸時代から伝わる製法で木綿豆腐を作り続けてきたという。「坊ちゃんとうふ」の名称が創業当時から使われてきたとすると、当時としてはかなりハイカラな名だ。この一帯は佐野地区というらしいが、ここには豆腐製造に必須の美味しい地下水に恵まれ、その水は店の前の岩間の樋からも流れ出ていた。実に冷たく美味しい。そして「おから」の白さのもう一つの秘密は、契約栽培されている地元産のオオツル大豆にあるという。そして店で頂いた豆乳は、滋養に満ちたほのかな甘味があって、これまでこれほど濃い味に出会ったことがない素晴らしいものだった。湯葉も「摘み湯葉」「絹巻湯葉」「平湯葉」とあり、中でも「摘み湯葉」は、この店独特の特許製法による刺し身用の生湯葉だとか。豆腐屋での豆腐は当然のことながら、湯葉を出している店は多くない。
 私は「坊ちゃんとうふ」「絹ごしとうふ」「寄せとうふ」2種、「あぶらあげ」「あつあげ」「ゆばどうふ」「絹巻湯葉」「豆乳」を頂いた。これで3日分のおいしい酒の友が手に入った。

● 「曹洞宗・高岡山瑞龍寺」  高岡市関本町 35  電話:0766-22-0176
 私が富山で行ったことがあるお寺さんと言えば、旧城端町の善徳寺(城端別院)と旧井波町の瑞泉寺のみで、この寺もほぼ同規模だろうとたかをくくっていた。ところで知識のなさとは恐ろしいもので、高岡で前田さん縁の祭があることは知ってはいたものの、前田さんとは加賀藩二代藩主だった利長公だとは目から鱗だった。拝観料五百円は安くはないが、手入れが行き届いた白砂と芝生、そして壮大な伽藍と回廊を目にしたとき、万感迫るものがあった。我の浅学菲才を嘆じた次第だ。少しおさらいをしよう。
〔不思議な位置関係〕:加賀藩二代藩主前田利長(1562-1614)は、慶長10年(1605)に44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594-1658)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったこともあって、まだ初々しい利常を養嗣子にした。隠居後の利長は金沢から富山へ移るが、富山城が焼けた後、二上山の守山城に移り、その後関野という地に新しい城を築き、街作りを進め、この地を「高岡」と命名した。そしてこの地で他界した。これより先、利長は織田信長・信忠親子の追善菩提のため、文禄3年(1594)金沢に宝円寺を創建した。この寺はその後法円寺と改称され、利長他界の前年の慶長18年(1613)に高岡の地に移された。他界後、三代藩主利常はこの寺を利長の菩提寺とし、法名の「瑞龍院殿聖山英賢大居士」に因んで、寺名を瑞龍院とした。そして三十三回忌までには墓所もできた。一方でこの頃から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手し、五十回忌には七堂伽藍を配する「高岡山瑞龍寺」が完成した。当時の寺域は3万6千坪ばかり、周囲には壕を巡らし、さながら城郭を偲ばせる感があったという。ところでこの寺の位置は守山城の真南にあり、その延長線上には、利家・利長親子の出身地である荒子郷(名古屋市)がある。また守山城と高岡城の延長線上には徳川家康の居城だった岡崎城があるという。そして墓所は守山城と高岡城の延長線と瑞龍寺が直角に交わる位置に建てられ、この間は八丁道で結ばれている。墓碑は豪壮な戸室石の基盤も含めて高さ12米もあり、説明によると、日本の武将の墓では最大とのことである。
〔伽 藍〕:建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々善右衛門を名乗る)が棟梁となって造られた。総門、山門、仏殿、法堂が一直線に並び、その延長線上には八丁道と墓所がある。そして山門と法堂は方形の回廊で巡らされ、諸堂が対照的に配置されている。この伽藍配置は、中国の径山万寿寺に倣ったものといわれる。善右衛門はこのほかに、能登の妙成寺、加賀の那谷寺、越中の大岩日石寺、能登一宮の気多大社なども手掛けている。 総門:重要文化財。正保年間に竣工。 山門:国宝。正保2年(1645)に竣工。その後焼失し、現存の門は文政3年(1820)に竣工。二重門。 仏殿:国宝。万治2年(1659)の建立。総欅造りの入母屋造。屋根は鉛瓦葺きで、この例は金沢城石川門に見られるのみ。 法堂:国宝。明暦元年(1655)の建立。総檜造りの入母屋造。銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷き。利長の位牌安置。 禅堂:重要文化財。延享3年(1746)に焼失したが直後に再建。 大庫裏:重要文化財。北回廊の一部。禅道と相対する位置にある。 大茶堂:重要文化財。土蔵造りの防火建築物。 回廊:重要文化財。 この他、北回廊に鐘楼があり、南西回廊の奥に、前田利長、前田利家、織田信長、同室正覚院、織田信忠を祀る5つの石廟がある。石廟は富山県指定史跡である。また創建当時は「七間浄頭(東司=便所)と浴室が左右にあり、七堂伽藍が揃っていた。

2012年9月15日土曜日

高岡の蕎麦と豆腐と前田家縁の寺(その1)

 探協会後期の行事を決める世話人会には、都合がつかず欠席した。ところでどんな計画になったのか気になっていた。その後連絡が入り、9月は12日に富山県高岡市の「蕎文」という蕎麦屋へ寄り、その後前田家縁の瑞龍寺を訪ねる、10月は15ー16日と群馬県の四万温泉で1泊しての探蕎、11月は例年の如く丸岡蕎麦道場の海道さん宅へ、でも訪ねる日は先方のご都合で12月2日である。

● そば「蕎文」 高岡市下島町 181-1     電話:0766ー25ー2570
 この日の参加者は10名、久保副会長は予め訪ねられていて、10名ならばOKとのこと、最終的な集合場所はJR森本駅前 9:30 とのこと、車2台に分乗して落ち合う。久保さんの先導で旧北國街道を高岡市へ、その後店は「おとぎの森公園」近くとかで、とにかくすんなりとではなかったが、どうやら目的の店に着けた。しかしこの店、道路と敷地の境に「蕎文」と彫られた小さな石碑があるばかりで、看板も幟もなく、一見板で囲った砦のよう、もしあの石碑に気付かなければ、この家が「そば屋」だとはとても思えない。入り口の板戸は閉まったまま、案内は一切なく、これでは何時開店なのか皆目分からない。でも開店には少々時間がありそうなので、道を隔てた向こう側にある「坊ちゃんとうふ」という店を覗く。この店はかなりお客の出入りがあり、有名な店なのだろうか、幟も出ている。店には前にも後にも駐車場があり、かなりの台数が停められる。お買い上げの品は、お寺さん拝観後までお預かりしますということで、皆さん買い物をされた。私は後に寄った時に買うことにした。
 そろそろ開店ということで蕎文へ、板戸が開けられ、内のガラス戸を抜け、中へ入る。右手には民芸品などが展示即売されている一画がある。手の込んだものが多く、値段もそれ相応だ。左手奥は小上がりになっていて、曲げ板の座机が2脚、4人と2人が座られる。左手前には厚い一枚板のテーブルがあり、10人は掛けることができる。外からの光は厨房のみで、店内では、小上がりの下方に長方形の採光窓があるのみ、特異な空間だ。「そば」は久保さんの方で予め注文されていて、皆さん「あいもり」である。飲み物は個々にお酒とビール、お酒の銘柄は地元の「勝駒」と「立山」、福井の「黒龍」、山形の「出羽桜」など、ビールはエビスのみ。始めに蕎麦茶が、上品な白磁の縦長の湯呑みに出される。
 そばは相盛りだが、主人では別々に出すとのこと。始めに「もりそば」を、後に「田舎そば」をと、もし足りなければ追加して下さいとのことだった。蕎麦猪口も白磁、盃も飲み口が絞られた少し大きめのもの、これも白磁、お酒はそれぞれに4銘柄すべてを頼まれた。私は「立山」を注文したが、何故か常温、黒釉の縦長の片口に入ってきた。冷酒はガラス製ほかの片口に、暑い時期には冷たい方が良いのだが。サービスに「板わさ」が出た。そして程なく「もり」が出る。丸い白磁の平皿にこんもりと、色は薄茶色、自然光でないせいなのか、何か変わった印象を受ける。端境期だが、しっかり蕎麦の香りがする。訊けば、玄蕎麦は北海道羊蹄山麓の産とか、そばは外一、程よくしこしことしている。明日からは新そばとか、運が良かったのか悪かったのか、でも出されたそばはひねにしては素晴らしい。やや間を置いて「田舎」、やはり白磁の中皿に盛られている。挽きぐるみだけあって色は濃いが、どちらかというと黒がかっていなくて、褐色が前者よりやや濃いという程度、舌の感触や喉越しには余り差がないように思えた。何人かはそばを追加して、「もり」や「田舎」を追加されていた。また「そばがき」も出た。量は多くはなかったが、一見もちっとした独特な雰囲気を醸し出していた。いつものように「そばぜんざい」を頼まれた人もいた。味や甘さはどうなのだろうか、これはどうも私には天敵である。最後に「そば湯」が出て、お開きになった。
 外へ出て、入り口近くで集合写真、シャッターはおカミさんに押してもらう。これから瑞龍寺へ行くというと、ぜひ高岡大仏も見て下さいと言われる。礼を言って、握手をして分かれた。この店、外観もさることながら、個性のある不思議な店というのが偽らざる印象だ。
〔お品書き〕
・そばまえ:たまご焼き、板わさ、そばみそ、セット。他にそばぜんざい。
・そば:田舎、もり(各950円、大1400円)、他に、冷たい辛味大根ぶっかけ(1200円)など。
・お酒:前記4種(550ー750円)、ビール(500円)、焼酎(600円)、ノンアルコール(400円)。
 開店したのは平成19年(2007)10月とか。営業時間は、昼は 11:00ー14:30 で、なくなり次第終い。夜は 18:00ー21:00 で、4名以上での予約のみ。定休日は、月曜と火曜。

2012年9月11日火曜日

岩城宏之生誕80年記念メモリアルコンサート

 頭書のコンサートが平成24年(2012)9月8日に、オーケストラ・アンサンブル金沢の第326回定期公演フィルハーモニーシリーズとして、石川県立音楽堂コンサートホールで開催された。岩城宏之さんは言わずと知れた日本を代表する世界的指揮者であり、日本最初のプロの室内オーケストラである「オーケストラ・アンサンブル金沢」の創設者(現在、永久名誉音楽監督)でもある。
 このメモリアルコンサートはオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督だった岩城宏之さんが亡くなった平成18年(2006)以降、夫人であるピアニストの木村かをりさんの提唱で「岩城宏之音楽賞」が創設され、その受賞者が演奏を行なうコンサートでもある。選考はOEK音楽監督の井上道義、石川県立音楽堂洋楽監督の池辺晋一郎、そして木村かをりの各氏で行なわれる。それで今年は氏が生誕の昭和7年(1932)9月6日から数えて80年にあたることから、特に生誕80年記念と銘打ってのコンサートとなった。そして命日の9月6日には、この日と同一の演奏曲目で、東京公演が東京オペラシティコンサートホールで行なわれた。今年度の受賞者は、金沢市出身の田島睦子さんである。
 この日の生誕80年記念岩城宏之メモリアルコンサートは実に多彩でユニークな構成、聴衆を引きつけてしまった。演奏に先立っては、この日の演奏曲目の作曲家でもある池辺晋一郎さんと西村 朗さん両名によるプレトークがあった。お二人ともOEKのコンポーザー・イン・レジデンス(現在はコンポーザー・オブ・ザ・イヤー)で、OEK創設時から岩城音楽監督が毎年作曲を委嘱されてきたもので、現在もその意思を継いで続けられている。生前岩城さんは「私は初演魔」と仰っていたが、初見で総譜を見る楽しみは格別で、見てると曲がすぐに頭に描かれてくると話されていた。だから初演が如何に多かったか、千曲というのは多過ぎるだろうが。それで西村 朗さんは平成5年度(1993)度、池辺晋一郎さんは平成10年(1998)度のコンポーザー・イン・レジデンスだった。因みに西村さんは岩城さんと誕生日が同じ9月6日生まれ、池辺さんはその1週後の9月13日とのことだった。
● 第1曲:池辺晋一郎作曲「悲しみの森」 指揮 天沼裕子
 この作品は、池辺晋一郎が平成10年(1998)にOEKから委嘱されて作曲したもので、尾高賞の受賞作品でもある。曲は悲しみを内に秘めている森の中をそぞろ歩く印象を描いたもので、草も葉も枝も、そして石までも微かに震え揺れているという印象の音楽。初演は岩城宏之さんの指揮で、OEKによって演奏されている。この日の指揮は、OEK初代常任指揮者だった天沼裕子さん、池辺さんの意を汲んだスマートで見事な指揮の演奏だった。
● 第2曲:プーランク作曲「ピアノ協奏曲」 指揮 井上道義  独奏 田島睦子
 前回の第325回OEK定期公演では、日本国内でのオーケストラの指揮は初めてというマルク・ミンコフスキーが、プーランクの「2台のピアノのための協奏曲」を指揮したが、フランス音楽会の若き天才ピアニストのギョーム・ヴァンサンの対手として、指揮者自らの指名による抜擢で、田島睦子が共演することになったという。このことは今回の岩城宏之音楽賞受賞の大きな誘因になったのではなかろうかと思う。今回も同じプーランクの作品、瑞々しいタッチ、でも常に指揮者を意識しての気遣いの演奏は、まだ初々しさと若さが感じられた。
● 第3曲:西村 朗作曲「ベートーベンの8つの交響曲による小交響曲」 指揮 山田和樹
 この作品は、大阪のいずみホールの委嘱によって平成19年(2007)秋に作曲されたもので、ベートーベンの第9交響曲演奏に先立つ序曲的性格をもつ10分程度で、かつ第1番から第8番までの交響曲の対応楽章をすべて引用してほしいという注文で作曲された4楽章の曲である。順不同なこともあって、聴いていて原曲に近い曲は分かったものの、大きく変形されたものは全く分からなかった。ただ5楽章ある第6交響曲は、第5楽章をこの曲のフィナーレのコーダに用いたとのことだった。でも聴いていて曲を繋いだという違和感は全くなく、今では世界に通用する名指揮者のヤマカズの流れるような優雅な指揮で、実に楽しい曲に仕上がっていた。彼は現在OEKのミュージック・パートナーで、横浜シンフォニエッタの音楽監督、スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者も勤めている。
● 第4曲:ベートーベン作曲「交響曲第9番合唱付より第4楽章」 指揮 井上道義
 独唱者では、ソプラノでは人気実力ともに日本を代表するオペラ歌手の森 麻希さん、声も容姿も実に素晴らしかった。またバリトンの木村俊光さんは、平成8年(1996)に日本芸術院賞受賞、桐朋学園大学教授で新国立劇場オペラ研修所所長の重鎮である。また地元からは七尾市出身でメゾソプラノの鳥木弥生さん、福井県敦賀市出身でテノールの吉田浩之さんが出演した。そして合唱には、OEK合唱団を母体に、今回の岩城宏之生誕80年を記念して、過去に岩城宏之と共演したことのある人々によって特別に編成された合唱団員八十数名が出演した。中々の圧巻だった。指揮者も合唱団を絶賛していた。ソプラノの森 麻希さんは、次回の第327回定期公演ではオペラのアリアなどを独唱されることになっている。楽しみだ。