2011年1月28日金曜日

「スカイラインの父」逝く -プリンスへの郷愁

 「スカイラインの父」と言われた桜井真一郎さん(エス・アンド・エス エンジニアリング会長)が1月17日、心不全で亡くなったと報道された。行年81歳だった。「スカイライン」の初代から7代目までの開発に参画され、画期的なアイディアと乗る人を思いやるという発想での開発は人々に感動を与えた。スカイラインのあの赤い丸い4個のテールランプは、素敵なシンボルとして、私たちの目に焼きついて離れない。あこがれの車でもあった。
 一方で私にとって、桜井さんが勤務していたプリンス自動車には何故か郷愁を感じる。何故なのか。今から想うと、当時桜井さんが勤務していた広大なプリンス自動車工業の村山工場を眺めながら、朝夕1ヵ月間、毎日バスに揺られながら、工場に沿った道路を往き来したからなのだと思う。それはもう凡そ半世紀前のこと、東京オリンピックを翌年に控えた昭和58年(1963)のことである。
 私は大学を卒業して石川県に奉職し、勤務は衛生研究所ということになった。薬学部卒なので、本来ならば化学検査担当なのだが、訳があって細菌検査担当になった。基礎が貧弱なので、当時の国立公衆衛生院へ3ヵ月間の短期講習を命ぜられ、どうやら細菌検査ができるようになった。ところが翌年には、地方の衛生研究所でもポリオとインフルエンザにかかるウイルス検査を実施しなければならない破目になり、次の年にはポリオを含む腸内ウイルス、蚊が媒介し当時まだ石川県でも発生が見られた日本脳炎を含む節足動物媒介ウイルス、それと冬季には猛威をふるっていたインフルエンザの検査技術を習得するため、ふたたび東京の国立予防衛生研究所へ派遣された。4月から10月まで、各パートを2ヵ月間ずつ、大部分は戦前は海軍大学だった港区上大崎にあった本庁舎での研修であったが、最後の1ヵ月だけは都心からは遠く離れた村山庁舎での研修、毎日宿舎のあった四谷から中央線で立川まで行き、さらにバスに乗り換えて30分ばかりかけて通った。その頃の村山は武蔵野の面影を残す田舎、ただバスからは広大なプリンス自動車の敷地が見え、これが見えてくるともうすぐ村山庁舎は近いと実感したものだ。
 当時の国の構想では、上大崎の研究所の建屋が手狭になったこともあって、将来は広大なスペースがある村山に全体を移す構想があり、とりあえず3部門が先遣隊として移り、その後残りが移転するという段取りだった。設備は当時の最先端といえるもので、後日危険度が最も高いラッサとかエボラとかいった出血熱ウイルスの検査施設も設けられることになっていた。後日この完璧ともいえる施設が出来上がったものの、稼動には住民の合意が必要という訳の分からないトラブルが今も続いていて、施設は全く使用できないままである。私が研修を受けているときはその施設はまだなかったが、とはいっても当時扱う病原体の感染を完全に制御できる最善の設備が整っていた。でもフッと想ったことだが、当時私が教えを乞うた先生方のほとんどが他界されてしまっている。

 閑話休題
 {桜井真一郎の生涯の断章]
 私が予研村山へ通っていた当時は、あの工場はプリンス自動車工業の主力工場であったが、戦時中は戦闘機や爆撃機をつくっていた中島飛行機の村山工場として、飛行機のエンジンを製造していたという。昭和41年(1966)に日産自動車と合併してからは、日産自動車の村山工場として機能していたが、平成13年(2001)には閉鎖され、跡地の一部は武蔵村山市営の都市公園「プリンスの丘公園」(スカイラインGT-R発祥の地)として利用されているという。なお残りの4分の3の106ヘクタールは宗教法人真如苑が取得したという。
 桜井真一郎は、旧制横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)を卒業した後、小さい頃からの憧れであった自動車メーカーへの就職を希望したが、折からの不況もあって新卒者の採用はなく、学校の説得もあり清水建設へ入社した。入社後配属の東京駅の現場で、研究熱心な性格と機械専攻の技術から、自動的にセメントをこねてコンクリートにする機械(バッチャープラント)を考案し、これを現場で採用し、工期を大幅に短縮した。また続いて担当した現場では、バッチャープラントを設置するスペースがなかったため、米国では既に使われていたコンクリートミキサーをトラックのシャシーに載せることを思いつき、国内では初めてのコンクリートミキサー車(生コン車)を完成させた。そしてこの現場でも大幅な工期の短縮をすることができた。
 昭和27年(1952)、プリンス自動車工業の前身であるたま自動車が求人募集していることを学校から知らされ、清水建設の慰留を振り切って転職した。たま自動車での面接では、何故清水建設を辞めてこんな貧乏会社へ志望するのかと質問され、彼は自動車一途であることを吐露し、貧乏会社大いに結構と啖呵をきったという逸話がある。そして彼は設計課に配属される。
 この会社は戦時中は戦闘機「隼」などを開発した中島飛行機の技術者たちが、戦後は飛行機をつくることが禁じられたため、自動車をつくるべく仲間が集まって創業した会社で、ガソリン自動車開発に方向転換したのは昭和26年(1951)のことである。彼は入社してすぐにプリンスセダンのコラムシフトレバーの改良を任される。このレバーは折れやすいというクレームが多かった。上司は太くして強度を上げると言ったのに対し、彼は逆に細くしてしなりをもたすべきと主張、結果的にはこれでクレームは解消されたという。
 彼は1年後に入社したとはいっても、初代のスカイラインの開発にも携わり、完成は先輩の飛行機屋とタッグを組んでの結晶ともいえる。唱和32年(1957)のことである。その後2代目(R50型)から6代目(R30型ニューマン)までの開発に当たっては、彼は開発責任者(主管)として指揮を執ることになる。少年時代に大病を患い転地療養生活を送ったことのある彼は、その時の経験から、自然の摂理に則り、人間の血の通ったクルマ造りを信条とし、クルマ造りには従来なかった運転する人を本位とした手法で開発が進められ、自動車がライフスタイルの重要なアイテムとなる先駆けとなった。こうして長期間スカイラインの開発に携わったことから、彼は「ミスター・スカイライン:スカイラインの父」と称せられるようになる。
 また開発にあたっては、自らがコンセプトストーリーを描き、それを設計者全員に共有させて取り組んだ。2代目の開発にあたっては、走行機能と操縦機能にこだわった。また馬力をアップするために、1500ccの車に、グロリアスーパーGに搭載されていたG7型直列6気筒(SOHC)エンジン(2000cc)を移植するという奇策に出て、125馬力にまでパワーアップした。こうして唱和39年(1964)に、ボンネットが初代より20cmも長い2代目プリンススカイラインが誕生した。「スカG」は今でいうGT車の始まりで、人をして「羊の皮を被った狼」とまで言わしめた。彼は「速さはポルシェ、使い勝手はBMW」を手本にしていたという。
 唱和41年(1966)、プリンス自動車工業は日産自動車に吸収合併される。しかし技能集団の遺伝子は合併後も脈々と受け継がれ、中でもレースを意識したGT-Rは国内無敵の走りを誇っていて、日産の看板だった。一方で、プロトタイプのレーシングカーのR38シリーズの開発も手がけ、日本グランプリ優勝3回(プリンス時代1回、日産時代2回)という成績を残した。これらのマシン試走時にあたっては、自らステアリングを握ることもあったという。
 彼は唱和59年(1984)に突然倒れ入院する。しかし翌年に退院した後はスカイラインの開発責任者には復職せず、新設部署の部長に就任した。そして唱和61年(1986)、日産自動車の特装車部門の開発企画製造を目的とした部門の業務を譲り受けて設立されたオーテック・ジャパンの初代社長に就任する。この会社は旧プリンスから継承されている日産の開発企画部門やその関連会社の出身者で構成されていて、通称「桜井学校」「桜井ファミリー」と称され、数多くの日産の社員も出向し、ここからは多くの逸材を輩出した。またオーテックバージョンと呼ばれるカスタマイズカーを数多く世に送り出し、注目を浴びた。社長の構想の中には、パン焼き窯を搭載した車の構想があったという。
 その後平成6年(1994)には、エス・アンド・エス エンジニアリングを設立し、ボディー補強材やディーゼルエンジンの排出ガス浄化装置等を開発する。平成9年(1997)にはプリンス&スカイライン・ミュージアムの館長に就任、平成17年(2005)には日本自動車殿堂入りを果たした。
 桜井真一郎は死ぬまで現役であった。「やれるだけやって、車づくりに心血を注いだ満足感をもって死にたい」と言っていたという。正に、言葉どおりの羨ましい車の開発にかけた人生であった。

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