2011年1月18日火曜日

伊藤真乗・友司夫妻(双親さま)と真如苑

 私が恒例の志賀高原へのスキーツアーを終えて帰ってきた日の翌日、東京から帰ってきた家内が私にこれを読んでみたらと渡してくれたのが「歓喜世界」というB5判の真如苑にかかわりのある冊子、じゃ読んでみようという気になった。家内がいつの頃からか真如苑にかかわっていることは知っていたが、それが他界した三男が病気になった頃なのか、あるいはもっと先なのかは定かではない。ただ家内の姉や姪がかなり前から信奉していることは聞いていたし、私も一度家内の案内で末町にある真如苑北陸本部というところへ行ったことがあるが、何とも広大な敷地で度肝を抜かれたことを覚えている。いつか探蕎会会長の寺田先生(金沢大学名誉教授)が、以前野町に真如苑の支部か集会所があって、勧誘されたことがあると伺ったことがあるが、少なくともその頃はそんなに目立った存在ではなかったのではないかと思われる。でも家内から読むように勧められた冊子には、秋田と大阪での事始めが書いてあったが、当初は摂受し感銘した一人からの出発だったそうだから、何年前のことかは分からないが、金沢でも恐らく同様だったのであろう。
 私は家内が真如苑にかかわったとき、既存の宗教とのかかわりあいのこともあり、少し調べてみた。すると真如苑は大般涅槃経を所依とし、ことごとく涅槃に帰すとし、基本的に他宗派、他教団との摩擦は回避するとあり、理念は摂受、これに対し法華経を所依とする創価学会などの理念は折伏、後者だったら心穏やかではなく、恐らく大反対したことであろうことは想像に難くない。私の家は私で五代目、代々浄土宗、先祖八名と童子一名、それに子が夭折し家が絶えた叔父と三男の計十一名の命日には、浄土宗のしきたりに法ったお経をあげて回向しているほか、朝のみだが、毎日のお勤めは欠かさない。だから私は入信はしないが、家内は思うようにすればよいと思った。
 ところで、家内から手渡された冊子を読んで、先ず真如苑の生い立ちに興味を持った。この新しい宗教がどんな背景と経緯で成立したのかを、家内から読むように勧められた冊子やインターネットでの記載、それに島田裕巳著の幻冬舎新書の「日本の10大新宗教」などを参考に経年的に書き起こしてみた。間違いがあるかも知れないので、その節はご指摘いただきたい。

[真如苑の生い立ち]  (文中敬称は省略する)
 真如苑の開祖、伊藤真乗(本名文明)は、1906年(明39)山梨県北巨摩郡秋田村の農家で生まれた。伊藤家は名家で、家には古くから代々易が伝えられていて、どちらかというと宗教的な環境で育ったという。1923年(大12)17歳で上京し、後年の立川飛行機に技術者として就職する。1932年(昭7)、真乗は従兄妹の内田友司と結婚する。ところで友司の伯母も祖母も、ともに霊能者であったことから、友司自身もその素質を継いでいたと言われ、後にこのことが宗教活動に大いに役立つことになる。その後真乗は伊藤家に伝わっていた易でもって、周辺の人たちの諸々の相談に乗っていたという。
 1935年(昭10)真乗は鎌倉時代の仏師運慶が刻んだという仏像大日不動明王と出会い、自宅に不動尊像を祀るようになり、そして名を「天晴」と改める。これを契機に、妻友司と共に三十日の寒修行を行い、これを終えると会社を辞め、共に仏道に入り宗教家として活動しようと決意する。
 翌1936年(昭11)からは宗教活動に専念することになった真乗は、自宅で成田山新勝寺への参拝講、立照講を組織するようになり、立照閣と称した。そして5月には京都の真言宗醍醐派総本山醍醐寺に向かい、そこで得度受戒し、先達に補任される。先達とは講のリーダー的存在で、在家の真言修行者、いうところの修験者である。ところで6月には長男の智文が1歳10ヵ月で他界した。真乗は請われて人さまの病気治しなどを実践していたのに、自分の子を亡くすことは宗教家としての資質・能力が疑われると感じとった。ただこの子の死は後々大きな意味を持つことになる。
 翌1937年(昭12)、夫妻には次男友一が誕生する。そして1938年(昭13)、真乗は立川の諏訪神社に近い場所に土地を借り、真言宗醍醐派立川不動尊分教会を設立する。これは後に燈敬山真澄寺と呼ばれるようになる寺で、毎日護摩を焚き、加持祈祷を行っていた。その後真乗は、総本山醍醐寺で1939年(昭14)には在家の修行である恵印灌頂を修めたのに続き、1943年(昭18)には出家の仕上げとも言える金胎両部の伝法灌頂を受け、「真乗」の名を与えられた。これは出家の在家の行をすべて継承したことを意味し、真乗は大阿闍梨位に就いた。(これは真言宗での阿闍梨で、有名な千日回峰行を果たした行者に与えられる天台宗の阿闍梨とは異なる)。
 しかし、既成仏教の傘下にあれば安泰であろうが、独自な活動を展開しようとすると限界があると思うようになる。戦後になって宗教法人令が交付されると、真乗は真言宗の傘下を離れて独立する。立川不動尊分教会を真澄寺と改称し、「まこと教団」を設立する。そしてそこでは真如苑で今日行っている接心修行の原型となる「まこと基礎行」が行われており、これは霊の降臨を伴うもので、真言宗の修行に基づくものではなく、むしろ霊能者であった友司の伯母や祖母が実践していた方法に近いものであり、こうした霊感修行は真言宗の教義からはむしろ逸脱したものであった。でもこうした修行を取り入れることによって、「まこと教団」は後の「真如苑」へと発展することになる。
 1950年(昭25)、修行中にリンチを受けたとして真乗は告発され、相手の言い分との間には齟齬があったものの、結果として執行猶予の付いた有罪判決を受けた。しかしこれは後に真乗の言い分が正しかったことにはなるのだが、その時は「まこと教団リンチ事件」として大きく新聞に報じられ、教団は窮地に陥った。そして1952年(昭27)7月には次男の友一が他界するという悲しい出来事が起きた。15歳だった。次男は体は弱かったが霊能力に優れ、真乗は後継者に目していたという。彼は信者の方が見舞って、早くよくなるよう祈っていますと言うと、私は生きていても、亡くなってからでも、身代わりになってでも人々を救済しますと言われたという。これは「抜苦代受」の考え方、子どもたちが人々の苦しみを代わりに引き受けるために亡くなったというものである。友一の告別式の際には、友一には「真導院友一本不生位」の戒名が授けられ、併せて先に亡くなった長男の智文には「教導院智文童子」の戒名が追諡された。この二人の子どもたちは、両童子さまとして、救済者としての役割が与えられ、教団の宗教活動のなかでも、重要な役割を担っている。
 翌1953年(昭28)、悪化した教団の印象を払拭するため、真乗は教団名を「まこと教団」から「真如苑」に改めた。またまこと教団事件以降は、友司が苑主となり、真乗は教主となる。そして真乗は次男の死を契機として、涅槃経(大般涅槃経)と出会い、その教えに強く引かれるようになる。経典にある「常楽我浄」、それは死はすべての終わりではなく、涅槃を絶対的な境地が永遠に続くものとしてとらえている。そして在家の誰もが悟りを得られることを願い、真乗は宗教法人法が改正されたのを機に、大般涅槃経を所依とした真如苑を宗教法人とすることにした。ただ認証されたのは1963年(昭38)である。ところで涅槃経を重視している教派は真如苑以外には見当たらない。そしてこの頃には瞑想行の一つである「接心修行」も確立されている。
 1957年(昭32)に入り、真乗は仏像制作に入り、3月には丈六尺の本尊となる大涅槃尊像(久遠常住釈迦牟尼如来)を完成させる。涅槃像は、釈迦が入滅したときの姿を象ったもので、釈迦は右手を手枕にして臥せっている。真乗は幼時から手先が器用で、いろんな分野で足跡を残しているが、とりわけ仏の謹刻では「昭和の仏師」と呼ばれるほどで、その天性による創作は、釈迦如来、阿弥陀如来、十一面観音、不動明王、普賢延命菩薩、観世音菩薩ほか数多の仏像に結実している。そして大涅槃像の制作を始めた頃からは、それまでの出家の僧形を辞めて俗人の格好をするようになる。そして一方で仏教の指導者としての教師の育成にも力を注ぎ、国内外の各地に修行の拠点を設けるようになる。
 1967年(昭42)、夫妻はバチカンでカトリックの262代教皇パウロ6世と会見する。そのときには「仏の教えも紙の教えも求めるものは一つ、それは人類の平和と幸福」と言われ、固い握手をされたという。でもこの年の8月、苑主の友司は体調を崩し他界した。その後友司は「霊祖」、あるいは「摂受心院」と位置づけられ、霊界において救済を司る存在としてとらえられるようになる。これは早世し両童子として信仰の対象となってきた二人の息子が負ってきた役割をも引き継ぐことになる。しかし長女瑛子と二女孜子とは意見が合わず、二人は離反し、教団と決別することになる。
 1984年(昭59)4月、真乗は真言宗醍醐寺派総本山醍醐寺で執り行われた弘法大師御入定1,150年遠忌において導師を務めた。この間国内外の諸宗教、諸宗派とも交流を重ね、創価学会のように爆発的に信徒数が伸びたわけではないが、着実にその数は拡大している。1989年(平1)、教主真乗は83歳で遷化され、教主の意向を受けて苑主として後を継いだのは三女の真總(本名真砂子)である。継主の真總は、アメリカ、ヨーロッパ、台湾などでも護摩法要を行い、精舎を建て、精力的な活動をしていて、2002年(平14)6月には、バチカンで264代教皇のヨハネパウロ2世とも会見している。また、2006年(平18)3月には、立川市に信徒修練場(総合道場)応現院の落慶をみている。
 2008年(平20)12月末現在の信徒数は 964,573名、海外を含む寺院数は 114ヵ所となっている。
 島田裕巳は、真如苑の一つの特徴は、真乗とその家族が果たす役割の大きさで、教団が親から子へ受け継がれる例はいくらもあるが、これほど教祖の家族がクローズアップされる例は珍しく、亡くなってからも霊界において重要な役割を果たしていると。またさらに重要な特徴は、真如苑には世直し的な側面が一切見られない点であり、また地上天国の実現を説くわけでもなく、非日常的な側面が欠けていることもあって信者が熱狂することはないと。であるからして、教団の将来への活動の目標は立てにくく、明確な目標はないとも。

[付記1] 四女の英玲は、教主遷化当初は真如苑にもかかわっていたが、現在は教団に関係する財団の理事長になっている。また、継主真總(三女)の夫の伊藤勲は、教団に関係する一如社グループの会長をしている。
[付記2] 真如苑が広く知られるようになったのは1980年代半ばのこと、人気ある女優やタレントが入信していると伝えられたからでもある。信徒数は新宗教では、創価学会、立正佼成会に次いで3番目に多い。 

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