2010年4月22日木曜日

木曽路の蕎麦屋ーそばライゼからー

 今年4月の探蕎会の蕎麦屋巡りは、予定では18日の日曜日に長駆丹波篠山の「ろあん松田」ということだったが、10日前の8日に事務局の前田さんから連絡があり、満員のためキャンセルになったとのこと、代わりに信州木曽町の「時香忘」に変更した旨のメールが入った。「ろあん松田」の魅力もさることながら、「時香忘」の「そば」は、これが「そば」の究極の姿とさえ思える逸品ばかり、あそこで出されるすべての「そば」をまだ食べ尽くしていないこともあって、行こうと言われて否はない。私は今度で三度目となる時香忘行き、今回のメンバーには初参加の方もおいでるが、たかが「そば」とは言え、店主の「そば」への拘りをまた共に味わえたとは僥倖だ。満足して時香忘を出た後、久保さんの発案もあって、開田高原の「ふもと屋」で「とうじ(投汁)そば」を味わうことに。前に寄った折に初めて食したが、何事も体験ということでは意義があるが、何度もということになると首を横に振りたくなってしまう一品である。でもこの木曽路にあって、初に経験する方もおいでるとあれば、よい体験だと思う。この日の木曽路は正に桜満開の春爛漫、東に急峻な木曽駒ヶ岳を、西には泰然とした木曽御嶽山を眺め、この春の一日、木曽路の蕎麦を堪能した。
 ところで何処で仕入れたのか定かではないが、手元に「KISOJI/SOBA Reize」というパンフがある。曰く、『ライゼ』とは、ドイツ語で「旅、旅行」・「めぐり旅」・「紀行」という意味があり、「SOBAライゼ」とは、木曽路の蕎麦を味わって頂くばかりでなく、木曽路の自然と人にも接して、木曽路をゆったり楽しんでほしいという想いを込めて名付けたとある。このパンフは、あちこちで行われている「地域おこし」の一環と思われ、昨年11月に策定された「木曽地域広域観光振興計画」に基づいて、「木曽地域広域観光振興プロジェクト会議」が企画・編集し作成した手作り品とか、4月の発行というから、まだ生まれたばかりである。
 木曽というと、木曽の五木の香りを思わせる、清々しい爽やかな雰囲気を頭に描く。山では木曽の御嶽山と木曽駒ケ岳、川は木曽川、谷は木曽谷、街道は木曽街道、人物では木曽義仲、民謡は木曽節、木曽の御料林もある。木曽は信濃国(信州)の十州の一つ、地域は木曽川流域一帯の木曽谷を指すという。行政区域では旧木曽郡全体である。平成の大合併で、北部の旧楢川村が塩尻市に、南部の旧神坂村と旧山口村が岐阜県中津川市に合併された。現在の長野県木曽郡には3町3村あって、北から木祖村、木曽町、王滝村、上松(あげまつ)町、大桑村、南木曽(なぎそ)町となっている。そして南北に流れる木曽川に沿って、中仙道が通っていて、これを通称「木曽路」という。中仙道は69次あり、江戸の日本橋から京の三条大橋に至る街道である。木曽路には33次の贄川(にえかわ)宿から43次の馬籠(まごめ)宿までの11宿があった。北から順に、贄川宿、奈良井宿(以上旧木曽郡楢川村、現塩尻市)、薮原宿(木曽郡木祖村)、宮ノ越宿(木曽郡旧日義村、現木曽町)、福島宿(木曽郡旧木曽福島町、現木曽町)、上松宿(木曽郡上松町)、須原宿、野尻宿(以上木曽郡大桑村)、三留野(みどの)宿、妻籠(つまご)宿(以上木曽郡南木曽町)、馬籠宿(旧木曽郡山口村、現岐阜県中津川市)である。
 さて、手元にある「木曽路/そばライゼ}には、旧木曽郡に所在する46軒の蕎麦屋が紹介されていて、お客さんに好みの「そば店」と「そば」を探していただくためのツール・ナビとして活用して下さいとある。これに記載されている蕎麦店は、自家で手打ちであれ、機械打ちであれ、そば打ちをしている店で、掲載希望のあった店となっている。したがって、パンフには、このほかにもそば処はありますと書いてある。しかし、私の手持ちの資料で調べた限り、この地域で参加していないそば店は僅かに5店のみであった。
 木曽路のそば店の紹介は、概ね北から南へとなっていて、店の名称、住所、電話番号、代表的なそばの「麺の太さ」「そば粉とつなぎの割合」「つゆの特徴」、[店からのこだわり・セールスポイントの一言]、[お勧めのそば2品とその値段]、禁煙席の有無、座席数、駐車数、営業時間、定休日、あれば店舗のHPアドレスが載っている。またお勧めの品のそばの写真と、店自慢の一品の写真か、店内もしくは店の外観の写真が掲載されている。そして取材したプロジェクトチームのメンバーのコメントも付されている。統一されたスタイルなので比較しやすいし、その点では親切な見やすいパンフレットだといえる。
 概観してみよう。地域別にみると、北から順に、塩尻市(旧木曽郡楢川村)8、木祖村3、木曽町19(旧木曽福島町6、旧日義村4、旧開田村8、旧三岳村1)、王滝村5、上松町3、大桑村2、南木曽町3、中津川市(旧木曽郡山口村)3である。
 代表的なそばの太さは、大部分(34店)が2.0-3.0mm未満の中細、2.0mm未満の細打ちが10、3.0mm以上の太打ちが1、時香忘は麺の種類により変わるとあった。そば粉とつなぎの割合は8割(二八)が最も多くて36、外二が1、7割が3、9割が3、10割が1、99.8%が1(時香忘)、未公表が1だった。つゆの特徴は、すべての店で自家製であるらしいが、鰹節と記載されているのが26、昆布とあるのが17、煮干が4、鯖節が3、椎茸が3、シメジが2で、単味というのはなく、複数の味の混合である。因みに時香忘のつゆの特徴は、こだわりの醤油(以前に記載)、3種類の削り節、天然物の昆布、霜降りシメジとなっていた。
 こだわりでは、自家製粉の記載があったのが13店あり、これらの店は当然手打ちと思われる。ほかに手打ちと記載されていた店が11店あった。中に1店は注文を聞いてから機械打ちするとあった。蕎麦粉は地元の開田高原や王滝産を用いると書いていたのが11店、長野県内産との記載が12店、国内産との記載が3店、他は特に記載はなかった。
 お勧めのそばで多かったのは「ざるそば」で38、次いで「すんきそば」が14、「天ざる」が9、「天ぷらそば」が5、「もりそば」「とうじ(投汁)そば」「きのこそば」が各4、他は3以下だった。因みに時香忘のお勧め品は、日により蕎麦が変わりますとの注釈付きで、「おやまぼくち蕎麦」と「夜明け蕎麦」とあった。なお、プロジェクトメンバーの時香忘の印象メモには、『原点回帰のそば! 木曽を感じ、すべてに癒される』とあった。
 このパンフの1-2頁には蕎麦の一般的知識を要領よく説明してあり、全粒粉から打つ「田舎そば」、挽きぐるみを使った一般的なそば、ご膳粉を使った「更科そば」などを、分かりやすく写真を添えて紹介してある。そしてこだわりのお蕎麦として、十割そうだが、そば、粗挽きそば、実のまま、二色そばを収載してあるが、後の2点は時香忘でしか打てない特殊な「そば」なのにあえて紹介したのは、チームの並々ならぬ意気込み以外の何物でもない取り組みと感じとれた。
 〔補記〕 お勧めのそばに出てきた「すんきそば」とは、赤カブ菜の茎を塩を使わずに醗酵させてつくった「すんき(酸茎)漬け」を、温かいそばの上に載せた酸味の効いた木曽地方独特のそばで、寒い時期(概ね11月~3月)に限定して出されるもので、木曽の冬の味である。 そしてこの「すんき漬け」とは、木曽特産の赤カブ菜の茎を植物性乳酸菌のみで醗酵させてつくった漬物で、酸味が特徴である。昔はヤマブドウやコナシの果汁を醗酵に使ったそうだが、現在はすんき漬けから出た液を寒干ししてつくったタネ(すんきの汁)を使って漬け込んでいる。塩が手に入りにくかった山国で、冬の野菜不足を補うための知恵として伝承されてきたと言われ、味の文化財といわれる所以である。 なお、塩を使う京都の「すぐき(酸茎)漬け」とは別物であるが、名称の語源は同じかも知れない。

2010年4月13日火曜日

お花見日和の花見(その2)

 大滝さんと別れて、犀川の右岸に渡り、対岸の桜並木を眺める。正に春の一景である。暫しの後、再び橋の北詰めに戻り、鱗町から本多通りを広坂へ向かう。今日は旧県庁本庁舎を改築した「しいのき迎賓館」開館の日である。辰巳用水を挟む広坂通りの桜も満開だ。旧県庁正面に回る。樹齢300年という対の堂形の椎は実に見事、また大正13年築造の外観タイル風の建物も保存され、共にマッチして実に落着いた雰囲気を醸し出している。この建物は旧四高の校舎共々、この古都金沢には相応しい、なくてはならない建物だ。大正13年築というと、小生の住まいの旧宅も同年の築である。この旧庁舎については全て取り壊して広場にという意見も多かったそうだが、知事の英断で最小限庁舎の前面だけ残し、約20億円かけて改修したという。以前の雰囲気は前面の外観と玄関、それとロビーにその面影が残るが、内部はガラッと変わっているという。
 旧庁舎はロの字形だったが、北側のコの字の部分を取り払い、元中庭に面していた側を総ガラス張りに。その結果、北側から見ると、これが旧県庁舎とはとても思えない位モダンな建物に変身した。裏へ回ると、丁度オープン式典が終わったところで、谷本知事が出席者を迎賓館に招き入れていた。旧県庁構内は、迎賓館と受賞した煉瓦色の庁舎のほかは広坂緑地となり、緩やかな起伏のある全面芝生の広場となって、素晴らしい空間となっている。そして広場から見える金沢城の石垣も併せて修復され、辰巳櫓下に位置する鯉喉櫓台石垣も復元され、これもこの日お披露目された。そして石垣とお堀通りの間にあった元兼六園コートは掘られて宮守堀として復元され、湛水されていた。「しいのき迎賓館」から見ると、右に辰巳櫓跡の高い石垣、そしてその左に向かって宮守堀越しに薪の丸の石垣が一望できる。近い将来、辰巳櫓が復元されるそうだが、そうすると実に素晴らしい景観が現出する。
 復元された宮守堀を巡り、鯉喉櫓台石垣から薪の丸の石垣上の小径を辿る。途中石垣の組み手の見本が置いてあるが、加賀の石工の技術は大したもの、城内の石積みにも力を発揮した。径を三十間長屋から本丸園地へと向かう。ここなど奥まった場所、人通りは少ないはずなのに、この日はかなりの人、先ずは辰巳櫓跡へ、旧県庁の広坂緑地は眼下、金沢の繁華街も、目を転ずると、兼六園から本多町の界隈も、青い目の方も何組かおいでる。少し下がって丑寅櫓跡へ、ここからは兼六園を一望でき、百間堀に面した側の満開の桜は実に見事だ。坂を下って鶴の丸広場から三の丸広場へ、さらに金大敷地だった頃は学食があった通りに出る。この通りにも桜並木がある。金大薬学部の城内移転で先鞭をつけて引っ越した生薬学教室があった建物は無くなっていたが、その奥の旧第六旅団司令部の建物は残っていた。生薬学教室には薬用植物園が付きものだが、その植物園は師団があった頃には馬場だった旧玉泉院の場所に移転したのだったが、整備できた頃、薬学部の城内移転は頓挫して再び小立野へ戻った経緯がある。その後薬草園跡にスポーツセンターが建ったのはご存知の通りだ。
 次に、4月24日にお披露目されるという河北門を見ようと新丸広場へ、河北門は通れないので、新丸広場へは黒門へ下りる道から迂回する。この一角には昔理学部があった。今はなく、広場になっている。湿生園の縁を回って河北門へ、まだ通れないが、金沢城では最も大きな門で正門、係員に聞くと、扉一枚の重さは1トンとのことだ。まだ木の香りがする。門を巡るように回廊が設けられているが、細工が凝っているところを見ると、臨時に設けられたものではないようだが、どうなのだろう。石川門をくぐり、橋を渡って兼六園へ。
 金沢城公園もかなりの人出だったが、石川門の外はもっと凄い混みようで、桂坂口から入ろうとするが、出る人に押されて前へ進めない位の人、人、人。茶屋から霞ヶ池畔の琴柱灯篭や唐崎の松へ通ずる道も凄い人出、桜は茶屋周辺と卯辰山を見渡せる園地には本数は多いが、他処はそんなに多くは無い。兼六園菊桜も親木から取り木した幼木が育っている。無論花はまだ先である。早々に梅林を抜け兼六園を出て、県立美術館に向かう。
 第66回現代美術展は、4月3日~20日に、石川県立美術館では日本画・彫刻・工芸・写真を、 金沢21世紀美術館では洋画と書を展示している。この美展には委嘱と一般合わせて1,127点の作品が寄せられていて、これは過去最多だという。賞を受けられた方々の作品は、それなりに価値があるものだろうけれど、理解に苦しむものもあるのは仕方のないことだ。しかし委嘱作品を見ていると、やはり年輪が感じられ味わいがある。特に工芸の部では、文化功労者、日本芸術院会員、人間国宝の方たちの作品を眺めていると、深い味わいと感動と同時に心が休まる安堵感がする。
 美術館から旧第九師団司令部長官舎の別館を巡って、石浦神社を経由して金沢21世紀美術館へ行く。ご丁寧にもぐるりと回って市役所側から入ったものだから、まるで逆路になってしまった。係員に上手に行かないと全部観られなくなりますと言われる。案内地図があるとよいのにといつも思う。「書」の部の初の一室は全て賞を貰われた人の作品ばかりがまとめて展示されていた。書は好きだが、前衛的なものはよく分からない。こんな場合、字の持つ意味との関係はどうなのだろう。また作品の解説を聞いていないので、どこがポイントなのかは知らないが、でも端正な書を見ていると、美しさを感ずる。書の点数もかなり多く、底辺が広いのに感心する。字体を眺めているだけでも楽しい。
 次いで洋画、やはり点数が最も多いようだ。最後になったが、鑑賞している人数も最も多いようだ。この美展、何といっても会派を超えた会員の結集というのが大きな魅力ではなかろうか。大滝さんがこの美展に縁があると言われたのはこのことだったのかと納得する。大滝さんは、私の画は桜と風見鶏だからすぐに分かりますと言ってくれたが、逆路なので、ひょっとして出くわさないのは、見てない室があったのではと思ったりする。とうとう残り1室のみになる。最後に残ったのは展示室①、順路ならば最初の室、でもここで漸くご対面となった。それにしても大滝さんがキャンパスに使った桜色、実に目立った。でも洋画が何点展示されたのかは知らないが、こんなピンク色をあしらった作品は一点もなかった。また桜を題材とした画も全く無かった。こんな環境だから、大滝さんの画は実に目立ったし、大胆-そのもの。この色は駆け出しの人が使うと、駄作になる危険な色だ。対して風見鶏はくすんだ緑色で、実物よりずっと大きく描かれていた。
 これで当初の目的はすべてクリアできた。外は暖かく、陽が照ると暑く感ずる。もう一度桜橋南詰めの桜と風見鶏を見たくなって、来た道を戻る。風が吹いてきて、花びらがヒラヒラと散り出した。橋詰めには2本の桜の木があり、画になったのは大きい方だ。桜の木を巻いて上るこのジグザグの坂は、正式には石代坂というらしい。途中に、この坂は日本?の坂30選・綿貫民輔とある。またもう少し上がると、井上靖の文中にW坂が出てくる一文の一節がはめられている。話には聞いていたが、通ったのは初めてだ。坂の高低差は高々30米位じゃなかろうか。そして上り切った右手に大滝先生のアトリエがある。でも玄関の看板は奥さんの服飾デザイナーの名称になっている。そしてその右手奥が開けた台地になっていて、ベンチも置いてあり、アベックが語らっていた。私もここに座ってワンカップでも飲みたい衝動にかられる。シートを敷けば宴会もやれそうな、広く見晴らしのよい場所だ。ここから細い路地道を辿ると寺町通りに出た。少し薄雲が出てきたが、お天気はよい。ブラブラと通ったことのない路地を通って、一路南西の方角へ、そのまま我が家まで歩いた。
 翌日の新聞には、10日の石川県内は東海上に中心を持つ高気圧に覆われて晴れ、金沢の最高気温は23.2℃(平年15.5℃)と5月下旬並みの暖かさになったとあった。また13日のラジオ放送では、10日の人出は、兼六園が7万1百人、金沢城公園が6万11百人とのことだった。

2010年4月12日月曜日

お花見日和の花見(その1)

 今年から気象庁による日本各地の桜開花予想は止めにしたと新聞の報道記事にあった。その理由は表向きは民間でも開花予想をやっていて、ことさら国の機関の気象庁が開花予報を出すこともなかろうとのことだったが、でもいろんなデータを基に予想した予報が思ったほど的中せず、公の金を使って当たりもしない予報を出すのは権威にもかかわり、大勢に影響がなければ遠慮しておこうというのが本音だろう。でも新聞にはどこの資料に基づいているのかは知らないが、金沢での桜の開花は4月の頭との予想が出ていた。花見に関係する業者は、毎日の天気もさることながら、開花日も気になる大事な要素だろう。ところで今年のお天気はかなり気まぐれで、暖かい日があったかと思うと、翌日は寒気の襲来で冬の気配、日の最高気温の推移も日に10℃以上の上下はザラで、人様も体調の管理が大変だ。また今年に入って、突然の天候の急変で、山での不用意、不注意によると思われる遭難が多かったのも、この年の不順な天候によるところ大である。いつの日だったか、通常なら最低気温が記録される午前5時頃の気温がその日の最高で、最高となるはずの午後2時頃の気温がその日の最低という日もあった。
 さて、桜の開花予想は止めにしたものの、金沢地方気象台では構内の標本木を目安に開花宣言は続けている。今年の金沢での桜(ソメイヨシノ)の開花日は4月1日、標準木での開花の基準である5,6輪花が開いたことが確認されたことに基づく発表である。これは平年より5日早く、昨年より2日早かったという。満開までは1週間前後かかる見込みとのご託宣も付いている。この日は前線の影響で気温が上がり、21.0℃と5月上旬並みの陽気、それで一気の開花となったようだ。 
 開花の次は満開である。気象台は4月6日に、金沢でソメイヨシノが満開になったと発表した。これは平年より5日、昨年より4日早い観測だという。この日も気温は19.5℃と4月下旬から5月上旬並みのポカポカ陽気、やはり桜とて生き物、陽気がよいと気分良く花も開こうというものだ。正直なものだ。毎年のことだが、この観桜の時期に合わせて、兼六園の無料開放がなされるが、今年は4月5日(月)から11日(日)の1週間、夜間にはライトアップもされ(午後5時から9時半まで)、夜桜も楽しめる。石川県金沢城・兼六園事務所の話によると、兼六園には420本、金沢城公園には350本の桜の木があるそうだが、この本数は他の桜の名所からみて決して多いとは言えない。私が以前聞いた此処が桜の名所だといういわれの一つは「ケンロクエンキクザクラ」の存在、花弁が300枚以上もあるという、日本では有数の桜の木があったことと、旧金沢城内には計40種ばかりの桜の種類があることということだった。でも兼六園では一番先に咲くヒガンザクラ、次いで咲くソメイヨシノがどうしてもメインであり、次いでは半月ばかり遅れて開花するサトザクラやオオシマザクラ系の八重桜も風情があって趣がある。ところで、桜でもウコンという淡黄色の花を付ける樹種や、ギョイコウという淡黄緑色の花を咲かせる変わった種類の桜があるということはあまり知らされていない。これら変わった種類の桜は、兼六園ではなく、金沢城公園の敷地にある。
 ところで、桜の満開と梅の満開とではまるで印象が違う。この間テレビを観ていてその謎が解けた。梅は1つの花芽から1個の花しか咲かないが、ソメイヨシノの場合には1個の花芽から5~6個の花が咲くので、同じ満開でもその花の濃密さや規模は桜の方が数倍見場があるわけだ。どの桜もすべてそうなのではないはずで、キンキマメザクラなどの山桜などでは、絢爛さはなく清楚な感じがする。
 さて、桜満開宣言の後、天気は周期的に変わり、次いで陽気が戻ったのは9日の金曜日、この日の最高気温は21.1℃、次の日の10日も天気は高気圧に覆われて暖かいとのこと、桜の花を観に行こう。
 毎年家内と一度は花見をするのだが、今年は三男坊が入院をしていて、家内は夜は付きっ切りということもあって、今年は彼女は割愛するとのこと、私だけで出掛けることにした。10日は土曜日、しかも絶好の花見日和、この日を逃すことはない。また翌日の11日の日曜は予報では早くも雨というから尚更である。家内が家に帰るのは午後になるという。私が足ごしらえして家を出たのは午前9時、程よい陽気である。今日の花見は歩いて兼六園まで行こう。途中、高橋川の堤、伏見川の堤防の桜を愛で、母校の泉丘高校の桜を眺め、地黄煎町を通って犀川に出て、両岸の堤の桜を愛で、最後に兼六園と金沢城の桜を眺めて帰る予定とした。折しもこの日は旧県庁の本館が装いも新たに「しいのき迎賓館」として開館するセレモニーもあり、それも見物しようとの思惑もあった。天気は絶好の行楽日和、6日満開宣言の桜は今日で5日目、通常満開の期間は5日というから、今日がリミットの日でもある。何処も彼処も桜は満開、まだ散りかけてはいない。
 寺町5丁目の交差点から桜橋へと坂を下る。坂の途中から見る対岸の桜並木と片町の町並み、いつか大滝画伯の描かれた300号の絵を想い出した。左岸の桜並木もよい。昔橋詰めに「とよ島」という犀川の支流内川の最奥の部落後谷出身の方が開いていた割烹旅館があって、格好の花見宴会の場とあって、知己でもあり時々利用していたが、今はなくなってしまった。その跡を右に見て、桜橋を渡っていたら、大滝由季生さんにバッタリ出会った。あちらも驚いたろうが、こちらもびっくりした。先生のアトリエはこの橋詰めからW坂を上り詰めたところにあり、テレビで紹介されたこともあり、この界隈は縄張りの内だ。お会いして小一時間喋っていたろうか。今日の午後は文化センターで絵の指導をされるとか。私の指導の仕方はユニークで、決して強要はしないそうで、楽しく個々人の個性を伸ばすようにしているとか、でも時間の3時間以内には生徒達は皆ちゃんと絵を仕上げるという。生徒の腕は様々だが、私も彼らと一緒になって楽しんでいると言われる。今は日展にも前に所属していた一水会にも出展せず、ただ現代美術展にだけは縁もあって出品しているのだと。招待券を送ろうと思ったけれど、名簿をなくしてしまい、送れなかったけれど、今日はぜひ見ていってほしいと。今は時々フランスへ行っているが、描く環境としては日本にない良さがあって好きだと。飄々としておいでる。
 日本にはいろんな権威の方がお出でて、派閥をつくられておいでだが、これがどれほど若い人たちの芽を摘んでしまっているかということを縷々と話された。でも私は安井曽太郎の孫弟子だという自負があるとも。ところで現代美展に委嘱作品として出した絵のテーマは「坂の上のかざみどり」で、桜橋の袂に咲く満開の桜とW坂、それにアトリエと風見鶏をあしらった絵とのこと、風見鶏は小松在住の方から頂いたもので、あそこに見えるでしょうと指を指された。橋の両側には川へ出っ張った半円形の空間が、片側2箇所ずつ4箇所設けられていて、川の流れ、桜の花、町並み、残雪の県境の山々を眺め、寄りかかって風に吹かれ、時間を気にせずに話を伺った。こんな話も。現美の開場式のセレモニーの後、飛田北國新聞社長、嶋崎県立美術館長、秋元金沢21世紀美術館長の4人で会場を回った折、飛田社長が初めて私の絵を褒めてくれて、これからは山ばかりでなくこんな絵を描いて下さいと言ったとか。
 探蕎会にも触れられ、会の行事にはもし体が空いていれば、必ず参加しますとも。別れ際、会に注文が一つありますと。何ですかと聞いたら、探蕎会で「そば」を食べるのもよいが、少し文化的な修飾を施した方がよいのではと。これまでのように美術館や寺社を巡るのもよいが、例えばそばを食べた後、どこか適当な場所で絵を描いてみては如何かと。紙と鉛筆があればできること、絵にはこうしなければならないという決まりは一切なく、皆で個々に楽しんで頂ければよいと。ぜひ考えてみて下さいと言われ、承って、寺田先生と前田さんに伝えておきますと応えておいたが、信用されたかどうかは分からない。それにしてもユニークな一計があるものだと感じた次第だ。
 川上には猿、大門、高三郎、見越、奈良、挙原等、歩いた残雪期の山々が見えている。

2010年4月2日金曜日

オーケストラの日に「ヤマカズ」こと山田和樹登場

 日本でも、沢山の方々にオーケストラに親しんでもらおう、またもっと身近に感じてもらおうと、その一手段として、誰が発案したのか、昨年から3月31日を、語呂読みで捩って「ミミにイチバン」と読んで、この日を「オーケストラの日」としたのだそうだ。この日は日本のプロフェッショナルなオーケストラの団体である(社)日本オーケストラ連盟傘下の30団体中27団体が、各地でそれぞれに趣向を凝らした公演を開催することになっている。石川県ではオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)が核となって、今年は石川県ジュニアオーケストラと金沢大学フィルハーモニー管弦楽団が共演する構図でこのイベントが実施された。この催しは前記のような主旨もあってか、入場料金は1000円と安く設定されている。でもそれでも席が埋まらないとの目論見もあってか、賛助会員と定期会員には招待券が振舞われた。大概この手の招待券は人気のある演目には出されないのが通例で、席を埋めて体面を保つために出されることが多い。私の手元には3枚届き、予感で何となく1枚を手元に残した。
 公演の当日は水曜日、平日だと午後7時開演が何となく定着しているので、6時半までに行けばいいと勝手に判断していた。音楽堂に入ったのはその1分前、先にトイレに入ろうとしたら、係員がホールへの入口の戸を順に閉めている。開演は7時じゃないのですかと聞くと、今日は6時30分に始まりますというではないか。トイレどころではない。1階は満席ですというから、2階へ急ぐ。2回もほぼ満席に近い状態、見れば3階はまだ空いている。席へ着くと、さらに遅れて隣に幼児連れの母親と姑、かなりヤンチャでうるさいガキ、この日は特別日で幼児もOKなのだろうかと訝る。通常は未就学児は入れないはずなのに、嫌な予感がする。
 第1部の前半は石川県ジュニアオーケストラの演奏、曲目は宮川彬良の松井秀喜の公式応援歌「栄光の道」、ドヴォルザークのスラブ舞曲第8番とチャイコフスキーの白鳥の湖からワルツの3曲。メンバーは小学校3年生から高校3年生というから、演奏はどうなるのだろうかと心配したが、思ってたよりはるかに良い出来なのに驚く。本当に指揮者の苦労が偲ばれる。指揮者は鈴木織衛さん、かなりの年輩、思うに以前探蕎会にも席を置かれたことのある故榊原栄さんの後任ではなかろうかと思う。ジュニアを指導される方というのは、何か子供に好かれる共通した性格というものがありそうだ。でもあそこまでまとめるというのは大変な努力だ。
 次いで金沢大学フィルハーモニー管弦楽団、定期演奏会も開いているが、義理で聴いたことはあるが、とても感慨に耽って観賞できる類の演奏ではない。この日の指揮者は指揮よりはバイオリンを弾いているのが好きという長尾枝里子さん、彼女の弁では前任者から中では最もマシだからと後任の指揮者に指名されたという。でも指揮法を正規に習ったわけではないのだから大変で、曲目がエルガーの行進曲「威風堂々」第1番とシュトラウス1世のラデツキー行進曲だったから、リズムとりだけしっかりとればよいので、どうにか切り抜けられたような感じた。学生で指揮者というのは酷なような気がする。でもよく健闘した。さて、例の隣りの幼児だが、常に何かを喋っていて、親がそれをたしなめるのに声高になり、周りの人たちの顰蹙をかっていた。私は二度ばかり静かにして下さいと言ったが、暫くしか効き目がなく、不愉快この上ない。でも後半の第2部には入場して来なかったので安堵した。
 前置きが長くなってしまった。20分の休憩の後は待望の山田和樹の登場、まさか彼が来るとは夢にも思っていなかったので、案内のチラシを見てビックリ。心底、聴きに来てよかったと思った。彼は以前に恩人の岩城宏之さんが亡くなった2006年に、岩城さんの代役でOEKを振ったのを聴いているが、あの時は若くて清新な印象を受けた。きっと岩城さんが指名されたのだろう。昨年彼は、若手指揮者コンクールでは最も長い歴史をもつフランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝している。このコンクールで優勝した大先輩には小沢征爾さん(1959)がいるが、それは50年も前のことですと演奏後に彼は語っていた。ほかにも優勝者には佐渡裕さん(1989)や下野竜也さん(2001)がいるが、タイプはそれぞれ違うものの、二人の指揮を見て聴いていると、凄いオーラを感じて引き込まれそうになる。さて、彼はどうだろうか。チューニングが終り、やや間をおいて、一見華奢に見える彼がステージに現れた。まだまだお若い。指揮する曲はベートーベンの交響曲第7番、演奏はOEK、スコアはなく暗譜、それだけ演奏に集中できるというものだ。全曲40分前後の演奏だが、実に素晴らしい指揮さばきで演奏が終わった。素晴らしい。惚れ惚れとした。若者の指揮は振りが大きくダイナミック、明快で的確、大胆でいて繊細、清々しいキレのあるベートーベンが聴けた。その上ベートーベンの曲に相応しい荘厳さまで伴っていた。この想いは私だけではなかったようで、終わっての拍手が凄かった。心酔した。
 最後のステージは三者合同の演奏、ステージ一杯になっての演奏、曲はチャイコフスキーの白鳥の湖から情景とチャルダーシュ、OEKが入っているからとは言うまい、彼の指揮は的確で、ともすれば乱れがあっても不思議ではない儀式としての演奏なのに、三者をうまくまとめ上げてしまう技術は並大抵のものではない。彼はまだ31歳、将来が実に楽しみだ。そして鳴り止まない拍手の嵐に応えて、アンコールにはラ・フォル・ジュルネにあやかって、メンデルスゾーンの付随音楽「真夏の夜の夢」から結婚行進曲、予め予定されていたのだろうけれど、大編成ならではの良さをうまく醸し出していた。これは指揮者によるところが多いと誰もが感じたであろう。
 演奏が済んでのインタビューで、素晴らしい演奏でしたねと司会者が言うと、僕は何もしていないので、もしそうだとすると、それは演奏された方々が素晴らしかったからですと。何とも憎らしいまでの落着いた殺し文句である。ブザンソンのコンクールに触れ、他のコンクールでは予選の絞込みはビデオでするのだけれど、ブザンソンではすべて本番でするとのこと。昨年は250人の応募があったけれど、1週間かけて先ず20人に絞り、さらに10人に、10人を6人に、6人を3人に、そして最終審査ということだった。朝は9時から、でもその日の結果が出るのは夜の10時半、毎日が大変だったという。中々過酷なコンクールである。それにしても喋りも実に爽やかで清々しい。

 「ヤマカズ」こと山田和樹は、金沢で5月3,4,5日に行われる音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」にはまた訪れるとか、またぜひ聴きたいものだ。5月3日は尚美ウインドオーケストラを、5月5日はOEKを振る予定だ。楽しみだ。