(承前)
「寄せ書きの続き」
★「木村さん♡ 本当に本当に お世話になりました。ありがとうございました。お身体に気を付けて!
また会いましょう♡」 S Y
★「木村さん〜 たいへんお世話になりました。いつも明るく・元気。木村さん、ありがとう。」 C O
★「木村さん。大変 お世話になりました。心より感謝しています。これからの人生も、もっと謳歌して 下さい。お疲れ様でした。」 N F
★『おつかれさまでした! 私のステキなお手本でした。有難う!」 Y Y
★「お世話になりました。お元気で。」 M O
★「感 謝」 T M
★「お元気で!」 J H
★「木村さん!! 私まだ嫁に行っていないんげんけどー!!! 娘のようにかわいがってもらって 本 当にありがとうございました。」 Y K
★「おつかれさまでした。自家焙煎のコーヒー 飲みにお立ち寄り下さい。ありがとうございました。」
T Y
★「木村さん おつかれさまでした。顔がみられなくなると淋しいですけど また顔を見せにきて下さ い。マッテマス。」 E A
★「いつも 素敵な 笑顔で♡ 元気を いただいてました。」 H H
★「”ありがとうございました。まだ実感がわかないケド。。その一言につきます!」 Y N
★「♡出逢いに感謝♡ 泣いたり、笑ったり…… かけがえのない時間を ありがとうございました。 いつまでも元気でいて下さいネ!!!」K D
閑話休題:舩木悦郎先生を想う
1.共に山へ出かけた想い出
先生は山歩きがお好きだった。開業される以前はどうだったのかは知らないが、開業されてからは、病院の職員を誘ってよく山へ出かけられていて、時に私にもお声がかかり、何度かご一緒した。金沢大学医学部には古くから山岳会があり、一方で白山や立山に診療所を開設し、山好きの連中が属していて、私も金沢大学の山岳部に籍をおいていたので、彼らとも交流はあったが、先生はこれらには所属されてはいなかったようだ。でも山好きだったことには間違いはなく、遠くボルネオのキナバル山にも行かれたということを聞いたことがある。ここでは私が先生や舩木病院の職員の方達と一緒に出かけた山々を思い出してみたい。いずれの山行も日帰りだった。思い出すままに書き出してみたい。
★赤兎山 (1629 m) 石川県白山市と福井県大野市との境にあり、福井では最も人気の山。白山国立公園内
★小白木峰 (1437 m) 富山県富山市と岐阜県飛騨市の境にある。頂上一帯には池塘が散在している。
★夜叉ヶ池山 (1212 m) 福井県南越前町と岐阜県揖斐川町の境にある。伝説に出てくる夜叉ヶ池の上。
★袴腰山 (1150 m) 富山県南砺市にある。山の下には東海北陸自動車道の袴腰トンネルが通っている。
★大門山 (1572 m) 石川県金沢市と富山県南砺市の境にある。加賀富士ともいわれる秀麗な山。
★冠山 (1257 m) 福井県池田町と岐阜県揖斐川町の境にある。特異な山貌。残したい日本の自然百選。
このような病院職員との山歩きが長じて、私は請われて数回にわたって白山などへ職員の方々を案内した。ある時、御来迎 (ブロッケン現象) に遭遇したことがあった。私は後立山連峰で何回か出くわしていたが、でも白山では初めて、連れの人達は大感激だった。
2.共に出かけたスキー行
先生はスキーもお好きだった。とりわけお上手ではなかったが、堅実な滑りで楽しんでおいでた。スキー行では、病院の職員のほかに、プロパの方達も参加されるのが常で、賑やかだった。
★朴の木平スキー場:私は都合2回参加した。宿は新平湯温泉のとある先生馴染みの温泉宿で、古い感じの宿だが、よく気心が知れていて、随分居心地がよかった。まだ平湯トンネルが開通しておらず、スキー場へは雪の平湯峠を越えて行った。宿でのスッポン鍋は実に豪快で美味しく秀逸だった。
★野沢温泉スキー場:1年前に予約しておかないと泊まれないという温泉宿、先生は毎年行かれているようだったが、一度ご一緒したことがある。その折、素晴らしいダイアモンドダストに出くわしたが、実に感動的だったことを思い出す。
★ダイナランドスキー場:両白山地の南端に位置する大日ヶ岳の山麓にあり、日帰りで出かけた。
3.釣り
先生はヘラブナ釣りに興味を持たれていて、よく出かけられていたようだ。でも私はご一緒したことはない。そんな折、いつか大きなスッポンを捕られ、拙宅へ持っておいでになったが、とても私には捌く能力などなく、それでどこかの料理屋に持って行かれたが、どうして捕まえられたのかは聞けず仕舞になった。無想の境地を愛される一面もあった先生だった。
4.写真
カメラは数台持っておいでて、先生が亡くなられた折、奥さんから形見に大判のカメラを頂いたが、私にはとても使いこなせず、そのままになっている。
2017年2月10日金曜日
2017年2月9日木曜日
家内が舩木病院を退職(その2)
「退職に当たっての職員皆さん方からの寄せ書き」
送別会の当日、職員皆さん方全員の寄せ書きの色紙を頂いた。了解を得て再掲する。
色紙中央の大きな丸枠に、家内の似顔絵と下に大きく「木村さんおつかれさまでした」の文字と当日の日付「2017.1.31」
「寄せ書き」左上から右下へ (順不同)
★「♡木村さんへ♡ おつかれ様でした。そして大変お世話になりました。木村さんの凛とした姿勢に いつも憧れていました。また ”喝" を入れに来て下さい。待ってます。」 J M
★「感謝しかないです。本当にありがとうございました。」 A T (事務長)
★「木村さん♡ 本当にいろいろと ありがとうございました。お体に気をつけて 無理をしないで下さ いネ。」 M H (看護師長)
★「一番つらかった時 一番お世話になりました。本当にありがとうございました。幸せです。」 C K
★「(あ) さいーって (リ) ュックサックの私にいつも (が)みがみ怒らせてしまったけど (と)っても 木村さんの気持ちを感じて (う)れしかったよ」 N K
★「いつも気にかけてくれて 本当にありがとうございました !! 感謝です!」 Y K
★「長い間 お疲れ様でした。いつも暖かい言葉ありがとうございました。心の支えになりました。これ からの人生は、木村さんだけのもの。木村さんらしく 楽しく送って下さい。体に呉々も気を付け て!!」 M H
★「いつもいる3F に木村さんがいないと淋しくて泣きそうです。温かい言葉をかけてもらい うれし
かったです。ありがとうございました。」 M S ♡
★「木村さん♡ ほんとにお世話になりありがとうございました。感謝しきれない思いでいっぱいです!
木村さん大好きです♡」 H T
★「長い間お疲れ様でした。いつも気にかけて下さり、本当にありがとうございました。いつまでもステ キな木村さんでいて下さいね。またマルエーで会えるといいな♡」 M I
★「木村さんへ♡ 長い間お疲れ様でした。大変お世話になりました。♫また会う日まで〜♪ ♪会える 時まで〜♫ ありがとうございます。」 Y A
★「♡木村さん♡ いままで本当にありがとうございました。いつも、はげましてくれたり、怒ってくれ たり……。そんな木村さん…感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう♡」 T I
★「木村さん。たくさん たくさん ありがとうございました。いつも木村さんの笑顔を見ると安心して いました。おつかれ様でした。」 K N
★「いろいろ仕事でお世話になり、ありがとうございました。いつまでもお元気で。」 K K
★「〜木村さん〜 長い間お疲れ様でした。言葉にできない程お世話になりました。(子供達も…)あり がとうございました。」 S M
★「きむちゃん〜♡ よ〜頑張った!! エライ!! すごい!! よ〜世話になった!! ありがと う!! 今後もどーぞよろしくお願いしますヨ♡♡」 H Y
★「本当にありがとうございました。お身体を大切に!」 K F (院長の母)
★「木村さん 淋しくなります!! いろんな事で アドバイスもらったり 背中を押してもらったり ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。ずっと元気でいて下さいネ。」 E M
★「木村さんへ。短い間でしたが ありがとうございました。長い間ご苦労様です。最後に お世話をお かけして 申し訳ありません。」 M K
★「ありがとうございました。」 K F (院長)
★「ずっとずっと 大好きです。ずっとずっと 元気でいて下さい!!」 M M
★「木村さん!! 短い間でしたが 大変お世話になりました。ありがとうございました。車の運転には 気をつけて下さいネ。」 T F (院長夫人)
★「木村さんへ、私の話をいつも親身になって聞いてくれて、時には厳しく接してくれてありがたかった です。お世話になりました。ありがとうございました。」 M F
★「木村さん♡ 長い間お疲れ様でした。いつもいつも優しく温かい言葉に支えられました。感謝の気持 ちでいっぱいです。ありがとうございました。大好きです♡」 K Y (続く)
送別会の当日、職員皆さん方全員の寄せ書きの色紙を頂いた。了解を得て再掲する。
色紙中央の大きな丸枠に、家内の似顔絵と下に大きく「木村さんおつかれさまでした」の文字と当日の日付「2017.1.31」
「寄せ書き」左上から右下へ (順不同)
★「♡木村さんへ♡ おつかれ様でした。そして大変お世話になりました。木村さんの凛とした姿勢に いつも憧れていました。また ”喝" を入れに来て下さい。待ってます。」 J M
★「感謝しかないです。本当にありがとうございました。」 A T (事務長)
★「木村さん♡ 本当にいろいろと ありがとうございました。お体に気をつけて 無理をしないで下さ いネ。」 M H (看護師長)
★「一番つらかった時 一番お世話になりました。本当にありがとうございました。幸せです。」 C K
★「(あ) さいーって (リ) ュックサックの私にいつも (が)みがみ怒らせてしまったけど (と)っても 木村さんの気持ちを感じて (う)れしかったよ」 N K
★「いつも気にかけてくれて 本当にありがとうございました !! 感謝です!」 Y K
★「長い間 お疲れ様でした。いつも暖かい言葉ありがとうございました。心の支えになりました。これ からの人生は、木村さんだけのもの。木村さんらしく 楽しく送って下さい。体に呉々も気を付け て!!」 M H
★「いつもいる3F に木村さんがいないと淋しくて泣きそうです。温かい言葉をかけてもらい うれし
かったです。ありがとうございました。」 M S ♡
★「木村さん♡ ほんとにお世話になりありがとうございました。感謝しきれない思いでいっぱいです!
木村さん大好きです♡」 H T
★「長い間お疲れ様でした。いつも気にかけて下さり、本当にありがとうございました。いつまでもステ キな木村さんでいて下さいね。またマルエーで会えるといいな♡」 M I
★「木村さんへ♡ 長い間お疲れ様でした。大変お世話になりました。♫また会う日まで〜♪ ♪会える 時まで〜♫ ありがとうございます。」 Y A
★「♡木村さん♡ いままで本当にありがとうございました。いつも、はげましてくれたり、怒ってくれ たり……。そんな木村さん…感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう♡」 T I
★「木村さん。たくさん たくさん ありがとうございました。いつも木村さんの笑顔を見ると安心して いました。おつかれ様でした。」 K N
★「いろいろ仕事でお世話になり、ありがとうございました。いつまでもお元気で。」 K K
★「〜木村さん〜 長い間お疲れ様でした。言葉にできない程お世話になりました。(子供達も…)あり がとうございました。」 S M
★「きむちゃん〜♡ よ〜頑張った!! エライ!! すごい!! よ〜世話になった!! ありがと う!! 今後もどーぞよろしくお願いしますヨ♡♡」 H Y
★「本当にありがとうございました。お身体を大切に!」 K F (院長の母)
★「木村さん 淋しくなります!! いろんな事で アドバイスもらったり 背中を押してもらったり ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。ずっと元気でいて下さいネ。」 E M
★「木村さんへ。短い間でしたが ありがとうございました。長い間ご苦労様です。最後に お世話をお かけして 申し訳ありません。」 M K
★「ありがとうございました。」 K F (院長)
★「ずっとずっと 大好きです。ずっとずっと 元気でいて下さい!!」 M M
★「木村さん!! 短い間でしたが 大変お世話になりました。ありがとうございました。車の運転には 気をつけて下さいネ。」 T F (院長夫人)
★「木村さんへ、私の話をいつも親身になって聞いてくれて、時には厳しく接してくれてありがたかった です。お世話になりました。ありがとうございました。」 M F
★「木村さん♡ 長い間お疲れ様でした。いつもいつも優しく温かい言葉に支えられました。感謝の気持 ちでいっぱいです。ありがとうございました。大好きです♡」 K Y (続く)
家内が舩木医院を退職(その1)
「はじめに」
家内が勤務していたのは、野々市市にある内科/外科を標榜する「舩木医院」である。家内はこの医療機関の創設時からのメンバーで、ほかにも数人いるが、年かさでは最年長である。家内は昨年11月には満75歳となり、以前から辞意をもらしていたが、先ずは後継者の育成を頼まれ、それに2年ばかりを要したようだ。職務は医療事務なのだが、その守備範囲は医療行為以外の諸々の分野にわたっていて、金銭・物品出納事務のほか、対税務署、対社会保険事務所、対保健所、対労働基準監督署への対応、加えて職員からの苦情相談などにも応ずるといった具合である。目処がたった以降も何度か辞意を表明したが、その度に慰留され続け、でも漸く院長先生から許可が下りて、退職できることになった。
「プロローグ」
この病院の開設者は舩木悦郎先生で、金沢大学医学部を卒業され、開設直前には金沢赤十字病院内科医長をされていた。私の父がずっと背の痛みを訴えていて、あちこちで診察を受けたが痛みの原因が分からず、その後日赤病院へ診察に訪れた時の担当が舩木先生で、その後先生の診断で、痛みの原因は肝臓がんからきていることを知らされた。当時私は石川県衛生公害研究所に勤務していて、日赤病院と隣り合わせだったこともあり、先生から急に呼び出され、その結果を知らされたことを思い出す。その時にはもう末期で、そのまま入院したが、そのf後程なくして父は他界した。
当時先生は野々市町に在住されていて、先生の奥さんはバドミントンの愛好者で、一方家内も好きだったこともあって気が合い、野々市町にママさんバドミントンクラブを創設させた。そんなこともあって、先生とは家族ぐるみでの付き合いをさせて頂いた。だから先生が野々市町で開業を決意されて以降、諸々の準備に家内もいろいろ手伝うことになった。そして昭和60年7月に「舩木内科外科病院」が開設された。院長は長男の先生で内科、次男さんは事務長、三男の先生 (金沢大学医学部卒) は副院長で外科担当、病床数45の病院の誕生である。私も開院の祝賀会に招かれたが、大変盛大だった。
その後病院は長男先生が他界されて、次男先生が院長になられた。その後次男先生も他界された後は、一時次男先生の奥さんの弟さん (金沢大学医学部卒) が院長をされたが、現在は次男先生の長男 (宮崎大学医学部卒) の方が院長をされている。この間名称は「舩木内科外科病院」から「舩木病院」、そして現在は病床数19の「舩木医院」として、爾来31年有余にわたって、地域医療に貢献してきた。そして家内は4代の院長先生の下で、病院事務に携わってきた。
「送別会は1月31日」
送別会は偶然か勤務最後の日に設定された。でも最後のご奉公と言うべきか、その日の午後に保健所の監査が入った。正に最後のご奉公となった。送別会は金沢市内のとあるレストランで行なわれ、全職員の6割ばかりの方達が出席されたとか、送別会でこれ程多くの方が出席されたのは初めてとか、大変嬉しいことである。それに非番でなかった方々、家庭の都合で出られなかった方々、また既に退職された方々で、後日改めて送別会を企画されているとか、何とも大変嬉しいことである。また3月下旬には、有志の方々が我が家へ押し寄せる計画もあるとか、これだけ皆さんに愛され慕われたということは、家内にとっては望外の喜びだったろう。私としても大変誇りに思っている。有難いことだ。
家内は退職に当たって、全従業員に心ばかりの品と、一人一人に想いを込めたメッセージを書いて渡したという。その内容は知らないが、多分心のこもった文だったのだろう。
また沢山の餞別の品々や花々を頂いた。送別会では25本の深紅の薔薇の花束を頂いたし、ほかにも色とりどりのストック百本もの花束とか、青・赤・ピンクの薔薇や黄色のシンビジュウムなどを組み合わせた花束とかを頂戴した。心から感謝している。
「送別会での挨拶」
家内は退職にあたって、盛大な送別会を催して頂いた折、会の最後に皆さんにお礼を述べた。家内からその原稿を見せてもらったので、ここに再掲する。
「退職に際しまして、一言ご挨拶申し上げます。今日この日を迎えるに当たって振り返って見ますと、悦郎先生、宏美先生、健一郎先生と三代にわたり31年もの長きにわたって勤務することが出来ましたのも、ひとえに本当に素晴らしいスタッフに恵まれたからと心から感謝いたしております。今日無事にこの日を迎えることが出来ましたのも、それは素晴らしくそして優しい皆さん方達と一緒に仕事が出来たからこそと思っております。そして今日は私のために、このように盛大な送別会を催して頂きまして、本当に有り難うございました」。
家内が勤務していたのは、野々市市にある内科/外科を標榜する「舩木医院」である。家内はこの医療機関の創設時からのメンバーで、ほかにも数人いるが、年かさでは最年長である。家内は昨年11月には満75歳となり、以前から辞意をもらしていたが、先ずは後継者の育成を頼まれ、それに2年ばかりを要したようだ。職務は医療事務なのだが、その守備範囲は医療行為以外の諸々の分野にわたっていて、金銭・物品出納事務のほか、対税務署、対社会保険事務所、対保健所、対労働基準監督署への対応、加えて職員からの苦情相談などにも応ずるといった具合である。目処がたった以降も何度か辞意を表明したが、その度に慰留され続け、でも漸く院長先生から許可が下りて、退職できることになった。
「プロローグ」
この病院の開設者は舩木悦郎先生で、金沢大学医学部を卒業され、開設直前には金沢赤十字病院内科医長をされていた。私の父がずっと背の痛みを訴えていて、あちこちで診察を受けたが痛みの原因が分からず、その後日赤病院へ診察に訪れた時の担当が舩木先生で、その後先生の診断で、痛みの原因は肝臓がんからきていることを知らされた。当時私は石川県衛生公害研究所に勤務していて、日赤病院と隣り合わせだったこともあり、先生から急に呼び出され、その結果を知らされたことを思い出す。その時にはもう末期で、そのまま入院したが、そのf後程なくして父は他界した。
当時先生は野々市町に在住されていて、先生の奥さんはバドミントンの愛好者で、一方家内も好きだったこともあって気が合い、野々市町にママさんバドミントンクラブを創設させた。そんなこともあって、先生とは家族ぐるみでの付き合いをさせて頂いた。だから先生が野々市町で開業を決意されて以降、諸々の準備に家内もいろいろ手伝うことになった。そして昭和60年7月に「舩木内科外科病院」が開設された。院長は長男の先生で内科、次男さんは事務長、三男の先生 (金沢大学医学部卒) は副院長で外科担当、病床数45の病院の誕生である。私も開院の祝賀会に招かれたが、大変盛大だった。
その後病院は長男先生が他界されて、次男先生が院長になられた。その後次男先生も他界された後は、一時次男先生の奥さんの弟さん (金沢大学医学部卒) が院長をされたが、現在は次男先生の長男 (宮崎大学医学部卒) の方が院長をされている。この間名称は「舩木内科外科病院」から「舩木病院」、そして現在は病床数19の「舩木医院」として、爾来31年有余にわたって、地域医療に貢献してきた。そして家内は4代の院長先生の下で、病院事務に携わってきた。
「送別会は1月31日」
送別会は偶然か勤務最後の日に設定された。でも最後のご奉公と言うべきか、その日の午後に保健所の監査が入った。正に最後のご奉公となった。送別会は金沢市内のとあるレストランで行なわれ、全職員の6割ばかりの方達が出席されたとか、送別会でこれ程多くの方が出席されたのは初めてとか、大変嬉しいことである。それに非番でなかった方々、家庭の都合で出られなかった方々、また既に退職された方々で、後日改めて送別会を企画されているとか、何とも大変嬉しいことである。また3月下旬には、有志の方々が我が家へ押し寄せる計画もあるとか、これだけ皆さんに愛され慕われたということは、家内にとっては望外の喜びだったろう。私としても大変誇りに思っている。有難いことだ。
家内は退職に当たって、全従業員に心ばかりの品と、一人一人に想いを込めたメッセージを書いて渡したという。その内容は知らないが、多分心のこもった文だったのだろう。
また沢山の餞別の品々や花々を頂いた。送別会では25本の深紅の薔薇の花束を頂いたし、ほかにも色とりどりのストック百本もの花束とか、青・赤・ピンクの薔薇や黄色のシンビジュウムなどを組み合わせた花束とかを頂戴した。心から感謝している。
「送別会での挨拶」
家内は退職にあたって、盛大な送別会を催して頂いた折、会の最後に皆さんにお礼を述べた。家内からその原稿を見せてもらったので、ここに再掲する。
「退職に際しまして、一言ご挨拶申し上げます。今日この日を迎えるに当たって振り返って見ますと、悦郎先生、宏美先生、健一郎先生と三代にわたり31年もの長きにわたって勤務することが出来ましたのも、ひとえに本当に素晴らしいスタッフに恵まれたからと心から感謝いたしております。今日無事にこの日を迎えることが出来ましたのも、それは素晴らしくそして優しい皆さん方達と一緒に仕事が出来たからこそと思っております。そして今日は私のために、このように盛大な送別会を催して頂きまして、本当に有り難うございました」。
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