このシーズン中このシリーズは10回あり、10回目の第379回定期公演は7月23日にあった。この回のテーマは「現代ヨーロッパの潮流 多才ヴィトマンの世界」。この日の立役者は、クラリネット奏者であり、作曲家であり、指揮者でもあるイェルク・ヴィトマン、現在フライブルク音楽院のクラリネット科の教授と作曲科の教授を兼任しているという。私にとっては初めて耳にする人だった。今日のプログラムはヴィトマンのクラリネット演奏が2曲、ヴィトマン作曲の小品が2曲、指揮が1曲という構成だった。
初めに演奏されたのはウェーバーの「クラリネット小協奏曲 変ホ長調 op.26」で、この曲は初演の後、バイエルン王の委嘱で作曲された2曲のクラリネット協奏曲の端緒となった曲とか、ヴィトマンは導入部こそ手振りで指揮をしたが、後は演奏に専念、コンサートマスターのヤングが曲をリードした。演奏はさすがクラリネットの名手と言われるだけあって、感動の演奏であった。
次いでヴィトマン作曲の「セイレーンの島 (1997)」。セイレーンとはギリシャ神話に出てくるあの上半身は女、下半身は鳥の姿をした海の魔物で、人魚伝説の原型とされている。オーケストラアンサンブル金沢のコンサートマスターのヤングの独奏ヴァイオリンと19の弦楽器による演奏、弦楽器の多様な奏法を高度に駆使した正に現代の弦楽曲で、ヤングのリードが実に素晴らしかった。この演奏にヴィトマンは指揮をせず、終わってヴィトマンがヤングに言葉をかけたのがすごく印象的だった。聴いて見て感激した演奏だった。
前半の最後はロッシーニの「クラリネットと管弦楽のための序奏、主題と変奏曲」、ロッシーニの数少ない器楽曲の一つで、この曲はとあるクラリネット奏者から依頼を受けて作られたという小品で、この曲でのヴィトマンのクラリネット演奏は、さながらオペラやバレーでの主役のような役割をしていて、序奏から主題の提示、そして5つの変奏を順に駆け巡る華やかな構成で、ここでも曲はヤングがリードしていた。
休憩を挟んで、初めにヴィトマン作曲の「180ビーツ・パー・ミニット (1993)」という弦楽六重奏曲、構成はヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ3で、1分間180拍という激しさ、しかも拍子が目まぐるしく変わるという難曲。演奏が終わってヴィトマンはヤングと抱き合っていたが、よくぞこなしたという印象、聴衆の拍手が凄かった。
最後はメンデルスゾーンの「交響曲第1番ハ短調 op.11」、この曲はメンデルスゾーンが12歳から14歳にかけて作曲した12曲の「弦楽のための交響曲」に続いて15歳の時に作曲され、当初は13番とされていたが、出版時に「交響曲第1番」とされた経緯がある。ヴィトマンの指揮に初めて接したが、情熱的で的確な指揮は聴衆を魅了した。拍手が鳴り止まない素晴らしい名指揮だった。
次の新しいシーズンは2016年9月から始まる。
2016年7月25日月曜日
オーケストラアンサンブル金沢の今シーズン (2015ー2016) 最後の公演(1)
1.マイスターシリーズ「ショパンと友人たち」
シーズン中にこのシリーズは5回あり、第1回は昨年の10月24日、最終の第5回は今年の7月16日の第379回定期公演だった。今回のシリーズのテーマは「ショパンと友人たち」、この日はショパンのオーケストラ付ピアノ曲として ピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21 、それにメンデルスゾーンの 交響曲第3番イ短調「スコットランド」op.56 が演奏された。ほかに現代ポーランドの新進作曲家キラールの「オラヴァ (1988)」という弦楽オーケストラのための作品、そして嬉しいことに、前回の演奏会で演奏者急病でキャンセルとなったショパンの管弦楽付ピアノ曲の「ポーランドの歌による幻想曲 op.13」が追加演奏された。指揮をした井上道義 OEK 音楽監督の言によれば、再演の要望が非常に強く、この日のピアノ奏者の北村朋幹(ともき)さんの了解もあって実現したとかだった。北村さんはまだ弱冠34歳、現在ベルリン芸術大学に在学中の新進気鋭のピアニストである。
初めにショパンの「ポーランドの歌による幻想曲」、この曲はこの後に演奏されたピアノ協奏曲第2番のワルシャワでの初演 (1930年3月) の際に初めて演奏されたという曲である。演奏に先だって、門田 宇 (たかし) さんによるナレーションがあり、それは暗くて果てしないポーランドの原野を印象づけるような語りだった。その後暫く時間をおいてから、曲はオーケストラのゆっくりとした序奏から始まった。第1部はポーランドの民謡に、第2部はポーランドのとある作曲家の旋律に修飾、第3部はポーランドの民族舞踊を主題にしたもので、華やかな独奏ピアノを管弦楽が装飾し、序奏、第1部、第2部、第3部と進むにつれ、ピアノは静から動へと華やかに躍動する様は凄く、満席の聴衆に感動を与えた1曲だった。追加の演奏だったのにこの迫力、要望が強かったのが頷ける会心の演奏だった。
次いでキラールの「オラヴァ」、弦楽器パートのみ15人での演奏、オラヴァとは川の名だそうだが、演奏は民族音楽風な感じの簡潔なリズムの反復と、次第にだんだん強くなる力強い推進力が身体に直に感じられるような凄い音楽だった。
そして本命のショパンのピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21、作曲も初演も第1番よりも先だったという
ことはよく知られている事実で、2曲あるピアノ協奏曲のうち出版が後だったということで第2番になっている。第1番、第2番共によく演奏されるが、この日の若い北村さんの華麗な旋律は聴衆を惹き付けた。
最後にメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」op.56、第4番「イタリア」と共につとに有名である。井上道義の華麗な全身を駆使した指揮ぶりには圧倒された。
シーズン中にこのシリーズは5回あり、第1回は昨年の10月24日、最終の第5回は今年の7月16日の第379回定期公演だった。今回のシリーズのテーマは「ショパンと友人たち」、この日はショパンのオーケストラ付ピアノ曲として ピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21 、それにメンデルスゾーンの 交響曲第3番イ短調「スコットランド」op.56 が演奏された。ほかに現代ポーランドの新進作曲家キラールの「オラヴァ (1988)」という弦楽オーケストラのための作品、そして嬉しいことに、前回の演奏会で演奏者急病でキャンセルとなったショパンの管弦楽付ピアノ曲の「ポーランドの歌による幻想曲 op.13」が追加演奏された。指揮をした井上道義 OEK 音楽監督の言によれば、再演の要望が非常に強く、この日のピアノ奏者の北村朋幹(ともき)さんの了解もあって実現したとかだった。北村さんはまだ弱冠34歳、現在ベルリン芸術大学に在学中の新進気鋭のピアニストである。
初めにショパンの「ポーランドの歌による幻想曲」、この曲はこの後に演奏されたピアノ協奏曲第2番のワルシャワでの初演 (1930年3月) の際に初めて演奏されたという曲である。演奏に先だって、門田 宇 (たかし) さんによるナレーションがあり、それは暗くて果てしないポーランドの原野を印象づけるような語りだった。その後暫く時間をおいてから、曲はオーケストラのゆっくりとした序奏から始まった。第1部はポーランドの民謡に、第2部はポーランドのとある作曲家の旋律に修飾、第3部はポーランドの民族舞踊を主題にしたもので、華やかな独奏ピアノを管弦楽が装飾し、序奏、第1部、第2部、第3部と進むにつれ、ピアノは静から動へと華やかに躍動する様は凄く、満席の聴衆に感動を与えた1曲だった。追加の演奏だったのにこの迫力、要望が強かったのが頷ける会心の演奏だった。
次いでキラールの「オラヴァ」、弦楽器パートのみ15人での演奏、オラヴァとは川の名だそうだが、演奏は民族音楽風な感じの簡潔なリズムの反復と、次第にだんだん強くなる力強い推進力が身体に直に感じられるような凄い音楽だった。
そして本命のショパンのピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21、作曲も初演も第1番よりも先だったという
ことはよく知られている事実で、2曲あるピアノ協奏曲のうち出版が後だったということで第2番になっている。第1番、第2番共によく演奏されるが、この日の若い北村さんの華麗な旋律は聴衆を惹き付けた。
最後にメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」op.56、第4番「イタリア」と共につとに有名である。井上道義の華麗な全身を駆使した指揮ぶりには圧倒された。
2016年7月9日土曜日
本家吉田家のお墓が野々市にあることを知る
7月2日の午前10時頃、突然電話があり、「京都の吉田ですが、お昼少し前に木村さんのお宅へお寄りしたいのですが、宜しいでしょうか」とのこと。私は特にお断りする理由もないので、「お待ちしております」と返事した。京都には私が年賀状を差し出している吉田さんという家が3軒あり、お電話頂いた吉田さんはどの吉田さんなのだろうかと思案したりしていた。先の電話では、「タクシーを待たせてお寄りするので、時間は取らせませんから」とも話されていた。
11時過ぎ、吉田さんと言われる上品な女の方と身体が大きな息子さんと思われる方とが見えられた。「タクシーを待たせておりますので、玄関先でご挨拶だけ」と言われ、それで私もそれに甘んじて応対させてもらった。そして驚いたのは、「今日は吉田の家のお墓にお参りに来たので、木村さんのお宅にも寄らせて頂きました」とのこと。吉田家の墓が野々市にあることは知っていたが、これまで私が吉田のお墓にお参りしたことは一度もない。年寄りから野々市の旧中町の墓地に吉田家の墓があるとは聞いてはいたものの、場所がどこなのか、どんなお墓なのかは知らず、それでこれまで気にしたこともなかった。だから突然来られて、お墓参りに来ましたと言われても、驚いて全く応対のしようがなかった。それで「いつか人伝に、吉田さんのお墓は京都の方に移されたとお窺いしましたが」と言うと、「いえ、私の主人からは、亡くなったら野々市のお墓に埋葬して欲しいと言われていましたので、お骨は野々市のお墓に納めました。またその際に墓碑も新しくしました」とのこと、私にとっては全く寝耳に水のこととて、赤面してしまった。「そうとは知らずに、大変失礼をいたしました」とお詫びをした。玄関先での数分の会話だったが、その時に後でぜひ吉田さんのお墓へ行って来なければと思った。吉田さんからは、手土産に京都の宇治茶のラスクを頂戴した。
いつかまだ私の弟が存命中に、一度旧中町の墓地に案内されて、これが吉田のお墓だと紹介されたことがあるが、それは本当に小さなお墓だったので、その後吉田のお墓が京都に移されたと聞いた時は、さもありなんと合点していた。それでその日の夕方に、家内は知っているというので、案内してもらったが、吉田家のお墓は大変立派なので驚いた。現在吉田さんの御一族は皆さん京都に住んでおいでだが、これほどの大きなお墓を移すのは容易ではないと思った。
お墓の土台は、間口 250 cm、奥行 190 cm、高さ 52 cm で、その中央に5段組の高さ 180 cm の「吉田家累代之墓」が建っており、正面には「丸に州浜」の家紋が刻まれている。そして右面には昭和九年八月建之とあり、左面には、吉田亀次郎、吉田規一、澤田 冬、南 壽美と4人の名が、おそらくこの4人の兄弟姉妹が建立したのだろう。亀次郎さんも規一さんも、木村の家に来られたのを私は子供心に覚えている。そして左側には2段積みの高さ 82 cm のお墓があり、正面には南无阿弥陀仏の文字、左面には木屋五左衛門、右面には弘化二年七月とあった。木屋というのは吉田家の屋号で、私の家の先祖の五右衛門も吉田家から分家して木屋五右衛門と名乗っていて、明治維新以後に木村姓を名乗るようになったと聞いている。また我が家の家紋も「丸に州浜」で、これも主家の家紋と同じである。
お墓の右端には新しい墓碑 (法名板) があり、3名の法名と名前と没年齢、それに没年月日が記してあった。それには右から順に、香譽梅薫禅定尼 梅野 八十一歳 昭和三十八年二月二十二日、法譽浄規禅定門 規一 五十二歳 昭和四十三年十月十日、壽楽優道信士 壽雄 六十六歳 平成十二年三月
二十一日、と記してある。
壽雄さんは規一さんの長男で、もし今存命ならば 82 歳、私と同年代である。身体の大きな方で、一時相撲部屋に居たことがあったが、修業が厳しくて挫折し、一時木村の家に逗留していたことがあるので覚えている。今思うに、お墓参りにおいでた方は、壽雄さんの奥さんと息子さんだったのだろう。後日出したお礼の手紙には、旧盆にはお参りさせて頂きますと書き記した。
本家の吉田家がいつ頃からいつ頃まで野々市においでたのかは知らないが、野々市には吉田の姓を名乗る家が何軒もあり、皆親戚同士だと聞いたことがある。本家はかなり以前から吉田の姓を名乗っていたが、分家は屋号で呼んでいたろうし、明治以降に吉田姓を名乗ったのだろう。因みに私の先祖は吉田でなく木村を名乗ったが、旧野々市村で木村を名乗ったのは私の家と今は絶えた分家だけである。
今年の旧盆にはぜひ吉田家のお墓にお参りしたいと思っているが、ほかにどんな方がお参りされるのか、興味が持たれる。もし縁者の方が近くにおいでれば、お参りされると思うのだが、どうだろうか。旧盆が待たれる。
11時過ぎ、吉田さんと言われる上品な女の方と身体が大きな息子さんと思われる方とが見えられた。「タクシーを待たせておりますので、玄関先でご挨拶だけ」と言われ、それで私もそれに甘んじて応対させてもらった。そして驚いたのは、「今日は吉田の家のお墓にお参りに来たので、木村さんのお宅にも寄らせて頂きました」とのこと。吉田家の墓が野々市にあることは知っていたが、これまで私が吉田のお墓にお参りしたことは一度もない。年寄りから野々市の旧中町の墓地に吉田家の墓があるとは聞いてはいたものの、場所がどこなのか、どんなお墓なのかは知らず、それでこれまで気にしたこともなかった。だから突然来られて、お墓参りに来ましたと言われても、驚いて全く応対のしようがなかった。それで「いつか人伝に、吉田さんのお墓は京都の方に移されたとお窺いしましたが」と言うと、「いえ、私の主人からは、亡くなったら野々市のお墓に埋葬して欲しいと言われていましたので、お骨は野々市のお墓に納めました。またその際に墓碑も新しくしました」とのこと、私にとっては全く寝耳に水のこととて、赤面してしまった。「そうとは知らずに、大変失礼をいたしました」とお詫びをした。玄関先での数分の会話だったが、その時に後でぜひ吉田さんのお墓へ行って来なければと思った。吉田さんからは、手土産に京都の宇治茶のラスクを頂戴した。
いつかまだ私の弟が存命中に、一度旧中町の墓地に案内されて、これが吉田のお墓だと紹介されたことがあるが、それは本当に小さなお墓だったので、その後吉田のお墓が京都に移されたと聞いた時は、さもありなんと合点していた。それでその日の夕方に、家内は知っているというので、案内してもらったが、吉田家のお墓は大変立派なので驚いた。現在吉田さんの御一族は皆さん京都に住んでおいでだが、これほどの大きなお墓を移すのは容易ではないと思った。
お墓の土台は、間口 250 cm、奥行 190 cm、高さ 52 cm で、その中央に5段組の高さ 180 cm の「吉田家累代之墓」が建っており、正面には「丸に州浜」の家紋が刻まれている。そして右面には昭和九年八月建之とあり、左面には、吉田亀次郎、吉田規一、澤田 冬、南 壽美と4人の名が、おそらくこの4人の兄弟姉妹が建立したのだろう。亀次郎さんも規一さんも、木村の家に来られたのを私は子供心に覚えている。そして左側には2段積みの高さ 82 cm のお墓があり、正面には南无阿弥陀仏の文字、左面には木屋五左衛門、右面には弘化二年七月とあった。木屋というのは吉田家の屋号で、私の家の先祖の五右衛門も吉田家から分家して木屋五右衛門と名乗っていて、明治維新以後に木村姓を名乗るようになったと聞いている。また我が家の家紋も「丸に州浜」で、これも主家の家紋と同じである。
お墓の右端には新しい墓碑 (法名板) があり、3名の法名と名前と没年齢、それに没年月日が記してあった。それには右から順に、香譽梅薫禅定尼 梅野 八十一歳 昭和三十八年二月二十二日、法譽浄規禅定門 規一 五十二歳 昭和四十三年十月十日、壽楽優道信士 壽雄 六十六歳 平成十二年三月
二十一日、と記してある。
壽雄さんは規一さんの長男で、もし今存命ならば 82 歳、私と同年代である。身体の大きな方で、一時相撲部屋に居たことがあったが、修業が厳しくて挫折し、一時木村の家に逗留していたことがあるので覚えている。今思うに、お墓参りにおいでた方は、壽雄さんの奥さんと息子さんだったのだろう。後日出したお礼の手紙には、旧盆にはお参りさせて頂きますと書き記した。
本家の吉田家がいつ頃からいつ頃まで野々市においでたのかは知らないが、野々市には吉田の姓を名乗る家が何軒もあり、皆親戚同士だと聞いたことがある。本家はかなり以前から吉田の姓を名乗っていたが、分家は屋号で呼んでいたろうし、明治以降に吉田姓を名乗ったのだろう。因みに私の先祖は吉田でなく木村を名乗ったが、旧野々市村で木村を名乗ったのは私の家と今は絶えた分家だけである。
今年の旧盆にはぜひ吉田家のお墓にお参りしたいと思っているが、ほかにどんな方がお参りされるのか、興味が持たれる。もし縁者の方が近くにおいでれば、お参りされると思うのだが、どうだろうか。旧盆が待たれる。
登録:
投稿 (Atom)