10.子うし会同窓の U 君の他界
5月24日に小学・中学の同窓生の会の「子うし会」で、会員全員が数え80歳になった今年、会を一旦解散するに当たって、これまでに亡くなった15名の物故者法要をすることにして、参加者を募った。現在連絡が可能な人は男14人と女21人、ただ連絡不能な人が男に3人いる。それで法要に参加すると連絡があったのは、男8人と女9人だった。参加できないという方の表向きの理由は、真偽はともかく、身体が不自由でというのが理由だった。でも意外だったのは、トラックでの事故で下半身不随になった U 君が、家でも車椅子を使って生活しているのに、ぜひ出たいという申し出があったことだ。ところが5月20日になって、奥さんから急に体調を悪くして法要に出られなくなりましたと電話で連絡が入った。私からは、永い間会っていないので会うのを楽しみにしていましたが、でも養生第一、どうぞお大事になさって下さいと話して電話を切った。
ところが翌21日の昼下がり、U 君の妹で、平成6年に他界した N 君の奥さんが拙宅に訪ねて来られて、兄は急に心不全で亡くなりましたとのこと、驚いて声も出なかった。U 君も N 君も私と同じく泉丘7期、奥さんでは今年は主人の二十三回忌ですとのこと、随分と月日の経つのは早いものだ。それで U 君のお通夜は22日、葬儀は23日と告げられた。明朝の新聞には死亡案内が出ると思いますとのこと、それで特に私からは皆さんに案内はしないことにしたが、法要を行う野々市の昭臺寺には物故者が1人追加になりましたとお知らせした。因みに亡くなった U 君の奥さんは、先に亡くなった N 君の妹である。
11.探蕎会の会員そば打ち
恒例の会員そば打ちには、事務局の前田さんからのメールでは、今年は24名の参加とか。連絡では私は和泉さんの車に便乗しての湯涌入り、でもそば打ちをする和泉さんは午前10時までに会場へ到着とのこと、私は朝9時の出立は困難だったので、往きは家内に送ってもらい、帰りは和泉車に便乗させてもらうことにした。朝用事を済ませて、私がみどりの里の会場に着いたのは10時半過ぎだった。 建家に入って驚いたのは、和泉さんが夫婦共々そば打ちに挑戦されていたこと、昨年は奥さんが挑戦されていたが、今年は夫婦での挑戦、聞けば和泉さん宅ではそば打ちに小屋まで建てられ、そば打ちはプロ級という道下さん夫妻の直々の指南を受けておいでとか、恐れ入った。好きこそものの上手なれというから、先ずは好きになることが先決なのであろう。
時間になり寺田会長からの挨拶の後、塚野さんから、蕎麦は長野県産で、そばは塚野さんと道下さん夫妻の手打ちによる、十割・外一・二八の三種、付き出しは、今日は欠席の新田さん手製の「きゃらぶき」「こんにゃくのきんぴら」「蕨の煮浸し」と漬物(胡瓜の山葵醤油漬けと辛子醤油漬け)、お土産のデザートにはやはり欠席の石野さん手製の福井県産蕎麦粉入りの「シフォンケーキ」と「蕎麦羊羹」がありますと紹介があった。また早川さんからは恒例となっている先生手製の「縮緬山椒」の紹介、今年は例年より1ヵ月早かったので新しい山椒の実がまだ実ってなくて、実は去年のものを使用しましたと説明があった。この品は毎年楽しみにしている一品である。更に道下さんからはダッタン蕎麦茶を使用した蕎麦ご飯の話もあった。今年は久保さんが逝かれて、定番だった「ぜんざい」はない。
説明が終わって「鄙願」2本の登場、私にとっては1年ぶりである。これほどクセのない酒も珍しい。正に「美味しい水」である。でも今晩は急逝した U 君のお通夜があるので酔っぱらうわけにはゆかない。お酒が出た後、待望の「そば」が届いた。一番初めに頂いた細打ちのそばは実に美味しかった。その後もう2回そばが配られたが、どれがどれと限定はできないものの、何となく感じた思いでは、最後に出たそばが一番あっさりしていたように感じた。こうして今年も楽しい一時を過ごすことができた。帰りには蕎麦羊羹とシフォンケーキ、それに縮緬山椒をお土産に頂いた。お世話された方々に心から感謝します。
12.U 君のお通夜
お通夜の式場は金沢市泉丘にあるセレモニーホール、U 君と義兄弟の N 君の22年前の式場もこのホールだった。私位の歳になると、皆さん新聞の死亡案内には必ず目を通していると仰るが、出る出ないはその方の自由である。子うし会同窓生の住所を見ると、現在金沢市に住んでいるのが男1人女7人、野々市市在住が男5人女9人いるが、これまで通夜や葬儀に出席した人は多くて7人、しかも顔ぶれはほぼ同じ、今回は私のほか女性3人が出席した。また私は過去同窓生の葬儀で3回弔辞を述べたが、今回は過去20年以上も顔を合わせていないこともあって、申し出しなかった。U 君の細君で故 N 君の妹や、姉で石川巨樹の会の役員をされている T さんとも久しぶりにお会いできた。これもご縁であろう。合掌。
2016年5月28日土曜日
2016年5月27日金曜日
平成28年5月のあれこれ(その2)
4.5月6日に田植え
今私の家では250歩田1枚のみ稲の作付けをしている。とはいっても全面委託、私がするのは水回りのみである。以前友人に委託していた時は、田植えの時には動員させられたものだが、今は全くのお任せである。ただ稲刈りまでの水管理は任される。大概朝と夕の2回見回る。少なくとも苗が活着するまでの1週間は特に気を遣う。程々の水深を保つのが肝要だからである。
5.故三男(西往院)の七回忌法要
祥月命日は5月9日だが、法要は8日の日曜日の午前11時に三男の家で行なうことにした。長男家族も細君と次女が出席、それに次男家族と私たち夫婦が出席した。長男家族は8日の午後一番で帰浜するというので、前日の7日の夕方に、次男の世話で、駅西の中華料理屋で4家族が一同に会して宴を張った。そして長男の次女の大学入学と次男の長女の中学入学の祝いも兼ねて行なった。祝い宴とあって私は少々飲み過ぎて、家内から目玉をくった。
8日の法要は午前11時から、長男家族は法要の後、新幹線で帰るので、朝に三男の墓参りを済ませた。墓前では私が読経した。七回忌法要の導師は、私の家の檀那寺の浄土宗佛海山法舩寺のお住職、法要は1時間ばかり、終えて次男と三男の家族と再び墓参りした。次の回向は十三回忌、私はそれまで元気で居られるかどうかの自信はなく、それで今回の供養などに要した諸費用は私たちが負担することにした。
6.右目が後発性白内障になり眼科受診
1ヵ月位前から右目にうっすらと霞がかかったような具合になり、5月12日に1年半ぶりに野々市にある若林眼科へ出かけた。1年半前には左目の白内障を手術で治療して明るくなったが、10年前に黄斑変性の手術の折に同時に行なった白内障の手術をした右目が、明るさは良好だが、少し霞んだような状況になったからである。診察の結果、レーザーでのパルス照射をしましょうとのこと、半信半疑だ
ったが、アトロピンによる瞳孔散大が完全に終息した夕方には、嘘のように視界が明るくキラキラとなったのには感激した。
7.次男が新宅へ引越し
次男がこれまで住んでいたのは借家で、私の希望では、野々市に土地があるので、新宅を建てるのであれば野々市にと思っていたが、金沢へ移ってからの近所との付き合い、スポーツ仲間との交流、子供の通学等々で、今住んでいる近くで新宅を建築することになった。建ち前をしてから3ヵ月後、50坪ばかりの土地にモダンな家が出来上がった。現在住んでいる家は5月15日が期限なので、14日と翌15日の2日間での引っ越し、今の家と新宅とは近くだが、それでも引っ越しは大仕事だ。家内は2日とも手伝いに出かけたが、かなりダンシャリが必要だったようだ。家内も捨てるのは勿体ないと、家に持ち込んだ物もある。私の家にもまだ次男の所有物がかなりの量置かれたままになっている。
8.OEK 北陸新人登竜門コンサート
古くは石川県人もしくは石川県に在住している人を対象にしていたが、7年目からは対象が北陸3県となり、今年は20年目になる。部門は、ピアノ、弦楽器、管・打楽器と声楽の3部門が毎年順に開催され、今年は管・打楽器と声楽部門だった。今年選ばれたのは、ソプラノの中宮さん、サクソフォンの小川さん、ティンパニの伊藤さんで、5月15日の日曜日に、0EK 音楽監督の井上さんの指揮で披露があった。私が特に興味を持ったのは伊藤さんの演奏によるラバンサーのティンパニ協奏曲「OBI」で、ティンパニ奏者をソリストとする曲などこれまで聴いたことがなかったので、特別な興味を抱いたわけだ。5台のティンパニを縦横に操りながらの曲芸的ともいえる妙技、初めての経験だった。
9.第376回 OEK 定期公演 マイスターシリーズ
5月21日午後2時に、このシリーズのテーマ「ショパンと友人たち」の4回目の公演があった。今回の友人はシューマンとメンデルスゾーン、曲は前者のピアノ協奏曲と後者は劇付随音楽「夏の夜の夢」から4曲、ほかにはサティの「3つのジムノペティ」からドビュッシーが管弦楽用に編曲した1番と3番、そしてショパンは「ポーランドの歌による幻想曲」という予定だった。ところがピアノ奏者の菊池裕介氏が公演前日に体調を崩され、急遽彼の先輩である若林顕氏が代理で演奏することになった。ところが演奏予定のショパンのピアノ曲は過去に弾いた経験がないと弾きこなせない代物、それでこの曲は割愛になってしまった。何とも残念だったが、こればかりはどうしようもない。でもシューマンのピアノ協奏曲は素晴らしかった。指揮はベルギーのフランダース交響楽団の首席指揮者を務めるジャン・レイサム=ケーニック氏、OEK の指揮は2度目、巧みな指揮ぶりとメリハリのある演奏は聴衆を魅了した。度々来日して客演指揮しているという。
今私の家では250歩田1枚のみ稲の作付けをしている。とはいっても全面委託、私がするのは水回りのみである。以前友人に委託していた時は、田植えの時には動員させられたものだが、今は全くのお任せである。ただ稲刈りまでの水管理は任される。大概朝と夕の2回見回る。少なくとも苗が活着するまでの1週間は特に気を遣う。程々の水深を保つのが肝要だからである。
5.故三男(西往院)の七回忌法要
祥月命日は5月9日だが、法要は8日の日曜日の午前11時に三男の家で行なうことにした。長男家族も細君と次女が出席、それに次男家族と私たち夫婦が出席した。長男家族は8日の午後一番で帰浜するというので、前日の7日の夕方に、次男の世話で、駅西の中華料理屋で4家族が一同に会して宴を張った。そして長男の次女の大学入学と次男の長女の中学入学の祝いも兼ねて行なった。祝い宴とあって私は少々飲み過ぎて、家内から目玉をくった。
8日の法要は午前11時から、長男家族は法要の後、新幹線で帰るので、朝に三男の墓参りを済ませた。墓前では私が読経した。七回忌法要の導師は、私の家の檀那寺の浄土宗佛海山法舩寺のお住職、法要は1時間ばかり、終えて次男と三男の家族と再び墓参りした。次の回向は十三回忌、私はそれまで元気で居られるかどうかの自信はなく、それで今回の供養などに要した諸費用は私たちが負担することにした。
6.右目が後発性白内障になり眼科受診
1ヵ月位前から右目にうっすらと霞がかかったような具合になり、5月12日に1年半ぶりに野々市にある若林眼科へ出かけた。1年半前には左目の白内障を手術で治療して明るくなったが、10年前に黄斑変性の手術の折に同時に行なった白内障の手術をした右目が、明るさは良好だが、少し霞んだような状況になったからである。診察の結果、レーザーでのパルス照射をしましょうとのこと、半信半疑だ
ったが、アトロピンによる瞳孔散大が完全に終息した夕方には、嘘のように視界が明るくキラキラとなったのには感激した。
7.次男が新宅へ引越し
次男がこれまで住んでいたのは借家で、私の希望では、野々市に土地があるので、新宅を建てるのであれば野々市にと思っていたが、金沢へ移ってからの近所との付き合い、スポーツ仲間との交流、子供の通学等々で、今住んでいる近くで新宅を建築することになった。建ち前をしてから3ヵ月後、50坪ばかりの土地にモダンな家が出来上がった。現在住んでいる家は5月15日が期限なので、14日と翌15日の2日間での引っ越し、今の家と新宅とは近くだが、それでも引っ越しは大仕事だ。家内は2日とも手伝いに出かけたが、かなりダンシャリが必要だったようだ。家内も捨てるのは勿体ないと、家に持ち込んだ物もある。私の家にもまだ次男の所有物がかなりの量置かれたままになっている。
8.OEK 北陸新人登竜門コンサート
古くは石川県人もしくは石川県に在住している人を対象にしていたが、7年目からは対象が北陸3県となり、今年は20年目になる。部門は、ピアノ、弦楽器、管・打楽器と声楽の3部門が毎年順に開催され、今年は管・打楽器と声楽部門だった。今年選ばれたのは、ソプラノの中宮さん、サクソフォンの小川さん、ティンパニの伊藤さんで、5月15日の日曜日に、0EK 音楽監督の井上さんの指揮で披露があった。私が特に興味を持ったのは伊藤さんの演奏によるラバンサーのティンパニ協奏曲「OBI」で、ティンパニ奏者をソリストとする曲などこれまで聴いたことがなかったので、特別な興味を抱いたわけだ。5台のティンパニを縦横に操りながらの曲芸的ともいえる妙技、初めての経験だった。
9.第376回 OEK 定期公演 マイスターシリーズ
5月21日午後2時に、このシリーズのテーマ「ショパンと友人たち」の4回目の公演があった。今回の友人はシューマンとメンデルスゾーン、曲は前者のピアノ協奏曲と後者は劇付随音楽「夏の夜の夢」から4曲、ほかにはサティの「3つのジムノペティ」からドビュッシーが管弦楽用に編曲した1番と3番、そしてショパンは「ポーランドの歌による幻想曲」という予定だった。ところがピアノ奏者の菊池裕介氏が公演前日に体調を崩され、急遽彼の先輩である若林顕氏が代理で演奏することになった。ところが演奏予定のショパンのピアノ曲は過去に弾いた経験がないと弾きこなせない代物、それでこの曲は割愛になってしまった。何とも残念だったが、こればかりはどうしようもない。でもシューマンのピアノ協奏曲は素晴らしかった。指揮はベルギーのフランダース交響楽団の首席指揮者を務めるジャン・レイサム=ケーニック氏、OEK の指揮は2度目、巧みな指揮ぶりとメリハリのある演奏は聴衆を魅了した。度々来日して客演指揮しているという。
2016年5月23日月曜日
平成28年5月のあれこれ(その1)
私のブログの「晋亮の呟き」に5月は一度の書き込みもなく、それで何か書かねばという思いに急かされ、思いつくまま日記風に記すことにした。
1.長男の帰郷と周遊と帰浜
長男は仕事の関係で横浜に住んでいるが、旧盆と正月、それに5月の連休には野々市の実家に帰ってくる。今年は自分で車を運転し、4月29日の昭和の日に長男のみが帰郷した。昼は旧友とのゴルフ、夜は友人との飲みで日程は詰まっているが、でも希望で次男や三男一家を呼んでの会を帰郷した翌日の4月30日に、また帰浜する前日の5月3日にもお別れ会を家で催した。また長男は帰郷した折には、決まって私たちと何処かへ出かけることにしていて、今年は5月1日にどこか富山方面へ行きたいと希望していた。でも特に行きたい場所の指定はないとのことで、昨年は氷見へ出かけたことでもあり、今回は能登島の水族館へ出向くことにした。
のと里山海道を徳田大津 JCT まで行き、能越自動車道の和倉 IC から能登島大橋を渡り、のとじま水族館へ行った。天気は良く、日曜でもあり、かなりの人出だった。この水族館の目玉は近海で捕獲された2頭のジンベエザメ、前に居たのは余りにも大きくなり過ぎ、海へ放したとのことだったが、それでも今いる大きい方は体長4mもあり圧巻である。この鮫はおとなしくて、餌は訓練で呼び寄せて口の中に入れてやるそうで、そうしないと他の魚に餌を取られてしまうとか、鮫にも人にも並々ならぬ苦労があるというものだ。それにしても大水槽での悠揚とした泳ぎはやはり圧巻で目玉だ。またこの日は丁度フンボルトペンギンの行進も間近で見られ楽しかった。そして人気のイルカショウ、久しぶりに長男も童心にかえって満足そうだった。ここの水族館はクラゲの蒐集でも知られている。
帰りには一旦七尾の能登食祭市場に立ち寄り、生で岩牡蠣と牡丹海老を食し、名物の海産物を買って宅配便で送り、その後能越自動車道と北陸自動車道を経由して野々市へ帰った。それにしても長男の車運転は上手だがかなりスピードを出すので、家族が乗車を敬遠するのも何となく分かるような気がした。長男は5月4日の午前9時過ぎに家を出て、余り渋滞にも遭遇しなかったのか、午後4時半には横浜の自宅に着いたと連絡があった。
2.ラ・フォル・ジュルネ金沢には欠席
今年のテーマは「ナチュール 自然と音楽」で4月29日にオープン、5月3〜5日には3会場でメインの公演、例年ならば6公演前後予約をするのに、今年は気乗りせず予約しなかった。何故か。少しマンネリ化してしまって、何となく魅力が薄れてしまったと感じたことと、それでも OEK のミュージック・パートナーになっているヤマカズこと山田和樹が来て振ってくれれば別だったが、彼は本業が忙しかったのか来日はなく、なおさら足が遠のいてしまった。来年以降はどうなるのだろうか。
3.久吉叔父訪問
叔父は今は連れ添いを亡くしてからは、一人暮らしである。実子は東フィルのホルン奏者で、年に一度戻れれば良い方だし、亡妻の子も貿易関係で海外に出ることも多くて、やはり年に一度帰沢できれば上出来らしい。それで私たちは月に二度ばかり叔父のところに顔を出すことにしている。5月5日には午後2時頃にお邪魔し、5時くらいまでいろんな話題で話をした。叔父は大正12年生まれ、金沢一中47期、四高、東大出で、専門は生薬学・薬用植物学である。
それでいつも必ず話題になるのが、北は礼文・利尻から、南は八重山諸島の石垣や西表で採集されたさく葉(押し葉)標本十万点を、薬学部が小立野から角間へ移転した際に、白山で採集された標本以外は全て破棄されたことで、1ヵ月ばかり悔しくて寝られなかったという。門外漢にとっては全く不要の
ゴミ、どこかへ移管されれば良かったのにとも思うが、事件は叔父が辞めた後の出来事、ライフワークだっただけに無念だったろうと思う。台紙に貼ったものは備品となるので破棄は免れたようだが、でも完成品はごく一部でしかなかった。一方白山で採集されたさく葉は、現在石川県立自然史資料館で少しずつ標品化されているとか。でも作業は遅々としていて、膨大な資料が整理される目処は立っていないと聞いている。
叔父の日常は、週2回デイケアセンターでの入浴があり、これはすごく有難いと言っている。食事は自前が多いようで、冷蔵庫には溢れる程食料が入っている。車での行き来に買い物をしたり、時には歩いて買い物に出かけたりしているようだ。賞味期限のチェックをセンターの担当職員にもお願いしている。食事以外の大部分の時間は、朝日と北陸中日新聞の切り抜きと整理、それに薬学、動植物学等の夥しい数の書籍に囲まれての生活、退屈はしないという。いつまでも元気でいてほしいものだ。
1.長男の帰郷と周遊と帰浜
長男は仕事の関係で横浜に住んでいるが、旧盆と正月、それに5月の連休には野々市の実家に帰ってくる。今年は自分で車を運転し、4月29日の昭和の日に長男のみが帰郷した。昼は旧友とのゴルフ、夜は友人との飲みで日程は詰まっているが、でも希望で次男や三男一家を呼んでの会を帰郷した翌日の4月30日に、また帰浜する前日の5月3日にもお別れ会を家で催した。また長男は帰郷した折には、決まって私たちと何処かへ出かけることにしていて、今年は5月1日にどこか富山方面へ行きたいと希望していた。でも特に行きたい場所の指定はないとのことで、昨年は氷見へ出かけたことでもあり、今回は能登島の水族館へ出向くことにした。
のと里山海道を徳田大津 JCT まで行き、能越自動車道の和倉 IC から能登島大橋を渡り、のとじま水族館へ行った。天気は良く、日曜でもあり、かなりの人出だった。この水族館の目玉は近海で捕獲された2頭のジンベエザメ、前に居たのは余りにも大きくなり過ぎ、海へ放したとのことだったが、それでも今いる大きい方は体長4mもあり圧巻である。この鮫はおとなしくて、餌は訓練で呼び寄せて口の中に入れてやるそうで、そうしないと他の魚に餌を取られてしまうとか、鮫にも人にも並々ならぬ苦労があるというものだ。それにしても大水槽での悠揚とした泳ぎはやはり圧巻で目玉だ。またこの日は丁度フンボルトペンギンの行進も間近で見られ楽しかった。そして人気のイルカショウ、久しぶりに長男も童心にかえって満足そうだった。ここの水族館はクラゲの蒐集でも知られている。
帰りには一旦七尾の能登食祭市場に立ち寄り、生で岩牡蠣と牡丹海老を食し、名物の海産物を買って宅配便で送り、その後能越自動車道と北陸自動車道を経由して野々市へ帰った。それにしても長男の車運転は上手だがかなりスピードを出すので、家族が乗車を敬遠するのも何となく分かるような気がした。長男は5月4日の午前9時過ぎに家を出て、余り渋滞にも遭遇しなかったのか、午後4時半には横浜の自宅に着いたと連絡があった。
2.ラ・フォル・ジュルネ金沢には欠席
今年のテーマは「ナチュール 自然と音楽」で4月29日にオープン、5月3〜5日には3会場でメインの公演、例年ならば6公演前後予約をするのに、今年は気乗りせず予約しなかった。何故か。少しマンネリ化してしまって、何となく魅力が薄れてしまったと感じたことと、それでも OEK のミュージック・パートナーになっているヤマカズこと山田和樹が来て振ってくれれば別だったが、彼は本業が忙しかったのか来日はなく、なおさら足が遠のいてしまった。来年以降はどうなるのだろうか。
3.久吉叔父訪問
叔父は今は連れ添いを亡くしてからは、一人暮らしである。実子は東フィルのホルン奏者で、年に一度戻れれば良い方だし、亡妻の子も貿易関係で海外に出ることも多くて、やはり年に一度帰沢できれば上出来らしい。それで私たちは月に二度ばかり叔父のところに顔を出すことにしている。5月5日には午後2時頃にお邪魔し、5時くらいまでいろんな話題で話をした。叔父は大正12年生まれ、金沢一中47期、四高、東大出で、専門は生薬学・薬用植物学である。
それでいつも必ず話題になるのが、北は礼文・利尻から、南は八重山諸島の石垣や西表で採集されたさく葉(押し葉)標本十万点を、薬学部が小立野から角間へ移転した際に、白山で採集された標本以外は全て破棄されたことで、1ヵ月ばかり悔しくて寝られなかったという。門外漢にとっては全く不要の
ゴミ、どこかへ移管されれば良かったのにとも思うが、事件は叔父が辞めた後の出来事、ライフワークだっただけに無念だったろうと思う。台紙に貼ったものは備品となるので破棄は免れたようだが、でも完成品はごく一部でしかなかった。一方白山で採集されたさく葉は、現在石川県立自然史資料館で少しずつ標品化されているとか。でも作業は遅々としていて、膨大な資料が整理される目処は立っていないと聞いている。
叔父の日常は、週2回デイケアセンターでの入浴があり、これはすごく有難いと言っている。食事は自前が多いようで、冷蔵庫には溢れる程食料が入っている。車での行き来に買い物をしたり、時には歩いて買い物に出かけたりしているようだ。賞味期限のチェックをセンターの担当職員にもお願いしている。食事以外の大部分の時間は、朝日と北陸中日新聞の切り抜きと整理、それに薬学、動植物学等の夥しい数の書籍に囲まれての生活、退屈はしないという。いつまでも元気でいてほしいものだ。
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