2015年7月26日日曜日

同窓会 あ・れ・こ・れ(その3)

(承前)
3.昭和 23 年度野々市小学校・昭和 26 年度野々市中学校同窓生の会(子うし会)
 この会のメンバーは、昭和 24 年 (1949) 3月に野々市小学校を卒業した同窓生と、昭和 27 年 (1952) 3月に野々市中学校を卒業した同窓生の合同の会である。1人だけ年長の方がいたが、その他の人達は昭和 11 年 (1936) 4月2日から昭和 12 年 (1937) 4月1日に生まれた方々である。会の名称は、昭和 11 年が子 (ね) 年、昭和 12 年が丑 (うし) 年なので「子うし会」とした。読みは「コウシカイ」である。中学校を卒業して 20 年を経て集まった折りに、以後は5年おきに同窓会を地元で開催しようということで集まってきたが、還暦を機に毎年温泉地で同窓会を持とうということになり、その後は地元の温泉地での1泊の開催と1〜2泊の旅行とを毎年交互に行なうことで今日に至っている。
 野々市小学校と野々市中学校の卒業生を合わせた同窓生の数は、男子が 28 名、女子が 25 名の 計 53 名で、このうち他界した人が男で 10 名、女で 4 名、また全く連絡がつかない人が男で3名いる。したがって現在連絡が可能な人は、男で 15 名、女で 21 名の 計 36 名となっている。
 男性の居住地を見ると、現在も地元の野々市市に居る人は6名、金沢市に2名、小松市に1名で、石川県在住者は9人である。県外では、東京都と大阪府に各2名、愛知県と兵庫県に各1名となっている。一方女性の居住地は、野々市市に9名、金沢市に7名、白山市に1名、小松市に1名、県外では東京都に3名が居住している。

子うし会の行事
(1)旧盆の墓参りと法要
 昭和 52 年 (1977) に同窓生の N 君が交通事故で亡くなったのを機に、毎年旧盆前の日曜日に近在の有志が集まり、供養の墓参りをすることにした。今は他界した N 君と私がお経をあげる役目をし、その後で有志が軽く一杯飲むというのが流れだった。その後昭和 54 年 (1979) に S 君が、昭和 55 年 (1980) には I 君が、昭和 61 年 (1986) には T さんが、昭和 63 年 (1988) には Z 君が他界し、お墓参りは野々市ばかりではなく金沢市や松任市 ( 現白山市 ) にまでも出かけるようになった。そして平成元年 (1989) 5月に N 君が鬼籍に入ったのを機に、墓参りの後、地元野々市の名刹の照台寺で物故者の法要を営むことにし、この行事は毎年行なわれることになった。その後私と読経を共にしていた N 君が亡くなった後もこの行事は続けられてきたが、平成9年 (1997) に行なった還暦の祝いを境にして、この墓参と物故者法要は一応区切りとして止めることにした。
 現在この会は私が主宰して世話をしているが、私の希望としては、子うし会が来年行なう傘寿の祝いに合わせて、同窓生 14 名と同級生1名の物故者法要をしたいと思っている。
(2)地元温泉地での同窓会
 還暦の祝いを機に、1年おきに地元温泉地で同窓会を開こうということになり、世話人の Y 君と A さんが中心となって会が運営されてきた。中でも男性の Y 君は渉外能力に秀でていて、会場の設営や運営に手腕を発揮してくれた。同窓の皆さんへの案内などは私が担当し、それ以外は2人の世話人がその任に当たってくれた。これまでを振り返ってみると、温泉地では山代温泉が最も多く、次いで粟津温泉、そして片山津温泉の順だった。ただ昨年は富山県の雨晴温泉へ出かけた。
(3)1年おきの同窓旅行
 世話人のY 君の斡旋もあって、この旅行は地元北陸交通の N さんが常に世話に当たってくれ、これまで九州への3回の旅行を除けば、全行程すべて北陸交通のバスを使っての旅行だった。還暦以降これまで 10 回の旅行、県内の能登への旅行を除けば、すべて2泊の旅行だった。気になる費用はこれまでは 12 万円が最高だったが、今年の五島列島への旅では、14〜15.5 万円と過去最高になった。振り返ってこれまでに訪れた観光地は、天竜・静岡、富士・伊豆、京都、伊勢・志摩、奈良・熊野、山陰、九州3回等々である。でも元気な方が年々少なくなっていくこともあって、この会としての旅行はこれで終わりにしようかと思っている。

同窓会 あ・れ・こ・れ(その2)

(承前)
2.金沢泉丘高等学校第7期同窓会(泉丘七期同窓会)
 この同窓会はかなり以前からずっと2年おきに開催されてきた。七期同窓会の開催が決まってからずっと主宰してくれていたのは K 君で、このような会は熱心な世話人がいないとなかなか会を盛り上げるのは難しい。さて、これとは別に、毎年決まって 10 月 15 日に、(今年は 16 日から 18 日まで全国規模の学会が金沢市内の主なホテルを会場に開かれる予定なので、前日の 15 日はその準備で市内のホテルの使用ができないため、今年のみ例外的に 10 月 11 日に変更になった)前身の母体でもある旧制の金沢第一中学校と新制の金沢泉丘高等学校との合同の同窓会 (一泉同窓会) が開かれることになっており、毎年 1000 人を超える同窓生が参集してくる。因みに昨年 (2014) は創立 120 周年記念とあって、1200 人を超える同窓生が参集した。ところでこれまでの卒業生はというと、金沢一中で 58 期、金沢泉丘で 67 期、金沢泉丘通信制で 57 期の同窓生が巣立っているが、この同窓会は毎年卒業後 33 年目の同窓生が会の運営に当たることになっている。それで昨年は昭和 56 年卒業の泉丘 33 期の同窓生が当番で運営に当たった。それで同窓会では当然当番期の同窓生の人数が最も多いわけだが、当番期を除けば何故かいつも第 7 期同窓生の出席者数が最も多く、これは K 君の熱心な勧誘が功を奏しているということに帰する。今年の当番は泉丘 34 期なのだが、はたして今年はどうなるのだろうか。
 さて今年の第 7 期の同窓会は傘寿記念と銘打って 6 月 7 日 (日) に粟津温泉「のとや」で開催された。昭和 30 年卒業の同窓生の総数は 448 名、そしてこの日までに 108 名が鬼籍に入っていて、残りは 340 名、4人の内1人が他界している勘定になる。これまで会の運営は K 君をトップに、在学当時 11 あったクラスからそれぞれ2〜3人が世話人となり、3百名余の人達への同窓会への案内や出欠の確認、会費の徴収、一泉同窓会機関誌の送付等々の世話をしてきた。それで同窓会の会場は何故かいつも粟津温泉の「のとや」、会費は例年 23,000 円と決まっていた。ところで長年 K 君が一人で主宰していること、会場が「のとや」オンリーなこと、また同窓生の A 君が支配人をしている山代温泉の老舗温泉旅館の会場設定が一度もないことに何故なのだという声も出て、K 君ではこの傘寿記念の同窓会を最後に七期同窓会を散会することにしたという連絡を受けた。それで今回は最後となるのでぜひ多くの方々の参加をと呼びかけてきた。会費はこれまでの余金も若干あるということもあって清算するとのことで、今年の会費はお土産付きの 17,000 円になった。そして今回は最後の同窓会という触れ込みもあり、平生は参加がなく卒業後初めてという方々の参加もあり、総勢で 70 名が出席した。でも出席者の顔ぶれを見ると,新顔がいる反面、いつも顔を見せている常連が何人も欠席だったのは何とも寂しかった。この同窓会は当夜の宴会のみで、翌日の朝食後は流れ解散という形式をとってきた。今後については、彼からの案内では有志による同窓会の継続を図るとのことだが、まだその案内は来ていない。ただ地域の一泉同窓会が全国のあちこちにあり、関東や関西の一泉同窓会には毎年相当数の人数が参集しているようである。因みに私の住む野々市市でも野々市一泉同窓会があり、2年に一度開催している。
(付)約 10 年前、同窓の M 君が台湾から 30 年ぶりに帰って来るのを機に、同窓の 13 名ばかりが集まって、後日「耳順会」なる名称の会を創った。3ヵ月に一度会うことにし、年末には温泉で1泊の会をもってきた。この会はお酒も入っての会、幹事は持ち回りで続けてきた。ところでその後 M 君の提案で、従来の耳順会はそのまま継続することとし、ほかに毎月第3土曜日に昼食を兼ねて、お酒なしで会わないかとの提案、そのとき私は肺炎で入院していたので詳しい経緯は知らないが、主宰する M 君では、従来の耳順会は3月,6月、9月は金沢市内の割烹 G で、年末は山代温泉の同期生 A 君が支配人をしている温泉旅館で、それで新規の毎月の会は「湧泉会」という名称で集まることにし、金沢 NG ホテルで第3土曜日に昼食を兼ねて3時間ばかり駄弁る会とし、今日に至っている。男性の井戸端会議ともいうべき楽しく面白い会である。

2015年7月25日土曜日

同窓会 あ・れ・こ・れ(その1)

 今年・平成 27 年 (2015) は、5月 18 日から6月8日までの3週間ばかリの間に、なんと大学、高校、小・中学校の同窓会が集中して開催された。なんとも慌ただしかった3週間を振り返ってみた。同窓生のうち、大学では現役で入学した人以外にも、年齢では7歳年長の方も同期だったこともあって、年齢にはかなりのバラツキが見られたが、高校や小・中学校の場合は、ほぼ昭和 11 年4月2日〜昭和 12 年4月1日に生まれた人がほとんどを占めていた。そうして年齢で言えば、数え年では 79 歳と 80 歳、満年齢では 78 歳と 79 歳、今年もしくは来年には傘寿を迎える年齢の集団になる。

1.金沢大学薬学部第7期同窓会(ゼレン会)
 私たちが大学を卒業したのは昭和 34 年 (1959) 3月、会の名称は卒業年に因み、元素番号 34 の元素セレンのドイツ語読みのゼレンを会名とした経緯がある。当時私たちが在学していた頃は、医学や薬学ではまだ英語よりはドイツ語が幅を利かせていたからによる。もう卒業して 56 年ばかり、私たちのこの同窓会は 卒業して20 年ばかりは開かれなかったものの、以降は5年おき、更に時を経ては2年おきとなり、ここ 20 年ばかりは毎年開催している。入学したのは昭和 30 年 (1955) で、記憶が定かではないが、定員 40 名のところ 41 名入学したように思う。教養課程から専門課程へ進学する際に、基礎科目の物理学で7名が不合格となり、全員留年となるところ、交渉で1回のみビーダーコンメン=ビーコン (再試験) が認められた。しかし、クリアしジッヘルできたのは1名のみで6名が留年する羽目に、また1名が病気で留年した。そして専門課程に入ると、前年留年した2名が加わってクラスは全部で 36 名になったが、在学中に1名が病死し、最終的には 35 名 (男25名、女10名) が卒業した。今年の同窓会当日までにクラスで物故したのは、男6名女1名の計7名、現在の会員数は 28 名である。
 さて今年の同窓会は5月 18 日 (月) と 19 日 (火) の両日金沢市で開催した。会の申し合わせで、1年おきに金沢で、そうでない年は金沢以外の場所で開催することになっている。ここ数年のスケジュールでは、金沢・仙台・金沢・福井・金沢という運びだったが、仙台開催の折に東北大震災が起き中止、でも希望で翌年に振り替えて仙台で行なった。同窓会は原則1泊2日、ただそれに付随してゴルフコンペがあり、ゴルフに出席の人はもう1泊、前泊か後泊するスタイルを採っている。そしてこれまでの経過を見ると、宿泊当日に早めに着くようにして半日観光、さらに翌日にも希望で半日観光のスケジュールが組まれることが多く、どちらも自由参加ではあるものの、大概大部分の人が参加するのが常だった。でもこれらオプショナルツアーは主催する側にとってはかなりの負担になる。ところで仙台での秋の同窓会では、2日目午前の観光を終わって散会しようとしたところ、強烈な台風の襲来で新幹線のほか在来線も運休してしまって、もう1泊仙台で逗留した人も出た。そして翌年の福井での同窓会もやはり秋の開催、ところが前年と同じく台風の襲来の予想があり、1週間前になり急遽主催者側の判断で同窓会は中止ということになった。宿やオプショナルツアーの手配と中止、またそれに伴う会員への案内等々、開催のみと比較して2倍も3倍もの労苦があったろうと思う。でも当初の計画だった全員の近況報告の作成などは実行して頂けた。それで今年もう一度開催をどうですかと打診したが、これは引き受けては貰えなかった。
 それで今年は順で地元金沢での開催、一昨年、昨年と、2回もの台風との出会いでの中止もあって、今回は春にしようということになった。地元の会員は男性3人のみ、昨年 10 月には今年春の開催日を決めようということになり、私が金沢市のコンベンションホールへ出向いて、平成 27 年4〜6月に金沢で開催される学会・集会・催しの予定と集客数を把握し、その合間を縫って、同窓会は5月 18・19 日に開催することにした。そしてこれまで金沢での宿はもっぱら湯涌温泉を利用してきたが、金沢市商工会議所の担当の方から犀川温泉でもと勧められたこともあり、そこを利用することにした。でもここは湯涌温泉と異なり、近くまではバスの便は多いものの、宿へはバス停から徒歩 10 分とあり、金沢駅でバスに乗る前に宿に案内をくれれば最寄りのバス停まで宿の車を迎えに出しますというが、これは言うは易く行なうは難しの類いだった。
 ところで宿の方は別の方が担当し、昨年秋に JTB を通じて1泊1万7千円としたが、翌年3月 14 日の北陸新幹線の開業が近づくと2万円にするとのこと、担当は約束が違うと頑張ったこともあって料金は据え置かれたものの、宿泊当日のサービスの低下は歴然だった。開催までお互いのメールのやり取りは 20 回ばかり、会合も5回ばかり、もっとすっきり単純にできないものかと案じたものである。また観光はもう一人の方が担当してくれた。私なりに観光と昼食は腹案もあったが、総枠2万3千円のくくりとしたこともあって、昼食は KKR 、観光は金沢城公園のみという寂しい企画に落ち着いた。それでも今回の参加者は 17 名だった。会員もやがて 80 歳台、もう少しゆとりのあるゆったりとした会になればと思う。ところで来年の会の開催先を募ったけれども挙手はなく、それで世話する方は宿の世話のみ、観光は各自でということで募ったところ、来年は関西在住の A 君の世話で神戸市での開催となった。
 これまでの会を振り返ってみると、配偶者同伴も数組あったりして、25 名もの参加があったこともある。ところで今年の顔ぶれをみると、体調不良や配偶者や親の世話で出席できない人はともかく、元気でありながら常に欠席、中には一度も参加したことがない御仁も数名いるのはどうも解せない。現会員は 28 名、会はいつまで存続できるだろうか。