2011年1月28日金曜日

「スカイラインの父」逝く -プリンスへの郷愁

 「スカイラインの父」と言われた桜井真一郎さん(エス・アンド・エス エンジニアリング会長)が1月17日、心不全で亡くなったと報道された。行年81歳だった。「スカイライン」の初代から7代目までの開発に参画され、画期的なアイディアと乗る人を思いやるという発想での開発は人々に感動を与えた。スカイラインのあの赤い丸い4個のテールランプは、素敵なシンボルとして、私たちの目に焼きついて離れない。あこがれの車でもあった。
 一方で私にとって、桜井さんが勤務していたプリンス自動車には何故か郷愁を感じる。何故なのか。今から想うと、当時桜井さんが勤務していた広大なプリンス自動車工業の村山工場を眺めながら、朝夕1ヵ月間、毎日バスに揺られながら、工場に沿った道路を往き来したからなのだと思う。それはもう凡そ半世紀前のこと、東京オリンピックを翌年に控えた昭和58年(1963)のことである。
 私は大学を卒業して石川県に奉職し、勤務は衛生研究所ということになった。薬学部卒なので、本来ならば化学検査担当なのだが、訳があって細菌検査担当になった。基礎が貧弱なので、当時の国立公衆衛生院へ3ヵ月間の短期講習を命ぜられ、どうやら細菌検査ができるようになった。ところが翌年には、地方の衛生研究所でもポリオとインフルエンザにかかるウイルス検査を実施しなければならない破目になり、次の年にはポリオを含む腸内ウイルス、蚊が媒介し当時まだ石川県でも発生が見られた日本脳炎を含む節足動物媒介ウイルス、それと冬季には猛威をふるっていたインフルエンザの検査技術を習得するため、ふたたび東京の国立予防衛生研究所へ派遣された。4月から10月まで、各パートを2ヵ月間ずつ、大部分は戦前は海軍大学だった港区上大崎にあった本庁舎での研修であったが、最後の1ヵ月だけは都心からは遠く離れた村山庁舎での研修、毎日宿舎のあった四谷から中央線で立川まで行き、さらにバスに乗り換えて30分ばかりかけて通った。その頃の村山は武蔵野の面影を残す田舎、ただバスからは広大なプリンス自動車の敷地が見え、これが見えてくるともうすぐ村山庁舎は近いと実感したものだ。
 当時の国の構想では、上大崎の研究所の建屋が手狭になったこともあって、将来は広大なスペースがある村山に全体を移す構想があり、とりあえず3部門が先遣隊として移り、その後残りが移転するという段取りだった。設備は当時の最先端といえるもので、後日危険度が最も高いラッサとかエボラとかいった出血熱ウイルスの検査施設も設けられることになっていた。後日この完璧ともいえる施設が出来上がったものの、稼動には住民の合意が必要という訳の分からないトラブルが今も続いていて、施設は全く使用できないままである。私が研修を受けているときはその施設はまだなかったが、とはいっても当時扱う病原体の感染を完全に制御できる最善の設備が整っていた。でもフッと想ったことだが、当時私が教えを乞うた先生方のほとんどが他界されてしまっている。

 閑話休題
 {桜井真一郎の生涯の断章]
 私が予研村山へ通っていた当時は、あの工場はプリンス自動車工業の主力工場であったが、戦時中は戦闘機や爆撃機をつくっていた中島飛行機の村山工場として、飛行機のエンジンを製造していたという。昭和41年(1966)に日産自動車と合併してからは、日産自動車の村山工場として機能していたが、平成13年(2001)には閉鎖され、跡地の一部は武蔵村山市営の都市公園「プリンスの丘公園」(スカイラインGT-R発祥の地)として利用されているという。なお残りの4分の3の106ヘクタールは宗教法人真如苑が取得したという。
 桜井真一郎は、旧制横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)を卒業した後、小さい頃からの憧れであった自動車メーカーへの就職を希望したが、折からの不況もあって新卒者の採用はなく、学校の説得もあり清水建設へ入社した。入社後配属の東京駅の現場で、研究熱心な性格と機械専攻の技術から、自動的にセメントをこねてコンクリートにする機械(バッチャープラント)を考案し、これを現場で採用し、工期を大幅に短縮した。また続いて担当した現場では、バッチャープラントを設置するスペースがなかったため、米国では既に使われていたコンクリートミキサーをトラックのシャシーに載せることを思いつき、国内では初めてのコンクリートミキサー車(生コン車)を完成させた。そしてこの現場でも大幅な工期の短縮をすることができた。
 昭和27年(1952)、プリンス自動車工業の前身であるたま自動車が求人募集していることを学校から知らされ、清水建設の慰留を振り切って転職した。たま自動車での面接では、何故清水建設を辞めてこんな貧乏会社へ志望するのかと質問され、彼は自動車一途であることを吐露し、貧乏会社大いに結構と啖呵をきったという逸話がある。そして彼は設計課に配属される。
 この会社は戦時中は戦闘機「隼」などを開発した中島飛行機の技術者たちが、戦後は飛行機をつくることが禁じられたため、自動車をつくるべく仲間が集まって創業した会社で、ガソリン自動車開発に方向転換したのは昭和26年(1951)のことである。彼は入社してすぐにプリンスセダンのコラムシフトレバーの改良を任される。このレバーは折れやすいというクレームが多かった。上司は太くして強度を上げると言ったのに対し、彼は逆に細くしてしなりをもたすべきと主張、結果的にはこれでクレームは解消されたという。
 彼は1年後に入社したとはいっても、初代のスカイラインの開発にも携わり、完成は先輩の飛行機屋とタッグを組んでの結晶ともいえる。唱和32年(1957)のことである。その後2代目(R50型)から6代目(R30型ニューマン)までの開発に当たっては、彼は開発責任者(主管)として指揮を執ることになる。少年時代に大病を患い転地療養生活を送ったことのある彼は、その時の経験から、自然の摂理に則り、人間の血の通ったクルマ造りを信条とし、クルマ造りには従来なかった運転する人を本位とした手法で開発が進められ、自動車がライフスタイルの重要なアイテムとなる先駆けとなった。こうして長期間スカイラインの開発に携わったことから、彼は「ミスター・スカイライン:スカイラインの父」と称せられるようになる。
 また開発にあたっては、自らがコンセプトストーリーを描き、それを設計者全員に共有させて取り組んだ。2代目の開発にあたっては、走行機能と操縦機能にこだわった。また馬力をアップするために、1500ccの車に、グロリアスーパーGに搭載されていたG7型直列6気筒(SOHC)エンジン(2000cc)を移植するという奇策に出て、125馬力にまでパワーアップした。こうして唱和39年(1964)に、ボンネットが初代より20cmも長い2代目プリンススカイラインが誕生した。「スカG」は今でいうGT車の始まりで、人をして「羊の皮を被った狼」とまで言わしめた。彼は「速さはポルシェ、使い勝手はBMW」を手本にしていたという。
 唱和41年(1966)、プリンス自動車工業は日産自動車に吸収合併される。しかし技能集団の遺伝子は合併後も脈々と受け継がれ、中でもレースを意識したGT-Rは国内無敵の走りを誇っていて、日産の看板だった。一方で、プロトタイプのレーシングカーのR38シリーズの開発も手がけ、日本グランプリ優勝3回(プリンス時代1回、日産時代2回)という成績を残した。これらのマシン試走時にあたっては、自らステアリングを握ることもあったという。
 彼は唱和59年(1984)に突然倒れ入院する。しかし翌年に退院した後はスカイラインの開発責任者には復職せず、新設部署の部長に就任した。そして唱和61年(1986)、日産自動車の特装車部門の開発企画製造を目的とした部門の業務を譲り受けて設立されたオーテック・ジャパンの初代社長に就任する。この会社は旧プリンスから継承されている日産の開発企画部門やその関連会社の出身者で構成されていて、通称「桜井学校」「桜井ファミリー」と称され、数多くの日産の社員も出向し、ここからは多くの逸材を輩出した。またオーテックバージョンと呼ばれるカスタマイズカーを数多く世に送り出し、注目を浴びた。社長の構想の中には、パン焼き窯を搭載した車の構想があったという。
 その後平成6年(1994)には、エス・アンド・エス エンジニアリングを設立し、ボディー補強材やディーゼルエンジンの排出ガス浄化装置等を開発する。平成9年(1997)にはプリンス&スカイライン・ミュージアムの館長に就任、平成17年(2005)には日本自動車殿堂入りを果たした。
 桜井真一郎は死ぬまで現役であった。「やれるだけやって、車づくりに心血を注いだ満足感をもって死にたい」と言っていたという。正に、言葉どおりの羨ましい車の開発にかけた人生であった。

2011年1月20日木曜日

子うし会で私に発芽玄米を勧めた畏友河野君

 昨年の小・中学校の同窓会「子うし会」に、河野君は還暦の集まり以来12年ぶりに出てきてくれた。彼は明治乳業研究所にドクター研究員として、また定年後も顧問として多忙な日々を送っていたこともあって、中々時間を取れなかったようだ。65歳で退職した後もアドバイザーとして関わっていた。彼の父はNHKの技術職員で、当時野々市町にあったNHK送信所の所長として赴任し、彼は中学校へ転向してきた。その頃の野々市町というとまるで田舎、会社は少しはあったものの、いわゆる転勤族はないに等しく、したがって彼のような類の転校生はいなかった。一見都会風な容貌、頭がよく、絵が上手かった。私達などはその高い送信塔によじ登って叱られた類の悪童で、その点では質が違っていた。
 私達の小・中学校の同窓生は、そのほとんどが昭和19年に野々市町国民学校に入学し、昭和24年に野々市小学校を卒業し、昭和27年に野々市中学校を卒業している。中には中学校を国立や私立へ進学した者もいたが、大概は小・中とも同じ顔ぶれだった。ただその頃は、旧三馬村横川出(弦金沢市横川1丁目)の児童・生徒が野々市小・中学校に寄留していて、一学級は合わせて50名ばかりであった。
 同窓生は、昭和11年(子年)と12年(丑年)生まれなので、会を「子うし会」と名付けた。現在名簿には男28名、女26名が載っているが、他界したのが男7名、女4名、消息不明が男に2名いて、現在連絡可能な会員は、男19名、女22名となっている。もう歳も古稀と喜寿の間とあって、同窓会は毎年、地元と遠所とで交互に開くことにしている。
 昨年は地元開催の年だったが、何故か福井県の芦原温泉でということになった。集まる人数は、近場では20名ばかり、遠出では15名が限度、皆さん持病があり、たまさか元気でも、添いや親の面倒を見なくてはならない人もいて、ままならない。河野君も現役の頃は多忙で出席できず、若干余裕が出てきたと思ったら「慢性炎症性脱髄性末梢性神経炎」という難病になり、入院加療を余儀なくされたとか、今度も参加は駄目だろうと思っていたら、少しよくなったので杖を頼りにそろそろと出掛けますと電話連絡があった。そして最後になるかも知れないとの心細い参加だった。会って、私も十病息災、糖尿病もあると話していたら、彼は島根県のJA雲南のアドバイザーもしていて、そこで発芽玄米を製造・販売している有限会社ソーシンの社長もしているとかで、サンプルを送るから試してみたらと言われた。また愛知県でフィールド実験も行ったことがあるとかで、その文献も送ろうと言ってくれた。次にその文献の概略を抜粋する。

 閑話休題
[発芽玄米摂取による糖・脂質代謝への影響]
1.JA雲南での発芽玄米の製法
 家庭でも浸水した玄米を芽出しして食することは可能だが、これを商品化しようとすると、通常この発芽状態では、細菌がg当たり100,000~1,000,000個に増えているので、この細菌数を1,000個以下にするためには加熱殺菌処理後乾燥しなくてはならず、するとどうしても栄養価の低下や澱粉のα化が起きる。JA雲南では芽出しでの雑菌の繁殖を抑えるため、発芽はL型乳酸を用いた乳酸バッファ(pH3.5)環境条件下で行うので、雑菌の繁殖が抑えられ、発芽後は水洗浄のみで次の乾燥工程に入ることが出来る利点がある。製品の水分含量は約16%、細菌数は1,000個/gであるという。
2.白米と発芽玄米との成分比較
 両方を比較すると、エネルギー、たんぱく質、炭水化物では同じだが、発芽玄米の方が、脂肪で3倍、食物繊維で5倍、GABA(γーaminobutiric acid)で8倍多い。
3.2型糖尿病患者への摂食投与
 愛知県内の3病院に入院中の糖尿病患者30名を対象に、白米と発芽玄米を1:1に配合したものを炊飯し、1日1合、3ヶ月間喫食してもらった。
4.結果の概略
 ①糖代謝への影響:空腹時血糖値に変化はなかったが、グリコHbA1cは有意に低下した。
 ②脂質代謝への影響:中性脂肪、LDLコレステロールは低下傾向、HDLコレステロールは上昇傾向。
  LDL/HDL比は有意に低下した。
5.結 論
 2型糖尿病患者に発芽玄米を3ヶ月摂取してもらったところ、糖代謝と脂質代謝が共に改善された。

 次に彼から提供されたJA雲南の発芽玄米3㎏を食した私の体験について記載する。
1.食事方法
 白米と発芽玄米を同量混ぜたものを1日2合、週5日喫食した。すると延べ5週間続けることができた。他の食事習慣は通常どおりである。
2.結果の比較
 私が勤務している石川県予防医学教会での夏季健診での結果の数値で比較した。対照は平成21年7月30日の結果、発芽玄米を5週間食した後の結果は平成22年7月30日のものである。比較は糖代謝と脂質代謝に限って行った。結果は次のようだった。
・随時血統:基準値(139 ㎎/㎗以下):前年 102:今年 81:増減 21減。
・HbA1c:基準値(4.8~5.8 ㎎/㎗):前年 6.4:今年 6.2:増減 0.2減。
 糖代謝への影響では、随時血糖、HbA1cとも減少した。
・LDL-c:基準値(80~140 ㎎/㎗):前年 139:今年 129:増減 10減。
・HDL-c:基準値(40~65 ㎎/㎗):前年 53:今年 64:増減 11増。 
・中性脂肪:基準値(50~150 ㎎/㎗):前年 76:今年 70:増減 6減。
 LDLコレステロール、中性脂肪は減少、HDLコレステロールは増加した。
・LDL/HDL比:前年 2.21:今年 2.01:増減 0.20減。
 LDL-cの減、HDL-cの増の結果、比は減少した。
3.評価とその後の対応
 随時血糖値の減少は全く評価できないが、他の項目の増減は有意検定をできないので正確な評価はできないものの、喫食期間が5週間と短かかったにもかかわらず、先のフィールド調査の結果に類似した傾向を示した。この結果は河野君へ報告した。
 この結果に対する家内の意見は、もし今後も発芽玄米を食するのなら、何も遠い出雲から取り寄せなくても、近くで市販のものを求めたらとのことだったが、彼からはもっと続けたらと3㎏3袋送ってくれたので、現在のところそれを継続して喫食している。

 [私見を交えた考察]
 近頃、健康のために玄米を食する傾向はあるものの、匂いとか焚きにくさ、食感がよくないこともあって、普及はイマイチである。しかし発芽玄米は、炊きやすく、かつ白米とも混ぜて炊いても問題なく、半々でも違和感はない。でも市販の発芽玄米の流通は多いとは言えない。ただ発芽玄米に限れば、加熱殺菌しないJA雲南の製品ならば、栄養価の熱による損失もなく、健康食としては理想的であろう。
 ところで、成分としては玄米と発芽玄米とではどんな差があるのだろうか。文献的には唯一GABAのみが玄米よりも多いようだが、これがグリコヘモグロビンの改善に関与しているといっても、玄米との比較で有意な差が出るのだろうか。もし効果に大きな差がないとすれば、加工した高価な発芽玄米を用いずとも、多少のデメリットさえ辛抱すれば、未加工の玄米でもよいような気がするが、どうであろうか。
 
 

2011年1月18日火曜日

伊藤真乗・友司夫妻(双親さま)と真如苑

 私が恒例の志賀高原へのスキーツアーを終えて帰ってきた日の翌日、東京から帰ってきた家内が私にこれを読んでみたらと渡してくれたのが「歓喜世界」というB5判の真如苑にかかわりのある冊子、じゃ読んでみようという気になった。家内がいつの頃からか真如苑にかかわっていることは知っていたが、それが他界した三男が病気になった頃なのか、あるいはもっと先なのかは定かではない。ただ家内の姉や姪がかなり前から信奉していることは聞いていたし、私も一度家内の案内で末町にある真如苑北陸本部というところへ行ったことがあるが、何とも広大な敷地で度肝を抜かれたことを覚えている。いつか探蕎会会長の寺田先生(金沢大学名誉教授)が、以前野町に真如苑の支部か集会所があって、勧誘されたことがあると伺ったことがあるが、少なくともその頃はそんなに目立った存在ではなかったのではないかと思われる。でも家内から読むように勧められた冊子には、秋田と大阪での事始めが書いてあったが、当初は摂受し感銘した一人からの出発だったそうだから、何年前のことかは分からないが、金沢でも恐らく同様だったのであろう。
 私は家内が真如苑にかかわったとき、既存の宗教とのかかわりあいのこともあり、少し調べてみた。すると真如苑は大般涅槃経を所依とし、ことごとく涅槃に帰すとし、基本的に他宗派、他教団との摩擦は回避するとあり、理念は摂受、これに対し法華経を所依とする創価学会などの理念は折伏、後者だったら心穏やかではなく、恐らく大反対したことであろうことは想像に難くない。私の家は私で五代目、代々浄土宗、先祖八名と童子一名、それに子が夭折し家が絶えた叔父と三男の計十一名の命日には、浄土宗のしきたりに法ったお経をあげて回向しているほか、朝のみだが、毎日のお勤めは欠かさない。だから私は入信はしないが、家内は思うようにすればよいと思った。
 ところで、家内から手渡された冊子を読んで、先ず真如苑の生い立ちに興味を持った。この新しい宗教がどんな背景と経緯で成立したのかを、家内から読むように勧められた冊子やインターネットでの記載、それに島田裕巳著の幻冬舎新書の「日本の10大新宗教」などを参考に経年的に書き起こしてみた。間違いがあるかも知れないので、その節はご指摘いただきたい。

[真如苑の生い立ち]  (文中敬称は省略する)
 真如苑の開祖、伊藤真乗(本名文明)は、1906年(明39)山梨県北巨摩郡秋田村の農家で生まれた。伊藤家は名家で、家には古くから代々易が伝えられていて、どちらかというと宗教的な環境で育ったという。1923年(大12)17歳で上京し、後年の立川飛行機に技術者として就職する。1932年(昭7)、真乗は従兄妹の内田友司と結婚する。ところで友司の伯母も祖母も、ともに霊能者であったことから、友司自身もその素質を継いでいたと言われ、後にこのことが宗教活動に大いに役立つことになる。その後真乗は伊藤家に伝わっていた易でもって、周辺の人たちの諸々の相談に乗っていたという。
 1935年(昭10)真乗は鎌倉時代の仏師運慶が刻んだという仏像大日不動明王と出会い、自宅に不動尊像を祀るようになり、そして名を「天晴」と改める。これを契機に、妻友司と共に三十日の寒修行を行い、これを終えると会社を辞め、共に仏道に入り宗教家として活動しようと決意する。
 翌1936年(昭11)からは宗教活動に専念することになった真乗は、自宅で成田山新勝寺への参拝講、立照講を組織するようになり、立照閣と称した。そして5月には京都の真言宗醍醐派総本山醍醐寺に向かい、そこで得度受戒し、先達に補任される。先達とは講のリーダー的存在で、在家の真言修行者、いうところの修験者である。ところで6月には長男の智文が1歳10ヵ月で他界した。真乗は請われて人さまの病気治しなどを実践していたのに、自分の子を亡くすことは宗教家としての資質・能力が疑われると感じとった。ただこの子の死は後々大きな意味を持つことになる。
 翌1937年(昭12)、夫妻には次男友一が誕生する。そして1938年(昭13)、真乗は立川の諏訪神社に近い場所に土地を借り、真言宗醍醐派立川不動尊分教会を設立する。これは後に燈敬山真澄寺と呼ばれるようになる寺で、毎日護摩を焚き、加持祈祷を行っていた。その後真乗は、総本山醍醐寺で1939年(昭14)には在家の修行である恵印灌頂を修めたのに続き、1943年(昭18)には出家の仕上げとも言える金胎両部の伝法灌頂を受け、「真乗」の名を与えられた。これは出家の在家の行をすべて継承したことを意味し、真乗は大阿闍梨位に就いた。(これは真言宗での阿闍梨で、有名な千日回峰行を果たした行者に与えられる天台宗の阿闍梨とは異なる)。
 しかし、既成仏教の傘下にあれば安泰であろうが、独自な活動を展開しようとすると限界があると思うようになる。戦後になって宗教法人令が交付されると、真乗は真言宗の傘下を離れて独立する。立川不動尊分教会を真澄寺と改称し、「まこと教団」を設立する。そしてそこでは真如苑で今日行っている接心修行の原型となる「まこと基礎行」が行われており、これは霊の降臨を伴うもので、真言宗の修行に基づくものではなく、むしろ霊能者であった友司の伯母や祖母が実践していた方法に近いものであり、こうした霊感修行は真言宗の教義からはむしろ逸脱したものであった。でもこうした修行を取り入れることによって、「まこと教団」は後の「真如苑」へと発展することになる。
 1950年(昭25)、修行中にリンチを受けたとして真乗は告発され、相手の言い分との間には齟齬があったものの、結果として執行猶予の付いた有罪判決を受けた。しかしこれは後に真乗の言い分が正しかったことにはなるのだが、その時は「まこと教団リンチ事件」として大きく新聞に報じられ、教団は窮地に陥った。そして1952年(昭27)7月には次男の友一が他界するという悲しい出来事が起きた。15歳だった。次男は体は弱かったが霊能力に優れ、真乗は後継者に目していたという。彼は信者の方が見舞って、早くよくなるよう祈っていますと言うと、私は生きていても、亡くなってからでも、身代わりになってでも人々を救済しますと言われたという。これは「抜苦代受」の考え方、子どもたちが人々の苦しみを代わりに引き受けるために亡くなったというものである。友一の告別式の際には、友一には「真導院友一本不生位」の戒名が授けられ、併せて先に亡くなった長男の智文には「教導院智文童子」の戒名が追諡された。この二人の子どもたちは、両童子さまとして、救済者としての役割が与えられ、教団の宗教活動のなかでも、重要な役割を担っている。
 翌1953年(昭28)、悪化した教団の印象を払拭するため、真乗は教団名を「まこと教団」から「真如苑」に改めた。またまこと教団事件以降は、友司が苑主となり、真乗は教主となる。そして真乗は次男の死を契機として、涅槃経(大般涅槃経)と出会い、その教えに強く引かれるようになる。経典にある「常楽我浄」、それは死はすべての終わりではなく、涅槃を絶対的な境地が永遠に続くものとしてとらえている。そして在家の誰もが悟りを得られることを願い、真乗は宗教法人法が改正されたのを機に、大般涅槃経を所依とした真如苑を宗教法人とすることにした。ただ認証されたのは1963年(昭38)である。ところで涅槃経を重視している教派は真如苑以外には見当たらない。そしてこの頃には瞑想行の一つである「接心修行」も確立されている。
 1957年(昭32)に入り、真乗は仏像制作に入り、3月には丈六尺の本尊となる大涅槃尊像(久遠常住釈迦牟尼如来)を完成させる。涅槃像は、釈迦が入滅したときの姿を象ったもので、釈迦は右手を手枕にして臥せっている。真乗は幼時から手先が器用で、いろんな分野で足跡を残しているが、とりわけ仏の謹刻では「昭和の仏師」と呼ばれるほどで、その天性による創作は、釈迦如来、阿弥陀如来、十一面観音、不動明王、普賢延命菩薩、観世音菩薩ほか数多の仏像に結実している。そして大涅槃像の制作を始めた頃からは、それまでの出家の僧形を辞めて俗人の格好をするようになる。そして一方で仏教の指導者としての教師の育成にも力を注ぎ、国内外の各地に修行の拠点を設けるようになる。
 1967年(昭42)、夫妻はバチカンでカトリックの262代教皇パウロ6世と会見する。そのときには「仏の教えも紙の教えも求めるものは一つ、それは人類の平和と幸福」と言われ、固い握手をされたという。でもこの年の8月、苑主の友司は体調を崩し他界した。その後友司は「霊祖」、あるいは「摂受心院」と位置づけられ、霊界において救済を司る存在としてとらえられるようになる。これは早世し両童子として信仰の対象となってきた二人の息子が負ってきた役割をも引き継ぐことになる。しかし長女瑛子と二女孜子とは意見が合わず、二人は離反し、教団と決別することになる。
 1984年(昭59)4月、真乗は真言宗醍醐寺派総本山醍醐寺で執り行われた弘法大師御入定1,150年遠忌において導師を務めた。この間国内外の諸宗教、諸宗派とも交流を重ね、創価学会のように爆発的に信徒数が伸びたわけではないが、着実にその数は拡大している。1989年(平1)、教主真乗は83歳で遷化され、教主の意向を受けて苑主として後を継いだのは三女の真總(本名真砂子)である。継主の真總は、アメリカ、ヨーロッパ、台湾などでも護摩法要を行い、精舎を建て、精力的な活動をしていて、2002年(平14)6月には、バチカンで264代教皇のヨハネパウロ2世とも会見している。また、2006年(平18)3月には、立川市に信徒修練場(総合道場)応現院の落慶をみている。
 2008年(平20)12月末現在の信徒数は 964,573名、海外を含む寺院数は 114ヵ所となっている。
 島田裕巳は、真如苑の一つの特徴は、真乗とその家族が果たす役割の大きさで、教団が親から子へ受け継がれる例はいくらもあるが、これほど教祖の家族がクローズアップされる例は珍しく、亡くなってからも霊界において重要な役割を果たしていると。またさらに重要な特徴は、真如苑には世直し的な側面が一切見られない点であり、また地上天国の実現を説くわけでもなく、非日常的な側面が欠けていることもあって信者が熱狂することはないと。であるからして、教団の将来への活動の目標は立てにくく、明確な目標はないとも。

[付記1] 四女の英玲は、教主遷化当初は真如苑にもかかわっていたが、現在は教団に関係する財団の理事長になっている。また、継主真總(三女)の夫の伊藤勲は、教団に関係する一如社グループの会長をしている。
[付記2] 真如苑が広く知られるようになったのは1980年代半ばのこと、人気ある女優やタレントが入信していると伝えられたからでもある。信徒数は新宗教では、創価学会、立正佼成会に次いで3番目に多い。