2010年12月24日金曜日

「やまぎし」の荒挽きをアテに財宝を飲む

 12月11日(土)の昼近く、予約してあった来年4月に来演するチェコフィルの前売券を県立音楽堂のチケットセンターへ貰いに行くのに合わせて「やまぎし」へ寄った。営業時間は11時30分から14時30分、もし「そば」の手持ちがなくなれば、それまでとなる。近頃は遠処の人も訪れて来るようになり、私も一度ならず待たされたことがある。平日は行けないから、もし11時半までに出かけるとすれば土曜日しかないことになる。この日もきっちり時間に合わせて出掛けたが、もう先客が一人いた。
 券売機で「荒挽き」の大盛りを頼んだ。ここに置いてあるアルコール類は鹿児島の芋焼酎の「財宝」のみ、開店当時はそばの「白」と「黒」のみ、飲み物は出されるそば茶のみで、蕎麦前はなかった。それがいつの頃からか焼酎が置かれるようになり、100cc200円で出してくれる。冷やである。席に着くなり財宝をお願いした。始めはそば茶がアテである。先客に黒の普通盛り、次いで私に荒挽きの大盛りが出た。これはもう極太である。荒挽きには丸抜きの挽き割りが混ざっていて、太さは5mmばかり、ひょっとして6mmはあるかも知れない。前にも二度ばかり食したが、これは太いので、口の中で奮闘して噛んで食べないと喉には通らない。そんなそばをどうして打ち出すようになったのか、興味深い。
 しばらく客が途絶え、山岸さんと話す。これだけ太いと伸びませんよね。とすると蕎麦前ならぬ蕎麦中のアテになりますねと。そのままでも美味しくかつサケのアテになるとは、何たるそばなのか。このときは打ち始めるようになった経緯は聞かず終いだったが、結局大盛りを平らげるのに、財宝を三杯も飲む羽目となった。薬味の山葵や葱や大根下ろしは、折々に極太打ちのツマになった。汁も時折味わい、程よく切れた長さがまた絶妙である。でも私が居て、ここで財宝を所望する人は見たことはないが、いろんな事情でお酒を飲めない人ならいざ知らず、でなければ一度は試みてほしいものだ。ところで売りの蕎麦の唐揚げはこの荒挽きを揚げたものである。
 さて先日、頼んであった宮下裕史の「そば」名人というプレジデントムックが前田書店から届いた。これは雑誌danchuに連載されたそば職人25人の生き様を一冊に纏めたもので、その中には本文とは外れた一項に、「出羽の国発浪速着・超絶極太打ちアテ蕎麦物語」という一文があり、副題は「あらきそば」「そば切り凡愚」「そば切り蔦屋」に脈々と流れるおいしい風景、時空を超え「そば切り山親爺」に到達した驚きの新しい味覚を知る。とある。
 出羽の国発というのは、大阪浪速の「凡愚」の主人真野氏が山形の「あらきそば」の板そばという太打ちのそばの「むかし毛利」に遭遇し、これはとてもズズッという食べ方は出来ず、しかも地の人の食べ方を見ていると、そばのみを食べるのではなく、唯一の肴である「にしんのみそ煮」をツマに、地酒を飲みながらそばを食べるという、いわばそばをアテにして楽しんでいるという情景に出くわす。二代目当主の芦野又三氏にはそば屋にまつわるあれこれを話してもらい、「大阪でおいしいそば屋をやって下さい」と励まされたという。そして浪速の「凡愚」に太打ちの「フト」が誕生した。私はまだ行ったことはないが、写真で見ると田舎そばの極太打ちで、これは口中でモグモグと噛みしめて食べるより方法がない代物とお見受けした。しかも長そうなので、箸で切るか、噛み切ってから口中へ入れなければならない。ただこの「フト」が酒のアテの定番になっているかどうかは知らないが、凡愚には突き出し以外に定番のアテはないという。 
 この凡愚の太打ちは弟子の一人蔦谷氏が営む「蔦屋」にも伝播した。しかし本来は和食が本業だった蔦谷氏は「フト」を止めて、ホソより一回りほど太い田舎そばに落ち着かせたという。ところが蔦屋でまだフトを出していた頃に修業していた山口氏が神戸で開店した「山親爺」では、凡愚譲りのフトを大切に育み提供しているという。それもこの店ではおおっぴらに堂々とフトをアテにして酒を酌み交わす光景も見られるという。この凡愚の主人が出羽で出くわした「太」が浪速で「フト」を産み、さらに播磨にも伝播したことになる。
 翻って「やまぎし」の荒挽きはどうなのか。ここの荒挽きは挽きぐるみに丸抜きの挽き割りを加えた代物で、他店の粗挽きとは異なる。店主の山岸氏によれば、このそばを思い付いたとき、とても細打ちは叶わず、必然的に太くせざるを得なかったという。しかも全くの独創の結果の産物であって、出羽の板そばも浪速や播磨のフトも全く知らないという。驚くべき発想だ。何事にも新しい発想をする氏独自の世界が見えてくる。
 補遺:いつか美濃の胡蝶庵へ寄っての帰り、関市の「助六」の「円空なた切りそば」を食べたくて寄ったが生憎の満席、しかも土砂降りとあって食いはぐれたが、ここのそばは、もし円空がそばを打ったらこんなそばを打ったであろうというそばで、田舎そばできしめんの倍以上はあると笑ってしまうような幅をもつ平打ちそばであるらしい。

2010年12月15日水曜日

五嶋みどりーこの素晴らしい音楽伝道大使

 11月3日の文化の日に五嶋みどりと井上・OEKとの初共演が実現した。もっともこの企画は年度始めに公表されていて、私は一度もあの天才少女にお目見えしていないこともあって、この特別公演は是が非でも聴きたいと願っていた。前売券の発売は7月1日10時、真先に申し込んだ。石川県立音楽堂のコンサートホールは1~3階を合わせて1,560席あるが、程なく完売したと聞いた。SS席でも9,000円と格安だったことも影響したのだろう。共演の演奏曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調、聴きなれた曲なのも人気の一端を担っていたのかも知れない。でもこの曲、今でこそ聴く機会が非常に多いが、この曲をアウエルに献呈したときには「演奏不能」とされた代物、代わってブロズキーに献呈され3年後に演奏されたものの、「悪臭を放つ音楽」と酷評されたという。これは4年前に作曲されたピアノ協奏曲第1番のルービンシュタイン献呈の場合と全く同じパターンだった。
 五嶋みどり(英語表記では単にMidori、これは母が離婚したからだとか)は1,971年大阪の生まれ、母の節さんはヴァイオリニスト、みどり2歳のときに母が弾いた曲を口ずさんでいるのを聴き、3歳から英才教育、6歳でデビュー、8歳のとき演奏テープをジュリアード音楽院に送って認められ、母と渡米する。11歳のとき、ズビン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会で「サプライズゲスト」としてパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番第1楽章を弾きデビュー、天才少女と評された。14歳のとき、タングルウッド音楽祭でレナード・バーンシュタイン指揮でバーンシュタイン作曲の「ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのセレナード」の最終第5楽章を演奏中、突然E弦が切れ、コンサートマスターのストラディヴァリウスを借りて演奏したが、またもE弦が切れ、今度はアシスタント・コンサートマスターのガダニーニを借りて演奏を続け、無事演奏を終えたという。14歳の少女が弾くヴァイオリンの大きさは3/4、コンサートマスターのは4/4、これには指揮者のバーンシュタインも感動し、驚嘆と尊敬の念で彼女を抱きしめたという。このことは翌日のニューヨークタイムズの1面トップに「14歳の少女タングルウッドをヴァイオリン3挺で征服」という見出しで報じられたという。そしてこの出来事は「タングルウッドの奇跡」として語り継がれ、アメリカの小学校の教科書にも載せられたという。
 現在彼女はアメリカを拠点に、年間70回以上の演奏活動に加えて、音楽を楽しく伝える非営利団体(NPO法人)「みどり教育財団」(Midori & Friends)を立ち上げ、特に開発途上国での地域密着型の社会貢献活動に取り組んでいる。またニューヨーク大学では心理学を専攻し、修士の称号を得ている。情操教育にも熱心で、特に子供のための活動が目立つ。現在南カリフォルニア大学ソーントン音楽学校の弦楽学部の主任教授であり、また日本人初の国連大使(ピースメッセンジャー)に就任し活動している。
 さて文化の日の当日、前半はOEKの演奏で、チャイコフスキーの3大バレエ組曲から7曲が抜粋されて演奏された。馴染みの曲ながら格調が高く、素晴らしい演奏だった。休憩の後みどりさんとの共演、マエストロ井上はいつものおどけた表情は見せず、心なしか少し緊張しているようだった。みどりさんは細かい水玉模様の黒っぽいガウン様の服を着ての登場、若いみどりさんのイメージからすると老けたなあという印象、マエストロはスコアなしでの演奏、だからか、みどりさんの情感豊かな優雅な旋律とOEKの格調高いハーモニーとは正に一体となっての演奏、満員の聴衆を魅了した。演奏後の二人の満足そうな表情に爽やかさを感じた。拍手が鳴り止まず、いつもはアンコール曲は弾かないといわれるみどりさんが、ショーソンのポエム(詩曲)を弾きますと言われた。この曲はショーソンの代表曲で、本来はヴァイオリンと管弦楽のための曲なのだがソロでの演奏、その繊細な音の響きに何とも言えない緊張の高ぶりを感じた。14~15分かかる曲、異例の贈りもの、本当に心から感動してしまった。万雷の拍手、素晴らしい名演奏だった。

2010年12月14日火曜日

ペースメーカーのバッテリー交換

 徐脈と不整脈が著しいということで、ペースメーカー植え込みを勧められたのは平成15年の2月上旬のこと、念のためホルターの心電計を24時間つけて観察すると、長い時は40秒も心臓が止まっていることがあることも分かった。以前から脈拍数は40程度だったのだが、何かの折に目まいを起こして内科に受診した際、その先生が金沢医科大学病院から派遣されてきていたこともあって、精密検査は金沢医科大学病院の胸部心臓血管外科へお願いすることになった。主治医の先生では、自動車を運転していて、ふっと気を失ったりすると大変なことになるから、ぜひペースメーカーを装着しなさいとのことで、お願いすることにした。診断された病名は「洞結節不全症候群」ということで、ペースメーカーの植え込み以外に改善はないとのこと、十分主治医から説明を聞いての手術だった。
 手術の担当医は若い方二人、麻酔は局部麻酔、ペースメーカーを入れるポケットの作成とリード線の心房と心室の所定の場所への設置で、すべてモニターを見ながらの手術、鼠けい部からも導線を入れられ、この一部始終は私も観察できた。難渋したのはリード線の先端が所定の場所に届かないことで、これには随分苦労していた。指導医がいてあれこれ指示するのだが、リード線の先端が丸まっていて、先ずこれを解消しないといけないのだが、遠隔操作とて思うようには行かない。施術されている私も段々心細くなっていた。とそのとき、突然大きなくしゃみが出た。するとリード線の先端が2本ともピッと真っ直ぐになったのにはびっくり、思わずヤッタと嬉しい叫び、私も安堵した。
 でも手術が終わってからが大変で、丸一日ベッドに固定された。植え込んだペースメーカーがずれないように固定させるためとか。それにしても丸一日動けないと腰が病めて、これには往生した。術後数日間は抗生物質の点滴、固定されている間の栄養補給は経静脈点滴、排尿の方はカテーテルでの導尿、何故か便意はなかった。そして3日目にはカテーテルも外され、食事もできるようになり、トイレにも行けるようになったが、便秘がひどく、これには実につらい思いをした。
 ペースメーカーのチェックは定期的に半年に一度行われる。ところで電池の寿命はまだ半年はもつとのことだったが、この10月のチェックでは、もう残りは少なく今月中に電池交換の手術をする必要があるとのこと、もし電池が切れると大変なことになるらしい。最初の埋め込みから7年半が経過していた。それで月末に入院することにする。今回は前の轍を踏まないように、特に入院前には食事を細くして、便秘にならないように、また腰痛対策には鎮痛消炎添付薬を用意し、また手術に備え入院1週間前からは常用している血液サラサラ薬も控えた。朝入院手続きを済ませ、所定の検査を済ませ、手術の説明を受け、同意書に署名する。医師の説明では午後にも手術するという。時間は約1時間、ただリード線に問題があると新しくする必要があること、また交換時に自分の脈拍が少なくて血圧を維持できないときは鼠けい部から一時的に対外式のペースメーカーを挿入する必要があることだったが、結果的にはこの両方ともクリアでき、手術は正味1時間弱、都合2時間で手術を終えられた。初めての本館での手術は、印象としては雑然とした雰囲気の手術室での手術という印象があったが、今回の新館の手術室は空調も感染症対策も万全で、実に素晴らしい環境と設備、そんな手術室がずらっと並んでいるのには驚かされた。
 今回は尿カテーテルの挿入もなく、術後3時間はベッドで安静にしていて下さいと言われたものの、固定されることもなく、3時間後には飲水も可とのこと、栄養点滴と朝夕2回の抗生物質の点滴で、体の動きを制限されるようなことはなく、この前のときに遭遇した数々の心配は杞憂に終わった。当初入院は1週間とのことだったが、ペースメーカーのチェックは専門の業者が行っていることもあって、9日目の退院となった。

[病院でのあれこれ]
・「病室からの眺望」:病室は新館10階の西病棟、窓からは晴れた日には、南側には白山から富士写ヶ岳に至る山並み、西側には眼下に能登有料道路を挟んで日本海が開け、晴れていれば夕日が海に沈むのを居ながらにして見ることができる。夜は街灯や家の明かり、それに車の灯でかなり明るく退屈しない。でも明かりで星はほとんど見ることはできない。
・「日の出」:西病棟のダイニングルームからは海しか見えないが、東病棟のダイニングルームからは北から東を見渡せ、宝達山から北アルプスも後立山から乗鞍岳までを俯瞰でき、特に快晴の日の日の出は素晴らしい。日の出は6時50分近く、座って見てても飽きない。特に夜明け寸前の山並みのシルエットは実に鮮やかで圧巻、特定してはいないが、後立山は朝日岳辺りまでも見通せるのではなかろうか。朝日は乗鞍岳辺りから昇る。夕日は太陽が真っ赤に染まって大きくゆっくり沈むのに対して、朝日は小さいが珠玉のような光でもって目を射る力がある。陽が上がると辺りが靄ってしまい、山並みは薄れて見えなくなる。今は使用されていない本館からだと、東から南へ医王山から白山、三ノ峰までも眺められるが、東側には12階建ての本館があるので両白山地を見ることは出来ない。
・「食事」:入院の際に食事は1500Calとのこと、飯は全粥、食塩は5gとのこと、1週間の辛抱、もちろん禁酒である。それにしても基礎代謝量とは恐れ入った。といって別段つまみ食いもせず、若干お茶を飲んだ程度、あまり動かないからこれでいいのかも知れない。
・「運動」:手術後5日には、院内歩行がOKとなった。そこで階段の昇降をすることを思い付いた。非常階段の場所は入院時に担当の看護師から説明されていた。西病棟の非常階段で通行できるのは上は12階まで、下は地下1階までである。この間に段数は298あり、高低差は50mある。そこで食後に10Fから12Fへ上り、次いでB1Fまで下り、その後10Fまで戻るということを試みた。時計の高度計機能を確かにするため、12FとB1Fでは10秒立ち止まるが、後はノンストップで昇り降りする。ただ手術後から退院するまで心電計を着用させられていて、昇降時もつけたまま、これはスタッフステーションでモニターされているのだが、特に昇降の影響はなかったのか、別段注意はなかった。この昇降には10分を要するが、それでもこれだけ歩くと汗が出る。ただこの正式には階段室という非常階段は、通常は関係者以外立入禁止なのだが、スタッフと会っても別に咎められたことはない。
・「看護師」:西病棟には24人の看護師(うち男性1人)がいて、日勤、夜勤、その中間の勤務の体制で常にローテートしている。したがって1日のうち3回も係りの看護師が代わるので慌ただしい。私には一応担当の看護師はいるものの、私にかかりきりではない。この階は整形外科、呼吸器外科、胸部心臓血管外科の患者が多く、患者数は50人である。それにしても診療科がいろいろなのに、それぞれの診療科の専門知識も持ち合わせている必要もあろうに、看護師のレベルはかなり高いように思えた。また感心したのは言葉遣いで、血圧測定、採血、点滴、聴診、検脈等にあたっては、皆さん「~してもらっていいですか」という言い回しをするし、終わった後には大概「ありがとうございます」と言うが、少し過剰なのではと思ったりする。でも近頃は「お客様は神様」的な考えが敷衍しているから、これ位は当然のことなのだろうか。7年前の入院ではこんな現象は全くなかった。