2010年2月18日木曜日

三男坊が肺がんにー前厄と本厄の年に突然

 厄払いというのは、私達の年代では前厄の年にお宮さんで厄払い・厄除けをし、同年の女性を温泉に招待し厄落としをしたものだ。正確には同年なのだろうけれど、実際には同級生が集まってやったものだ。私達のクラスは大部分が昭和11年生まれの子年、でも翌12年の1月から4月1日までに生まれた丑年生まれの人も入っている。私は昭和12年2月の丑年だ。先輩たちはその年によって厳密に同年生まれだけにしたこともあったらしいが、私達は暗黙の了解で小中学校の同級・同窓生で行った。こうなったのも、小学校も中学校も1学級のみだったからで、ほとんど9年間同じ顔ぶれで過ごしてきた。だから招待する女性も小中学校の同窓生ということで、女性にとってはおまけ付きの同窓会のようなもの、正にタナボタである。でも今は1学年に数学級、こんなプライベートなことは中々まとまらないだろう。とは言っても現実はどうなのだろうか。個人的にはする人もあるだろうけれど、しない人の方が多いのではなかろうか。あるいは無頓着で知らないうちに過ぎてしまった人もいようし、そんなのは迷信だと無視する人もあろう。論語には四十にして惑わずとあるが、昔は身体も節目だったことから厄を当てはめたのかも知れない。しかし寿命は昔から比べれば20年も30年も延びていることからすると、身体の節目も延びているかも知れない。三男坊は厄払いをしたかどうかは聞いていないが、昨年12月で満40歳、正に今年が本厄の歳である。
 彼(三男)が十数年勤めた会社を辞め、新しく設立された会社に勤めるようになって7年が経過する。健康には気を付けていたようだったが、煙草だけは外回りをしていたこともあってか、かなり吸っていた。実家である私の家に来ても、部屋でプカプカ吸っていたし、余り遠慮はしていない感じ、私など内心吸わない方がよいとも思ったが、特段止めるようには言っていない。健康診断は毎年受けていたようだったが、特に問題となるような点もなく、表向き健康だった。ただ社長が何かの折、若い者達全員をグラウンドで周回させたときに、彼は偉丈夫なのにいつもビリになると言っていたのが気懸かりだった。しかしその原因は通常の健康診断の際の肺の直接撮影でも分からなかったが、人間ドックへ入ってCTスキャン(コンピューター断層撮影法)を撮ったときに判明した。恐らくは煙草のせいだが、肺の上部3分の1に肺胞はなく、空洞化していた。機能は正常の70~80%だという。私も40歳まで煙草を吸っていたが、そんなことは考えてもみなかったのに、彼はダメージを受けやすい質だったのだろう。早速禁煙外来に受診し、禁煙したことは言うまでもない。走ってビリになったのは吸入酸素量が少ないせいで起きたものだった。しかし平常の仕事で不便を感じることはなかったようだ。直撮では真っ黒に抜けてきれいだったわけである。病名は肺気腫、壊れた肺胞は再生しない。
 その後PET(ポジトロンCT)も受けたが問題はなかったようだし、でも念のためのCTによる診察は毎年県立中央病院で受けていたようだ。それから3年ばかり経過した昨年7月、突然の発熱、息苦しさもあり酸素吸入、肺炎の疑いもあり入院した。私も付いて行ったが、主治医では数日もすれば退院できるでしょうとのこと、誰もその言を疑うことはなかった。しかしその後の喀痰検査でも病原菌は見つからず原因は不明、したがって使用薬剤は頻度の高いものを予想しての投与だった。治療薬投与後に一旦は解熱するものの、1週後には再び38℃台の発熱、その度に退院は延期になった。こんな繰り返しが8度も続いたろうか、彼の細君と私達両親が主治医に呼ばれ、このことは本人には内緒にしてほしいと言って話されたのは、これまでこれはという抗生剤を使ってきたが、一時は解熱するが、1週間後にはまた発熱し、もう手持ちの抗生剤がなくなり、今は神頼みだとのこと、データと経過のグラフを見せられ、これには参ってしまった。X線撮影での肺炎病巣も1ヵ所よくなるとまた他に出てくるといった具合で、恐らくは通常の病原菌ではなく、非病原性の常在菌ではなかろうかという。しかし最後の抗生剤が効いたのか次第に回復に向かい、外出の許可も出、会社にも行き、自宅での外泊もできるようになり、やがて退院できた。ただ肺炎のもやもやが薄れるにつれ、2年前にもやもやがあった場所にもやもやした陰影が残り、少しその面積が大きくなっているような印象だったので、念のためバイオプシーを行ったが、肺がんとは断定できず、でも疑いは残った。でもその時は後日PETをということで9月半ばに退院した。
 ところが10月半ばに検査入院して行ったPETでは、グルコースの集積が右肺上葉背面と左仙骨にあり、この時点で肺がんが確定し、骨転移があることが確実になった。Ⅰ期から転移があることで突然Ⅳ期ということに、まだ痛みはなく、主治医では仙骨への放射線治療の後、抗がん剤治療をしましょうということだった。後で知ったことだが、肺がん疑いの前の診断は、中度の肺気腫と軽度の間質性肺炎ということだった。徐々にに痛みは出てきたものの、まだ夜はぐっすり眠られるとのことで安心していたが、次第に左足の痛みがひどくなり、終いには眠られなくなり、12月になり再び入院した。痛みは相当なものらしく、一晩中眠られず立ってトントンしていなければならなかったという。入院してモルヒネ製剤のオプソ液を投与されたが痛みはなくならず、私達は帰宅したが、後で大量投与があったのか、一晩中発汗がすごく、掛け布団まで濡れたほどだったという。当直の看護師にコールしても、顔の汗を拭ってくれるだけ、その上幻覚が出てとても怖く、次の日の昼間もその幻覚が続いたという。女の人3人と男の人2人が目の前にはっきり見えるという。恐怖もあり、夜誰かに居てほしいとのことで、家内が泊まることに。その後モルヒネの量も適量になったせいか、幻覚はなくなったが、一方で副作用の便秘がひどく、通常は3日が要チェックというのに10日も溜め込み、これには苦労したようだった。病棟看護師も麻薬の扱いに慣れていなかったせいもあって、対応は適切でなかったようだ。しかし痛みが薬で遠のいたこともあって、仙骨への放射線照射が10回実施され、そのせいで痛みは更に少なくなったようだった。そして3週間の病院住まいで退院できた。ところが放射線治療後抗がん剤投与を予定していたが、間質性肺炎が予想以上に悪化していて、これを治さないと抗がん剤治療には入れないということになった。肺炎治療のためのステロイド投与が始まった。
 肺がんが確定したとの知らせで、次男がネットで探して「今あるがんが消えていく食事」という本を送ってきた。済陽高穂(わたようたかほ)という消化器外科医が著したもので、無塩に近い食事、家畜の肉は食べない、新鮮な野菜を大量摂取する、胚芽成分や豆類を食べる、乳酸菌や茸・海藻をとる、植物性脂肪や魚油をとる、水は自然水を、当分は断酒、といったところが主旨で、これで進行がんでも3分の2に有効だという。早速実行に移したようだった。また年の暮れに彼が勤めている会社の相談役の方からは温熱療法がよいと言われ、元旦には静岡県の伊東市にある治療院まで出かけ、施術の方法を習ってきた。本人の希望もあり、良いことは実施することに、帰路に眺めた富士山が実にきれいで神々しかったと現地から弾んだ声で電話してきたのがすごく印象的だった。彼は抗がんサプリには手を出していないが、烏骨鶏の卵は日に1個食することにしたと。このような努力で、腫瘍マーカーのCEA(がん胎児性抗原)や間質性肺炎マーカーのKL-6(シアル化糖鎖抗原)の価が少しでも下がってくれれば励みになるのだが。
 CEAの価は、肺炎だった5月と9月には1桁、肺がんと診断された10月は30台、11月は50台、痛みが出てからは100台に、主治医では指数曲線的に増大するだろうと。でも1月は若干の増加はあったものの100台、食事と温熱のせいなのではと思ったりもした。しかし痛みは増してきて、痛みの心配から再び入院することに。痛みには専らモルヒネ製剤、量は始めた頃は5mgだったのに、最近は4倍量とか、鎮痛の貼り薬も多くなった。主治医は麻薬はどんどん使っていいとか、確かに日増しに量が増えている。また細君に本人には好きなものは何でも食べさせてよいと先生が言われるとか。でもこれだと緩和ケアでの対応のようで、がんを治す方向に向けられていないような気がしてならない。また食事療法なんて、そんなに効果があるものなら病院でも採用してますよとも。そして何故か抗がん剤治療はできないという。
 がんと宣告されてから、彼はネットで、がんを治療している施設で、しかも治験している機関を興味をもっていろいろ収集し、驚くべき情報量を持っているのには驚いた。でもその場所は近くには少ないようだった。テレビでも時々先進医療の紹介があり、彼が勤める会社の社長からも、最先端の重粒子線とか陽子線による治療や免疫療法の紹介があり、私も頼まれて国立がんセンターで行われているペプチド療法のことで、知り合いの先生に仲介してもらい問い合わせもした。でもこれら先進医療は健康保険の適用はなく、自費治療となるため、治療だけで数十万円から百数十万円かかり、安易に受けることはできない相談だ。旅費や滞在費を入れれば更に百万円は必要とか。施設数もまだ少なく、また彼のように肺気腫で間質性肺炎、仙骨への転移もあるとなると、選択肢はさらに狭まるような感じがする。でも今のままではジリ貧で、このままでは治らないとこちらが焦ってしまう日々、そんな折ある医師から大学病院で治療したらと紹介を受けた。大学ではチーム医療が可能なので一度来院しませんかとのこと、それで三男には強く勧めたが、彼も細君も気乗りしないと言う。何故か理由は言えないとのこと、そして疑問のことがあったら主治医にぶつけてくれと。そこで家内が段取りをつけてくれて主治医に無理を言って時間をとっともらい面会した。
 冒頭主治医は、これまでの経過その他については、両親であっても本人の承諾がないと話せないのだが、本人がそう言うのであれば話しましょうと。かいつまんで言うと、間質性肺炎が放射線照射で憎悪したし、造骨剤投与でも悪化した。抗がん剤投与については本人が希望すれば行うが、行えば間質性肺炎の一層の憎悪は目に見えているので、医師としては勧められないと。それよりは痛みの緩和に気配りし、それも今経口投与している麻薬の量が増えても続けたいと。今は外出して仕事をしているようだけれど、痛みを完全にブロックする方法もあるけれど、それを始めると外出も外泊もできなくなってしまう。本人は今はまだやりたい仕事があるということなので、少し痛みがあっても今の状態の延長がベターだと思うと。これまでそこまでは聞いていなかったので、彼が頼っている以上、転院は無理だと判断した。三男には転院を無理強いしたことを詫び、転院の件はないことにし、様子を見ることに。
 このような状態だから、本質的ながんの治療は行えない状態だ。私としては他力本願ながら、神仏の加護にあやかりたいと念じているのだが、彼ら夫婦は霊の力など信じないという。また家内も奇跡が起きることを信じて真言密教のお経を唱える日々なのだが、何か奇跡とかミラクルが起きないものだろうか。いやぜひ起きてほしいのだが。

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