2009年7月27日月曜日

近代になっての剱岳初登と錫杖頭・鉄剣の発見

小説「剱岳 点の記」と映画「剱岳 点の記」
 映画「剱岳 点の記」は新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説が出版されたのは昭和52年(1977)8月で、この小説を書くにあたって、新田次郎は2年にわたって多くの取材をしているほか、前年には剱岳にも登頂している。しかし取材したことをすべて小説にそのまま反映させているわけではなく、、ノンフィクションのようで実はそうではない。主人公は陸軍参謀本部陸地測量部に所属する柴崎芳太郎測量官が前任の古田盛作の後を継いで、地図の空白地域としての剱岳に三角点を設置しようと一途に努力し、四等ではあるが造標することができた物語である。それには先ず剱岳に登頂しなければならないわけで、山の案内人には前任者からの薦めもあって、大山村の宇治長次郎を選んでいる。立山周辺の三角点設置には、これまで立山信仰の拠点である芦クラ寺の人達に山の案内や機材・資材を運ぶ人夫を頼んできたが、剱岳は信仰では死の山、決して登ってはならない山と位置付けされていたために、芦クラ寺での案内人・人夫の調達は出来ず、代わって対岸の大山村に協力を申し出た経緯がある。
 ところで小説では、柴崎芳太郎測量官が主役、宇治長次郎が重要な脇役となっている。初登頂されたのは明治40年(1907)、前年には夏から秋にかけ、大山村の長次郎の家を根拠地にして、柴崎と長次郎は剱岳の登路を探るための下見をしている。そして尾根伝いでは早月尾根も別山尾根も頂上直下に岸壁があり、三角点の標石や測量機材・資材を上げることは困難と判断、残るルートは東面の沢をまだ雪渓が残っている時期を見計らって登ることにし、そしてこの沢筋のルートから登頂できた。第1回目の登頂は、明治40年(1907)7月12日、登頂者は測夫の生田信(ノブ)と人夫の宇治長次郎、岩木鶴次郎、宮本金作、第2回目の三角点測量標建設には、7月27日に柴崎芳太郎測量官、木山作吉測夫と人夫の宇治長次郎、宮本金作、山口久右衛門、南川吉次郎が登頂した。しかし正規の三角点設置は出来ず、木片をつなぎ合わせて四等三角点とした。そして初登頂の折に、頂上の凹地に錫杖の頭と鉄剣を長次郎が発見したとしている。(登頂日は事実の日より1日早くなっている)
 映画では、二度ではなく一度で登頂したことになっていて、登行ルートは小説と同じ三ノ沢(長次郎谷)からで、登頂者は柴崎芳太郎測量官、測夫の木山作吉と生田信、人夫の宇治長次郎と山口久右衛門で、宮本金作と岩木鶴次郎は残留となっている。登頂して木片で四等三角点を造り、錫杖の頭と鉄剣を見つけたのは長次郎で小説と同じである。ロケでは実際の登頂日である101年目の7月13日にスタッフが登頂しているが、本隊が到着した20分後には頂上のみガスで視界がきかず、やむなく下山、7月16日に再度登頂、この日は快晴だったとか。
剱岳登頂の記録と錫杖頭の発見
 さて史実では、柴崎らが下山して後、富山日報の取材を受け、柴崎芳太郎測量官の談話が明治40年(1907)8月5日と6日に『剣山攀登冒険譚』として新聞に連載された。それによると、第1回目の登頂は7月13日、ルートは現在の長次郎谷から、私が生田測夫と人夫4名(山口、宮本、南川、氏名不詳)を引率して登ったが、氏名不詳の1名は雪から岩へ移る地点で落伍し、残り5名で登頂したと。そしてその折、小さい建物跡のような平地に錫杖の頭と鉄の剣を発見したと。第2回目は三角点測量標を建設するために、木山測夫と人夫岩木其の他を率いて三角点を設けようとしたが運び上げられず、やむなく四等三角点を建設したと。それも木片4本を接いで漸く6尺になる柱1本を立てたに過ぎないと。この第2回目には日にちの記載はない。
 小説では、柴崎らの陸地測量部と日本山岳会が剱岳登頂の先陣争いをしたような展開になっているが、史実ではそういう事実はない。また映画では柴崎らの登頂数日後に、小島烏水率いる山岳会のメンバー4人が登頂しているが、これは全くの作り話で、小島は生涯剱岳には登っていない。だが小島烏水は日本山岳会(当時は単に山岳会)の有力な創立メンバーで、正式な発足は明治38年(1905)10月14日で、機関紙として「山岳」を年3回発行しており、第1年第1号は明治39年(1906)4月に刊行されている。そしてその第3年第3号の雑録に、小島烏水が柴崎芳太郎の談話記事として、「越中剣山の探検」は登山史上特筆する価値があるとして、その全文を紹介している。しかしこの内容は先に示した「富山日報」の内容と同じである。
 その後明治43年(1910)3月発行の「山岳」第5年第1号に、吉田孫四郎の登山記「越中剱岳」が出た。これは一般人としての剱岳初登頂の記録で、登頂は明治42年(1909)7月24日で、同行はほかに河合良成、野村義重、石崎光搖の山岳会メンバーである。案内人は宇治長次郎、佐々木浅次郎、立村常次郎ら大山村出身の者達で、当時の立山温泉では、既に長次郎は剱岳へ登った「剛の者」として知られており、その情報を基に特別待遇で雇われたという。吉田の言では、彼は一点の非難されるべきことなく、しかもこれほどの好漢はいないと高い評価をしている。そして一行が登った谷を「長次郎谷」と命名し、剱岳にその名を留めたとある。またこの記述の中で、「長次郎は柴崎測量官一行の測量登山に従事して剱岳に登った」と文章で記している。これには石崎が撮影した「剱岳頂上の南望」という小さな測量標を前にした写真が写っていて、その測量標は天然木の皮むきの支柱で、針金で固定されていた。これは柴崎が話した木片を接いで柱を立てたという話とは異なっている。時にこの天然木は長次郎が一昨年自身で担ぎ上げたものだと言っていたと。また陸地測量部の剱岳登頂については、人夫の宮本金作が語ったこととして、第1回目は生田測夫と人夫宇治長次郎、第2回目は木山測夫と生田測夫、人夫は宮本、山崎ほか2名、但し自然木の支柱は長次郎が担ぎ上げたとしている。要は引率したのは技能抜群の測夫木山、生田の両氏で、かの古器二品を発見したのは生田測夫であると。そして柴崎測量官は前後両回とも登頂に参加していないと。
 これに対し柴崎芳太郎は、明治44年(1911)5月発行の「山岳」第6年第1号に、宮本金作の話には相違があるとしている。それによると、第1回目は「測夫・生田に命じて、査察させた」。第2回目は「測量上の判定を下すべく、測夫・木山を率いて自ら登山し、四等三角点の建標を建設することに決定した」と書いている。このように剱岳登頂についての疑問に対しては上のような弁明と反論を載せているが、長次郎の剱岳登頂については一言も触れておらず、肯定も否定もしていない。このように責任者としての柴崎測量官が正しい事実を述べなかったことがいろいろな憶測を生み、情報を錯綜させている。
 柴崎芳太郎の長男柴崎芳博は、昭和55年(1980)12月発行の「山岳」第75年に「剱岳登頂をめぐってーある疑問点について」の一文を寄せ、その文中で、父の登頂は第2回目であるとしている。そして父のメモでは、第1回目は生田信測夫、人夫は山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、その他1名、第2回目は木山作吉測夫、人夫は岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎で、柴崎は第2回目に登頂したと。メモには宇治長次郎の名前は出てこないが、第1回目のその他1名がそうであろうと。信仰心の厚い長次郎にとっては剱岳は登ってはいけない山という伝統的心情のため、雪渓を登り詰めながら登頂を断念したというのが本当で、それが落伍したと伝えられたのではと。結論的な見解として、信心深い長次郎が、その禁忌があったために「落伍」とされ、神聖な絶頂を土足で踏むことを避けさせ、厳しい掟が足を釘付けにしたのが一般的な見方だとしている。
 また山岳会メンバーとして一般人として剱岳初登頂した河合良成は、昭和38年(1963)4月にNHKの「趣味の手帳」で、「半世紀前の剱岳登山」と題して話した内容を日本山岳会の「会報」227号に寄稿している。登頂した時の様子を、「頂上には長次郎が一昨年担いで来て立てた天然木の皮を取ったような棒が一本立っていて、それが針金で支えてあるところの三角台がそこに立っていて、『これは私が担いで来て立てたんだ』と長次郎が言っていたと。多分その年に何回も剱岳へ登ったと思われ、おそらく第1回は長次郎だけで、後から柴崎測量官が登ったんだと思います」と。
 また錫杖の頭と鉄剣については、その発見者は小説では長次郎となっているが、新田次郎の取材記事では、剱岳登頂の折、「ここら辺りで生田測夫が見つけたのだと思いながら岩石が積み重なった辺りに目をやった」と記している。古くは「富山日報」では、一行が発見したことになっているし、また他の文献・史料では、柴崎芳太郎が発見し持ち帰ったと記されている。現に新田次郎は柴崎家でこの錫杖の頭と鉄剣を手にとっている。その際長男の芳博氏はしかるべき時にしかるべき場所へ返すと言われていたと。現在は重要文化財として立山博物館に収蔵されている。生田測夫の孫の生田八郎は、平成19年(2007)の秋に、立山博物館に展示されている錫杖の頭と鉄剣を見た後、剱沢小屋の主人佐伯友邦の家に立ち寄って、「錫杖の頭と鉄剣は祖父が見つけたと親から聞いている」と話したと。
 以上、剱岳の近代になってからの初登頂と四等三角点の造標、錫杖の頭と鉄剣の発見については、真実はただ一つであるにもかかわらず、剱岳を含む三角網を完成させるために、周辺27箇所に三等三角点を造標し、その指揮を取った責任者が真実を語らなかったばかりに無用な推測を生み、宇治長次郎なる人物は全く知らない、記憶にないと死ぬまで言い切ったのは何故なのか、実に理解に苦しむ。近代の登山界にあっての重鎮ともいうべき田部重治や冠松次郎は、「宇部長次郎は性質は温和で人と争うという風なところが微塵もなく、そして山に対しては凄い勘の持ち主だ」と褒めている。また柴崎測量官が剱岳に造標した四等三角点は木片を4本接いで造ったと発表しているが、2年後に登頂して見たのは天然木だったことからしても、柴崎測量官の言質は怪しいと思わざるを得ない。現存している写真が確かなその証拠である。
 登山史家であり、また宇治長次郎の出身地でもある富山県大山村の出である五十嶋一晃は、宇治長次郎の登頂に関することが、いつまでも登山史上の疑問の対象になり、議論されることが残念でならないと言っている。彼は「剱岳測量登山の謎ー長次郎を巡る疑問」の中で、いくつかの情報から帰納的に推理を重ねてみると、次のようになると。
・測量登山は2回行われた。
・第1回目は明治40年(1907)7月13日、登頂者は生田信、山口久右衛門、宮本金作、南川吉次郎、宇治長次郎。
・第2回目の登頂日は不明、登頂者は柴崎芳太郎、木山竹吉、岩木鶴次郎、野入常次郎、山崎幸次郎、南川吉次郎。
・観測用の自然木を背負い上げたのは宇治長次郎。
 なお、第2回目の登頂日については、陸地測量部に保存されている「四等点標高程手簿」からは、明治40年(1907)7月28日となっている。
 また、錫杖頭と鉄剣の発見者は生田信、持ち帰ったのは柴崎芳太郎であろう。

付記1:明治期の三角測量班の編成は、測量官1名、測夫2名、人夫5~6名が標準となっていた。
付記2:大正2年(1913)、近藤茂吉は佐伯平蔵、宇治長次郎、人夫1名と長次郎谷から剱岳へ登り、近藤と平蔵は別山尾根を初下降し、長次郎と人夫1名は平蔵谷を初下降している。「平蔵谷」と命名したのは近藤である。

2009年7月16日木曜日

映画「剱岳 点の記」-監督木村大作の根性と拘泥ー

「点の記」
 「点の記」とは、三角点設定の記録である。三角点には一等(全国に972点、約40~50km間隔)、二等(全国に5,056点、約8km間隔)、三等(全国に32,699点、約4km間隔)がある。「点の記」には三角点を置くことを決めた(選点)年月日と選点者、三角点を設置した(埋石)年月日と設置者、観測のための櫓(点標)を造り(造標)、経緯儀を使って観測した年月日と観測者のほか、その三角点へ行く道筋や所要時間等を記載することになっている。これら明治21年以降の「点の記」の記録は、今は国土地理院に永久保存資料として保管されている。剱岳の「点の記」については、当時三等三角点を設置する予定だったが、登頂すら困難だったうえ、ましてや94kgもある三等三角点の柱石や測量機材を運び上げることはとても絶望的で、埋石を断念した経緯がある。その後現実に剱岳頂上に三角点が設置されたのは平成16年(2004)8月になってからで、この時点で初めて「剱岳点の記」が生まれたことになる。これを見ると、選点年月日は明治40年7月13日、選点者は柴崎芳太郎、設置年月日は平成16年8月24日新設、設置者は伊藤純一、観測年月日は平成16年8月25日、観測者は中山雅之、方法はGPS測量となっている。測量は1970年頃までは三角測量、その後20年間は光波測距儀という機械を用いての三辺測量、以後現在はGPS測量が一般的なものとなっている。 
 石川県でも現在登山路がない山々にも三角点が設置されているが、三角点があれば「点の記」が存在するわけで、例えば笈ヶ岳は最も奥まっていて行きづらい山であるが、この山へいつ、誰が、どんなルートで、100kg近くもある柱石や測量機材を運び上げたのかは「点の記」を見れば判明する。また陸地測量部の人達が登頂した時には、剱岳と同じように、修験者が残したと見なされる錫杖があったという。
小説から映画へ
 本年6月20日に全国で封切りされた映画「剱岳 点の記」は、新田次郎の同名小説に拠っている。これは剱岳に三角点を設け、測量の空白地域を埋めるという役割を担う、旧陸軍参謀本部陸地測量部測量官の苦闘の物語で、明治40年(1907)7月に測量官柴崎芳太郎が剱岳に四等三角点を選点したという事実を中心に物語は展開する。ところで小説の推移は事実(史実)との隔たりが大きいうえ、ドラマとして面白くするために、柴崎芳太郎測量官が宇治長次郎の協力を得て初登頂し、また陸地測量部と日本山岳会(当時は単に山岳会)とで剱岳登頂先陣争いをさせたりしているが、これは物語上のみでの展開である。映画ではこれを更に映像での迫力を高めるためにいろんなアレンジを加えている。ところで柴崎芳太郎は死ぬまで、生前の記録には勿論、友人や息子にも宇治長次郎なる男の記憶は一切なく、全く知らないと言っていたという。何故なのか、ミステリーである。でも小説も映画も協力して登頂し選点したというのは、事実はどうあれ心休まる物語となっている。
 この映画の監督はカメラマンを40年近くやってきて40本近い映画を撮ってきた木村大作である。この構想が生まれたのは2006年2月、能登の海を撮りたくて出かけた帰り、内浦や氷見の海岸から富山湾を隔てて見えた立山・剱の連峰に感激し、上市町へ行き、剱岳を見ながら新装版の文庫で出版された原作を読み返したとき、ただ黙々と地図を作るためだけに献身している測量官に自分を重ね、これを映画にしたいと思ったという。新田次郎の小説は最も映画になりにくいと言われる。構想を坂上順製作責任者に相談したところ、藤原正彦の「国家の品格」を読んだらト薦められ、そこに「悠久の自然、儚い人生」という言葉を見つけ、これは正に我が人生と思ったという。この時はその著者が新田次郎のご子息とは知らなかったという。早速申し入れしたところ快諾されたうえ、以前の新田作品映画化でのカメラマンだったことを覚えておられ、原作をいかようにも変えて頂いても結構ですとまで言って頂いたという。またもう一人の亀山千広製作担当からは、2年かかるけれど、全部本物の場所で撮影しなさいとの助言をされた。この時、脚本も撮影も監督も自分でやるしかないと腹を括ったと述懐している。
監督の構想と出演者への注文
 2006年の春から夏にかけて、木村監督単独もしくは菊池敦夫プロジューサーと二人で立山へ数回出かけ、天狗平、室堂、室堂乗越、別山、剣御前、剣沢へ、そして7月末には剣岳にも登頂する。帰ってからは精力的に脚本作りに没頭する。二人のほかに宮村敏正監督補佐も加わる。そして同時に一緒に闘う仲間となるキャストやスタッフを全員面接して集めた。特に主役の柴崎芳太郎役の浅野忠信には、監督がはまり役と思い込んだだけにかなり強引に引っ張り込んだようだ。またもう一人の案内役の宇治長次郎役の香川照之も、意気込みが凄くて諾しかなかったと言わしめている。後はかなりスムースに決まったようだ。そして最大の演出は、明治39年から40年にかけて、剣岳周辺の地図を作成するために黙々と献身的に測量した人達を実写すること、そしてただひたすらに懸命に生きる人々に光を当てることで、「永遠の自然と儚い人生」を対比して浮かび上がらせることだと。それには作品に出てくる人物になりきって追体験してもらうためにも、撮影は順撮りすることにしたと。監督の構想では、撮影はすべて現地で、しかも合成による撮影はしない。山の撮影にヘリコプターを使っての空撮はしない。CG(コンピューター・グラフィック)は使わない。更にロケ地現場への移動はすべて徒歩による。撮影機材は人力で担ぎ上げる。自分の荷物は自身が背負って運ぶ。泊まりは山小屋(雑魚寝)かテント泊。また、この撮影ではもっと過酷なことを強いるかも知れないが、この撮影は単なる撮影ではなく、お釈迦様の教えにある「苦行」であると。これらの条件を受け入れて、共に山へ登る覚悟をして参加してほしいと。これを全員に徹したという。
 監督が狙っていたのは、もし本物の状況の中に俳優を立たせ、そこに嘘を加えない同じ状況下で撮影すれば、そこで俳優がその時感じていることは、その役の人もそう感じていただろうと。だからそのような状況のときに、もしアドリブが自然に吐露しても、それはその役の人の言としてOKにしたという。このほかにも脚本にない場面が随時挿入された。奇想天外と言わしめた着想だ。現に現場での撮影には、荷物を少しでも減らそうと、脚本を持たずに参加した人が大部分、でも現場第一の監督には、脚本は不要だったかも知れない。そして山の天候の急変に驚きもし、自然の荘厳さと恐怖とをしっかりと実写し、これまで接したことのない映像を具現化してくれた。 
山での撮影行ー俳優なしでの実景ロケ
 実景ロケは2007年春から夏にかけて3回行われた。第1次ロケは4月、天狗平山荘を基地に、天狗平、弥陀ヶ原、天狗山、室堂、雷鳥平、室堂乗越など。その後別山での撮影のため剱御前小舎へ移動しようとした際、前日雷鳥沢で雪崩があったこともあり、尾根筋を吹雪のなか移動する破目に。スタッフ5人・ガイド4人がホワイトアウトの中、アンザイレンして登る。最初の試練。転ぶなら右へ、左だと助かりませんと言われたと。翌日も終日猛吹雪。でも次の日は風は強いが晴れ、荘厳な日の出と朝日に輝く峰々を激写、別山からは感激の剣岳を撮影。でも次の日は暴風雨、山の天気の急変に驚く。翌日は小康状態の合間に一気に下山。その後能登半島、島尾海岸、馬場島から剱岳を、更に5月の連休には八方尾根から唐松岳に登り剱岳を撮影。
 第2次ロケは6月下旬から7月上旬にかけて、前半は剱御前小舎をベースに室堂、雷鳥沢、剱御前、室堂乗越で撮影。後半は天狗平小屋をベースに五色ヶ原へ、1回目は一ノ越、浄土山、龍王岳、鬼岳、獅子山、ザラ峠で撮影しながら五色山荘へ、霧と雨の中の撮影行。翌日は更に南行しようとするが天候回復せず、沈殿せずに天狗平小屋へ雨の中を引き返す。翌々日再度五色ヶ原へ、でも霧が濃く撮影かなわず、再び天狗平小屋へ戻る。この雨の中の2往復はきつかったと。でもスタッフは一歩一歩確実に歩けば、必ず目的地に着けることを確信したとも。帰る前日は晴れ、監督は急に雄山へと。そして大汝山でも撮影、雄山に戻り、東尾根を下らせての撮影、でもこれはプロモーション用。終って雄山頂上で今後の撮影の無事を祈願してお祓いを受ける。
 第3次ロケは8月上旬、長次郎谷から剱岳頂上へ、頂上で富士山実写。別山尾根から下山、途中南壁でロケハン。剣山荘と剱澤小屋をベースに剱沢付近を撮影。下山前に奥大日岳を下見。
山での撮影行ー俳優入っての測量行ロケ
 〔2007年秋季ロケ〕 9月下旬~10月下旬。柴崎芳太郎と宇治長次郎が山に下見に入る。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、雄山、室堂乗越、別山、剱沢で。ある日、剱沢から池ノ平へ、片道9時間、しかし2カットのみ。更に剱御前、南壁のシーン撮影。別山で剱岳へは「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」と暗示された行者を、降雪の中、二人で山から下ろすシーンを撮るため雪待ち、それで本隊は一旦帰京。10月下旬になり雪、下山シーン撮影。その後須山の洞窟、称名滝、岩くら寺など撮影。
 〔2008年春季ロケ〕 3月中旬。雪の馬場島と新潟の雪崩実験現場での雪崩シーン撮影(2月に一度失敗)。カメラ4台、木村監督のカメラのみ流されず、他はカメラマンもカメラも雪崩で流される。4月上旬~5月中旬。測量隊が出発。雄山神社、弥陀ヶ原、天狗平、天狗山、室堂乗越、馬場島で。天狗平での雪崩後の脱出シーンの撮影では、測量隊5人を雪に穴を掘り完全に埋めての脱出。その後、雄山、一ノ越、浄土山、五色ヶ原で撮影。下山後、常願寺川の河原で五色ヶ原で嵐に遭うシーンを撮影、ダンプで雪を運び、消防団の協力でホース20本、巨大扇風機2台で撮影、通常ホースは上向きにするが、この時は横向き、団員をしてこれは消火だと言わしめたほど。日暮れと同時に本番となったが、真夜中にライト切れ、翌日も続行。5月には山岳会の部分ロケ。
 〔2008年夏季ロケ〕 6月中旬には雷鳥荘と剱澤小屋をベースに奥大日岳での点標設置と平蔵谷からの南壁アタック。7月中旬には剱岳頂上と長次郎谷登行のシーン撮影。7月13日、101年前の登頂日に合わせて登頂するが、本隊登頂時にはガスが濃くなり撮影断念。16日再度挑戦。天気好く、剱沢から頂上まで3時間、気合が入る。頂上シーン、長次郎コルでの長次郎登頂辞退のシーン等を撮りまくる。フイルム不足で小屋へ取りに下りる事態も。帰りに南壁シーン撮影。雷注意報発令で平蔵谷を下りる。翌々日、長次郎谷登行シーン撮影、コル手前まで登る。次の日、別山に造標、ラストシーンを撮る。日暮れギリギリに撮影終了。翌日世話になった剣山荘、剱澤小屋、剱御前小舎、雷鳥荘、室堂の山岳警備隊、天狗平山荘に挨拶して下山。山の人たちの協力がなければ、この映画はできなかったろう。下山後、河原で土砂降りのシーンを撮影して、すべての撮影終了。
おわりに
 木村 「みんな馬鹿だよ、馬鹿の集まりだよ、馬鹿じゃないと、こんなこと、やってられないよ! 俺は、馬鹿の親玉だ」
付 木村監督の「剱岳 点の記」のBGMに対する拘り
 監督はこの映画のBGMは、近年の邦画では珍しくすべてクラシックにすることにし、それも既成の音楽の二次使用ではなく、演奏会場でフイルムを流しながらの音入れをすることを希望した。このような手法は監督が敬愛する黒澤明監督の映画で経験したもので、しかも生演奏を希望した。したがって、音楽監督・編曲指揮には、黒澤映画での生演奏指揮の経験がある池辺晋一郎氏にお願いすることになった。この人は作曲家で東京音楽大学教授、演劇のための音楽も手掛け、活動の範囲は広く、映画音楽やNHK大河ドラマのテーマ音楽などもこなす、日本作曲界の重鎮である。選曲は木村監督の希望も入れて調整したようだが、音入れは画面を見ながら、池辺音楽監督が仙台フィルハーモニー管弦楽団を指揮しての生演奏による実施となった。この演奏はこの作品の大きな魅力の一つとなっていて、観ていても全く違和感がなく、実にその場面に相応しい素晴らしい雰囲気を醸し出していた。
 使用された楽曲のリストと使われたシーン・場面は次のようである。
(1) J.S.バッハ作曲・池辺晋一郎編曲、前奏曲(幻想曲)とフーガ ト短調 BWV.542 「大フーガ」 から 幻想曲。 〔映画の導入シーンで〕
(2) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第4番 ヘ短調 「冬」 op.8-4 から 第1楽章/第2楽章/第3楽章。 〔柴崎と長次郎が秋に剱岳登頂の下見に山に入る一連のシーンで〕
(3) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第1番 ホ長調 「春」 op.8-1 から 第2楽章。 〔柴崎家での夫婦の語らいのシーンで〕
(4) A.マルチェルロ作曲、オーボエ協奏曲 ニ短調 から 第2楽章。 〔天狗平のテント場でのシーンで〕
(5) T.アルビノーニ作曲、アダージョ ト短調。 〔雪崩の後のシーンで〕
(6) A.ヴィヴァルディー作曲、ヴァイオリン協奏曲集「四季」第3番 ヘ短調 「秋」 op.8-3 から 第2楽章。 〔三ノ沢(長次郎谷)の雪渓の登りのシーンで〕
(7) J.S.バッハ作曲、管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV.1068 から 第2曲エア(G線上のアリア)。 〔剱岳頂上手前のコル(長次郎のコル)でのシーンで〕
(8) G.F.ヘンデル作曲・池辺晋一郎編曲、ハープシコード組曲第2巻第4番 ニ短調 から サラバンド。 〔この映画に携わったすべての個人・団体を「仲間たち」として最後にテロップで流す場面で〕
 
 以上、長調が3曲、短調が5曲。
 個々の音楽と場面の一致については、映画を観ながら、メモ用紙に暗がりで手元を見ずにメモしたこともあって、後での判読が実に困難で、多分そうでなかったかと想像して当てはめたものもあり、間違いがあるかも知れないことをお断りしておく。
 
 

2009年7月6日月曜日

「そば」を楽しむ

 小さい時は「そば」が嫌いだった。祖母が田圃で実った蕎麦を石臼で挽き、それを打って「そばきり」にするのだが、何せ「つなぎ」が入っていない生粉打ちだから、いくら「とれたて」「ひきたて」「うちたて」「ゆでたて」といっても、出来上がったものはきれぎれ、それに汁をぶっかけて雑炊のように啜るのだが、それが何とも子供心に大嫌いで、蕎麦を挽く手伝いは致し方ないにしても、食べる段になると本当に地獄だった。
 「そば」ともう一つ祖母の料理で大嫌いなものがあった。家の前と屋敷内には用水が流れていて、昔は野菜を洗える位きれいな水だった。魚も泳いでいて、庭の川に迫り出した大きな石には、時折魚を狙うカワセミも見られた。カワセミが何を狙っていたのかは知らないが、とにかくドジョウもよくいた。祖母は夕方タモを持って用水からよくドジョウを取ってきて、晩のお汁種にした。生きたままお湯に入れると、白い眼が飛び出て睨まれているようで、とても食べる気にはなれなかったが、目を瞑って我慢して食べたものだ。特に大きめのものは苦手だった。栄養満点なのだろうけど往生した。でも今にして思えば、どちらも栄養素豊富な素材だ。時は移って、成人する頃になると、「そば」も「どぜう」も好きになってきたが、蕎麦はともかく、ドジョウは川から姿を消していた。
 地元金沢の大学に入って初めて「そば屋」に入った。とは言っても金沢はうどん圏、市内で自前で「そば」を作っている店は1軒のみだった。東京へも機会あって出かけた折にはそば屋を求めて歩いたが、昔は三千軒もあったとはいうものの、昭和30年初頭では百軒ばかりになっていた。しかし日本橋で初めて「白いそば」に出会った時は正に青天の霹靂、「そば」とは黒いものだとばっかり思っていたものだから、正直驚いてしまった。今では一番粉か更科粉を使えばそうなるとは知っているが、初めての時は本当に仰天だった。
 私はいつも落語と「そば」の浮き沈みは同じような流れを辿ってきたような気がする。どちらも幕末から明治にかけては大いに繁盛してたのに、昭和になると陰を潜めてしまった。もっとも連綿と百年以上も続いているそば屋の老舗もあるにはあるが、総じて今ある大部分のそば屋は昭和50年以降の開店である。落語もそうで、同じ頃から再び火がついてブームになったような気がする。今はどちらもブームの最中と言っても過言ではないだろう。50年前、石川県でそば屋といえる店は1軒のみ?だったが、今は150軒ばかりもある。しかし今とりわけ人気のそば屋はというと、平成生まれが多い。
 あるそば屋の主人は、千人以上もの素人さんを対象に「そば打ち」を指南してきたという。近頃は巷でも「そば教室」があるし、福井県などでは「そば道場」も沢山あり、「そば打ち」を習おうと思えば、いくらでも機会がある。だから自称趣味「そば打ち」という方も見かけるし、なかには虜になって道具一式を揃え、打ちは玄人はだしという人もいる。そうなると、出張して打ったりもするし、高じては店を開く方も出てくる。しかしそば屋と銘打って人様に「そば」を提供するには、「たかが蕎麦」とはいうものの、「されど蕎麦」で、中々一年を通して満足ゆく「そば」を出すことは至難の業である。
 さて私はというと、「そば」が好きで、家内とも時々あちこちへ出かける。私の学問の師匠は当初はそんなにそば好きでもなかったのだが、大学を退官され福井へ行かれてからは「越前そば」に憑かれてしまった。お昼は職員を誘っての「そば」、晩は蕎麦前(お酒)と〆に「そば」、私も付き合わされたことがあるが、多いときは5軒もの梯子、ギブアップだった。そのうち持ち前の科学する心で、独断と偏見と断わってはあるものの、福井のそば屋の無責任番付を作られた。するとこれが評判になり、新聞にも紹介された。その後このそば屋巡りは在福十年ばかりの間に、全国1都1道2府29県の延べ4百軒にも及んだ。先生の評は「そば」や汁はいうに及ばず、器、サービス、風格、雰囲気を総合的に評価するもので、福井ばかりか石川でも知られるようになった。金沢へ戻られてからは、そば好きの同志を誘い「探蕎会」なる会を立ち上げた。平成10年正月のことである。趣旨は蕎麦を愛し、各地の銘店を訪ね、その土地の文化に触れ、蕎麦道を探究するというもので、この会に賛同する人は多い時には百名にもなった。年に十回位行事があり、年に2回は泊付きの探蕎をする。行事等は会報に掲載され、会報は年に4回位発行され今日に至っているが、これは事務局を預かる前田書店の主に負うところが多い。会員は正に多士済々、蕎麦前を飲み、「そば」を手繰っての談論風発は実に楽しい。仲良し倶楽部にもならず、かといって同人会にもならず、それが延命効果をもたらしているようだ。
                        (建設国保機関紙 Our Health HOKURIKU の寄稿原稿)