2009年5月11日月曜日

そば好きヤスさん


 家内と連れ立って久しぶりに野々市の「敬蔵」へ寄った。前に訪れたのは昨年の暮れだから、5ヵ月ぶりということになる。敬蔵は野々市町本町一丁目、拙宅は本町二丁目、歩けば7分の距離である。近くで何時でも行けると思うせいか、ついつい行きそびれてしまっている。敬蔵の奥さんの父親と家内は従兄妹どうし、私が会うと「いつもお世話になって」と言われるとどうも心苦しい。一昨年九月から敬蔵では「蕎麦会席」を始めたものだから、十月か十一月から、とにかく1年間は月に一度は頂くことにして、家内か姪を伴って毎月お邪魔した。それで一巡したので、卒業というわけではないのだが、定期的に訪れることはなくなった。その間近くよりは遠くへ出かけることが多く、疎遠になっていた。敬蔵の奥さんの父親と私はよく似た年頃、お酒も大好き、毎日曜日ごと、決まって午後1時半に奥さん共々敬蔵へ訪れていて、席は定席と聞いている。彼は私が勤務する予防医学協会の近くでタイヤ商会を営んでいて、店は先代からだが、特に大型トラックのタイヤを扱っている。私は車のタイヤ交換を彼のところでお願いしているが、少なくともタイヤの保管料は取ってくれず、その言い草が「いつも娘が世話になっているから」とかで、真にこそばゆい話である。それだけに、独りで行くとなるとつい敬蔵ではなく他のそば屋に足が向いてしまう。
 ところでお昼の11時30分の開店に合わせて出かけた。まだ掃除中で、きっかり11時30分に店内に入れた。女性2名の先客があり、私達は次客、入口に近い二人席に着く。私は冷酒、家内はノンアルコール、つまみは「こごみの酢の物」と「わらびの昆布締め」、そばは家内が「もり」、私が「鴨汁」、付き出しとつまみで2合飲んでしまった。先客の女性客はそばとご飯を食して帰られた。その間お客が4組ばかり、5組目に偶然ヤスさん夫婦が現れた。ヤスさんとそば屋でのバッタリはこれで3度目、彼はいつも奥さんと同伴である。彼は実直な田舎のお父さんというどっしりした体躯、そして風貌からして典型的な奥さん思いの旦那である。聞くと敬蔵にも時々訪れるという。それは此処のそばがおいしいからと言われる。仕事がら忙しいので泊りがけは出来ないが、石川・福井・富山のうちならかなり遠出もするという。行かれた先を聞くと、ついでそばはなく、手打ちにこだわっておいでの様子、頼もしい。彼に何時頃からと聞くと、きっかけは誰かから彼の元へ波田野先生の「蕎麦屋無責任番付」が送られてきて、それに触発されてからと言う。一時は探蕎会に誰かの口利きで入会されていたこともあるが、総会にしか出られないとかで退会された。
 彼は石川県の次長クラス、一昨年定年で退職したが、再任用となり2年目である。団塊世代の大量退職もあって、得難い人材であっての任用であろう。彼とは県の衛生公害研究所で一緒だった。もっとも彼は公害(環境)部門、私は衛生(保健)部門で、共に同じ土俵で仕事をしたことはないが、面識はあった。その後彼は本庁へ移って環境部門の中枢で仕事をするようになる。私はそのまま居着いて平成8年に定年を迎えた。
 さてヤスさんは波田野先生の蕎麦屋無責任番付を見て「そば」に開眼したと言っていたが、いつ頃なのだろうか。先生が金沢大学を定年退官されて福井県の衛生研究所へ行かれたのが昭和63年、福井の越前そばに魅せられて行脚し、それを福井県内蕎麦屋無責任ランキングとして紹介されたのが平成3年、その後県内ばかりではなく県外のそば屋にも矛先を向けられるようになり、平成5年には県内100店県外69店の、翌6年には県内117店県外119店もの番付を出された。おそらくヤスさんの手に入ったものは県外店も含んでいたというから、平成5年か6年の番付だろう。因みに波田野先生が在福11年間に訪れたそば屋の数は、記録にあるだけで福井県内164店、福井県外215店に及ぶ。
 ヤスさんがそば行脚を始めて15,6年、要職にあるからそうは出られまい。店主の住まいが近いとかで「蕎屋」へもよく行くとか、「しん馬」にも近いからとか、それに何の関係からかは知らないが、福井の三国にも時々出かけるとか、ならばと「小六庵」を薦めておいた。彼は早速ケイタイで確認していたが、さすがにその道だけのことはある。三国の他のそば屋とは月とスッポンですと言っておいた。私も三国は2軒ばかり知っているが、立派な口上のわりにはいただけない。いつかフリーになったらまたご一緒しましょうと言って別れた。ところでこれまでヤスさんと偶然出会ったのはいずれもお昼時、1回目は三馬の「しん馬」、2度目は中島の「くき」、3度目が「敬蔵」である。

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