2017年7月10日月曜日

石川県人名事典現代編での吾が母の記述

 表記の本は平成3年 (1991) に発刊され、以後平成28年 (2016) 発行の最終卷 (十二) まで、ざっと2千3百名もの方々の追悼文が載せられている本である。対象となった人は、石川県に在住・出身・縁のある方が主で、執筆する方は、身内であったり、師弟や友人であったりと様々で、とにかく故人への想いが自由に語られている。大体一巻あたり2百人弱の人が対象になっていて、これまで2年ばかりで一巻が完成されている勘定になる。編者は片桐慶子さん、発行所は石川出版社 (石川県白山市白山町) である。
 私の母は平成15年 (2003) 2月8日に90歳で亡くなった。ところである日、この本の編者である片桐さんから執筆の依頼があった。何方から耳にされたかは知らず、大それたこととお断りしたのだが、何度かの要請があって後、執筆を承諾することにした。そして私が書いた文は、2005年3月に発行された九巻に掲載された。先日久しぶりにこの本に遭遇した折に、「晋亮の呟き」に再掲したくなり、書き写した。

「木村 好子」(きむら よしこ)
・「誕 生」 明治45年 (1912) 3月17日
 父 細野生二 と母 しづ の四女として 北海道空知郡奈井江町に生まれる。
・「生い立ち」
 母の父 生二は 金沢の旧家 細野家の次男として生まれた。上の兄 申三は後に燕台と号し、書画骨董に造詣が深く、北大路魯山人の後援者でもあった。下の妹の玉は、後に野々市の木村家へ嫁いだ。申三は漢学者だった父 當徹から厳しく教育されたが、生二は奔放で、自ら高嶋嘉右衛門の門を叩いた。兄弟子は師匠を次いだ高嶋呑象である。その後生二は北海道空知郡砂川と奈井江に跨がる四百町もの高嶋農場の管理を委ねられ、特に灌漑には心血を注ぎ、その完遂の借金のため何度も差し押さえにあったと母は述懐していた。それだけに人望は高かった。母の兄弟は9人、上に姉3人、下に弟1人と妹4人、父親は大変厳しく、一方母親はすごく優しかったという。子供らは皆高等教育を受け、母も札幌高女を卒業した。その後暫く教職に就いたが、素晴らしい先生だったらしく、亡くなるまで毎年賀状が何通も教え子から届いていた。その後母は叔母の木村 玉からの縁談の申し入れに、他の姉妹が断るなか、父親の故郷に嫁いでくれと懇願され、身の回り品のみ持ち、野々市の木村家へ嫁いだ。だから私の父 仁吉と母 好子は従兄妹の間柄である。
・「その後と想い出」
 結婚当時、父は第九師団の主計少尉であった。父は大変優しく、沢山の姉弟妹から離れ、ましてや風俗・習慣の違う地で、まるで姐やのようだと話す母を労り支えてくれた。そして間もなく長男の私が誕生した。しかし父は支那事変勃発で出征、母は私を頼りに、父には毎日私の大きくなる様を一部始終手紙で送り続けた。その手紙は今も私の手元にある。父はその後徐州作戦で迫撃砲弾を肩に受け大怪我をしたが、父らしく気丈にも傷痍軍人になるのを拒んだ。母は終戦後の苦しい時期、父の軍人恩給が三月足りなくて支給されないのをボヤいていたが、私は父、父たりと思う。父の戦場での終始は、日野葦平の「麦と兵隊」に詳しい。そして終戦、父は公職追放、家は大地主だったが農地解放でたったの一町、それに財産税の追い打ち、父や祖父が嘆いてばかりだったのに、母は気丈に家を支えた。器用で頑張り屋、木村家にはなくてはならない人になった。慣れない初めての田圃仕事も、昔の小作人達が意地悪し、今に音を上げるぞと言うのを聞き、何糞と踏ん張ったという。見よう見まねで、藁で蓑、筵、俵、草履何でも作った。そして現金収入を得るために織物工場に就職、真面目で器用で利発で頑張り屋で世話好きの母は、程なく女子工員の頭になった。定年後も請われて舎監として、沢山いた東北・北海道出身の若い女子工員達の面倒を見た。退職後は友達と日本津々浦々を旅行して楽しんだ。記録はアルバムに残されている。振り返って、私は弟妹の誰よりも母に心配をかけた。大病もし、指を落とし大出血で死ぬ体験もし、山から7日も帰還が遅れもした。でもその折々、母の愛に救われた。私が学位と厚生大臣賞を貰った時に見せてくれた母の素晴らしい笑顔と額縁は、私の大事な宝である。母との八十年余の悲喜交々の思い出が走馬燈のように過ぎる。
・「死 去」 平成15年 (2003) 2月8日  逝年 90歳
・「葬 儀」 平成15年 (2003) 2月10日  金沢市松島町 シティホール玉泉院
・「法 名」 清光院順譽浄教妙好大姉
・「菩提寺」 浄土宗知恩院派 法船寺(金沢市中央通町 旧宝船町)
・「喪 主」 木村 晋亮(のぶあき)(長男)  当時(財)石川県予防医学協会 勤務

(閑話休題)
 この石川県人名事典現代編には、他界された石川県に関係する多くの方々が登場する。
 私の恩師である波田野基一先生は平成20年 (2008) 8月21日に彼岸に発たれた。先生への追悼文は、畏敬する永坂鉄夫先生が石川県人名事典現代編十一に書いておられる。

2017年7月4日火曜日

久方ぶりの信州への探蕎行(その2)

(承前)
3.「七草の湯」 上田市別所温泉 1621   TEL 0268-38-2323
 「おお西」を出た後、上田城跡公園へと車を進め、上田城跡を散策し、真田神社に参拝した。以前は公園内に駐車場があったが、今は車は入れなくなっている。
 その後は一路別所温泉へ、程なく今宵の宿に着いた。会での別所温泉泊まりはこれで4度目、この宿は3度目だ。時間が早かったので、先ずはすぐ近くにある北向観音堂へ行く。ここの本堂は珍しく真北に向いていて、その先に善光寺があり、ここは現世の、善光寺は来世の利益をもたらすとか、両寺合わせてお参りするのが習わしという。また境内には「愛染かつら」のモデルにもなった桂の巨木もある。手水が温泉なのも珍しい。
 この宿は全館が畳敷き、従ってスリッパはなく、素足である。部屋はゆったりとした和室、男性の部屋にお茶やお菓子が置かれていて、皆でビールを飲み暫し寛ぐ。磯貝さんも漸く心置きなく飲めることに。夕食は午後6時、その間に最上階にある展望風呂へ行く。眼下には塩田平が広がり、露天風呂も付随している。泉質は単純硫黄泉で、美肌効果のある温泉とか、飲泉も楽しめる。案内があって食事処へ。お品書きを見ると、食前酒から留めの水菓子まで十二品、また1ヵ月前の予約の特典の4合瓶が2本、そのほか岩魚の骨酒4合、追加にお酒を4合、美食とお酒を存分に味わった。この間お喋りも談論風発、実に楽しい一時を過ごすことができた。これまでとは違った雰囲気とは何方かの言だった。

4.「安曇野 翁」 北安曇郡池田町中鵜 3056-5 TEL 0261-62-1017
 宿を出たのは9時半、ここから安曇野へはいくつかルートがあるが、宿の方の言では、南に位置する鹿教湯温泉を通る国道 254号線を通るルートが良いとかでそれに従う。トンネルと山道から開放されて安曇野に出ると、正面に常念岳が、いつ見てもさすが安曇野のシンボルだと思う。先ずは故久保さんに教わって以来、信州探蕎の折りには必ず寄っていた就一郎漬物本舗へ、でも火曜は定休日だった。それで翁に直行することにする。
 目指す翁は安曇野アートライン (県道 51 号線) を北上し、右折して上がった高台にある。時間は丁度
11 時、招かれて中へ入る。明るい清楚な佇まい、窓の外には大滝山から鹿島槍ヶ岳までのパノラマが展開する。この日は生憎少々雲がかかっているが、でも展望は素晴らしい。注文は前田さんが「田舎」のほかは皆さん「鴨せいろ」、ささは冷えた大雪渓、生き返るような気持ちだ。ここの主人の若月茂さんは、二八そば打ちの名人で翁を主宰していた高橋邦宏さんの一番弟子だった人、名人ゆずりのそばには定評がある。出てきたざるに盛られたそばは細打ち、コシが立っていて喉越しがよく、少し辛めのつゆに実にマッチしていて美味しい。申し分ない逸品だ。満足して翁を後にした。

5.大雪渓蔵元と道の駅池田
 どうして大雪渓の蔵元へ寄ることになったのかの経緯は不明だが、山から下りて県道 51 号線を北上すると、ほどなく蔵元直営店に着いた。このお酒私は長野では何度か口にしているが、翁でもそうだったように、冷やでの端麗な味が印象に残る酒だ。しかも大雪渓は白馬の大雪渓に因んでいるという先入観があったものだから、長野でも白馬村辺りに蔵元があるのだろうと思っていただけに、安曇野だったのは意外だった。試飲コーナーがあり、純米大吟醸酒や特別純米酒を頂いた。でも失礼だが大雪渓には辛口本醸造の冷やが最も似合っていると思った。皆さん思い思いにお酒を買い求められた。
 次いで更に北上して道の駅池田へ、私は帰路の国道 148 号線の道の駅白馬を推奨しておいたが、連絡がつかないとかで、ここで買い物を済ます。農産物から加工品まで数多くの品が並ぶ。暫し買い物に時間を費やし帰路へ。大町から国道を北上、天気が良ければ左手に白馬三山が勇姿を見せるのだが、生憎の曇り空。道はその後姫川の源流から河口の糸魚川へ、ここから北陸自動車道へ。ところで運転する磯貝さんには委員会開催の報、小矢部川 SA での清算は返上し、一路出発点の金沢駅西口へ向かう。前田さんの機転で、取り敢えず各自に2千円を還付することにし、残りは磯貝さんに渡す。

 帰途、磯貝さんでは遠距離でも運転しますという有り難いお言葉、前田さんとは再び村山市の「あらきそば」や丹波篠山の「ろあん松田」などにも挑戦できるかもと話し合った。乞うご期待。

2017年7月3日月曜日

久方ぶりの信州への探蕎行(その1)

1.出かけるまでの紆余曲折
 6月の探蕎行は信州へとなっていた。ところで会員が高齢化し、他人様を乗せて車で遠出するような場合、多くの場合、家族が反対する。これまで運転していた方でも、ある年齢になると、本人はその気になっていても、家族の了解が得られないことが多い。かくいう私も探蕎会での遠出での運転は憚られる。年齢が80歳ということもある。
 ところで5月22日に事務局の前田さんからの案内で、新しく松川さんの紹介で会員になられた磯貝さんの運転で、6月22、23の両日に信州へ行く予定とか。この募集に応じた会員は男5名、女1名、その後推移があって、24日には男4名、女2名となった。それで宿はこれまで2回利用している別所温泉の「七草の湯」を推薦し、それで訪ねる蕎麦屋に、22日は上田市別所温泉口にある「美田村」を、23日は上田市内にある「おお西」を推薦しておいた。それで事務局からは詳細なスケジュールが参加者各位にメールされ、出発は6月22日の朝7時半に金沢駅西口に集合ということになった。
 ところが6月7日のメールで、運転される磯貝さんは内灘町の町議さんなのだが、職務で22、23日を26、27日に変更したいとのこと、それで日程の変更から、参加者は女1名増の計7名となった。車はワンボックスカーということで、8名まで乗れるという。ところで費用は私の試算で概算3万3千円、それで会費は3万5千円とし、いつもの如く帰路に小矢部 SA で清算することにして、参加者には事務局から12日に案内して頂いた。ところで私は13日の朝、ひどい腰痛で寝返りもままならず、それで前田さんに事情を話し、参加できない旨連絡した。でも前田さんではまだ2週間あるから、3日前にもそんな状態だったら再度連絡して下さいと諭された。私は鍼灸に通い、5日目には多少よくなった。ところが19日に前田さんからの連絡で、今度は和泉さんが体調不良で参加できなくなったとのこと、私からも確かめたが参加できないという。すると和泉夫妻不参加で参加者は5名になったことから、前田さんからは他に参加できそうな何人かに連絡されたようだが埒が明かず、それで参加者にも今一度念を入れて可否を問われたそうだが、皆さん行きたいとのこと、この時点で前田さん自身が参加することに。これで最終的には男4名(磯貝、木村、前田、松川)、女2名(池端、松田)で出かけることになった。
 それで前田さんの意見も入れて、訪ねる蕎麦屋は初日は上田の「おお西」とし、二日目は安曇野へよって、池田の「翁」へ寄ることにした。ここには過去に一度訪れたことがある。こうして6人での信州への探蕎が実現することになった。

2.「手打百藝 おお西」 上田市中央4−9−8 TEL 0268-24-5381
 7時半に金沢駅西に集合し、金沢東 IC から北陸自動車道、上信越自動車道を通り、上田菅平 IC で下り、目指す「おお西」へ。店舗は旧柳町参道と旧北國街道が交わる地点にある。街道沿いの店の脇には延命水が湧き出ていて、店は参道に面していて、旧は商家だったという平屋建ての大きな店、表には一枚板に店名が記されている。この店は有名店なのだが、「ふじおか」と同じく、業界情報誌の取材を頑に受けないことで知られている。ただ上田市には、ほかに支店と系列店がある。ここの主人は大西利光 (かがみ) さんといい、「発芽そば切り」の発案者として知られていて、私は小布施の系列店には2回ばかり訪れたことがある。そばを発芽させるとは、えらく手の込んだ作業だが、発芽させることで栄養価が増し、甘味が増し、独特のぬめりと餅のような食感が出るという。もちろん十割にこだわっている。あまり追随されていないのは、面倒なのかそれとも特許が絡んでいるのかは分からない。でもとにかく一度本家本元で食べてみたかったのが本音だった。
 奥の古い木のテーブルに6人が陣取る。そばは「御前二色そば」、つきもののお酒は、この参道に蔵元があるという地のお酒、付きだしは山菜の漬物5種、私は焼酎の蕎麦湯割りも頂戴した。そばは大きな朱塗りのお椀に入ってきた。訊けばそばが乾燥しないようにとのこと、手繰ると細打ちのそばは、しゃきっとしていて、特に発芽そばはもちもち感が強く、この手のそばには余りお目にかかったことがない。量は多め、でも運転される偉太夫である磯貝さんは、ささの代わりに真っ白な更科を追加して召し上がっていた。私は念願のおお西での元祖発芽そば切りを賞味でき、満足だった。