4月下旬に家内と信濃の中の湯温泉へ行った折、上高地を散策した後、昼食を宿に戻ってざるそばを食べることにしていた。ところでこれには予約が必要で、お願いしたところ OK だという。これを聴いていた東京から来たという女性が、私もお願いしますと頼まれていた。件の女性は見るからにキャリアウーマンという感じだった。でも前日の夕食でも、当日の朝食でも話す機会はなく、また翌日の上高地行きでも、全く話す機会はなかった。上高地から宿への帰りは、一旦路線バスで中の湯のバス停まで行き、一旦近くにある中の湯温泉の連絡事務所へ入り、ここから迎えの車の手配をお願いすることになっている。彼女とは上高地からの路線バスでも一緒、事務所でも一緒、それで事務所では彼女とはそれとなく家内が話をしたようだった。しばらく待って迎えのバスで宿に戻り、一緒に昼食のざるそばを食べた。3人のみとて、漸く話の糸口が見つかり、その後いろいろ会話した。
訊ねると、彼女は世界各地へ旅行しているとのこと、そしていつも一緒な相棒は同級生だという。外国ばかりではなく、国内もあちこちに出かけられている様子、その上「そば」もお好きだとか。話が弾み、それで家内も一口乗って、「やまぎし」の極太の粗挽きそばの話を持ち出した。するとそれを一度食べてみたいとのこと、じゃその折は案内しましょうと。家内は携帯電話の番号を教えて、お出でる時は連絡して下さいと言って別れた。彼女は宿の車で、朝一緒に上高地へ行った外人夫妻を迎えに再び上高地へ行き、それから松本駅まで送ってもらうとかだった。私達も車で飛騨古川を経由して家に帰った。
それから1ヵ月ばかり経った5月下旬、宿で会った件の女性から電話が入り、6月16〜17日の土日に友達3人と金沢へ行きますとのこと、それで17日の日曜日に件の「やまぎし」へお願いしたいとのこと、折よく行事もなく、御案内しますと家内は返事していた。その後お一人は子供さんが病気になったとかで、お二人を案内することになった。
この方達はいつもグループで行動されているようで、金沢は初めてとのことだったが、私達が案内するまでのことはなく、事前にネットで十分に検索されていて、後でお聴きすると、私達よりはるかに上手なプランを立てておいでで、しかも格安で便利な方途を考えられていて、感心してしまった。もちろん「やまぎし」のことも、事前に調べられていたのは言うまでもない。
6月17日の朝、9時半に宿舎の「兼六荘」へ迎えに行く。ここは私学共済の宿舎で、何度か東京の叔父を迎えに行った記憶がある。今は正式には「ホテル金沢兼六荘」と呼ぶとか、通りを挟んだ向かいには、金沢城公園への甚右衛門坂口がある。ここで信州で会った S さんと、彼女の友人の K さんを載せて、旧鳥越村左礫へと向かった。
話を伺っていると、土曜の1日はかなり濃密なスケジュールだったようだ。メインは友禅の浴衣を着てのひがし茶屋街の散策、昼は玉泉園で昼食、その後兼六園や金沢城を巡られた由、中々旅慣れておいでだ。それで当日のスケジュールを訊くと、高崎在住の K さんは金沢発 14:50 発の「はくたか」で、S さんは 16:47 の「かがやき」で帰られる由、それで金沢駅へ午後2時と4時に寄られるように車を走らせることに。2人を乗せた後、いつものように山側環状道路から手取川を渡り、大日川を遡行する。そして左礫にある「やまぎし」に着いたのは 10 時 30 分、開店1時間前、待つことにして中へ入れてもらう。注文は「田舎粗挽き」「天ぷら」を各4、隣の渡津部落の蛍米の「おにぎり」を2個、そして小生
の焼酎「財宝〕2杯。待つ間、昨年夏に「男の隠れ家」別冊で紹介されていたのでお見せした。K さんの旦那さんは殊の外そば好きとかで、資料をスマホに収めておいでた。
今日は予約で満員の由、それであってか、11 時にはもう粗挽きが出された。今日は5人体制 (山岸さん夫妻、弟さん夫妻、妹さん)、11 時までに私達のほかにも3組8人が席に着いていた。訊ねると、定刻の 11 時 30 分にはライダー一行 46 人が予約済みとか、凄い人気だ。粗挽きはヒマラヤの岩塩でも食べることを勧める。こんなのは初めてだと彼女たちは驚いておいでだった。天ぷらはもう粗挽きを食べ終わる頃に出てきた。おにぎりは彼女たちが食べたが、実に美味しそうだった。そして終わる頃に、自動二輪の大部隊が到着した。良いタイミングで席を譲れた。
2時まで1時間半あるので、五十谷の大杉を見て帰ることにする。一旦本流の谷を下って神子清水から相滝へ、ここから支流の堂川を遡って五十谷の八幡神社境内にある石川県天然記念物の大杉を見に行く。弘法大師ゆかりの杉とか、横に張り出した太い力枝は実に圧巻だ。以前この神社の隣には、後藤さんという人が「登竜門才次郎」という蕎麦屋を開いていて、そばと岩魚が売りで、「男の隠れ家」にも紹介され、知る人ぞ知る評判の店であったが、今はなく、荒れ果てている。その後車でさらに奥へ進み、尾小屋と阿手とを結ぶ道路を左折した後、旧鳥越高原大日スキー場の脇を通り、大日川に沿って下流へ、そして再び左礫に出た後、朝来た道を金沢へ、途中我が家の前を通って、定刻に金沢駅へ着いた。そしてもう一人の S さんは少々時間があるので、その後国道8号線沿いにある「箔一」へ案内した。金箔の生産量の 95 %は金沢での生産とか、だからか特に県外からの人達の見学が多い。私達が寄った折にも、2台の県外の大型バスが駐車していた。その後金沢駅へ。彼女たちは今秋は中国奥地への探訪を計画しているとか、快活でとんでいる女性連だった。
2017年6月21日水曜日
2017年6月12日月曜日
微生物学教室に2年間在籍した想い出
私は昭和34年に金沢大学薬学部を卒業し、石川県衛生研究所へ薬剤師として採用された。県では当時能登地区での河川水による簡易水道の普及に力を入れていて、その水質検査に追われていた。ところで当時の石川県は全国有数の結核と赤痢の王国とまで言われていて、折しも起きた大規模な集団赤痢が発生した折、私はその応援に駆り出された。化学検査から全く未知の細菌検査へ、当初苦労したが、1年もやっていると元へ戻れなくなっていた。そこで金沢大学医学部衛生学教室から赴任されていた三根先生の働きで、私が国立公衆衛生院の微生物コースを受講し、3ヵ月後に帰任した際、今後衛生研究所でもウイルス検査をしなければならなくなるということで、金沢大学微生物学教室へ三根先生と同道し、西田先生にお願いし、波田野先生の下で専修生として御指導頂くことになった。昭和37年4月のことである。当時の教室は重厚な木造2階建ての建物、1階が微生物学教室、2階が衛生学教室だったように記憶している。
当時衛生研究所は (旧) 石川県庁の裏手にあり、半日勤務の後、午後2時頃から7時頃まで教室にいた。当初波田野先生からは空気のような存在であれと言われ、当時助手だった森田さんの手伝いに徹した。彼は金沢泉丘高校の1年後輩で理学部出身、特にウイルス検査に必須のガラス器具の洗浄には特に慎重でなければならず、これには大変気を遣った。そして間もなく、波田野先生は2年間の米国留学に出かけられた。この間私は森田さんから、ウイルス検査の基礎となる組織培養やふ化鶏卵でのインフルエンザウイルスの増殖の手技を教わった。これはそれまで国立予防衛生研究所がやっていた冬季のインフルエンザ流行時の検査を、地方の衛生研究所でやらねばならなくなった時に大いに役立った。
ところで昭和39年4月、前年創設された癌研究施設にウイルス部門が追設されることになり、その部門の教授に留学から帰任された波田野先生が就任され、私も微生物学教室から癌研究施設に移ることになった。しかしまだ研究室はなく、以前の助教授研究室での研究は続いた。森田さんの指導のお陰である程度の技術はこなせるようになり、波田野先生からは帰任後に、先生が持ち帰られたインフルエンザ株の株間の差異を血清学的に解明するテーマを頂き、微生物学教室の一画で没頭した。しかし1年後にはプレハブの新しい施設が出来上がり、そこへ引っ越した。
当時の微生物学教室には何故か耳鼻科の先生方が多く、野球好きだった西田先生の下、1チームが作られていたようで、雨の日など、廊下では西田投手と森田捕手のコンビでの投球練習が見られたものだ。そして教室には、薬学部の1年後輩の山岸さんが、もう学部在籍の頃から微生物学教室に所属されていて、そんな縁もあって所属されていた他の専修生の方々とも顔見知りになった。貴重な経験だった。
その後癌研究施設の方は結核研究所と合併し、組織も新しく「がん研究所」となり、建物も医学部敷地に新設された。私も正式にテーマを与えられ、昭和49年には、波田野先生の主査、西田先生の副査で学位審査が行われ、翌昭和50年2月には学位が授与された。そして2年ばかりだったが微生物学教室に所属していたこともあり、西田先生の特別なお計らいで同門会の末席に名を連ねさせて頂くことになった。そしてその後2回ばかり同門会の幹事もさせていただいた。随分昔のことだ。
「注」上記の文章は、同門会誌の「楷樹2017〜金沢大学医学部微生物学教室同門会〜」への投稿原稿である。
当時衛生研究所は (旧) 石川県庁の裏手にあり、半日勤務の後、午後2時頃から7時頃まで教室にいた。当初波田野先生からは空気のような存在であれと言われ、当時助手だった森田さんの手伝いに徹した。彼は金沢泉丘高校の1年後輩で理学部出身、特にウイルス検査に必須のガラス器具の洗浄には特に慎重でなければならず、これには大変気を遣った。そして間もなく、波田野先生は2年間の米国留学に出かけられた。この間私は森田さんから、ウイルス検査の基礎となる組織培養やふ化鶏卵でのインフルエンザウイルスの増殖の手技を教わった。これはそれまで国立予防衛生研究所がやっていた冬季のインフルエンザ流行時の検査を、地方の衛生研究所でやらねばならなくなった時に大いに役立った。
ところで昭和39年4月、前年創設された癌研究施設にウイルス部門が追設されることになり、その部門の教授に留学から帰任された波田野先生が就任され、私も微生物学教室から癌研究施設に移ることになった。しかしまだ研究室はなく、以前の助教授研究室での研究は続いた。森田さんの指導のお陰である程度の技術はこなせるようになり、波田野先生からは帰任後に、先生が持ち帰られたインフルエンザ株の株間の差異を血清学的に解明するテーマを頂き、微生物学教室の一画で没頭した。しかし1年後にはプレハブの新しい施設が出来上がり、そこへ引っ越した。
当時の微生物学教室には何故か耳鼻科の先生方が多く、野球好きだった西田先生の下、1チームが作られていたようで、雨の日など、廊下では西田投手と森田捕手のコンビでの投球練習が見られたものだ。そして教室には、薬学部の1年後輩の山岸さんが、もう学部在籍の頃から微生物学教室に所属されていて、そんな縁もあって所属されていた他の専修生の方々とも顔見知りになった。貴重な経験だった。
その後癌研究施設の方は結核研究所と合併し、組織も新しく「がん研究所」となり、建物も医学部敷地に新設された。私も正式にテーマを与えられ、昭和49年には、波田野先生の主査、西田先生の副査で学位審査が行われ、翌昭和50年2月には学位が授与された。そして2年ばかりだったが微生物学教室に所属していたこともあり、西田先生の特別なお計らいで同門会の末席に名を連ねさせて頂くことになった。そしてその後2回ばかり同門会の幹事もさせていただいた。随分昔のことだ。
「注」上記の文章は、同門会誌の「楷樹2017〜金沢大学医学部微生物学教室同門会〜」への投稿原稿である。
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