(承前)
(3)父の家出
金沢にいた伯母を頼り、手持ちの7万円で養鶏をしようと、斡旋してくれた犀川右岸の大豆田に畑地を買い、鶏小屋を建て養鶏をスタートした。トイレも水道もない、雨漏りがする鶏小屋で寝泊まりした。当時、卵は貴重品だったが、鶏の数を増やそうとしたところ、運転資金のやり繰りがつかなくなり、養鶏は1年で行き詰まった。しかし金沢に来て取得した運転免許が幸いし、運送会社に就職できた。父は平日勤務のほか、同僚の休日出勤も、当直勤務も率先して引き受け、それで模範社員として表彰されるほど頑張った。そして21歳の時、天神町に家を買った。勤務は真面目、そして遊興には目もくれず、生活は質素、だから縁談がいくつも舞い込んだ。でもすべて断った。そんな折、実家から山代に帰って来いとのこと、父親から財産を譲ると言われ、戻ることに。24歳の時だった。
(4)実家の相続と両親の扶養そして結婚
病気がちな両親をかかえての縁談は中々纏まらなかったが、山代に帰った翌年に今の母と結婚した。母は両親を幼くして亡くし、親の顔も知らないという苦労人だった。しかも父の両親の面倒も見なければならないのに承諾して、見合いしたその月に式を挙げるという超スピード婚だったというから、母も偉かった。父は養鶏をする一方で養豚を始めた。そして誰よりも品質管理に気を配った飼育をする一方で、出荷するタイミングにも細心の注意を払い、高い収益を上げた。そんな折、脳腫瘍が見つかった。腫瘍の摘出には正常な左目をくり抜かねばならないとか、医師からは命と片目のどちらが大事かと言われ、手術に踏み切った。正常な左目の角膜は全盲の少年に移植されたという。しかし腫瘍は完全に取り除けず、コバルト照射をしたが、その副作用で顔の左半分が完全に麻痺し、左耳の聴力も失われた。まだ子供は小さく、癌で死ぬのは構わないが、ただもう十年だけ命を永らえてほしいと神仏に祈ったという。そして退院後は以前にも増して養豚業に精を出した。
(5)田圃購入による資産形成
父は養豚で得た利益を田圃の購入に注ぎ込んだ。荒れた田圃や段差のある棚田は安かった。そして整地し、豚の糞尿を堆肥にして米作りに励んだ。こうして買った田圃は1万坪近く、故郷の荒谷の山林や棚田も頼まれて買い、その面積は1万4千坪にもなり、父親がいた時の百倍にもなった。この荒谷の山林や棚田の資産価値は低かったが、山代の土地は折からの「日本列島改造論」に端を発した土地ブームで高騰し、父の資産は見る見る膨れ上がった。でも田は売らず、米作に励んだ。土地は買うが売らないので、「ハブのような男」という異名まで付いた。でも全く売らなかった訳ではなく、山代温泉の土地区画事業には2千坪を提供した。父は「死に金」は使うな、「生き金」を使えが金銭哲学だと言っていた。この頃家を新築し、養豚は止め、米作と山林の世話に精を出した。
(6)仕事の鬼の晩年
米作と山林の世話に精を出していたこともあって、3人の子供の子育ては母に委ねられていた。要は仕事で手一杯でかまっている余裕が全くなかったからである。したがって子供を連れて遊びに出かけることは皆無だった。だから両親と子供が一緒に写っている家族団欒の写真も皆無だ。父は私は亭主関白ではないとは言っていたものの、田や山林の購入は母には全く相談せず独断で行なった。だから田圃がどんどん増えた時は、母の仕事も増え大変だったが、母は父に付いていた。母の唯一の楽しみは地元民謡会での日舞の踊りだった。このような父だったから、私たちが独立して事業を始めようとしても、金を出すとか、保証人になるとかは一切なく、正に鋼の意思を感じた。だから「父に負けるものか」という意思がかき立てられた。父は脳腫瘍の手術に際して左目を摘出した後、30年ばかり眼帯をしていたが、それはその跡が大きな穴になっていたからで、顔を洗う時は人に見られないようにしていた。その父が義眼を入れようと決心し、眼科医から紹介され、金沢医科大学病院で手術を受けた。簡単に出来ると思っていたが、大変な大手術で、目を切り、肋骨を切り取り、足の肉を削り、鼠蹊部の皮を剥ぎ、1年半にわたり4回もの手術をした。義眼を入れても目が見えるようになる訳ではなかったが、でも眼帯は外れた。そんな父の晩年の楽しみは、美田や山で立派に育っている杉や檜を眺めることで、最高の贅沢だと言っていた。合掌
2015年1月30日金曜日
2015年1月29日木曜日
福岡勝助さんの突然の他界(その1)
福岡勝助さんは、私の三男の故木村誠孝が当時常務取締役だった㈱フリークスコアで代表取締役社長をしていた福岡悟氏の父上である。現在この会社は㈱レガシーホールディングスといい、主にインターネット・漫画喫茶「サイバーカフェ フリークス」をコアとしていて、主に北陸3県、東北、中京を中心に30店舗程を展開している。この店舗展開に当たっては、息子は社長の右腕となって、一時は米国や中国にも店舗を展開する計画もあったやに聞いていた。そんなこともあってか、平成22年に息子が肺癌で他界した後も、息子の細君を社外重役として遇してくれていて、親としては一方ならぬ厚情に心から感謝している。
1月23日に、会社から社長のお父さんが亡くなったと息子の細君に電話があり、すぐその報は家内にも届き、私は家内から連絡を受けた。いろいろ過分な気遣いをしていただいていることもあり、お通夜と葬儀に出ることにした。24日の新聞のお悔やみ欄には案内がなかったが、25日には案内があり、通夜は25日午後7時、葬儀は26日午前10時とのことだった。25日は日曜日だったので、故三男の息子二人も参列してくれた。場所は加賀市作見町の JA やすらぎ会館、JR 加賀温泉駅に程近い所に位置している。
喪主は二男の聡 (さとし) とあったので一瞬訝ったが、それは福岡家の事情によることであり、こちらが気に病むことではない。返礼の挨拶状には、喪主の二男、母親 (故人の妻)、長男、長女の名が順に書かれていた。葬儀場で耳に挟んだ話では、2歳上の長男さんは山代温泉でブティックを経営しているとか、3歳下の長女の方は兄の二男さんの会社で取締役として仕事をサポートしているとかだった。喪主の二男さんの手広い商売の関係もあって、生花や供物も多く、また弔問に訪れた人も多く、お通夜には6百人を超える人のお参りがあった。式は檀那寺の真宗大谷派 (お西) の僧侶によって行なわれた。通夜と葬儀の式後、喪主から参列者に挨拶があった。内容は急に亡くなった経緯と、故人の生きざまを語ったもので、かなりの時間が割かれた。興味があったので、その一端を記そうと思う。
(1)父の急逝
父は昭和7年2月12日生まれの82歳、夫婦二人での生活、共に元気だった。父はことのほかお餅が大好きでよく食べていたが、1月12日に突然餅を喉に詰まらせ、おそらく誤嚥だったと思われるが、それで呼吸が困難になり、更に心臓も停止してしまったという。救急車で病院に運ばれ、蘇生の甲斐があって心臓は鼓動を回復したが、およそ30分も心停止があったこともあって、脳の機能は回復せ
ず、記憶は戻らなかった。その間付きっきりで家族皆で看病したが、10日後の1月22日に息を引き取り、永い眠りについた。看病の間、一途な信念を貫いてきた父の背に、残された家族皆で手を取り合い励んでゆくと約束した。
(2)父の生い立ち
父が生まれたのは、石川県江沼郡東谷奥村字荒谷 (その後江沼郡山中町荒谷町)、現在の加賀市山中温泉荒谷町である。(注:動橋川の上流にある集落で、現在はこの一帯の加賀東谷地区は国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている)。父が生まれた頃はまだ百世帯ほどが暮らしていて、福岡家は代々林業と炭焼きが生業で、それに少しの棚田があった。父は四男四女の6番目の三男だった。父親は厳格だったが、母親は優しかったという。父親は大勢の家族を養うために、自前で炭を焼けなくなってからは、越前 (福井県) へ炭焼きの出稼ぎに出向いたという。稲は作ってはいたが、狭い棚田で収量は少なく、炭の行商もして虎口を凌いだ。それで戦時中に祖父を荒谷に残して一家は山代へ移った。そして戦後、父は国民学校を卒業してからは、父親の炭売りや田圃の仕事を手伝いながら、子供心に「何が一番お金になるか」を必死で考え、まだ配給制だった電球や米を仕入れ、自分でも商いを始め、少しずつお金を貯めていった。15歳の頃である。その後兎や鶏を飼い、さらに豚を飼育するまでになる。こうして家に生活費を入れながら、父親に内緒でお金を貯めていった。そうして山代温泉の東口の民家から離れた土地を買い求め、養豚の畜舎を建てる計画をした。ところが未成年なので親の印鑑が必要なので父親に相談したところ、大反対され、計画はご破産になった。それで家を出ることに、父18歳の時である。
1月23日に、会社から社長のお父さんが亡くなったと息子の細君に電話があり、すぐその報は家内にも届き、私は家内から連絡を受けた。いろいろ過分な気遣いをしていただいていることもあり、お通夜と葬儀に出ることにした。24日の新聞のお悔やみ欄には案内がなかったが、25日には案内があり、通夜は25日午後7時、葬儀は26日午前10時とのことだった。25日は日曜日だったので、故三男の息子二人も参列してくれた。場所は加賀市作見町の JA やすらぎ会館、JR 加賀温泉駅に程近い所に位置している。
喪主は二男の聡 (さとし) とあったので一瞬訝ったが、それは福岡家の事情によることであり、こちらが気に病むことではない。返礼の挨拶状には、喪主の二男、母親 (故人の妻)、長男、長女の名が順に書かれていた。葬儀場で耳に挟んだ話では、2歳上の長男さんは山代温泉でブティックを経営しているとか、3歳下の長女の方は兄の二男さんの会社で取締役として仕事をサポートしているとかだった。喪主の二男さんの手広い商売の関係もあって、生花や供物も多く、また弔問に訪れた人も多く、お通夜には6百人を超える人のお参りがあった。式は檀那寺の真宗大谷派 (お西) の僧侶によって行なわれた。通夜と葬儀の式後、喪主から参列者に挨拶があった。内容は急に亡くなった経緯と、故人の生きざまを語ったもので、かなりの時間が割かれた。興味があったので、その一端を記そうと思う。
(1)父の急逝
父は昭和7年2月12日生まれの82歳、夫婦二人での生活、共に元気だった。父はことのほかお餅が大好きでよく食べていたが、1月12日に突然餅を喉に詰まらせ、おそらく誤嚥だったと思われるが、それで呼吸が困難になり、更に心臓も停止してしまったという。救急車で病院に運ばれ、蘇生の甲斐があって心臓は鼓動を回復したが、およそ30分も心停止があったこともあって、脳の機能は回復せ
ず、記憶は戻らなかった。その間付きっきりで家族皆で看病したが、10日後の1月22日に息を引き取り、永い眠りについた。看病の間、一途な信念を貫いてきた父の背に、残された家族皆で手を取り合い励んでゆくと約束した。
(2)父の生い立ち
父が生まれたのは、石川県江沼郡東谷奥村字荒谷 (その後江沼郡山中町荒谷町)、現在の加賀市山中温泉荒谷町である。(注:動橋川の上流にある集落で、現在はこの一帯の加賀東谷地区は国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている)。父が生まれた頃はまだ百世帯ほどが暮らしていて、福岡家は代々林業と炭焼きが生業で、それに少しの棚田があった。父は四男四女の6番目の三男だった。父親は厳格だったが、母親は優しかったという。父親は大勢の家族を養うために、自前で炭を焼けなくなってからは、越前 (福井県) へ炭焼きの出稼ぎに出向いたという。稲は作ってはいたが、狭い棚田で収量は少なく、炭の行商もして虎口を凌いだ。それで戦時中に祖父を荒谷に残して一家は山代へ移った。そして戦後、父は国民学校を卒業してからは、父親の炭売りや田圃の仕事を手伝いながら、子供心に「何が一番お金になるか」を必死で考え、まだ配給制だった電球や米を仕入れ、自分でも商いを始め、少しずつお金を貯めていった。15歳の頃である。その後兎や鶏を飼い、さらに豚を飼育するまでになる。こうして家に生活費を入れながら、父親に内緒でお金を貯めていった。そうして山代温泉の東口の民家から離れた土地を買い求め、養豚の畜舎を建てる計画をした。ところが未成年なので親の印鑑が必要なので父親に相談したところ、大反対され、計画はご破産になった。それで家を出ることに、父18歳の時である。
登録:
投稿 (Atom)