2013年1月11日金曜日

松井秀喜、ニューヨークで現役引退を表明

 日米のプロ野球で素晴らしい活躍をした松井秀喜選手が、2012年12月27日(日本時間12月28日)に現役を引退すると発表した。記者会見はニューヨーク市内の思い出のホテルで行なわれた。彼が会見場所に選んだこのマンハッタンのホテルは、彼がヤンキースにいて、2009年にワールドシリーズ最終戦を終え、両親にMVPのトロフィーを手に優勝を報告した思い出の場所だという。多くの報道陣が詰めかけたが、外国人の記者やカメラマンが居ないことからすると、日本向けということだったらしい。
 NHKの録画報道は約45分間、始めに松井選手が約15分間、現役引退に至った経緯を話した。言葉を選びながら、ゆっくりと反芻するような口調で話した。本人は野球が大好きでプレーの意欲はあったものの、最後のシーズンも(レイズで)チャンスをもらいながら結果は振るわなかった.これまで命懸けでプレーし、力を最大限発揮するという気持ちでやってきたけれど、結果が出なくなり、本日をもってプロ野球人生に区切りをつけたいと、引退を決意した理由を話した。そして20年を振り返って、「最高に素晴らしい日々だった」とも語った。その後、およそ30分間、一問一答があった。その一部を紹介する。

● 引退を決断した時期については、野球が好きで、プレーしたい気持ちがあったのも事実だが、でもいつかはそうなるという気持ちは常にあった。でも引退に傾いたのはつい最近だった。
● 最初に引退を報告した人は、いつも一緒にいるわけですから妻です。妻からは「お疲れさま」と言われた。僕が怪我をしてから結婚したので、心配をかける時間が多かったと思う。
● 日本球界復帰への選択肢については、おそらく日本のファンが期待しているのは、10年前の勇姿だろうけれど、正直その姿に戻れる自信は強く持てなかった。
● 20年間を振り返ると、特に巨人での10年とヤンキースでの7年には特別な想いがある。巨人はふるさとのようだし、憧れていたヤンキースでは家族の一員になれた気がする。
● 一番の思い出は、長嶋監督と二人で素振りをした時間、それが一番印象に残っている。選手としての心構え、練習の取組み方、すべてを学んだ。それがその後の私の野球人生の大きな礎となり、それがこの20年間を支えてくれた。感謝してもし尽くせない。
● 今後も野球に携わっていくのかについては、日米で10年ずつプレーした経験を、いい形で伝えていければと思うが、伝えられる土台をつくる期間が必要だと感じている。
● 悔いはないのかという問いには、これまでの決断に何一つ悔いはないと答えた。
● 日米通算507本塁打については、確かに僕の魅力の一つだとは思うが、僕が常に意識したのは、チームが勝つことで、そのために努力することしか考えていなかった。
● 今の心境はと聞かれて、寂しい気持ちと、ホッとした気持ちと、非常に複雑だと。まあ引退ということになるが、自分としては引退という言葉は使いたくない。まだ(報道陣などとの)草野球の予定もあるし、まだまだプレーしたい。
● もし自分に言葉をかけるとしたらと聞かれて、これに答えるのに随分時間がかかった。よくやったとか、頑張ったとか、という気持ちはない。努力はしてきたけれども、もう少しいい選手になれたかもと結んだ。人となりなのだろうか、本当に謙虚な人だ。
● 指導者への道はと聞かれて、現時点では考えていないと。ただ、もしかしたら将来そういう縁があるかも知れない。(恩師の山下星陵名誉監督には、以前プロより星陵の監督になりたいと話していたことがあるとかという記事が地元紙に載っていた。)
● 人生にとって野球とはという問いには、そんな哲学的な考えは持っていなくて、最も愛した、最も好きなものかなと答えた。

 この松井の引退発表は、私が購読している地方紙の北國新聞では1面トップに、全国紙の朝日新聞でも1面と「天声人語」に掲載された。そして内外の大勢の球界関係者から、称賛やねぎらいの言葉が寄せられた。その賛辞は最大級の実に素晴らしいものばかりだった。次に彼が尊敬する長嶋茂雄・元巨人監督の松井の引退についてのコメントを朝日新聞から引用したい。
「大好きな野球を続けたいという本心よりも、ファンの抱く松井像を優先した決断だったように思う」。
「最後の2,3年は故障と闘う毎日で、本人も辛かっただろう。2000年の日本シリーズ、2009年のワールドシリーズで、チームを優勝に導いた大きなホームランが目に浮かぶ。個人的には、2人きりで毎日続けた素振りの音が耳に残っている。これまでは飛躍を妨げないよう、あえて称賛することを控えてきたつもりだが、ユニホームを脱いだ今は『現代で最高のホームランバッターだった』という言葉を贈りたい」。
 また見事に散る桜の花をこよなく愛する長嶋元監督は、「松井の会見は、桜のような見事な散り際だった」とも語った。

 今、私の手元に松井秀喜のサインの色紙が2枚ある。1枚は読売ジャイアンツに在籍していた2002年の正月に書かれたもの、もう1枚はニューヨーク・ヤンキースに移籍した後の2004年正月にしたためたもので、これは泉丘高校同期で星稜高校の校長を長年していた松田外男君から頂いたものである。松井秀喜は大変律儀で、正月には必ず山下監督と松田校長のところには年賀に訪れたという。その折には何枚かの色紙にサインをしたという。ただ渡米した後は、サインには球団名は書かずに、名前と背番号55のみを記した。

2013年1月8日火曜日

チームメートだった朝日新聞記者が語る松井秀喜の現役引退

 松井秀喜(以下すべて敬称を略する)がニューヨークで引退会見をしたのは12月28日朝(現地時間12月27日夕)である。ところが同日の朝、大阪朝日新聞の朝刊1面に、「松井秀喜引退へ」という記事が載った。書いたのは福角元伸記者である。そこには松井秀喜が現役引退の意思を固めたこと、それは「結果が出せなくなった。それに尽きる」と話したこと、そしてそれは近く正式に表明する、とあった。この日の朝刊に松井秀喜引退の記事が載った新聞が、例えば関係深い読売新聞などでもあったかどうかは知らないが、少なくとも地元の北國新聞には一切掲載されていない。もっともその日の夕刊には大きく報道されていた。またNHKでは28日の午後5時から会見の全容をテレビで放映していた。
 私自身は野球にそれほど興味を持ってはいない。そんな私でも長嶋や王の名は知っているし、松井のことも新聞やラジオやテレビでおおよそのことは知っている。旧能美郡根上町で生まれ、少年野球チームに所属し、野球熱心な父親によって右打ちから左打ちに変更し、高校は伝統ある星陵高校に入り、高校最後の甲子園大会では高知の明徳義塾高校との対戦で5打席連続敬遠されたこと、プロ野球には第一志望の阪神ではなく、クジによって長嶋率いる巨人に入団したこと、背番号55で大いに活躍したこと、10年後にはフリーエージェント(FA)宣言をしてニューヨークヤンキースに移籍し、ヤンキースがワールドシリーズで優勝した年には、日本選手初の最優秀選手(MVP)に輝いたことなどである。
 記事を書いた朝日新聞記者の福角元伸は松井秀喜と星陵高校同期である。記事によると、彼は身長180㎝、しかも当時の石川県では数少なかった中学硬式クラブチームの出身で、自信満々で星陵高校の野球部に入ったという。ところが松井は当時の身長が185cm、体も大きく、入部当日に当時の山下監督から1年生は打撃練習をとの指示があり、彼は松井が軟式チームの出身であることもあり、得意満面で臨んだのだが、松井は打撃マシンの球を初球からバックスクリーンへたたき込んだのに度肝を抜かれたと言っている。そんなこともあって、松井は1年生で4番という破格の扱いになったという。また打撃練習でボールの下半分を叩く練習をしていたが、それは「ボールに逆スピンをかけて、遠くへ飛ばすため」だと監督に説明していたというから驚いてしまったとも述懐している。それにウエートトレイニングで下半身と背筋を鍛え、3年生の時には太ももは競輪選手のようだったとも。また松井選手の人柄を示す逸話として、3年生の時の甲子園大会での5打席連続敬遠のことも、監督は怒り心頭だったけれども、本人はこれもチームが勝つための作戦だからしようがないと達観していたとか。これにも脱帽したという。後日、「清原さんや桑田さんと違い、俺は打たなくて甲子園で有名になった」と話していたという。
 巨人入団後、長嶋監督は松井に対して「4番1千日計画」を立ち上げ、東京ドームでの試合前には、田園調布の自宅に松井を呼び、直接指導したという。素振りで「バットが空を切る音で、どこが良いか悪いのかが分かるようになれ」と言われたという。松井は「プロでやっていくための、打撃の基礎を築いて頂いた」と話していたという。素振りは松井にとって、打撃の調整の原点になったとも。松井は10年間の巨人在籍中、本塁打王3回、打点王3回、首位打者1回、リーグ最優秀選手(MVP)1回を経験、この間巨人はセントラルリーグ優勝4回、日本一3回を達成している。
 こうして打撃タイトルの常連となった松井にとって、アメリカ大リーグへの挑戦はむしろ自然な流れだったようだという。2003年に渡米し、自信を持って臨んだものの、1年を経て帰国して語ってくれた言葉は、「まるで、スポーツが違うようだ」という言だったという。とにかくスピードはもちろん、パワーが桁外れ、当時はまだ筋肉増強剤(ステロイド)の監視も今ほど厳しくはなく、大リーガーは化け物のような体躯、その中で松井は埋もれてしまったという。それでも持ち前の対応力で、2年目には日本選手で初めて30本を超える本塁打を記録した。しかし4年目の2006年には左手首の骨折があり、日米通算出場記録は1,768試合で途絶えた。以降も両膝の故障にも見舞われたりした。しかし7年目の2009年のワールドシリーズでは、悪いなりにも調整しながら、ワールドシリーズで日本選手初の最優秀選手に輝いた。それは相次ぐ故障にもめげず、最後までその時その時でベストを尽くそうと、常に練習を継続してきたからにほかならない。
 高校時代、松井の部屋の机には1枚の色紙が飾られていて、それには「努力できることが、才能である」とあったという。父の昌男さんから贈られた言葉だそうで、松井は引退する日まで、その教えを忠実に実践した男だったと言える。
 福角記者の朝日新聞記事のサブタイトルには、『ゴジラ 不屈の求道』とあった。