例年11月の探蕎会行事は、海道さんのお世話で、丸岡蕎麦道場にお邪魔するのが常だったが、前田事務局長からの案内では、今年海道さんは生憎と体調不良で、今後探蕎会からの大勢の人を受け入れるのは困難になったとのことで、急遽どこか別の場所へということになった。例年丸岡では、海道さん収穫の新そばをお腹いっぱい食べ、また手作りの鯖寿司や煮物にも舌鼓を打っての大満足の行事だっただけに、この中止は大変残念だった。でも海道さんの体調不良とあれば、これまで「おんぶにだっこ」だっただけに、断念やむを得ず、本復を心からお祈りする次第である。
そこで11月の行事の候補に挙がったのが、世話人の塚野さんから提案があったという、金沢市北郊外の金市町に今年2月下旬に開店したという「手打ち蕎麦 穂乃香」という蕎麦屋。前田事務局長から連絡があったのは11月7日、催行日は11月28日 (月) で、現地集合とのことであった。前田さんではネットで検索できますということで調べてみると、場所こそほぼ見当はついたものの、さて行くとなると、すんなり行けるかどうかは、全く自信がなかった。ところで最終的には11月24日に連絡があり、参加者は11名、車4台に分乗して向かうことになり、私は寺田会長と前田事務局長の車に分乗して向かうことになった。そして拙宅には10時半の迎えということに。
11月28日当日、前田さんの車に便乗して山側環状道路へ。訊けば前田さんは予め行かれたようで、この日は山環を神谷内 IC で下り、国道359号線 (旧8号線) を北上して、法光寺北交差点を左折し、 JR ガード下を潜り、バス通りの横枕交差点を右折し、さらに北陸自動車道の下を潜ると、金市のバス停の手前に案内の看板が見えた。そして右手にどっしりとした屋敷が見え、それが件の蕎麦屋だった。周りは蓮田、南側には間近に北陸自動車道が通っている。ただ道路にはフェンスが張られていて、通行する車を見ることはできない。
着いたのは11時少し過ぎ、屋敷は石垣に囲まれていて、前庭には車を優に10台は停められるスペースがある。車が1台停まっていた。立派な玄関のある屋敷、「商い中」とある。「手打ち蕎麦 穂乃香」の文字が、石垣には嵌め込みのパネルで、前庭には大きな立柱に、玄関には暖簾に記されていて、何とも主人の意気が感じられるというものだ。お天気も良く暫く散策していたが、促されて屋敷に入った。中は清潔で、板張りも磨かれていて、御殿のようだ。玄関右側には、広い打ち場がある。私たちの席はテーブルで、11人分セットしてあった。南側の窓越しには石を配した庭が設えてあって、眺めも良い。窓側と座敷には座机が並べられていて、窓際には一組の客がいた。この1階のスペースで30人は入られるとかだった。暫く待っていると、皆さん順次着かれ、定刻の11時半には全員が揃った。それにしても中々豪華な設えの和室、欄間は両面透かし彫り、こんな蕎麦屋は珍しい。
注文は各自とか。テーブルが同じなので、店のお姉さん方3人から、各自に番号札が渡された。私は二番、木札に「二」と記され、その下に小さな穴が2つ、他の方の「十」を見せて貰うと、10個穴が彫ってあって、手で触れても番号が分かるという仕組み、これには感心した。私が注文したのは「鴨せいろ」と手取川の冷酒、初めにお酒、そして摘みには地の小坂蓮根の揚げ物に蕎麦汁を含ませた小皿が
付いてきた。皆さんにも順次注文した「そば」が届く。私にも銚子1本が空になる頃、注文のそばが届いた。
塗った角盆に、挽きぐるみの中太のそばが円いざるに盛られ、それが更に大きい白い丸皿に載せられ、盆の左手には、先程の蓮根の揚げ浸しと、汁が入ったずんぐりとした円い壺、その上に蓮根と鴨肉と地物の野菜の煮しめが盛られた皿が載せられている。こんな様式は他の蕎麦屋で食べる「鴨せいろ」とは随分趣きが異なっている。また通常はこれに付いてくる山椒の粉がない。訊くと味に含ませてあるとか、先ずは上の皿の具材を汁の入っている壺に入れた。お酒をもう1本所望し、邪道ながら飲みながら蕎麦を手繰る。そばは新蕎麦なのだろうか。どうも判然としない。家内を案内しようと思ったものの、この「そば」では満足しないのは必定だ。また鴨肉は厚切りで固く、美味しかったのはご当地の小坂蓮根のみという印象だった。でも環境は実に素晴らしい。居る間にもお客さんが次々と来られていたが、ネットで見られて来訪するのだろうか。また再訪はあるのだろうか、興味が湧くところだ。また私は注文しなかったが、向かいのお二方が注文された特製の鯖寿司二貫は美味しそうだった。もし次回来ることがあったら所望しようと思った。
終わって主人から少しお話が聴けた。蕎麦は今庄の新蕎麦だとか。またこの屋敷の大家さんは、もと小坂蓮根の生産組合の会長さんだったとか、道理で立派なわけだ。さしずめ蓮根御殿というべきか。
〔手打ち蕎麦 穂乃香〕
所在地/金沢市金市町ニ71番地 電話/076−256−0288
営業時間/午前11時から午後3時まで 定休日/水曜日
ホームページ/ h t t p : / / s o b a - h o n o k a . c o m
2016年11月30日水曜日
2016年11月18日金曜日
微生物学同門会のこと
平成28年9月に、金沢大学医学部微生物学教室の平成28年度同門会を開くのでご参集下さいという案内があった。幹事は杏林大学医学部教授の神谷氏と沖野歯科医院の沖野氏である。この同門会は私が細菌学教室に入った頃は毎年開かれていたようで、私が正式に参加できるようになったのは、学位を取得した昭和50年以降である。ところでこの会は初代教授の谷友次先生、二代目の西田尚紀先生、三代目の中村信一先生までは毎年開催されてきたが、中村先生が金沢大学副学長、次いで学長になられ、四代目の清水徹先生が就任されてからは開催されなくなった。教室のテーマは、谷先生は梅毒だったが、西田先生以降は嫌気性菌、とりわけクロストリジウムの毒素と病原性の関係を追求してこられた。平成15年に中村先生が教授の折、やはりクロストリジウムを研究されていた清水先生が助教授に招聘された。しかしその翌年に、中村先生が金沢大学副学長に就任され、清水先生が教授に選任された。同門会ではその折に教授就任祝賀会を行なった。でもその後教室は一切同門会には協力せず、会は事実上休会となってしまった。清水先生は分子生物学的見地から毒素産生を研究されるという世界でも最先端の研究をされていて、国際的にも広く知られた方とかだった。それで教室での会話は英語のみとか、従って日本人よりも海外、とりわけアジア諸国から多くの研究生が集まっていたようだ。このような環境では、旧態然とした同門会は蚊帳の外となったことは容易に想像できる。
ところで清水先生は平成26年2月に急逝されてしまった。教室主催で偲ぶ会が十全講堂で執り行われ、海外からも沢山のメッセージが寄せられ、その功績の大きさに驚かされもした。またピアノを弾くのが大好きで、よく演奏もされていたとか、疎遠にしていただけに、知られざる一面を披瀝され驚かされもした。そして在任中は同門会が開かれずにいたこともあって、教室がどうなっていたのかは全く知らされなかった。そして逝去された後、在籍していた院生や研究生はしかるべき研究の場に行かれたのだろう。
ところで後任の教授が決まったというのを、後任教授の藤永由佳子博士からの就任案内状で知った。平成27年8月のことである。早速在沢の旧微生物学同門会有志の主催で歓迎会が催された。会場は東山の「山の尾」、ざっと20名ばかりが参集した。女性の教授の就任もさることながら、北海道大学薬学部卒業とかs、私も薬学出身なので、すごく親近感を感じた。先生はその後札幌医科大学で学位を取得され、以降は国の内外でコレラ毒素やボツリヌス毒素の研究に勤しまれ、前任は大阪大学微生物学研究所の特任教授で、金沢大学へは三代続いたボツリヌス毒素の研究が縁で選任されたとかだった。まだ就任されたばかりで、教室造りはこれからだが、出席されていた中村前学長も一安堵という雰囲気だった。
それで今年9月に、平成28年度金沢大学微生物学教室同門会を開催しますという案内が大学からあった。詳しい経緯は知らないが、実に嬉しく楽しくなった。暫く途絶えていただけに、喜びも一入だった。開催日時は11月12日の土曜日、集まった人は25人と少なかったが、全国各地から同門の人達が集まった。名簿を見ると、会の顧問に中村信一さんと藤永由佳子さん、会長に神谷茂さん、副会長に沖野善則さんが選ばれていて、今後は毎年開催するとかだった。名簿を見ると、現在のところ会員は79名、特別会員が2名、また物故者は102名とのことだった。会では教室の近況報告や出席者全員の自己紹介などが行なわれた。そして来年は、今年の出席者全員が、とにかく一人を勧誘して参加しましょうということになり、会を閉じた。
私のスピーチでは、私が金沢大学薬学部出身なこと、卒業後は石川県へ奉職し、当初は県で発生が多かった赤痢対策に振り回されたこと、その後当時国が行なっていたインフルエンザの検査を県でも行なわねばならなくなり、昭和38年に当時細菌学教室の助教授だった波田野基一先生の下で専修生として研鑽を積んだこと、しかしその後学制改革で癌研究施設が創設され、波田野先生はそこのウイルス学講座の教授に就任されて教室を離れられたこと、でも当面は建物がなく微生物教室の旧助教授研究室で当面研究を続けていたこと、その折には耳鼻咽喉科を開業されていた先生方が沢山専修生として教室においでたこと、でも今日はその懐かしい方々の参加が全く無くて寂しい……などを話した。事実出席された方を見ると、歯科出身の玉井先生門下の歯科医の方たちが圧倒的に多かった。だから私が顔を知っていて話せたのは6名のみだった。終了後、二次会が設定されていたが、私は参加しなかった。
〔閑話休題〕
教室名称の変遷:古くは医学部細菌学講座だったが、ウイルス学も扱うようになって、医学部微生物学講座になった。その後中村学長の頃に、金沢大学の学部の大きな編成替えがあり、教室は医薬保健研究域医学系感染症制御学講座となった。でもこの難解な講座名は実に分かりにくく、今年からは医薬保健研究域医学系細菌学分野となったようだ。
ところで清水先生は平成26年2月に急逝されてしまった。教室主催で偲ぶ会が十全講堂で執り行われ、海外からも沢山のメッセージが寄せられ、その功績の大きさに驚かされもした。またピアノを弾くのが大好きで、よく演奏もされていたとか、疎遠にしていただけに、知られざる一面を披瀝され驚かされもした。そして在任中は同門会が開かれずにいたこともあって、教室がどうなっていたのかは全く知らされなかった。そして逝去された後、在籍していた院生や研究生はしかるべき研究の場に行かれたのだろう。
ところで後任の教授が決まったというのを、後任教授の藤永由佳子博士からの就任案内状で知った。平成27年8月のことである。早速在沢の旧微生物学同門会有志の主催で歓迎会が催された。会場は東山の「山の尾」、ざっと20名ばかりが参集した。女性の教授の就任もさることながら、北海道大学薬学部卒業とかs、私も薬学出身なので、すごく親近感を感じた。先生はその後札幌医科大学で学位を取得され、以降は国の内外でコレラ毒素やボツリヌス毒素の研究に勤しまれ、前任は大阪大学微生物学研究所の特任教授で、金沢大学へは三代続いたボツリヌス毒素の研究が縁で選任されたとかだった。まだ就任されたばかりで、教室造りはこれからだが、出席されていた中村前学長も一安堵という雰囲気だった。
それで今年9月に、平成28年度金沢大学微生物学教室同門会を開催しますという案内が大学からあった。詳しい経緯は知らないが、実に嬉しく楽しくなった。暫く途絶えていただけに、喜びも一入だった。開催日時は11月12日の土曜日、集まった人は25人と少なかったが、全国各地から同門の人達が集まった。名簿を見ると、会の顧問に中村信一さんと藤永由佳子さん、会長に神谷茂さん、副会長に沖野善則さんが選ばれていて、今後は毎年開催するとかだった。名簿を見ると、現在のところ会員は79名、特別会員が2名、また物故者は102名とのことだった。会では教室の近況報告や出席者全員の自己紹介などが行なわれた。そして来年は、今年の出席者全員が、とにかく一人を勧誘して参加しましょうということになり、会を閉じた。
私のスピーチでは、私が金沢大学薬学部出身なこと、卒業後は石川県へ奉職し、当初は県で発生が多かった赤痢対策に振り回されたこと、その後当時国が行なっていたインフルエンザの検査を県でも行なわねばならなくなり、昭和38年に当時細菌学教室の助教授だった波田野基一先生の下で専修生として研鑽を積んだこと、しかしその後学制改革で癌研究施設が創設され、波田野先生はそこのウイルス学講座の教授に就任されて教室を離れられたこと、でも当面は建物がなく微生物教室の旧助教授研究室で当面研究を続けていたこと、その折には耳鼻咽喉科を開業されていた先生方が沢山専修生として教室においでたこと、でも今日はその懐かしい方々の参加が全く無くて寂しい……などを話した。事実出席された方を見ると、歯科出身の玉井先生門下の歯科医の方たちが圧倒的に多かった。だから私が顔を知っていて話せたのは6名のみだった。終了後、二次会が設定されていたが、私は参加しなかった。
〔閑話休題〕
教室名称の変遷:古くは医学部細菌学講座だったが、ウイルス学も扱うようになって、医学部微生物学講座になった。その後中村学長の頃に、金沢大学の学部の大きな編成替えがあり、教室は医薬保健研究域医学系感染症制御学講座となった。でもこの難解な講座名は実に分かりにくく、今年からは医薬保健研究域医学系細菌学分野となったようだ。
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