2016年7月25日月曜日

オーケストラアンサンブル金沢の今シーズン (2015ー2016) 最後の公演(2)

 このシーズン中このシリーズは10回あり、10回目の第379回定期公演は7月23日にあった。この回のテーマは「現代ヨーロッパの潮流 多才ヴィトマンの世界」。この日の立役者は、クラリネット奏者であり、作曲家であり、指揮者でもあるイェルク・ヴィトマン、現在フライブルク音楽院のクラリネット科の教授と作曲科の教授を兼任しているという。私にとっては初めて耳にする人だった。今日のプログラムはヴィトマンのクラリネット演奏が2曲、ヴィトマン作曲の小品が2曲、指揮が1曲という構成だった。
 初めに演奏されたのはウェーバーの「クラリネット小協奏曲 変ホ長調 op.26」で、この曲は初演の後、バイエルン王の委嘱で作曲された2曲のクラリネット協奏曲の端緒となった曲とか、ヴィトマンは導入部こそ手振りで指揮をしたが、後は演奏に専念、コンサートマスターのヤングが曲をリードした。演奏はさすがクラリネットの名手と言われるだけあって、感動の演奏であった。
 次いでヴィトマン作曲の「セイレーンの島 (1997)」。セイレーンとはギリシャ神話に出てくるあの上半身は女、下半身は鳥の姿をした海の魔物で、人魚伝説の原型とされている。オーケストラアンサンブル金沢のコンサートマスターのヤングの独奏ヴァイオリンと19の弦楽器による演奏、弦楽器の多様な奏法を高度に駆使した正に現代の弦楽曲で、ヤングのリードが実に素晴らしかった。この演奏にヴィトマンは指揮をせず、終わってヴィトマンがヤングに言葉をかけたのがすごく印象的だった。聴いて見て感激した演奏だった。
 前半の最後はロッシーニの「クラリネットと管弦楽のための序奏、主題と変奏曲」、ロッシーニの数少ない器楽曲の一つで、この曲はとあるクラリネット奏者から依頼を受けて作られたという小品で、この曲でのヴィトマンのクラリネット演奏は、さながらオペラやバレーでの主役のような役割をしていて、序奏から主題の提示、そして5つの変奏を順に駆け巡る華やかな構成で、ここでも曲はヤングがリードしていた。
 休憩を挟んで、初めにヴィトマン作曲の「180ビーツ・パー・ミニット (1993)」という弦楽六重奏曲、構成はヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ3で、1分間180拍という激しさ、しかも拍子が目まぐるしく変わるという難曲。演奏が終わってヴィトマンはヤングと抱き合っていたが、よくぞこなしたという印象、聴衆の拍手が凄かった。
 最後はメンデルスゾーンの「交響曲第1番ハ短調 op.11」、この曲はメンデルスゾーンが12歳から14歳にかけて作曲した12曲の「弦楽のための交響曲」に続いて15歳の時に作曲され、当初は13番とされていたが、出版時に「交響曲第1番」とされた経緯がある。ヴィトマンの指揮に初めて接したが、情熱的で的確な指揮は聴衆を魅了した。拍手が鳴り止まない素晴らしい名指揮だった。
 次の新しいシーズンは2016年9月から始まる。

オーケストラアンサンブル金沢の今シーズン (2015ー2016) 最後の公演(1)

1.マイスターシリーズ「ショパンと友人たち」
 シーズン中にこのシリーズは5回あり、第1回は昨年の10月24日、最終の第5回は今年の7月16日の第379回定期公演だった。今回のシリーズのテーマは「ショパンと友人たち」、この日はショパンのオーケストラ付ピアノ曲として ピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21 、それにメンデルスゾーンの 交響曲第3番イ短調「スコットランド」op.56 が演奏された。ほかに現代ポーランドの新進作曲家キラールの「オラヴァ (1988)」という弦楽オーケストラのための作品、そして嬉しいことに、前回の演奏会で演奏者急病でキャンセルとなったショパンの管弦楽付ピアノ曲の「ポーランドの歌による幻想曲 op.13」が追加演奏された。指揮をした井上道義 OEK 音楽監督の言によれば、再演の要望が非常に強く、この日のピアノ奏者の北村朋幹(ともき)さんの了解もあって実現したとかだった。北村さんはまだ弱冠34歳、現在ベルリン芸術大学に在学中の新進気鋭のピアニストである。
 初めにショパンの「ポーランドの歌による幻想曲」、この曲はこの後に演奏されたピアノ協奏曲第2番のワルシャワでの初演 (1930年3月) の際に初めて演奏されたという曲である。演奏に先だって、門田 宇 (たかし) さんによるナレーションがあり、それは暗くて果てしないポーランドの原野を印象づけるような語りだった。その後暫く時間をおいてから、曲はオーケストラのゆっくりとした序奏から始まった。第1部はポーランドの民謡に、第2部はポーランドのとある作曲家の旋律に修飾、第3部はポーランドの民族舞踊を主題にしたもので、華やかな独奏ピアノを管弦楽が装飾し、序奏、第1部、第2部、第3部と進むにつれ、ピアノは静から動へと華やかに躍動する様は凄く、満席の聴衆に感動を与えた1曲だった。追加の演奏だったのにこの迫力、要望が強かったのが頷ける会心の演奏だった。
 次いでキラールの「オラヴァ」、弦楽器パートのみ15人での演奏、オラヴァとは川の名だそうだが、演奏は民族音楽風な感じの簡潔なリズムの反復と、次第にだんだん強くなる力強い推進力が身体に直に感じられるような凄い音楽だった。
 そして本命のショパンのピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21、作曲も初演も第1番よりも先だったという
ことはよく知られている事実で、2曲あるピアノ協奏曲のうち出版が後だったということで第2番になっている。第1番、第2番共によく演奏されるが、この日の若い北村さんの華麗な旋律は聴衆を惹き付けた。
 最後にメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」op.56、第4番「イタリア」と共につとに有名である。井上道義の華麗な全身を駆使した指揮ぶりには圧倒された。

2016年7月9日土曜日

本家吉田家のお墓が野々市にあることを知る

 7月2日の午前10時頃、突然電話があり、「京都の吉田ですが、お昼少し前に木村さんのお宅へお寄りしたいのですが、宜しいでしょうか」とのこと。私は特にお断りする理由もないので、「お待ちしております」と返事した。京都には私が年賀状を差し出している吉田さんという家が3軒あり、お電話頂いた吉田さんはどの吉田さんなのだろうかと思案したりしていた。先の電話では、「タクシーを待たせてお寄りするので、時間は取らせませんから」とも話されていた。
 11時過ぎ、吉田さんと言われる上品な女の方と身体が大きな息子さんと思われる方とが見えられた。「タクシーを待たせておりますので、玄関先でご挨拶だけ」と言われ、それで私もそれに甘んじて応対させてもらった。そして驚いたのは、「今日は吉田の家のお墓にお参りに来たので、木村さんのお宅にも寄らせて頂きました」とのこと。吉田家の墓が野々市にあることは知っていたが、これまで私が吉田のお墓にお参りしたことは一度もない。年寄りから野々市の旧中町の墓地に吉田家の墓があるとは聞いてはいたものの、場所がどこなのか、どんなお墓なのかは知らず、それでこれまで気にしたこともなかった。だから突然来られて、お墓参りに来ましたと言われても、驚いて全く応対のしようがなかった。それで「いつか人伝に、吉田さんのお墓は京都の方に移されたとお窺いしましたが」と言うと、「いえ、私の主人からは、亡くなったら野々市のお墓に埋葬して欲しいと言われていましたので、お骨は野々市のお墓に納めました。またその際に墓碑も新しくしました」とのこと、私にとっては全く寝耳に水のこととて、赤面してしまった。「そうとは知らずに、大変失礼をいたしました」とお詫びをした。玄関先での数分の会話だったが、その時に後でぜひ吉田さんのお墓へ行って来なければと思った。吉田さんからは、手土産に京都の宇治茶のラスクを頂戴した。
 いつかまだ私の弟が存命中に、一度旧中町の墓地に案内されて、これが吉田のお墓だと紹介されたことがあるが、それは本当に小さなお墓だったので、その後吉田のお墓が京都に移されたと聞いた時は、さもありなんと合点していた。それでその日の夕方に、家内は知っているというので、案内してもらったが、吉田家のお墓は大変立派なので驚いた。現在吉田さんの御一族は皆さん京都に住んでおいでだが、これほどの大きなお墓を移すのは容易ではないと思った。
 お墓の土台は、間口 250 cm、奥行 190 cm、高さ 52 cm で、その中央に5段組の高さ 180 cm の「吉田家累代之墓」が建っており、正面には「丸に州浜」の家紋が刻まれている。そして右面には昭和九年八月建之とあり、左面には、吉田亀次郎、吉田規一、澤田 冬、南 壽美と4人の名が、おそらくこの4人の兄弟姉妹が建立したのだろう。亀次郎さんも規一さんも、木村の家に来られたのを私は子供心に覚えている。そして左側には2段積みの高さ 82 cm のお墓があり、正面には南无阿弥陀仏の文字、左面には木屋五左衛門、右面には弘化二年七月とあった。木屋というのは吉田家の屋号で、私の家の先祖の五右衛門も吉田家から分家して木屋五右衛門と名乗っていて、明治維新以後に木村姓を名乗るようになったと聞いている。また我が家の家紋も「丸に州浜」で、これも主家の家紋と同じである。
 お墓の右端には新しい墓碑 (法名板) があり、3名の法名と名前と没年齢、それに没年月日が記してあった。それには右から順に、香譽梅薫禅定尼 梅野 八十一歳 昭和三十八年二月二十二日、法譽浄規禅定門 規一 五十二歳 昭和四十三年十月十日、壽楽優道信士 壽雄 六十六歳 平成十二年三月
二十一日、と記してある。
 壽雄さんは規一さんの長男で、もし今存命ならば 82 歳、私と同年代である。身体の大きな方で、一時相撲部屋に居たことがあったが、修業が厳しくて挫折し、一時木村の家に逗留していたことがあるので覚えている。今思うに、お墓参りにおいでた方は、壽雄さんの奥さんと息子さんだったのだろう。後日出したお礼の手紙には、旧盆にはお参りさせて頂きますと書き記した。
 本家の吉田家がいつ頃からいつ頃まで野々市においでたのかは知らないが、野々市には吉田の姓を名乗る家が何軒もあり、皆親戚同士だと聞いたことがある。本家はかなり以前から吉田の姓を名乗っていたが、分家は屋号で呼んでいたろうし、明治以降に吉田姓を名乗ったのだろう。因みに私の先祖は吉田でなく木村を名乗ったが、旧野々市村で木村を名乗ったのは私の家と今は絶えた分家だけである。
 今年の旧盆にはぜひ吉田家のお墓にお参りしたいと思っているが、ほかにどんな方がお参りされるのか、興味が持たれる。もし縁者の方が近くにおいでれば、お参りされると思うのだが、どうだろうか。旧盆が待たれる。

2016年6月17日金曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その3)

(承前)
国宝 大法寺三重塔 長野県小県群青木村当郷
 道の駅で大法寺への道順を訊くと、上田に向かって1km ばかり行くとコンビニがあるので、その手前を山に向かって入って下さいと。礼を言って車を走らすと、コンビニの手前に標識があり、そこから山に入る。このお寺は子檀嶺岳 (こまゆみだけ) (1223m) の中腹にあり、ここからは塩田平を一望できるという。坂道を上がって行くと駐車場があり、ここに車を停める。寺はさらに高みにあり、径を辿り、階段を上がると本堂と思しき建物の前に出た。でも堂の正面は閉ざされていて、一見無住の感じである。塔は何処かと見回すが、此処からは見えない。すると三重塔への順路の標識があり、それに従って歩むと、上に三重塔が見えた。さらに急な石段を二つばかり上がると、三重塔の全容が見えた。右手に寺務所があり、拝観料を払い、御朱印も頂いた。案内所によると、このお寺は天台宗で、古くは大宝寺といい、奈良前期の大宝年間 (701-704) に創設されたという。この三重塔が造られたのは鎌倉時代から南北朝時代に移る過渡期とされ、この三重塔の特徴は、初重が特に大きいことで、このような形式の塔は他には奈良の興福寺の三重塔のみという。高さは 18.38 m、塔の姿があまりにも美しいので「見返りの塔〕という名で親しまれているとか。全国で国宝の三重塔は 13 基あるそうで、その内の一基は、近くの塩田平にある安楽寺の八角三重塔で、以前訪れたことがある。また寺には重要文化財の木造十一面観音立像や木造普賢菩薩立像ほか四点があるという。三重塔は素朴で静かな佇まいをして建っていた。境内には樹齢 480 年という榧 (かや) の樹があった。

麻績 (おみ) IC への道を間違えて松本へ
 寺を出て国道 143 号線沿いのコンビニまで戻り、ナビで自宅へ戻る指示を出すと、上田菅平 IC へという指示、それで一旦解除して西へ進んでからナビを入力しようと思った。国道を西進すると、途中には国道 143 号線と麻績 IC への表示が大きく出ていたので、安心して車を走らせた。沓掛温泉、そして田沢温泉への分岐を過ぎ、そろそろ県道 12 号線に入り、修那羅峠越えをしなければならなかったのに、つい快適に車を走らせ、しかもナビに入力するのも忘れ、分岐を過ごしてしまった。IC への分岐点には大きな表示があるものと思い込んでいたものだからどんどん走り、九十九折りの道になってやっと間違えたと分かった。そして青木峠を越えて松本市に入った。ここまで来たのだから腹を決めて松本へ下りようと思っていたら、暫くして道端に麻績 IC へとの表示、細い山道だが、表示を信じて山を下った。篠ノ井線を渡り、国道 403 号線に出て長野自動車道を潜り、こうしてどうやら麻績 IC に辿り着けた。
 先ずは姥捨 SA で小憩し、ここからは家内の運転で取り敢えずは小布施 PA まで、でももう少しというので新井 PA まで、これから北陸自動車道に入るとトンネルが 26 も続くので私が運転をと思っていたが、新井 PA でも停まらず、さらに名立谷浜 SA も通過、もうこうなればトンネル嫌いとかは言っておれず、観念して運転は家内に任せた。そして家内は長駆し有磯海 SA まで運転してしまった。トンネル嫌いと言っていたが、これで少々自身がついたとは彼女の言だった。後は私が運転して自宅まで。走行キロ数は 650 km、所要時間は3時間半だった。

付.蕎麦タチアカネのこと
 道の駅あおきで見たタチアカネという品種の蕎麦について紹介する。これは長野県野菜花き試験場が育成した長野県オリジナルの蕎麦の品種で、名前は茎が丈夫で倒れにくいことから「タチ」、また蕎麦の白い花が実になると茜色になることから「アカネ」、名はこの2つに由来する。今長野県では、信濃1号という中間秋型品種が最も多く栽培されているが、このタチアカネという品種 (平成 21 年登録) はより耐倒伏性に優れ、ゆで麺色の評価や千粒重や容積重がより優れているという。ただ蕎麦は他花受粉性の作物で、他の品種が近在すると交雑するので、長野県では今は青木村に限定して栽培させているという。白い花と赤い実とのコントラストが美しく、今では青木村の風物詩として定着しているという。現在村には蕎麦屋が4軒ある。

 付.山田牧場よりの日本アルプス連峰全山の山名(堀江文四郎さん撮影・制作)
 写真に表示してある山名と標高をそのまま転記した。標高にはマチガイもある。
左から右へ。前穂高岳 (3090)、奥穂高岳 (3190)、常念岳 (2857)、涸沢岳 (3110)、北穂高岳 (3106)、槍ヶ岳 (3180)、燕岳 (2763)、三俣蓮華岳 (2841)、鷲羽岳 (2924)、野口五郎岳 (2924)、烏帽子岳 (2628)、蓮華岳 (2799)、針ノ木岳 (2821)、赤沢岳 (2678)、爺ヶ岳 (2670)、立山・雄山 (3003)、鹿島槍ヶ岳 (2890)、劔岳 (2998)、五龍岳 (2814)、唐松岳 (2698)、八方尾根、天狗の大下り (2812)、白馬鑓ヶ岳 (2903)、白馬杓子岳 (2900)、白馬大雪渓、白馬岳 (2933)、白馬乗鞍岳 (2469)、戸隠連峰 (1904)、飯綱山 (1817)

2016年6月15日水曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その2)

(承前)
 うっかりしていて、食事ですと呼ばれて、慌てて食事処「風土」へ行く。この名前は前と全く同じ、架かっている暖簾も前と同じだ。中へ入ると、これまた前の満山荘と見間違う位同じスタイル、驚く程似ている。指定のテーブルには料理が並べられていて、予め注文してあった地ビールと地元ワイナリーの赤ワイン、それに今夕の食事の献立表も置かれていた。前の宿でもそうだったが、料理は奥さんの創作料理、次にその献立を紹介しよう。
〔信州沓掛 夏の献立〕 平成28年6月5日 料理明子 印
「食前酒」枸杞酒
「生湯葉」クコ柚子胡椒
「信州サーモンのコンフィー」塩糀、アロエヤングリーフ、シーサラダ
「地物野菜他とピクルスなど」野菜 (アスパラ、茄子、赤蕪、豌豆、ブロッコリー、パプリカ、長芋、大根、オクラ、ベビーコーン)、ビーツとパプリカのソース、蕗味噌マヨネーズ、醤油ジュレ
「牛乳豆富」柚子味噌
「十六穀米スープ」ドライベジタブル
「夏の天麩羅」エリンギ茸、万願寺甘唐、モロッコ隠元、破竹、信州りんご、抹茶
「チーズの茶碗蒸し」トマト、葱
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」独活、人参、クレソン
「大岩魚のジェノバ風ソース」サラダ大根生ハム巻、クリームチーズ、ミニトマト、ブルーベリーソース
「野沢菜茶漬け」
「りんごシャーベット」りんご赤ワイン煮、マンゴーヨーグルトソース
 飲み物が不足したので、清酒「八海山」を追加した。

 終わって部屋に戻り、翌日の計画を立てることに。私の当初の計画では、沓掛温泉の背後の夫神山の東側に広がる塩田平の寺院、前山寺や安楽寺や北向観音などを拝観して、その後上信越自動車道の上田菅平 IC から帰ろうと算段していた。ところが色好い返事が貰えず、ではこの青木村の道の駅で買い物をして、近くにある国宝の大法寺の三重塔を見て帰ることにした。それで沓掛温泉への車でのアクセスを見ると、上田 IC からも長野自動車道の麻績 (おみ) IC からも、距離は20km、時間は30分と同じなので、帰りは麻績からとした。

 6月6日(月) 朝5時に起きて風呂に行く。内湯はともかく、露天風呂は少々温くて、上がると寒い。それで早々に上がって外へ。宿の前から急な崖に付けられた細い径を辿って、下に見える池まで下りる。径は樹林に聳える欅の大樹を巻くようにして付けられている。ウグイスやホトトギスやヒヨドリの啼き声が聴こえる。下の池には掛け流しの湯が流れ込んでいて、池には熱帯魚のピラニアがいると書かれている。魚の群れが見えたが、果たしてそうだったのかは不明だった。帰りは車道を歩いて満山荘のさらに奥にある外湯の「小倉乃湯」まで足を延ばした。この湯は開湯が平安時代とか、また小倉の由来は裏山の山容が京都の小倉山に似ているところから名付けられたと記してあった。そして以前はここは湯治場で、宿も数軒あったというが、今は3軒のみである。宿へ戻ると入り口に、温泉に入りたい方は「小倉乃湯」へどうぞとの貼り紙がしてあった。そして中の帳場の横には、ビニール袋に入ったピラニアの餌が置いてあった。
 朝食は8時から、でも朝の NHK の連ドラを見てからだったので、食事処へ行くと、もう皆さん食事の真っ最中だった。朝はバイキング形式、肉、魚、野菜、果物、煮物、焼物、揚物、漬物、サラダ、飲物など、その数 30 種位、無くなると追加される仕組み。こういうバイキング方式で、美味しそうな物が並んでいると、つい取り過ぎになってしまい勝ちで、取ってしまった以上は残すことは憚られ、つい食べ過ぎになってしまう。ご飯とお汁が副食になってしまう感じである。食事は9時まで、時間になって部屋へ戻った。
 暫し部屋で寛いで、チェックアウトの 10 時になって宿を出た。昨晩車は6台あったが、既に出発したのは1台のみ、我々が第2陣ということに。県道 12 号線を北上して国道 143 号線に出て右折し、上田方面に向かうとやがて左手に「道の駅あおき」が見えた。青木村は山に囲まれた農村、地元の野菜を主とした農産物やその加工品が直売されていた。中に青木村限定栽培の「タチアカネ」という品種の蕎麦がお勧め品に入っていた。

2016年6月13日月曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その1)

 (株) 朝日旅行では、「日本の秘湯を歩く」という企画をしていて、3年間の間に、社団法人「日本の秘湯を守る会」に所属する温泉宿に10軒訪れると、その中の1軒に無料で招待され宿泊できるという仕組みになっている。宿の数は出入りがあるが、平成27年3月現在、1都1道30県にある178軒の宿が会員になっていて、北陸3県では、富山2軒、石川3軒、福井1軒が対象になっている。振り返って、この3年間に私たち夫婦が訪れたには、長野県の角間温泉、七味温泉、白骨温泉、小谷温泉、中の湯温泉、奥山田温泉、岐阜県の福地温泉、平瀬温泉で、このうち奥山田温泉の満山荘にはこの間に3回訪れた。ここは志賀高原に近い標高 1,550 m に建つ宿で、天気が良ければ、南は前穂高岳から北は白馬乗鞍岳までの、南北 80 km に及ぶ北アルプスが、その奥には立山・劔岳、手前には飯綱山、戸隠連峰、黒姫山の三山、眼下には善光寺平が眺められ、しかもこれらを露天風呂に浸りながら俯瞰できるのが醍醐味の宿である。もっとも天気が悪ければ、このような景色は見られない。それで無料で宿泊できる宿に、この満山荘を希望したのは必然だったとも言える。以前の招待の時もここで宿泊した。
 この無料宿泊には制限があって、正月、ゴールデンウイーク、旧盆、それに土曜日や祝祭日の前日は除外される。申込みには、宿は第1から第3希望まで、宿泊日も第1から第3希望までを指定して出すことになっている。ところで3月末に連絡があって、第1希望の満山荘は1月3日をもって閉館し、元の奥山田温泉から場所を離れて、沓掛温泉「おもとや旅館」を引き継ぐことになりましたが、それでも宜しいですかとのこと。それで場所は違うけれども手配をお願いしますと連絡した。その結果、新しい満山荘への招待は6月5日 (日) ということになった。
 6月5日 (日) の朝10時15分前に家を出た。この日はまだ百万石行列行事が金沢市内で行なわれているので、それを避けて白山 IC から北陸自動車道へ、そして時々休みながら、その後上信越自動車道に入り、上田菅平 IC で下りて沓掛温泉へ向かった。上田市内が混雑していて、通り抜けるのに少々時間がかかったが、その後国道143号線を西へ進み、青木村沓掛にある沓掛温泉満山荘に着いた。着時刻は午後3時15分で、所要時間は5時間半だった。
 沓掛温泉は国道筋にある青木村役場から鹿教湯温泉へ抜ける県道12号線の途中の山間にあり、県道から温泉への標識に従って小高い山腹を上がると着いた。ここには温泉宿が3軒と外湯 (大衆浴場) があり、すべて源泉かけ流しで、泉質はアルカリ性単純温泉とかである。この温泉は夫神岳 (おかみだけ) の西の麓の海抜 670 m に位置していて、反対側の東の麓には別所温泉 (上田市) がある。
 宿に入ってお会いしたこの宿の主人は、正しく奥山田温泉の主人だった。記帳した後に此処の温泉の特徴の説明があった。この温泉には泉源が2本あって、泉質は同じだが泉温が36℃と39℃で、ここでの内湯には前者を41℃に加温して用い、後者はそのまま露天風呂に用いていると説明があった。部屋は1階に7室、2階に4室、3階に3室あり、私たちは2階の201号室の「穂高」、2階では最も大きい部屋で、洋間風の寝室と居室、それに広縁の付いた青畳の和室までも付いていた。洋間はどちらもゆったりとしていて、窓を開けると、鬱蒼と繁った樹々の間からは青木村の田園風景が広がっているのが見えた。和室の窓を開けると、下に駐車場が見え、ここが玄関の上だということが知れた。居室には大きなソファと大型テレビとハンモック、部屋のスタイルは前の満山荘を彷彿とさせる雰囲気だ。
 風呂から上がって、高速道の SA で買ったつまみで焼酎「神の河」を飲む。今の時間帯は男性は内湯のみ、女性は内湯と露天風呂、家内はまったりのお湯三昧だった。ややあって2階にあるラウンジへ行く。前の宿でもこんなスペースがあったが、この新しい宿では2間も開放されていて、ここではコーヒー、紅茶、お茶、冷水などを自由に飲めるようになっている。また客室では禁煙だが、ラウンジの1室は喫煙可能とかだった。そして前の当主の堀江文四郎さんが、奥山田温泉の山田牧場から撮影された北アルプスの山並みの横幅4mもの写真も置かれていた。残雪期の写真で、山名はもちろん雪形なども記してあった。あの爺様は今はどうされているのだろうか、今の当主には何となく言い出すのが憚られ、聞きそびれてしまった。今夕の食事は午後6時半とか、それまでゆっくりと部屋で寛いだ。

2016年6月8日水曜日

平成28年5月のあれこれ(その5)

16.魯山人寓居跡「いろは草庵」訪問
 子うし会での傘寿の祝宴を山代温泉の「ゆのくに天祥」で行なった折に、同じ山代温泉の旧吉野屋別荘の「いろは草庵」で、「燕台ー魯山人を支えた文人」という企画展が開かれていることを知った。この企画展は「魯山人の美の原点を探る」という一連のシリーズの一つで、3ヵ月毎にテーマを換えて行なっていて、今回は第44回だという。北大路魯山人は今ではつとに有名で、誰一人として知らぬ者はいない程の有名人であるが、しかし彼が本来持っていた書家や篆刻家としての才能の上に、中でも料理人兼美食家/陶芸家として花開いたのは、細野燕台との邂逅があったからこそで、でなければ彼の才能がこれほどまでに発揮できたかどうかは疑問である。
 私がこの企画展に興味を持ったのは魯山人ではなくて、燕台の名が出ていたからで、今まで一度も「いろは草庵」には足を運んだことがなかったこともあって、尚更興味が沸いた。細野燕台については、金沢市下本多町にある金沢ふるさと偉人館にかなりの資料があり、何度か訪れたことがある。また常設展示はしていないが、伊東深水が描いた晩年の細野燕台の全身像が、金沢市出羽町にある石川県立美術館に収蔵されている。
 細野燕台は本名は申三といい、金沢の商家細野家の長男として生まれた。次男は生二といい、私の母の父親 (母方の祖父) である。そして長女は玉といい、私の父の母親、即ち私の祖母である。であるからして、私の父と母はいとこ添いということになる。こういう近い縁であるからして、燕台は野々市の家にもよく来てお出でで、私も会った記憶がある。そんなこともあって、私の家には燕台が書いた筆跡や上絵付けした器などが残っている。
 5月31日の火曜日に車で山代温泉の「いろは草庵」へ出かけた。場所は山代温泉総湯の近くにある。燕台に伴われて山代温泉に来た魯山人 (当時は福田大観といった) は、吉野屋旅館の食客になり、篆刻家としてこの吉野屋別荘で刻字看板の制作を始め、当時の山代の温泉旅館のほとんどの看板を彫ったとされる。いろは草庵の中には、当時の篆刻をしていた作業場が再現されていて、彫りかけの作品も置かれていた。その後燕台や吉野屋の紹介で初代の須田菁華の窯に入ることが叶い、上絵付けを体験することになる。
 展示室には、燕台が彫った「吉野屋」という刻字看板と、福田大観 (魯山人) が彫った「吉野屋」という刻字看板が並べて置いてあった。また二人が書いた書や扁額、それに鉢や花入れ、皿や向付け等が置かれていた。また燕台が魯山人に宛てた書簡も展示されていた。中でも一際目をひいたのは、燕台の長男の結婚式に当たって魯山人が作陶したという「乾山風梅椿手付鉢」で、魯山人の大胆な形状の器と構図には目を見張った。これは初めて目にした作品だった。この庵の展示スペースは広くはなく、それで何回にも分けて展示するのだろう。私は小一時間ばかりいて辞した。

付.庭に出た孟宗竹の筍を食す
 私の家がある地所は、旧北國街道沿いで、南北に長い矩形状をしている。そして地所のやや東寄りに、用水が南から北へ流れていて、後半は曲水になっている。用水の西側の通りに面した方は約390坪、用水の東側は約110坪ある。後者の南端は竹薮で、以前は孟宗竹と真竹の薮だったが、真竹は花が咲いて枯れて無くなった。もう50年前のことである。今は此処には孟宗竹と矢竹が繁っている。ところで真竹が無くなって以降は、孟宗竹が勢いを増して、至る所に根を張り巡らすようになり、とんでもない所に筍が出るようになった。特に築山に置かれている台石や飛び石を持ち上げたり、植木の間に出たり、もう3日も回らないとアッという間に大きく成長する。
 以前母が元気だった頃は、まだ竹薮の範囲が今ほど広がっておらず、薮以外に出た筍は丹念に掘って捨てていた。というのは、こんな庭に出てくる筍など、多分えぐみがあって食べられないと思っていたからである。母が亡くなって、筍退治の役目は私に回ってきた。今竹が生えて薮になっている面積は、往時の2倍にもなっていよう。それで薮以外に生えてきた筍は総て取って捨てていた。ところで3年前、私の妹が一度食べてみたいと言うので渡したところ、食べられるとのこと、それではと持ち帰ってもらうことにした。でも量が多い時は家でも食してみた。ところが思っていたえぐみは全くなく食べられた。ところで昨年は裏年で数はそれ程多くはなかったが、今年は表年、丹念に取った。その数50本以上、大きなものは径が15㎝ もあり、私と妹とでは処分しきれず、知人にも引き取ってもらった。それでも取り残しが大きくなり、伐って捨てたものも20本はあった。ところで食した方からは、市販の筍よりも美味しかったというお世辞もあり、これには目尻が下がった。薮の50本ばかりは今は大きく成長している。