2010年2月25日木曜日

平成22年探蕎会総会の講演は寺田会長の「水・三題」

 昨年暮れの世話人会で、総会の日時や議事は決まったものの、例年行う講演をどうするのかは決まっていなかった。しないのも一法だが、その席で寺田喜久雄会長が私がやりましょうという鶴の一声で講演者は決まってしまった。どんな演題なのかはお聞きしなかったが、後日「水・三題」だということを伺った。先生の御専門は講演で水に含まれる微量元素の検出と伺ったが、それもさることながら、県でもその関係の委員会を主宰されていたこともあり、話題は豊富だろうと期待して拝聴することにした。総会の当日は念入りな資料も用意され、時間は40分ばかりだったが、大変格調の高い、でも大変平易な説明をいただき感激した。身近な水が話題とあって、随分質問も多く、こんなに盛り上がったのは初めてだった。その時の状況をなんとか記事にしたいと書き出したものの、資料のみでは到底当日を再現できず、少しは参考書も参照した。メモは取らなかったわけではないのだが、聞かなかった人に伝達するには余りにも貧弱、でも私なりにまとめてみたいと思ったのは確かだ。事務局長は講演総てを録音されているので、それを起こせば講演録になるのだが、ここでは私なりに記してみた。でも専門ではないので、間違い勘違いはあるだろうから、それはまた後日直して正そうと思う。演題にある「水・三題」というのは、[1]水は地球の気候を温暖に保つ [2]美味しい水とは [3]資源としての水 の3テーマのことである。ここではとりあえず[1]について記してみようと思う。話は逸れるが、先生の講演を聴いて「共有結合」を実にすんなりと理解できたのは収穫だった。大学で習ったときにはよく理解できなかったのにである。教え方の妙というべきか。
 [1] 水は地球の気候を温暖に保つ
(1)水の特性は水素結合によって生ずる
 水の構造:水がエッチツーオーということぐらい、小学生でも知っていそうだ。水の分子は2つの水素原子と1つの酸素原子とから成っている。先生は水の分子の模型を使われて説明された。ところでこの水の分子では、酸素側の電子6個に2個の水素側の電子2個がお互い両原子の最外殻の軌道内に電子を共有している。ということは、酸素原子は最外殻に酸素側の電子6個と水素側の電子2個で充足され、2個の水素原子は自前の電子1個と酸素側の電子1個で充足され、電子を共有する共有結合で結ばれている。このときの H-O-H の角度は 104.5° であるそうだ。そうすると、水素の電子は酸素の方に引き寄せられた形になり、酸素側が負の電荷を帯びてくる一方で、逆に水素側は電子を奪われた形となり、正の電荷を帯びてくる。これが水の極性(双極子)で、Oの方はーに、Hの方は+に荷電しているので、水分子は5~6個がお互いに水素結合により連結して、小さな水の分子集団(クラスター)を形成している。ただこのクラスターは長時間安定しているものではなく、動的なもので、その寿命は極めて短い。ということは、一度形成されてもすぐ別の高次構造に変わってしまう。またこの水の極性は他の物質に比べて非常に多くの物質を溶かしやすく、無機物はイオンの形になれば水に溶解するし、極性を持たない糖類も溶かしてしまう。
 水の状態:水は1気圧の下では、融点(氷点)は0℃、沸点は100℃である。そして圧力と温度の条件により、水(液体)、水蒸気(気体)、氷(気体)となる。氷に圧力をかけると融けるが、これは水の特性として知られている。氷上での滑走がその例である。個体の氷では水分子がお互いに水素結合でがっちり結合した結晶構造をとっていて、それぞれの分子が自由に動き回れない。液体の水では水素結合でクラスターを形成し、氷ほどではないが互いに束縛しあった動きをしている。一方気体の水蒸気では、分子が完全に1個1個バラバラで自由に動き回っている。ところで三重点(0.01℃で圧力が0.06気圧)では、水と氷と水蒸気が共存できる。またこの点以下の温度・圧力では液体の水は存在することができず、この条件では氷が直接水蒸気になる昇華が起きる一方で、水蒸気が直接氷として凝結する。
 水の性質:水は蒸発しにくく、凍結しにくく、温めるには大きな熱量を必要とするが、一旦温まると冷めにくく、またよく熱を伝える。また水は熱を出し入れする。濡れた体に風が当たると水が気化(蒸発)する際に熱が奪われることはよく経験することである。逆に水蒸気を凝縮(冷却)して水にするときは、逆に物を温めることになり、熱を出すことになる。すなわち水は蒸発熱(凝縮熱)が大きく、沸点にある液体1kgをすべて気体にするのに要する熱量(kcal)は、水539に対し、アンモニア327、エタノール200、メタン124と水の方が断然大きい。また水は凍りにくく、氷は融けにくい。スケートリンクでリンクを凍結させる折には副産物として大量の温水が出ることは目にすることで、凍結には熱が派生する。また氷を融解して水にするには、外から熱を奪って温める必要がある。水は融解熱(凝固熱)が大きく、融点にある固体1kgをすべて液体にするのに要する熱量(kcal)は、水80に対して、ナフタレン35、鉄64と、水の方が大きい。また水は比熱容量が大きく、水の比熱が1.0cal/g℃なのに対し、鉄は0.10、銅0.09、砂0.19、木材0.30と水より小さい。
(2)水には最大密度がある
 自然界の多くの物質は、液体から固体に移り変わることによって密度が大きくなる。しかし水の場合は固体の氷よりも液体の水の方が密度が大きいという変わった性質をもっている。水は凍ると膨張し、容積は9%、約1.1倍増加する。その氷の密度は0.9168g/立方cmである。ところで通常の液体は温度が上昇すると気体と同じように膨張して軽くなるが、水の場合は4℃(正確には3.98℃)で最も重く、最大密度0.9998g/立方cmとなる。したがって氷を水に浮かべると、水上に1、水面下に10の形で浮く。このようにして約4℃の水が最も重いので、淡水の池や湖では、表面の水は約4℃にまで冷やされるにつれて密度が大きくなり底の方に沈み、底の温かい水が表面に上がってくる。そこで再び冷やされ底に沈んでいく。これが繰り返されるとやがて水全体が約4℃になる。ここで表面の水が更に冷やされて4℃以下になると、その密度は4℃の水より逆に小さくなり、もはや沈まないで凍ることになる。水の表面をカバーした氷の密度は4℃の水より小さいので水上に浮かび、どんどん熱を放出してくれるので、内部はいつまでも液体の水の状態が保たれる。もしこれが逆で氷の方が4℃の水より重いと、逆に底の方から凍ることになるが、現実には水は氷の蓋で保護されている。
 次に温帯湖の夏季における水温と溶存酸素の鉛直分布をみてみる。深さ約30mの湖は水深5mまでは表水層といい、水温も溶存酸素も表層と同じである。ところが5~13mの水温躍層では、溶存酸素も水温も次第に減衰し、水深20mでは溶存酸素は0となる。また水温は水深13mより深い深水層では最も重い4℃の水で占められることになる。
(3)海水の大循環
 海の主に中深層(数百m以深)で起きている地球規模の海水の大循環で、この密度の高い冷たい深層の流れはブロッカーのコンベア・ベルトと呼ばれている。北太平洋から北米大陸に沿って南下し中部太平洋を西進し、インド洋を横断し、大西洋を北上してメキシコ湾流となり、東進し北上した暖かい表層の流れは、グリーンランド沖で海水の沈み込みがスタートする。これは北大西洋深層水といわれる。この深層水は大西洋を南下し、主流はインド洋南部を南極大陸に沿って東進するが、一部はインド洋北部で湧き上がり、インド洋を西進する暖かい表層の流れに合流する。主流は太平洋に入って西部を北上し、太平洋北部で表層に湧き上がる。この深層水は海洋学上でいう深層水で、大洋の深層に分布する海水のことで、北大西洋グリーンランド沖で形成され、凡そ2千年をかけて世界の海洋を移動していて、千年単位の地球の気候にも重要な関わりをもっている。この深層水がグリーンランド沖で沈み込んだ後、四国沖に届くまでの年数を、有孔虫の殻(星砂)の成分の炭酸カルシウムで炭素の同位元素による年代測定で測ると、現在は到達に1800年を要していることが分かる。また氷期だった2.5万年前では2500年かかったと推測されている。
 これとは別に産業利用上の海洋深層水は、その分布や出自を問わず、深度200m以深の海水を一括りにしたもので、そうすると海水の95%が海洋深層水ということになる。これら海洋深層水は表層水とは異なった性質をもっていて、その特性は「清浄性」「無機塩類が豊富」「低温安定性」といわれる。「清浄性」とは、排水で汚染された河川水の影響を受けないので、化学物質による汚染がなく、また太陽光が届かないため、プランクトン等が発育せず、有害な雑菌等も表層水の1000分の1以下と少ないことを指す。「無機塩類が豊富」とは、表層水に比べて植物プランクトンの成長に必要な無機塩類が豊富であることで、これは海洋深層水では植物プランクトンが少ないために、表層から沈降してくる無数の死骸が分解されて生じた無機栄養塩類が消費されずに残っているためによる。「低温安定性」とは、水温をはじめ、含まれる成分が年間を通じて一定であり、水質が安定していることを指す。そして海洋深層水は表層水との混合が行われない限り、溶存酸素量は極めて少ない。ところが日本海で採取される深層水(日本海固有水)は太平洋側の海洋深層水とは成り立ちが異なり、溶存酸素量は表層水とほとんど同じであるのが特徴である。また深層水が特定の海域で表層へ上昇する(湧昇)ことがあるが、その場所では深層水の豊富な無機栄養塩類によりプランクトンが多く発生するため、非常に生産性の高い海域となり、好漁場となる。同じ発想で、海洋深層水を利用した魚介類の養殖も行われている。
(4)海水のデータ
 塩分濃度は ~34.7(g/l)、約3.5%。 ちなみに生体のそれは 約0.9%である。
 密度は 0℃で 1.028、20℃で 1.025。
 凝固点は -1.91℃。
 塩分の構成成分 塩化ナトリウム 77.9%、 塩化マグネシウム 9.6%、
             硫酸マグネシウム 6.1% 、 硫酸カルシウム 4.0% 、
             塩化カリウム 2.1%、   その他 0.3%

[挿話1] 寺田先生が水の分子の説明の折に、陽子と中性子を引き合いにして、湯川秀樹が中間子理論の提唱で昭和24年(1949)に日本人初のノーベル賞(物理学)を受賞されたことに触れられ、当時出生した子にヨウコなる名前がよく付けられたという話をされた。 2010.2.11
[挿話2] 2010.2.20 の天声人語の一文を引用しよう。 《氷がとけたら何になる? テストである子が「水になる」ではなく「春になる」と答えたという話を、先ごろの小欄で書いた。伝聞だったので「虚実はおいて」と断ったら、子ども時代を札幌で過ごしたという60代の女性から便りをいただいた。セピア色をした「りかのてすと」のカラーコピーが入っていた。「ゆきはとけたらなにになる」の問いに「つちがでてはるになります」と鉛筆で書かれている。残念ながらバツをもらい、全体の点数は85点。お母さんが取り置いていたのを、遺品の中から見つけたそうだ。(以下略) 》
 理科のテストの答案だから正答ではないが、私なら三重丸を付けたろう。

2010年2月18日木曜日

三男坊が肺がんにー前厄と本厄の年に突然

 厄払いというのは、私達の年代では前厄の年にお宮さんで厄払い・厄除けをし、同年の女性を温泉に招待し厄落としをしたものだ。正確には同年なのだろうけれど、実際には同級生が集まってやったものだ。私達のクラスは大部分が昭和11年生まれの子年、でも翌12年の1月から4月1日までに生まれた丑年生まれの人も入っている。私は昭和12年2月の丑年だ。先輩たちはその年によって厳密に同年生まれだけにしたこともあったらしいが、私達は暗黙の了解で小中学校の同級・同窓生で行った。こうなったのも、小学校も中学校も1学級のみだったからで、ほとんど9年間同じ顔ぶれで過ごしてきた。だから招待する女性も小中学校の同窓生ということで、女性にとってはおまけ付きの同窓会のようなもの、正にタナボタである。でも今は1学年に数学級、こんなプライベートなことは中々まとまらないだろう。とは言っても現実はどうなのだろうか。個人的にはする人もあるだろうけれど、しない人の方が多いのではなかろうか。あるいは無頓着で知らないうちに過ぎてしまった人もいようし、そんなのは迷信だと無視する人もあろう。論語には四十にして惑わずとあるが、昔は身体も節目だったことから厄を当てはめたのかも知れない。しかし寿命は昔から比べれば20年も30年も延びていることからすると、身体の節目も延びているかも知れない。三男坊は厄払いをしたかどうかは聞いていないが、昨年12月で満40歳、正に今年が本厄の歳である。
 彼(三男)が十数年勤めた会社を辞め、新しく設立された会社に勤めるようになって7年が経過する。健康には気を付けていたようだったが、煙草だけは外回りをしていたこともあってか、かなり吸っていた。実家である私の家に来ても、部屋でプカプカ吸っていたし、余り遠慮はしていない感じ、私など内心吸わない方がよいとも思ったが、特段止めるようには言っていない。健康診断は毎年受けていたようだったが、特に問題となるような点もなく、表向き健康だった。ただ社長が何かの折、若い者達全員をグラウンドで周回させたときに、彼は偉丈夫なのにいつもビリになると言っていたのが気懸かりだった。しかしその原因は通常の健康診断の際の肺の直接撮影でも分からなかったが、人間ドックへ入ってCTスキャン(コンピューター断層撮影法)を撮ったときに判明した。恐らくは煙草のせいだが、肺の上部3分の1に肺胞はなく、空洞化していた。機能は正常の70~80%だという。私も40歳まで煙草を吸っていたが、そんなことは考えてもみなかったのに、彼はダメージを受けやすい質だったのだろう。早速禁煙外来に受診し、禁煙したことは言うまでもない。走ってビリになったのは吸入酸素量が少ないせいで起きたものだった。しかし平常の仕事で不便を感じることはなかったようだ。直撮では真っ黒に抜けてきれいだったわけである。病名は肺気腫、壊れた肺胞は再生しない。
 その後PET(ポジトロンCT)も受けたが問題はなかったようだし、でも念のためのCTによる診察は毎年県立中央病院で受けていたようだ。それから3年ばかり経過した昨年7月、突然の発熱、息苦しさもあり酸素吸入、肺炎の疑いもあり入院した。私も付いて行ったが、主治医では数日もすれば退院できるでしょうとのこと、誰もその言を疑うことはなかった。しかしその後の喀痰検査でも病原菌は見つからず原因は不明、したがって使用薬剤は頻度の高いものを予想しての投与だった。治療薬投与後に一旦は解熱するものの、1週後には再び38℃台の発熱、その度に退院は延期になった。こんな繰り返しが8度も続いたろうか、彼の細君と私達両親が主治医に呼ばれ、このことは本人には内緒にしてほしいと言って話されたのは、これまでこれはという抗生剤を使ってきたが、一時は解熱するが、1週間後にはまた発熱し、もう手持ちの抗生剤がなくなり、今は神頼みだとのこと、データと経過のグラフを見せられ、これには参ってしまった。X線撮影での肺炎病巣も1ヵ所よくなるとまた他に出てくるといった具合で、恐らくは通常の病原菌ではなく、非病原性の常在菌ではなかろうかという。しかし最後の抗生剤が効いたのか次第に回復に向かい、外出の許可も出、会社にも行き、自宅での外泊もできるようになり、やがて退院できた。ただ肺炎のもやもやが薄れるにつれ、2年前にもやもやがあった場所にもやもやした陰影が残り、少しその面積が大きくなっているような印象だったので、念のためバイオプシーを行ったが、肺がんとは断定できず、でも疑いは残った。でもその時は後日PETをということで9月半ばに退院した。
 ところが10月半ばに検査入院して行ったPETでは、グルコースの集積が右肺上葉背面と左仙骨にあり、この時点で肺がんが確定し、骨転移があることが確実になった。Ⅰ期から転移があることで突然Ⅳ期ということに、まだ痛みはなく、主治医では仙骨への放射線治療の後、抗がん剤治療をしましょうということだった。後で知ったことだが、肺がん疑いの前の診断は、中度の肺気腫と軽度の間質性肺炎ということだった。徐々にに痛みは出てきたものの、まだ夜はぐっすり眠られるとのことで安心していたが、次第に左足の痛みがひどくなり、終いには眠られなくなり、12月になり再び入院した。痛みは相当なものらしく、一晩中眠られず立ってトントンしていなければならなかったという。入院してモルヒネ製剤のオプソ液を投与されたが痛みはなくならず、私達は帰宅したが、後で大量投与があったのか、一晩中発汗がすごく、掛け布団まで濡れたほどだったという。当直の看護師にコールしても、顔の汗を拭ってくれるだけ、その上幻覚が出てとても怖く、次の日の昼間もその幻覚が続いたという。女の人3人と男の人2人が目の前にはっきり見えるという。恐怖もあり、夜誰かに居てほしいとのことで、家内が泊まることに。その後モルヒネの量も適量になったせいか、幻覚はなくなったが、一方で副作用の便秘がひどく、通常は3日が要チェックというのに10日も溜め込み、これには苦労したようだった。病棟看護師も麻薬の扱いに慣れていなかったせいもあって、対応は適切でなかったようだ。しかし痛みが薬で遠のいたこともあって、仙骨への放射線照射が10回実施され、そのせいで痛みは更に少なくなったようだった。そして3週間の病院住まいで退院できた。ところが放射線治療後抗がん剤投与を予定していたが、間質性肺炎が予想以上に悪化していて、これを治さないと抗がん剤治療には入れないということになった。肺炎治療のためのステロイド投与が始まった。
 肺がんが確定したとの知らせで、次男がネットで探して「今あるがんが消えていく食事」という本を送ってきた。済陽高穂(わたようたかほ)という消化器外科医が著したもので、無塩に近い食事、家畜の肉は食べない、新鮮な野菜を大量摂取する、胚芽成分や豆類を食べる、乳酸菌や茸・海藻をとる、植物性脂肪や魚油をとる、水は自然水を、当分は断酒、といったところが主旨で、これで進行がんでも3分の2に有効だという。早速実行に移したようだった。また年の暮れに彼が勤めている会社の相談役の方からは温熱療法がよいと言われ、元旦には静岡県の伊東市にある治療院まで出かけ、施術の方法を習ってきた。本人の希望もあり、良いことは実施することに、帰路に眺めた富士山が実にきれいで神々しかったと現地から弾んだ声で電話してきたのがすごく印象的だった。彼は抗がんサプリには手を出していないが、烏骨鶏の卵は日に1個食することにしたと。このような努力で、腫瘍マーカーのCEA(がん胎児性抗原)や間質性肺炎マーカーのKL-6(シアル化糖鎖抗原)の価が少しでも下がってくれれば励みになるのだが。
 CEAの価は、肺炎だった5月と9月には1桁、肺がんと診断された10月は30台、11月は50台、痛みが出てからは100台に、主治医では指数曲線的に増大するだろうと。でも1月は若干の増加はあったものの100台、食事と温熱のせいなのではと思ったりもした。しかし痛みは増してきて、痛みの心配から再び入院することに。痛みには専らモルヒネ製剤、量は始めた頃は5mgだったのに、最近は4倍量とか、鎮痛の貼り薬も多くなった。主治医は麻薬はどんどん使っていいとか、確かに日増しに量が増えている。また細君に本人には好きなものは何でも食べさせてよいと先生が言われるとか。でもこれだと緩和ケアでの対応のようで、がんを治す方向に向けられていないような気がしてならない。また食事療法なんて、そんなに効果があるものなら病院でも採用してますよとも。そして何故か抗がん剤治療はできないという。
 がんと宣告されてから、彼はネットで、がんを治療している施設で、しかも治験している機関を興味をもっていろいろ収集し、驚くべき情報量を持っているのには驚いた。でもその場所は近くには少ないようだった。テレビでも時々先進医療の紹介があり、彼が勤める会社の社長からも、最先端の重粒子線とか陽子線による治療や免疫療法の紹介があり、私も頼まれて国立がんセンターで行われているペプチド療法のことで、知り合いの先生に仲介してもらい問い合わせもした。でもこれら先進医療は健康保険の適用はなく、自費治療となるため、治療だけで数十万円から百数十万円かかり、安易に受けることはできない相談だ。旅費や滞在費を入れれば更に百万円は必要とか。施設数もまだ少なく、また彼のように肺気腫で間質性肺炎、仙骨への転移もあるとなると、選択肢はさらに狭まるような感じがする。でも今のままではジリ貧で、このままでは治らないとこちらが焦ってしまう日々、そんな折ある医師から大学病院で治療したらと紹介を受けた。大学ではチーム医療が可能なので一度来院しませんかとのこと、それで三男には強く勧めたが、彼も細君も気乗りしないと言う。何故か理由は言えないとのこと、そして疑問のことがあったら主治医にぶつけてくれと。そこで家内が段取りをつけてくれて主治医に無理を言って時間をとっともらい面会した。
 冒頭主治医は、これまでの経過その他については、両親であっても本人の承諾がないと話せないのだが、本人がそう言うのであれば話しましょうと。かいつまんで言うと、間質性肺炎が放射線照射で憎悪したし、造骨剤投与でも悪化した。抗がん剤投与については本人が希望すれば行うが、行えば間質性肺炎の一層の憎悪は目に見えているので、医師としては勧められないと。それよりは痛みの緩和に気配りし、それも今経口投与している麻薬の量が増えても続けたいと。今は外出して仕事をしているようだけれど、痛みを完全にブロックする方法もあるけれど、それを始めると外出も外泊もできなくなってしまう。本人は今はまだやりたい仕事があるということなので、少し痛みがあっても今の状態の延長がベターだと思うと。これまでそこまでは聞いていなかったので、彼が頼っている以上、転院は無理だと判断した。三男には転院を無理強いしたことを詫び、転院の件はないことにし、様子を見ることに。
 このような状態だから、本質的ながんの治療は行えない状態だ。私としては他力本願ながら、神仏の加護にあやかりたいと念じているのだが、彼ら夫婦は霊の力など信じないという。また家内も奇跡が起きることを信じて真言密教のお経を唱える日々なのだが、何か奇跡とかミラクルが起きないものだろうか。いやぜひ起きてほしいのだが。

2010年2月15日月曜日

病める三男坊誠孝へ 父からの提案

 去る1月26日の午後3時過ぎ、家内から電話があり、誠孝が息苦しくなって病院へ行ったとのこと、「私も行くから、一緒に行って」とのことで、勤務する協会の前で待ち合わせして病院へ出かけた。病状ははっきりしないが、息子の細君の協力もあって、食事療法も温熱療法も始めたばかりなのに、もし入院となるとそれを一時中断しなければならないのではという思いがまず先に浮かんだ。この療法は両方とも根気のいる対応で、緒についたばかりなだけに、その成果がある程度出るか出ないかを見極めたかった。もっとも1スパンは3ヵ月位というから、性急な結果を求めることには無理があろうけれど、少しでも腫瘍や間質性肺炎のマーカーの価が下げの傾向になれば上々、でなくても上げがなければそれなりに良しとしなければと思っている。最前の診察ではマーカーの推移の結果はまだ分からないが、私は何らかの良い徴候が見えればと念じている。ところで家内から漏れ聞いたところでは、主治医は息子の細君に、そんな効果がある食事療法があるものなら病院ではとうに採用しているはずとのこと。まだこの方法はがんの三大療法(外科手術、放射線照射、抗がん剤投与)に比べれば実績も少なく、信念があってそれを信ずる医師以外だとそんな冒険をするはずがなく、特に総合病院での導入が困難なことは自明の理である。
 県立中央病院へ着くと、火曜の午後は休診とかで、広い診察待ちスペースには息子と細君のペアのみ、この前病院へ同道したときには本当に辛そうだったが、今回はそれ程でもないのには心ならず安堵した。でも元気はなく、気力が失せているような印象、前々日の晩においしい焼酎を貰ったお礼を言いに三男に電話したときは、声に張りがあって嬉しかったが、この日は少し意気消沈しているような様子、病気の不安からか入院しようかとも、家内はそれで不安が払拭できるのならそうしなさいとも。食事療法の食事や飲み物は朝夕に病院まで運びましょうとも。ただ最も恐れていた間質性肺炎の憎悪はなかったようなのでその点は安堵した。ただ入院云々については、私は何もしてやれないので、口を挟まなかったが、取りあえずは主治医から今の状況を聞き、判断を仰ぎ、その上でこちらの希望を述べるのが筋なのではと思っていた。血液の検査結果が出た段階で再度連絡してほしいと看護師に伝言し、席を立ち会議に戻られた。その間CTスキャンを撮ることに。
 再度主治医からの説明で、血液の検査結果のうち感染・炎症マーカーのC反応性蛋白(CRP)の価は基準値とのこと、この価自体からは健康で正常、特に対応しなければならない状況ではないとのこと。ただ息苦しく不安で入院したいというような本人の主観的な訴えについては、別の観点から斟酌すべきもので、逆にそれが何かの徴候である可能性もあり、入院を拒否するものではないとの言は、妥当な対応と思った。ただ不安な状況の払拭に精神安定剤を処方するので様子をみたらとのこと、これで本人は納得したようだった。私も内心良かったと思った。三男の表情も幾分晴れやかになったような印象を受けた。
 病院を出て三男夫婦と別れ、私は一旦協会へ戻った後、家へ帰った。翌日は健康診断を受ける予定にしていたので、お酒も軽く、食事も少なめにと思い用意をしていた。とそこへ家内が三男の家へ寄ってからの帰宅、私はご苦労さんと言ったが、帰ったなりに開口一番、「誠孝を元気付けてやってほしい」と。確かに三男が病気になってから、私が高橋町の三男の家へ訪れたのは1回のみ、それも長男と同道、その時家内は無口な二人ではどうにもならないだろうと随行までしてくれ、私一人では対応が無理なのが分かっているはずなのにである。そうと分かっていれば、私一人が三男の家へ訪問しても、私はきっと双方ともかえって気まずいのではと思うがどうだろうか。電話では何回か話し合ったものの、体の状態はどうか、仕事は、余り言いたくない言葉なのだけれど頑張れとか、もう話す言葉は限定されてしまう。特別に話題があれば別だが、どうも会話が弾んで気持ちを和ませることはできないような気がする。これは性格的なもので、日常でも独りでいることには抵抗はないが、相手がいて何か話題を見つけて話をしようとするとすごい負担を感ずる。検査をしているときも、周りの女性がとりとめない話題で、それも話題を変えながら、それが延々と続いても、私がその輪に入ることは先ずなく、入ると検査に集中できないこともあって、入ることはない。だから息子も例えば彼のポン友のように気のおけない友人とならば何ら話題に不自由はないだろうけれど、そんな洒脱な状態になれるようならば訪ねてもよいのだが、堅苦しい雰囲気にしかならないとすれば、行かない方がよいと思っている。
 ところが家内の言うには「何とかしなさい」と言う。私はあなたが具体的にこうすればというのであればやりましょうと言うと、「そんなことは貴方が考えなさい」「貴方は誠孝の親でしょう」ときた。ここまでくると売り言葉に買い言葉、先へ進むことはない上、二人の間は実に気まずく剣呑な空気となる。「貴方は誠孝のために何をしてるの」とまでは突き詰めないが、直にできない分、私なりに、毎日毎晩、神仏・先祖・庭の石仏・森羅万象諸々に、三男の病気が平癒するように、御加護あることを念じている。こんなことで病気が平癒するとすれば奇跡としか言いようがないが、でもやはり何も出来ない分、念じないではおれないのが今の心境である。ぜひ本復して元気を取り戻してほしいと願っている。家内は真言密教のお経を習い上げているが、これもまた然りである。親の愛というが、父親と母親とでは、親子のつながりという点では母親の方が格段に強いと思う。正に自分が産んだ子だからなのだろう。もっとも父親であっても母親以上に子を可愛がる人もいるし、我が子にはそうでもなかったのに、孫にはメロメロという人も知っている。でも私は何故かそうはなっていない。どうしてなのだろう。そう言うとふさふさした鬣のあるライオンの雄を思い出す。一見威厳があるようだが、実はだらしなく、狩は雌まかせ、ましてや育児も、雄ライオンに例えるのは何とも面目ないが、こればかりはどうしようもないような気がする。
 では、どうしたらよいのか。私は雪や雨が降っていなければ毎朝山側環状線までの6km弱を往復している。歩きながらなんとかしなければと思ったはずみに、私が書くということで、一つの実行可能な案が浮かんだ。それは三男が「日記」とか「呟き」とか「独り言」とか、タイトルは何でもよいのだが、ブログを開設してもらうのがベストではないかと。そして毎日彼のブログを見て、それに私も家内も、兄弟や会社の同僚や気のおけない友達も、誰もが書き込めるようにしておけば、少なくとも気分の高揚に役立つのではなかろうかと。彼に会ったり、電話や携帯で話すのもよいが、親しい仲間内なら気も休まろうが、それ以外だとかえって気が重くなるような場合もあるのではなかろうか。しかし書き込みならば、気が向かなければ読まないとか消すとかすればよい。私もブログを開設しているが、1編が長く、情報のやりとりには向かない。その点日記風に短く簡潔に書けば、書き込む相手も気軽に応じられようし、そんな交流ができたらよいと思う。鳩山首相が開いたチャットも一法だ。私からの提案だが、ぜひ彼には自身のブログを開設してほしい。そしてこちらからアクセスして、書き込みできるようにすれば、彼との交流にもなり、ひいては彼への励ましになるのではと思うが如何だろう。