2011年4月22日金曜日

仙台フィルを迎えて大震災復興支援コンサート

 丁度4年前の3月、石川県では能登半島地震が輪島市を震源として起き、その規模は東日本大震災とは比ぶべきもないが、それでも多くの家屋が倒壊し、住民は避難生活を余儀なくされた。その際、全国から沢山の方々の支援を受け、それが以後の復興の大きな足がかりとなり、被災者は大いに勇気づけられた。ところで今回の大震災、その規模はべらぼうに大きく、大地震に加え、大津波あり、加えて予期せぬ原発からの放射能漏れありと、その惨状は目に余るものがある。石川県からも人的物的な支援が公私共に行なわれていて、私ができることといえば、ささやかな義捐金活動への協力だけだが、微力だが尽くしたい。
 4月4日のオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の定期演奏会には仙台フィルの団員の方(宮城県多賀城市在住)に客演参加してもらい、その際カンパされた義援金120万円は彼に預託され、多賀城市へ届けられた。これに先立って、石川県音楽文化振興事業団(理事長は県知事、副理事長は金沢市長と県商工会議所連合会会頭)とOEK、県立音楽堂の三者が、「音楽」を通しての支援活動ができないかを模索し、その初の活動が仙台フィル楽団員の客演参加という形で実現した。そして次には、大震災で東北一円での公演活動の中止を余儀なくされている仙台フィルハーモニー管弦楽団(SPO)を金沢へ迎え、「大震災からの復興支援コンサート」と銘打ち、コンサートを開催することが企画された。このコンサートの合言葉は、『がんばろう東北 つながれ心 つながれ力』で、支援義援金を含む入場料は5千円、SPOが要した経費を除く全額を被災された方々への復興資金としてSPOに預託するものだ。またこのコンサートには、県内に避難されている東日本大震災の被災者も招待された。
 当日は午後7時の開演、私が着いたのは6時半、開演前の2階のロビーでは、サックス奏者の筒井さんがピアノ伴奏でクライスラーの曲をプレコンサートされていた。今晩のコンサートは全席自由、きっと満員になると思っていたのに、行列もなく、思ったよりも少ないのに驚いた。入場して公演のパンフレットを受け取ったが、それがOEKの第二ヴァイオリン首席奏者の江原さんからだったのでびっくりした。今日はOEKの方々は皆さんボランティアだとかだった。ホール入口では2・3階へと言われたが、ホール1階ではまだ少し余裕があるとのことで1階に席をとった。入りは8分、もう少しアピールして、満席にしてほしかった。
 会の冒頭、OEKの岩崎ゼネラルマネージャーから、これから献奏がありますが、決して拍手はしないようにとの発言がある。次いでSPOとOEKの弦楽器のメンバー、総勢60人が席に着き、リーダーでヴァイオリニストの前ベルリンフィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターの安永徹さんのリードで、J.S.バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調BMV1068の第2曲「アリア」が弦楽合奏で演奏された。約4分弱の調和のとれた、大編成を感じさせない静かで厳かな演奏、会場からはしわぶきも聞こえず、正に鎮魂の音色だった。後で安永さんは、この曲は通常は4,5人、多くても8人なのだが、こんなに多くの人をリードしたのは初めてだったと述懐されていた。
 コンサートのプログラムに入り、始めにM.グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」の序曲、演奏はOEKとSPO、総勢100名ばかりの大編成、指揮はOEK音楽監督の井上道義さん、コンマスはサイモン・ブレンディス(OEK)さん、一転して豪壮な演奏、大編成の魅力を十分に発揮し、聴衆を魅了した。
 この後にはSPOのみによる演奏に入る。SPOの前身は1973(昭和43)年に設立された「宮城フィルハーモニー管弦楽団」、OEKに先立つこと15年である。その後1989(平成1)年に「仙台フィルハーモニー管弦楽団」と改称し現在に至っている。現在の正指揮者は山下一史さん、彼は初代のOEKプリンシパル・ゲスト・コンダクター:首席客演指揮者(1991-1993)でもあった。演奏に先立って、山下さんから次のような挨拶があった。
 震災の当日はゲネプロ(本番前の本番さながらのリハーサル)を行なうため、楽団員はホールに集合していました。このときかつて経験したことがない大きな地震、長くて大きな横揺れ。でも建物の倒壊はなく、楽団員も事務局員も全員無事で、楽器の被害も最小限でした。この時はホールの天井は落ちなかったのですが、4月7日の震度6強の揺れでは落下してしまいました。こうして本拠地のホールはもとより、東北一円の各ホールも甚大な被害を受けてしまい、公演活動は少なくとも6月までは中止せざるを得なくなりました。しかし時を経ずして、復興に向けて力強い営みがあちこちで始まり、我々も音楽を届けることによりそれを支援しようと、さる3月26日には『復興のためのコンサート』を自ら企画し実施しました。4月に入ってからは、メンバーの有志が交代で市内の2ヵ所で演奏を行い、市民生活のより身近な場で、人々の心に希望の灯をともすため、音楽を届ける活動をしています。仙台フィルは、このような活動を地道に積み重ねていくことで、小さくとも復興の灯となり、真に地元に根差したオーケストラになれるよう力を尽くす決意です。
 この後、60名のSPOのメンバーによる演奏があった。曲は、F.シューベルトの劇音楽「ロザムンデ」op.26,D797 から間奏曲第1番ロ短調と第3番ロ長調の2曲、それとJ.シベリウスの交響詩「フィンランディア」op.26。3曲目は愛国の曲としてはつとに有名な曲、殊のほか思いのこもった演奏、そこには皆と手を携えて復興に立ち上がろうという響きが感じとれた。大きな拍手が沸き上がった。楽団が揃って演奏するのは約1ヵ月ぶりとか、故郷の復興への思いがこの曲に込められていた。
 休憩の後、再び合同の100人という大編成で、A.ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」op.95が演奏された。指揮は井上さんだが、コンマスはSPOの伝田さん、後で井上さんから説明があったが、コンマスが伝田さんということは、ソロの部分はSPOの方が行なうということなのだそうだ。曲は哀愁を帯びたものなのだが、この大編成ではむしろ豪壮さでホールの聴衆を魅了した。この復興支援の響きに、会場からは惜しみない轟きにも似た拍手の嵐が起きた。
 アンコールは大編成のまま、始めは井上さんの指揮、コンマスはサイモン・ブレンディス(OEK)さんで、曲は2002(平成14)年の大河ドラマ「利家とまつ」のテーマ曲、これまでテーマ曲はNHK交響楽団のみで収録してきたが、岩城宏之さん指揮とあって、OEKと合同で収録したという因縁の曲だ。この大編成で直に聴くと、テレビから流れるテーマ曲とは全く違った雰囲気の歌劇の序曲を思わせる壮大な曲となり、大きな絵巻物を見ているような錯覚を覚え興奮した。凄い拍手だった。
 次いで山下さんが登場、コンマスも伝田さんと交代した。曲は同じく1987(昭和62)年の大河ドラマ「独眼竜政宗」のテーマ曲、これも前曲に優るとも劣らない大音響での豪快な響き、仙台の底力を感じとった曲だった。この復興を願う響きと友好のハーモニーに対し、全員総立ちの大きな大きな拍手が送られ、楽団員がステージを去るまで鳴り止まなかったのには驚いた。これに応えて、仙台フィルのメンバーは、「石川の皆さんありがとうございました」という横断幕を持ち、来場者を見送りしていたのは印象的だった。

2011年4月18日月曜日

再び200キロを駆けて訪れた「こそば亭」

 平成23年の探蕎会第2弾の蕎麦屋巡りは「こそば亭」、私は予め偵察ということで、半月前に家内を同道して妙高市美守(ひだのもり)を訪れた。あの小粒な「こそば」に魅せられたというわけである。訪ねた日は土曜日だったので、品書きには、通常出る「おやまぼくち」をつなぎにした「こそば」と、金・土限定の、この時期はお茶入りの「かわりそば」があった。食したのは「天ざる」と「かけそば」、「そば」は程よいもつもつ感と、程よいコシとのどごし、でも可もなく不可もなくという感じ、もしあの小粒の「こそば」の魅惑がなければ、「そば」自体には何も魅力は感じられなかった。とりわけ鼻風邪を引いていたこともあって、香りは全く感じられなかったが、これは家内もそうだと言っていたから、満更私の鼻つんぼのせいでもなかったようだ。でも主人の応対もよく、店の感じも悪くはなく、2週後の4月17日には会で15人ばかり、金沢から訪れますと言って辞した。
 さて当日は15名の参加、風は冷たいが、天気は上々、8時過ぎには参加の方々が次々とお集まりになる。新しく今度初めて参加された会員の中に吉田さんという方がいて、今日は福井からの参加とか、聞くと山口さんの紹介で来ましたという。そして山口さんは山のお師匠さん、時々ご一緒するという。そのうち山口さんも見えられ、紹介してもらう。彼女は愛知県の出身、外資系の会社に勤めていて、これまでは金沢にいたのだが、今は福井にお住まい、山口さんは、私の山のパートナーだと言われた。山口さんのお宅へ過日お邪魔した時に、大概山へは二人で行くことが多く、岩登りではその方が最も能率が良いと話されていたが、そのパートナーとは彼女のことだったのかと思ったりする。彼女は冬だと20kg位は担ぎますというから、これは本格的だ。名前は吉田千恵さん、名前の読みは「ちさと」、愛知の方ではよくある読み方だとか。私もせめて20歳くらい若くて、ペースメーカーを入れていなければ、お付き合いできたかもと思ったりした。
 面々がお集まりになり、寺田会長の挨拶の後、3台の車に分乗して出かける。時刻は8時30分。運転する方は、和泉さん、前田さん、山口さん、高速道を北陸道の金沢西ICで乗り、有磯海SAで休憩し、上信越道の中郷ICで下りる。コースは2週前と全く同じ、目的地の「こそば亭」には、前と同じく11時に着いた。周囲の田はこの前は一面の雪原だったが、今は雪はなく、春一色である。周りには桃や木瓜の蕾が膨らみ、辛夷が咲き誇っている。春の日差しを浴びて、しばし談笑する。そして前と同じく開店15分前に主人から中へどうぞと言われる。土間のテーブルに8人、小上がりに7人が陣取る。私は入り口に近いテーブルに、結果的に真先に注文を聞かれ、どこよりも早く注文の「そば」が来ることに、先月の「福助」では最後だったのにである。皆さん「天ざる」か「上天ざる」、私は上の方、天と上天の違いはエビ2尾の違いで、100円の差。このエビは、稚子を深層水と妙高の水とで養殖したという「妙高雪えび」、何というエビか分からないが、この前来たときは、エビといえば通常は車海老だからと「天ざる」にしたが、後で妙高で養ったエビと知り、次回はこのエビが入っている「上天ざる」をゲットしようと思っていた。
 私を除く3人は「上天ざる大」、見るとかなりのボリュームである。エビは2尾で殻付き、そのまま召し上がって下さいと言われる。ほかに野菜天5種、1回に2人分ずつ出るから、恐らくこちらが食べ終わった頃に最後の人に届くのではと話していたら、正にその通りとなった。それにしても「こそば」という珍しさはあるにせよ、でなければ長躯200キロかなたの金沢から食べに訪れるほどの「そば」じゃないのではというのが偽らざる気持ちだ。まあ二度と来ることはあるまい。ただし私の場合は三度と来ることはないということになるが。
 このままでは引き下がれないと、どこかへ。妙高温泉という声もあったが、地元の人なのだろう、高田の観桜は如何ですかと言われ、高田公園へ。混んでいますよと言われたが案の定、桜は満開、天気が上々とあれば、人が繰り出すのは必定、車の中から雰囲気を味わっただけで、下車しなかった。そして上越ICから一路金沢へ、例のごとく小矢部SAで総括、あっけなく妙高探蕎は終わった。
 [付]お酒については、以前は置いていたが、今は置いてないとのことだった。また蕎麦について、お取り寄せの「そば」の需要が多いようですが、玄蕎麦の量は足りるのですかと聞くと、現在需要に応えられるように作付け面積も多くし、その結果一部は手刈りでなく機械での刈り入れも導入しているとか。とすると、手刈りし、島立てして天日干しするという伝説的な手法は崩れかけていると見てよいような気がする。それと今日の「そば」との関連はどうなのだろうか。

2011年4月15日金曜日

日榮 アラン・デュカス セレクション

 私が月々前田書店から配達してもらっている「danchu」という雑誌の3月号の特集は「日本酒よ、世界に誇れ。」であった。この本を読むきっかけとなったのは、この雑誌が「そば」の特集をやったからで、前田さんに勧められて取り始めた。蕎麦の特集は年1回程度だが、毎号「食」に関連する素材を特集して楽しませてくれる。
 その3月号に「フレンチの巨匠、アラン・デュカスが求めた味」という一文があった。彼はフレンチの有名なシェフであって、しかも大の日本通であるという。そしてその土地その土地に根ざした食文化を何より尊び、そしてそれを]実践しているという。その彼が日本では東京と大阪にオープンした3店に、日本のワイン、すなわち日本酒を、日本の食材を用いたフレンチに合わせて提供したいと考えた。そしてフレンチに合った日本酒というのは、彼のワインリストに載っかり、自信を持って外国人に勧められ、しかも外国人の嗜好に合った日本酒でなければならないと。そしてその酒は自分が造らねばと思うようになった。その彼の願いは、金沢で文政年間に創業し二百年も続いている酒蔵「中村酒造」の九代目当主である中村太郎氏と出会ったことで実現することになる。
 中村酒造では、日本酒の製造は伝統醸造技術を忠実に守りながら造らねばという現社長の信念から、今はこの蔵元では速醸系の酒母は全く使わず、すべて山卸廃止もと(酉偏に元)(山廃仕込み)にしたという。アラン・デュカスから話が持ちかけられたとき、とりあえず純米酒と純米大吟醸酒を試飲してもらったが、まったく納得してもらえず、いろいろブレンドしながら、彼の言うフランス人の口に合う酒は何かを模索しながらの酒造りとなった。造りの始めには原料米に石川県産の五百万石を使っていたが、彼から原材料にはストーリーが必要だと言われ、一度は断絶していた希少ブランドの神子原(みこはら)米(羽咋市神子原地区産)の使用を思いつく。また後味の切れには必要だというワインにはある酸味の有機酸をよく産生するという自家培養した独自の酵母を組み合わせて醗酵させることにする。こうして構想から2年後に開発された新しい日本酒は、日本酒本来の美味しさに加えて、やや酸味の高い味わいのある後味すっきりの新しい日本酒に出来上がった。もっとも最終決定は、アラン・デュカスから全権を委任された、このグループのシェフ・ソムリエのジェラール・マルジョンが、フランスから來日の度に野々市の蔵元まで足を運び、様々なテスティングをして、アラン・デュカスの意向に沿った酒を完成させた。この新しいスタンダードを追求した日本酒、それが「日榮 アラン・デュカス セレクション」である。杜氏は能登杜氏の又木一彦氏である。 
 この酒の包装は720mlで、価格は税別で1万円、年間生産量は1,500本、アラン・デュカスグループ関連のパリ、ロンドン、モナコ、東京、大阪のレストランで提供されている。アルコール度数は15%以上16%未満、蔵元での味のタイプは「甘口濃醇」とある。東京・四谷の居酒屋「萬屋おかげさん」の店主の神崎氏は雑誌の中でこの酒を評して、「この深い甘味と酸味、そして喉元過ぎたあたりからわいてくる米の熟味、この味の伸びはなかなか普通の日本酒にはない。これならフレンチのソースにも合う。洋食に日本酒を合わせるのには神経を使うが、これだと自分の中でブレていた焦点がピタッと合った」と述べている。またアラン・デュカスも「ボディがしっかりしていて豊か、何より深みがある。食前酒として飲めば、一口では理解できない複雑な味が、今からどんなものを食べようかと脳と胃袋を思考させる。食中酒としては料理に勝るリーダーシップをとってしまう可能性もある。だから料理の選択には注意を払わなくてはいけない」と説明する。
 ここまできて、この酒がどうしても飲みたくなった。でもこのことをカミさんに打ち明けたのは3月も半ばになってから、このところ酒の飲み過ぎをたしなめられ、注意されてるものだから、てっきりダメだと言われるかと思いきや、どうぞとゴーのサイン、善は急げ、カミさんの昔のバドミントンの女友達が中村酒造の古株にいるので、早速頼んでもらった。現品はあるけど、お遣い物ですかと言われ、主人が飲むのだと言ったらあきれていたという。程なく家内のところに届き、そして自宅に着いた。この酒は、注文を聞いてから密栓できるボトルに詰めると聞いた。細長い木箱に入っている。そしてボトルに記された「日榮」の篆刻のロゴは、中村家に残る明治の文人細野燕台の書から引用してあり、懐かしさを覚えた。早速冷やした。そして価格は社員価格にしていただいたうえ、加賀雪梅(純米吟醸)と石川門(純米酒)のひやおろし生酒2本までも頂戴した。原料米は前者が五百万石、後者が新品種の石川門、こちらは冷やして4日かけて飲み空けた。白ワイングラスがよく似合うこの日本酒、前者はやや淡麗な辛口、後者は淡麗辛口、どちらも爽やかで飲み口すっきりの酒、しぼりたてとあり、実に新鮮な味だった。
 こんな便宜を図っていただいたのは社長の好意なのだろうか。彼は私が勤務する(財)石川県予防医学協会の評議員をしていただいていて、会ではよく同席する。また毎年10月15日に開催される一泉同窓会総会には、副会長として必ず出席される。彼は泉丘35期、前田さんは泉丘20期、私は泉丘7期である。
 さて、この酒をいつ誰と飲むか、どんな料理と合わそうか、いま私は思案している。 (この項書きかけ)
 続(2011.11.1)
 「日榮 アラン・デュカス セレクション」は、届いてからすぐに冷蔵庫の最上段に鎮座することになる。何時開けるのか、何方と飲むのか、どんな料理と合わせるのか、とりわけフランス料理に合う酒ということもあって、当初はその線に沿って無い知恵を絞ってきた。しかしフランス料理の神髄ともいうべきソースとなると、壁にぶち当たってしまう。家内の知人には料理に堪能な人もいるので、頼んでお願いしようと思い打診してもらったが、そんな気の重い場には向きませんと言われると、それもそうだと思わざるを得ない。そうこうする内に手に入れてからやがて半年、年暮れまでには開けなくては。そしてもうこの頃になっては、開き直ってしまって、料理はフレンチにこだわらず、お相伴の方には悪いが、純日本風にしようと決めた。
 10月に入って、既に現物を披露している前田さんに、10月のとある日曜の昼過ぎにお出で頂けないかと打診したところ、分かりましたということで、日を23日か30日にした。もう一方、ワイン通の永坂先生にご案内したところ、30日ならOKとの米田さんからのご返事、それで決行は10月30日の日曜の昼過ぎと決めた。決まった後も紆余曲折があり、前田さんからは娘さんの縁談で、婿さんの親御さんがこの日に見えられることになり、出席できなくなったとの連絡があり、今更日も時間も変更できず、どうぞお二人でと言われ、残念な思いをした。ところが2日前になって、親御さんが見えられなくなり、参加出来ますとの朗報が入った。
 開き直った料理は、お酒には、お通し、刺し身盛り合わせ、天ぷら、ワインには、生ハム2種盛り、チーズ3種とラスク・クラッカー、そして果物とした。前日の土曜、家内が勤務を終えて帰宅してから、近江町市場と大和で仕込みをした。中型の牡丹海老32尾は中々の圧巻、勢いで買ってしまった。後はサクでカジキと中トロ、ほかに生ハム、果物、松茸、蓮根、山葵など。大和では、チーズ3種とラスク・クラッカー、果物、野菜などを仕入れた。
 当日は10時頃から準備に取りかかる。画廊ノアで求めた大きな花器を刺し身の盛り合わせに使うことに。花器は末広がりになっていて、底に保冷材を敷きその上に大根のケンを敷き、サンチェを放射状に並べ、外側に牡丹エビを赤い尾を上にして放射状に置き、真ん中には大葉を敷いてカジキと中トロの角切りを盛り、パセリと赤キャベツの芽を飾りにあしらって出来上がり、冷蔵保存。お通しには、家内の姉のところから頂いたカラシナの古漬を炊いたテンバと白子山椒を別々に、天ぷらには、松茸、アスパラ、甘藷、人参、花びら茸、蔓隠元、オクラ、甘エビ、蓮根、茗荷などを適宜出すことにして、その下拵えをする。生ハム2種は、レタスの葉を敷いた器に、大きな半切した生ハムを外側に、中位の薄いのを芯にして並べ、クレソンを添える。チーズはブルーとカマンベールとプロセスを一口大に切って、大きめの角皿に盛って冷し、お供にはラスクとクラッカー。果物は、富有柿、無花果とトマトを切り分けて出すことに。
 午後1時を回って、お三方が見えた。初めにフレンチに合う日本酒だが、敢えて和風の料理にしたことを詫びて、宴に入る。「日榮アランデュカス」の封を切り、最初に永坂先生に、次いで前田さんに、器は細めのシャンパングラス、私は片口と黒釉のぐい飲み、乾杯をして口に運ぶ。甘い。しかしその甘さはやがて酸味と調和してえも言われぬ香気に変じて、爽やかさが口中に広がる。これまでこんな日本酒に出くわしたことがない雰囲気、お米のワインと称するべきか。この甘口淡麗で酸味を持ち合わせるこの酒は、食前酒としても、また食事をしながらの食中酒としても独特で、従来の日本酒の殻を破った名品である。この酒は、味わいながら、ゆっくりととは心得ながらも、早々と空になった。ただ永坂先生は全部を空けられないでいたが、これは先生の奇策でもあった。
 次いで1988年のマルゴー(シャトー・ジスクール)を開ける。大和のキャンペーンで求めたものだ。オリがあるだろうから、先生に注いでもらう。先生は丁度飲み頃と仰る。ボルドーの大きな赤ワイングラスを先生と前田さんに、お二方はワインに精通しておいでるが、まずお褒めの言葉を頂く。家内も美味しいと言う。若干茶色がかってはいるが、まだ赤が濃い。私は中位のボルドーグラスで頂く。先生ではオリを入れると味が若くなると仰る。そして先の「日榮」と飲み比べされ、アランデュカスにオリを入れるとワインになるとも。この飲み比べは正に奇策である。次に出したのは1990年のマルゴー(シャトー・ラ・グルグ)、これは頂き物だが、瓶の肩のところにオリがべったりと、これは瓶を横に寝かしておいてあったからだと。グラスは替えなくてよいとのことで、お言葉に甘える。生ハムとチーズがお供、これも飲み頃の美味しいワインだった。
 ワインが2本空いて、家内が口直しに地ビールを持ってきたが、ビールは余韻を消すとかで、前田さんは持参した芋焼酎「富乃宝山」を所望されロックに、でも宴のお終いに度数の高いお酒を飲むのは、酔っていてどうしても余計に飲むのと、ピッチが上るのとで、酔いが加速する。案の定、酔っ払ってしまった。その後皆さんをお見送りしたまでは覚えているが、後は朝まで白河夜船だった。
 こうして、「日榮アランデュカスセレクション」の毒味会は好評のうちにお開きとなった。

2011年4月8日金曜日

東日本大震災でO君に教わったこと

 平成23年(2011)3月11日、午後2時26分、未曾有というべきか、1900年以降、世界で4番目に大きいマグニチュード9.0の巨大地震「東北地方太平洋沖地震」、通称「東日本大震災」が起きた。この地震が凄かったのは、地震の規模もさることながら、震源が宮城県沖の海底であったことから、高さ20mともいわれる大津波が東北地方の太平洋沿岸一帯を襲い、あっという間に多くの家屋、自動車、船舶、それとかけがえのない大切な命を飲み込んでしまった。さらに追い討ちをかけたのは福島第一原子力発電所の事故、これによって原発はクリーンであるという完全神話は無惨にも吹き飛んだ。チェルノブイリやスリーマイルズ島での原発事故は、日本とは無縁のものと信じさせられてきたが、原発がこれほど危険な代物だとは、これからは国民の考え方も変わってこよう。地震は天災だが、備えを怠った原発の事故は正に人災だ。
 私の親戚には、今回の地震で大きな被害を受けた東北や北関東の太平洋岸に住んでいる人はいないので、その方の心配はなかったが、大学の同窓生で仙台に在住しているO君の消息だけが気懸かりだった。震災発生当初は電気も水も電話も、ライフラインはすべてストップしていて、入る情報はテレビと新聞のみに頼っていた。でも2週間位たった頃、クラス会のまとめをしているN君から、ようやくO君と連絡がついて、不自由な生活をしているけれども彼は元気でいるとの連絡を受けた。加えて、ついては彼に生活支援の意味もこめてカンパしたいので、現金を送ってほしいとの要請があり、早速送金した。彼は皆の分をまとめてO君に送金したようだ。配達もままならないのかも知れないが、そこは彼のこと、先方と連絡して万全を期したことだろう。その後O君から、4月5日付けで丁重な御礼の封書が届いた。彼はその中で、沢山の方々の励ましと援助のお陰で、生活物資の供給や環境も徐々に改善されつつあり、間もなく元の生活に戻れそうだと述べている。そして良い友を持てた幸せと、良い国に生まれた幸せを噛みしめていると述懐している。加えて生まれて初めて経験した大地震のことを報告することで、御礼に代えたいとあった。この彼の経験は私たちにとっても他山の石とすべきことと思い、以下に紹介することにした。 
 彼の住所は仙台市青葉区吉成3丁目、グーグルマップで調べると、仙台駅の北西6kmにある地点、海岸線からは約20km奥まっている低い丘陵地である。西方600mには南北に東北自動車道が走り、南方3kmにはJR仙山線と国道48号線(作並街道)が東西に走っている。近くには東北福祉大学や大崎八幡宮などがある仙台市の西郊の地である。
 彼は震災当日の午後は「脳トレ」と称して麻雀をしていたが、その最中にグラッと、これまで経験したことがない大きな揺れを感じ、とっさにストーブを消し、靴も履かずに外へ飛び出したという。火をとっさに消したのも、すぐ外へ出たのも、彼のカミさんの平生の言い草を守ったまでだという。
 このような言い草を言うのは、彼のカミさんが戦後すぐの昭和23年(1948)6月28日に起きた「福井大震災」を経験していたからという。この地震は、「関東大震災」「阪神・淡路大震災」、それに今回の「東日本大震災」に匹敵する日本の災害史上最悪の震災といわれている。規模こそM7.1だったが、都市直下型であったことが被害を大きくした。当時私は小学校5年生、彼のカミさん、もし私と同い年としても小学生、なのに彼のカミさんは地震に備えて、一通りの緊急物資は勿論のこと、主食、副食、飲料水、燃料等々、いつかは来るといわれている「宮城県沖地震」に備えて、周到な準備をしていたと彼は言う。この備えがどれほど役に立ったかを彼は手紙の中で述べている。
 大きなユレが治まってまだ余震があるなか、建物が倒壊しないと見極め、先の建物に戻り、後片付けをして(エライ)から自宅へ向かった。途中、仙台市では地盤立地条件の悪いといわれる場所の建物、瓦屋根の家屋、耐震強度が悪いとされるビルには、倒壊などの被害が出ていた。また海岸線に近い場所では大津波に襲われ大きな被害が出たことを知る。ところで彼の家はというと、とにかく外観は無事、カミさんは外で佇んでいた。彼は薬剤師で薬品会社の営業を担当していたが、彼の後輩2人が津波で命を落としたと言伝に聞く。
 家の中はヒドイ状態で、棚こそ耐震対策で倒れなかったものの、棚は観音開きだったため、食器、飾り物、書籍等は飛び出して散乱、かなりの被害だったとか。彼が言うには、棚には頑丈なスライド付きのものを薦めますとあった。そして台所も片づけし、停電、断水を予想し、篭城の覚悟を決めたという。
 食品は緊急時のもののほか、大きな冷蔵庫を買い込み大量の食品を冷凍してあり、米も大量備蓄、従って停電・断水でも食事はタラフク食べさせてもらえたとか。携帯ラジオ、ケータイ、懐中電灯(電池予備)、ローソク、灯油用ポリタンク複数(1個以上備蓄)、飲料水用ポリタンク及び飲料水、卓上コンロと複数のカセットボンベ。旧式の石油ストーブ(捨てないで)もあった方がよいという。彼の家では、灯油はドラム缶に備蓄、仏壇は電池式灯明で、悠々耐えられたという。
 また余震が多く、昼間はすぐに逃げ出せるように有り金は全部を携帯し、上下を着て対応、夜はズボンと上着のみ脱いで寝たという。電気と電話は1週後に回復し、皆さんから励ましやお見舞いの言葉をかけて頂き、心強く嬉しかったという。困ったのは水で、水道の回復は仙台でも最も遅い回復予定区域に入っていたため、始めは遠い小学校まで車で、後で近くに給水所ができてからは徒歩+キャリアで運んだという。飲料水はストックもあり深刻ではなかったが、水洗便所用の水には苦労したという。結局大便後にポリ容器1杯分を一気に流すのが効率的であるということを会得したという。風呂は断水中は入れなかったが、プロパンと灯油でお湯を沸かして身体を拭けたし、2週後に水道が回復してからは灯油給油で存分に風呂に入れたという。
 街で困っていたのは燃料関係で、都市ガスはタンクの一部がダメになり、他県からの応援も得て復旧に努めてはいるものの、破損は水道管の比ではなく、まだ目途は立っていないという。都市ガスオンリーの家庭は大変だという。ガソリンや灯油の供給も当初はままならず、前日の晩8時や9時から翌日の給油のために並ぶという始末、これも漸く4月になって改善されてきたという。車は震災当初に水運び用に使用した以外は自粛したこともあって、物資調達のため行列に並んだのはたったの2回のみ、これも備蓄があったからこそと思っていると。
 彼の提言では、平常の家庭での光熱には、災害時を考慮に入れると、電気のほかに、石油と、都市ガスかプロパンの3種類は採用すべきだと、都市ガスとプロパンはどちらが優位とは言えないが、少なくとも煮炊きも風呂を含む給湯も都市ガス一本に集中させるのは避けるべきだと。
 燃料類の一般供給の回復は遅れたものの目途がつき、都市ガスの復旧は遅れてはいるものの、食料などの日常品の供給も被災2週間後には回復した。公共交通は道路の回復は進んではいるものの、まだ所々道路封鎖がある。鉄道は仙台駅壊滅の影響で全面復旧は5月にずれ込むという。全面回復にはもう少し時間を要するという。
 彼自身は、家の立地条件や日頃からの備蓄の備えなどもあって、恵まれた自宅避難生活を送れたという。でもこれはたまたまのことではなく、日頃の災害に備えての対応がしっかりとしていたためと思われる。そして近くや近県に住む息子さん、娘さん、そして従兄妹さんも無事だったとのこと、何よりだった。

 今年の私たち大学の同窓会は、5月下旬に彼の世話で仙台で催されることになっていたが、この震災で中止になった。でもこれは止むを得ないこと。来年は金沢での開催であるが、ぜひ元気な顔を見せてほしい。そして直に貴重な体験を聞かせてほしいものだ。

2011年4月5日火曜日

「こそば」に魅せられて

 昨年秋だったと思うが、永坂事務所の米田さんから、これを読んでみて下さいと言われて一冊の雑誌を手渡された。雑誌名は「自遊人」9月号、特集のタイトルは「絶滅寸前。在来種の蕎麦。」、サブタイトルは「一度知ったらもう戻れない驚愕の味」とあった。私にはてっきりこれで蕎麦の勉強をして下さいとの好意からの教材の提供と受け止めた。後日探蕎会の世話人会があるので、その折雑誌をお返ししようとしたら、返すに及びませんとのことで、この冊子は現在私の手元にある。そのなかで、とりわけ興味があったのが「こそば」という小粒の蕎麦で、この蕎麦はその後「週刊朝日」の12/24号でも紹介されたものだから、ますます興味が持たれるようになった。それで12月19日に開かれた世話人会で提案し、それではこの蕎麦を提供するという「こそば亭」に行きましょうということになり、4月17日の日曜日に出かけることになった。
 在来種の蕎麦、少なくとも昭和19年(1944)に長野県の農業試験場が会津在来の蕎麦から系統選抜して作出した「信濃1号」が世に出るまでは、世にある蕎麦はすべて在来種であったといって過言ではないと思う。その頃は、私が住む野々市町でも、農家は作付面積こそ自家用のみなので広くはないものの、はやて(早生)の稲を刈った後に、水はけをよくして蕎麦を蒔いたものだ。収穫した蕎麦は翌年の種を残して自家消費していた。平地でもそうだったから、山手で稲が作れない斜面などでは蕎麦が作られ、当然のことながら外から種を持ち込むことなく、ずっとその蕎麦の種は守られながら継がれてきたことだろう。在来種といわれる所以である。こうした蕎麦の在来種は米の供給が満足でなかった昭和20年代には、その数3千とも3千5百ともいわれている。
 翻って現在はどうだろうか。私が居る野々市町では、蕎麦を表作ではもちろん、裏作でも作っている農家は一軒もない。したがって昭和20年代にはどの農家も裏作に作付けしていた在来種?の蕎麦は捨てられてしまった。また山間などで主に作付けされていた蕎麦も過疎が進行した結果、なくなってしまったところも多いと思われる。このような現象は全国各地で起きたに違いない。そして蕎麦の需要が低迷した昭和30年代には、一部作付けを続けていた以外の地域での蕎麦の作付けは極端に減少し、昭和40年代後半になって少し蕎麦の需要が上向いてきた頃には、収量が悪い在来種よりは収量が良い改良品種の作付けがはるかに多くなったであろうことは想像に難くない。石川県での蕎麦の場合、どう推移したのだろうか。
 米の場合、産地や品種によって食味が違うことはよく経験することである。しかし米の場合、改良された品種の方が美味しく、交配して親より不味くなった品種が日の目をみることはない。したがって改良されない在来種の米は、古代米のような珍しさがあればともかく、先ず作付けされることはない。翻って蕎麦の場合はどうだろうか。よく昔の蕎麦は旨かったという話をよく聞く。ということは蕎麦の場合は在来種の方が改良種よりも良かったということになる。しかしそれにしても、「そば」の味を左右するファクターが「こめ」に比べて余りにも多すぎるような気がしてならない。同じ品種の蕎麦であっても、作られた産地により、作付けされた土地により、その土地の気象条件により、栽培方法により、収穫の時期により、収穫後の処理の仕方により、保存の条件により、さらに製粉の条件により、大きく変わることが予想される。また、蕎麦粉から「そば」として供されるまでの過程でも、食感に影響を及ぼすファクターは非常に多く、これらのことが蕎麦という食物を一層不可思議な怪物的存在と位置付けずには置けないものにしている。加えて蕎麦の味を科学的なデータで示せないことのほか、各個人の味触感の違いもあり、実に扱いにくい食物であるといえる。
 さて、かの雑誌には、比較的よく知られているとされる在来種の蕎麦が18種紹介されていて、どの在来種もそれぞれに個性がはっきりしていると記載されている。このうち項を改めて紹介されているのが、妙高こそば、奈川在来、会津在来、徳島在来、丸岡在来、大野在来の6種で、このうち丸岡在来は毎年海道さんの蕎麦道場で賞味させてもらっている。それぞれに独特な個性があるといっても、どういう個性があるのかの記述は全くない。ということは、客観的なオーソドックスな評価はできないということを示しているのではないか。でも、この中で妙高こそば(同じく妙高山麓で栽培される妙高在来というのもある)は各地の在来種の中でも最も小粒で、改良品種の体積を1とすると、平均的な在来種は2分の1、妙高こそばは5分の1である。そしてこの妙高こそば(以下「こそば」と表記)の形状は、他の蕎麦がはっきりと三陵であるのに対し、どんぐりに似て細長く、一見古代米に似ている代物で、これは「こそば亭」でもそれを確認した。
 雑誌で「在来種の蕎麦」の担当をしたのは伝統食文化研究家で蕎麦に関する著書も多い片山虎之助で、週刊朝日での小粒蕎麦の特集も彼の執筆である。その彼が「こそば」を栽培してみたくて、ソバ栽培の達人にお願いして妙高山麓に畑を借りて実践した記述があるので紹介したい。彼が達人に紹介された畑は羽毛布団のようにふかふかな感じだったという。ところが種を蒔く日は激しい雨、それが翌日も続き、ソバは何よりも過剰な水分を嫌うことから、播種は4日後の8月24日、彼は予定もあり、達人にお願いすることにして帰京した。4日後には芽が出た。プロだと播種後20日後くらいにソバの根元に土寄せするのだが、彼の畑では何もせずに収穫を迎えた。彼の都合で10月25日に刈り入れすることになったが、本来ならば播種してから70~80日後に収穫するのに、60日とはちと早いが、達人の勧めもあり刈り取った。ソバの束は互いに寄り添うように立てて(島立て)自然乾燥した。早刈りのせいもあって、収穫は見込みの3分の1しかなかった。ところが達人のは収穫する前に予期しない初雪があり、達人のソバは雪に埋まってしまった。10日後に収穫した達人のソバは、無惨にも甘みの少ない香りの薄いソバだったという。それに引き換え、彼の早刈りソバは、彼がそれまで日本各地で食べ歩いたどのソバよりも旨く、さすがの達人もその香りと甘みに舌を巻いたとか。怪我の功名というべきか。この自遊人の雑誌編集長も絶賛していた。
 信州大学の井上教授は、在来種、中でも小粒のソバがなぜ美味しいのかを次のように述べている。1つは畑の状態。ソバが栽培される畑は、水はけが良く、しかも腐葉土などで土に栄養があることが必要である。2つは育ち方。谷間などの畑では、日照時間が短く、しかも湿度が高く霧下だと、軟質のソバができる。また小粒でデンプンがあまり詰まらないソバは、甘皮や子葉の割合が大きくなり、香りと甘みに優れる。3つは島立て乾燥。早めに手刈りしたソバは島立てして天日干しにすることにより、枝葉の栄養が実に集まる「後熟」現象が起き、モチモチした食感が生ずる。

[閑話休題]
 4月の第3日曜日の17日には、探蕎会で妙高市(旧新井市)にある「こそば亭」に行くことになっている。言い出しっぺなこともあり、どういう店か先遣したく、4月2日の土曜日に家内と出かけた。家内を同道したしたのは、蕎麦にはかなりうるさいのと、蕎麦前を考えてのことである。前日に電話したところ、予約はとらないとのこと、11時30分の開店までにおいでれば十分入れますとのこと、2時間半を見越して、8時20分に家を出た。この日の天候は曇後雪か雨、金沢西ICで北陸自動車道に入り、上信越自動車道の中郷ICで下りる。ここからはHPのアクセスにしたがって、平行する国道18号線を左折、すぐにガソリンスタンドのある二本木交差点を右折、次の県道584号線(旧北國街道)との交差点を左折、そのまま直進し、国道292号線(飯山街道)との姫川原交差点を左折し、約8km進むと左に新井警察署が見えるので、その次の交差点(美守交差点の一つ手前)を右折すると右にある。「こそば亭」の住所は、妙高市美守(ひだのもり)681-1である。
 着いたのはちょうど11時、開店まで30分ある。周りは水田なのだろうか、今は雪が厚く残っていて畦も分からない。豪雪地帯なのだろう。そういえば今は閉鎖してしまった旧アライスキー場で、雪が降りすぎてリフトが動けないことが何度かあった。まだここでは一面雪野原の冬の風景が広がっている。駐車場は5台の区画があり、詰めればもっと止められる。曇り空で風は冷たく、午後は雪になるかも知れない。車の中で待つ。でも15分位して亭主が来られ、中へどうぞと言われる。玄関を入ると、左に4人掛けのテーブルが2脚、小上がりには6人が座れる座机が2台、都合20人が座れる。混めば相席と聞いていたが、案内にある26席というのはもう1組座机を出すのだろうか。入り口にはシャーレに通常の蕎麦と「こそば」、それにオヤマボクチの繊維が置いてある。
 お品書を見る。ここは禁煙・禁酒?だ。注文は天ざるにおろし(トッピング)付きを2つ、かけ蕎麦を1つ、始めつけ麺をと思ったがこれは11月から3月までの冬季限定、ほかには月・土曜のみ限定のかわりそば(4月は茶そば)がある。開店時間になって独りが2組、その後6人のグループが入る。メニューは多くない。常連の人はいつもの(天ざる)と言っている。程なく角盆に、丸い竹編みの笊に盛られた「ざる」、端正で丁寧な細打ちだ。つゆ・薬味(生わさと刻み葱)・野沢菜が付いている。そして「野菜天五種」(ふきのとう、なす、かぼちゃ、まいたけ、れんこん)と「おろし」も載っている。「こそば」は小さいので玄蕎麦のまま挽くのだが、「そば」の色は黒くなく、むしろ淡い薄茶色、つなぎはオヤマボクチ、手繰るとモチモチ感があり、噛むと微かな甘みを感ずる。コシがあり、でも喉越しはいい。ところがライノの鼻かぜを引いているせいか、香りを感じない。家内もそうだという。収穫から5ヵ月、新ではないからだろうか。ところで少し食べたところへ「かけ蕎麦」が来てしまった。こちらは放置すると伸びてしまうので、先に処理しなければ。まあ寒い日に温かい「そば」も一興だ。かんずり入りの七味が味を引き立たせる。そばは伸びていなくてうまいが、2人前だとやや多めだ。「かけ蕎麦」はそばだけ食して、「ざる」へ戻る。でも食べてこれが「こそば」かという格別な感動は沸かなかった。期待が大きかったせいかも知れない。
 以下に主人から聞いたことと、見せてもらった資料からのメモを記載する。
 亭主の市村晋也さんの父の伊佐夫さんがまだ新井市役所に勤務していた折、中山間地域や山間地域への補助事業としてそば栽培を奨励することになった。当時減反政策で山間の棚田は放置され荒れていた。そんな折、阿部さんという農家の方と出会った。山間では以前は水が引ける場所には棚田にしてコメを植え、水を引けない場所にはソバを植えていて、ソバはすべて自家用に供されていた。ところで市村さんが阿部さんと会った頃は、かなり棚田が荒廃していて、これをソバ栽培に活用するのに、棚田の畦を取り払い、水はけを良くして、ここでソバを栽培しようということになった。この場所は上小沢(かみこざわ)地区の関川の支流の馬場川の上流の山間の南向き斜面の1.2ha、この場所は朝日はあたるが夕日はあたらない、昼夜の気温差が大きい、深い谷間で広葉樹に囲まれ良質の腐葉土壌があるというソバ作りには三拍子揃った場所、ここは新潟県と長野県の県境に位置する場所である。ここに阿部さんがずっと栽培してきた小粒の蕎麦を栽培することにした。そしてこの蕎麦を二人の合意で「小そば」とした。現在は「こそば」と表記している。蕎麦は他家受粉でミツバチが仲介するが、ハチは谷間ごとであって他の谷には行かないので、交雑は起きなかった。在来種と改良品種とで交雑があると、劣性な在来種は駆逐されてしまうという。こうして妙高在来蕎麦振興組合が立ち上げられ、平成13年には「こそば亭」ができた。こんなユニークな「ソバ」とあって、これまで7誌に特集され、2010年に行なわれたお取り寄せ蕎麦では全国第1位を獲得したという。聞くとこの取り寄せそばセットは持ち帰りはできないそうだ。

[お品書] 単位は百円。ざる蕎麦8、ざるうどん5、野菜五種天2、海老入り上天3、かけ蕎麦8、かけうどん5、トッピング(おろし、とろろ)各1、大盛りは、蕎麦3、うどん2。蕎麦は1日20食限定。
[住所] 新潟県妙高市美守(ひどのもり)681-1 [電話] 0255-72-8628
[営業時間] 11:30~14:00 売り切れ仕舞い  [定休日] 月曜・火曜