(承前)
3.昭和 23 年度野々市小学校・昭和 26 年度野々市中学校同窓生の会(子うし会)
この会のメンバーは、昭和 24 年 (1949) 3月に野々市小学校を卒業した同窓生と、昭和 27 年 (1952) 3月に野々市中学校を卒業した同窓生の合同の会である。1人だけ年長の方がいたが、その他の人達は昭和 11 年 (1936) 4月2日から昭和 12 年 (1937) 4月1日に生まれた方々である。会の名称は、昭和 11 年が子 (ね) 年、昭和 12 年が丑 (うし) 年なので「子うし会」とした。読みは「コウシカイ」である。中学校を卒業して 20 年を経て集まった折りに、以後は5年おきに同窓会を地元で開催しようということで集まってきたが、還暦を機に毎年温泉地で同窓会を持とうということになり、その後は地元の温泉地での1泊の開催と1〜2泊の旅行とを毎年交互に行なうことで今日に至っている。
野々市小学校と野々市中学校の卒業生を合わせた同窓生の数は、男子が 28 名、女子が 25 名の 計 53 名で、このうち他界した人が男で 10 名、女で 4 名、また全く連絡がつかない人が男で3名いる。したがって現在連絡が可能な人は、男で 15 名、女で 21 名の 計 36 名となっている。
男性の居住地を見ると、現在も地元の野々市市に居る人は6名、金沢市に2名、小松市に1名で、石川県在住者は9人である。県外では、東京都と大阪府に各2名、愛知県と兵庫県に各1名となっている。一方女性の居住地は、野々市市に9名、金沢市に7名、白山市に1名、小松市に1名、県外では東京都に3名が居住している。
子うし会の行事
(1)旧盆の墓参りと法要
昭和 52 年 (1977) に同窓生の N 君が交通事故で亡くなったのを機に、毎年旧盆前の日曜日に近在の有志が集まり、供養の墓参りをすることにした。今は他界した N 君と私がお経をあげる役目をし、その後で有志が軽く一杯飲むというのが流れだった。その後昭和 54 年 (1979) に S 君が、昭和 55 年 (1980) には I 君が、昭和 61 年 (1986) には T さんが、昭和 63 年 (1988) には Z 君が他界し、お墓参りは野々市ばかりではなく金沢市や松任市 ( 現白山市 ) にまでも出かけるようになった。そして平成元年 (1989) 5月に N 君が鬼籍に入ったのを機に、墓参りの後、地元野々市の名刹の照台寺で物故者の法要を営むことにし、この行事は毎年行なわれることになった。その後私と読経を共にしていた N 君が亡くなった後もこの行事は続けられてきたが、平成9年 (1997) に行なった還暦の祝いを境にして、この墓参と物故者法要は一応区切りとして止めることにした。
現在この会は私が主宰して世話をしているが、私の希望としては、子うし会が来年行なう傘寿の祝いに合わせて、同窓生 14 名と同級生1名の物故者法要をしたいと思っている。
(2)地元温泉地での同窓会
還暦の祝いを機に、1年おきに地元温泉地で同窓会を開こうということになり、世話人の Y 君と A さんが中心となって会が運営されてきた。中でも男性の Y 君は渉外能力に秀でていて、会場の設営や運営に手腕を発揮してくれた。同窓の皆さんへの案内などは私が担当し、それ以外は2人の世話人がその任に当たってくれた。これまでを振り返ってみると、温泉地では山代温泉が最も多く、次いで粟津温泉、そして片山津温泉の順だった。ただ昨年は富山県の雨晴温泉へ出かけた。
(3)1年おきの同窓旅行
世話人のY 君の斡旋もあって、この旅行は地元北陸交通の N さんが常に世話に当たってくれ、これまで九州への3回の旅行を除けば、全行程すべて北陸交通のバスを使っての旅行だった。還暦以降これまで 10 回の旅行、県内の能登への旅行を除けば、すべて2泊の旅行だった。気になる費用はこれまでは 12 万円が最高だったが、今年の五島列島への旅では、14〜15.5 万円と過去最高になった。振り返ってこれまでに訪れた観光地は、天竜・静岡、富士・伊豆、京都、伊勢・志摩、奈良・熊野、山陰、九州3回等々である。でも元気な方が年々少なくなっていくこともあって、この会としての旅行はこれで終わりにしようかと思っている。
2015年7月26日日曜日
同窓会 あ・れ・こ・れ(その2)
(承前)
2.金沢泉丘高等学校第7期同窓会(泉丘七期同窓会)
この同窓会はかなり以前からずっと2年おきに開催されてきた。七期同窓会の開催が決まってからずっと主宰してくれていたのは K 君で、このような会は熱心な世話人がいないとなかなか会を盛り上げるのは難しい。さて、これとは別に、毎年決まって 10 月 15 日に、(今年は 16 日から 18 日まで全国規模の学会が金沢市内の主なホテルを会場に開かれる予定なので、前日の 15 日はその準備で市内のホテルの使用ができないため、今年のみ例外的に 10 月 11 日に変更になった)前身の母体でもある旧制の金沢第一中学校と新制の金沢泉丘高等学校との合同の同窓会 (一泉同窓会) が開かれることになっており、毎年 1000 人を超える同窓生が参集してくる。因みに昨年 (2014) は創立 120 周年記念とあって、1200 人を超える同窓生が参集した。ところでこれまでの卒業生はというと、金沢一中で 58 期、金沢泉丘で 67 期、金沢泉丘通信制で 57 期の同窓生が巣立っているが、この同窓会は毎年卒業後 33 年目の同窓生が会の運営に当たることになっている。それで昨年は昭和 56 年卒業の泉丘 33 期の同窓生が当番で運営に当たった。それで同窓会では当然当番期の同窓生の人数が最も多いわけだが、当番期を除けば何故かいつも第 7 期同窓生の出席者数が最も多く、これは K 君の熱心な勧誘が功を奏しているということに帰する。今年の当番は泉丘 34 期なのだが、はたして今年はどうなるのだろうか。
さて今年の第 7 期の同窓会は傘寿記念と銘打って 6 月 7 日 (日) に粟津温泉「のとや」で開催された。昭和 30 年卒業の同窓生の総数は 448 名、そしてこの日までに 108 名が鬼籍に入っていて、残りは 340 名、4人の内1人が他界している勘定になる。これまで会の運営は K 君をトップに、在学当時 11 あったクラスからそれぞれ2〜3人が世話人となり、3百名余の人達への同窓会への案内や出欠の確認、会費の徴収、一泉同窓会機関誌の送付等々の世話をしてきた。それで同窓会の会場は何故かいつも粟津温泉の「のとや」、会費は例年 23,000 円と決まっていた。ところで長年 K 君が一人で主宰していること、会場が「のとや」オンリーなこと、また同窓生の A 君が支配人をしている山代温泉の老舗温泉旅館の会場設定が一度もないことに何故なのだという声も出て、K 君ではこの傘寿記念の同窓会を最後に七期同窓会を散会することにしたという連絡を受けた。それで今回は最後となるのでぜひ多くの方々の参加をと呼びかけてきた。会費はこれまでの余金も若干あるということもあって清算するとのことで、今年の会費はお土産付きの 17,000 円になった。そして今回は最後の同窓会という触れ込みもあり、平生は参加がなく卒業後初めてという方々の参加もあり、総勢で 70 名が出席した。でも出席者の顔ぶれを見ると,新顔がいる反面、いつも顔を見せている常連が何人も欠席だったのは何とも寂しかった。この同窓会は当夜の宴会のみで、翌日の朝食後は流れ解散という形式をとってきた。今後については、彼からの案内では有志による同窓会の継続を図るとのことだが、まだその案内は来ていない。ただ地域の一泉同窓会が全国のあちこちにあり、関東や関西の一泉同窓会には毎年相当数の人数が参集しているようである。因みに私の住む野々市市でも野々市一泉同窓会があり、2年に一度開催している。
(付)約 10 年前、同窓の M 君が台湾から 30 年ぶりに帰って来るのを機に、同窓の 13 名ばかりが集まって、後日「耳順会」なる名称の会を創った。3ヵ月に一度会うことにし、年末には温泉で1泊の会をもってきた。この会はお酒も入っての会、幹事は持ち回りで続けてきた。ところでその後 M 君の提案で、従来の耳順会はそのまま継続することとし、ほかに毎月第3土曜日に昼食を兼ねて、お酒なしで会わないかとの提案、そのとき私は肺炎で入院していたので詳しい経緯は知らないが、主宰する M 君では、従来の耳順会は3月,6月、9月は金沢市内の割烹 G で、年末は山代温泉の同期生 A 君が支配人をしている温泉旅館で、それで新規の毎月の会は「湧泉会」という名称で集まることにし、金沢 NG ホテルで第3土曜日に昼食を兼ねて3時間ばかり駄弁る会とし、今日に至っている。男性の井戸端会議ともいうべき楽しく面白い会である。
2.金沢泉丘高等学校第7期同窓会(泉丘七期同窓会)
この同窓会はかなり以前からずっと2年おきに開催されてきた。七期同窓会の開催が決まってからずっと主宰してくれていたのは K 君で、このような会は熱心な世話人がいないとなかなか会を盛り上げるのは難しい。さて、これとは別に、毎年決まって 10 月 15 日に、(今年は 16 日から 18 日まで全国規模の学会が金沢市内の主なホテルを会場に開かれる予定なので、前日の 15 日はその準備で市内のホテルの使用ができないため、今年のみ例外的に 10 月 11 日に変更になった)前身の母体でもある旧制の金沢第一中学校と新制の金沢泉丘高等学校との合同の同窓会 (一泉同窓会) が開かれることになっており、毎年 1000 人を超える同窓生が参集してくる。因みに昨年 (2014) は創立 120 周年記念とあって、1200 人を超える同窓生が参集した。ところでこれまでの卒業生はというと、金沢一中で 58 期、金沢泉丘で 67 期、金沢泉丘通信制で 57 期の同窓生が巣立っているが、この同窓会は毎年卒業後 33 年目の同窓生が会の運営に当たることになっている。それで昨年は昭和 56 年卒業の泉丘 33 期の同窓生が当番で運営に当たった。それで同窓会では当然当番期の同窓生の人数が最も多いわけだが、当番期を除けば何故かいつも第 7 期同窓生の出席者数が最も多く、これは K 君の熱心な勧誘が功を奏しているということに帰する。今年の当番は泉丘 34 期なのだが、はたして今年はどうなるのだろうか。
さて今年の第 7 期の同窓会は傘寿記念と銘打って 6 月 7 日 (日) に粟津温泉「のとや」で開催された。昭和 30 年卒業の同窓生の総数は 448 名、そしてこの日までに 108 名が鬼籍に入っていて、残りは 340 名、4人の内1人が他界している勘定になる。これまで会の運営は K 君をトップに、在学当時 11 あったクラスからそれぞれ2〜3人が世話人となり、3百名余の人達への同窓会への案内や出欠の確認、会費の徴収、一泉同窓会機関誌の送付等々の世話をしてきた。それで同窓会の会場は何故かいつも粟津温泉の「のとや」、会費は例年 23,000 円と決まっていた。ところで長年 K 君が一人で主宰していること、会場が「のとや」オンリーなこと、また同窓生の A 君が支配人をしている山代温泉の老舗温泉旅館の会場設定が一度もないことに何故なのだという声も出て、K 君ではこの傘寿記念の同窓会を最後に七期同窓会を散会することにしたという連絡を受けた。それで今回は最後となるのでぜひ多くの方々の参加をと呼びかけてきた。会費はこれまでの余金も若干あるということもあって清算するとのことで、今年の会費はお土産付きの 17,000 円になった。そして今回は最後の同窓会という触れ込みもあり、平生は参加がなく卒業後初めてという方々の参加もあり、総勢で 70 名が出席した。でも出席者の顔ぶれを見ると,新顔がいる反面、いつも顔を見せている常連が何人も欠席だったのは何とも寂しかった。この同窓会は当夜の宴会のみで、翌日の朝食後は流れ解散という形式をとってきた。今後については、彼からの案内では有志による同窓会の継続を図るとのことだが、まだその案内は来ていない。ただ地域の一泉同窓会が全国のあちこちにあり、関東や関西の一泉同窓会には毎年相当数の人数が参集しているようである。因みに私の住む野々市市でも野々市一泉同窓会があり、2年に一度開催している。
(付)約 10 年前、同窓の M 君が台湾から 30 年ぶりに帰って来るのを機に、同窓の 13 名ばかりが集まって、後日「耳順会」なる名称の会を創った。3ヵ月に一度会うことにし、年末には温泉で1泊の会をもってきた。この会はお酒も入っての会、幹事は持ち回りで続けてきた。ところでその後 M 君の提案で、従来の耳順会はそのまま継続することとし、ほかに毎月第3土曜日に昼食を兼ねて、お酒なしで会わないかとの提案、そのとき私は肺炎で入院していたので詳しい経緯は知らないが、主宰する M 君では、従来の耳順会は3月,6月、9月は金沢市内の割烹 G で、年末は山代温泉の同期生 A 君が支配人をしている温泉旅館で、それで新規の毎月の会は「湧泉会」という名称で集まることにし、金沢 NG ホテルで第3土曜日に昼食を兼ねて3時間ばかり駄弁る会とし、今日に至っている。男性の井戸端会議ともいうべき楽しく面白い会である。
2015年7月25日土曜日
同窓会 あ・れ・こ・れ(その1)
今年・平成 27 年 (2015) は、5月 18 日から6月8日までの3週間ばかリの間に、なんと大学、高校、小・中学校の同窓会が集中して開催された。なんとも慌ただしかった3週間を振り返ってみた。同窓生のうち、大学では現役で入学した人以外にも、年齢では7歳年長の方も同期だったこともあって、年齢にはかなりのバラツキが見られたが、高校や小・中学校の場合は、ほぼ昭和 11 年4月2日〜昭和 12 年4月1日に生まれた人がほとんどを占めていた。そうして年齢で言えば、数え年では 79 歳と 80 歳、満年齢では 78 歳と 79 歳、今年もしくは来年には傘寿を迎える年齢の集団になる。
1.金沢大学薬学部第7期同窓会(ゼレン会)
私たちが大学を卒業したのは昭和 34 年 (1959) 3月、会の名称は卒業年に因み、元素番号 34 の元素セレンのドイツ語読みのゼレンを会名とした経緯がある。当時私たちが在学していた頃は、医学や薬学ではまだ英語よりはドイツ語が幅を利かせていたからによる。もう卒業して 56 年ばかり、私たちのこの同窓会は 卒業して20 年ばかりは開かれなかったものの、以降は5年おき、更に時を経ては2年おきとなり、ここ 20 年ばかりは毎年開催している。入学したのは昭和 30 年 (1955) で、記憶が定かではないが、定員 40 名のところ 41 名入学したように思う。教養課程から専門課程へ進学する際に、基礎科目の物理学で7名が不合格となり、全員留年となるところ、交渉で1回のみビーダーコンメン=ビーコン (再試験) が認められた。しかし、クリアしジッヘルできたのは1名のみで6名が留年する羽目に、また1名が病気で留年した。そして専門課程に入ると、前年留年した2名が加わってクラスは全部で 36 名になったが、在学中に1名が病死し、最終的には 35 名 (男25名、女10名) が卒業した。今年の同窓会当日までにクラスで物故したのは、男6名女1名の計7名、現在の会員数は 28 名である。
さて今年の同窓会は5月 18 日 (月) と 19 日 (火) の両日金沢市で開催した。会の申し合わせで、1年おきに金沢で、そうでない年は金沢以外の場所で開催することになっている。ここ数年のスケジュールでは、金沢・仙台・金沢・福井・金沢という運びだったが、仙台開催の折に東北大震災が起き中止、でも希望で翌年に振り替えて仙台で行なった。同窓会は原則1泊2日、ただそれに付随してゴルフコンペがあり、ゴルフに出席の人はもう1泊、前泊か後泊するスタイルを採っている。そしてこれまでの経過を見ると、宿泊当日に早めに着くようにして半日観光、さらに翌日にも希望で半日観光のスケジュールが組まれることが多く、どちらも自由参加ではあるものの、大概大部分の人が参加するのが常だった。でもこれらオプショナルツアーは主催する側にとってはかなりの負担になる。ところで仙台での秋の同窓会では、2日目午前の観光を終わって散会しようとしたところ、強烈な台風の襲来で新幹線のほか在来線も運休してしまって、もう1泊仙台で逗留した人も出た。そして翌年の福井での同窓会もやはり秋の開催、ところが前年と同じく台風の襲来の予想があり、1週間前になり急遽主催者側の判断で同窓会は中止ということになった。宿やオプショナルツアーの手配と中止、またそれに伴う会員への案内等々、開催のみと比較して2倍も3倍もの労苦があったろうと思う。でも当初の計画だった全員の近況報告の作成などは実行して頂けた。それで今年もう一度開催をどうですかと打診したが、これは引き受けては貰えなかった。
それで今年は順で地元金沢での開催、一昨年、昨年と、2回もの台風との出会いでの中止もあって、今回は春にしようということになった。地元の会員は男性3人のみ、昨年 10 月には今年春の開催日を決めようということになり、私が金沢市のコンベンションホールへ出向いて、平成 27 年4〜6月に金沢で開催される学会・集会・催しの予定と集客数を把握し、その合間を縫って、同窓会は5月 18・19 日に開催することにした。そしてこれまで金沢での宿はもっぱら湯涌温泉を利用してきたが、金沢市商工会議所の担当の方から犀川温泉でもと勧められたこともあり、そこを利用することにした。でもここは湯涌温泉と異なり、近くまではバスの便は多いものの、宿へはバス停から徒歩 10 分とあり、金沢駅でバスに乗る前に宿に案内をくれれば最寄りのバス停まで宿の車を迎えに出しますというが、これは言うは易く行なうは難しの類いだった。
ところで宿の方は別の方が担当し、昨年秋に JTB を通じて1泊1万7千円としたが、翌年3月 14 日の北陸新幹線の開業が近づくと2万円にするとのこと、担当は約束が違うと頑張ったこともあって料金は据え置かれたものの、宿泊当日のサービスの低下は歴然だった。開催までお互いのメールのやり取りは 20 回ばかり、会合も5回ばかり、もっとすっきり単純にできないものかと案じたものである。また観光はもう一人の方が担当してくれた。私なりに観光と昼食は腹案もあったが、総枠2万3千円のくくりとしたこともあって、昼食は KKR 、観光は金沢城公園のみという寂しい企画に落ち着いた。それでも今回の参加者は 17 名だった。会員もやがて 80 歳台、もう少しゆとりのあるゆったりとした会になればと思う。ところで来年の会の開催先を募ったけれども挙手はなく、それで世話する方は宿の世話のみ、観光は各自でということで募ったところ、来年は関西在住の A 君の世話で神戸市での開催となった。
これまでの会を振り返ってみると、配偶者同伴も数組あったりして、25 名もの参加があったこともある。ところで今年の顔ぶれをみると、体調不良や配偶者や親の世話で出席できない人はともかく、元気でありながら常に欠席、中には一度も参加したことがない御仁も数名いるのはどうも解せない。現会員は 28 名、会はいつまで存続できるだろうか。
1.金沢大学薬学部第7期同窓会(ゼレン会)
私たちが大学を卒業したのは昭和 34 年 (1959) 3月、会の名称は卒業年に因み、元素番号 34 の元素セレンのドイツ語読みのゼレンを会名とした経緯がある。当時私たちが在学していた頃は、医学や薬学ではまだ英語よりはドイツ語が幅を利かせていたからによる。もう卒業して 56 年ばかり、私たちのこの同窓会は 卒業して20 年ばかりは開かれなかったものの、以降は5年おき、更に時を経ては2年おきとなり、ここ 20 年ばかりは毎年開催している。入学したのは昭和 30 年 (1955) で、記憶が定かではないが、定員 40 名のところ 41 名入学したように思う。教養課程から専門課程へ進学する際に、基礎科目の物理学で7名が不合格となり、全員留年となるところ、交渉で1回のみビーダーコンメン=ビーコン (再試験) が認められた。しかし、クリアしジッヘルできたのは1名のみで6名が留年する羽目に、また1名が病気で留年した。そして専門課程に入ると、前年留年した2名が加わってクラスは全部で 36 名になったが、在学中に1名が病死し、最終的には 35 名 (男25名、女10名) が卒業した。今年の同窓会当日までにクラスで物故したのは、男6名女1名の計7名、現在の会員数は 28 名である。
さて今年の同窓会は5月 18 日 (月) と 19 日 (火) の両日金沢市で開催した。会の申し合わせで、1年おきに金沢で、そうでない年は金沢以外の場所で開催することになっている。ここ数年のスケジュールでは、金沢・仙台・金沢・福井・金沢という運びだったが、仙台開催の折に東北大震災が起き中止、でも希望で翌年に振り替えて仙台で行なった。同窓会は原則1泊2日、ただそれに付随してゴルフコンペがあり、ゴルフに出席の人はもう1泊、前泊か後泊するスタイルを採っている。そしてこれまでの経過を見ると、宿泊当日に早めに着くようにして半日観光、さらに翌日にも希望で半日観光のスケジュールが組まれることが多く、どちらも自由参加ではあるものの、大概大部分の人が参加するのが常だった。でもこれらオプショナルツアーは主催する側にとってはかなりの負担になる。ところで仙台での秋の同窓会では、2日目午前の観光を終わって散会しようとしたところ、強烈な台風の襲来で新幹線のほか在来線も運休してしまって、もう1泊仙台で逗留した人も出た。そして翌年の福井での同窓会もやはり秋の開催、ところが前年と同じく台風の襲来の予想があり、1週間前になり急遽主催者側の判断で同窓会は中止ということになった。宿やオプショナルツアーの手配と中止、またそれに伴う会員への案内等々、開催のみと比較して2倍も3倍もの労苦があったろうと思う。でも当初の計画だった全員の近況報告の作成などは実行して頂けた。それで今年もう一度開催をどうですかと打診したが、これは引き受けては貰えなかった。
それで今年は順で地元金沢での開催、一昨年、昨年と、2回もの台風との出会いでの中止もあって、今回は春にしようということになった。地元の会員は男性3人のみ、昨年 10 月には今年春の開催日を決めようということになり、私が金沢市のコンベンションホールへ出向いて、平成 27 年4〜6月に金沢で開催される学会・集会・催しの予定と集客数を把握し、その合間を縫って、同窓会は5月 18・19 日に開催することにした。そしてこれまで金沢での宿はもっぱら湯涌温泉を利用してきたが、金沢市商工会議所の担当の方から犀川温泉でもと勧められたこともあり、そこを利用することにした。でもここは湯涌温泉と異なり、近くまではバスの便は多いものの、宿へはバス停から徒歩 10 分とあり、金沢駅でバスに乗る前に宿に案内をくれれば最寄りのバス停まで宿の車を迎えに出しますというが、これは言うは易く行なうは難しの類いだった。
ところで宿の方は別の方が担当し、昨年秋に JTB を通じて1泊1万7千円としたが、翌年3月 14 日の北陸新幹線の開業が近づくと2万円にするとのこと、担当は約束が違うと頑張ったこともあって料金は据え置かれたものの、宿泊当日のサービスの低下は歴然だった。開催までお互いのメールのやり取りは 20 回ばかり、会合も5回ばかり、もっとすっきり単純にできないものかと案じたものである。また観光はもう一人の方が担当してくれた。私なりに観光と昼食は腹案もあったが、総枠2万3千円のくくりとしたこともあって、昼食は KKR 、観光は金沢城公園のみという寂しい企画に落ち着いた。それでも今回の参加者は 17 名だった。会員もやがて 80 歳台、もう少しゆとりのあるゆったりとした会になればと思う。ところで来年の会の開催先を募ったけれども挙手はなく、それで世話する方は宿の世話のみ、観光は各自でということで募ったところ、来年は関西在住の A 君の世話で神戸市での開催となった。
これまでの会を振り返ってみると、配偶者同伴も数組あったりして、25 名もの参加があったこともある。ところで今年の顔ぶれをみると、体調不良や配偶者や親の世話で出席できない人はともかく、元気でありながら常に欠席、中には一度も参加したことがない御仁も数名いるのはどうも解せない。現会員は 28 名、会はいつまで存続できるだろうか。
2015年6月16日火曜日
子うし会で五島列島を巡る(その3)
3.5月28日(木)
3−1 頭ヶ島 (かしらがしま) 天主堂(有川地区)
ホテルからの出立は8時、表に出ると上五島観光交通の超大型のバスが玄関先に、訊くとマイクロバスが出払ってしまってこのバスしか都合できなかったとか、こんな経験は初めてだ。そして車腹には大きく「上五島から世界遺産を」と赤いトッピング、同じ意味の英語はコバルトブルーで。現在頭ヶ島天主堂が世界遺産暫定リストに登録されているとかである。
今日初めに訪れる頭ヶ島は以前は離島だったが、この島に上五島空港を造るため、中通島と頭ヶ島との間に頭ヶ島大橋が架橋され、この島へは車で来られるようになった。でも肝心の空港は一昨年廃港になり、現在は滑走路が残っているのみである。大橋を渡った後、山道を教会まで下りるのだが、車の交差はかなり厳しい。でもどうやら着くことができた。
天主堂への参道は綺麗に掃き清められていて、ガイドの説明では、毎日信者さんが掃除されているとか。この天主堂は、迫害が終わって再びこの島に戻り住んだ信者たちが、自ら切り出した砂岩を積み上げて造ったという全国でも珍しい石造りの教会で、この地で生まれた教会建築の先駆者である鉄川与助の設計・施工によって、明治 43 年 (1910) に着工し、大正6年 (1917) に完成している。現在国指定重要文化財に指定されている。内部に入ると、花柄模様のついた折り上げ天井が素晴らしい特徴、そして朝日夕陽がステンドグラスを通して教会内部に射すように設計されている。教会内のステンドグラスの意味合いを初めて知ることになった。
3−2 坂本龍馬ゆかりの広場(有川地区)
中通島へ戻り、東海岸を南下すると程なくこの広場に着く。この地は坂本龍馬が組織した貿易商社の洋式木造帆船ワイル・ウエフ号が嵐で難破した潮合崎 (しおやざき) を望む地にあり、当時龍馬は体調不良で乗船していなかったが、後にこの地を訪れ、遭難現場に近い江ノ浜に若き志士たち 12 人の慰霊碑を建てたという。後年地元の人達により、龍馬が訪れたこの地に、「龍馬ゆかりの地」と記された碑、ワイル・ウエフ号の舵取り棒のレプリカ、そして彼らの冥福を祈る龍馬の大きなブロンズ像が遭難現場を向いて建てられた。
3−3 矢堅目 (やがため) 公園と青砂ヶ浦 (あおさがうら) 天主堂(上五島地区)
この日の出発点だったホテルの前を通り、北上して矢堅目公園へ行く。途中あの鉄川与助が初めて設計・施工したという冷水教会の前を通った。矢堅目公園の海岸には実に特徴的な巨大な円錐形の奇岩が聳えていて、複雑な海岸線が実に美しい。一方公園からは奈摩湾を挟んでこれから訪れる青砂ヶ浦天主堂を望むことができる。車は急な道を海岸近くまで下って製塩所へ。ここでは海水を直接巨大な釜で煮詰めて製塩している。私はここで矢堅目名産の「つばき茶塩」を求めた。上五島では今資生堂と提携して大々的に椿油の生産をしているとか。
湾の口まで戻り、対岸の青砂ヶ浦天主堂へ。この建物も鉄川与助の手になるもので、煉瓦造りの教会堂で、平成 22 年 (2010) には献堂 100 周年を迎えたという。ここも国指定重要文化財になっている。天主堂の高みにはステンドグラスが嵌め込まれた丸窓があり、朝日と夕陽が教会内に射し込むように設計されている。現在上五島には 29 の教会があるという。
再び戻って奈摩湾の口にあるダイニング厨房「万里波」で昼食をとる。どっさりの海の幸ばかり、全部を食べ尽くせなかった。なかでも大きな鮑の刺身は圧巻だった。
3−4 若松大橋から若松港へ(若松地区)
若松港からの出港が午後1時とかで、早々にバスで中通島西岸を南下する。小1時間ばかりを要する。当初は若松大橋を車から降りて歩く予定だったが、時間に余裕がなく割愛した。この若松大橋は中通島と若松島の間の若松瀬戸に架かる橋で、平成3年 (1991) に開通している。高みにある大橋からはこれから行く若松港が眼下に見えている。そして程なく若松港に着いた。既にチャーター舩は待っていた。
3−5 キリシタン洞窟「キリシタンワンド」(若松地区)
ここは若松島の西南にある断崖絶壁の地にある洞窟で、奥行き 50 m 幅7m もの空間があり、明治のキリシタン迫害の際に信者らが隠れ住んだが、沖を通った舩に朝食を炊く煙を見つけられて捕らえられたという。明治 42 年 (1967) 、入口の崖上に高さ4mの十字架とキリスト像が建てられた。今でも舩でしか行けないこの地を目にして手を合わせた。そして舩は1時間後に福江港に着いた。こうして3日間の充実した五島列島探訪の旅は終わった。
福岡空港から伊丹へ小松へ、来年の傘寿の会での再会を期して別れた。
3−1 頭ヶ島 (かしらがしま) 天主堂(有川地区)
ホテルからの出立は8時、表に出ると上五島観光交通の超大型のバスが玄関先に、訊くとマイクロバスが出払ってしまってこのバスしか都合できなかったとか、こんな経験は初めてだ。そして車腹には大きく「上五島から世界遺産を」と赤いトッピング、同じ意味の英語はコバルトブルーで。現在頭ヶ島天主堂が世界遺産暫定リストに登録されているとかである。
今日初めに訪れる頭ヶ島は以前は離島だったが、この島に上五島空港を造るため、中通島と頭ヶ島との間に頭ヶ島大橋が架橋され、この島へは車で来られるようになった。でも肝心の空港は一昨年廃港になり、現在は滑走路が残っているのみである。大橋を渡った後、山道を教会まで下りるのだが、車の交差はかなり厳しい。でもどうやら着くことができた。
天主堂への参道は綺麗に掃き清められていて、ガイドの説明では、毎日信者さんが掃除されているとか。この天主堂は、迫害が終わって再びこの島に戻り住んだ信者たちが、自ら切り出した砂岩を積み上げて造ったという全国でも珍しい石造りの教会で、この地で生まれた教会建築の先駆者である鉄川与助の設計・施工によって、明治 43 年 (1910) に着工し、大正6年 (1917) に完成している。現在国指定重要文化財に指定されている。内部に入ると、花柄模様のついた折り上げ天井が素晴らしい特徴、そして朝日夕陽がステンドグラスを通して教会内部に射すように設計されている。教会内のステンドグラスの意味合いを初めて知ることになった。
3−2 坂本龍馬ゆかりの広場(有川地区)
中通島へ戻り、東海岸を南下すると程なくこの広場に着く。この地は坂本龍馬が組織した貿易商社の洋式木造帆船ワイル・ウエフ号が嵐で難破した潮合崎 (しおやざき) を望む地にあり、当時龍馬は体調不良で乗船していなかったが、後にこの地を訪れ、遭難現場に近い江ノ浜に若き志士たち 12 人の慰霊碑を建てたという。後年地元の人達により、龍馬が訪れたこの地に、「龍馬ゆかりの地」と記された碑、ワイル・ウエフ号の舵取り棒のレプリカ、そして彼らの冥福を祈る龍馬の大きなブロンズ像が遭難現場を向いて建てられた。
3−3 矢堅目 (やがため) 公園と青砂ヶ浦 (あおさがうら) 天主堂(上五島地区)
この日の出発点だったホテルの前を通り、北上して矢堅目公園へ行く。途中あの鉄川与助が初めて設計・施工したという冷水教会の前を通った。矢堅目公園の海岸には実に特徴的な巨大な円錐形の奇岩が聳えていて、複雑な海岸線が実に美しい。一方公園からは奈摩湾を挟んでこれから訪れる青砂ヶ浦天主堂を望むことができる。車は急な道を海岸近くまで下って製塩所へ。ここでは海水を直接巨大な釜で煮詰めて製塩している。私はここで矢堅目名産の「つばき茶塩」を求めた。上五島では今資生堂と提携して大々的に椿油の生産をしているとか。
湾の口まで戻り、対岸の青砂ヶ浦天主堂へ。この建物も鉄川与助の手になるもので、煉瓦造りの教会堂で、平成 22 年 (2010) には献堂 100 周年を迎えたという。ここも国指定重要文化財になっている。天主堂の高みにはステンドグラスが嵌め込まれた丸窓があり、朝日と夕陽が教会内に射し込むように設計されている。現在上五島には 29 の教会があるという。
再び戻って奈摩湾の口にあるダイニング厨房「万里波」で昼食をとる。どっさりの海の幸ばかり、全部を食べ尽くせなかった。なかでも大きな鮑の刺身は圧巻だった。
3−4 若松大橋から若松港へ(若松地区)
若松港からの出港が午後1時とかで、早々にバスで中通島西岸を南下する。小1時間ばかりを要する。当初は若松大橋を車から降りて歩く予定だったが、時間に余裕がなく割愛した。この若松大橋は中通島と若松島の間の若松瀬戸に架かる橋で、平成3年 (1991) に開通している。高みにある大橋からはこれから行く若松港が眼下に見えている。そして程なく若松港に着いた。既にチャーター舩は待っていた。
3−5 キリシタン洞窟「キリシタンワンド」(若松地区)
ここは若松島の西南にある断崖絶壁の地にある洞窟で、奥行き 50 m 幅7m もの空間があり、明治のキリシタン迫害の際に信者らが隠れ住んだが、沖を通った舩に朝食を炊く煙を見つけられて捕らえられたという。明治 42 年 (1967) 、入口の崖上に高さ4mの十字架とキリスト像が建てられた。今でも舩でしか行けないこの地を目にして手を合わせた。そして舩は1時間後に福江港に着いた。こうして3日間の充実した五島列島探訪の旅は終わった。
福岡空港から伊丹へ小松へ、来年の傘寿の会での再会を期して別れた。
子うし会で五島列島を巡る(その2)
2.5月27日(水)
2−1 大寳寺(玉之浦地区)
今日のガイドさんは五島市ふるさとガイドの会の前会長の男性、通年だと年に十数回のお呼びだが、今年はもうそれを越えているとか。ホテルを9時に出て西進し、玉之浦地区に入る。大寳寺は島の西南にあり、ホテルからここまで 45 分を要した。僧空海が元和元年 (806) に唐から帰国した際に、この地の沖に漂着したと言われ、ここで初めて布教したことから、この寺は西の高野山とも称され、寺は国指定重要文化財になっている。境内には空海の書とされる「いろはにほへと…」の書の石碑が建っている。本堂にも上がってお参りし、御朱印を頂いた。
2−2 井持浦 (いもちうら ) 教会ルルドと大瀬崎灯台(玉之浦地区)
大寳寺から半島の狭い山道を 20 分ばかり西へ進むと井持浦教会ルルドがある。この教会の左手にある崖にはマリア像が安置されており、聖母マリアが 18 回も現れたと言われる南フランスのルルドの町にあるマッサビルの洞穴を模して造られた洞穴があり、そこからは霊泉が湧き出ている。この教会は明治 32 年 (1899) に創建されたという。この日も多くの人達が訪れていた。私もこの有難い泉の水を飲ましていただいた。志を納める。
その後半島を少し北の方へ進み、途中から折れて南下すると、東シナ海に突き出た断崖の突端に建つ白亜の大瀬崎灯台を見下ろせる場所に出る。高台から見下ろすと実に素晴らしい景観だ。この灯台は日本の灯台 50 選にも入っており、ここから見る東シナ海の水平線に沈む夕日は格別とか、日本の夕陽 100 選の場所でもある。素晴らしい自然を堪能した後、玉之浦町にある大瀬崎ルルド観光レストラン「NEWパンドラ」で昼食をとった。
2−3 魚藍観音展望台(三井楽地区)
昼食後、島の西端につけられた国道 384 号線を北上する。荒川温泉を過ぎ更に北へ進むと、五島の代表的な砂浜がある風光明媚な海水浴場が隣接して2つ現れる。初めに眼下に見えたのは玉之浦地区北端にある頓泊 (とんとまり) ビーチ、次いで見えたのは三井楽地区の南端に位置する高浜ビーチで、広い入江に広がった白砂の浜は実に美しい。特に後者は日本一美しいと言われる砂浜で、日本の渚 100 選、日本の海水浴場 100 選に選ばれている。そしてバスはこの2つの海水浴場を眼下に見下ろせる魚藍観音展望台へ。青い海、白い浜、背後の山々の緑、晴れた空の色、白い雲、これは正に一幅の絵になる構図である。
2−4 辞本涯の碑と、「道の駅」遣唐使ふるさと館(三井楽地区)
東シナ海を見ながら更に北上し、島の北西端に達すると、そこには「辞本涯」と書かれた大きな記念の石碑が建っている。ここは空海が延暦 23 年 (804) に唐へ舩で渡る際の日本見納めの地とされていて、この字句は空海の書から引用されたもので、「日本の最果ての地を去る」という意味だそうだ。碑は突端にある柏崎灯台と沖に浮かぶ姫島を背に、空海の遺徳を顕彰するために、地元有志により建立されたという。
柏崎から東海岸沿いに 30 分ばかり南下すると、長崎県では離島初という道の駅に着く。もうここには何でも有りの店。また遣唐使ふるさと館と称しているだけあって、遣唐使についてのかなり詳細な説明があるコーナーも設けられている。ここには高い展望台もあり、立ち寄った。
2−5 水之浦教会と魚津ヶ崎 (ぎょうがさき) 公園(岐宿 (きしく) 地区)
国道を東進すると進行方向右手に水之浦教会が見えてくる。この教会は明治 13 年 (1880) に創建され、昭和 13 年 (1938) に改築されたという教会で、木造教会としては最大規模と言われ、車窓から見たのだが、白い天主堂と尖塔が実に印象深かった。車はここから左折して魚津ヶ崎 公園に向かう。ここは遣唐使舩の日本最後の寄港地として、古くは肥前風土記にも記載されていて、その説明板が置かれていた。広い草地となっていて、キャンプもできるという。
これで福江島の観光が終わり、上五島へ向かうため福江港へ。ここで長崎港と福江港を結ぶジェット舩に乗り、上五島の中通島にある奈良尾港へ向かう。
2−6 ホテルマリンピア(中通島 有川地区)
海路 30 分で奈良尾港に着き、ホテル差し回しの車でホテルへ向かう。この中通島は新上五島町では最大の島で、その西岸を南北に通る国道 384 号線を通って約1時間、この町最大というホテルマリンピアに着いた。早速展望風呂で汗を流し、着替えてレストランで夕食。魚などの刺身はともかく、一人に1尾の立派な伊勢海老の姿造りが出されたのには本当に度肝を抜かれた。五島名産の牛、豚、それに地の焼酎、十分に堪能できた。
2−1 大寳寺(玉之浦地区)
今日のガイドさんは五島市ふるさとガイドの会の前会長の男性、通年だと年に十数回のお呼びだが、今年はもうそれを越えているとか。ホテルを9時に出て西進し、玉之浦地区に入る。大寳寺は島の西南にあり、ホテルからここまで 45 分を要した。僧空海が元和元年 (806) に唐から帰国した際に、この地の沖に漂着したと言われ、ここで初めて布教したことから、この寺は西の高野山とも称され、寺は国指定重要文化財になっている。境内には空海の書とされる「いろはにほへと…」の書の石碑が建っている。本堂にも上がってお参りし、御朱印を頂いた。
2−2 井持浦 (いもちうら ) 教会ルルドと大瀬崎灯台(玉之浦地区)
大寳寺から半島の狭い山道を 20 分ばかり西へ進むと井持浦教会ルルドがある。この教会の左手にある崖にはマリア像が安置されており、聖母マリアが 18 回も現れたと言われる南フランスのルルドの町にあるマッサビルの洞穴を模して造られた洞穴があり、そこからは霊泉が湧き出ている。この教会は明治 32 年 (1899) に創建されたという。この日も多くの人達が訪れていた。私もこの有難い泉の水を飲ましていただいた。志を納める。
その後半島を少し北の方へ進み、途中から折れて南下すると、東シナ海に突き出た断崖の突端に建つ白亜の大瀬崎灯台を見下ろせる場所に出る。高台から見下ろすと実に素晴らしい景観だ。この灯台は日本の灯台 50 選にも入っており、ここから見る東シナ海の水平線に沈む夕日は格別とか、日本の夕陽 100 選の場所でもある。素晴らしい自然を堪能した後、玉之浦町にある大瀬崎ルルド観光レストラン「NEWパンドラ」で昼食をとった。
2−3 魚藍観音展望台(三井楽地区)
昼食後、島の西端につけられた国道 384 号線を北上する。荒川温泉を過ぎ更に北へ進むと、五島の代表的な砂浜がある風光明媚な海水浴場が隣接して2つ現れる。初めに眼下に見えたのは玉之浦地区北端にある頓泊 (とんとまり) ビーチ、次いで見えたのは三井楽地区の南端に位置する高浜ビーチで、広い入江に広がった白砂の浜は実に美しい。特に後者は日本一美しいと言われる砂浜で、日本の渚 100 選、日本の海水浴場 100 選に選ばれている。そしてバスはこの2つの海水浴場を眼下に見下ろせる魚藍観音展望台へ。青い海、白い浜、背後の山々の緑、晴れた空の色、白い雲、これは正に一幅の絵になる構図である。
2−4 辞本涯の碑と、「道の駅」遣唐使ふるさと館(三井楽地区)
東シナ海を見ながら更に北上し、島の北西端に達すると、そこには「辞本涯」と書かれた大きな記念の石碑が建っている。ここは空海が延暦 23 年 (804) に唐へ舩で渡る際の日本見納めの地とされていて、この字句は空海の書から引用されたもので、「日本の最果ての地を去る」という意味だそうだ。碑は突端にある柏崎灯台と沖に浮かぶ姫島を背に、空海の遺徳を顕彰するために、地元有志により建立されたという。
柏崎から東海岸沿いに 30 分ばかり南下すると、長崎県では離島初という道の駅に着く。もうここには何でも有りの店。また遣唐使ふるさと館と称しているだけあって、遣唐使についてのかなり詳細な説明があるコーナーも設けられている。ここには高い展望台もあり、立ち寄った。
2−5 水之浦教会と魚津ヶ崎 (ぎょうがさき) 公園(岐宿 (きしく) 地区)
国道を東進すると進行方向右手に水之浦教会が見えてくる。この教会は明治 13 年 (1880) に創建され、昭和 13 年 (1938) に改築されたという教会で、木造教会としては最大規模と言われ、車窓から見たのだが、白い天主堂と尖塔が実に印象深かった。車はここから左折して魚津ヶ崎 公園に向かう。ここは遣唐使舩の日本最後の寄港地として、古くは肥前風土記にも記載されていて、その説明板が置かれていた。広い草地となっていて、キャンプもできるという。
これで福江島の観光が終わり、上五島へ向かうため福江港へ。ここで長崎港と福江港を結ぶジェット舩に乗り、上五島の中通島にある奈良尾港へ向かう。
2−6 ホテルマリンピア(中通島 有川地区)
海路 30 分で奈良尾港に着き、ホテル差し回しの車でホテルへ向かう。この中通島は新上五島町では最大の島で、その西岸を南北に通る国道 384 号線を通って約1時間、この町最大というホテルマリンピアに着いた。早速展望風呂で汗を流し、着替えてレストランで夕食。魚などの刺身はともかく、一人に1尾の立派な伊勢海老の姿造りが出されたのには本当に度肝を抜かれた。五島名産の牛、豚、それに地の焼酎、十分に堪能できた。
子うし会で五島列島を巡る(その1)
昨年の子うし会 (昭和 11 年子年4月〜昭和 12 年丑年3月に生まれた野々市小・中学校同窓生の会)で、今年は五島列島を巡ろうということになった。昨年の 10 月に案内を出したところ、男5名、女5名、計 10 名の参加が見込まれた。しかし会員の年齢が 80 歳に近いこともあって体調不良の方が出て、最終的には男4名、女3名の旅行になった。催行日程は、平成 27 年5月 26 日 (火) 〜 28 日 (木) の2泊3日である。
五島列島は長崎県の西の洋上にあり、全島が西海国立公園になっている。行政区画では、下五島は五島市、上五島は大部分が南松浦郡新上五島町であるほか、一部の島は西海市と佐世保市に属している。
1.5月26日(火)
石川在住の5名と北陸交通の添乗員の方は小松空港から、大阪在住の2名は伊丹空港から、共に福岡空港で合流し、乗り継いだプロペラ機で福江空港 (愛称は五島つばき空港) に降り立った。福江島は五島列島では最大の島で、空港は島の南東、鬼岳の麓にある。
1−1 鬼岳(福江地区)
空港には五島バスのマイクロバスが来ていた。25 人乗りとあって、ゆったりの観光となった。この日案内してくれたのは、五島市ふるさとガイドの会の女性、島のことについては実に詳しく、しかも退屈させない案内、本当に恵まれた旅行になった。
初めに訪れたのは鬼岳、標高は 317m 、全山芝生に覆われたボタモチ状の火山。駐車場に車を停め、あとは徒歩で山の中腹へ。山頂への中程にはなだらかな場所があり、そこには展望台や休憩所がある。東側には海が広がり、西側には島中央部にある山々が連なって見え、眼下には空港も見えている。広い芝生の広場には、あちこちにニワゼキショウが咲いていた。
1−2 鐙瀬 (あぶんぜ) 熔岩海岸(福江地区)
鬼岳の南に位置するこの海岸は、鬼岳噴火での熔岩が海に流れ込んで出来た地形で、黒い荒々しい岩礁が十数 km にわたって続いていて、その景観を高台にある展望所から眺めることができる。ソテツが沢山自生していて、何故か古い葉を切り落とすのだが、するとその箇所にいろんな植物が寄生し、変わった独特な景観を醸し出している。
1−3 武家屋敷と福江城 (石田城) 跡(福江地区)
車は福江の市街地に戻る。ゆっくり武家屋敷通りをバスで通りながら、説明を受ける。屋敷はすべて石垣塀で囲まれていて、塀の上には丸い小石が積み重ねられている。この小石の効能は、賊が塀を乗り越えようとすると崩れて乗り越せないことのほかに、この小石を武器代わりにしたとか、通りにある石垣はみな同じような構築だった。そして今宵の宿の近くにある福江城跡、我が国唯一の海城で、外国船の襲来に備えて江戸時代に築城されたとか。城の周りには堀が巡らされている。
1−4 堂崎天主堂(福江地区)
市内を通り抜け、島の東北端にある、五島では最も古いという堂崎教会へ行く。この教会は明治 13 年 (1880) にマルマン神父によって初めて建立された堂崎小聖堂が原型とか。その後明治 21 年 (1888) に着任したペルー神父は、資材の一部を遠くイタリアから取り寄せ、明治 37 年 (1904) に着工し、明治 41 年 (1908) に現在の赤煉瓦造りのゴシック様式の建物が完成し、殉教した日本 26 聖人に捧げられた。平成 20 年 (2008) には、堂崎天主堂献堂 100 周年祭が行なわれた。資料館には、聖ヨハネ五島 (日本 26 聖人) 関係の資料、弾圧され表向きには仏教徒を装った隠れキリシタン (元帳) の資料、五島で生まれ、その後ブラジルで宣教した中村長八神父関連の資料等々が展示されている。また教会前の庭には、聖ヨハネ五島 ( 26 聖人の一人)の殉教像、アルメイダ (ザビエルの鹿児島上陸の後、五島でキリスト教を布教した宣教師 ) の碑、マルマン神父とペルー神父と子供たちの碑が置かれている。県指定有形文化財。
現在下五島には、福江島に 14 、久賀島に2、奈留島には3、計 19 の教会がある。
1−5 カンパーナホテル(福江地区)
現在五島列島では最も大きいホテルで、福江港に近い東浜町にある。ホテルの展望風呂からは、福江の町並みや福江城跡を眺めることができる。夕食は地魚の造り、煮付け、蒸し物、酢の物、ソテー、五島牛の陶板焼き、御飯は五島米、留椀は五島うどんと、すべて五島の産物のオンパレードだった。
五島列島は長崎県の西の洋上にあり、全島が西海国立公園になっている。行政区画では、下五島は五島市、上五島は大部分が南松浦郡新上五島町であるほか、一部の島は西海市と佐世保市に属している。
1.5月26日(火)
石川在住の5名と北陸交通の添乗員の方は小松空港から、大阪在住の2名は伊丹空港から、共に福岡空港で合流し、乗り継いだプロペラ機で福江空港 (愛称は五島つばき空港) に降り立った。福江島は五島列島では最大の島で、空港は島の南東、鬼岳の麓にある。
1−1 鬼岳(福江地区)
空港には五島バスのマイクロバスが来ていた。25 人乗りとあって、ゆったりの観光となった。この日案内してくれたのは、五島市ふるさとガイドの会の女性、島のことについては実に詳しく、しかも退屈させない案内、本当に恵まれた旅行になった。
初めに訪れたのは鬼岳、標高は 317m 、全山芝生に覆われたボタモチ状の火山。駐車場に車を停め、あとは徒歩で山の中腹へ。山頂への中程にはなだらかな場所があり、そこには展望台や休憩所がある。東側には海が広がり、西側には島中央部にある山々が連なって見え、眼下には空港も見えている。広い芝生の広場には、あちこちにニワゼキショウが咲いていた。
1−2 鐙瀬 (あぶんぜ) 熔岩海岸(福江地区)
鬼岳の南に位置するこの海岸は、鬼岳噴火での熔岩が海に流れ込んで出来た地形で、黒い荒々しい岩礁が十数 km にわたって続いていて、その景観を高台にある展望所から眺めることができる。ソテツが沢山自生していて、何故か古い葉を切り落とすのだが、するとその箇所にいろんな植物が寄生し、変わった独特な景観を醸し出している。
1−3 武家屋敷と福江城 (石田城) 跡(福江地区)
車は福江の市街地に戻る。ゆっくり武家屋敷通りをバスで通りながら、説明を受ける。屋敷はすべて石垣塀で囲まれていて、塀の上には丸い小石が積み重ねられている。この小石の効能は、賊が塀を乗り越えようとすると崩れて乗り越せないことのほかに、この小石を武器代わりにしたとか、通りにある石垣はみな同じような構築だった。そして今宵の宿の近くにある福江城跡、我が国唯一の海城で、外国船の襲来に備えて江戸時代に築城されたとか。城の周りには堀が巡らされている。
1−4 堂崎天主堂(福江地区)
市内を通り抜け、島の東北端にある、五島では最も古いという堂崎教会へ行く。この教会は明治 13 年 (1880) にマルマン神父によって初めて建立された堂崎小聖堂が原型とか。その後明治 21 年 (1888) に着任したペルー神父は、資材の一部を遠くイタリアから取り寄せ、明治 37 年 (1904) に着工し、明治 41 年 (1908) に現在の赤煉瓦造りのゴシック様式の建物が完成し、殉教した日本 26 聖人に捧げられた。平成 20 年 (2008) には、堂崎天主堂献堂 100 周年祭が行なわれた。資料館には、聖ヨハネ五島 (日本 26 聖人) 関係の資料、弾圧され表向きには仏教徒を装った隠れキリシタン (元帳) の資料、五島で生まれ、その後ブラジルで宣教した中村長八神父関連の資料等々が展示されている。また教会前の庭には、聖ヨハネ五島 ( 26 聖人の一人)の殉教像、アルメイダ (ザビエルの鹿児島上陸の後、五島でキリスト教を布教した宣教師 ) の碑、マルマン神父とペルー神父と子供たちの碑が置かれている。県指定有形文化財。
現在下五島には、福江島に 14 、久賀島に2、奈留島には3、計 19 の教会がある。
1−5 カンパーナホテル(福江地区)
現在五島列島では最も大きいホテルで、福江港に近い東浜町にある。ホテルの展望風呂からは、福江の町並みや福江城跡を眺めることができる。夕食は地魚の造り、煮付け、蒸し物、酢の物、ソテー、五島牛の陶板焼き、御飯は五島米、留椀は五島うどんと、すべて五島の産物のオンパレードだった。
2015年6月9日火曜日
軽井沢へ行こまいかい(その3)
(承前)
3−2 軽井沢レイクガーデン(南軽井沢地区)
朝食後に歩いたグループは、コテージから再びホテルまで徒歩で行く。午前11時過ぎ、ホテル前に回送された車に乗り、車はホテルより南下する。行き先はレイクニュータウンにあるレイクガーデンとか、そこには何があるのだろう。目的地にある広い駐車場に車を停めて入口へ.エントランスには石造りの門と噴水、子供たちがはしゃぐ。パンフレットを見ると、大きな池の中にはウッドランドと称する島があり、対岸とは架け橋やめがね橋で結ばれている。池を巡る小径のほか、ウッドランドにも多くの小径が巡らせれている。私たちは入って右方向へ。すると初めにフレンチローズガーデンに出くわす。でもまだ花は咲いていない。ローズシーズンは6月19日〜7月20日とか、今はクレマチスが咲いていた。めがね橋を渡って睡蓮の池へ。小さな池だが、睡蓮の植わっている水面にはカルガモの親子が、子ガモが親ガモの後についていく微笑ましい光景に見とれる。
小径を辿ってウッドランドへ。ここは起伏に富んだ地形になっていて、小川もあり小山もあり、この場所には内外の山に自生している沢山の宿根草や灌木が植わっている。羊歯も多い。ベニシダだろうか。山手ではタニウツギの赤い花が満開だった。高みから振り返ると、樹間から浅間山が見えている。そして樹下にはヤグルマソウが白い花を付けていた。ウッドランドを一通り周回して架け橋を渡って池を周回する径のレイクサイドパスへ出る。この辺りには水辺の植物が群生しているのだが、まだ花は咲いていない。
池を周回していると、オオデマリが沢山咲いている場所があった。これだけ咲いているとなかなか壮観である。マロニエ(セイヨウトチノキ)も淡い紅色の花を付けていた。フレグランスパスを抜け、ウッドランドの湖岸を通って、めがね橋を渡りイングリッシュローズガーデンへ、薔薇が咲く季節ならばさぞ壮観だろう。これでレイクガーデンを一巡したことに。時間は正午過ぎ、土産を求め、車へ戻る。
3−3 旧軽井沢商店街
旧市街に戻り、町営駐車場に車を停め、三叉路になった場所で午後3時に集合することにして、それぞれが街へ繰り出す。私たち第1世代は昼食場所を求めてうろうろ、それでとあるカレー屋に入り昼食をしたが、余り美味くなかった。その後土産を求めてそぞろ歩く。前に欅の木がある店では、オーソドックスな軽井沢名産の菓子を、そして次に訪ねた腸詰屋、この店は高島夫妻が昼食に入った店とか、ユニークな腸詰めもさることながら、食事も提供するとか、彼らは旅慣れている。腸詰めの試供品をいろいろ食べ、ワインのお供にと4点ばかり求めた。豊富な品の数々、高山の田舎にあるキュルノンチュエを思い浮かべた。でもあそこでは試食は出来ない。皆が揃ったところで車に戻り、お茶を飲みに。
3−4 ホテルマロウド軽井沢(新軽井沢地区)
このホテルは旧軽井沢と軽井沢駅の中間に位置している。ここのロビーでお茶を飲もうという趣向である。テーブルと椅子がセットされ、皆さん思い思いの飲み物を注文する。私は紅茶、やはりコーヒー嗜好の方が多い。子供らはかくれんぼをして遊ぶ。帰りの新幹線「はくたか」の乗車時間は 16:56、午後4時にホテルを後にする。
3−5 新幹線の車窓から見えた山々
2日間の軽井沢での周遊もあっという間に終わってしまった。東京へ帰る石田夫妻を見送って、我々も下りのホームへ。今度も 10 号車、しかも進行方向左側の窓側、車窓から山を眺めるには絶好の席だ。見えた山々を順に列挙してみよう。
軽井沢駅を出て佐久平駅 (通過 ) 付近からは八ヶ岳 (百名山)、上田駅付近からはなだらかな美ヶ原(百名山)が見える。上田駅から長野駅にかけては、遠く後立山連峰の蓮華岳(三百名山)、針ノ木岳(二百名山)、爺ヶ岳(三百名山)、鹿島槍ヶ岳(百名山)、五竜岳(百名山)、唐松岳(三百名山)が、近くには高妻山(百名山)の先鋒が白く輝いて見える。長野駅を過ぎると飯縄山(二百名山)が、飯山駅を過ぎ上越妙高駅付近に来ると、黒姫山(二百名山)、妙高山(百名山)、火打山(百名山)が、糸魚川駅付近からは雨飾山(百名山)や焼山(三百名山)、黒部宇奈月温泉駅付近からは白馬岳(百名山)や僧ヶ岳、富山駅から高岡駅の間からは、北から順に毛勝山(二百名山)、劔岳(百名山)、奥大日岳(二百名山)、立山(百名山)、鍬崎山(三百名山)、薬師岳(百名山)が連なって見える。そして終点の金沢駅近くからは医王山(三百名山)の双子峰が見え、こうして軽井沢への旅は終わった。
3−2 軽井沢レイクガーデン(南軽井沢地区)
朝食後に歩いたグループは、コテージから再びホテルまで徒歩で行く。午前11時過ぎ、ホテル前に回送された車に乗り、車はホテルより南下する。行き先はレイクニュータウンにあるレイクガーデンとか、そこには何があるのだろう。目的地にある広い駐車場に車を停めて入口へ.エントランスには石造りの門と噴水、子供たちがはしゃぐ。パンフレットを見ると、大きな池の中にはウッドランドと称する島があり、対岸とは架け橋やめがね橋で結ばれている。池を巡る小径のほか、ウッドランドにも多くの小径が巡らせれている。私たちは入って右方向へ。すると初めにフレンチローズガーデンに出くわす。でもまだ花は咲いていない。ローズシーズンは6月19日〜7月20日とか、今はクレマチスが咲いていた。めがね橋を渡って睡蓮の池へ。小さな池だが、睡蓮の植わっている水面にはカルガモの親子が、子ガモが親ガモの後についていく微笑ましい光景に見とれる。
小径を辿ってウッドランドへ。ここは起伏に富んだ地形になっていて、小川もあり小山もあり、この場所には内外の山に自生している沢山の宿根草や灌木が植わっている。羊歯も多い。ベニシダだろうか。山手ではタニウツギの赤い花が満開だった。高みから振り返ると、樹間から浅間山が見えている。そして樹下にはヤグルマソウが白い花を付けていた。ウッドランドを一通り周回して架け橋を渡って池を周回する径のレイクサイドパスへ出る。この辺りには水辺の植物が群生しているのだが、まだ花は咲いていない。
池を周回していると、オオデマリが沢山咲いている場所があった。これだけ咲いているとなかなか壮観である。マロニエ(セイヨウトチノキ)も淡い紅色の花を付けていた。フレグランスパスを抜け、ウッドランドの湖岸を通って、めがね橋を渡りイングリッシュローズガーデンへ、薔薇が咲く季節ならばさぞ壮観だろう。これでレイクガーデンを一巡したことに。時間は正午過ぎ、土産を求め、車へ戻る。
3−3 旧軽井沢商店街
旧市街に戻り、町営駐車場に車を停め、三叉路になった場所で午後3時に集合することにして、それぞれが街へ繰り出す。私たち第1世代は昼食場所を求めてうろうろ、それでとあるカレー屋に入り昼食をしたが、余り美味くなかった。その後土産を求めてそぞろ歩く。前に欅の木がある店では、オーソドックスな軽井沢名産の菓子を、そして次に訪ねた腸詰屋、この店は高島夫妻が昼食に入った店とか、ユニークな腸詰めもさることながら、食事も提供するとか、彼らは旅慣れている。腸詰めの試供品をいろいろ食べ、ワインのお供にと4点ばかり求めた。豊富な品の数々、高山の田舎にあるキュルノンチュエを思い浮かべた。でもあそこでは試食は出来ない。皆が揃ったところで車に戻り、お茶を飲みに。
3−4 ホテルマロウド軽井沢(新軽井沢地区)
このホテルは旧軽井沢と軽井沢駅の中間に位置している。ここのロビーでお茶を飲もうという趣向である。テーブルと椅子がセットされ、皆さん思い思いの飲み物を注文する。私は紅茶、やはりコーヒー嗜好の方が多い。子供らはかくれんぼをして遊ぶ。帰りの新幹線「はくたか」の乗車時間は 16:56、午後4時にホテルを後にする。
3−5 新幹線の車窓から見えた山々
2日間の軽井沢での周遊もあっという間に終わってしまった。東京へ帰る石田夫妻を見送って、我々も下りのホームへ。今度も 10 号車、しかも進行方向左側の窓側、車窓から山を眺めるには絶好の席だ。見えた山々を順に列挙してみよう。
軽井沢駅を出て佐久平駅 (通過 ) 付近からは八ヶ岳 (百名山)、上田駅付近からはなだらかな美ヶ原(百名山)が見える。上田駅から長野駅にかけては、遠く後立山連峰の蓮華岳(三百名山)、針ノ木岳(二百名山)、爺ヶ岳(三百名山)、鹿島槍ヶ岳(百名山)、五竜岳(百名山)、唐松岳(三百名山)が、近くには高妻山(百名山)の先鋒が白く輝いて見える。長野駅を過ぎると飯縄山(二百名山)が、飯山駅を過ぎ上越妙高駅付近に来ると、黒姫山(二百名山)、妙高山(百名山)、火打山(百名山)が、糸魚川駅付近からは雨飾山(百名山)や焼山(三百名山)、黒部宇奈月温泉駅付近からは白馬岳(百名山)や僧ヶ岳、富山駅から高岡駅の間からは、北から順に毛勝山(二百名山)、劔岳(百名山)、奥大日岳(二百名山)、立山(百名山)、鍬崎山(三百名山)、薬師岳(百名山)が連なって見える。そして終点の金沢駅近くからは医王山(三百名山)の双子峰が見え、こうして軽井沢への旅は終わった。
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