(承前)
1. 台湾のことば
台湾村田製作所での重要な会議はすべて日本語、したがって社員、とりわけ幹部社員は日本語を習得することが必須だった。このような状態だったので、社長である彼は台湾語(広義)をマスターする必要は全くなく、したがって彼は日常会話程度なら台湾語(広義)を話せるものの、長時間にわたる台湾語(広義)での講演などは全く無理だと言っていた。台湾が日本統治の頃は日本語での教育だったので,その頃に教育を受けた年配の人達は日本語を話せたようだが、今は特別な人でない限り話せないという。ところで台湾語(広義)の標記は漢字であるが、漢字の簡略化は全くされてなくて、日本でも古くは用いられていた旧漢字体がそのまま用いられているという。現在の日本では、常用漢字が2千字ばかり、JIS 漢字でも1万2千字ばかり、これに仮名を交えれば読み書きに全く支障を来さないが、台湾では仮名も漢字の簡略化も全くないことから、新聞を読むにしても少なくとも4万6千字位を覚えなければならず、学校での学童の識字の負担はとても日本の比ではないとか。これには恐れ入った。
〔注1〕上記の台湾語(広義)というのは台湾で話されている語という意味で、1949年に中国本土から蒋介石率いる北方方言を話す軍隊が入ってきて、それまでは台湾語(狭義)が主だったが、現在では北方方言(主に北京語)と台湾語(狭義)の話者の割合は3:1だそうである。
〔注2〕言語学的には台湾語(狭義)はミン語(ビン語とも)と言われ、古い中国語から2千年以前に分岐したとされ、現在は台湾のほか、中国では福建省沿岸、広東北東沿岸、海南島東部で使われている。また東南アジアに移住した上記地域の出身者も使用している。この言語は古い中国語の面影を残していると言われる。中国(中華人民共和国)には現在2百を超える言語があるなかで、中国語の北方方言であった北京語が現在の標準語であり、約7割の人々が使用している。一方揚子江以南には多数の方言が存在していて、中で代表的なのが広東語である。数詞の読み方を比較すると、広東語と北京語とでは全く共通点がないが、かえってミン語(狭義の台湾語)と似ているのには興味がある。
2. 中国での漢字の簡略化
中国では、中華人民共和国の成立と文化大革命を機にして、漢字の簡略化が進んだ。その方法は日本のそれとは全く異なる方式であって、簡略化された後の文字は、我々日本人が推測できる文字もあるが、大部分の略字は元の字が何か全く分からないものが多い。でもこの簡略化は中国本土以外には及んでいないという。ところで現在の中国での教育は、これら新しい文字を使っての教育であるため、新しい教育を受けた若者は古い旧字体を読めない。一方で、古い悠久の歴史を持つ中国についての知識は持っていなくて、歴史といえば、共産党一党独裁になって以降のことしか教育を受けていないと言ってよく、したがって極めて視野が狭い。日本に対する考え方も、中国侵攻をしたという悪者といった認識しか持っていないのも、中国の現行の教育の賜物としか言いようがない。
〔漢字表記に対する疑問〕中国語の表記は一部数字を除けば全て漢字表記である。ところで、夥しい数の地名や人名のほか、外国語の横文字表記を漢字表記に直すには何かルールがあるのだろうか。日本語には便利なカナ表記があるので、真に正確ではないにしろ表記することが可能な訳だが、漢字にも表音文字なるものがあれば問題はないが、どうなのだろう。中国語に翻訳する部署のようなものが存在するのだろうか。
3. 韓国でのハングル文字の功罪
韓国(大韓民国)や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で使われている言葉は、言語学的には朝鮮語であって、少なくとも 1446 年までは朝鮮語は漢字で書かれていた。ところがその後国王であった世宗がハングルを考案した。この文字は便利であって、中国からの借用語である漢字もハングル文字で表記することが可能である。日韓併合の 1910〜1945 年には用いられていなかったようだが、独立後は漢字表記はなくなり、ハングル文字表記になった。当然のことながら教育の現場での教科書はハングル文字表記であり、爾来 70 年余り経過した今日、この教育の成果として、今の韓国の大部分の人は漢字で書かれた文章を読めなくなってしまった。また学校の現場では、日韓併合時の弊害と独立後の躍進を重点的に教育していて、古い朝鮮半島の国の盛衰などには言及しないという。韓国もまた中国と同じく、現政権に都合のよい歴史観を教えているという。だから韓国で本当に自分の国の歴史を学びたいとすると、その時は日本へ来てしか叶えられないという。
現在日本の新聞には、韓国や北朝鮮の地名や人名を表記するには、漢字もしくはカナ表記か、漢字にカナをふる場合には朝鮮語発音のカナ表記が義務付けられている。ところで中国語での漢字表記の地名や人名の呼称は日本語読みでも OK なのだが、朝鮮語の場合はそうは行かない。以前は中国語(漢字のことを朝鮮語ではハンチャと呼ぶ)からの借用語をそのまま使用することが多かったが、今はすべて朝鮮語読みのハングル文字表記である。そして現在は英語からの借用語のハングル文字表記が氾濫しているという。いつか韓国の研究者から聞いたことであるが、韓国の官庁で役付きの人達は皆さん英語が堪能だという。日本では英語の有用性が叫ばれてはいるものの、こと英語で話すことに関しては、韓国に脱帽である。
会でのほんの一部の会話を紹介したが、よくぞ毎回延々とという感じである。テレビで大相撲の地元出身力士遠藤の取組みを見たいという人がいて、ようやく幕になった。
2014年1月23日木曜日
湧泉会での駄弁りのことども(1)
標記の湧泉会の母体は耳順会で、メンバーは同じである。そしてこの両会を主宰する幹事は、昨年から常時村田君がすることになった。こういう会の運営には、マメな御仁が当たることが大切で、その点彼はまことに適任である。メンバーはすべて泉丘高校7期の同期生である。
この村田君は台湾村田製作所の社長を長くしていて、台湾日本人会の会長もしていたこともある名士、平成14年 (2002) 秋に辞して金沢へ帰って来た。そこで彼を労おうと諸 (もろ) 君が音頭をとって集まったのが11名、彼を入れて12名で発足し、論語の「六十而耳順」から名を借り、「耳順会」とした。爾来昨年末まで、ほぼ3ヵ月に1回、幹事持ち回りで44回にわたって会を催してきた。現在の会員数は、その後2名の入会と3名の他界があり、11名である。
ところで村田君の提案で、昨年正月から、毎月第3木曜日の午前 11:30 にニューグランドホテルで会うことにしませんかという提案があった。月代わりに、日本・中華・イタリア料理の昼食をとりながら駄弁りませんかという。部屋は予め確保するが、特に出欠は取らずに、出席する人は 11:00 までにホテルのロビーへ集合してくれればよいとのこと。会の名称は「湧泉会」としたので、もし遅れてもホテルの案内板に部屋名が載っているとのこと。湧泉会の語源は、思うに校歌の一節の「この丘に涌き出づる泉」から採ったものだろう。
この湧泉会は月に1回開催されてきたが、私は都合もあって4回しか出席できなかったが、昼食をはさんで4時間は駄弁っているから驚きである。一方の耳順会は年に4回、これは夕方6時からの宴席で、こちらはお酒が入ることもあって、概ね3時間位。それに比して昼の湧泉会は実に延々としていて、女性の井戸端会議を優に凌いでいる。お替わり可能なコーヒーや紅茶を飲みながらの長談義、ホテルにとっては迷惑なのではと思うが、それは単に私がそう思っているだけなのかも知れない。
昨年暮れの耳順会は山代温泉であり、私は入院していて出席できなかったが、その会の席上、湧泉会は勿論、耳順会も持ち回りを止めて、村田君が全てを仕切ることになったと後で連絡を受けた。湧泉会は今年からは毎月第3土曜日に金沢ニューグランドホテルで、耳順会は3,6,9月は第1月曜日の午後6時から「魚半」で、12月は第1月曜日の午後3時から山代温泉の「ゆのくに天祥」でということになり、今後は12月の1泊の会以外は特に出欠は取らないことのしたとのことだった。
さて、今年第1回の湧泉会は1月18日、2F友禅での加賀料理、予約は和室で6名だったが参加は4名、会費は土日割引の 1,200 円ポッキリ、ここで食事を入れて2時間ばかり駄弁った後、頂いた喫茶券を持って M2F のテーブルに陣取って更に延々と2時間半、コーヒー,紅茶をお替わりしながらの駄弁り、周りを気にせず一向に動じないところが凄い。どんな話題があったのか、少し紹介してみようと思う。次にほんの一部だが、村田君の語った話題の一部を紹介してみようと思う。(続く)
この村田君は台湾村田製作所の社長を長くしていて、台湾日本人会の会長もしていたこともある名士、平成14年 (2002) 秋に辞して金沢へ帰って来た。そこで彼を労おうと諸 (もろ) 君が音頭をとって集まったのが11名、彼を入れて12名で発足し、論語の「六十而耳順」から名を借り、「耳順会」とした。爾来昨年末まで、ほぼ3ヵ月に1回、幹事持ち回りで44回にわたって会を催してきた。現在の会員数は、その後2名の入会と3名の他界があり、11名である。
ところで村田君の提案で、昨年正月から、毎月第3木曜日の午前 11:30 にニューグランドホテルで会うことにしませんかという提案があった。月代わりに、日本・中華・イタリア料理の昼食をとりながら駄弁りませんかという。部屋は予め確保するが、特に出欠は取らずに、出席する人は 11:00 までにホテルのロビーへ集合してくれればよいとのこと。会の名称は「湧泉会」としたので、もし遅れてもホテルの案内板に部屋名が載っているとのこと。湧泉会の語源は、思うに校歌の一節の「この丘に涌き出づる泉」から採ったものだろう。
この湧泉会は月に1回開催されてきたが、私は都合もあって4回しか出席できなかったが、昼食をはさんで4時間は駄弁っているから驚きである。一方の耳順会は年に4回、これは夕方6時からの宴席で、こちらはお酒が入ることもあって、概ね3時間位。それに比して昼の湧泉会は実に延々としていて、女性の井戸端会議を優に凌いでいる。お替わり可能なコーヒーや紅茶を飲みながらの長談義、ホテルにとっては迷惑なのではと思うが、それは単に私がそう思っているだけなのかも知れない。
昨年暮れの耳順会は山代温泉であり、私は入院していて出席できなかったが、その会の席上、湧泉会は勿論、耳順会も持ち回りを止めて、村田君が全てを仕切ることになったと後で連絡を受けた。湧泉会は今年からは毎月第3土曜日に金沢ニューグランドホテルで、耳順会は3,6,9月は第1月曜日の午後6時から「魚半」で、12月は第1月曜日の午後3時から山代温泉の「ゆのくに天祥」でということになり、今後は12月の1泊の会以外は特に出欠は取らないことのしたとのことだった。
さて、今年第1回の湧泉会は1月18日、2F友禅での加賀料理、予約は和室で6名だったが参加は4名、会費は土日割引の 1,200 円ポッキリ、ここで食事を入れて2時間ばかり駄弁った後、頂いた喫茶券を持って M2F のテーブルに陣取って更に延々と2時間半、コーヒー,紅茶をお替わりしながらの駄弁り、周りを気にせず一向に動じないところが凄い。どんな話題があったのか、少し紹介してみようと思う。次にほんの一部だが、村田君の語った話題の一部を紹介してみようと思う。(続く)
2013年12月23日月曜日
とある会の旅行にまつわることども(その7)
11. 翌日は松本へ、そして帰沢、私は病院へ
翌朝7時に、宿から推奨の、別棟になっている「かわらの湯」へ行く。母屋から歩いて3分ばかり、川原といっても、谷川からは少々離れている。露天風呂かと思いきや、積雪に耐える屋根がある立派な檜風呂、でも谷川のせせらぎが間近に見え、清々しい。かれこれ 30分はいたろうか。朝食は8時半、昨晩と同じ場所、出立は 10時と聞いた。本来なら朝食にお酒は付きものなのだが、運転手二人はともかく、私も夕方には病院へ戻らねばならなくて飲めず、ということもあってお酒好きのユキオさんも遠慮されてしまった。何か悪く申し訳なかった。
駐車場で、湯元長座の看板を背に写真を撮ってもらい、いざ出発。旅程は高島夫妻に一任、出たのは10時、下手から平湯バイパスに出て、安房トンネルを抜け,梓川沿いの国道 158号線 (野麦街道・飛騨街道) を松本へ、お天気は上々、松本平まで下りると、背後に真っ白な雪を纏った常念岳が見えてくる。安曇野のシンボルだ。昨晩は石田さん夫妻は高山から名古屋回りで帰京するとのことだったが、この期に及んで、松本から帰ることになった。特に何処へという当てもなく、取りあえずは松本城へと向かう。休日でしかも上天気とあって、駐車場はどこもかしこも満杯、しかし城の周囲を一巡してると、幸いにも松本市が臨時に設けた駐車場を見つけた。正に僥倖であった。小春日和の一日、ブラブラ歩きながら、松本城を大きく周回してから街へ。
時は昼時、松本は蕎麦どころ、城の周りにも沢山の蕎麦屋があるが、これまで十数回松本にそばを食べに来た経験からは,特に城の南側の蕎麦屋のそばは観光客目当てでよくない。誰かが松本らーめんをと言うが、さすがにそんな店は見当たらない。そしてやっと血眼になって見つけた店は休業していた。歩いて女鳥羽川を渡る。松本でそばのおいしい店は何軒か知っているが、それには更に南へと歩かねばならず、駐車場からはどんどん遠ざかることになる。すると本町通りに、古い漆喰の壁がある家の1階に、カレー屋が見つかった。「デリー」という。腹も減っていて、衆議一決、ゾロゾロと入る。私たちが入ると満席に、客が次から次へと、結構繁盛している店のようだ。私はビーフの辛め、ただし白飯は半分にしてもらった。久方ぶりのカレー、味も上々、満足だった。
店を出て女鳥羽川を対岸に渡り、なわて通りの繁華街を通り抜け、城の東側にある臨時駐車場に戻る。これで旅行の行事はすべて終わった。石田夫妻を松本駅まで送るが、市内は大変混雑して渋滞していた。駅へ着いて暫し語らい、また来年の再会を期して別れた。松本から東京へは1時間に1本は特急が出ているだろうから、もう帰ったも同然だ。
さて後は金沢へ帰るのみ、松本からだと安曇野を国道 147号線 (松本街道) で北上して大町へ、さらに国道 148号線 (糸魚川街道) を姫川沿いに更に北上して糸魚川に出て、北陸道でということになる。松本を出たのが午後2時、私に課せられた病院の門限は午後5時なのだが、これは無理な相談、それより何よりも安全運転が第一だ。
大町からは、左手に雪を纏った後立山連峰を見ながらの走行、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬三山などが展開する。道の駅白馬で小憩する。ここからはトンネルとスノーシェードの連続、運転には気が抜けない。しかも幹線道路とて交通量が多い。そして漸く糸魚川、ここから高速道に。有磯海 PA で休憩、早川夫妻とはここで別れた。マアちゃんはここでこちらの車に移る。
車はひたすら走る。私は本来なら上荒屋まで行き、家内の車で病院へと思っていたのだが、高島夫妻の好意で、直に金沢医科大病院へ送って貰うことに、感謝々々。病院へ着いたのは午後6時10分。車からの下りしな、高島夫妻と感謝をこめて握手、全快したら拙宅で「サーモンの会」を開くことを約束した。慌ただしかったものの、楽しかった「とある会」の旅行は終わった。
「閑話休題」
高島夫妻の娘のケイちゃんと幕内力士の遠藤とは、金沢市西南部中学での同級生だとさ。
翌朝7時に、宿から推奨の、別棟になっている「かわらの湯」へ行く。母屋から歩いて3分ばかり、川原といっても、谷川からは少々離れている。露天風呂かと思いきや、積雪に耐える屋根がある立派な檜風呂、でも谷川のせせらぎが間近に見え、清々しい。かれこれ 30分はいたろうか。朝食は8時半、昨晩と同じ場所、出立は 10時と聞いた。本来なら朝食にお酒は付きものなのだが、運転手二人はともかく、私も夕方には病院へ戻らねばならなくて飲めず、ということもあってお酒好きのユキオさんも遠慮されてしまった。何か悪く申し訳なかった。
駐車場で、湯元長座の看板を背に写真を撮ってもらい、いざ出発。旅程は高島夫妻に一任、出たのは10時、下手から平湯バイパスに出て、安房トンネルを抜け,梓川沿いの国道 158号線 (野麦街道・飛騨街道) を松本へ、お天気は上々、松本平まで下りると、背後に真っ白な雪を纏った常念岳が見えてくる。安曇野のシンボルだ。昨晩は石田さん夫妻は高山から名古屋回りで帰京するとのことだったが、この期に及んで、松本から帰ることになった。特に何処へという当てもなく、取りあえずは松本城へと向かう。休日でしかも上天気とあって、駐車場はどこもかしこも満杯、しかし城の周囲を一巡してると、幸いにも松本市が臨時に設けた駐車場を見つけた。正に僥倖であった。小春日和の一日、ブラブラ歩きながら、松本城を大きく周回してから街へ。
時は昼時、松本は蕎麦どころ、城の周りにも沢山の蕎麦屋があるが、これまで十数回松本にそばを食べに来た経験からは,特に城の南側の蕎麦屋のそばは観光客目当てでよくない。誰かが松本らーめんをと言うが、さすがにそんな店は見当たらない。そしてやっと血眼になって見つけた店は休業していた。歩いて女鳥羽川を渡る。松本でそばのおいしい店は何軒か知っているが、それには更に南へと歩かねばならず、駐車場からはどんどん遠ざかることになる。すると本町通りに、古い漆喰の壁がある家の1階に、カレー屋が見つかった。「デリー」という。腹も減っていて、衆議一決、ゾロゾロと入る。私たちが入ると満席に、客が次から次へと、結構繁盛している店のようだ。私はビーフの辛め、ただし白飯は半分にしてもらった。久方ぶりのカレー、味も上々、満足だった。
店を出て女鳥羽川を対岸に渡り、なわて通りの繁華街を通り抜け、城の東側にある臨時駐車場に戻る。これで旅行の行事はすべて終わった。石田夫妻を松本駅まで送るが、市内は大変混雑して渋滞していた。駅へ着いて暫し語らい、また来年の再会を期して別れた。松本から東京へは1時間に1本は特急が出ているだろうから、もう帰ったも同然だ。
さて後は金沢へ帰るのみ、松本からだと安曇野を国道 147号線 (松本街道) で北上して大町へ、さらに国道 148号線 (糸魚川街道) を姫川沿いに更に北上して糸魚川に出て、北陸道でということになる。松本を出たのが午後2時、私に課せられた病院の門限は午後5時なのだが、これは無理な相談、それより何よりも安全運転が第一だ。
大町からは、左手に雪を纏った後立山連峰を見ながらの走行、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬三山などが展開する。道の駅白馬で小憩する。ここからはトンネルとスノーシェードの連続、運転には気が抜けない。しかも幹線道路とて交通量が多い。そして漸く糸魚川、ここから高速道に。有磯海 PA で休憩、早川夫妻とはここで別れた。マアちゃんはここでこちらの車に移る。
車はひたすら走る。私は本来なら上荒屋まで行き、家内の車で病院へと思っていたのだが、高島夫妻の好意で、直に金沢医科大病院へ送って貰うことに、感謝々々。病院へ着いたのは午後6時10分。車からの下りしな、高島夫妻と感謝をこめて握手、全快したら拙宅で「サーモンの会」を開くことを約束した。慌ただしかったものの、楽しかった「とある会」の旅行は終わった。
「閑話休題」
高島夫妻の娘のケイちゃんと幕内力士の遠藤とは、金沢市西南部中学での同級生だとさ。
2013年12月22日日曜日
とある会の旅行にまつわることども(その6)
10. 夜中に疾風の如く現れた山姥の怪
寝ていて夜中に私は夢を見た。私はアマゾンのどこか奥深くに分け入っていて、場所はアマゾン河の上流、何となくエクアドルの国境に近い場所だと感じていた。そこで私は変わった鳥の啼き声を聞いた。その声は、ケ・ケ・ケ・ケ・ケと聞こえた。これはオオハシドリの啼き声に違いない。しかしそうこうしているうちに、その声は夢うつつの中での鳥の啼き声ではなく、どうもこの世のものらしくなった。目を覚ますと、その声は正に現実、声の主は隣の部屋からのようだった。そっと起きて、隣の部屋の戸を開けた。
戸を開けると、エイジとヒロシはまだ囲炉裏の縁に座っていた。時間は真夜中。そして囲炉裏の間とは一段高くなっている部屋の縁に腰掛けて、おレイさんとタカちゃん (家内) がいて、皆と何か喋ったり笑ったりしている。私が夢のなかで聞いた鳥の声と覚しき啼き声は、正しくおレイさんの笑い声だったのだったのである。女性軍は寝たはずだったのに、何故居るのだろう。しかしエイジとヒロシが発言したことで、その様相が判明し出した。
女性の皆さんと私が就寝のため部屋を出た後、エイジとヒロシとユキオさんはまだ囲炉裏の縁に座って飲んでいた。その後ユキオさんは温泉の湯へ、その時点で男姓の部屋の戸の鍵はかかっていなかった。残った二人が飲んでいると、突如入り口の戸が開き、疾風の如く、タカちゃんが髪を振り乱して、さながらやまんば (山姥) の如く突如現れ、部屋を横切り、クローゼットに突進、あれこれ物色した後、アッという間に、部屋から出て行ったという。この時戸口にはレイさんが立っていて、ニコッと笑みをたたえていたという。それはアッという間の出来事、部屋へ入るや2歩程でクローゼットに達し、入って出て行くまでも数秒という早業、あっけにとられて、声も出せなかったという。二人の表現によると、その行動はさながらムササビが部屋に飛び込んできて、アッという間にまた出ていったという表現だった。二人には一体何が起きたのか、全く分からなかったという。一瞬の出来事。ユキオさんが部屋に戻ってきたので一部始終を話し、これは一体何事だったのか、説明してもらわねばと話し、ユキオさんが全権大使となって、向かいの女性の部屋へ行き、これは一体何事だったのか、説明してほしいと頼んだ。それでおレイさんとタカちゃんが釈明に現れたのだった。
この説明の折、時折間の手に出たおレイさんの高笑いの声が、さながらアマゾンの奥地に棲むオオハシドリの声に似ていて、それで私は夢のアマゾンから現実の世界に引き戻され、皆さんの輪の中に加わった次第。家内の説明では、夜に寒くなって下着を重ね着しようと思ったが見つからず、てっきり部屋が替わった際に、前のクローゼットに置き忘れたと思い、これはどうしても奪取しなければと思っての暴挙だったという。家内は元は陸上とバドミントンの選手、その昔とった杵柄の力を、一瞬のうちに遺憾なく発揮して起きた出来事だった。ようやく話しに決着がついて、先ずは大団円。それでそのお尋ねの下着は、翌朝、見つかったとのことだった。
寝ていて夜中に私は夢を見た。私はアマゾンのどこか奥深くに分け入っていて、場所はアマゾン河の上流、何となくエクアドルの国境に近い場所だと感じていた。そこで私は変わった鳥の啼き声を聞いた。その声は、ケ・ケ・ケ・ケ・ケと聞こえた。これはオオハシドリの啼き声に違いない。しかしそうこうしているうちに、その声は夢うつつの中での鳥の啼き声ではなく、どうもこの世のものらしくなった。目を覚ますと、その声は正に現実、声の主は隣の部屋からのようだった。そっと起きて、隣の部屋の戸を開けた。
戸を開けると、エイジとヒロシはまだ囲炉裏の縁に座っていた。時間は真夜中。そして囲炉裏の間とは一段高くなっている部屋の縁に腰掛けて、おレイさんとタカちゃん (家内) がいて、皆と何か喋ったり笑ったりしている。私が夢のなかで聞いた鳥の声と覚しき啼き声は、正しくおレイさんの笑い声だったのだったのである。女性軍は寝たはずだったのに、何故居るのだろう。しかしエイジとヒロシが発言したことで、その様相が判明し出した。
女性の皆さんと私が就寝のため部屋を出た後、エイジとヒロシとユキオさんはまだ囲炉裏の縁に座って飲んでいた。その後ユキオさんは温泉の湯へ、その時点で男姓の部屋の戸の鍵はかかっていなかった。残った二人が飲んでいると、突如入り口の戸が開き、疾風の如く、タカちゃんが髪を振り乱して、さながらやまんば (山姥) の如く突如現れ、部屋を横切り、クローゼットに突進、あれこれ物色した後、アッという間に、部屋から出て行ったという。この時戸口にはレイさんが立っていて、ニコッと笑みをたたえていたという。それはアッという間の出来事、部屋へ入るや2歩程でクローゼットに達し、入って出て行くまでも数秒という早業、あっけにとられて、声も出せなかったという。二人の表現によると、その行動はさながらムササビが部屋に飛び込んできて、アッという間にまた出ていったという表現だった。二人には一体何が起きたのか、全く分からなかったという。一瞬の出来事。ユキオさんが部屋に戻ってきたので一部始終を話し、これは一体何事だったのか、説明してもらわねばと話し、ユキオさんが全権大使となって、向かいの女性の部屋へ行き、これは一体何事だったのか、説明してほしいと頼んだ。それでおレイさんとタカちゃんが釈明に現れたのだった。
この説明の折、時折間の手に出たおレイさんの高笑いの声が、さながらアマゾンの奥地に棲むオオハシドリの声に似ていて、それで私は夢のアマゾンから現実の世界に引き戻され、皆さんの輪の中に加わった次第。家内の説明では、夜に寒くなって下着を重ね着しようと思ったが見つからず、てっきり部屋が替わった際に、前のクローゼットに置き忘れたと思い、これはどうしても奪取しなければと思っての暴挙だったという。家内は元は陸上とバドミントンの選手、その昔とった杵柄の力を、一瞬のうちに遺憾なく発揮して起きた出来事だった。ようやく話しに決着がついて、先ずは大団円。それでそのお尋ねの下着は、翌朝、見つかったとのことだった。
2013年12月21日土曜日
とある会の旅行にまつわることども(その5)
9. 囲炉裏の間で、奥飛騨の田舎料理を盛り込んだ「ごっつぉ」を味わう
大きな部屋に、テーブル式の囲炉裏が2基並んでいて、1テーブルに8人が座れる。足は下へ下ろせる。ところで我々一行は9人、8人ならば1テーブルに座れるのだが、生憎と9人、それで宿の計らいで,女5人と男4人に分断された。これは残念。囲炉裏には火が熾っていて、岩魚と五平餅が串に刺されていて、ほぼ焼き上がっている。料理の数は多い。「おしながき」は次のようだった。
食前酒は、大女将手作りの果実酒。先付けは、山里の珍味盛りと銀杏餅の揚げ出しの二種。前菜は、季節の田舎料理。お造りは、河ふぐの重ね造りとあしらい一式。焼き物は、岩魚の塩焼き、飛騨牛の串焼きと五平餅。台の物は、飛騨牛と野菜色々の鉄板焼き。炊き合わせは、きのこ鍋。揚げ物は、野菜のかき揚げ。御飯は、五目御飯。香の物は、飛騨の漬物。水菓子は、アップルパイクリーム添え。
お酒は、女性は清酒とビール、男性は焼酎、私が選んで芋焼酎の「蜜酒の杯」にする。それで飲むスタイルは、エイジはストレートと癒しの水、ユキオさんはお湯割り、ヒロシさんは水割り、私はオンザロック、全く四人四様である。談笑しながら、焼酎を飲みながら、料理も摘む。串に刺されている岩魚は7寸はあろうかという大物、私は頭が硬くて、骨を吐き出したが、全部すっかり食べた人もいて、目を見張った。熱い骨酒にしたら美味しいだろうと思う。五平餅も平生なら食べないのに、何故か抵抗なく食べてしまった。
串焼きに飛騨牛がないと思いきや、程なく串に薄切りにした肉を巻き付けたのが現れた。火に翳して万遍なく適度に回して焼き上げて下さいと。私たちは忠告に従って忠実に焼いているのに、女性軍はと見ていると、我慢できないのか、そこそこに焙ったところで、かぶりついたようだ。きっとその方がレアで美味しいに決まってはいようが、男性群は実に律儀だ。焼き上がった頃に家内が来て、「あなたはこれを食べると食べ過ぎになるから」と、飛騨牛の串を取り上げていった。でも悔悟の念はなく、欲しければ呉れてやろうという寛大な気持ちになったから不思議だ。しかしその後、鉄板焼きで飛騨牛のコロ数個と野菜が出て、私も飛騨牛のお相伴にありつけた。
ところで皆さんはほとんど刺し身の「河ふぐ」を残されていたが、今から思えば、鉄板の上で焼く手があったなあと思う。河ふぐとは鯰のこと、昔は川で捕まえて、虫がいるので生では食べずに、炊いて煮付けて食べたものだ。白い身で、こりこりとした食感で美味しかったことを覚えているが、生で食べたのは全く初めてだ。きっとどこかで養殖しているのだろう。でないと生では食せない。私は刺し身をすべて食べたが、味は淡白、柔らかくて、癖はないものの、そんなに旨いとは言えない代物、話の種だ。
料理の量が多く、そのほとんどを平らげたが、お終い近く、茸が数種入った大鍋が出た。この辺りになると、焼酎はまだ飲めたものの、食べる方はお腹が一杯で一寸一服、当然のことながら、美味しく炊けた五目五版も、一摘み賞味したに止まった。それにしても、4人居たとはいえ、焼酎の 720ml の瓶を2本大方空けたというのには驚いた。私はそんなに飲まなかったような気がするのだが。
こうして夕食は終わった。食事では男性と女性が別々であったこともあって、皆さん部屋へ引き取る前に、皆で男性の部屋で炬燵に入って談笑しようということになった。蜜柑を食べながら、また残った焼酎を飲みながら、他愛もない会話をしながら、時間を過ごした。午後9時頃だったろうか、散会する。私も眠たくなって床に入る。残り3人は囲炉裏に陣取って、焼酎を飲みながら……。
大きな部屋に、テーブル式の囲炉裏が2基並んでいて、1テーブルに8人が座れる。足は下へ下ろせる。ところで我々一行は9人、8人ならば1テーブルに座れるのだが、生憎と9人、それで宿の計らいで,女5人と男4人に分断された。これは残念。囲炉裏には火が熾っていて、岩魚と五平餅が串に刺されていて、ほぼ焼き上がっている。料理の数は多い。「おしながき」は次のようだった。
食前酒は、大女将手作りの果実酒。先付けは、山里の珍味盛りと銀杏餅の揚げ出しの二種。前菜は、季節の田舎料理。お造りは、河ふぐの重ね造りとあしらい一式。焼き物は、岩魚の塩焼き、飛騨牛の串焼きと五平餅。台の物は、飛騨牛と野菜色々の鉄板焼き。炊き合わせは、きのこ鍋。揚げ物は、野菜のかき揚げ。御飯は、五目御飯。香の物は、飛騨の漬物。水菓子は、アップルパイクリーム添え。
お酒は、女性は清酒とビール、男性は焼酎、私が選んで芋焼酎の「蜜酒の杯」にする。それで飲むスタイルは、エイジはストレートと癒しの水、ユキオさんはお湯割り、ヒロシさんは水割り、私はオンザロック、全く四人四様である。談笑しながら、焼酎を飲みながら、料理も摘む。串に刺されている岩魚は7寸はあろうかという大物、私は頭が硬くて、骨を吐き出したが、全部すっかり食べた人もいて、目を見張った。熱い骨酒にしたら美味しいだろうと思う。五平餅も平生なら食べないのに、何故か抵抗なく食べてしまった。
串焼きに飛騨牛がないと思いきや、程なく串に薄切りにした肉を巻き付けたのが現れた。火に翳して万遍なく適度に回して焼き上げて下さいと。私たちは忠告に従って忠実に焼いているのに、女性軍はと見ていると、我慢できないのか、そこそこに焙ったところで、かぶりついたようだ。きっとその方がレアで美味しいに決まってはいようが、男性群は実に律儀だ。焼き上がった頃に家内が来て、「あなたはこれを食べると食べ過ぎになるから」と、飛騨牛の串を取り上げていった。でも悔悟の念はなく、欲しければ呉れてやろうという寛大な気持ちになったから不思議だ。しかしその後、鉄板焼きで飛騨牛のコロ数個と野菜が出て、私も飛騨牛のお相伴にありつけた。
ところで皆さんはほとんど刺し身の「河ふぐ」を残されていたが、今から思えば、鉄板の上で焼く手があったなあと思う。河ふぐとは鯰のこと、昔は川で捕まえて、虫がいるので生では食べずに、炊いて煮付けて食べたものだ。白い身で、こりこりとした食感で美味しかったことを覚えているが、生で食べたのは全く初めてだ。きっとどこかで養殖しているのだろう。でないと生では食せない。私は刺し身をすべて食べたが、味は淡白、柔らかくて、癖はないものの、そんなに旨いとは言えない代物、話の種だ。
料理の量が多く、そのほとんどを平らげたが、お終い近く、茸が数種入った大鍋が出た。この辺りになると、焼酎はまだ飲めたものの、食べる方はお腹が一杯で一寸一服、当然のことながら、美味しく炊けた五目五版も、一摘み賞味したに止まった。それにしても、4人居たとはいえ、焼酎の 720ml の瓶を2本大方空けたというのには驚いた。私はそんなに飲まなかったような気がするのだが。
こうして夕食は終わった。食事では男性と女性が別々であったこともあって、皆さん部屋へ引き取る前に、皆で男性の部屋で炬燵に入って談笑しようということになった。蜜柑を食べながら、また残った焼酎を飲みながら、他愛もない会話をしながら、時間を過ごした。午後9時頃だったろうか、散会する。私も眠たくなって床に入る。残り3人は囲炉裏に陣取って、焼酎を飲みながら……。
とある会の旅行にまつわることども(その4)
7. 今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ
これで昼間の行事は終わり、今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ向かう。国道 158 号線は、山間の S 字状のカーブを何回も回りながら標高を上げる。以前朴の木平スキー場へ来ていた頃は、平湯温泉から平湯峠 (1684m) を越えて行ったものだが、今は峠の下に平湯トンネルが出来て、簡単に平湯温泉へ抜けられる。それでも標高は 1500m はあろうか。トンネルを抜けて下りになり、福地温泉へは平湯温泉へは行かずに、平湯バイパス (国道 471 号線) を通って行く。今宵の宿の湯元長座は、南北に長く点在する温泉宿の一番下手の北側に位置する。車は南側の上手から入った。福地温泉は標高 1000m にある12 軒のこじんまりした温泉、道を北上し湯元長座に着いた。広い駐車場に車を停め、屋根付きの通路を辿って母屋へ、この温泉では最も大きいという。建物は築 130 年の飛騨造りと呼ばれる庄屋屋敷を移築したものとか、豪壮で重厚な感じがする。聞けばこの温泉の建物は、ほとんど古民家を解体移築したものだという。入ると大きな囲炉裏があり、熊や羚羊の毛皮が敷きつめられ、囲炉裏には薪が焼べられている。黒光りした太い梁や柱や鴨居、時間が百年タイムスリップしたようだ。暫しロビーで寛ぐ。ここは日本秘湯を守る会の会員宿でもある。
3階の部屋へ案内される。女性5人、男性4人、2部屋があてがわれる。それで指定された通りの部屋で旅装を解いて、浴衣に着替えた段階で、男性の部屋が大きく、女性の部屋が小さいのに気付く。さらに決定的になったのは、男性の部屋には大きな鏡台があるのに、女性の部屋には姿見もないことが判明、そこで総入替え、着替えていたから、一切合切持っての相互の大移動、大変だった.忘れ物はないか、確認だけでも大変だが、この際慌てての未確認があって、後でとんでもないハプニングが起きることになる。
漸く一段落して、一旦は一件落着。こんな大移動は初体験だ。暫し休憩してから風呂へ。この湯元長座の泉質は単純温泉 (源泉温度 46 ℃) とナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉 (源泉温度 90℃) で、湯量は合わせて毎分 550 ℓ、加温・加水はなく、源泉かけ流しである。内湯も良かったが、それに続く露天風呂は更に素晴らしく、木々に囲まれて広くてゆったりした感じだ。湯は柔らかく、湯温も程々の熱さ、お湯は滔々と流れていて、これぞ本当の温泉という感じ、ゆっくりと温まった。
8. 湯上がりにビールを飲みながら、テレビで大相撲中継を観戦する
湯から上がって、男性3人は当然といえば当然、湯上がりのビール、部屋からフロントへ電話すると、部屋まで持ってきて貰えるとのことで、早速注文。生大はないとかで、生中を3杯、ほどなく届く。でも私は食前にインシュリンの注射をしなければならず、これまで一度も自分一人でしたことがなかったので、家内に介添えを頼んであり、その時間が5時 30分、私はそれまで待つことに。私は取りあえず「皆さんどうぞ私に遠慮なさらずに」と言ったが、もとより外交辞令、それで遠慮する面々ではない。そして 17:30、家内に手伝ってもらい、インシュリン 16 uを腹部へ注射、これで OK。時間が過ぎたこともあり、私は遠慮して生中でなく生小にして、囲炉裏縁の皆の輪に入った。
折しもテレビは丁度大相撲14日目の結び前、大関稀勢の里と横綱白鵬との大一番、稀勢の里は昨日は横綱日馬富士を破って2敗のまま、今日は二人目の横綱白鵬との取組み、見ていると二人は蹲踞に入らずに立っての睨み合いが二度も続いた。こんな状況は久しく見たことがない。もちろん今場所でも初めてのことじゃなかろうか。皆はビールを飲むのも忘れ、テレビに食い入るように見ている。行司の軍配が返った。稀勢の里は素早く右上手を取り、寄る。白鵬は後手に回る。両者土俵際で投げの打ち合いとなるが、稀勢の里の上手投げが白鵬の下手投げに勝り、稀勢の里が勝ちを制した。4人とも興奮し、大歓声と大拍手。互いに肩を叩き合い、ジョッキでゴツンと乾杯、こんな光景は初めてだ。これは我々日本人が日本人横綱の出現を待望していることの証だ。ひとしきりの興奮の後、今度は日馬富士に今日と明日は勝ってほしいと願う。結びは日馬富士が大関鶴竜に勝った。そして千秋楽の横綱決戦では、日馬富士が白鵬を破ってほしいというのが4人の総意、これまでこんなに興奮したことがあろうか。ビールを飲み干したところで、夕食の案内。2階の囲炉裏の間に下りる。
これで昼間の行事は終わり、今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ向かう。国道 158 号線は、山間の S 字状のカーブを何回も回りながら標高を上げる。以前朴の木平スキー場へ来ていた頃は、平湯温泉から平湯峠 (1684m) を越えて行ったものだが、今は峠の下に平湯トンネルが出来て、簡単に平湯温泉へ抜けられる。それでも標高は 1500m はあろうか。トンネルを抜けて下りになり、福地温泉へは平湯温泉へは行かずに、平湯バイパス (国道 471 号線) を通って行く。今宵の宿の湯元長座は、南北に長く点在する温泉宿の一番下手の北側に位置する。車は南側の上手から入った。福地温泉は標高 1000m にある12 軒のこじんまりした温泉、道を北上し湯元長座に着いた。広い駐車場に車を停め、屋根付きの通路を辿って母屋へ、この温泉では最も大きいという。建物は築 130 年の飛騨造りと呼ばれる庄屋屋敷を移築したものとか、豪壮で重厚な感じがする。聞けばこの温泉の建物は、ほとんど古民家を解体移築したものだという。入ると大きな囲炉裏があり、熊や羚羊の毛皮が敷きつめられ、囲炉裏には薪が焼べられている。黒光りした太い梁や柱や鴨居、時間が百年タイムスリップしたようだ。暫しロビーで寛ぐ。ここは日本秘湯を守る会の会員宿でもある。
3階の部屋へ案内される。女性5人、男性4人、2部屋があてがわれる。それで指定された通りの部屋で旅装を解いて、浴衣に着替えた段階で、男性の部屋が大きく、女性の部屋が小さいのに気付く。さらに決定的になったのは、男性の部屋には大きな鏡台があるのに、女性の部屋には姿見もないことが判明、そこで総入替え、着替えていたから、一切合切持っての相互の大移動、大変だった.忘れ物はないか、確認だけでも大変だが、この際慌てての未確認があって、後でとんでもないハプニングが起きることになる。
漸く一段落して、一旦は一件落着。こんな大移動は初体験だ。暫し休憩してから風呂へ。この湯元長座の泉質は単純温泉 (源泉温度 46 ℃) とナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉 (源泉温度 90℃) で、湯量は合わせて毎分 550 ℓ、加温・加水はなく、源泉かけ流しである。内湯も良かったが、それに続く露天風呂は更に素晴らしく、木々に囲まれて広くてゆったりした感じだ。湯は柔らかく、湯温も程々の熱さ、お湯は滔々と流れていて、これぞ本当の温泉という感じ、ゆっくりと温まった。
8. 湯上がりにビールを飲みながら、テレビで大相撲中継を観戦する
湯から上がって、男性3人は当然といえば当然、湯上がりのビール、部屋からフロントへ電話すると、部屋まで持ってきて貰えるとのことで、早速注文。生大はないとかで、生中を3杯、ほどなく届く。でも私は食前にインシュリンの注射をしなければならず、これまで一度も自分一人でしたことがなかったので、家内に介添えを頼んであり、その時間が5時 30分、私はそれまで待つことに。私は取りあえず「皆さんどうぞ私に遠慮なさらずに」と言ったが、もとより外交辞令、それで遠慮する面々ではない。そして 17:30、家内に手伝ってもらい、インシュリン 16 uを腹部へ注射、これで OK。時間が過ぎたこともあり、私は遠慮して生中でなく生小にして、囲炉裏縁の皆の輪に入った。
折しもテレビは丁度大相撲14日目の結び前、大関稀勢の里と横綱白鵬との大一番、稀勢の里は昨日は横綱日馬富士を破って2敗のまま、今日は二人目の横綱白鵬との取組み、見ていると二人は蹲踞に入らずに立っての睨み合いが二度も続いた。こんな状況は久しく見たことがない。もちろん今場所でも初めてのことじゃなかろうか。皆はビールを飲むのも忘れ、テレビに食い入るように見ている。行司の軍配が返った。稀勢の里は素早く右上手を取り、寄る。白鵬は後手に回る。両者土俵際で投げの打ち合いとなるが、稀勢の里の上手投げが白鵬の下手投げに勝り、稀勢の里が勝ちを制した。4人とも興奮し、大歓声と大拍手。互いに肩を叩き合い、ジョッキでゴツンと乾杯、こんな光景は初めてだ。これは我々日本人が日本人横綱の出現を待望していることの証だ。ひとしきりの興奮の後、今度は日馬富士に今日と明日は勝ってほしいと願う。結びは日馬富士が大関鶴竜に勝った。そして千秋楽の横綱決戦では、日馬富士が白鵬を破ってほしいというのが4人の総意、これまでこんなに興奮したことがあろうか。ビールを飲み干したところで、夕食の案内。2階の囲炉裏の間に下りる。
2013年12月18日水曜日
とある会の旅行にまつわることども(その3)
5. 飛騨への旅は先ずは高山へ
目指すは奥飛騨温泉郷の福地温泉、往きは高山経由、北陸・東海北陸と高速自動車道を継いで、清瀬ICからは中部縦貫自動車道へ、高山市街を下に見下ろす高台からは、真っ白な乗鞍岳が見える。国道41号線から高山の古い町並みへ、街中の駐車場はどこも満車、それで高山別院の駐車場へ行くよう勧める。ここは半日 800円、私たちはいつもここを利用している。古い街並も近く、都合が良い。さて街へ、そぞろ歩く。金沢とは一味違った古い雰囲気、時間は昼時、皆さんの第一希望は「高山らーめん」、私たちはいつも蕎麦だが、若い人達は食の趣向が違う。ここは若い人達に任せよう。とは言っても繁華街を外れた古い街並に入り込んでしまうと、中々らーめん屋は見つからない。ブラブラ歩いて、街外れの高山本陣にまで来てしまった。
でもこの時運よく「中華そば」の看板が目に入った。でも「高山らーめん」とは書いてない。幹事のエイちゃんが駆け入って OK のサイン、9人がゾロゾロと入る。石田夫妻と私たちは同じ小テーブルに、これは正に予定の行動、というのも先ずはお酒を一献の魂胆があるからである。他の皆さんはカウンターに陣取る。これで店はほぼ一杯。高島と早川の旦那は運転手なのでお酒はご法度だ。お酒は「蓬萊」、飛騨古川の酒、時々飲むが癖のない美味しいお酒、1合 500円、1合半 700円、迷わず割安の1合半にする。そして遠来の石田の旦那の好みに合わせて熱燗とする。この熱燗、マアちゃんに試飲してもらったところ、余りにもあっさりしていて、お酒らしくないと言う。さすが酒豪である。そしておレイさんも家内も同感とか。このお酒、私は爽やかだと思ったが、女性軍は飲んべえということになろうか。ややあって中華そばが出た。中華麺はやや細めの縮れ麺、家内は私に汁は飲まないようにと御託宣、麺も多かったら私に頂戴と、お酒を飲みながらのらーめん、私には娑婆では初めてのことだ。でお酒も麺もなくなった。この中華そば、こだわりの手打ちなのだろうか、硬めの細麺は、まずまず旨かった。
半兵衛なるその店を出て、高山本陣前にある南洋輸入のアクセサリーを扱っている家内推奨の店に入る。この前来た時もアレコレ物色、女性軍は皆さん満足そう。来れなかったバア子ちゃんにも何か買い物をしたようだった。でも男性群には縁のない店だ。店を出て、ブラブラと街並を歩き、駐車場へと戻る。途中に真っ赤な楓があり、実に印象的だった。今頃京都は紅葉・黄葉がきっと見事だろう。
6. 高山から平湯の飛騨大鍾乳洞へ向かう
次に平湯にある大鍾乳洞へ、この前には郡上八幡の大滝鍾乳洞へ寄ったが、規模は小さく今一だった。これから訪れる鍾乳洞は「大」が付いているから、そこそこの大きさなのだろう。国道158号線を東へ、案内の看板に従って山へ入る。かなり車で標高をかせぐと、突然開けた場所に出た。標高は900m、郡上よりは広場の規模はもっと広く、建物も大きく、数も多く、沢山の観光客が訪れている。鍾乳洞へ入るばかりではなく、釣やバーベキューを楽しんでいる人も多くいる。階段を上ってゲートへ、足元も綺麗に整備されていて、その比は郡上八幡をはるかに超える。鍾乳洞の入口には、「出口には第一、第二、最終の第三があり、足に自信のない人は、第一もしくは第二出口から出るように」との指示がある。パンフレットを見ると、特に第二出口から第三出口にかけての第三洞にはかなりの登りがあるようだ。私はここ2週間ばかりは全く歩いていないので気掛かりだ。
この鍾乳洞は昭和40年に発見されたとか、後発だからか、洞内の歩道は広くてきれいに舗装されていて感じが良い。順に洞内へ、私は3番目、2番目の家内の後について歩く。情けないがこの方が安全だ。第一洞では「竜宮の夜景」がスポット、ライトアップされている。洞内は歩きやすい。ずっと上りが続く。第一出口を過ぎて第二洞へ、階段が所々に現れるようになる。ここのスポットは「ナイアガラの滝」、これはフローストーン、流れる石のような鍾乳石、「幸福の滝」という水が流れる滝もある。ここを過ぎた辺りから通路は狭くて急な上り下りの連続となる。そして第二出口。そして看板には、「これより急な階段が百段続きます。自信のない人は第二出口から出て下さい。」とある。皆さんは私を気遣って、どうしますかと尋ねる。でも男晋亮、ここで出るわけには行かず、GOと宣言する。
第三洞はのっけから急な鉄の階段、息が切れそうだ。短い休みを取りながら、手すりに手をかけながら、家内と離れないように歩を運ぶ。この洞のスポットは「月の世界」、ここは洞穴珊瑚で成り立ち、太古の昔、ここは海の底だったという。そして漸く最後の第三出口が見えた。通路の総延長は 800mばかり、ゆっくりの鑑賞で1時間弱要した。
心配だったが、どうやら達成できた。第三出口を出ると、そこは山の中腹、ここから下へ下へと長い長い階段が洞穴の入り口まで続いている。入り口まで高度差 70-80mはあろうか。これだけ洞穴の中を登ったことになる。この下山の通路、屋根も囲いもあり、手すりも付けられていて、私にとって手すりは有り難かった。漸くの思いで入り口へ、以前なら何ということのない山の下り道、私も衰えたものだ。下りて、差し渡しが5mはあろうかと思われる大鍋をバックに記念写真を撮った。
目指すは奥飛騨温泉郷の福地温泉、往きは高山経由、北陸・東海北陸と高速自動車道を継いで、清瀬ICからは中部縦貫自動車道へ、高山市街を下に見下ろす高台からは、真っ白な乗鞍岳が見える。国道41号線から高山の古い町並みへ、街中の駐車場はどこも満車、それで高山別院の駐車場へ行くよう勧める。ここは半日 800円、私たちはいつもここを利用している。古い街並も近く、都合が良い。さて街へ、そぞろ歩く。金沢とは一味違った古い雰囲気、時間は昼時、皆さんの第一希望は「高山らーめん」、私たちはいつも蕎麦だが、若い人達は食の趣向が違う。ここは若い人達に任せよう。とは言っても繁華街を外れた古い街並に入り込んでしまうと、中々らーめん屋は見つからない。ブラブラ歩いて、街外れの高山本陣にまで来てしまった。
でもこの時運よく「中華そば」の看板が目に入った。でも「高山らーめん」とは書いてない。幹事のエイちゃんが駆け入って OK のサイン、9人がゾロゾロと入る。石田夫妻と私たちは同じ小テーブルに、これは正に予定の行動、というのも先ずはお酒を一献の魂胆があるからである。他の皆さんはカウンターに陣取る。これで店はほぼ一杯。高島と早川の旦那は運転手なのでお酒はご法度だ。お酒は「蓬萊」、飛騨古川の酒、時々飲むが癖のない美味しいお酒、1合 500円、1合半 700円、迷わず割安の1合半にする。そして遠来の石田の旦那の好みに合わせて熱燗とする。この熱燗、マアちゃんに試飲してもらったところ、余りにもあっさりしていて、お酒らしくないと言う。さすが酒豪である。そしておレイさんも家内も同感とか。このお酒、私は爽やかだと思ったが、女性軍は飲んべえということになろうか。ややあって中華そばが出た。中華麺はやや細めの縮れ麺、家内は私に汁は飲まないようにと御託宣、麺も多かったら私に頂戴と、お酒を飲みながらのらーめん、私には娑婆では初めてのことだ。でお酒も麺もなくなった。この中華そば、こだわりの手打ちなのだろうか、硬めの細麺は、まずまず旨かった。
半兵衛なるその店を出て、高山本陣前にある南洋輸入のアクセサリーを扱っている家内推奨の店に入る。この前来た時もアレコレ物色、女性軍は皆さん満足そう。来れなかったバア子ちゃんにも何か買い物をしたようだった。でも男性群には縁のない店だ。店を出て、ブラブラと街並を歩き、駐車場へと戻る。途中に真っ赤な楓があり、実に印象的だった。今頃京都は紅葉・黄葉がきっと見事だろう。
6. 高山から平湯の飛騨大鍾乳洞へ向かう
次に平湯にある大鍾乳洞へ、この前には郡上八幡の大滝鍾乳洞へ寄ったが、規模は小さく今一だった。これから訪れる鍾乳洞は「大」が付いているから、そこそこの大きさなのだろう。国道158号線を東へ、案内の看板に従って山へ入る。かなり車で標高をかせぐと、突然開けた場所に出た。標高は900m、郡上よりは広場の規模はもっと広く、建物も大きく、数も多く、沢山の観光客が訪れている。鍾乳洞へ入るばかりではなく、釣やバーベキューを楽しんでいる人も多くいる。階段を上ってゲートへ、足元も綺麗に整備されていて、その比は郡上八幡をはるかに超える。鍾乳洞の入口には、「出口には第一、第二、最終の第三があり、足に自信のない人は、第一もしくは第二出口から出るように」との指示がある。パンフレットを見ると、特に第二出口から第三出口にかけての第三洞にはかなりの登りがあるようだ。私はここ2週間ばかりは全く歩いていないので気掛かりだ。
この鍾乳洞は昭和40年に発見されたとか、後発だからか、洞内の歩道は広くてきれいに舗装されていて感じが良い。順に洞内へ、私は3番目、2番目の家内の後について歩く。情けないがこの方が安全だ。第一洞では「竜宮の夜景」がスポット、ライトアップされている。洞内は歩きやすい。ずっと上りが続く。第一出口を過ぎて第二洞へ、階段が所々に現れるようになる。ここのスポットは「ナイアガラの滝」、これはフローストーン、流れる石のような鍾乳石、「幸福の滝」という水が流れる滝もある。ここを過ぎた辺りから通路は狭くて急な上り下りの連続となる。そして第二出口。そして看板には、「これより急な階段が百段続きます。自信のない人は第二出口から出て下さい。」とある。皆さんは私を気遣って、どうしますかと尋ねる。でも男晋亮、ここで出るわけには行かず、GOと宣言する。
第三洞はのっけから急な鉄の階段、息が切れそうだ。短い休みを取りながら、手すりに手をかけながら、家内と離れないように歩を運ぶ。この洞のスポットは「月の世界」、ここは洞穴珊瑚で成り立ち、太古の昔、ここは海の底だったという。そして漸く最後の第三出口が見えた。通路の総延長は 800mばかり、ゆっくりの鑑賞で1時間弱要した。
心配だったが、どうやら達成できた。第三出口を出ると、そこは山の中腹、ここから下へ下へと長い長い階段が洞穴の入り口まで続いている。入り口まで高度差 70-80mはあろうか。これだけ洞穴の中を登ったことになる。この下山の通路、屋根も囲いもあり、手すりも付けられていて、私にとって手すりは有り難かった。漸くの思いで入り口へ、以前なら何ということのない山の下り道、私も衰えたものだ。下りて、差し渡しが5mはあろうかと思われる大鍋をバックに記念写真を撮った。
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