2009年10月31日土曜日

東北の秘湯:東北探蕎の宿

 平成21年秋の探蕎は8月に開いた世話人会で東北ということに決まった。日にちは10月23〜25日、金土日の3日間、しかし立ち寄るそば処をどこにするかは、探蕎会一のそば処通の久保副会長にお任せということになった。宿の第一候補は久保さんからの希望で姥湯温泉が、誰も異存はなくすんなりと。もう一つの宿を何処にするか、私としては尾瀬の北に位置する檜枝岐を希望した。尾瀬には過去3回入っているが、北へ沼山峠を越えて檜枝岐へ入ったことはないし、「そば」でいえば、この地は「裁ちそば」の地、無理を通したわけではないが、檜枝岐も一夜の宿に決まった.ところで交渉は前田事務局長の役目?と決まっているわけではないが、尽力して頂いた。ところが姥湯温泉「桝形屋」は満室で断念せざるを得なくなり、代わって新高湯温泉「吾妻屋旅館」に、また檜枝岐温泉は「旅館ひのえまた」ということに、いずれの温泉も初めてながら宿も初見、「そば」もさることながら、「やど」も「ゆ」も楽しみだ。

新高湯温泉「吾妻屋旅館」(山形県米沢市関湯の入沢3934)
 米沢市内から約20km、探蕎会では二度の宿となった白布温泉の「中屋別館不動閣」の前を通り過ぎ、天元台ロープウエーの湯元駅を左に見て山中へ。道はアスファルトから山道に、そして道は段々傾斜を増す。これは並の車では来れないと思っていると、程なく車の幅のみアスファルトに、県道や市道でなくて私道となると自費で管理、中々大変だ。しかし一部舗装でも、冬季雪があると4輪駆動でないととても行き着けないだろう。でも後で分かったことだが、冬はロープウエーの湯元駅で車を止め、宿へ連絡すれば迎えに来てくれるとのことだった。駅から宿まで標高差はおよそ150mはあろうか、歩けば25分はかかるだろう。でもとにかく宿に着けた。
 宿は西吾妻山の北面の中腹、標高1126mにへばりつくように建っている鄙びた一軒家。宿の裏手は屏風のような崖、右手には落差こそ10mはないものの「白金の滝」が落ちていて、その手前には滝見の露天風呂がある。宿は明治35年(1902)の開湯という。急な石段を上がって玄関へ、玄関横にはウッドテラスが。玄関に続くロビーは小綺麗なロッジ風、明るく感じがよい。部屋は17室、すべてに植物の名が付けられていて、我々一行のうち男性は「まんさく」、女性は「こぶし」に、入口には木の花の写真が、爽やかである。
 着替えて早速露天風呂へ。露天風呂は混浴が3つ(滝見、根っこ、岩の湯)に女性専用が1つ(大岩)あり、混浴の露天風呂は午後6時半から8時までは女性タイムに、また女性専用の大岩風呂は午前6時から7時までは男性にも開放される仕掛けになっている。先ずは滝見に。湯は程よい加減、源泉は滝見の湯壺の上方の斜面にあり自然湧出していて、これを内湯にも外湯にも配湯している。岩風呂は5人は入られよう。滝を眺め、紅葉は若干過ぎてはいるが、眼下に見える山々の斜面は今が盛りである。正面には端正な姿の兜山、至福の時である。湯から上がって歩みを下り、東やの大きな岩風呂へはしご、この湯は滝見よりは温かい。当然ここも掛け流しである。そしてさらに隣の根っこへはしご、ここには直径1mはあろうという大木の幹を横にし、その真ん中をくり抜いて湯船にしたものと、その切り株を縦にして芯をくり抜いてつくった円形の風呂とがある。どちらも一人しか入れないが、なんとも野趣に富んでいる。また内湯は男女別で檜風呂、平成16年(2004)の改装とかで、まだかぐわしい香りが漂うゆったりとした空間である。女性専用の二つの巨岩に囲まれた大岩風呂には翌朝入湯した。ここは正に隠れ風呂、変に落ち着く空間で、例の葭簾で囲われた風呂とは全く趣きが違っていて必見の湯だ。さすが「日本秘湯を守る宿」だけのことはある。
 夕食は米沢牛のステーキプランコース、ベースは山の幸・渓流の幸をふんだんに使った山奥のかあちゃん手料理、これだけでも満腹になる。お酒は和泉さんの所望で米沢の地酒の燗酒にしたが、燗酒でステーキを食うという実に貴重な体験をした。圧巻は大きな朱塗りのお椀に入った芋煮と立派な形の岩魚の塩焼き、これらも含めおそらく全部平らげた御仁はいなかったのではなかろうか。でも十分満喫した。
〔温泉情報〕泉質は「含硫黄ーカルシウムー硫酸塩泉」、源泉は自然湧出で毎分170L、泉温は56℃、加水・加温はなく、源泉掛け流し。適応症は、切り傷・火傷・慢性皮膚病・糖尿病・筋肉痛・関節痛・五十肩・冷え性・病後回復・疲労回復・健康増進など。
〔付記〕宿の主人の安倍さんの話では、吾妻山の東にある140年の歴史がある高湯温泉「吾妻屋」とは縁があって、110年前に吾妻山の西のこの地に湧き湯が見つかった折、高湯温泉に因んで新高湯温泉とし、宿の名も「吾妻屋旅館」と「吾妻屋」にあやかったとのこと。高湯温泉は福島県、新高湯温泉は山形県だが、直線距離では15km位、吾妻山の東と西に位置する。なお高湯というのは固有の地名ではなく、標高の高い処にある温泉という意味で、以前は白布高湯温泉、蔵王高湯温泉という風に呼んでいたが、今では単に白布温泉、蔵王温泉というようになり、高湯と新高湯はそのまま残ったとのことであった。

尾瀬檜枝岐温泉「旅館ひのえまた」(福島県南会津郡桧枝岐村居平705)
 桧枝岐村は尾瀬国立公園の北の玄関口、西は新潟県魚沼市、南は群馬県片品村、東は栃木県日光市と隣接している。尾瀬沼や尾瀬ケ原は境界域、そして尾瀬のシンボル燧ヶ岳や会津駒ヶ岳は完全に村の区域内の山であるから驚きだ。この2山はいずれも深田久弥の日本百名山である。大概高い山は市町村の境にあるものだが、正に村の山なのである。ところで尾瀬檜枝岐温泉は村役場の所在地にあり、昔は辺鄙な場所で陸の孤島だったろうが、今では道路が整備され、往年の鄙びた面影は少なくなり、極端な言い方をすれば、山中の温泉街という印象を受ける。旅館は5軒、ほかに民宿が33軒もある。我々が投宿した「旅館ひのえまた」は、これまた「日本秘湯を守る会」の会員であった。
 着いて驚いたのは、今宵の宿が総5階建ての立派な建物だったこと、洋室もあり、優に80名は宿泊できるという。2部屋ある401号室に男性5名、隣の402号室に女性3名が入る。部屋には愛称がなく都会のホテル並み、鄙びた宿を期待していた向きにはそぐわないかも知れない。浴場は「燧ヶ岳の湯」と「みずばしょうの湯」の二つ、時間を区切って両方に入れるようになっている。内湯は大きな木枠の湯船、それに方形と円形の露天風呂が隣接している。前者はたたきも木で設えてあり、新しくやさしい印象を受ける。ここの温泉は35年前の昭和49年(1974)にボーリングして得られたアルカリ泉で、ツルツルヌルヌルしている。しかしここの湯は掛け流しではなく、補湯しての循環、聞くと1本の湯元から旅館と民宿全てに配湯しているからだそうだ。村で掘削したのだから、当然といえば当然なのだが。
 夕食は名代の「裁ちそば」付きの「山人(やもうど)料理」、あまりのおいしさに村人が食べるのは御法度だったというのが由来の檜枝岐名物「はっとう」も付いている。でも圧巻は「山人鍋」、大きな鍋に舞茸、木耳、鴨肉、山菜等の地元素材に、そばをつまんだ「つめっこ」が入った味噌仕立て、とても腹には納まりきれない量だ。お酒は地元の燗酒のほか、地元産の舞茸の骨酒?をもらう。舞茸の香りがして中々美味い。なくなって今一度熱燗を注いで二番煎じ、ついでに舞茸も食した。郷土色豊かな酒と食、堪能した。
 ところでお目当ての「裁ちそば」はどうだったのかと言われそうだ.檜枝岐ではそばを裁つのは女手、祖母から母へ、母から娘や嫁に代々受け継がれていて、この日のそばも旅館の女将が裁ったものだった。でも「裁ちそば」は山人料理の一品として出ていて、沢山の料理の合間とて十分吟味して味わう間もなく胃の腑に納まってしまった.汁は岩魚で出汁を取ったものとか、次の機会にはそばだけでじっくり味わいたいものだ。
〔付記〕翌朝4時半頃、「燧ヶ岳の湯」の露天風呂に浸かりながら南の空を見ていると、放射点から右下に流れ星が尾を引いた。オリオン座流星群だ。出発の23日の早朝5時前に和泉さんの車を待つ間、南中したオリオン座の方を見ていたら、この時はほぼ真下に流れる大きな流星が見られた。この探蕎行では二度もお目にかかったことになる。
〔温泉情報〕泉質は「アルカリ単純温泉」、源泉温度は64℃で分湯されている。加水はないが加温があり、利用形態は「給湯口を含む加温・濾過・殺菌循環」となっていて、これは「一度浴槽へ給湯された温泉が、湯量や適温を保つ為の理由により循環利用する中で、濾過・殺菌され、再び給湯口から給湯し利用している利用形態」とされている。適応症は、神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・冷え性・病後回復・疲労回復・健康増進など。

2009年10月19日月曜日

金沢大学にもいた超人・山男

 私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)、山へ行きたくて、当時新人募集していた「山の会」へ入った。後で分かったことだが、「山岳部」というのもあったらしいが、活動は全くしておらず正に有名無実、でも名が存在していたために、有志が結成した表記の会がそれに類した活動をしていたことになる。もっとも翌年には晴れて総意で「金沢大学山岳部」を名乗れるようになった。それで当時の1年生は7名ばかり、ほかに年輩の方も入部している。「山の会」という学内組織があった以上、責任者はもちろん会員もいたはずなのだが、山行はあったものの、先輩からこれといったいわゆる山岳部的な指導は受けたことはなく、同好会に毛が生えたような存在だった。
 ところで新入りの1年生に医学部の若山という男がいた。彼は島根県の出身、高校で山岳部に所属して活動をしていたかどうかは聞きそびれたが、彼が率先して指導者となり、特に岩登り、いわゆるロック・クライミングを指導してくれた。トレーニング・フィールドはもっぱら倉ヶ岳、基本的なザイルさばきや結び方、ハーケンの打ち方、ジッヘルやセルフビレーの仕方、懸垂下降、オーバーハングの登り方等、彼からは岩登りの初歩的なことをみっちり教えてもらった。ただ彼とは倉ヶ岳でのトレーニングのみ一緒で、彼とほかに山行を共にしたことはない。ところで、医学部は6年制、教養部2年、専門学部4年で、留年は同年、つまり2倍の12年間在学できる。彼がどのような山行をしていたのかは知らないが、私達に構っていた以外はどうも単独で山へ出かけていたみたいなようだ。というのは教養部を4年かけて専門課程へ進んだことでも伺える。年に200日以上も山へ入り込んでいたのではないだろうか。学部卒業は昭和39年(1964)、ということは卒業まで9年、教養部で2年、学部で1年留年したことになる。何時だったかこれは彼から直接聞いたことだが、ある時このままではとても卒業が覚束ないと感じ、一念発起して山の道具一切を頑丈な木箱に入れ、絶対開けないように、また開かないように、釘でしっかり封印し、これからは学業に専念するのだと言っていたのを思い出す。彼の山行の内容を聞いたことはないが、ある意味彼は山に対して超人的な才能と体力を持っていたように思う。
 彼の指導で、山岳部らしい山岳部に発展し、毎年素晴らしい後輩が入部し、ワンダーフォーゲル部ができてからも、毎年数人の入部があり、昭和57年(1982)には独自でカラコルムのハッチンダール・キッシュにも遠征隊を送り、登頂に成功している。また卒業後も海外への遠征隊に参加したり、OB同士でも遠征できるまでになった。先鋭化してきたこともあって、国内でも海外でも遭難の訃報も聞かれるようになったが、これも飛躍の一里塚、通らねばならない通過点だったのかも知れない。
 ところで、雑誌「岳人」に「私も山が好き」というコラムがあり、それに矢作直樹という人が紹介されていた。昭和31年(1956)生まれ、昭和56年(1981)金沢大学医学部卒業、現在東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部教授とあった。生まれは横浜市だが、中学の頃は町田市にいて、裏山から高尾山まで歩いたという。高校では山岳部に入ったものの、トレーニングばかりなのに嫌気がさし退部している。そして金沢大学医学部に入学、大学では何故か水泳部に所属している。しかし山も半端ではなく、彼の言によれば、山には年間200日は入っていたと、そして特に倉ヶ岳の岩場にはよく通い、ソロクライミングの練習に徹したとも。無雪期は主に剱岳、70回ほど頂を踏んだという。「晴れた日に家にいるのは罪悪と思っていた」という。一方で「技術的には自分は絶対に落ちないという自信を持っていて、落ちなければ確保者は不要なわけだから、山へは独りで十分である」と。そして更に高じて「山登りとは、冬季単独行のことだとしか頭になかった」とも、でも今では当時は自惚れていたと述懐している。
 彼のビッグな山行をみると、大学2年の正月には三伏峠から北岳への厳冬期単独縦走、大学3年の正月には光岳から北岳への厳冬期単独縦走、同年3月には槍ヶ岳北鎌尾根冬季単独縦走をしている。また大学4年の夏には剱岳八ツ峰の完全フリーソロを、そして翌年3月には、単独で杓子尾根から白馬岳、鹿島槍ヶ岳、烏帽子岳、槍ヶ岳、南岳西尾根を計画し実行に移したが、鹿島槍ヶ岳北峰頂上直下で雪庇を踏み抜き、カクネ里まで約1000mも滑落したものの軽傷で、そこから天狗尾根を登り返して幕営し、翌日大川沢沿いに鹿島まで戻り、信濃大町へ。ここで必要部品を調達して休息し、行動日の制約もあったことから、鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳の間は割愛して、烏帽子岳以降を再開し、踏破して新穂高温泉に下りたという。そしてその年の年末、残った鹿島槍ヶ岳と烏帽子岳間をトレースすべく出かけたが、針ノ木岳でアイゼンが脱げて、針ノ木岳北面の雪壁を100m滑落し、足を傷め下山することに。「扇沢駅が近くなり、岩小屋沢の方を眺めていると、突然はっきりと『もう山へ来るな』という天の声?が聞こえ、それは幻聴ではなかった」と。そして彼はそれっきり、キッパリ登山は止めてしまうことに。彼の述懐では、「当時は全身全霊をこめて、特攻の心意気で山に臨んでいたし、絶対に生還できると確信していた。今から思うと、何かにとりつかれていて、謙虚さと慎重さを欠いていた。二度の事故で生還できたのは奇跡に近い」と。
 さて、このような超人的な山行を繰り返していた人が身近にいたのに、医学部の十全山岳会や金大山岳部の人達の間では話題にならなかったのだろうか。あの山行は質・内容共に見過ごせるような山行ではないからである。医学部に入学して金沢大学山岳部に籍を置いた人は延べ7人いる。彼の卒業は昭和56年(1981)だが、医学部在籍の山岳部員としては2年先輩に昭和54年(1979)卒業の加藤がいたし、同期の部員も5名いて、まだ山岳部は凋落の傾向は見えておらず活躍していた時期である。彼には一匹狼的な傾向があることは疑いないが、声をかける位のことは出来なかったものだろうか。よきリーダーに出会うと、レベルは飛躍的に一挙に向上するものだ。
 山を断念した彼は、弟の勧めもあって自転車に傾倒することに。大学の最終学年、彼は金沢から自宅のある町田市まで片道500kmを往復したり、自転車で日本一周を企てたりしている。卒業後は富山医科薬科大学を経て京都大学大学院医学研究科へ、学位取得後は滋賀医科大学へ、ここには10年在籍することに。ここでも自転車と水泳に興じ、琵琶湖の遠泳横断もしている。この間実家が町田市から富士市へ移ったこともあって、富士山へ出かけている。そして平成10年(1998)に帝京大学医学部附属溝口病院へ移った時に転機が訪れる。10歳若い渋谷氏と出会い、山へ誘われて近場の山へ。以後は渋谷氏や東大医学部山岳会の現役やOBと一緒に、縦走やピークハント、沢登りに興ずるようになったと。彼はこれを「散歩的な山歩き」と言っている。でも彼はこの山歩きがとても気楽で新鮮で素晴らしいという。だが最近の山行をみると、富士山のランニング登山の参加とか、無雪期の剱岳や立山、穂高連峰、谷川岳や上越の山々、奥多摩・奥秩父・丹沢の山々や渓谷など、決してお遊びとはいえないハードな面もある山や谷を堪能している。それにしても、今ではもう単独での山行はないという。それが彼のいう「散歩的山行」なのだろう。

2009年10月8日木曜日

映画「剱岳 点の記」 登山者の見方

 佐伯邦夫氏が「岳人」10月号の「かわら版」に表記の標題で投稿されていた。佐伯氏といえば、魚津市の生まれ、魚津岳友会の結成にも参画され、北アルプス北部、とりわけ剱岳、剱岳北方稜線、毛勝三山、頚城山群を四季を問わずホームグラウンドとして活躍した御仁である。著書には「会心の山」「山との語らいー剱岳のふもとから」「渾身の山ー我が剱岳北方稜線」「富山県の山」など、写真集にも「雪山邂逅写真集」「美しき山河ー僧ヶ岳・毛勝三山の四季」「富山海岸からの北アルプス」などがある。今年72歳、たまさか小生と同年齢である。
 映画「剱岳 点の記」は今更ここで紹介するまでもなく、新田次郎の同名の小説を映画化したものである。この小説自体、史実に忠実な部分もあるが、決してノンフィクションではなく、かといって事実を題材にした完全なフィクションでもなく、言ってみればセミフィクションとでもいうべきか。これを基にして木村大作監督は映画を制作したが、ここでもいろんな、一見ドキュメンタリーともとれるアクションが付け加えられた。ただコンピューターグラフィックや空撮は排除したとのことだが、場面の中にはいろいろ山ヤからすると不自然なシーンの数々があったことも事実である。しかし山の大ベテランである佐伯邦夫氏にしてみれば、どうしても一筆したためなければという想いがあって投稿されたのだろうと思う。しかし、投稿の最後には、「まあ、娯楽映画だから、目くじら立てるのも・・・・という気がしないでもない。しかし『CGや、空撮、用いず・・・・』と、こだわりがことさら強調されるのであれば・・・・、ということである」と語っている。
 佐伯氏の映画を観た感想では、さすが天下の名峰剱岳が大画面に展開されたのは大した見応え、しかも長年この山に親しんできた者にさえ、新鮮とも思えるショットも少なからずあったと絶賛している。しかし、自然はさておき、そこに繰り広げられる人間模様となると、「チョッと待て」、いうところも少なくなく、佐伯氏は一登山者の立場から「オカシイ」と思われる点を確認しておきたいと言われる。ここで佐伯氏は単に「登山者」と名乗っておいでるが、私のような山ヤにチョッと毛が生えたような者でさえ、観てオカシイと思う点が多々あったが、ここでの佐伯氏は「山の大ベテラン」として、また「真の山ヤ」としての立場からの指摘であるように思う。もっとも細かい点にまで当たれば、もっと沢山指摘すべきことがあったのだろうけれど、投稿であれば字数制限もあり、重要なことのみに限定されたような感がする。
 第一の指摘はガイドの宇治長次郎の歩き方であるという。「映画では、ガシガシと、息を荒くして歩く場面があるが、これは素人、ベテランはこういう歩き方はしない」と。また「上体をむやみに揺するような動きは、無駄が多く疲れ、状況が厳しいほど『省エネ歩行』に徹しなければならない」とも。これには気が付かなかった。
 二点目は、「猛吹雪に素顔のまま耐えているシーンも、どういうものか」と。わざとらしいと言われる。「手拭いで頬かむりくらいしなければ。厳しさを出そうとして、かえってリアリティーを損なっている」とも。そういえばそうだ。 
 三点目は装備。先ずカンジキ。「芦クラ寺にしろ大山村にしろ、あの舞台となっている一帯は『立山カンジキ』の里、カンジキでは日本一ともいえる代物、その立山カンジキを全く使わないで、どこのものとも素性の全く分からないカンジキばかり使っている」とは厳しい。しかしこれは厳しいとは言っても、当然配慮しなければならない点ではなかったろうか。私は気が付かなかったが、カンジキはその地方地方によって、形も大きさも材質も異なるから、佐伯氏ならずとも当然の指摘で、彼にとっては噴飯ものだったろう。しかも長年親しんで用いてきただけに、我慢ならなかったのだろう。しかも「カンジキは同じものばかりでなく、中には山へ入るのに里用のものもあり、ありえないことだ」とも。また「どこからかき集めてきたのか」とも。残念至極と言われる。さすがである。
 また「蓑、笠、草鞋等々も下界用の簡便なもので間に合わせている」と指摘される。そして「同じ蓑でも、山中で何日も使うものは作りが全く違う」と言われる。これも炯眼だ。
 次いでキスリング型のザック、これはさすがの私もオカシイと思った。昭和30年頃の山行きでは、メインのザックはキスリングしかなかったが、考案されたのはそんなに古い昔ではない。彼は言う。「キスリング型のザック、のっぺりとした大型の袋、大きなポケットが両サイドにあるそれ。映画では柴崎が担いだり、宇治長次郎が背負子にくくりつけたりしているのが定番装備になっている。現今ではほとんど見かけず、歴史を感じさせるのは確か。しかし、これは明治・大正時代には存在せず、日本にもたらされるのは昭和に入ってから。それも広く一般化するのは戦後。なれば、時代考証が50年ほどズレていることになる」と。キスリングというのはあのザックを考案した人の名前じゃなかったろうか。ちなみに小生のものは片桐のものだった。
 四点目は滑落の場面、麻ザイルの切れ方、ジッヘルの仕方も不自然だったが、それより岩場で滑落というより墜落の様相だったのに、あの急斜面の雪渓で、ほとんど素手の状態で滑落を免れたのはさすがスタントマンと感心したが、通常なら東大谷の雪渓の末端まで飛ばされての滑落死が常套だ。「派手な墜落をして、負傷の程度はさておき、ああいう場合は、帽子、ザック・・・・、持ち物の多くが飛ばされてしまう」と。
 五点目は雪崩。映画の雪崩のシーンは正に迫真、人工雪崩とはいえ、凄い迫力だった。時は春、春の雪崩は底雪崩、底の土も巻き込んでのもの、きれいごとではすまされない。また雪質が重く、一旦圧雪されると這い出すことは困難だ。でも映画のシーンは、苦労はしたようだが見た目には容易に脱出でき、埋まった仲間も救出し、荷物も無事回収でき、小さな表層雪崩での芝居のようだったのは確かである。もっとも人工雪崩の後に穴を掘って脱出できるように埋め込んだのだから当然だが、不自然だといえば不自然だ。「春の雪崩にあって、全員が生きているというのは考えにくい。雪の中から簡単に這い出たり、埋まった仲間をすぐに見つけ出して、掘り出すというのも荒唐無稽。映画のシーンに使われた規模の雪崩なら、不可能と言い切ってもいいと思う。この場合も、もし命があったとしても、持ち物はほぼ失う」と。「時代劇で、大立ち回りを演じても、主人公は掠り傷も負わず、髪も服装もほとんど乱れていない、というのと同じか」とも。
 佐伯邦夫氏の限られた紙面での指摘点は以上であるが、もっと沢山あるだろうことは想像に難くない。しかしこの作品の制作には山に素人の人ばかりでなく、大学山岳部のOBや山小屋の主人達も大勢参画している。事前にシナリオを見る機会はないにしても、最低限不自然なことには助言できなかったのだろうか。完璧を期すことはこのような大自然を相手にしたドラマでは無理なことであろうが、あまりに山の常識を越えた非常識、不自然さは、山を主舞台としたドラマ、言ってみれば山と四つに取り組んだ映画であっただけに残念な気がしないでもない。考証はよりリアリティーを高め、作品をより崇高なものにする。
 大画面での剱岳とそれを取り巻く山々、剣からの富士山も、私が初めて見た時の感激が思い出されてきて感動した。後立山の峰々、槍・穂高の峰々、ひとしきり感慨にふけることができた貴重な時限だった。しかし、出演した誰かが述懐していたが、映画の画面もさることながら、やはり本当の自然に優るものはないと。その言に間違いはない。

2009年9月29日火曜日

西本智美とロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

 西本智美がロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(RPO)の日本ツアーの指揮者として来日するということで、今度こそはどうしても聴きたいと願っていた。というのも過去に2回、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)を振る予定だったのに、2回とも体調不調とかでドタキャンになった経緯があるからで、今度こそはと意気込んだわけである。この度の日本ツアーは東北から九州にかけての12公演、プログラムの目玉はマーラーの交響曲第5番、ベートーベンの交響曲第7番、それにフレディ・ケンプとのモーツアルトのピアノ協奏曲第20番の共演で、金沢では9月24日に石川県立音楽堂で催された。曲目は始めにモーツアルトの歌劇「後宮からの逃走」序曲、次いでピアノ協奏曲第20番、休憩を挟んでマーラーの交響曲第5番が演奏された。
 ロイヤル・フィルはロンドンが誇る名門5大オーケストラの一つとはいっても、中では最も新しく、第二次世界大戦後の1946年の創設である。既に当時はロンドン交響楽団(1904年創設)を始めとして、BBC交響楽団(1930年創設)、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1932年創設)とロイヤル・フィル創設前年の1945年に結成されたフィルハーモニア管弦楽団があった。ロイヤル・フィルの創設者はトーマス・ビーチャム、彼はロンドン・フィルを自前で創設したが、その後自主運営団体に移行したために、再び自分の楽団としてロイヤル・フィルを立ち上げた。結成に際しては優秀な楽団員が集められ、4大オーケストラに匹敵する楽団が出来上がった。名称の「ロイヤル」については問題も提起されたが、英国女王から公式に使用が認められ、今日に至っている。
 創設者ビーチャムの死後は自主運営団体となり、以後音楽監督には、ルドルフ・ケンペ、アンタル・ドラティ、アンドレ・プレヴィン、ウラディミール・アシュケナージなど錚々たる顔ぶれが着任し牽引されてきた。その後1996年にイタリアの若いダニエレ・ガッティが音楽監督に就任して、フレッシュな空気の吹込みが図られ、更なる向上が期待されたのに、2008年にはフランス国立管弦楽団の音楽監督に就任したためポストを離れたが、ロイヤル・フィルは彼に桂冠指揮者の称号を与えた。現在は芸術監督兼首席指揮者にはシャルル・デュトワが就任、首席客演指揮者にはピンカス・ズッカーマンが加わっている。そしてこの楽団の特徴として、共演する指揮者やアーティストがバラエティーに富んでいるということが挙げられるとされ、こうした方針が今度の日本ツアーに西本智美を抜擢して指揮者にしたのではという一面がある。またマーラーはロイヤル・フィルでは特によく取り上げている曲目であるという。一方、純粋なクラシックばかりでなく、ライトクラシックやミュージカル・ナンバーの演奏でも定評があるというから、既存の有名オーケストラとは一線を画しているという感がある。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督だった岩城宏之氏がポピュラーを取り入れた構想も、案外ロイヤル・フィルの柔軟性や順応性にヒントを得て手を染めた可能性がある。また国内や海外の演奏旅行が多い点の類似もロイヤル・フィルに習ったのではないかと思ったりもする。
 さて、西本智美についてだが、彼女は大阪音楽大学では作曲を専攻していて、指揮は留学したロシアのサンクトペテルブルグ音楽院で学んでいる。従って活躍の舞台は始めは主としてロシアであり、比較的小さな交響楽団や歌劇場の首席指揮者や客演指揮者を歴任している。当時その活躍ぶりが日本でも報道され、女性指揮者として驚きの目で見られたものだ。その後彼女はロシアから東欧、中欧、西欧と活動の拠点を移動しながら、今年はロンドンへ拠点を移そうとしていた矢先、ロイヤル・フィルとの出会いがあり、日本ツアーでの共演が実現したという。まさに僥倖というべきか。またロイヤル・フィルにとっては一つの賭けだったのではなかったかと思う。彼女の信条としては、活動は一か所に固執するのではなく、あちこちに拠点を置いて活動したいという希望があり、日本ツアー以降はバルト三国で、次いではアメリカに渡って活動し、再びヨーロッパに帰るのが目標という。これは彼女の言葉を借りるならば、拠点を移すのではなく、拠点を広げるということだそうで、活動範囲を広げるということになるのだそうだ。でも一面からすれば「渡り鳥」の感がないでもない。もっともまだお若いからそんな冒険もよいのかも知れないが、いつまでもというのには疑問を感じる。
 女の指揮者としては、ピアニストでもあるウラディミール・アシュケナージを一番に思い出すが、彼女はある時期ロイヤル・フィルでも音楽監督兼首席指揮者として席を置いていた。また今でもピアノ奏者としても活躍している。またオーケストラ・アンサンブル金沢の初代指揮者として登場した天沼裕子も今は東欧の歌劇場で活躍しているが、岩城さんがヨーロッパのどこかの指揮者コンクールで優勝した彼女を迎えたものの、彼女の思想は楽団員には受け入れられず、結局彼女は去ることになった。またブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した松尾葉子は今どこで振っているのだろうか。このコンクールは若手指揮者の登竜門としてはつとに有名で広く知られていて、過去には小沢征爾を始めとして、佐渡裕、下野竜也らが優勝しているが、その活躍ぶりは周知のとおりであり、下野竜也は過去2回来沢しているが、指揮者からはオーラが発しているのが感じられ、聴衆が圧倒されるような凄さだったことを思い出す。女性の指揮者にはほかにもおいでるのだろうけど、思い出せない。
 さて、演奏会の当日は、いつものオーケストラ・アンサンブル金沢の定期公演とは違った雰囲気を感じた。この日は北國新聞社の主催であったせいなのかも知れない。音楽堂の主催でないこともあって、音楽堂のチケット売り場での座席の割り当ては少なく、私の席は2階の正面の5列目であった。演奏会当日の入りは8割程度、何故か2階側面では空席が目立った。ロイヤル・フィルは4管編成、室内楽団のオーケストラ・アンサンブル金沢のざっと倍の規模、でもこれは有名交響楽団の普通の編成である。曲目の前半はモーツアルトの「後宮からの逃走」序曲とピアノ協奏曲第20番、パンフレットでは、指揮者は第1曲からは「復讐せず許す」というテーマを読み取れ、第2曲については「こみ上げてくるパッション=情熱/受難の音楽」と受け止められると述べている。しかし凡庸な小生にはそんな大それた奥深さに至るまでもなく、楽しく大編成のオーケストラの音楽を聴かせてもらった。でも、モーツアルトの音楽ならば、大編成よりはむしろ2管編成の方がじっくりと味わえるのではと思った次第である。ピアノ独奏者のフレディ・ケンプにしても、特に素晴らしかったという印象は少なく、8歳から共演しているというから身内のようなもの、今一感動は少なかった。
 後半はテーマのマーラーの交響曲第5番、ロイヤル・フィルが最も得意とするレパートリーの一つでもあることから大いに期待した。しかし指揮者のむしろ単調に思える指揮ぶりを見ていると、指揮者の崇高な想いが楽団員に本当に伝わっているのだろうかという疑問が起きた。ということは、どちらかと言えば、あのロイヤル・フィルがあってこその指揮者西本智美だったのではなかったろうかと。マーラーの音楽は内に秘めたいろいろな想いが表現されていて、聴く人にも自問させるような感慨を与えるものだが、その点では実に素晴らしかったと思う。第1楽章の葬送行進曲を聴いただけで身震いを感じ、フォルティッシモからピアニッシモまでの荘重で優美な旋律の演奏が繰り広げられ、人間の感情のあらゆる表情を醸し出した演奏だった。もしこれがすべて指揮者西本智美の意図したものだとすると、曲もさることながら、彼女の意図が十分伝わっての演奏ということになるが、この曲はロイヤル・フィルの十八番なだけに、あの指揮ぶりからは、むしろ助けられたのではないかと穿った見方をしている。ともあれ、素晴らしかったことには変わりはなく、第5楽章までの70分は長くは感じられなかった。颯爽?と久しぶりに登場した憧れの西本智美にではなく、むしろ渾身の演奏でマーラーを聴かせてくれたロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の面々に感謝して拍手した次第である。

2009年9月15日火曜日

美濃探蕎ー胡蝶庵仙波〔岐阜市)と萬屋町助六(関市)

 平成21年度探蕎会後半の行事は8月上旬の世話人会で大筋が決まり、9月は例年ならば近隣の県のそば屋巡りなのだが、今年は岐阜の胡蝶庵への日帰りということになった。それで胡蝶庵へ行くなら「蕎麦三昧」に挑戦したいと願ったが、胡蝶庵では部屋でしか蕎麦三昧は食べられず、しかも4人限定の2部屋のみ、入ってもし蕎麦三昧にありつけても8人が限度ということになる。事務局で予約すると、1日4名様とか、前田さんの計らいで11日と12日に分けて行くことになった。私は和泉さん夫妻、松川さんと4人で後半の12日の訪問となった。和泉さんの車で、私が野々市で、松川さんが予防医学協会で乗り込み出発、この日だけが生憎の雨模様、6時少し前に金沢西ICから高速道に入る。ETCのトラブルで若干時間を浪費したものの、後は順調、ひるが野PAで休憩し、東海北陸道の関ICで下りる。時刻は8時半、少し早すぎた。 
 ICを下りると、やたら沢山車が止まっている。何とこれがギャラリーの車、知らなかったが、今日は関IC近くにある関CC東コースで全日本女子プロゴルフ選手権大会の3日目とのこと、道理で混んでいるわけだ。車にはナビがなく、大雑把な地図と道路標識を頼りにやっと目印の忠節橋に辿り着いた。ここまで来ればしめたもの、どうやら目的地に着けた。着時間予定を10時半としたが、1時間以上早く着いてしまった。駐車場の一番奥に止めようとしたら、ご主人の仙波さんが出てきて、この場所以外に止めて下さいと言われる。時間つぶしに大通りまで出て、とある喫茶店に入り、時間をかせぐ。11時少し前に胡蝶庵へ戻る。丁度この時間に合わせるように車が2台、岐阜ナンバーだ。ここは10歳以下のお客様は入店不可とある。
 11時丁度に木戸の戸が開けられ、中に入る。予約の方ですねと言われ、奥の一間に通される。手前の部屋には地元の二人が、後でもう一人来た。着座すると直ぐに、末広の赤土色の美濃焼きの茶碗に蕎麦茶がたっぷり出されっる。品書きの蕎麦前はと見ると、特別本醸造の樽酒の片口が630円、房島屋の純米吟醸の片口が840円とある。ほかに達磨正宗の古酒があったが、これは敬遠した。吟醸の「ひやおろし」はと聞くとないとのこと、初めに本醸造の樽酒を頼む。片口は蔓がついた内面金色の陶器のつくり、杯は腰高の磁器、先ずは乾杯する。
 初めに「蕎麦寿し」が出る。細打ちのそばと椎茸、ほうれん草、紅生姜を色に、きっちりと綺麗に巻き上げ、4切れが黒い釉薬を施した厚手の皿に端正に盛られて出てくる。繊細さを感ずる。実に見事である。蕎麦前を純米吟醸にする。酒を替えると、杯も替わる。次いで「吸い物」、黒塗りの椀に松茸の切り身と三つ葉を浮かしたすまし汁、程よいしのぎとなっている。次に「そばがき」、粗挽きの蕎麦粉をしっかりかき込んであって、洗練された荒々しさを感ずる。汁と海塩が付いていて、どちらでもと言われる。蕎麦は酒のツマにはならないと言うが、そばがきで飲むのも一興、純米吟醸を追加する。次いで「卵巻き」が、大振りに切ったのが4切れ、出汁を含んだ焼き目のない巻き、若干緩い感じが、ツマに辛味大根のおろし。そして最後は「天ぷら」、志野の皿に赤い線が踊り、懐紙には車海老と獅子唐が盛られ、それにレモンの串切り、もう一本シメに本醸造の樽酒を貰う。
 最後に「ざるそば」が出た。そばは高杯の使い込まれた笊に盛られている。この手挽き生粉打ちの細打ちは、正に芸術品である。この端境期にあってのこのそば、繊細で瑞々しく、ホシが今にも蠢きそうなそばである。葱も山葵も要らない素晴らしいそばだ。蕎麦湯は別に誂えたもの、程よい濃さがよい。中座して厠へ行くと、玄関の待ち場所には沢山の人が待っている。もう一枚「おろしそば」とのことだったが、長居は失礼だろうと腰を上げることにした。
 品書きは次のようである。[冷]ざる蕎麦945円、とろろざる蕎麦1155円、天ぷらざる蕎麦1575円、おろし蕎麦1155円、[温]かけ蕎麦945円、とろろ蕎麦1155円、天ぷら蕎麦1575円、鴨南ばん1680円、[他」蕎麦三昧3675円、蕎麦寿司945円、そばがき1050円、三種肴1050円、かも汁1050円、卵巻き945円、焼き鴨840円、天ぷら630円、胡麻豆腐525円。
 胡蝶庵でもう一杯を止めたので、もう1軒行くことに、店は「ダンチュウ」という雑誌に出ていた関市本町8丁目交差点のすぐ近くにある「そばきり萬屋町助六」である。今の主人は二代目、先代のときは町の「めん処」として、丼もそば・うどんも中華そばも、そして出前もやっていた。ところが先代が亡くなって店を継いでからは大改革をしたという。出前をなくし、中華そばを止め、うどんを止め、手打ちそば一本にしたという。以前の常連客は去ってしまったが、新しく石臼挽き自家製粉を始め、3年を経て新しいリピーターが付くようになったという。助六のそばはつなぎを入れているが、巾広の「円空鉈切りそば」が名物、これと美濃の酒とはウマが合うという。一度挑戦したいものだ。さて、目指す「助六」は見つかったものの、午後1時頃とて、店の中には立って待つ人もいるという程の満員、駐車場も満杯、雨降りでもあり、またの機会ということにして残念ながら引き返すことに。店の造りは前のままとて、一見何でもありのありふれた食堂という印象、でも中身は中々のものらしい。再見だ。 

2009年9月9日水曜日

「歩く」と「登る」の違いー72歳の白山登山

 私は血糖値が極めて高かった(HbA1cが8%台)こともあり、医師と管理栄養士とから栄養指導と運動療法の指導を受けた。もう2年くらい前になるだろうか。栄養指導では、特にお酒が槍玉に挙がり、晩酌4合を半量の2合に妥協させられた。通常の食事では特に指摘はなかった。ところで運動については、少し歩いて下さいということで、当初は家から半径2kmの地点までの往復を企て、雨が降っていなければ朝食前に歩くことにした。そうこうするうちに、半径2km以内にある白地図の道はすべて赤線が引かれてしまった。昼が短い季節では午前4時や5時台はまだ暗いので、自動車が通る道を歩くときは自己防衛で蛍光ジャケットを着用した。1年ほど経っての検査ではHbA1cの値も6%台になり、さすが効果があったようだった。そこで以後も続けることにしたが、歩くのは夜でも明るいルートを1本選んで歩くことにした。ただ私の住んでいる野々市町は高低差が4mしかない平らな町、そこが金沢市と違うところで、効果的な歩きを実施するには不適である。それで今は金沢市窪町の満願寺山の麓まで往復5.8kmのコースを毎朝歩くことにしている。ただ高低差が25mと少ないのが難点である。歩く時間は約1時間、しかしマンネリになったせいか、それとももう限界なのか、HbA1cが5%台になることはない。またこの歩きは血糖値対策もさることながら、少しは山へ登る足しにでもならないかとの目論見もあるのだが、今回の白山登山で、メタボ対策にはなっても登山対策にはならないということが分かった。ここでは足の鍛錬の成果を試したものの、成果がなかった白山登山での顛末について記す。
 今年はまだ一度も白山へ行ってなく、せめて年に一度はと少し焦り気味に。9月5日の土曜日にと思っていたが、天気がスッキリせず、では日曜日と思ったらOEK(オーケストラアンサンブル金沢)の今シーズン初の定期演奏会、それじゃ休んで月曜日にでも。休暇の連絡は、東京に滞在の家内にしてもらうことにしての白山行きとなった。装備は山ヤとして恥ずかしくない必要最低限のものを持つことに、重量は7kg程度。家を出たのは5時10分前、別当出合の駐車場まで1時間10分、朝の車の駐車状況は、市ノ瀬50台位、別当出合100台位だった。もっともこの中には日曜午後の規制解除後に入った車もあろうし、またこの後に入ってくる車もあろうが、私が着いた頃はそのような状況で、まさに今から登ろうとしているのが数組いた。中に小学生らしい女の子を同伴している親子がいたが、学校を休んでの登山なのだろうか。
 駐車場から出会いのセンターまでは10分50mの上りである。センターには数人いたが、大半は出かけたようだった。中年の白山初めての男性、格好からして登山素人の人、指導員から観光新道からの上りは下山路にした方がと言われていた。歩き始めは私と一緒、私は歩きに自信がないことから、彼にお先にどうぞと言ったが、後でいいと言うことで私が先に、私はマイペースでゆっくり休まずに、彼氏は休んだ分だけ送れた。中飯場までの間にランニングスタイルの若者2人が駆け抜けていったし、また仲良し三人娘にもお先にと越された。私は糖尿病性神経障害ということもあって、足の裏が痺れているような感じがあり、今一登山靴と山道との間にフィット感がない。従って足元をしっかり見て歩かないとという前田さんの言を思い出しながら歩く。遅くても安全第一だと心して歩く。三人娘は中飯場にいたが、私が着くや手を振って出立していった。中飯場から別当覗の間で、立派な髭を蓄えた軍人なら大将格の御仁を越したが、話を聞くと、土曜に来たけれど天気が悪かったので今日また登るのだと。軍服のような出で立ち、私は72歳だというともっと上だと、恐れ入った。新しい迂回路に入ってダブルストックを持った長身の若者に道を譲る。朝8時、天気はよく晴れていて、陽が当たると暑いくらいだ。そろそろ迂回路の出口という処でかの三人娘に会った。座り込んでおにぎりをパクついていた。もう少しで小屋なのにと言うと、お腹が空いたからと言う。若くて元気でも空腹じゃシャリバテもしよう。お先にと言って先へ進む。もう甚之助小屋に近いという場所で、お相撲さん似の人が下りて来た。室堂を一番先に出たのだろうか、ゆっくりゆっくり下っていった。この日下る人に会った第一号だった。
 小屋で少憩の後、水平道(展望)分岐へ、これまでなら20分で着くのに30分もかかる。今日は晴れていて眺望がきく。砂防新道へ。二の坂を登ると、三の坂に点々と先行者が連なって見え、先頭は坂の頂に達している。十二曲りの急登でも、つづら折れの坂には点々と登山者が、ここでも私より年輩の紳士に出会った。ゆっくりと私と大体同じペース、でも延命水を汲んでゆくとかでリュックを下ろされた。坂上から下を見ると、お姉さんが一人速いピッチで登ってくるのが見えた。坂の上の方に来て、時々立ち止まる。これで私も安心して立ち止まれるというもの、どうやら私の方が先に黒ボコ岩に逃げ込めた。ここでは十数人がたむろしていて、写真を撮りあっている。お母さん三人組の一人が元気がない。見ると何が入っているのかザックがすごく膨らんでいる。肝っ玉母さんのような方が持ってみて、こんなに重けりゃバテルわよと、私がそれを背負ってあげると。エライ。弥陀ヶ原の木道を歩いて五葉坂下に着いたら、あの肝っ玉母さんは、ここまで来たら室堂に着いたも同然よと言う。私など、これからもう一本100mの登りがと思うのだが、大したものだ。この坂は後輩が春にホワイトアウトで遭難死した場所でもあり、何となく今は通行禁止の水屋尻の径の方が好きだ。もう坂の頂に近いところで、夫婦のご婦人の方がうずくまっていた。もう1分も歩けば室堂が見えますよと言うと、少し元気が出たようだった。その時外国の元気な坊や達が十人ばかり、3人の大人に引率されて下りてきた。皆コンニチワと挨拶をして下っていった。清々しい。そしてどうやら室堂に着いた。 
 室堂センターには登山者はまばら、前の広場にもそんなに多くはいない。50人ばかりか、もっとも御前峰への登路には点々と登山者が見える。ここまで休みを入れて3時間46分、以前なら3時間だったのにと、この歳ではもうこれより速いペースは考えられない。休みは合計して18分、差し引いても3時間半だ。衰えは歴然、当初は大汝峰へも回る予定だったが、今日は御前峰だけにしておこうと、自信の無さが顔を出す。食事をして御前へ向かう。登り始めて気が付いたのだが、標高2000mまでは雲の海、それが徐々に上がってくる。頂上に着く頃にはその雲海の高さは2300mの高さに、別山も頂上が見えるのみの有様、東の方の北アルプスも同様で、山の頂のみが遠望できるのみ、奥の宮に着いてお参りをする。下の室堂平にある奥宮の社務所には、お宮は8月31日で閉めましたと張り紙してあったが、例年ならば賽銭箱は置いてあるのに、今年は取り外してあって、お賽銭は上げられず終いになった。登山者がある間は、置いておけばよいのに、大汝峰と別山にもお宮があるが、そこも撤去したのだろうか。昨年は白山比め神社の千五百年祭があって、白山奥宮の社務所は7月末で神官が居なくなったが、頂上奥宮には賽銭箱は置いてあった。昨年秋、室堂閉鎖後の10月18日に平瀬から登った際、頂上奥宮にお参りしたところ、賽銭を入れるとチャリンともいわないので見ると、賽銭箱は満杯になった状態、そこで白山比め神社に電話して、忙しいのは分かるが、せめて室堂閉鎖のときに白山観光協会の職員にでもお願いして、お賽銭を下ろせなかったのですかと言ったら、えらく恐縮していたが、その後どう処置されたのだろうか。それにしても、神官が山を下りると、賽銭箱も外すとは如何なものか。因みに白山観光協会は白山比め神社内にある外郭団体なのだが。
 頂には50人ばかり、若い男女が多く、皆さん眺望を楽しんでおいでる。私も大汝へ行かないと決めて、ゆっくり30分ばかり滞在した。下りもゆっくり下る。時々足がもつれる感じもするので尚更だ。中に二人走って下る人が、径を譲るとスミマセンと言って駆け下りていった。若いときは競い合ったこともあるが、とても今は出来ない。下りに22分も要した。以前より5~7分余計にかかっている。上りだけでなく下りでも歳を感ずる。
 下山するには少々早いが、午後1時前に室堂を発つ。五葉坂でまた一人サポートタイツを着けた走り組が、坂は石組みなので、駆け下りるとまではゆかないが、かなりのスピードで下りていった。弥陀ヶ原の木道は駆け足で、近頃はこの種のトレイルランナーが増えてきたようだ。エコーラインからのんびり下る。下るにつれてガスの中に入る。水平道から砂防新道との三叉路へ、この辺りから上りの人が目立つようになる。大きな荷物の人は、南竜のテント場だろう。夫婦や恋人同士の数組に会う。南竜小屋は外側が大分傷んでいたが、見ると足場が組まれていて、修復しているようだ。荷の少ない人は小屋泊まりなのだろう。明日の天気予報は曇りか霧だった。甚之助小屋に着いたのが午後2時近く、ここでも何十人もの登山者がいた。今からだと泊まり、南竜にしろ室堂にしろゆっくり時間がある。でも驚いたことに別当の七曲りで若い女性一人が登ってくるのに出会った。時刻は午後3時、荷はほとんど持っていないものの、小屋へは日没寸前になるだろう。ベテランなのかも知れない。こうして今年初の白山行は終った。下りはエコー経由で2時間38分を要した。72歳ではこんなものか。

2009年9月1日火曜日

東北の秘湯:八幡平周辺の温泉

 八幡平は深田久弥日本百名山に入っていて、秋田と岩手に跨っている。標高は1613mで、頂上らしきものはなく、山頂と思しき場所に展望台が建てられている。ここには「八幡平頂上」というバス停や見返峠駐車場があり、標高は1541mで、岩手・秋田の県境、八幡平アスピーテラインと八幡平樹海ラインの交差点でもある。ここから八幡平の山頂までは1.3kmの距離である。一帯はなだらかな高原状で、地塘が散在している。この地域一帯は、昭和31年に八幡平、秋田駒ヶ岳(二百名山)、岩手山(百名山)の特別区域を含む八幡平地域が、十和田国立公園に追加指定され、十和田八幡平国立公園となった。またこの八幡平一帯には多くの温泉が点在していて、新玉川温泉への湯治の際には探訪することにしている。マイカーでなく路線バスを利用するので、1日に1湯しか巡れないから1年に1湯、3年かけてようやく3湯をゲットした。いずれも秘湯というのに相応しい温泉で、みな個性があって面白い。
1.後生掛(ごしょがけ)温泉 (秋田県鹿角市八幡平熊沢国有林内後生掛)                                
 後生掛温泉の場所は、玉川温泉との間にある焼山を挟んで丁度反対側に位置している。玉川温泉からは向かいの焼山へ登り、毛せん峠を経て行く登山道があり、歩いて5時間ほどで着ける。路線バスだと、焼山を大きく迂回して行くことになる。新玉川温泉からは八幡平頂上行きのバスに乗り、八幡平アスピーテラインのバス停「後生掛温泉」で降り、300mばかりの緩い坂道を下ると温泉宿に達する。右手に大きな湯治棟、左手に旅館棟がある。ここは標高1000mばかり、ここからは奥へ後生掛自然研究路という約2km/約40分のコースが延びていて、いろんな火山現象を見ることができるので、巡るとよい。
 舗装された道を暫く歩くと、右手川原に大きな熱湯が噴出している場所があって、「オナメ(妾)」だという。またその隣りには激しく水蒸気が噴出している「モトメ(本妻)」という場所があり、この温泉の名称の謂われとなっている。さらに進むと「紺屋地獄」があり、煮えたぎった黒青色の泥湯が溜まっている池が、そして次には「小坊主地獄」と呼ばれる、泥湯が泡立つ「マッドポッド」の光景が見られる。そして更に進むと、およそ1haはあるという大湯沼が現れ、展望台まで登るとこの沼の全貌を見ることができる。ここで左折して沢に沿った道を行くと、「中坊主地獄」と呼ばれる強酸性の湯が湧き出ている場所がある。さらに進むと、「泥火山」といって、水分を多量に含む粘土が火山が噴火しているように噴き上がっている泥池に達する。そして噴気孔、正に火山活動を間近に見ることができるコースである。途中の売店で、ここでしかないという黒いゆで卵を求めたが、後で宿へ帰ってから開けて見ると、色はかなり薄れていて、何か狐にばかされたような感じがした。
 入湯料400円を払って湯屋に入る。ここのお湯は、正に今見てきた泥湯そのもの、大きな箱型に入った泥湯に身を沈めると、何とも奇妙な感じである。泥は極めて肌理が細かく、身にまつわりついてくる。泥湯は裏の泥湯池から引いてくるとか、出るときはなるべく泥を落として上がって下さいとある。箱から出て、残りの泥を滝湯で流してから大浴場に入る。女性は美容のため、顔を含め体全体に塗布するとか。またここにはオンドル棟もあって、年中地熱で床が温まっていて、リウマチや神経痛の湯治に使われているという。
 湯から上がって食事をして、帰りのバスの時間を見計らって温泉を出る。バス停までは300mばかりの上り、急ぐと息が切れる。バス停に着くと、左手に大沼が見え、湖畔に大沼温泉が、ここにもバス停がある。また目を右に転ずると、八幡平温泉が見える。
2.蒸(ふけ)ノ湯温泉 (秋田県鹿角市八幡平熊沢国有林内蒸ノ湯)
 後生掛温泉から八幡平頂上へ向かって、バスでアスピーテラインを標高で200mばかり登ったところに「大深温泉」のバス停があるが、そこから急な枝道をおよそ100mばかりクネクネと下ると、そこに「ふけの湯」のバス停がある。途中にスキーのリフトがあったが、今は使われていない。以前にはもっと高いところまでリフトが延びていて、蒸ノ湯まで滑り込んだというが、今はリフトは残骸となっている。バス停からさらに徒歩で下ると蒸ノ湯がある。木造の校舎のような建物で、玄関を入ると正面に「ふけの湯神社」が鎮座していて、左右に大きな一対の「金勢(精)さま」があり、その間には沢山の金勢さまが所狭しと並べられている。何でも此処の湯は「子宝の湯」として知られていて、子宝が授かった湯治客がお礼に金勢さまを奉納するのだとか。建物の中にも内湯があるが、はるか向こうに湯煙が上がっている大きな露天風呂が見えていて、そこへ入ることに。入湯料500円を払い、荷物を預け、露天風呂へ向かう。大きなヒバの浴槽が2つ、聞くと、元はこの場所に建物があったが、土砂崩れで倒壊し、建物は現在地に移したが、浴槽はそのままにして露天風呂として使っているとかである。浴槽の周りにはスノコが敷かれていて、湯から上がったらそこで寛ぐこともでき、ここでビールを飲んだら最高だろうなと話す。でも本館とはかなり離れていて、それは叶わない。湯量は大変多く、掛け流しである。ここは標高1100m、見上げると、一帯はブナやダケカンバの緑一色、何でもマイナスイオンの含有量が日本で最大とか、ともかく実に素晴らしい環境である。お湯は淡い乳白色をしていて、目にも優しい。上がって本館に戻り、食堂で地ビールと地酒を飲み、山菜そばを食べる。
 ここは「日本秘湯を守る会」の一員。営業は4月中旬から11月上旬まで、冬季は休業となる。
3.藤七温泉「彩雲荘」 (岩手県八幡平市松尾寄木北の又)
 バス停「八幡平頂上」にある八幡平パークサービスセンターから南に目を向けると、下に藤七温泉「彩雲荘」の赤い屋根が見える。いつかは一度行きたいと思っていた温泉だ。この日は新玉川温泉からバスで終点の八幡平頂上まで上り、頂上のバス停まで藤七温泉のマイクロバスで迎えに来てくれるように予めお願いしておいた。昨年は都合で送迎して貰えず、行けなかった。もっとも車道を歩いても約2kmと150mばかりの下りだが、帰りはその逆で大変である。藤七温泉からは、天気が好ければ、岩手山や秋田駒ケ岳、それに八幡平の南半分を独り占めしたように眺めることができる。何でも東北では最も高所にある温泉とか、標高は1400mである。従って営業は4月末日から10月末日までで、冬季は休業である。
 宿は二階建ての木造、冬は雪に閉じ込められる山の宿とて、立派なものではない。しかし、ここの露天風呂は実に素晴らしい。混浴の露天風呂は5箇所、それに女性用が1箇所、本館には内湯に続く外湯が男女各1つ、私達は玄関右手の露天風呂群へ出かける。日帰り入湯は600円、木戸を通って脱衣場から露天風呂へ、一番目の露天風呂には夫婦の先客がいた。乳白色のお湯は湯温を調節してある。暫く間があってから、ご婦人が一番上の露天風呂に行ってごらんなさいと。何でもその風呂では湯床からブクブクと気泡が出ていて、ジャグジーみたいな感じで気持ちがいいですよと教えてくれた。早速50mばかり先にある風呂へ坂を登っていく。その露天風呂はそんなに大きくはないが、入ると底からそんなに激しくはないものの、しょっちゅう気泡がそこここから出ている。こんな経験は初めてだ。どうもこの一番上の露天風呂のみが特に激しいらしい。一番高みにあるので、露天風呂全体を見下ろすことができ、実によい眺めである。順に下の風呂へと入りながら下る。風呂の泉質は少しずつ違うような印象を受ける。一番下の右手に簾で囲って大きく「女」と書かれた女性専用の露天風呂がある。上がって昼食にする。食事はバイキング、そばも出た。客は20人ばかり、今日は天気がよくなく、ガスがかかっている。少憩の後、マイクロバスで八幡平頂上のバス停まで送ってもらう。天気が良かったら最高だったろうに。聞けば、この湯も「日本秘湯を守る会」のメンバーだった。

 以下に、温泉巡りをした三湯の[泉質]と[適応症]を挙げる。
1.後生掛温泉。[泉質]酸性単純硫黄泉。[適応症]神経痛、リウマチ、喘息、冷え性、婦人病、血行障害など。[泉温]94℃。
2.蒸ノ湯温泉。[泉質]単純酸性泉・低張性酸性高温泉。[適応症]神経痛、リウマチ、婦人病など。「子宝の湯」として知られる。[泉温]96~98℃。
3.藤七温泉。[泉質]単純硫黄泉。[適応症]神経痛、慢性消化器病、糖尿病、皮膚病、動脈硬化症、婦人病、冷え性など。[泉温]91℃。