2018年3月22日木曜日

「やまぎし」は当分の間休業との知らせ

 「やまぎし」は1月と2月は冬季休業しますとあったが、今冬は大雪だったこともあって、3月に果たして開業できるかと訝っていたが、3月9日 (金) に電話したところ、3月2日からやっていますという山岸さんからの返事で早速出かけた。道路は完全に除雪されていますと言われたとおり、左礫までの道路は道端には半端でない雪の壁はあるものの、すいすいと店まで着けた。この日は山岸さんと末の妹さん (金沢市田上在住) の二人のみ、いつもは奥さん (金沢市大額在住) もお出でて3人体制なのだが、まだ始まったばかりでそんなに急がしくないからおいでないのだと思ったりしていた。そんな思い入れもあって、私は特段山岸さんには「今日は奥さんはおいでにならないのですか」とは訊かなかった。でも私がいつも御入来の H さんのお話を聞いていた間、家内は妹さんと談笑していたが、その会話の中で、奥さんは一寸身体の具合が良くないので今日はお休みと伺ったと家内から聞いた。それで私も家内もいつもお元気な奥さんのこと、今はインフルエンザも流行していることだし、それで大事をとっておいでるのだろうと思っていた。
 私達が「やまぎし」へ訪れた1週間後、家内の従姉妹から「やまぎし」へ行きたいと連絡が入った。行くルートや電話番号などのほか、食べるなら「黒」を頼みなさいとか、一つ手前の部落の渡津の「蛍の里」でとれた蛍米のおにぎりを賞味しなさいとか、天ぷらも美味しいとか、いろいろアドバイスをしていたようだ。行くのは翌土曜日の3月17日とかだった。当日従姉妹達はカーナビで左礫を目指したが、一つ手前の渡津でナビに不具合が起き、ここを左礫と思い違いし探したが見当たらず、家内の携帯に電話があったという。家内は一つ手前の部落ではないかと思い指示したらしいが、その後ナビが復旧して無事「やまぎし」に着けたようだった。ところが「やまぎし」の玄関に「当分の間休業します」という貼り紙がしてあったと連絡が入った。
 大きな紙に書いてあったというから、私はその文面に何か手掛かりになる理由でも書いてあるのではと思い、直接目で確かめたくなり、3日後の20日の火曜日に「やまぎし」へ向かった。前に行った時はまだ1m もの雪があったが、10日ばかりの間に随分と少なくなっていた。着いたのは正午過ぎ、玄関には次のような文言の紙が貼られていた。
「御案内/大変ご迷惑をお掛けしますが 当分の間 休業させて 頂きます/どうぞよろしくお願い致します/店主」
 これを見て、私も家内も、9日に寄った時に奥さんがおいでにならなかったこと、当分の間ということは、奥さんの看病をしなければならなくなったのではと思いを馳せた。お聞きする手だてはあるけれども、家内では当分はしない方が良いのではということで、それはしないことにした。
 午後1時近くになり、従姉妹達はこの前ここ「やまぎし」で蕎麦を食べられなかったので、出会 (旧鳥越村) にある道の駅「一向一揆の里」の食彩館「せせらぎ」で鳥越そばを食べたというのを思い出し、まだ一度も食べていないので寄ろうかと提案した。すると家内は道の駅「瀬女」にある「山猫」へ行こうという。昨年は4度ばかり訪れたが、いつも時間がお昼時ということもあって、1〜2時間待ちという盛況ぶり、今日なら平日でもあり何とかありつけるのではとの期待を込めて向かった。別宮から釜清水、木滑を経由して瀬戸へ、でも平日なのに道の駅には車が多い。「山猫」の前に車を停め、いざ店へ、でも閉まっていた。よく見ると、小さく火曜日と水曜日は定休日ですと書いてあった。
 家へ向かう道すがら、途中の吉野の「花川」は家内はパスをするというし、また鶴来の「草庵」は女将さんがいるかどうか分からないからとパス、とどのつまり新神田の「亀平」に落ち着いた。午後2時近かった。店は私達を入れて5組、繁盛している。私達はいつものように立山の冷酒に、つまみに「そばみそ」「てんぷら」「だしまきたまご」を、そして〆には「十割そば」を頂いた。営業時間の午後3時前に店を辞した。今日は大相撲春場所10日目、いつものようにお酒を飲みながら、テレビで鑑賞することに。「遠藤」や「輝」らの郷土力士の活躍に力が入る。
 どうか早く本復されて元気になられ、再び「やまぎし」でお会いしたいものだ。 

2018年3月14日水曜日

冬眠明けの「やまぎし」を訪ねる

 今年の山岸さんからの年賀状には、「1月と2月は冬眠休業します」とあった。奥深い山奥のこと、さもありなんと思ったものだ。しかし山岸さんの家がある左礫のさらに奥5km の阿手にあった鳥越大日スキー場には以前よく通ったものだが、雪道だったものの車で十分行けたものだ。とすれば、今はスキー場こそないものの、左礫の上流には阿手を含め3部落あることから、積雪期とは言え、少なくとも道路の除雪はされているのではと思う。でも冬眠というからには、1月2月は交通の便はやはり悪いのだろうと思ったりした。
 ところで今年は半世紀ぶりともいえる大雪に見舞われ、立春寒波の折には、金沢でも一時積雪は87 cm にもなり、街中の融雪装置がない道路では除雪もままならず大変だったようだ。そして幹線道路も大渋滞、鉄道も在来線は運休で大混乱、ここ数年は暖冬で気が緩んでいただけに本当に往生した。それにしても北陸新幹線は平常通り運転していたのは驚きだった。我が家でも除雪というか、車2台のスペースの確保に連日汗を流したものだ。庭にはその時の雪の名残がまだ残っているものの、その残雪も3月半ばには無くなるだろう。
 こんな大雪だったものだから、山はもっと大変だったろうし、「やまぎし」も休業は1月と2月だけと言われていたが、ひょっとしてまだ開業は無理なのではなかろうかと勝手に憶測したりしていた。定休日は水曜と木曜なので、3月の第2週の9日に、やっているとすれば営業しているはずの 11 時に、念のため電話してみた。すると3月2日からやっていますととのこと。道路には雪もなく、来られるのには全く心配はありませんとのこと、それではと早々に家内と訪れることにした。
 道路に雪はないとのことだったが、念のため私の四駆のハイラックスサーフで出かけることに。私が住む野々市周辺には全く雪はなく、でも鶴来辺りまで来ると、路肩には雪が残ったりしている。道が大日川に沿って上流へ向かうと、道路には雪がないものの、周辺にはまだ雪が残っていて、別宮を過ぎると残雪の量も次第に多くなり、左礫辺りでは道路にこそ雪はないが、道端の雪の壁は優に1m は超えて
いる。後で聞いたところでは、降雪時には午前1回、午後1回除雪車が入ったので、車の運転には支障がなかったとのことだった。でも枝道は除雪されていなくて、山岸さんのところも玄関先は除雪されていたものの、奥まった駐車場は1m余の雪で埋まったいた。家から1時間ばかり、12時半には「やまぎし」に着いた。車が2台停まっていた。
 この日は山岸さんと末の妹さんの二人、お客は3人、今日は焼酎 (財宝) がないのでお酒にして下さい
とのこと、手取川を2杯貰うことに。そばは家内は「黒」の普通盛り、私は「田舎粗挽き」の普通盛り、そして「天ぷら」を2人前、酒以外はいつものコースだ。この時期天ぷらの具材は少なく、ありきたりのかきあげだったが、これはこの時期致し方のないことだ。ところで今日の蕎麦は加賀市宮地の産とか、「やまぎし」では北海道産も扱うが、宮地の方が味も香りも良いとか、家内は久々に美味しいそばを味わったと感激していた。私はいつものように岩塩をまぶし、酒を飲んだ。至福の時間だ。先客が帰り、久々に山岸さんと談笑した。窓が雪で埋まっていたが、つい3日前にやっと窓から空が見えるようになったとか。でもまだ雪は深い。
 午後1時過ぎになり、これまでも何度かこの時間帯に出会ったことのある N さんが御入来になった。マタギまがいの彼氏は大概ここ「やまぎし」で昼食をとるのが常らしい。まだこの辺りは一面雪だが、1カ所だけ雪が早くなくなる場所があり、今日はそこでフキノトウを採ってきたという。そこのフキノトウは他所と違って苦みが少なくて上品な味がするとか。そして彼が注文したのは「黒」の大盛りに特大の「蛍米のおにぎり」と「天ぷら」、すごい健啖家だ。昨年母親を亡くしてからはフリーで、今は四季を通じて山に入り、山菜採りばかりでなく、時に猪も捌くという。山には送電線の巡視路や植林の作業路を利用しているという。また山歩きは鞍掛山をホームグランドにしているようだし、スキーも大変上手だとか。また左礫の裏手の大日川と手取川の分水嶺である白抜山から鷲走ヶ岳にかけての山はホームグランドのようなもので、よく入るという。さらに驚いたことに、クロダイがある時期ある時刻にある気水域に上がることを知っていて、獲りに行くとか。活き絞めの技術も持っているとか。いろいろ面白い話を伺った。この間、家内は末の妹さんと談笑していた。
 午後2時に「やまぎし」を辞して、初めて別宮から軽海を経由して家に帰った。

2018年2月27日火曜日

平成30年 (2018) 2月17日 (土)

 2月9日から17日間の予定で平昌冬季オリンピック大会が始まった。小生今はサンデー毎日の身、振返って17日間毎日テレビにかじりつき、オリンピックを楽しんだことになった。でもこの間50年ぶりともいう強烈な立春寒波に見舞われ、延べ8日間は老骨にむち打ち除雪に精を出さざるを得なかったりもした。家内もよく協力してくれた。これは一つには足としての車を動かせるようにするためで、家の前の奥行ある敷地内を除雪すれば、前の道路は融雪装置が完備しているので、その点は細い路地に面している家とは違って、格段に雪の恐怖は少なかった。それにしても久方ぶりの大雪にはシッペコイタ。
 ところで2月17日 (土) は、オーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の第2ヴァイオリン首席奏者の江原千絵さんのヴァイオリン・リサイタルの日、お正月の年賀の挨拶にもお知らせがあり、ぜひ出かけねばと思っていた。彼女が金沢へ来られたのは OEK の設立間もない時、もう25年が経過している。そしてまだ来沢されて間もなくだったろうか、永坂先生の事務所で米田さんや前田さんらと団欒したこともあり、OEK の定期演奏会では4列23番という彼女とは指呼の間の席 (現在は10列10番) に陣取って演奏を聴いたものだ。というのも彼女の言では、ステージから聴衆を認識できるのはせいぜい8列までと聞いていたからだ。彼女は大学卒業後はハンガリーに留学し、コヴァーチ・デーネシュに師事した。一度師が金沢へ来られた折には、師とデュオでヴァイオリン・リサイタルを開かれたこともあった。バルトークやコダーイの曲だったろうか。そして今年のお正月の年賀を兼ねた案内には、師が最も得意としていた曲の一つのバルトークの無伴奏ヴァイオリンソナタと「44のソナタ」を弾きますとあった。そして最後の添え書きに、「オーケストラの室内楽のコンサートでは、誰でも知っている簡単な曲をとよくリクエストされますが、敢えて自主企画では『弾きたい曲だけ弾く』選曲にこだわった」とあった。
 さて私のスケジュール表には、金沢アートホール (304 席) でのリサイタルは午後2時半と記されていた。またこの日は泉丘高校同期有志の会の「湧泉会」が金沢ニューグランドホテルで開催されることになっていた。この例会は午前 11 時半から昼食を兼ねて午後3時半頃までダベルのが常なので、2時少し前に退出してリサイタルに向かう予定にしていた。ところでこの日は丁度オリンピック開催 10 日目で、羽生結弦の金メダルがかかったフィギュア男子のフリーの決勝の日、最も期待がかかっているだけに、私は先ずこれを最優先にすることにした。滑走順の予定時刻は午後1時43分、それで今一度入場券を確かめた。するとリサイタルの開演は午後3時、それで結果を確かめてから駆けつけることにした。結果は第1位、前回オリンピックに続いての2連覇、こんな快挙は66年ぶりという。見届けてから会場へと車を走らせた。開場の2時半前にはホールに着けた。会場へのエレベーターでは寺田先生に、ホール前では永坂先生、早川先生、前田さん、米田さん、松田さんほか探蕎会の方々とお会いした。私はその結果を皆さんに報告したものだ。ところで早川先生から片岡さんという青年を紹介された。という彼は私とは1日早い生まれの従姉の長男さんだとか、初めてお目にかかった。奇遇だった。彼は早川先生が施設長をされていた医学部の動物実験施設に勤務されているとか、びっくりした。聴けば野々市に
ある私の家にも寄られたことがあるとか、正に驚きだった。会場でも隣どうしに座りいろいろ懇談できた。
 定時に開演、先ずエルガー作曲/藤家渓子編曲の「愛の挨拶」、よく知られたポピュラーな曲だが、ソロヴァイオリン用に編曲されると元の雰囲気とは全く異なる曲になる。次いでシュニトケのフーガに続いてデュオでの Moz-Art、一度 OEK で聴いた記憶があるが、モーツアルトの旋律に則っているとはいえ全く別の代物、これは弾いている人が快感を味わっているのではと思わせる曲だった。そして江原さんが作曲を権代淳彦さん ( OEK の 2004 年のコンポーザー・イン・レジデンス 及び 2014 年のコンポーザー・オブ・ザ・イアー) に委嘱して作曲してもらったという「今も死の時も」という世界初演のヴァイオリンのソロ曲、前衛的だ。そして藤家渓子さん ( OEK の 1998 年のコンポーザー・イン・レジデンス)が編曲したトスティのアヴェマリア、これも前衛的だ。休憩を挟んでバルトークの「44の二重奏曲」から12曲、面白いが、これはむしろ演奏者がその演奏を楽しんでいるように思えた。そして最後は名演奏家メニューインからの委嘱でバルトークが亡くなる前年に作曲されたという「無伴奏ヴァイオリンソナタ」、演奏時間は25分ばかり、私は初めて聴く曲だった。この日の演奏はすべて譜面を見られての演奏、難曲ともなれば正確を期すには必要かも知れないが、難曲であってもソロで弾くのなら見ないで弾く方がずっとスマートだ。アンコールはなかった。でも難曲ついでに、こちらはポピュラーなサラサーテのツィゴイネルワイゼンでもアンコールに応えて演奏して頂けたら満足だったのだが。演奏後に彼女に会えるかと思っていたが叶わず、何か消化不良になったような気分になり、26日の OEK
次期芸術監督に就任するマルク・ミンコフスキーのコンサートを聴きたくなりチケットを求めた。
 帰りに迎えの車の中で、家内からこの日行われた第 11 回朝日杯将棋オープン戦で、初参加の15歳の藤井聡太五段が準決勝で羽生善治竜王、決勝で広瀬章人八段を破り優勝、六段に昇格したと告げられた。居並ぶ棋士たちが脱帽する華麗な決め手だったという。

2017年12月12日火曜日

戌年に因んだ頭に「イヌ」の名の付く植物(2)

(承前)
 ところで、頭に「イヌ」の付く植物は沢山ありますが、でも「イヌ」の意味は「犬」ではなく、「よく似てはいるが、実は違っている」とか「ホンモノではなく、実は役に立たない」ということを示す接頭語として使われているようです。次に先に掲げた文献から、イヌが頭に付く植物を「草本」「木本」「羊歯」の順に植物の名称(50音順)と科名を羅列してみました。

[ 草本 ]  *印は帰化植物 
 イヌアワ(イネ科)、イヌイ(イグサ科)、*イヌカキネガラシ(アブラナ科)、
*イヌカミツレ(キク科)、イヌカモジグサ(イネ科)、*イヌガラシ(アブラナ科)、
*イヌキクイモ(キク科)、*イヌクグ(カヤツリグサ科)、イヌクログアイ(カヤツリグサ科)、
 イヌグンバイナズナ(アブラナ科)、イヌコウジュ(シソ科)、*イヌハコベ(ナデシコ科)、
 イヌゴマ(シソ科)、*イヌコモチナデシコ(ナデシコ科)、*イヌシバ(イネ科)、
 イヌショウマ(キンポウゲ科)、イヌシロネ(シソ科)、イヌスミレ(スミレ科)、
 イヌセンブリ(リンドウ科)、*イヌタデ(タデ科)、イヌタヌキモ(タヌキモ科)、
 イヌトウキ(セリ科)、イヌドウナ(キク科)、イヌトウバナ(シソ科)、
 イヌナズナ(アブラナ科)、イヌニガクサ(シソ科)、*イヌナギナタガヤ(イネ科)、
 イヌヌマトラノオ(サクラソウ科)、イヌノグサ(カヤツリグサ科)、イヌハギ(マメ科)、
 イヌハコネトリカブト(キンポウゲ科)、*イヌハッカ(シソ科)、イヌビエ(イネ科)、
 イヌビユ(ヒユ科)、*イヌヒメコズチ(シソ科)、*イヌヒメシロビユ(ヒユ科)、
*イヌヒレアザミ(キク科)、*イヌホオキギ(アカザ科)、イヌホオズキ(ナス科)、
 イヌミゾハコベ(ミゾハコベ科)、イヌムギ(イネ科)、*イヌムギモドキ(イネ科)、
 イヌムラサキ(ムラサキ科)、イヌヤマハッカ(シソ科)、*イヌヤマモモソウ(アカバナ科)、
*イヌヨメナ(キク科)、イヌヨモギ(キク科)。栽培種にイヌサフラン(ユリ科)。          以上 48種。 

[ 木本 ] 
 イヌウメモドキ(モチノキ科)、イヌエンジュ(マメ科)、イヌガシ(クスノキ科)、
 イヌガマズミ(スイカズラ科)、イヌガヤ(イヌガヤ科)、イヌガンピ(ジンチョウゲ科)、
 イヌグス=タブノキ(クスノキ科)、イヌゴシュユ(ミカン科)、イヌコリヤナギ(ヤナギ科)、
 イヌザクラ(バラ科)、イヌザンショウ(ミカン科)、イヌシデ(カバノキ科)、
 イヌシュロチク(ヤシ科)、イヌツゲ(モチノキ科)、イヌツルウメモドキ(ニシキギ科)、
 イヌニオイバラ(バラ科)、イヌニンドウ(スイカズラ科)、イヌビワ(クワ科)、
 イヌブシ(カバノキ科)、イヌブナ(ブナ科)、イヌマキ=クサマキ(マキ科)、
 イヌマルバヤナギ(ヤナギ科)、イヌムラサキシキブ(クマツヅラ科)、イヌリンゴ(バラ科)。
   以上 24種。

[ 羊歯 ]
 イヌイワガネソウ(ホウレイシダ科)、イヌカタヒバ(イワヒバ科)、
 イヌガンソク(イワデンダ科)、イヌケホシダ(ヒメシダ科)、イヌシダ(コバノイシカグマ科)、
 イヌチャセンシダ(チャセンシダ科)、イヌドクサ(トクサ科)、イヌナチクジャク(オシダ科)、
 イヌワラビ(イワデンダ科)。  以上 9種。 

2017年12月11日月曜日

戌年に因んだ頭に「イヌ」の名が付く植物(1)

 来年は戌年なので、頭に「イヌ」の名が付く植物を検索しました。参考にした図書は次の通りです。
  A. 日本の野生植物(草本) Ⅰ〜Ⅲ 平凡社 (1982)
       B. 日本の野生植物(木本) Ⅰ〜Ⅱ  平凡社 (1989)
       C. 日本の帰化植物         平凡社    (2003)
    D.    山渓カラー名鑑 日本の野草   山と渓谷社   (1993)
       E.    山渓カラー名鑑 日本の樹木  山と渓谷社    (2011)
       F. 写真でわかるシダ図鑑     トンボ出版     (2008)

 接頭語に「イヌ」の名が付く植物はかなりありますが、動物の「犬」に因んだ植物は少なく、私が知っているのは「イヌノフグリ」とその仲間のみでした。イヌノフグリは日本在来の草で、漢字では「犬の陰嚢」と書き、それはこの草の実の形が、小さいながらも犬の陰嚢そっくりなことに由来しています。この草は道端や空き地などによく匍匐して生えていて、春には径4mm 位の紅紫條のある淡紅紫色の小花を沢山付けます。この仲間でほかによく目にするのが「オオイヌノフグリ」と「タチイヌノフグリ」です。2種とも明治初期にヨーロッパから渡来した植物で、今では日本全国に広く分布し、同じく道端や空き地によく見られます。中でも西アジア原産で明治初期に渡来したといわれる「オオイヌノフグリ」は欧州では Bird's  eye と呼ばれ、春には濃い紫條のある径7〜10 mm の青紫 (藍・瑠璃) 色の可憐な美しい花を咲かせ、なかなか美しく、今では雑草のように言われますが、匍匐して一面に咲くと中々壮観です。そしてその果実がなんとも犬の睾丸にそっくりなので笑えます。本当に野に咲く春の使者という感じのする草で、誰しも一度は目にしておいでで、ご存じの筈です。一方「タチイヌニフグリ」はこちらも帰化植物で、全国に広く分布していますが、前2者とは異なり、匍匐せずに立ち上がっています。花は淡紫色で、径は2mm と小さく、目立ちません。田畑や道端では余り目にしませんが、私の家の庭には散見できます。
 以上は通常の植物図鑑にも搭載されているイヌフグリの仲間ですが、平凡社刊の日本の野生植物の草本編によりますと、これらの外に何れもヨーロッパ原産であるコゴメイヌフグリ (花は白色、径は5mm)、ツタノハイヌフグリ (花は淡青紫色、径は4mm)、アレチノイヌフグリ (花は濃青紫色、径は5mm) が掲載されています。これらイヌフグリの仲間はいずれも分類上はゴマノハグサ科に属している草本です。
 その外に動物の犬に因んだ名をもつ草木を調べたところ、「イヌノヒゲ」「イヌノヒゲモドキ」「イヌノハナヒゲ」という植物がありました。前二者は和名で「犬の髭」「犬の髭もどき」、後者は「犬の鼻髭」で、その花の形状が犬の髭や鼻髭に似ていることから付けられたようです。前二者は分類上はホシクサ科、後者はカヤツリグサ科で、三者とも在来種のようですが、私は見た記憶はありません。


2017年12月7日木曜日

同窓会・同志会・同門会・同好会を振返る(2)

5.金沢大学薬学同窓会
 会則を見ると、会員は金沢大学薬学類、創薬科学類と旧薬学部およびその前身校の現・旧教職員、学生並びに卒業生、大学院生並びに修了生ほか、入会を希望する者とある。名簿には草創期の加賀藩卯辰山養生所舍蜜局 (慶応3・1867) の卒業生から現在までの卒業生が収載されている。でも現在この同窓会の大きな母体となっている組織は、旧金沢医科大学附属薬学専門部 (薬専) と金沢大学薬学部の卒業生である。ところで金沢大学薬学同窓会総会は毎年5月の第3土曜日に金沢市で開催されることになっていて、今年は5月20日に 150 年記念式典を兼ねて第54回総会が開催された。
 地域同窓会:石川 → 北陸薬学同窓会
 現在地域同窓会は全国に15あり、石川県でも県内に在住する同窓生が中心となって、毎年1回同窓会を10月に開催してきた。これまで石川県在住の会員のみの同窓会を14回、また富山・福井と合同の同窓会を5回行ってきたが、来年以降は名称を北陸薬学同窓会として北陸3県在住の同窓生で開催することになった。状況を見ると、地域同窓会の活動は必ずしも一律でなく、都会では活発だが、地方ではそうとは限らないようだ。

6.金沢大学医学部十全同窓会
 会則を見ると、会員は特別会員、通常会員、準会員とからなり、特別会員は医学部や附属病院等に勤務した講師以上の教職員、通常会員 (Ⅰ) は、現医学部医学科、大学院医学系研究科及び旧制医科大学出身者、通常会員 (Ⅱ) は他学部もしくは他校の出身者で学位を授与された者となっている。私は昭和50年2月に学位を授与され、以降十全同窓会の会員になっている。ただ通常総会には出席したことがない。
 金沢大学医学部微生物学教室同門会
 この会は微生物学教室に過去もしくは現在在職の教職員と、初代教授の谷先生以降、この教室で学位を授けられた方々とで構成されている。現在名簿に登載されている会員は78名と特別会員が2名、また物故者が104名おいでる。私は2代目教授の西田先生の折に、波田野助教授の下にウイルス研修の教えを乞い、後に先生が癌研究施設 (後にがん研究所) に移られてからは、そこで論文を仕上げた。ところで私が微生物学教室に1年半専修生として在籍したこともあって、学位を授与された折に微生物学教室同門会の端に加えられ今日に至っている。これまで2度同門会の幹事を仰せつかったことがある。この会は3代目教授の中村先生までは毎年開催されていたが、4代目の清水教授の時には一時中断された。しかし5代目藤永教授が就任されて再び復活し現在に至っている。藤永先生は女性だが、同門会の開催には前向きで、同門会誌「楷樹」も創刊された。会は今は毎年開催されている。今年は11月11日に金沢市内のホテルで開催された。

7.金沢大学学友会
 この会は平成23年 (2011) に設立された。構成員は個人会員と団体会員とからなり、個人会員は金沢大学の卒業生及び修了生と教職員であった者、また団体会員は基幹同窓会 (金沢大学及び前身校及び付属校の同窓会) のほか、準団体会員として卒業生で組織する様々な同窓会や団体も加入することができるとなっている。従って私の場合、卒業生としての個人会員のほか、私が所属する金沢大学薬学同窓会や金沢大学医学部十全同窓会は団体会員に、私が関わる金沢大学山岳会は準団体会員になっている。この会の総会は毎年秋に行われる金大祭に合わせて行われる金沢大学ホームカミングデイの際に開かれている。現在の会長は前金沢市長だった山出保氏 (法文学部卒) である。
 第11回金沢大学ホームカミングデイと第7回学友会役員総会
 今年は第54回金大祭に合わせて10月28日に金沢大学角間キャンパス自然科学本館で開催された。この会に案内を受けるのは、76歳以上の卒業生と卒業後50年、45年、40年、30年、20年、10年を経過した方々で、私は現在80歳なので、毎年案内があり、毎年参加している。内容はキャンパスの見学会、歓迎式典、特別講演、役員総会、懇親交流会である。式典の始めに金沢大学校歌(室生犀星作詞、信時 潔作曲) を斉唱するのが習わしとなっているが、なかなか素晴らしい歌で感激する。その後学長や会長の挨拶、大学の現況や留学体験の報告等があった。しかし毎年参加者はそんなに多くはなく、今年は3百名ばかりだった。
 付.金沢大学山岳会
 私が金沢大学に昭和30年に入学した頃には「山の会」というのがあり入会した。その後山岳部に昇格させ、かなり先鋭的な登山も行うようになり、ヒマラヤのハッチンダールキッシュ峰遠征の折の壮行会には当時の金子金大学長も来賓として参加して頂いた。でもその後アンデスやヒマラヤ、冬の北アルプスや白山での遭難もあり、女性も入部できたワンダーフォーゲル部に人気が集中、4K の山岳部は人気がなく、平成17年卒の薬学生を最後に廃部となった。山岳部がある時は山岳部 OB 会だったが、部が消滅して以降は山岳会と称している。現在は北陸、関東、中京、関西の4支部持ち回りで毎年会を開いている。今年は創部60周年記念総会を石川で開いた。現在生存会員は102名である。

2017年12月6日水曜日

同窓会・同志会・同門会・同好会を振返る(1)  

1.野々市町立野々市小学校と野々市町立野々市中学校の卒業生の会
 私達は昭和17年4月に野々市町立国民学校に入学、終戦後は町立小学校になり、義務教育で全員が野々市中学校に入学、昭和27年3月に卒業した。両方合わせた延べ人数は、男28名、女26名、計54名である。現在物故者は男12名、女5名、その外住所不詳の人が男に3名いる。従って連絡可能な同窓生は男13名、女21名の計34名である。まだ野々市町が合併する前のこととて、1学年1クラスだった。私達が卒業した小・中学校は、今は跡地に碑が建っているのみである。中学校卒業後は十年おきに町の公民館で皆が集まっていたが、還暦を期に毎年集うことにし、同窓会の名を「子うし会」とし、加賀温泉での1泊と3泊4日の旅行を交互に行なうことにし、20年間続けてきたが、昨年皆さん数え80歳になったことから、野々市町照臺寺での物故者法要と加賀山代温泉での傘寿の祝いを行ったのを最後に全員での同窓会を終いにし、後は隔年での有志での旅行をすることにした。因みに会での最後の旅行は長崎の五島列島だった。

2.石川県立金沢泉丘 (いずみがおか) 高等学校第7期同窓会
 私達が昭和27年4月に入学した頃は今と違って小学区制で、高校には普通科のほか、商業科や家庭科も併設されていた。泉丘高校には、金沢市では野田中、泉中、高岡中の木倉町以南在住者のみしか入学できなかった。一方野々市中卒業生は、泉丘高のほか、松任高、鶴来高にも進学でき、大部分は泉丘高へ進学した。工業高校は別枠だった。翻って、野々市中学校では戦後間もないこともあり、英語の先生がいなくて、英語の授業は常に自習、ということもあって入学試験は英語と職業の選択、私は農業を選択した。そのお陰で入学してからは英語の授業について行くのが大変だった。こうして私は昭和30年3月に高校を卒業した。同期生は448人、現在物故者は百名を超えている。そしていつの頃からか各クラスの世話人の尽力で、泉丘第7期同窓会が毎年加賀温泉で開催されるようになった。しかし昨年粟津温泉「のとや」での傘寿の宴を最後に全体の同窓会は終了ということになった。ただ有志で泉丘第七期仲良し会と称して今後も存続することになっている。
「耳順会」と「湧泉会」
 前者は平成14年に M 君が20年ぶりに台湾から郷里へ帰るのを期に有志15名ばかりで結成した。以後毎年4回、3ヵ月毎に酒を酌み交わして旧交を温めてきた。しかし三月に一度では旧交を温められないとの意見が出て、5年前から毎月第3土曜日の午前11時半に金沢のとあるホテルで昼食を兼ねて集まることにし、こちらの名称は「湧泉会」とした。そしてこの12月でくすしくも、耳順会も湧泉会も60回を迎えることになる。後者は全くの井戸端会議、でもいつも午後4時頃まで談論風発、実に不思議な会だ。現在毎回集まるのは7名ばかり、来年からは湧泉会一本として月1回昼の開催、ただ6月と12月は夜の開催とすることにした。

3.一泉同窓会(旧制金沢第一中学校と新制金沢泉丘高等学校の合同同総会)
 何時頃からこの合同同窓会が始まったのかは私は知らないが、私はかなり前から毎年出席している。期日は毎年10月15日と決まっていて、今年は創立124年記念と銘打って、金沢駅前のホテルで開催された。毎年参加者は1200人前後あり、大変盛況である。今では旧制金沢一中卒業の方々の参加は20名前後と少ないが、皆さん矍鑠としておいでだ。そして会の終わりには旧制金沢一中の校歌と泉丘高校の校歌を皆で斉唱するが、この瞬間には素晴らしい一体感を感じる。この同窓会には政財界のお歴々も沢山出席されているが、テーブルは卒業年毎、この空間では肩書きなしの先輩後輩の集まりとなる。
「野々市一泉同窓会」
 全国各地に一泉同窓会の支部が設立されるようになり、関東や関西には大きな組織もある一方で、近年石川県内の市町にも支部が設けられている。私が住む野々市市にも組織ができ、毎年ではないが同窓会が開催されている。今年は市内で6月に開催された。

4.国立金沢大学薬学部第7期卒業同期生会(ゼレン会)
 私達は昭和30年4月に入学し、34年3月に卒業した。入学定員は40名、在学中に1人が亡くなり、また教養課程から専門課程へ進学する際に、必須科目の物理で6名が単位を取れず、必死の願いでビーコンが許可になったが、クリアできたのは1名のみだった。また6期生から2名が加わり、同期で卒業したのは36名だった。卒業年が34年だったので、元素番号34のセレンに因み、ドイツ語読みで「ゼレン会」とした。卒業後は5年おきに同窓会を開いていたが、還暦の頃からは、1年おきに金沢で、そうでない年は他の地区に在住している方が主宰することで今日に至っている。これまで7名が他界している。ところで現在地元金沢に在住しているのは3名のみだ。今年は地元の世話で5月に芦原温泉で、来年は関西在住の方々の世話で琵琶湖畔で開催することになっている。