2017年3月10日金曜日

これからの探蕎会の運営

 平成29年の探蕎会の総会が2月26日の日曜日に ANA ホリデイ・イン金沢スカイホテル10階の「白山」で開催された。よころで昨年暮れに開かれた世話人会で、前田事務局長からの報告では、年々会員数が少なくなる傾向にあり、何とか対応策を講じないといけないとの発言があった。振り返ってみて、総会の出席者数を見ても、多いときは80名を超えていたのに、昨今は30名前後で推移していたのに、今年はたったの18名と、これまでで最も少ない参加者数となった。
 この現状にどう対応するかが問題なのだが、一案としては、会をより緩い関係の同好会的な雰囲気の会にすればという案が出された。そこで現在ある会則を改めること、行事ごとに何方かにお願いしていた原稿執筆依頼を止めて、単に記録を残すに止めること、従ってこれまで最低年2回は発行していた会誌の発行を年1回とし、配付は総会時に行なうこととし、そうすれば年会費は1千円でよくなること等の案が事務局から出された。
 総会当日、寺田会長は奥様が亡くなられるというご不幸があり出席されなかったが、永坂副会長の挨拶の後、約1時間をかけて、これからの会の在り方について討論した。ただ総会では新しい会則の承認までは漕ぎ着けられなかったものの、大筋では事務局案に添ったものになるであろうと思われる結論に至った。主な改正点の案は次のようである。
 ・永世会長、顧問、副会長、会計監査等の役職をなくする。
 ・総会は年1回とし、総会での審議事項を明記する。
 ・会費は年額1千円とし、会計年度を4月1日から翌年3月31日とする。
 ・総会は4月に行う。
 また会の名称について、名称を変えてはという意見も出されたが、前田事務局長から、この会の設立に当たって、発起人の故波田野前会長が「探蕎会」という名を提唱された旨の発言があり、会名はその主旨を踏襲する意味からも「探蕎会」の名は継承するのが妥当との意見が圧倒的に多く、これはそれで良かったと思う。
 約1時間の議事と討論の後、記念撮影をし、大滝さんの乾杯で宴会となった。そして例年恒例となった大滝さんが描かれた秋刀魚と果物の絵2点の紹介があった。そして今年の特筆すべきは新入会員の加入であった。松川会員の紹介で入会された磯貝さんで、以前はそば打ちも自身でされたことがあるとか、42歳の好青年、内灘町の町会議員をされているとか、新風が吹き込まれたような清々しさを感じた。終わりに近く、斎藤千佳子さんのヴァイオリン伴奏で「ふるさと」や「荒城の月」を合唱、更に永坂副会長が外国の方がよく演奏を所望されるという「さくら」をというリクエストに応じて、アンコール独奏もされた。こうして総会は永坂副会長の挨拶があって閉幕した。

(閑話休題)
 2月下旬、そば処「敬蔵」から、開業15周年を期して、この3月から月替わりで、これまでの細打ち、太打ちのほかに「創作打ち」を供することにしたという案内があった。そしてその案内では、その「創作打ち」の第1弾として、3月は『極あらびき十割そば』を提供するとか。ただ但し書きには「前もって言っておきますが、粉が粗挽き過ぎて麺がつながりません。切れっぽいですが、それに替わる独特の食感・風味が楽しめるはずです。」とあった。そして続いて「勝手ながら『創作打ち』はその主旨から、もり (900円 )、合盛り (細打ちとの合もり 1000円 ) のみの提供となります。」とあった。そしてこれからも『焙煎そば』や『挽き割りそば』、新茶の季節の『敬蔵の茶そば』など…アイデアいっぱいため込んでありますので御期待下さい、お待ちしておりますとあった。
 それで3月7日 (火) のお昼に、久々に「敬蔵」へ寄った。半年ぶりだろうか、随分御無沙汰していた。注文したのは、家内が「創作打ち」の「もり」、私は「合盛り」を所望した。飲み物は焼酎の蕎麦湯割り、つまには定評ある鴨肉と蕗の薹味噌を頼んだ。敬蔵の鴨肉は定評があり、私は蕎麦屋では最も格が上だと思っている。とにかく旨い。ややあってまず家内にそばが、でも見た目にはとても粗挽きとは思えない程のなめらかさ。粗挽きと言えば、あの鳥越左礫の「蕎麦やまぎし」の「極太粗挽き」はこれこそ粗挽きという印象がすこぶる強いが、それに比べると、実に上品でなよなよした感じがして、とても「極粗挽き十割そば」には見えない。山岸のは13メッシュで篩っているが、敬蔵のはもっと細かいのでは、したがって私が頼んだ合い盛りも同じで、細打ちも粗挽きの細打ちではないのではなかろうか。敬蔵のそばは常々十割なのだが、案内の粗挽きには期待していただけに思惑外れだった。やはり「田舎粗挽き」は「蕎麦やまぎし」に限るようだ。


2017年2月10日金曜日

家内が舩木医院を退職(その3)

(承前)
「寄せ書きの続き」
★「木村さん♡ 本当に本当に お世話になりました。ありがとうございました。お身体に気を付けて!
 また会いましょう♡」 S  Y
★「木村さん〜 たいへんお世話になりました。いつも明るく・元気。木村さん、ありがとう。」 C  O
★「木村さん。大変 お世話になりました。心より感謝しています。これからの人生も、もっと謳歌して 下さい。お疲れ様でした。」 N  F
★『おつかれさまでした! 私のステキなお手本でした。有難う!」 Y  Y
★「お世話になりました。お元気で。」 M  O
★「感 謝」 T  M
★「お元気で!」 J  H
★「木村さん!! 私まだ嫁に行っていないんげんけどー!!! 娘のようにかわいがってもらって 本 当にありがとうございました。」 Y  K
★「おつかれさまでした。自家焙煎のコーヒー 飲みにお立ち寄り下さい。ありがとうございました。」
 T  Y
★「木村さん おつかれさまでした。顔がみられなくなると淋しいですけど また顔を見せにきて下さ  い。マッテマス。」 E  A
★「いつも 素敵な 笑顔で♡ 元気を いただいてました。」 H  H
★「”ありがとうございました。まだ実感がわかないケド。。その一言につきます!」 Y  N
★「♡出逢いに感謝♡ 泣いたり、笑ったり…… かけがえのない時間を ありがとうございました。   いつまでも元気でいて下さいネ!!!」K  D

閑話休題:舩木悦郎先生を想う
1.共に山へ出かけた想い出
 先生は山歩きがお好きだった。開業される以前はどうだったのかは知らないが、開業されてからは、病院の職員を誘ってよく山へ出かけられていて、時に私にもお声がかかり、何度かご一緒した。金沢大学医学部には古くから山岳会があり、一方で白山や立山に診療所を開設し、山好きの連中が属していて、私も金沢大学の山岳部に籍をおいていたので、彼らとも交流はあったが、先生はこれらには所属されてはいなかったようだ。でも山好きだったことには間違いはなく、遠くボルネオのキナバル山にも行かれたということを聞いたことがある。ここでは私が先生や舩木病院の職員の方達と一緒に出かけた山々を思い出してみたい。いずれの山行も日帰りだった。思い出すままに書き出してみたい。
★赤兎山 (1629 m)  石川県白山市と福井県大野市との境にあり、福井では最も人気の山。白山国立公園内
★小白木峰 (1437 m)  富山県富山市と岐阜県飛騨市の境にある。頂上一帯には池塘が散在している。
★夜叉ヶ池山 (1212 m)  福井県南越前町と岐阜県揖斐川町の境にある。伝説に出てくる夜叉ヶ池の上。
★袴腰山 (1150 m)  富山県南砺市にある。山の下には東海北陸自動車道の袴腰トンネルが通っている。
★大門山 (1572 m)  石川県金沢市と富山県南砺市の境にある。加賀富士ともいわれる秀麗な山。
★冠山 (1257 m)  福井県池田町と岐阜県揖斐川町の境にある。特異な山貌。残したい日本の自然百選。
 このような病院職員との山歩きが長じて、私は請われて数回にわたって白山などへ職員の方々を案内した。ある時、御来迎 (ブロッケン現象) に遭遇したことがあった。私は後立山連峰で何回か出くわしていたが、でも白山では初めて、連れの人達は大感激だった。
2.共に出かけたスキー行
 先生はスキーもお好きだった。とりわけお上手ではなかったが、堅実な滑りで楽しんでおいでた。スキー行では、病院の職員のほかに、プロパの方達も参加されるのが常で、賑やかだった。
★朴の木平スキー場:私は都合2回参加した。宿は新平湯温泉のとある先生馴染みの温泉宿で、古い感じの宿だが、よく気心が知れていて、随分居心地がよかった。まだ平湯トンネルが開通しておらず、スキー場へは雪の平湯峠を越えて行った。宿でのスッポン鍋は実に豪快で美味しく秀逸だった。
★野沢温泉スキー場:1年前に予約しておかないと泊まれないという温泉宿、先生は毎年行かれているようだったが、一度ご一緒したことがある。その折、素晴らしいダイアモンドダストに出くわしたが、実に感動的だったことを思い出す。
★ダイナランドスキー場:両白山地の南端に位置する大日ヶ岳の山麓にあり、日帰りで出かけた。
3.釣り
 先生はヘラブナ釣りに興味を持たれていて、よく出かけられていたようだ。でも私はご一緒したことはない。そんな折、いつか大きなスッポンを捕られ、拙宅へ持っておいでになったが、とても私には捌く能力などなく、それでどこかの料理屋に持って行かれたが、どうして捕まえられたのかは聞けず仕舞になった。無想の境地を愛される一面もあった先生だった。
4.写真
 カメラは数台持っておいでて、先生が亡くなられた折、奥さんから形見に大判のカメラを頂いたが、私にはとても使いこなせず、そのままになっている。

2017年2月9日木曜日

家内が舩木病院を退職(その2)

「退職に当たっての職員皆さん方からの寄せ書き」
 送別会の当日、職員皆さん方全員の寄せ書きの色紙を頂いた。了解を得て再掲する。

色紙中央の大きな丸枠に、家内の似顔絵と下に大きく「木村さんおつかれさまでした」の文字と当日の日付「2017.1.31」
「寄せ書き」左上から右下へ (順不同)
★「♡木村さんへ♡ おつかれ様でした。そして大変お世話になりました。木村さんの凛とした姿勢に  いつも憧れていました。また ”喝" を入れに来て下さい。待ってます。」 J M
★「感謝しかないです。本当にありがとうございました。」 A T (事務長)
★「木村さん♡ 本当にいろいろと ありがとうございました。お体に気をつけて 無理をしないで下さ いネ。」 M H (看護師長)
★「一番つらかった時 一番お世話になりました。本当にありがとうございました。幸せです。」 C K
★「(あ) さいーって (リ) ュックサックの私にいつも (が)みがみ怒らせてしまったけど (と)っても  木村さんの気持ちを感じて (う)れしかったよ」  N K
★「いつも気にかけてくれて 本当にありがとうございました !! 感謝です!」 Y K
★「長い間 お疲れ様でした。いつも暖かい言葉ありがとうございました。心の支えになりました。これ からの人生は、木村さんだけのもの。木村さんらしく 楽しく送って下さい。体に呉々も気を付け   て!!」 M H
★「いつもいる3F に木村さんがいないと淋しくて泣きそうです。温かい言葉をかけてもらい うれし
 かったです。ありがとうございました。」 M S ♡
★「木村さん♡ ほんとにお世話になりありがとうございました。感謝しきれない思いでいっぱいです!
 木村さん大好きです♡」 H T
★「長い間お疲れ様でした。いつも気にかけて下さり、本当にありがとうございました。いつまでもステ キな木村さんでいて下さいね。またマルエーで会えるといいな♡」 M I
★「木村さんへ♡ 長い間お疲れ様でした。大変お世話になりました。♫また会う日まで〜♪ ♪会える 時まで〜♫ ありがとうございます。」 Y A
★「♡木村さん♡ いままで本当にありがとうございました。いつも、はげましてくれたり、怒ってくれ たり……。そんな木村さん…感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう♡」 T I
★「木村さん。たくさん たくさん ありがとうございました。いつも木村さんの笑顔を見ると安心して いました。おつかれ様でした。」 K N
★「いろいろ仕事でお世話になり、ありがとうございました。いつまでもお元気で。」 K K
★「〜木村さん〜 長い間お疲れ様でした。言葉にできない程お世話になりました。(子供達も…)あり  がとうございました。」 S M
★「きむちゃん〜♡ よ〜頑張った!! エライ!! すごい!! よ〜世話になった!! ありがと  う!! 今後もどーぞよろしくお願いしますヨ♡♡」 H Y
★「本当にありがとうございました。お身体を大切に!」 K F (院長の母)
★「木村さん 淋しくなります!! いろんな事で アドバイスもらったり 背中を押してもらったり  ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。ずっと元気でいて下さいネ。」 E M
★「木村さんへ。短い間でしたが ありがとうございました。長い間ご苦労様です。最後に お世話をお かけして 申し訳ありません。」 M K
★「ありがとうございました。」 K F (院長)
★「ずっとずっと 大好きです。ずっとずっと 元気でいて下さい!!」 M M
★「木村さん!! 短い間でしたが 大変お世話になりました。ありがとうございました。車の運転には 気をつけて下さいネ。」 T F (院長夫人)
★「木村さんへ、私の話をいつも親身になって聞いてくれて、時には厳しく接してくれてありがたかった です。お世話になりました。ありがとうございました。」 M F
★「木村さん♡ 長い間お疲れ様でした。いつもいつも優しく温かい言葉に支えられました。感謝の気持 ちでいっぱいです。ありがとうございました。大好きです♡」 K Y                                      (続く)

家内が舩木医院を退職(その1)

「はじめに」
 家内が勤務していたのは、野々市市にある内科/外科を標榜する「舩木医院」である。家内はこの医療機関の創設時からのメンバーで、ほかにも数人いるが、年かさでは最年長である。家内は昨年11月には満75歳となり、以前から辞意をもらしていたが、先ずは後継者の育成を頼まれ、それに2年ばかりを要したようだ。職務は医療事務なのだが、その守備範囲は医療行為以外の諸々の分野にわたっていて、金銭・物品出納事務のほか、対税務署、対社会保険事務所、対保健所、対労働基準監督署への対応、加えて職員からの苦情相談などにも応ずるといった具合である。目処がたった以降も何度か辞意を表明したが、その度に慰留され続け、でも漸く院長先生から許可が下りて、退職できることになった。
「プロローグ」
 この病院の開設者は舩木悦郎先生で、金沢大学医学部を卒業され、開設直前には金沢赤十字病院内科医長をされていた。私の父がずっと背の痛みを訴えていて、あちこちで診察を受けたが痛みの原因が分からず、その後日赤病院へ診察に訪れた時の担当が舩木先生で、その後先生の診断で、痛みの原因は肝臓がんからきていることを知らされた。当時私は石川県衛生公害研究所に勤務していて、日赤病院と隣り合わせだったこともあり、先生から急に呼び出され、その結果を知らされたことを思い出す。その時にはもう末期で、そのまま入院したが、そのf後程なくして父は他界した。
 当時先生は野々市町に在住されていて、先生の奥さんはバドミントンの愛好者で、一方家内も好きだったこともあって気が合い、野々市町にママさんバドミントンクラブを創設させた。そんなこともあって、先生とは家族ぐるみでの付き合いをさせて頂いた。だから先生が野々市町で開業を決意されて以降、諸々の準備に家内もいろいろ手伝うことになった。そして昭和60年7月に「舩木内科外科病院」が開設された。院長は長男の先生で内科、次男さんは事務長、三男の先生 (金沢大学医学部卒) は副院長で外科担当、病床数45の病院の誕生である。私も開院の祝賀会に招かれたが、大変盛大だった。
 その後病院は長男先生が他界されて、次男先生が院長になられた。その後次男先生も他界された後は、一時次男先生の奥さんの弟さん (金沢大学医学部卒) が院長をされたが、現在は次男先生の長男 (宮崎大学医学部卒) の方が院長をされている。この間名称は「舩木内科外科病院」から「舩木病院」、そして現在は病床数19の「舩木医院」として、爾来31年有余にわたって、地域医療に貢献してきた。そして家内は4代の院長先生の下で、病院事務に携わってきた。
「送別会は1月31日」
 送別会は偶然か勤務最後の日に設定された。でも最後のご奉公と言うべきか、その日の午後に保健所の監査が入った。正に最後のご奉公となった。送別会は金沢市内のとあるレストランで行なわれ、全職員の6割ばかりの方達が出席されたとか、送別会でこれ程多くの方が出席されたのは初めてとか、大変嬉しいことである。それに非番でなかった方々、家庭の都合で出られなかった方々、また既に退職された方々で、後日改めて送別会を企画されているとか、何とも大変嬉しいことである。また3月下旬には、有志の方々が我が家へ押し寄せる計画もあるとか、これだけ皆さんに愛され慕われたということは、家内にとっては望外の喜びだったろう。私としても大変誇りに思っている。有難いことだ。
 家内は退職に当たって、全従業員に心ばかりの品と、一人一人に想いを込めたメッセージを書いて渡したという。その内容は知らないが、多分心のこもった文だったのだろう。
 また沢山の餞別の品々や花々を頂いた。送別会では25本の深紅の薔薇の花束を頂いたし、ほかにも色とりどりのストック百本もの花束とか、青・赤・ピンクの薔薇や黄色のシンビジュウムなどを組み合わせた花束とかを頂戴した。心から感謝している。
「送別会での挨拶」
 家内は退職にあたって、盛大な送別会を催して頂いた折、会の最後に皆さんにお礼を述べた。家内からその原稿を見せてもらったので、ここに再掲する。
「退職に際しまして、一言ご挨拶申し上げます。今日この日を迎えるに当たって振り返って見ますと、悦郎先生、宏美先生、健一郎先生と三代にわたり31年もの長きにわたって勤務することが出来ましたのも、ひとえに本当に素晴らしいスタッフに恵まれたからと心から感謝いたしております。今日無事にこの日を迎えることが出来ましたのも、それは素晴らしくそして優しい皆さん方達と一緒に仕事が出来たからこそと思っております。そして今日は私のために、このように盛大な送別会を催して頂きまして、本当に有り難うございました」。 

2017年1月7日土曜日

平成28年の師走を振り返る

3日(土) OEK 第384回定期公演(マイスターシリーズ)
 この日の指揮者は OEK の名誉アーティスティック・アドヴァイサーのギュンター・ピヒラー、ピアノはモーツアルト国際コンクール優勝者の菊池洋子、モーツアルトとロッシーニの曲が各2曲演奏された。曲目は前半がロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲とモーツアルトのピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」K. 537 、後半はロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲とモーツアルトの交響曲第36番ハ長調「リンツ」K. 425 、4曲とも比較的よく演奏される曲とあって、リラックスして聴くことができた。それにしても名指揮者のピヒラーさんの指揮ぶりは実に端正で丁寧、実に清々しかった。また日本を代表するピアニストの一人でもある菊池さんの演奏は華麗で躍動的だった。この日の4曲の演奏には実に感動した。
4日(日) 木村家御十夜
 浄土宗でいう御十夜とは浄土真宗でいう報恩講にあたる。いつも毎年暮れの12月に行なっている。今年も妹夫婦、次男家族、故三男家族がお参りしてくれた。導師は金沢市中央通町 (旧宝船寺町) にある佛海山法舩寺の住職、ほぼ1時間の法要だった。
5日(月) 耳順会忘年会
 耳順会は平成15年に、あるきっかけで生まれた金沢泉丘高校第7期卒業生有志の会のことで、当初は15名で発足したが、既に4名が他界してしまった。この会は3ヵ月毎に開くことにしていて、12月は温泉で1泊することにしている。今年の宿は山中温泉の「よしのや依緑園」、以前は大変格式の高い旅館だったが破産し、現在は湯快リゾート傘下のグループになっている。この宿、食事は申し分ないが、人件費を極力抑えているのが伺われ、ただその分大変廉価なのが驚きだ。この宿には能舞台もあり、格式は随分と高い。でも今は客層は老若男女と様々、随分と多彩な人が利用して賑わっているようだ。聴けば半年前の予約解禁時期に申し込まないと予約しづらいとかだった。今回は6名の参加だった。
15日(木) OEK ファンタスティックオーケストラコンサート
 今シーズンのこのシリーズは、県立音楽堂洋楽監督の池辺晋一郎の企画で、延べ5回に渡って行なうクラシック・ベスト100の第1回の演奏会。この日のテーマは「モーツアルト」、全部で8曲紹介するとあって、どうしても端折らざるを得ないこともあって、随分中途半端な企画だと感じた。指揮は新進気鋭の田中祐子、若さを売りにしたピチピチした指揮ぶりだったが、はしゃぎ過ぎな嫌いがあって頂けなかった。その外に歌曲とオペラのアリアが8曲、スクリーンに登場した名曲が4曲、それにお喋りも付いて凡そ2時間半、盛り沢山過ぎて、器からこぼれ落ちた感があった。
16日(金) 今冬初の積雪
 朝起きると何と初雪、5cm ばかりだったが、車に積もった雪は除かねばならなかった。でも日中は晴れて気温も上がり、午後は身障者の ETC 割引の手続きに市役所へ出向いた。
17日(土) 湧泉会例会
 毎月第3土曜日の11時半に、耳順会のメンバーの有志が、金沢ニューグランドホテルで昼食を共にして駄弁ることにしている。話題は実に多岐にわたり、しかも次から次へと、よくぞと思う程の話題の提供と談論、この日も切り上げたのが午後4時、正に老人の井戸端会議、こうも長いと少々食傷気味になってしまう。ホテルでは招かざる客なのでは?。6名参加。
18日(日) 新築マンションの内見と探蕎会世話人会
 次男が銀行マンで相続税対策もやっていることから、その節税対策の一環として、私にも借金をしてマンション経営をと勧められた。もっとも相続税を支払うのは当人であるからして、それに乗っかることにした。6月下旬に基礎工事に入り、8月27日に地鎮祭、そしてこの日敷地222坪に鉄骨3階建て、1階は駐車場や物置、2階3階に 1LDK 16 室のマンションが出来上がった。名称は「木村」のフランス語表記の「ボワ・ヴィラージュ」にした。ところでこの名前をインターネットで見てみると、全国で同じ表記が3件、似た「ボア・ヴィラージュ」が7件あったのには驚いた。来る4月には満室になって欲しいものだ。
 そしてこの日の夕方6時から探蕎会世話人会の忘年会が、この3月末で建て替えのため閉店になる金沢都ホテルの「杜若」で行なわれた。金沢駅には6時前に着いていたが、6時半とばかり思い込んでいたものだから、家内から連絡を受けて出向くと、既に皆さんお待ちで大変恐縮した。今後の探蕎会の在り方についても、いろいろ意見が交わされた。
20日(火) 日赤内科で糖尿病外来での定期検診
 3ヵ月に一度、指定された日に検診を受けている。このところは小康状態が続いている。
21日(水)〜  31日(土) 押し詰まった年末の繁忙期の11日間
 暮れが押し詰まっても、マンション関係の手続き事務や財務処理の事前相談、それに生産組合の事務引継や前々から頼んであった家の修繕の立ち会い等々、それに家の片付けや掃除、正月用品の買い物やお歳暮のお返し、それに楽しい会食が3件、入院している叔父への訪問が2回、そして30日からはお正月料理作り、そして大晦日。暮れから正月にかけては、長男家族4人、次男家族が4人、故三男家族が3人が一堂に会することに。慌ただしさと楽しさのひととき。

2016年11月30日水曜日

「手打ち蕎麦 穂乃香」

 例年11月の探蕎会行事は、海道さんのお世話で、丸岡蕎麦道場にお邪魔するのが常だったが、前田事務局長からの案内では、今年海道さんは生憎と体調不良で、今後探蕎会からの大勢の人を受け入れるのは困難になったとのことで、急遽どこか別の場所へということになった。例年丸岡では、海道さん収穫の新そばをお腹いっぱい食べ、また手作りの鯖寿司や煮物にも舌鼓を打っての大満足の行事だっただけに、この中止は大変残念だった。でも海道さんの体調不良とあれば、これまで「おんぶにだっこ」だっただけに、断念やむを得ず、本復を心からお祈りする次第である。
 そこで11月の行事の候補に挙がったのが、世話人の塚野さんから提案があったという、金沢市北郊外の金市町に今年2月下旬に開店したという「手打ち蕎麦 穂乃香」という蕎麦屋。前田事務局長から連絡があったのは11月7日、催行日は11月28日 (月) で、現地集合とのことであった。前田さんではネットで検索できますということで調べてみると、場所こそほぼ見当はついたものの、さて行くとなると、すんなり行けるかどうかは、全く自信がなかった。ところで最終的には11月24日に連絡があり、参加者は11名、車4台に分乗して向かうことになり、私は寺田会長と前田事務局長の車に分乗して向かうことになった。そして拙宅には10時半の迎えということに。
 11月28日当日、前田さんの車に便乗して山側環状道路へ。訊けば前田さんは予め行かれたようで、この日は山環を神谷内 IC で下り、国道359号線 (旧8号線) を北上して、法光寺北交差点を左折し、 JR ガード下を潜り、バス通りの横枕交差点を右折し、さらに北陸自動車道の下を潜ると、金市のバス停の手前に案内の看板が見えた。そして右手にどっしりとした屋敷が見え、それが件の蕎麦屋だった。周りは蓮田、南側には間近に北陸自動車道が通っている。ただ道路にはフェンスが張られていて、通行する車を見ることはできない。
 着いたのは11時少し過ぎ、屋敷は石垣に囲まれていて、前庭には車を優に10台は停められるスペースがある。車が1台停まっていた。立派な玄関のある屋敷、「商い中」とある。「手打ち蕎麦 穂乃香」の文字が、石垣には嵌め込みのパネルで、前庭には大きな立柱に、玄関には暖簾に記されていて、何とも主人の意気が感じられるというものだ。お天気も良く暫く散策していたが、促されて屋敷に入った。中は清潔で、板張りも磨かれていて、御殿のようだ。玄関右側には、広い打ち場がある。私たちの席はテーブルで、11人分セットしてあった。南側の窓越しには石を配した庭が設えてあって、眺めも良い。窓側と座敷には座机が並べられていて、窓際には一組の客がいた。この1階のスペースで30人は入られるとかだった。暫く待っていると、皆さん順次着かれ、定刻の11時半には全員が揃った。それにしても中々豪華な設えの和室、欄間は両面透かし彫り、こんな蕎麦屋は珍しい。
 注文は各自とか。テーブルが同じなので、店のお姉さん方3人から、各自に番号札が渡された。私は二番、木札に「二」と記され、その下に小さな穴が2つ、他の方の「十」を見せて貰うと、10個穴が彫ってあって、手で触れても番号が分かるという仕組み、これには感心した。私が注文したのは「鴨せいろ」と手取川の冷酒、初めにお酒、そして摘みには地の小坂蓮根の揚げ物に蕎麦汁を含ませた小皿が
付いてきた。皆さんにも順次注文した「そば」が届く。私にも銚子1本が空になる頃、注文のそばが届いた。
 塗った角盆に、挽きぐるみの中太のそばが円いざるに盛られ、それが更に大きい白い丸皿に載せられ、盆の左手には、先程の蓮根の揚げ浸しと、汁が入ったずんぐりとした円い壺、その上に蓮根と鴨肉と地物の野菜の煮しめが盛られた皿が載せられている。こんな様式は他の蕎麦屋で食べる「鴨せいろ」とは随分趣きが異なっている。また通常はこれに付いてくる山椒の粉がない。訊くと味に含ませてあるとか、先ずは上の皿の具材を汁の入っている壺に入れた。お酒をもう1本所望し、邪道ながら飲みながら蕎麦を手繰る。そばは新蕎麦なのだろうか。どうも判然としない。家内を案内しようと思ったものの、この「そば」では満足しないのは必定だ。また鴨肉は厚切りで固く、美味しかったのはご当地の小坂蓮根のみという印象だった。でも環境は実に素晴らしい。居る間にもお客さんが次々と来られていたが、ネットで見られて来訪するのだろうか。また再訪はあるのだろうか、興味が湧くところだ。また私は注文しなかったが、向かいのお二方が注文された特製の鯖寿司二貫は美味しそうだった。もし次回来ることがあったら所望しようと思った。
 終わって主人から少しお話が聴けた。蕎麦は今庄の新蕎麦だとか。またこの屋敷の大家さんは、もと小坂蓮根の生産組合の会長さんだったとか、道理で立派なわけだ。さしずめ蓮根御殿というべきか。
〔手打ち蕎麦 穂乃香〕
 所在地/金沢市金市町ニ71番地   電話/076−256−0288
 営業時間/午前11時から午後3時まで   定休日/水曜日
 ホームページ/ h t t p : / / s o b a - h o n o k a . c o m

2016年11月18日金曜日

微生物学同門会のこと

  平成28年9月に、金沢大学医学部微生物学教室の平成28年度同門会を開くのでご参集下さいという案内があった。幹事は杏林大学医学部教授の神谷氏と沖野歯科医院の沖野氏である。この同門会は私が細菌学教室に入った頃は毎年開かれていたようで、私が正式に参加できるようになったのは、学位を取得した昭和50年以降である。ところでこの会は初代教授の谷友次先生、二代目の西田尚紀先生、三代目の中村信一先生までは毎年開催されてきたが、中村先生が金沢大学副学長、次いで学長になられ、四代目の清水徹先生が就任されてからは開催されなくなった。教室のテーマは、谷先生は梅毒だったが、西田先生以降は嫌気性菌、とりわけクロストリジウムの毒素と病原性の関係を追求してこられた。平成15年に中村先生が教授の折、やはりクロストリジウムを研究されていた清水先生が助教授に招聘された。しかしその翌年に、中村先生が金沢大学副学長に就任され、清水先生が教授に選任された。同門会ではその折に教授就任祝賀会を行なった。でもその後教室は一切同門会には協力せず、会は事実上休会となってしまった。清水先生は分子生物学的見地から毒素産生を研究されるという世界でも最先端の研究をされていて、国際的にも広く知られた方とかだった。それで教室での会話は英語のみとか、従って日本人よりも海外、とりわけアジア諸国から多くの研究生が集まっていたようだ。このような環境では、旧態然とした同門会は蚊帳の外となったことは容易に想像できる。
 ところで清水先生は平成26年2月に急逝されてしまった。教室主催で偲ぶ会が十全講堂で執り行われ、海外からも沢山のメッセージが寄せられ、その功績の大きさに驚かされもした。またピアノを弾くのが大好きで、よく演奏もされていたとか、疎遠にしていただけに、知られざる一面を披瀝され驚かされもした。そして在任中は同門会が開かれずにいたこともあって、教室がどうなっていたのかは全く知らされなかった。そして逝去された後、在籍していた院生や研究生はしかるべき研究の場に行かれたのだろう。
 ところで後任の教授が決まったというのを、後任教授の藤永由佳子博士からの就任案内状で知った。平成27年8月のことである。早速在沢の旧微生物学同門会有志の主催で歓迎会が催された。会場は東山の「山の尾」、ざっと20名ばかりが参集した。女性の教授の就任もさることながら、北海道大学薬学部卒業とかs、私も薬学出身なので、すごく親近感を感じた。先生はその後札幌医科大学で学位を取得され、以降は国の内外でコレラ毒素やボツリヌス毒素の研究に勤しまれ、前任は大阪大学微生物学研究所の特任教授で、金沢大学へは三代続いたボツリヌス毒素の研究が縁で選任されたとかだった。まだ就任されたばかりで、教室造りはこれからだが、出席されていた中村前学長も一安堵という雰囲気だった。
 それで今年9月に、平成28年度金沢大学微生物学教室同門会を開催しますという案内が大学からあった。詳しい経緯は知らないが、実に嬉しく楽しくなった。暫く途絶えていただけに、喜びも一入だった。開催日時は11月12日の土曜日、集まった人は25人と少なかったが、全国各地から同門の人達が集まった。名簿を見ると、会の顧問に中村信一さんと藤永由佳子さん、会長に神谷茂さん、副会長に沖野善則さんが選ばれていて、今後は毎年開催するとかだった。名簿を見ると、現在のところ会員は79名、特別会員が2名、また物故者は102名とのことだった。会では教室の近況報告や出席者全員の自己紹介などが行なわれた。そして来年は、今年の出席者全員が、とにかく一人を勧誘して参加しましょうということになり、会を閉じた。
 私のスピーチでは、私が金沢大学薬学部出身なこと、卒業後は石川県へ奉職し、当初は県で発生が多かった赤痢対策に振り回されたこと、その後当時国が行なっていたインフルエンザの検査を県でも行なわねばならなくなり、昭和38年に当時細菌学教室の助教授だった波田野基一先生の下で専修生として研鑽を積んだこと、しかしその後学制改革で癌研究施設が創設され、波田野先生はそこのウイルス学講座の教授に就任されて教室を離れられたこと、でも当面は建物がなく微生物教室の旧助教授研究室で当面研究を続けていたこと、その折には耳鼻咽喉科を開業されていた先生方が沢山専修生として教室においでたこと、でも今日はその懐かしい方々の参加が全く無くて寂しい……などを話した。事実出席された方を見ると、歯科出身の玉井先生門下の歯科医の方たちが圧倒的に多かった。だから私が顔を知っていて話せたのは6名のみだった。終了後、二次会が設定されていたが、私は参加しなかった。
〔閑話休題〕
 教室名称の変遷:古くは医学部細菌学講座だったが、ウイルス学も扱うようになって、医学部微生物学講座になった。その後中村学長の頃に、金沢大学の学部の大きな編成替えがあり、教室は医薬保健研究域医学系感染症制御学講座となった。でもこの難解な講座名は実に分かりにくく、今年からは医薬保健研究域医学系細菌学分野となったようだ。