来年の平成 28 年は丙申 (ひのえさる) の年である。そこで、「申」に因んで「猿」の字が付く山々を思い浮かべてみた。すぐに思い付いたのは、金沢の市街地からもよく見える「猿ヶ山」、白山の北方稜線の山々からは庄川を隔てて指呼の間に見える「猿ヶ馬場山」、それに能登での雪割草の大群落地として知られる「猿山」である。その外にも何かないかと日本山名事典 (三省堂) と日本山名総覧 (白山書房)をあたってみた。すると、富山県に「猿倉山」、福井県に「猿塚」、石川県に「猿矢山」というのが見つかった。両書によると、国土地理院発行の地形図に記されている山名で、日本で「猿〕が付いている山が 60 山、「申」が付いているのが7山あるという。以下に以上の6山について紹介しようと思う。
〔1〕猿ヶ山(1448m) 越中の山
石川県金沢市にある日本三名園の一つの「兼六園」の小立野口を出ると、小立野通りの向こう正面になだらかな山容の山が見えるが、この山が猿ヶ山である。加賀平野から見ると、双耳峰の医王山 (939m) と加賀富士と称されている大門山 (1572m) の間に見える。一見石川と富山の県境の山と思われがちだが、富山の山である。大門山の登山口でもあるブナオ峠 (980m) を逆方向の北へ辿ると、大獅子山 (1127m) を経て尾根伝いに猿ヶ山へ行くことができる。途中まではネマガリダケが繁茂していて、小径が分かりにくい箇所もある。春にはこの辺りへは煤筍を採りに人が訪れる。なだらかな尾根筋で、頂上付近にはツバメオモトの群落が見られる。尾根をさらに北へ辿ると、三方山 (1142m) から袴腰山 (1163m) に至る。この袴腰山の下には、東海北陸自動車道の袴腰トンネルが通っている。
〔2〕猿ヶ馬場山 (18875m) 飛騨の山
庄川右岸の岐阜県白川郷にある飛騨高地の最高峰で、日本三百名山である。なだらかで広大な山頂をもち、両白山地の格好の展望台となっている。だから逆に、岐阜と石川の県境となっている白山 (2702m) から大門山 (1572m) に至る北方稜線のどの山からも、この山を庄川を挟んだ東方に見ることができる。中で最も至近なのは妙法山 (1776m) である。この山へ直接登る道はないが、近年切り開かれたとの情報もあるが不明である。残雪期には、北東方向にある籾糠(もみぬか)山 (1744m) や、南東にある一等三角点がある白山の遥拝所でもある御前岳 (1816m)) から、尾根伝いに容易に行ける。そしてこの山の下には、東海北陸自動車道の日本では2番目に長い、難工事でもあった隧道の飛騨トンネルが通っている。さてこの山の西には前衛峰である帰雲(かえりくも)山 (1622m) がある。この山は天正 13 年 (1585) の白山大地震の折に山崩れを起こし、山麓にあった内ヶ島氏の帰雲城を一夜にして埋めつくし、一千戸もあった城下町と数千の人馬が地底に葬られたことで知られている。国道 156 号線の白川街道を通ると、庄川沿いの道路に帰雲城跡の標識が立っている。
〔3〕猿山 (381m) 能登の山
能登半島の奥能登丘陵の北西端、日本海に面する 200m の断崖の上にある。一帯はスハマソウ (雪割草) の群生地として大変よく知られている。西には海に面して猿山岬灯台がある。登路は北からは門前皆月から娑婆捨峠を経て、南からは門前深見から欣求(ごんぐう)峠を経て辿ることができる。雪割草の開花期の頃には大勢の人で賑わう。
〔4〕猿倉山 (345) 越中の山
富山市大沢野にあり、飛騨山地の北端にある小佐波(おざなみ)御前山 (754m) から北西に延びる尾根の
末端にあり、西麓には神通川が流れていて、すぐ下流には神通川第二ダムがある。神通川沿いの左岸には国道 41 号線が通っているので、ダム近くからは対岸の右岸にこの山を望むことができる。山には風力発電の施設があり、北麓には猿倉山スキー場がある。
〔5〕猿塚 (1221m) 越前の山
両白山地の南端に広がる越美山地、その福井と岐阜の県境近くに平家岳 (1442m) がある。この山は九頭竜川上流のダム堰止湖の九頭竜湖の南に位置していて、福井側から登路がある。この山は北へ2本の尾根が延びているが、その西側の尾根の中程に猿塚がある。登路はない。
〔6〕猿矢山 (381m) 能登の山
輪島市街の東にある山で、南に尾根を辿ると、奥能登丘陵の最高峰で、航空自衛隊のレーダー基地がある高州山 (570m) に達する。輪島港に立って東に高州山を望むと、左へ連なる尾根の稜線上に見える。登路はない。
2015年11月20日金曜日
2015年11月13日金曜日
シンリョウのツブヤキ( 14 )ふだんのおつとめ
父が昭和 55 年 (1980) に他界 (享年 73 ) してから、母が唱えていたお経に興味を持ち、父の一周忌に母と浄土宗の総本山知恩院にお骨を納めに行った折に、私が用いる日常信徒が勤行に行なう折に唱える「浄土日用勤行式 全」を求めた。その母も平成 15 年 (2003) に他界し、それ以降は私が普段のお勤めをし、先祖の命日には供養のお経を唱えている。
毎年師走になると、私の家では十夜法要 (浄土真宗でいう報恩講 ) を行なう。旧野々市町では浄土宗の門徒は私の家と、今は絶えた分家のみで、他の家は皆さん浄土真宗の門徒である。それも圧倒的に大谷派 (お東) が多く、本願寺派 (お西) は少ない。私の家の檀那寺は金沢市中央通町 (宝舩寺町) にある浄土宗の佛海山法舩寺である。家のお十夜にはお寺のお住職にお出でを願って法要を行ってもらう。
それとは別に、月経というのがあって、母が存命中は、野々市町の真宗大谷派のお寺の方にそれをお願いしていたが、母が他界してからは、法舩寺さんにお願いしている。と言って本来ならば来宅してお経をあげて頂くのが筋なのだろうが、私も家内も勤務していたこともあり、代わってお寺さんでお経をあげて頂いている。またこれとは別に、門徒全体の御十夜法要が檀那寺で執り行われ、その時は大概出席するのが常だが、今年はどうしても外せない用事で出席できなかった。
ところで私は家では先祖の命日には必ずお経をあげ、勤行を行なっている。現在私は木村家の5代目、それで、初代の曾祖父の父母、曾祖父母、祖父母、父母のほか、夭折した祖父の弟、子がいなくて家が絶えた叔父、そして私の三男の計 11 人の命日には、次の順序で勤行を行なっている。これは正式に坊さんがあげるお経を若干端折って短くしているが、それでもかれこれ 25 分位はかかる。読経をする前には、燭台にお灯明を上げ、香炉に線香とお香を焼べ、経本の指示にしたがって、おりんと木魚とかねを打ち分けて読経する。次にその順序を記す。
( 1 ) 「三宝礼」、 ( 2 ) 「懺悔偈」、 (3)「十念」十遍唱える、(4)「開経偈」、(5)「仏説無量寿経四誓偈」、(6)「仏説観無量寿経第九身心観文」、(7)「仏説阿弥陀経」、(8)「発願文」、(9)「回向文」本誓偈と聞名得益偈、(3)「十念」、( 10 )「摂益文」、( 11 )「念仏一会」百八遍唱える、( 12 )「総回向文と十念」、( 13 )「別回向文と十念」命日や祥月命日の先祖の回向、( 14 )「別回向文と十念」木村家先祖代々の回向。
また月々の1日と 15 日には、次のような順序で読経を行なう。(1) 〜 ( 5 )、( 15 ) 元祖大師御法語「一紙小消息」、( 16 ) 元祖大師御遺訓「一枚起請文」、( 10 ) 〜 ( 12 ) 。そしてこの日には、庭に置かれている 阿弥陀座像 と 観音様立像 にもお参りする。
そのほかの普通の日には、次のように行なう。(1) 〜 (4) 、( 17 )「摩訶般若波羅密大明咒経」、次いで ( 10 ) 〜 ( 12 ) 。この 摩訶般若波羅密大明咒経 は、西暦 403 年に 鳩摩羅汁 が訳したもので旧訳と呼ばれていて、これに対して 玄奘 が西暦 649 年に訳したものは 摩訶般若波羅密多心経 ( 般若心経 ) で新訳と言われている。このお経を日本に持ち帰ったのは僧空海であるが、その当時のシナでは新訳がよく読誦されていたという。したがって現在日本で読誦されているのは新訳の般若心経である。本文の字数は、旧訳が300字、新訳が262字で、類似性は90%で、今風に言えば、新訳は旧訳のコピペであると思う。私は旧訳の鳩摩羅汁訳を知ってからは、新訳の般若心経ではなく、天の邪鬼にも旧訳の 摩訶般若波羅密大明咒経 を唱えている。
また私が求めた 観世音菩薩坐像を仏間に安置してあるが、この前でも毎朝読している。その順序は、(2) 〜 (4)、( 17 )、( 10 )、(3)、( 14 ) である。
なお、昨年 11 月に金沢市野町にある浄土宗大連寺で五重相伝を受けて以降は、その折に授かった「新版 浄土日用勤行式 完」に則って、命日の勤行を行なっている。
そして本来ならば、これらを朝と夕に勤行すべきなのだが、こちらの方は怠けて、夕は十念だけで済ませているのが現状である。ただ五重相伝を済ませた折に、導師から1日に南無阿弥陀仏の念仏を3百
回以上唱えなさいとのことで、これは在宅の折には実行している。ところで旅行などで家にいない時など、声を出さずに念ずるだけでは駄目ですかと訊いたら、それは駄目で、必ず声を出して唱えなさいとのこと、でないと阿弥陀様には声が届かないからとの答えだった。私にはまだそこまで出来ないということは、修行がたりないということか。
2015年11月7日土曜日
珠洲に恩師を訪ねる(続き)
(承前)
3.翌日は暫し恩師と能登を周遊
翌朝は男女入れ替えで、大浴場「見附の湯」へ行った。丁度海から朝日が上がってきた。風はあるが晴れている。暫し日の出を湯に浸りながら拝んだ。朝食は午前8時に予約しておいた。今日の行程は先生に一任することに。朝食後、ロビーで寛いでいると、先生からお返しの品といわれて、珠洲焼のビアカップを頂いた。近頃珠洲焼はなかなかの人気である。あの黒い渋い色が特徴で、近年復活した焼物、遠慮せずに頂くことにした。それで先生では、私たちが持参した土産を一旦家に置いてから、外浦を回って輪島に出て、その後能登空港まで送って欲しいとか。空港からは金沢からの珠洲行き特急バスが 12:20 に出るので、それに間に合うようにお願いしたいとかだった。先生は珠洲の方なので、途中の案内役をお願いした。
宿から一旦珠洲道路まで戻り、飯田にある珠洲市役所近くにある先生宅へ。以前は入り組んで分かりにくい場所だったそうだが、今は前に広い道ができて、すこぶる分かりやすい場所だ。さて正午まで2時間ばかり、珠洲の突端へ行くのは止めて、国道 249 号線を通り、大谷峠 (トンネル) を越えて大谷へ出ることにする。途中山の稜線には、風力発電のタワーが林立していた。トンネルを抜け、ループ橋を渡る手前に、平時忠卿とその一族の墳 (県指定史跡) がある。大谷へ下りて国道を海岸線に沿って走ると、程なく道の駅「すず塩田村」に着く。ここは連続テレビドラマ「まれ」での塩田のロケ地である。今は時節は秋で揚げ浜塩田は休止しているが、それでも観光客は次から次へと訪れている。この辺り一帯には塩田が多いが、でも最盛期よりは少ないようだ。塩は 50g単位で販売されていて、品薄からお一人様1個に限ると書かれていた。塩田の周りには観覧席が設けられていて、観光目当ての商魂が伺われた。
更に西へ向かう。曽々木を過ぎて少し行くと、右の浜手に「奥能登揚げ浜塩田輪島塩」の看板が、ロケは珠洲で行なったものの、ドラマでの場所は輪島、それで急遽輪島にも揚げ浜塩田を設えたもののようだ。ここにも観光客が立ち寄っていた。御陣乗太鼓発祥の地の名舟を過ぎると、白米の千枚田は近い。道の駅「千枚田」の駐車場には大型バスが数台、それもひっきりなしに次から次へと発着している。バスが着く度に記念写真の撮影、天気も良く、千枚田をバックにした写真は絵になる。県外の乗用車も多い。早々に引き揚げる。
輪島の町に入り、希望で朝市に寄ることに。ブラブラと朝市の通りを歩く。もう 11 時近くとあって、終う店も、先生ではこの時間帯が最も値切ることができて安く買えるという。村田君がいないので先生に訊くと、彼は骨董に興味を持っているから、多分その店に行っているはずと言われる。案の定彼は其処にいた。彼の言では、この前寄ったときと値段がどうなっているかを見たかったとかだった。少々買い物をした。次に新しく出来たキリコ会館へ行く。すごく立派な出来だ。今日は時間がないので、中へは入らなかった。この場所は海を埋め立てて造成したとか。海との際にある岸壁に、次々と高い波がぶつかって、飛沫が高く舞い上がる。その時そこに陽が射すと、一瞬虹がかかり、この虹は次から次へと押し寄せる波が岸壁に当たって砕け散る度に具現する。飽かず眺める。この岸壁には1万トン級の舩も接岸できるとかである。
朝市と港でずいぶん時間を費やした。急いで県道を南下し空港へ向かう。輪島市内でもたもたしたのと、途中で穴水へとあった交差点を反対に曲がったものだから枝道に入り込み若干時間をロスしたのと、空港手前の交差点での渋滞があったりで、空港のバス停に着いた時には目の前でバスは出て行ってしまった。時間の遅れはほんの 30 秒ばかりだった。先生ではこの後珠洲への特急バスは夕方までなく、それで穴水駅から出ている路線バスで帰ると仰る。その発時間は 12:50、それではとのと鉄道の穴水駅へと向かった。お陰で先生と駄弁る時間が増えたというものだ。空港から駅までは 10 分ばかり、今度は十分間に合った。先生とは又の再会を願って、固い握手をして別れた。一度金沢での耳順会に参加したいと申されていた。乞うご期待である。
先生と別れて、穴水駅から一旦県道を北上し、穴水 IC からのと里山海道に入り、白尾 IC から津幡バイパス、次いで山側環状道路を通り、金沢まで一気に戻った。天候にも恵まれた、思い出深い2日間だった。
3.翌日は暫し恩師と能登を周遊
翌朝は男女入れ替えで、大浴場「見附の湯」へ行った。丁度海から朝日が上がってきた。風はあるが晴れている。暫し日の出を湯に浸りながら拝んだ。朝食は午前8時に予約しておいた。今日の行程は先生に一任することに。朝食後、ロビーで寛いでいると、先生からお返しの品といわれて、珠洲焼のビアカップを頂いた。近頃珠洲焼はなかなかの人気である。あの黒い渋い色が特徴で、近年復活した焼物、遠慮せずに頂くことにした。それで先生では、私たちが持参した土産を一旦家に置いてから、外浦を回って輪島に出て、その後能登空港まで送って欲しいとか。空港からは金沢からの珠洲行き特急バスが 12:20 に出るので、それに間に合うようにお願いしたいとかだった。先生は珠洲の方なので、途中の案内役をお願いした。
宿から一旦珠洲道路まで戻り、飯田にある珠洲市役所近くにある先生宅へ。以前は入り組んで分かりにくい場所だったそうだが、今は前に広い道ができて、すこぶる分かりやすい場所だ。さて正午まで2時間ばかり、珠洲の突端へ行くのは止めて、国道 249 号線を通り、大谷峠 (トンネル) を越えて大谷へ出ることにする。途中山の稜線には、風力発電のタワーが林立していた。トンネルを抜け、ループ橋を渡る手前に、平時忠卿とその一族の墳 (県指定史跡) がある。大谷へ下りて国道を海岸線に沿って走ると、程なく道の駅「すず塩田村」に着く。ここは連続テレビドラマ「まれ」での塩田のロケ地である。今は時節は秋で揚げ浜塩田は休止しているが、それでも観光客は次から次へと訪れている。この辺り一帯には塩田が多いが、でも最盛期よりは少ないようだ。塩は 50g単位で販売されていて、品薄からお一人様1個に限ると書かれていた。塩田の周りには観覧席が設けられていて、観光目当ての商魂が伺われた。
更に西へ向かう。曽々木を過ぎて少し行くと、右の浜手に「奥能登揚げ浜塩田輪島塩」の看板が、ロケは珠洲で行なったものの、ドラマでの場所は輪島、それで急遽輪島にも揚げ浜塩田を設えたもののようだ。ここにも観光客が立ち寄っていた。御陣乗太鼓発祥の地の名舟を過ぎると、白米の千枚田は近い。道の駅「千枚田」の駐車場には大型バスが数台、それもひっきりなしに次から次へと発着している。バスが着く度に記念写真の撮影、天気も良く、千枚田をバックにした写真は絵になる。県外の乗用車も多い。早々に引き揚げる。
輪島の町に入り、希望で朝市に寄ることに。ブラブラと朝市の通りを歩く。もう 11 時近くとあって、終う店も、先生ではこの時間帯が最も値切ることができて安く買えるという。村田君がいないので先生に訊くと、彼は骨董に興味を持っているから、多分その店に行っているはずと言われる。案の定彼は其処にいた。彼の言では、この前寄ったときと値段がどうなっているかを見たかったとかだった。少々買い物をした。次に新しく出来たキリコ会館へ行く。すごく立派な出来だ。今日は時間がないので、中へは入らなかった。この場所は海を埋め立てて造成したとか。海との際にある岸壁に、次々と高い波がぶつかって、飛沫が高く舞い上がる。その時そこに陽が射すと、一瞬虹がかかり、この虹は次から次へと押し寄せる波が岸壁に当たって砕け散る度に具現する。飽かず眺める。この岸壁には1万トン級の舩も接岸できるとかである。
朝市と港でずいぶん時間を費やした。急いで県道を南下し空港へ向かう。輪島市内でもたもたしたのと、途中で穴水へとあった交差点を反対に曲がったものだから枝道に入り込み若干時間をロスしたのと、空港手前の交差点での渋滞があったりで、空港のバス停に着いた時には目の前でバスは出て行ってしまった。時間の遅れはほんの 30 秒ばかりだった。先生ではこの後珠洲への特急バスは夕方までなく、それで穴水駅から出ている路線バスで帰ると仰る。その発時間は 12:50、それではとのと鉄道の穴水駅へと向かった。お陰で先生と駄弁る時間が増えたというものだ。空港から駅までは 10 分ばかり、今度は十分間に合った。先生とは又の再会を願って、固い握手をして別れた。一度金沢での耳順会に参加したいと申されていた。乞うご期待である。
先生と別れて、穴水駅から一旦県道を北上し、穴水 IC からのと里山海道に入り、白尾 IC から津幡バイパス、次いで山側環状道路を通り、金沢まで一気に戻った。天候にも恵まれた、思い出深い2日間だった。
珠洲に恩師を訪ねる
1.はじめに
平成 14 年 (2002) に村田君が台湾から 30 年ぶりに帰沢したのを機に、12 名が集まって「耳順会」が発足した。その後2名の入会と3名の他界があり、現在の会員は 11 名である。それで3月、6月、9月の第1月曜日には、金沢市内の割烹屋で懇親の会を開き、また 12 月にはやはり第1月曜日に加賀温泉で忘年会を行っている。一方これとは別に、毎月第3土曜日には、金沢市内のホテルで「湧泉会」と称して昼食会を催している。これまで耳順会は、会員の持ち回りで会を運営してきたが、平成 25 年 (2013) 正月に湧泉会が発足してからは、両会とも村田君が仕切っている。ところでお酒が入る耳順会はともかく、湧泉会は昼食会なのでお酒なしなのだが、午前 11 時半に始まって、いつも終了が午後4時という長談義になってしまう。女の井戸端会議ならいざ知らずと言いたいのだが、話題は身近なことから世界情勢まで延々と話が続くのだから、もう閉めますと言われて漸く終わりになるのが常だ。
さて彼は日本に帰ってきてから、泉丘高校1年の時の担任だった珠洲市在住の橋本秀一郎先生とはよく会っていて、彼は先生とよく能登の社寺や遺跡を巡ったという。先生は社会の先生で、その方のことは大変お詳しく、彼も興味を持っていたようで、意気投合したというのが本当のところだろう。このことは彼も会でよく話していた。ところで先生を一度耳順会にお誘いしようということになった。それで先生に打診したところ、金沢へ出て来られるとか、珠洲からは特急バスで3時間ばかりとか、それで9月にお誘いした。ところが生憎体調をこわされて、実現しなかった。先生は私たちが高校へ入学した時には、京都大学を出られたばかり、だとすると私たちより7〜8歳上、現在 84 歳である。
私たちが高校に在籍していた時においでた先生方のうち、現在も存命なのは5名のみとか。私が授業を受けた先生の中では唯一の先生である。それで村田君から珠洲へ先生に会いに行こうと提案があった時には、即賛同した。彼と先生との交渉で、日は 10 月 25 日の日曜日ということになった。当初は5名参加の予定だったが、ご不幸や他の同窓会との鉢合わせもあって、行くのは村田君と村上君と私の3名、車の運転は私がすることに。3人とも1年の時は同じ組で、橋本先生が担任だった。また村上君は母校でも教鞭をとっていたこともあり、また先生も彼も退職時には高校の校長先生であったこともあり、昵懇の間柄でもある。
2.珠洲で60年ぶりに恩師と再会
金沢からの出発は午後1時、村田君宅の近くにある大きな書店の駐車場で待ち合わせた。山側環状道路から津幡バイパスへ、さらにのと里山海道、珠洲道路 (のとスターライン) を経由して珠洲市へ、村田君の予想では午後3時半には宿泊場所の珠洲市宝立町鵜飼にある「のとじ荘」に着けるという。この予想は見事に的中して、途中一度別所岳 SA でトイレ休憩したものの、予想通りの時間に着けた。途中で村田君は道路を車で走ると朝ドラ「まれ」のテーマ曲が流れるというので、それをぜひ聴きたいとのことだったが、別所岳 SA を過ぎた辺りで、約2分間ばかり聴くことができた。
珠洲温泉「のとじ荘」に着いてチェックインする。部屋は4室とも海側に面した個室、この宿は今年3月に金沢までの新幹線開業に合わせてのリニューアルオープン、以前に泊まったことがあるが、雰囲気は全く違い、近代的な佇まいになっている。個室志望は村田君の意向によるものだが、複数で泊まってそれぞれ個室というのは、何となく居心地がよくない。でも彼は何時でも個室に拘るようだ。時間もあるので見附海岸を散歩する。
先生はバスで来られるとか、すると到着は午後5時半頃、先に風呂に入ることに。この時間帯、男性は展望風呂がある「弘法の湯」、新しく設えられた露天風呂は実に快適、すぐ近くに絶景見附島を望める好位置にあり、海を眺めながら時の経つのも忘れる。そして夕闇が迫る頃に、先生が着かれた。村田君や村上君はともかく、私と先生とは 60 年ぶりの対面、村田君からキムラシンリョウが同行すると告げられていたこともあってか、先生の記憶の中に私が残っていたのには感動した。初めての担任だったこともあるのだろうか。先生の湯浴みが終わるのを待って、夕食となる。
夕食は2階にある「レストラン漁火」の個室、お酒は先生の希望で熱燗にする。会食の折、村田君が持参した高校1年の時に、構内やハイキングで写した白黒写真のコピーを見ながら話に花が咲いた。私たちはともかく、先生が生徒の名前を覚えておいでたのには驚いた。40 年近く教職にあったのに、最初の担任であったにせよ、正に驚異だった。すごく懐かしがっておいでたのには本当に感動した。時間になってレストランを出て、1階ラウンジにあるカウンター席へ移った。先生はここではスコッチウイスキーのストレート、私も追随したが、旺盛な元気には感服した。先生は奥さんを亡くされていて、現在独り身だが、夕食は近くに住んでおいでる長男夫婦の所で召し上がるとかだった。それにしてもタフだ。午後9時過ぎ、海の方を見ると、十三夜の月が海上を照らしていた。幻想的でもあった。
平成 14 年 (2002) に村田君が台湾から 30 年ぶりに帰沢したのを機に、12 名が集まって「耳順会」が発足した。その後2名の入会と3名の他界があり、現在の会員は 11 名である。それで3月、6月、9月の第1月曜日には、金沢市内の割烹屋で懇親の会を開き、また 12 月にはやはり第1月曜日に加賀温泉で忘年会を行っている。一方これとは別に、毎月第3土曜日には、金沢市内のホテルで「湧泉会」と称して昼食会を催している。これまで耳順会は、会員の持ち回りで会を運営してきたが、平成 25 年 (2013) 正月に湧泉会が発足してからは、両会とも村田君が仕切っている。ところでお酒が入る耳順会はともかく、湧泉会は昼食会なのでお酒なしなのだが、午前 11 時半に始まって、いつも終了が午後4時という長談義になってしまう。女の井戸端会議ならいざ知らずと言いたいのだが、話題は身近なことから世界情勢まで延々と話が続くのだから、もう閉めますと言われて漸く終わりになるのが常だ。
さて彼は日本に帰ってきてから、泉丘高校1年の時の担任だった珠洲市在住の橋本秀一郎先生とはよく会っていて、彼は先生とよく能登の社寺や遺跡を巡ったという。先生は社会の先生で、その方のことは大変お詳しく、彼も興味を持っていたようで、意気投合したというのが本当のところだろう。このことは彼も会でよく話していた。ところで先生を一度耳順会にお誘いしようということになった。それで先生に打診したところ、金沢へ出て来られるとか、珠洲からは特急バスで3時間ばかりとか、それで9月にお誘いした。ところが生憎体調をこわされて、実現しなかった。先生は私たちが高校へ入学した時には、京都大学を出られたばかり、だとすると私たちより7〜8歳上、現在 84 歳である。
私たちが高校に在籍していた時においでた先生方のうち、現在も存命なのは5名のみとか。私が授業を受けた先生の中では唯一の先生である。それで村田君から珠洲へ先生に会いに行こうと提案があった時には、即賛同した。彼と先生との交渉で、日は 10 月 25 日の日曜日ということになった。当初は5名参加の予定だったが、ご不幸や他の同窓会との鉢合わせもあって、行くのは村田君と村上君と私の3名、車の運転は私がすることに。3人とも1年の時は同じ組で、橋本先生が担任だった。また村上君は母校でも教鞭をとっていたこともあり、また先生も彼も退職時には高校の校長先生であったこともあり、昵懇の間柄でもある。
2.珠洲で60年ぶりに恩師と再会
金沢からの出発は午後1時、村田君宅の近くにある大きな書店の駐車場で待ち合わせた。山側環状道路から津幡バイパスへ、さらにのと里山海道、珠洲道路 (のとスターライン) を経由して珠洲市へ、村田君の予想では午後3時半には宿泊場所の珠洲市宝立町鵜飼にある「のとじ荘」に着けるという。この予想は見事に的中して、途中一度別所岳 SA でトイレ休憩したものの、予想通りの時間に着けた。途中で村田君は道路を車で走ると朝ドラ「まれ」のテーマ曲が流れるというので、それをぜひ聴きたいとのことだったが、別所岳 SA を過ぎた辺りで、約2分間ばかり聴くことができた。
珠洲温泉「のとじ荘」に着いてチェックインする。部屋は4室とも海側に面した個室、この宿は今年3月に金沢までの新幹線開業に合わせてのリニューアルオープン、以前に泊まったことがあるが、雰囲気は全く違い、近代的な佇まいになっている。個室志望は村田君の意向によるものだが、複数で泊まってそれぞれ個室というのは、何となく居心地がよくない。でも彼は何時でも個室に拘るようだ。時間もあるので見附海岸を散歩する。
先生はバスで来られるとか、すると到着は午後5時半頃、先に風呂に入ることに。この時間帯、男性は展望風呂がある「弘法の湯」、新しく設えられた露天風呂は実に快適、すぐ近くに絶景見附島を望める好位置にあり、海を眺めながら時の経つのも忘れる。そして夕闇が迫る頃に、先生が着かれた。村田君や村上君はともかく、私と先生とは 60 年ぶりの対面、村田君からキムラシンリョウが同行すると告げられていたこともあってか、先生の記憶の中に私が残っていたのには感動した。初めての担任だったこともあるのだろうか。先生の湯浴みが終わるのを待って、夕食となる。
夕食は2階にある「レストラン漁火」の個室、お酒は先生の希望で熱燗にする。会食の折、村田君が持参した高校1年の時に、構内やハイキングで写した白黒写真のコピーを見ながら話に花が咲いた。私たちはともかく、先生が生徒の名前を覚えておいでたのには驚いた。40 年近く教職にあったのに、最初の担任であったにせよ、正に驚異だった。すごく懐かしがっておいでたのには本当に感動した。時間になってレストランを出て、1階ラウンジにあるカウンター席へ移った。先生はここではスコッチウイスキーのストレート、私も追随したが、旺盛な元気には感服した。先生は奥さんを亡くされていて、現在独り身だが、夕食は近くに住んでおいでる長男夫婦の所で召し上がるとかだった。それにしてもタフだ。午後9時過ぎ、海の方を見ると、十三夜の月が海上を照らしていた。幻想的でもあった。
2015年11月3日火曜日
シンリョウのジュッカイ ( 10 ) 「野々市の祭」
今年の野々市本町の秋祭には、久しぶりに神輿 (二丁目 )と獅子舞が3町 (一丁目、三丁目、四丁目)から出た。旧野々市町の頃は、春祭はともかく、秋祭りには必ずそろい踏みしたものだが、このところ4つが揃って出ることはなかった。それだけに今年は賑わいを見せた。とはいっても地味な祭であって、この祭を見にわざわざ訪ねる人は稀で、むしろお盆の「野々市じょんから」の方が皆さんに知られている。ところで旧野々市町には6町あったが、何故か当時神輿や獅子舞を出すのは4町のみだった。神輿でも獅子舞でも、法被には旧町名が染め抜きされていた。神輿は一日市町、獅子舞は荒町、中町、西町の3町である。
野々市は古くは野市 (読みはノノイチ)、野の市、布市 (神社にこの名が残る) と称したようだが、近年は野々市の表記になっている。旧町は北國街道に沿っていて、金沢 (尾山) から来ると、街道は町の真ん中辺りで直角に折れて、松任に向かっている。古くは金沢寄りから、荒横通、北横通、一日市 (ひといち) 通、中通、六日 (むいか) 通、西通と称していたが、大正 13 年に野々市村から野々市町になって、荒町、新町、一日市町、中町、六日町、西町となった。でもこれは通称であって、公称ではない。これら旧の呼称は現在石碑に刻まれ、保存されている。旧野々市町は戸数四百戸、人口二千人ばかりで、ほとんど増減がなかったが、昭和 32 年に町村合併があり、さらに平成 11 年に野々市市になって以降は人口が増加し、現在は5万2千人程になっている。
旧6町はその後、荒町は一丁目、新町と一日市町は二丁目、中町は三丁目、六日町は四丁目、西町は五丁目となった。なので、神輿は二丁目、獅子舞は一、三、五丁目からということになる。そして四基とも氏神の布市神社の秋季例大祭に合わせて奉納する。これは旧通にはそれぞれに八幡様やお稲荷様があったのだが、これらの神様は通から町になった折、一日市町にある村社の布市神社に合祀されたからである。ところで私の住む新町には白山神社と辻の宮 (北横宮) があったが、白山神社も村社格であったため合祀されずに今も残っている。ただ祭祀は布市神社の宮司が仕切っている。また北横宮はその後白山神社に合祀された。
3町から出された獅子舞は、数年ぶりだった町もあったのに、棒振りの子供達は皆さん随分はつらつと上手に振る舞っていた。以前に振ったことがある方達が指導したのだと思われるが、中々見事だった。通りの家々の前では悪魔除けの棒振りをしてくれるが、それには祝儀をはずむのがしきたりである。私の家は旧街道に面しているので、3基とも寄ってくれた。ところで獅子の胴は大きな幌で覆われていて、その幌の足は若衆が持ち、昔はその胴の中に、三味線、笛、太鼓の衆が入っていて、特に三味線は芸者衆が受け持っていたものだ。でも世は世知辛くなり、昨今はテープを流して凌いでいる。また幌も車付きになって簡単に移動できる。それでも幌の修理はままならないようで、色は落ち、薄破れも目立ち、今一見栄えがしない。またそれかあらぬか、舞が終わって凱旋する時には、以前なら、オッピキダイサンノーエ、オッピキダイサンノーエで始まる勇壮な歌を高らかに歌って引き揚げたものだが、昨今いま少し威勢がない。やるなら幌も新調して威勢よくやって欲しいものだ。
一方神輿の方は、近隣では今じゃ名物になっている「豊年野菜神輿」で、起源は明治時代に凶作に見舞われた折に、農家が五穀豊穣を願って農作物で神輿を作ったのが始まりとされている。戦後は一時途絶えていたが、その後一日市町若衆が復活させ、町制施行後は本町二丁目に野菜神輿保存会が発足し、今日に至っている。この神輿は土台以外はすべて野菜や穀物や秋の草木を使って製作するもので、製作には2ヵ月を要するという。重量は約 500 kg、出来上がりは中々壮観である。神輿の屋根は稲穂で葺き上げてあり、黄金色で重厚で美しい。欄干には玉葱、鳥居には蓮根、御紋には茄子、柿、栗、唐辛子、生姜、果物等を用いて飾り付けされる。また特に壮観なのは神輿の頂上に乗っかる羽を広げた大きな鳳凰で、秋の草木や人参を用いての重厚な造りになっている。全てが生ものなので重たく、特に繰り出す日が雨だと、雨で重量が増し、担ぎ手の負担は相当なものになる。幸い今年は比較的天気が良くて、雨は落ちたものの、短時間で上がり、一安心だった。
今年は3町全てから獅子舞が出て、久方ぶりに神輿と競演する「4町合わせ」が旧野々市町役場前の広場で行なわれ、賑わった。それにしても、神輿や獅子舞の母体となっている旧町は、町全体の人口が増加している割には、むしろ減少の傾向にある。というのは、私の家でもそうだが、子供達は皆外へ出てしまっているとか、同じ野々市にいても、実家の町内ではなく、別の町内に所帯を持っていたりしている。そういうこともあって、旧町内にいたことがある人ならば、積極的に参加することが出来るようにした方が如何かと思う。そうしないと、存続が段々難しくなるのではと思ったりする。毎年出すようにするには、人数をある程度確保する一工夫が必要な気がしている。
野々市は古くは野市 (読みはノノイチ)、野の市、布市 (神社にこの名が残る) と称したようだが、近年は野々市の表記になっている。旧町は北國街道に沿っていて、金沢 (尾山) から来ると、街道は町の真ん中辺りで直角に折れて、松任に向かっている。古くは金沢寄りから、荒横通、北横通、一日市 (ひといち) 通、中通、六日 (むいか) 通、西通と称していたが、大正 13 年に野々市村から野々市町になって、荒町、新町、一日市町、中町、六日町、西町となった。でもこれは通称であって、公称ではない。これら旧の呼称は現在石碑に刻まれ、保存されている。旧野々市町は戸数四百戸、人口二千人ばかりで、ほとんど増減がなかったが、昭和 32 年に町村合併があり、さらに平成 11 年に野々市市になって以降は人口が増加し、現在は5万2千人程になっている。
旧6町はその後、荒町は一丁目、新町と一日市町は二丁目、中町は三丁目、六日町は四丁目、西町は五丁目となった。なので、神輿は二丁目、獅子舞は一、三、五丁目からということになる。そして四基とも氏神の布市神社の秋季例大祭に合わせて奉納する。これは旧通にはそれぞれに八幡様やお稲荷様があったのだが、これらの神様は通から町になった折、一日市町にある村社の布市神社に合祀されたからである。ところで私の住む新町には白山神社と辻の宮 (北横宮) があったが、白山神社も村社格であったため合祀されずに今も残っている。ただ祭祀は布市神社の宮司が仕切っている。また北横宮はその後白山神社に合祀された。
3町から出された獅子舞は、数年ぶりだった町もあったのに、棒振りの子供達は皆さん随分はつらつと上手に振る舞っていた。以前に振ったことがある方達が指導したのだと思われるが、中々見事だった。通りの家々の前では悪魔除けの棒振りをしてくれるが、それには祝儀をはずむのがしきたりである。私の家は旧街道に面しているので、3基とも寄ってくれた。ところで獅子の胴は大きな幌で覆われていて、その幌の足は若衆が持ち、昔はその胴の中に、三味線、笛、太鼓の衆が入っていて、特に三味線は芸者衆が受け持っていたものだ。でも世は世知辛くなり、昨今はテープを流して凌いでいる。また幌も車付きになって簡単に移動できる。それでも幌の修理はままならないようで、色は落ち、薄破れも目立ち、今一見栄えがしない。またそれかあらぬか、舞が終わって凱旋する時には、以前なら、オッピキダイサンノーエ、オッピキダイサンノーエで始まる勇壮な歌を高らかに歌って引き揚げたものだが、昨今いま少し威勢がない。やるなら幌も新調して威勢よくやって欲しいものだ。
一方神輿の方は、近隣では今じゃ名物になっている「豊年野菜神輿」で、起源は明治時代に凶作に見舞われた折に、農家が五穀豊穣を願って農作物で神輿を作ったのが始まりとされている。戦後は一時途絶えていたが、その後一日市町若衆が復活させ、町制施行後は本町二丁目に野菜神輿保存会が発足し、今日に至っている。この神輿は土台以外はすべて野菜や穀物や秋の草木を使って製作するもので、製作には2ヵ月を要するという。重量は約 500 kg、出来上がりは中々壮観である。神輿の屋根は稲穂で葺き上げてあり、黄金色で重厚で美しい。欄干には玉葱、鳥居には蓮根、御紋には茄子、柿、栗、唐辛子、生姜、果物等を用いて飾り付けされる。また特に壮観なのは神輿の頂上に乗っかる羽を広げた大きな鳳凰で、秋の草木や人参を用いての重厚な造りになっている。全てが生ものなので重たく、特に繰り出す日が雨だと、雨で重量が増し、担ぎ手の負担は相当なものになる。幸い今年は比較的天気が良くて、雨は落ちたものの、短時間で上がり、一安心だった。
今年は3町全てから獅子舞が出て、久方ぶりに神輿と競演する「4町合わせ」が旧野々市町役場前の広場で行なわれ、賑わった。それにしても、神輿や獅子舞の母体となっている旧町は、町全体の人口が増加している割には、むしろ減少の傾向にある。というのは、私の家でもそうだが、子供達は皆外へ出てしまっているとか、同じ野々市にいても、実家の町内ではなく、別の町内に所帯を持っていたりしている。そういうこともあって、旧町内にいたことがある人ならば、積極的に参加することが出来るようにした方が如何かと思う。そうしないと、存続が段々難しくなるのではと思ったりする。毎年出すようにするには、人数をある程度確保する一工夫が必要な気がしている。
2015年10月29日木曜日
道東への金婚記念旅行(その4)
5.4日目 10月4日
阿寒湖畔温泉 ー オンネトー ー 足寄 ー 富良野 (新富良野プリンスホテルで昼食) ー 後藤純男美術館 ー 新千歳空港 ー 羽田空港 ー 小松空港
朝5時に起きて、ホテル8階にある展望風呂、そのさらに屋上にある露天風呂に行く。気温は 5.8℃ と寒い。屋上には大きな浴槽が4つばかりあり、全ての浴槽をはしごしたが、お気に入りは最も大きな浴槽。まだ夜明け前とて星が見えている。阿寒湖を挟んでの対岸には、三角錐の雄阿寒岳 (1371m) が聳え、眼下には湖畔のホテルの灯が見える。正に幻想的だ。5時半過ぎ、雄阿寒岳の右裾から朝日が射し出た。日の出/御来光である。空が漆黒から徐々に明るくなって行く。温泉に浸かりながらの贅沢な感激だった。今朝の出発は 7:40 、早いので荷物を先にロビーに出してから食事をするようにとの指示、今日は帰宅の日である。
阿寒湖を真ん中に、東に雄阿寒岳、西に活火山の雌阿寒岳 (1499m) と阿寒富士 (1476m) が位置している。オンネトーは雌阿寒岳の西麓にある小さな湖で、北海道の三大秘湖とか。天候や風向き、見る場所や位置によって湖水の色が様々に変化することから、五色沼とも呼ばれているという。トーとはアイヌ語で湖のことだという。対岸には左に噴煙を上げる雌阿寒岳、その右には端正な阿寒富士が望める。
オンネトーから足寄国道を西へ、そして足寄からは 15km 以上もの直線道路の日勝国道を更に西へ。この頃から空模様が怪しくなり、行く手に見えるはずの十勝連峰は雲に閉ざされて見えていない。その連峰南端の狩勝峠 (644m) を越えて富良野へ、西に見えるはずの夕張の山々も厚い雲に閉ざされている。車は富良野盆地へと下り、富良野スキー場近くにある高台の新富良野プリンスホテルへと向かう。スキーのメッカともいうべき富良野スキー場の一角にある。食事の場所はホテル 11 階の展望レストラン、東側は総ガラス張り、天気が良ければ十勝の山々がドーンと見えるはずだが、生憎雲の中だ。ただ眼下には富良野盆地を俯瞰することができた。ここで洋食のランチを頂く。お供には赤ワインを貰った。
山から富良野盆地へと下り、JR 富良野線に沿った道を北上する。ここ一帯にはファーム富田とか彩香の里・佐々木ファームなどの観光農園がある。以前に訪れた時には、正にラベンダーの花盛り、広大な園内に、芳しい匂いをしたいろんな色のラベンダーが帯状に植えられていて、一大壮観絵巻を醸し出していたが、今は刈られてしまっていて、わずかに一部に赤と黄の縞模様が道路から見えているに過ぎない。シーズンには観光農園近くには、観光客の便を図るために、JR 富良野線には「ラベンダー畑」という駅が開設されるとか、バスはその脇を通った。更に北上を続け、富良野市から上富良野町に入り、このツアー最後のスポットの後藤純男美術館へと向かった。
後藤純男さんは昭和3年 (1930) 生まれの日本画家、現在は美術館に併設されているアトリエで制作に励んでおられるという。画を近くで鑑賞すると、その細やかな筆致に驚かされる。そしてその筆致で描かれた幅6m 強にも及ぶ「十勝岳連峰」と題された大作の画には、本当に圧倒された。この美術館の2階には十勝岳展望テラスがあって、連峰を一望できるらしいが、画はここからの眺めなのだろうか。また京都の三千院の初夏、秋、冬を描いた「三千院三題」という連作にも目を見張った。ほかにも、北海道の海、流氷、山間、田園、森など、地元を題材とした画も多い。展示室は6室あり、数十点の絵画が展示されている。展示館を出る頃、強い俄雨があった。
こうして4日間にわたった道東への旅は終わった。真っ直ぐに延びる富良野国道を南下し、占冠から道東自動車道を通り千歳に戻った。4日間とも車窓には北海道の広大な山地、そして広々とした平野、そこには内地にない規模の農地や牧草地を見た。この時期は、イネ、タマネギ、アズキ、シロハナマメの収穫の真っ盛り、また青々とした緑色の畑はビート (サトウダイコン) だとか。あれだけ広いと、とても人力だけでは追いつかない。それにしても、この広大な原野を開拓した先人の偉大さをひしひしと身近に感じた旅でもあった。
〔閑話休題〕
帰りのバスの中で、北海道の難読地名に挑戦して下さいと言われて、1枚の紙切れが渡された。北海道は蝦夷地、アイヌの地名が圧倒的に多いが、開拓に入った大和民族が、音読を漢字に置き換えたのが今の北海道の地名となっているようだ。でも山や川など、生活に直接関係しない地名は、今でもカナ書きになっていることもある。これは中国で、中国以外の、特に横文字を中国語に翻訳して表記しているが、何方がするのか、何か法則があるのか、興味深い。以下にその地名を書いたが、誰も答えられなかった。当て字とは分かっているが、でも読み方は今通用している読み方のようだ。次に揚げてみる。
(1)忍路 (2)花畔 (3)濃昼 (4)晩生内 (5)比布 (6)安足間 (7)咲来
(8)興部 (9)止別 (10)音調津 (11)旅来 (12)分遣瀬 (13)火散布 (14)穂香
(15)一已
阿寒湖畔温泉 ー オンネトー ー 足寄 ー 富良野 (新富良野プリンスホテルで昼食) ー 後藤純男美術館 ー 新千歳空港 ー 羽田空港 ー 小松空港
朝5時に起きて、ホテル8階にある展望風呂、そのさらに屋上にある露天風呂に行く。気温は 5.8℃ と寒い。屋上には大きな浴槽が4つばかりあり、全ての浴槽をはしごしたが、お気に入りは最も大きな浴槽。まだ夜明け前とて星が見えている。阿寒湖を挟んでの対岸には、三角錐の雄阿寒岳 (1371m) が聳え、眼下には湖畔のホテルの灯が見える。正に幻想的だ。5時半過ぎ、雄阿寒岳の右裾から朝日が射し出た。日の出/御来光である。空が漆黒から徐々に明るくなって行く。温泉に浸かりながらの贅沢な感激だった。今朝の出発は 7:40 、早いので荷物を先にロビーに出してから食事をするようにとの指示、今日は帰宅の日である。
阿寒湖を真ん中に、東に雄阿寒岳、西に活火山の雌阿寒岳 (1499m) と阿寒富士 (1476m) が位置している。オンネトーは雌阿寒岳の西麓にある小さな湖で、北海道の三大秘湖とか。天候や風向き、見る場所や位置によって湖水の色が様々に変化することから、五色沼とも呼ばれているという。トーとはアイヌ語で湖のことだという。対岸には左に噴煙を上げる雌阿寒岳、その右には端正な阿寒富士が望める。
オンネトーから足寄国道を西へ、そして足寄からは 15km 以上もの直線道路の日勝国道を更に西へ。この頃から空模様が怪しくなり、行く手に見えるはずの十勝連峰は雲に閉ざされて見えていない。その連峰南端の狩勝峠 (644m) を越えて富良野へ、西に見えるはずの夕張の山々も厚い雲に閉ざされている。車は富良野盆地へと下り、富良野スキー場近くにある高台の新富良野プリンスホテルへと向かう。スキーのメッカともいうべき富良野スキー場の一角にある。食事の場所はホテル 11 階の展望レストラン、東側は総ガラス張り、天気が良ければ十勝の山々がドーンと見えるはずだが、生憎雲の中だ。ただ眼下には富良野盆地を俯瞰することができた。ここで洋食のランチを頂く。お供には赤ワインを貰った。
山から富良野盆地へと下り、JR 富良野線に沿った道を北上する。ここ一帯にはファーム富田とか彩香の里・佐々木ファームなどの観光農園がある。以前に訪れた時には、正にラベンダーの花盛り、広大な園内に、芳しい匂いをしたいろんな色のラベンダーが帯状に植えられていて、一大壮観絵巻を醸し出していたが、今は刈られてしまっていて、わずかに一部に赤と黄の縞模様が道路から見えているに過ぎない。シーズンには観光農園近くには、観光客の便を図るために、JR 富良野線には「ラベンダー畑」という駅が開設されるとか、バスはその脇を通った。更に北上を続け、富良野市から上富良野町に入り、このツアー最後のスポットの後藤純男美術館へと向かった。
後藤純男さんは昭和3年 (1930) 生まれの日本画家、現在は美術館に併設されているアトリエで制作に励んでおられるという。画を近くで鑑賞すると、その細やかな筆致に驚かされる。そしてその筆致で描かれた幅6m 強にも及ぶ「十勝岳連峰」と題された大作の画には、本当に圧倒された。この美術館の2階には十勝岳展望テラスがあって、連峰を一望できるらしいが、画はここからの眺めなのだろうか。また京都の三千院の初夏、秋、冬を描いた「三千院三題」という連作にも目を見張った。ほかにも、北海道の海、流氷、山間、田園、森など、地元を題材とした画も多い。展示室は6室あり、数十点の絵画が展示されている。展示館を出る頃、強い俄雨があった。
こうして4日間にわたった道東への旅は終わった。真っ直ぐに延びる富良野国道を南下し、占冠から道東自動車道を通り千歳に戻った。4日間とも車窓には北海道の広大な山地、そして広々とした平野、そこには内地にない規模の農地や牧草地を見た。この時期は、イネ、タマネギ、アズキ、シロハナマメの収穫の真っ盛り、また青々とした緑色の畑はビート (サトウダイコン) だとか。あれだけ広いと、とても人力だけでは追いつかない。それにしても、この広大な原野を開拓した先人の偉大さをひしひしと身近に感じた旅でもあった。
〔閑話休題〕
帰りのバスの中で、北海道の難読地名に挑戦して下さいと言われて、1枚の紙切れが渡された。北海道は蝦夷地、アイヌの地名が圧倒的に多いが、開拓に入った大和民族が、音読を漢字に置き換えたのが今の北海道の地名となっているようだ。でも山や川など、生活に直接関係しない地名は、今でもカナ書きになっていることもある。これは中国で、中国以外の、特に横文字を中国語に翻訳して表記しているが、何方がするのか、何か法則があるのか、興味深い。以下にその地名を書いたが、誰も答えられなかった。当て字とは分かっているが、でも読み方は今通用している読み方のようだ。次に揚げてみる。
(1)忍路 (2)花畔 (3)濃昼 (4)晩生内 (5)比布 (6)安足間 (7)咲来
(8)興部 (9)止別 (10)音調津 (11)旅来 (12)分遣瀬 (13)火散布 (14)穂香
(15)一已
2015年10月28日水曜日
道東への金婚記念旅行(その3)
4.3日目 10月3日
知床ウトロ温泉 ー 知床五湖散策 (一湖展望台) ー 知床自然センター ー オシンコシンの滝 ー 硫黄山 ー 摩周湖 ー 車内昼食 (摩周のぽっぽの豚丼) ー 釧網本線 塘路駅〜釧路駅 (ノロッコ号) ー 釧路市内車窓観光 ー 阿寒湖畔温泉 (泊)
朝起きて海に面した窓から外を見ると、大変視界が良く、遠くオホーツクの海の彼方に宗谷岬と思しき岬が見えていた。海は一見穏やかで、今日は知床岬クルーズが可能なように思えた。しかし添乗員からのメッセージでは、うねりが4m と凄くて欠航とのことだった。今回のツアーの方達は初めての方が多く期待されていたようだったが、私たちは以前に経験していたこともあり、それ程のダメージは感じなかった。その代わりとして知床自然センターへ寄ることにしたという。今朝の出発は午前8時、でもバスが来て乗ったのは2組のみ、他の割り増し組は近くの知床第一ホテルが宿だった。
宿から一旦ウトロの町に下り、昨日と同じようにホロベツ川を渡って国立公園内に、そして知床横断道路を知床自然センターまで往き、そこから知床五湖へと向かう。分岐地点から9km という。センターから 15 分で知床五湖の駐車場に着いた。羅臼の山並みが美しい。ここでの今日の散策時間は 40 分、そして今日の散策は一湖までの往復のみ、片道約 800m で、高架木道の上を歩く。木道の高さは2〜5m、ヒグマが侵入しないように電気柵が設けられている。これじゃ木道から落ちたらとても上がれないのでは。木道の終点には湖畔展望台があり、羅臼連山が湖に影を落としている。連山は右から主峰の羅臼岳 (1661m)、左へ三ツ峰 (1509m)、サシルイ岳 (1564m)、オッカバケ岳 (1462m)、そして硫黄山 (1562m)、遠く知床岳 (1254m) も見渡せた。正に絶景ポイントである。沢山の人が来ている。木道の帰りに途中にあったオコツク展望台と連山展望台へ寄った。展望台ごとに記念写真を撮った。本来ならば五湖全てを巡りたいのだが、現在はレクチャーを受けてからでないと巡ることは出来ないとかである。でももう訪れることはなかろう。
バスで知床自然センターへ戻る。ここは斜里町と羅臼町が設立した公益財団法人が管理運営していて、常駐しているスタッフが知床についていろいろと教えてくれる施設となっている。私たちは幅が 20m、高さが 12m の大きなスクリーンに映し出される知床の四季の自然と上空からの空撮俯瞰映像を観た。凡そ 30 分ばかり、でもこれは有料で事前に申し込まねばならないとかだった。ここでは資料の展示はむしろ少なく、もっぱら調査や情報提供やレクチャーが主だとのことだった。
ウトロの町に戻り、オシンコシンの滝へ向かう。滝は駐車場からも見える。日本の滝百選に入っていて、滝は岩肌を二手に分かれて流れ落ちていて、双美の滝とも呼ばれているとか。沢山の観光客が来ている。滝の近くまで階段があり、豪快に流れ落ちる滝を正面から眺められる。さぞや雪解けの頃は水量も多く、圧倒されるのではなかろうか。辺りには大きな太い茎の蕗が群生していた。
バスは海岸を離れ、端正な三角錐の斜里岳 (1547m) の山裾を北から西へと回り、川湯温泉を経て硫黄山に向かう。この国道からは、釧路湿原を潤す釧路川の源となる屈斜路湖を眼下に観ることができる。硫黄山は標高 512m の活火山で、駐車場から見ると、あちこちの噴気孔から硫黄臭の強い白煙がもうもうと立ち上っている。殺伐とした荒涼たる風景が広がる。
国道を南下すると、硫黄山の裏側にある爆裂火口が見えた。この道路は屈斜路湖と摩周湖の間の背を南北に通っている。途中で左に折れて摩周湖に向かう。この湖は流れ込む川がないカルデラ湖で、周りは外輪山の険しい崖に囲まれていて深く、また霧の摩周湖といわれるように、晴れて全貌が見られることは少ないという。でもこの日は強風のせいもあって、第一展望台に着くと、青い空に青い湖面、中央に神になった老婆という意味のカムイシュ島、右手に神の山という摩周岳=カムイヌプリ (857m) が見え、遠くには斜里岳も見えている。ここで初めて集合写真を撮った。30 分ばかり滞在し、遅い昼食はバスの中で摂った。
国道へ戻る。この国道は釧網本線と並行していて、屈斜路湖から流れ出る釧路川に沿っている。バスは南下を続け、午後3時近くに塘路駅に着いた。ここからノロッコ号という緑色のジーゼル機関車牽引の5両連結の列車に乗り込む。乗車時間は 50 分、進行方向右手には常に釧路湿原や釧路川を望むことができ、本格的なカメラマンと思しき人も乗り合わせていた。湿原には野生のタンチョウヅルも見えた。列車には売店があり、地ビールを飲みながら、のんびりとした一時を過ごした。私も家内も釧路の街は初見参である。道東の中核都市だ。
釧路駅で下車し、再びバスへ。釧路の市街を抜け、まりも国道を北上し、一路阿寒湖温泉へ向かう。摩周から阿寒湖まではコップの口の距離 (36km)、それを摩周からはるばるコップの底の釧路まで 67km南下し、底を 18km 横断し、再びコップの口の阿寒湖まで 58km、延々とぐるりと廻った感じだ。宿のあかん悠久の里「鶴雅」に着いたのは午後5時近く、温泉に入ってから夕食をと思ったが、5時半から食事とのことで、入浴は後にした。お目当ての8階の展望風呂は男女相互入替えのため、明朝のお楽しみということに。
知床ウトロ温泉 ー 知床五湖散策 (一湖展望台) ー 知床自然センター ー オシンコシンの滝 ー 硫黄山 ー 摩周湖 ー 車内昼食 (摩周のぽっぽの豚丼) ー 釧網本線 塘路駅〜釧路駅 (ノロッコ号) ー 釧路市内車窓観光 ー 阿寒湖畔温泉 (泊)
朝起きて海に面した窓から外を見ると、大変視界が良く、遠くオホーツクの海の彼方に宗谷岬と思しき岬が見えていた。海は一見穏やかで、今日は知床岬クルーズが可能なように思えた。しかし添乗員からのメッセージでは、うねりが4m と凄くて欠航とのことだった。今回のツアーの方達は初めての方が多く期待されていたようだったが、私たちは以前に経験していたこともあり、それ程のダメージは感じなかった。その代わりとして知床自然センターへ寄ることにしたという。今朝の出発は午前8時、でもバスが来て乗ったのは2組のみ、他の割り増し組は近くの知床第一ホテルが宿だった。
宿から一旦ウトロの町に下り、昨日と同じようにホロベツ川を渡って国立公園内に、そして知床横断道路を知床自然センターまで往き、そこから知床五湖へと向かう。分岐地点から9km という。センターから 15 分で知床五湖の駐車場に着いた。羅臼の山並みが美しい。ここでの今日の散策時間は 40 分、そして今日の散策は一湖までの往復のみ、片道約 800m で、高架木道の上を歩く。木道の高さは2〜5m、ヒグマが侵入しないように電気柵が設けられている。これじゃ木道から落ちたらとても上がれないのでは。木道の終点には湖畔展望台があり、羅臼連山が湖に影を落としている。連山は右から主峰の羅臼岳 (1661m)、左へ三ツ峰 (1509m)、サシルイ岳 (1564m)、オッカバケ岳 (1462m)、そして硫黄山 (1562m)、遠く知床岳 (1254m) も見渡せた。正に絶景ポイントである。沢山の人が来ている。木道の帰りに途中にあったオコツク展望台と連山展望台へ寄った。展望台ごとに記念写真を撮った。本来ならば五湖全てを巡りたいのだが、現在はレクチャーを受けてからでないと巡ることは出来ないとかである。でももう訪れることはなかろう。
バスで知床自然センターへ戻る。ここは斜里町と羅臼町が設立した公益財団法人が管理運営していて、常駐しているスタッフが知床についていろいろと教えてくれる施設となっている。私たちは幅が 20m、高さが 12m の大きなスクリーンに映し出される知床の四季の自然と上空からの空撮俯瞰映像を観た。凡そ 30 分ばかり、でもこれは有料で事前に申し込まねばならないとかだった。ここでは資料の展示はむしろ少なく、もっぱら調査や情報提供やレクチャーが主だとのことだった。
ウトロの町に戻り、オシンコシンの滝へ向かう。滝は駐車場からも見える。日本の滝百選に入っていて、滝は岩肌を二手に分かれて流れ落ちていて、双美の滝とも呼ばれているとか。沢山の観光客が来ている。滝の近くまで階段があり、豪快に流れ落ちる滝を正面から眺められる。さぞや雪解けの頃は水量も多く、圧倒されるのではなかろうか。辺りには大きな太い茎の蕗が群生していた。
バスは海岸を離れ、端正な三角錐の斜里岳 (1547m) の山裾を北から西へと回り、川湯温泉を経て硫黄山に向かう。この国道からは、釧路湿原を潤す釧路川の源となる屈斜路湖を眼下に観ることができる。硫黄山は標高 512m の活火山で、駐車場から見ると、あちこちの噴気孔から硫黄臭の強い白煙がもうもうと立ち上っている。殺伐とした荒涼たる風景が広がる。
国道を南下すると、硫黄山の裏側にある爆裂火口が見えた。この道路は屈斜路湖と摩周湖の間の背を南北に通っている。途中で左に折れて摩周湖に向かう。この湖は流れ込む川がないカルデラ湖で、周りは外輪山の険しい崖に囲まれていて深く、また霧の摩周湖といわれるように、晴れて全貌が見られることは少ないという。でもこの日は強風のせいもあって、第一展望台に着くと、青い空に青い湖面、中央に神になった老婆という意味のカムイシュ島、右手に神の山という摩周岳=カムイヌプリ (857m) が見え、遠くには斜里岳も見えている。ここで初めて集合写真を撮った。30 分ばかり滞在し、遅い昼食はバスの中で摂った。
国道へ戻る。この国道は釧網本線と並行していて、屈斜路湖から流れ出る釧路川に沿っている。バスは南下を続け、午後3時近くに塘路駅に着いた。ここからノロッコ号という緑色のジーゼル機関車牽引の5両連結の列車に乗り込む。乗車時間は 50 分、進行方向右手には常に釧路湿原や釧路川を望むことができ、本格的なカメラマンと思しき人も乗り合わせていた。湿原には野生のタンチョウヅルも見えた。列車には売店があり、地ビールを飲みながら、のんびりとした一時を過ごした。私も家内も釧路の街は初見参である。道東の中核都市だ。
釧路駅で下車し、再びバスへ。釧路の市街を抜け、まりも国道を北上し、一路阿寒湖温泉へ向かう。摩周から阿寒湖まではコップの口の距離 (36km)、それを摩周からはるばるコップの底の釧路まで 67km南下し、底を 18km 横断し、再びコップの口の阿寒湖まで 58km、延々とぐるりと廻った感じだ。宿のあかん悠久の里「鶴雅」に着いたのは午後5時近く、温泉に入ってから夕食をと思ったが、5時半から食事とのことで、入浴は後にした。お目当ての8階の展望風呂は男女相互入替えのため、明朝のお楽しみということに。
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